2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
全6件 (6件中 1-6件目)
1
三回目にしてやっとこのドラマのこれからの行く末みたいなものが見えてきた。やはり三上博史の演じる鳥羽上皇とのちに後白河法皇になる親王との確執と清盛の宮中での出世を軸にということなのだろうな。いやまあそんなのどっちに転んでも結局は「フィクション」に過ぎないわけで、問われるのは脚本を含めての演出の術というものにかかってくるのだろう。そういう意味で、自分は第一回目と二回目の出来に対しては激賞はしない。「そこそこよく出来ている」といった程度。ただこういう低レベルな論争だけはやめてもらいたいものだと思う。『平清盛』に噛みついたネットユーザーを時代考証担当者一蹴- NEWSポストセブン(2012年1月23日16時00分)http://news.infoseek.co.jp/article/postseven_82290NHKのドラマに噛み付く視聴者も視聴者だが、それにこのような返答をしてしまうNHKドラマ関係者もドイヒーなレベル。こんなのは「これはドラマです。フィクションですから」とひと言答えればいいだけのこと。というか製作の当事者がこういうアタマの固い人たちばかりだから昨年のみたいなみょうちくりんな大河ばかりが量産されるのではないのかと自分は疑いはじめている。
2012年01月23日
コメント(0)
日曜の朝から友人の家で酒を飲んだりしているのは、土曜の夜の夜勤を終えてそのままみんなで友人宅に転がり込むときぐらいだろう。二週続けてそんな感じで日曜午前からTBSでやっている「サンデー・ジャポン」を半ば強制的に見せられたのだけど、自分は画面の中の爆笑問題太田が何かを言ったりするのを目にしてある種の「終末」というものを感じていた。一緒にテレビを見ていた人たちはそれを「最近の爆笑太田はなんかイタい」というような表現で感想を口にしていたが、自分はそういう単純なもんじゃないだろうと思う。修復不可能な「壊し」で笑いを取ろうとする太田の身の上にはもっと根源的な何かが起きているはずだ。なんていうのだろうか。やや大袈裟になるが「やはり爆笑問題太田光はいわゆる『お笑い』のステージを降りちゃった人なのだろうか?」とかそういう感じのことだ。最近ではまったく聞かなくなってしまったのだが、だいぶ前からラジオでの爆笑太田光の「番組壊し」の言動は目に(耳に)余るものがあった。ツッコミとかボケとかの役どころ関係なしに田中と罵りあうだけの深夜ラジオ(1時間も続いたりする)とか日曜昼のラジオでは台本無視で延々としゃべり続けたりとか、なんていうのか、もしかして「聴取者をわざと減らそうとしているのだろうか?」と疑いたくなるような太田の振る舞いは確かに時折あった。それと今の太田がテレビでやってる悪ふざけを結びつけていいのかどうなのか。正直よくわからない。わからないがたとえばこういう感じのことをテレビでやっている太田を見てどう思うかだ。南海キャンディーズ山里亮太が進行するコーナーに乱入して用意されていたボードのマスキングを勝手に次々にめくってゆきコーナーを全部ダメにしてしまったり、笑いを取るのとはまったく逆のベクトルのことをしてヘラヘラ笑い転げている太田を見て誰が楽しいのだろう。あるとすればそれは山里のいじめられ芸を楽しむというかその程度のものだろう。そういう人がいじめられているのをテレビで見て人は「楽しい」のか。自分は単に不快なだけだし、山里の自虐ネタと、このような(半)身内によるイジメ芸が両立しないものだということぐらいはとっくに太田ならば気づいていそうなものだと思うのだが。(まんまとそのドツボに嵌ったのが品川祐だったわけだが)だから、自分は「何かが太田光の身の上に起きているのではないのか」みたいな邪推をしてしまうのです。たとえば、友人は「談志が死んじゃってから、太田は糸のきれた凧みたいになっちゃったねぇ」みたいなことを言っていた。確かにそんな感じだ。
2012年01月22日
コメント(0)
いまさら書くことでもないのだが。年が明けてからしばらく経ってから、知り合い・仕事仲間が録画してBDなんかに焼いた各テレビ局が年末にこぞって放送していた「東日本大震災・福島原発事故」に関する特集番組をまとめてみた。ひとことでいうと、どの番組も酷い出来だった。そういうしかない。かろうじてNHK-ETVで12月28日からまとめて放送していたものが、まあ「番組」として見れる程度。しかしこれは再放送だった。もっとも酷いと感じたのは、フジ系で30日に放送した「わ・す・れ・な・い」という番組。もうタイトルからして偽善臭がぷんぷんしている。単にお泪頂戴のエピソードを拾って脚色しただけの番組だった。自分は途中で何度も観るのやめようかと思ったくらい。もしこれが実際自分が生でこの番組を観ていた視聴者ならば、ためらわずにチャンネルを替えるかスイッチを切っていただろう。次にひどかったのが28日にテレビ朝日でやっていた古館伊知朗司会の報道ステーションの拡大版。この古館が仕切る番組全てにいえることだが、とにかく「司会者が邪魔」のひと言につきる。報道映像に関してならばまだまともといえるものの「原発事故」当時の首相周辺の動きを再現ドラマで構築した日本テレビの「1000年後に残したい」は、もう苦笑しか出てこなかった。こんなもの1000年残してなんになる。単に恥ずかしいだけだろう。全体的なことで言うと、何故テレビ(特に民放)は当時の菅政権に対してこんなにも優しいのだろうか。そういう疑問というか気持ちの悪い「謎」が浮上する。いろいろといわれているが、菅直人の首相としての大失態は、まず最初の段階で事態を甘く考えていたのだろう、判断が遅く、そして悪い判断しか出来なかったことだ。これは某通販の書評サイトでも書いたことだが、被災地にいる私たちが今でも憤慨しているのは米軍に対する災害救助の要請と上陸の許可が丸丸1日遅れたことだ。菅は周辺あるいは被災自治体から上がってきていた米軍に対する救助要請に対してなかなか首をタテに振らなかった。これは事実である。また、原発事故に対する初動も同様で、「日本だけで解決できる」と踏んで方策を最初から狭めてしまい、事態をかえって悪いほうに転がしてしまったのも周知のとおりである。突き詰めると、この菅直人のこの遅い判断というものが震災被害をかなり重篤化させてしまったのだ。こんなのは誰でもわかることだろうに。それにしても民放のこの手の特集番組、特に今回のフジの番組が露骨だったのだが、報道映像記録の上に効果音であるとかBGMを被せすぎだった。これでは「番組が何をしたいのか」「何を伝えたいのか」がよくわからないものになっている。きつい言い方になるが「くだらないお泪頂戴番組に成り下がってしまっている」のだ。もしある種の娯楽番組として、手っ取り早く数多くのエピソードを拾える宝庫として今回の大震災のことを捉えてこのような番組を作ったというのならまだ理解は出来るが、もしそうでなくて「マジメな報道番組を作りました。放送しました」というつもりならば「おまえらマジ鬼畜、キ◎ガイ(※)」としか言いようがない。そういう出来というか方向性をとっちがえた番組だらけでした。※3.13日の日曜日に行動をともにしていた仕事仲間のひとりが途中出くわしたテレビ局のリポーターに向けてこう怒鳴り散らしていた。家族の安否が不明の被災者に向けて残酷な質問を浴びせかけていたからだ。それを思い出してた。
2012年01月16日
コメント(0)
でその大河ドラマ「平清盛」の第二回目を見た。感想を言えば「親切すぎる説明描写が多すぎないか」ということだった。第一回目からすでに清盛は白河上皇の落胤であるということでストーリーがはじまっている。なんでこんなこと(バカ丁寧なまでの説明描写)が必要とされるかについて考えてみた。出た結論は「史実とフィクションのすり合わせのために抜かせなかったからだろう」という推測の域を出ないものだったが。しかしこういうバカ丁寧な説明的描写は時としてフィクションとしてのドラマの重しとなってストーリーの流れキレを悪くしてあまり良い効果は及ぼさないものなのだが。それ以外についてはまあよく出来ている方なんじゃないのかと自分は評価している。とにかく去年のがあまりにひどかったせいってのもあるだろうが。大河ドラマだけは時代劇の王道を歩むものであってほしい。そういう期待に応えてくれそうな感じはしてます。
2012年01月16日
コメント(0)
言われて気づいたのだが「平清盛」を主役に据えた歴史物ドラマ映画の数は極端に少ない。まあ「平家」そのものが主役にしにくいというか、頼朝・義経の父、源義朝を追い落とした張本人側であるから、どうしても日本歴史上の「悪役」になってしまうのだろう。で清盛も、頼朝が主役のドラマ・映画の仇役程度よくてラスボスの役割しか振られないというわけか。自分が大河ドラマを頭からちゃんと見るのは実は「風林火山」以来のことになる。大河ドラマというもの、特にここ数年は、内容よりも、主役の顔を見ただけで、それが一年付きあえるものかどうかがわかってしまうという面がある。平清盛が主役でなおかつこれまた松山ケンイチが主演の大河ドラマってのも凄いものがある。第一回目を見た率直な感想を言えば「微妙」なんだろうか。作る側が「史実」を踏襲するのではなく、あくまでも「フィクション」に重心を置いて作っていることを悟られたくないというある種の臆病さというものが伝わってくるからか。劇中海賊討伐のシーンで使われているBGMはエマーソン・レイク&パーマーの「タルカス」最初耳を疑った。空耳というかある種の剽窃(パクリというよりもパロディともオマージュといえる)ではないのかとか。ところが違っていた。ちゃんとクレジットもされていた。ただ、そのクレジットが「Emerson/Lake」になっているが、これはちとおかしい。このドラマで使われたパートについていうのであれば、「作曲キース・エマーソン」でいいはずなのだが。[追記]こういうのはよくある。たとえば似たような例でいうと、キング・クリムゾンのファーストアルバムの「エピタフ」であるとか「クリムゾン・キングの宮殿」の二曲の場合も、作曲の面子にグレッグ・レイクの名前が入っていたり入っていなかったりする。やはり権利関係が絡むとなるとこういうところも厳正にしとかないといけないということなのだろうか。気になるこれからだが、やはり次回以降も見ないとなんともいえないという感じ。悪くはないんだが。追記「なんのことかよくわからん」という意見があった。で追加説明をしておく。タルカスというのはELPのセカンドアルバム「タルカス」の(当時でいうところの)レコードA面フル20分以上に亘る「組曲」の名称。このドラマで使われているのはその組曲「タルカス」の一曲目「Eruption(噴火の邦訳がついていた)」で、この曲はキース・エマーソンの単独のクレジットになっている。グレック・レイクがクレジットされているのは2曲目「Stones of Years」 (Emerson/Lake)と4曲目の「Mass(ミサ)」 (Emerson/Lake)、6曲目「Battlefield(戦場)」(Lake)である。また、キングキリムゾンのデビューアルバムに収録されている名曲中の名曲の二曲もまた「エピタフ」は「理由なき行進」「明日又明日」という短い二曲が、「クリムゾン・キングの宮殿」は「火の魔女の帰還」と「人形の踊り」の二曲が組み入れられた組曲の構造になっている。従来方式のクレジットだと エピタフが「Fripp/McDonald/Lake/Giles/Sinfield)とメンバー全員が作者になっている。ところが最新の英米のダウンロードサイドなんかでは、ロバート・フリップ、グレック・レイク、マイケル・ジャイルズの三名の名前が抜けていることがあるのだ。 一方「宮殿」は (McDonald/Sinfield)と、つまり「イアン・マグドナルド作曲;ピート・シンフィールド作詞」という実にわかり易いものだったのに、EGmanagementによる公式HPなどでは、こっちもエピタフ同様メンバー全員の名前がずらりと並んでいたりする。このあたりで自分が思い出すのは、約30年以上も前のことだが、イギリスの音楽新聞「SOUNDS」に掲載されていた(当時フォリナーのメンバーだった)イアン・マグドナルドがインタビューの中で創成期キングクリムゾンの曲づくりのプロセスというものを半ば暴露的に語っていて「ほとんどが自分とピート(シンフィールド)が曲を書いていて、あと残りの3人はあとからちょこっとだけ手を加えていただけ」という証言だった。要するに基本となる部分は「マグドナルド/シンフィールド」で挟み込まれているインプロビゼーションに近い二曲は「残り3人」ということになるのだろうか。
2012年01月08日
コメント(0)
Disc: 1 1. Bricklayer's Beautiful Daughter 2. White Rain 3. Colors/Dance 4. Angel's Flight 5. Bradley's Dream 6. Afternoon Postlude Soliloquy 7. 2nd Gymnopedie (1888) 8. Homfeld Suite 9. Rickover's Dream 10. Variations on Clair de Lune 11. Oristano Sojourn 12. Clockwork 13. Peace 14. Aerial Boundaries 15. Egrets 16. On the Threshold of Liberty Disc: 2 1. Welcoming 2. The 19A 3. Montana Half Light 4. Shadowdance 5. Pittsburgh 1901 [Theme from Mrs. Soffel] 6. The Calling 7. Gwenlaise 8. Dolphins 9. Wishing Well 10. Theme for Naomi Uemura 11. Toys Not Ties 12. Close Cover 13. To the Well 14. Hot Beach 15. New Waltz 16. Processional 17. Woman at the Well 昨暮倉庫を整理していたときに出てきた二枚組CD。白かったケースが黄ばみ、プラケースもヒビが入っていたが中味は無事。スリーブとブックレットもキレイなままだった。おんなじ段ボール箱に入っていたCDには、本体は無事でもブックレットや紙スリープがダメになっていたものが何枚もあった。プチ奇跡か。信号面(いわゆるウラ)を確かめて、おそるおそるPC連結の外付けドライブにいれたところ、ちゃんと二枚とも認識して聴くことができた。1990年のCDである。「最初の10年」のとおり1980-1990年のウィンダムヒルを代表するアーティストの代表曲が年順に収められている。時代史としての価値はあるだろうが、どうだろうレーベルのオムニバス・アルバムとしてみた(聴いた)場合、この曲順には違和感を覚える。実際、このまた10年後にリリースされた「20周年記念」のCDセットは、それぞれ「ギター」「ピアノ」「ベース」「パーカッション」という具合に、楽器パート別のセレクションがされている。自分もそっちのほうが「正しい」という気がしてならない。このCDを頭から聞いていると、どうしても、自分はその1980年から1990年までの自分史と向き合わざるを得ないということになってしまう。うろ覚えだが自分が「ウィンダムヒル」なるアメリカのローカルなジャズレーベルのことを知ったのはその2年ほど前の1978年か1979年のことだと思う。きっかけはFMラジオの音楽番組で、たぶん、渋谷陽一がDJをしていたNHKの「サウンドストリート」かそのあとの「クロスオーバーイレブン」のどっちかだろう。カセットテープで残っている当時の「音源」は、シャドウファクスの「Linear Dance」だった。1980年から自分は仙台市内の輸入レコード店でアルバイトをしはじめる。[註1]そのとき、お客さんから注文をうけたりして「ウィンダムヒル」というレーベルのことを強く認識するようになっていたはずだ。但しこれは書いていいのかどうか迷うところだが、当時の日本の音楽評論、特にジャズ畑の評論家の「ウィンダムヒル」に対する評価はものすごく低かった。やれ「退屈だ」とか「テクニックがない」というような創立者ウィリアム・アッカーマンのギタリストとしての技量とごっちゃになったような迷評論をぶっていた有名ジャズ評論家がいたくらいで。しかし、やがてウィンダムヒルの名前は深く静かに知れ渡るようになる。そうなった最大の理由は、きっとリスナー側の強い要求があったためだと思う。ちなみに自分が「ウィンダムヒル」のレコードを愛聴するようになったのはその輸入レコード店を辞めた1982年以降のはずだ。今でも手元に残っているそのアナログレコード類に挟み込んでいた鉛筆書きのメモを見るとやたら「レコードギャラリー」という名前が残っていたりする。時期からすると「レコードギャラリー」がまだ広瀬通りにあったころだろう。当時始めたばかりの広告の代理業との関連で来たローカルラジオの番組の選曲とかスクリプト書きをしていたころはこのウィンダムヒルのレコードをずっと掛けっぱなしの状態だった。今でもジョージウィンストンの初期のアルバムの収録曲を聴くと、当時通っていた広告代理店の片隅で原稿をせっつかれて煮詰まっていた頃のことを思い出すからね。音の記憶というのはいやなものだね。このウィンダムヒルの音楽を仕事に使ったこともあった。これはだいぶ後年になるが、これまた関東ローカルのラジオ番組のお仕事で、リニュアルされたラジオ番組のオープニングとクロージングにこのウィンダムヒルから出たビル・クェストの「エリック・サティ作品集」をつかわさせていただいた。「頂いた」というのはレコード会社からの温情で使用料がほぼゼロだったからだ。(アメリカのウィンダムヒル側に知られたら大変なことになっていただろう)自分が担当を降りてからもしばらくはこの二曲はずっとオープニングとクロージングとして使用されていたようだが、ウィンダムヒルのレコード(もうCDだろうけど)を販売するレコード会社が変わったのを期にお役御免になったようだ。よくは知らないが。また葛飾の某ミニFM放送局で日替わりの覆面DJをしていたころ、ダロール・アンガーとマイク・マーシャルによるユニット「キアロスクアーロ」をフィラー(放送休止時間に流しっぱなしにする詰め物音楽)として使っていたりする。ほかにもウィンダムヒルと関わりのある(私的なことも含めて)いくつもの出来事を思い出していた。こうして振り返ってみると、あまり強くは認識していなかったが、この1980年から1990年までの10年の自分の音楽史の大きな位置を占めていたのがウィンダムヒルだったのは間違いがない。最後になるがあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。[註1]その直前までは塩竈市内のレコード店とオーディオ専門店と喫茶店(あと六本木館という名前のファンシーショップ)でバイトをしてはずなのだか、そのころの記憶がなくて困っていた。履歴書の職歴に例えるとすると「空白」の欄のままところがあるのだ。ところが、最近「あれっ」という感じで突然自分の「職歴」の記憶が繋がった。その繋がらない約1年間、自分は東京横浜川崎を転々としていたのだった。いわゆる無職というかそれとも浪人とでもいうのか自分でもよくわからない時代でした。二度目の大学入学を諦めて誘われるまま友人宅などで居候を決め込んでいたりした時代です。
2012年01月06日
コメント(0)
全6件 (6件中 1-6件目)
1