東京フリー・メソジスト教団付協力牧師 甲斐慎一郎 説教要約

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10月1日朝の日記 象さん123さん

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聖書預言@ Re:説教要約 1266(08/08) 『JDファラグ聖書預言』でネット検索すれ…
2008.09.28
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カテゴリ: カテゴリ未分類
「良いサマリヤ人(2)」

                      ルカの福音書、10章25~37節

 この律法の専門家は、永遠のいのちと律法に関するイエスとの問
答において、学者として、正しく答えました(27節)。イエスは、
「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得
ます」と言われました(28節)。「しかし彼は、自分の正しさを示
そうとして」質問したのです(29節)。

 これはおそらく、金持ちの役人のように、「そのようなことはみ
な、小さい時から守っております」と自慢したかったからでしょう
(ルカ18章21節)。しかしイエスは、彼の中に真の隣人愛のない
ことを見抜いておられました。そこで、彼との問答において、真の
隣人愛について教えられたのです。

一、動機としての隣人愛――無意識の愛

 この律法の専門家は、「私の隣人とは、だれのことですか」とイ
エスに尋ねました(29節)。これはあたかも、「私は、どのような
人を私の隣人として愛すればよいのですか」と聞いているかのよう
です。しかしこれでは、ある人を隣人、ほかの人をそうではない人
として、差別しているのではないでしょうか。

 イエスは、山上の説教において、「天の父は、悪い人にも良い人
にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてく
ださるからです」と教えられました(マタイ5章45節)。これこそ、
人を差別しない真の愛ではないでしょうか。

 「愛は意識するものではなく、思わぬ仕方であふれ出るものであ
る。パウロの愛に対する考えの基本には、計算高い確かさの要素な
ど少しもない。……意識しないということが愛の特質である。……
私たちの信仰生活を振り返ってみて、説明できない自発的で真実な
愛の感情があるのに驚くことがある」(オズワルド・チェンバーズ
著『いと高き方のもとに』いのちのことば社、1999年、127頁)。

 私たちは、罪を悔い改めてキリストの贖いを信じるなら、「聖霊
によって、神の愛が私たちの心に注がれ」(ローマ5章5節)、当
然のこととして、ごく自然に隣人を愛するようになります。それは
意識しないものです。

 もし私たちが、隣人を愛していることを意識的に感じることを求
めるなら、もはや真の愛ではありません。それは、自分で自分を喜
ばせる自己満足や、自分で自分を賞賛する自己礼賛ではないでしょ
うか。

二、方法としての隣人愛――愛による知恵

 このサマリヤ人は、強盗に襲われた人を見た時、その愛のゆえに
彼に近寄って行きましたが、それとともに彼を助けるにはどうすれ
ばよいのかということを即座に考え、一つ一つ適切な処置を施して
います(34、35節)。

 「意識しないということが愛の特質で」すが(前掲書、127頁)、
その逆、すなわち、人は愛のゆえに様々なことを考えるようになる
だけでなく、最も良い方法と知恵を生み出します。

 この愛が生み出す知恵は、心の中で考えるものですから、無意識
ではありませんが、当然のこととして、ごく自然に、何が最も良い
方法なのかということを考え続けるものなのです。

三、結果としての隣人愛――愛の行為

 イエスは、律法の専門家に、「それを実行しなさい」(28節)、
「あなたも行って同じようにしなさい」(37節)と、二度も愛を実
行に移すように勧められました。

 このサマリヤ人は、その愛のゆえに強盗に襲われた者を助けるに
は、どうすればよいのかということを考えただけでなく、その考え
たことを当然のこととして、ごく自然に実践に移しています。この
ように愛は、それぞれ人によって、その表れは一様ではありません
が、必ず実行が伴うものなのです。

拙著「キリストの生涯の学び」112「良いサマリヤ人(2)」より転載





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Last updated  2008.09.29 00:12:26
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はじめて書き込みさせていただきます・・・1  
candy♪1026  さん
はじめまして。サマリア人のたとえ話のお話を感謝します。

>もし私たちが、隣人を愛していることを意識的に感じることを求めるなら、もはや真の愛ではありません。それは、自分で自分を喜ばせる自己満足や、自分で自分を賞賛する自己礼賛ではないでしょ
うか。

→本当にそうですね。愛を与えることでさえ、自分が中心になっている、私自身もそのように歪んだ愛で人を愛していた時期がありました。何と押し付けがましかったかと思います。そんな私をも見捨てられることなく、砕きつつ導いてくださる主は本当に真実な方です。

良きサマリヤ人の譬えの意味でこのように教えられたメッセージもありましたので、お分かちできればと思います。


(2008.10.01 21:25:44)

初めての書き込み・・・2  
candy♪1026  さん
「聖書は決して私たちが私的に解釈するべきものではありません。主イエスは譬えで神の国を語りましたが、それは人々に真理を分かり易くするためではありませんでした。譬えは人を選びます。主の譬え話により、心の頑なな人はますます頑なに、心の開かれている人は、真理を喜んで受け入れました。聖書の言葉を私的に解釈して自由を奪われている人が多いのです。御言葉は決して私たちの知性で理解すべきものではなく、霊によって、御霊の照明の下で理解すべきものです。良きサマリヤ人の譬えも、普通は私たちも良きサマリヤ人になるべきであるとするメッセージがほとんどですが、これは人間視点からの解釈であり、どの宗教でも同じです。しかし聖書はイエスご自身を証しする書です。イエスが律法学者に語りたかったことは、あなたは強盗(=サタン)に襲われて傷ついた者であり、それを介抱した良きサマリヤ人とはイエスご自身なのです。イエスは油を塗り(=御霊により)、ぶどう酒(=血潮)を注ぎ、包帯(=覆いなる主)をし、銀(=贖い)二枚(=証しの数字)によって、傷ついた人を救いました。祭司やレビ人(=律法)がなし得なかったことをイエスはして下さったのです。よって律法学者が「隣人とは誰か」と挑発的に問うたこと対して、「あなたも同じことをせよ」と言う答えは、「あなたの隣人とは良きサマリヤ人であるわたし(イエス)である、よって隣人(イエス)を愛しなさい」と言うことです。イエスのみが永遠のいのちを与えることができるのです。人間視点ではなく、イエス視点で御言葉には触れる必要があります。」

 まことの隣人である主、この方を愛したいと思わされます。

長くなりました。すみません。
(2008.10.01 21:26:17)

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