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「金持ちとラザロ(3)」
甲斐慎一郎
ルカの福音書、16章14~31節
金持ちとラザロの話は、彼ら二人の外側の姿は、生きている間と
死んだ後を比べると、逆になったことを教えています。しかし金持
ちが「よみ」に、ラザロが「パラダイス」に行ったのは、彼ら二人
の内側の姿のゆえであり、生きている間に良い物または悪い物を受
けたという外側の姿のゆえではありません。
主は、サムエルに「人はうわべを見るが、主は心を見る」と言わ
れました(第一サムエル16章7節)。またイエスは、パリサイ人
たちに「神は、あなたがたの心をご存じです」と言われました(15
節)。そこで第三回目は、彼ら二人の内側の姿に焦点を合わせてみ
ましょう。
一、この世における二人の内側の姿
金持ちが、「いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮
らしていた」のは(19節)、この世をすべてとして、神も永遠のこ
とも考えなかったからではないでしょうか。
この金持ちは、自分さえ楽しければよく、門前に寝ていたラザロ
という全身おできの貧しい人を助けようともしませんでした。「彼
は、神に対する不信仰の罪のために、ほかの人への愛がなく、自ら
は放蕩の生活を送ったのです」(R・C・トレンチ)。
一方、ラザロは、その名(ラザロとは神は助けるという意味)の
通り、神への信仰によって生きた人です。この信仰によって、この
ような悲惨な境遇にも耐えることができたのですが、見方を変えれ
ば、このような悲惨な境遇のゆえに、神に対する信仰が生まれると
ともに、その信仰が強められていったということもできるでしょう
(ヤコブ2章5節)。
二、次に来る世における二人の内側の姿
ラザロは、神に対する信仰によって「パラダイス」に行き、そこ
において慰めと安息が与えられ、その心は神への感謝と賛美に満ち
あふれていたことでしょう。
一方、金持ちは、神に対する不信仰のゆえに「よみ」に行き、そ
こにおいて苦しみもだえ、その心にあることをすべてアブラハムに
語りました。「もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行
ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません」と言いました
(30節)。
これは、死人が生き返るという奇蹟やしるしを見るなら、信じる
ことができるという意味であり、彼は「よみ」に行っても神の言葉
を信じなかったことを教えています。「地において抱いた精神は、
天において抱く精神と同じです。金持ちは、この世において神の言
葉を軽んじましたが、世を去った後も同じことをしたのです」(R
・C・トレンチ)。
三、この世における物事の見方や考え方
ラザロは、神に対する信仰によって「パラダイス」に行き、金持
ちは、神に対する不信仰のゆえに、「よみ」に行きました。ですか
ら、この世において信仰ほど大切なものはありません。
しかしラザロのように正しい信仰を持っていても、外側は悲惨な
姿のことがあります。一方、にせ預言者のように正しい信仰を持っ
ていなくても、外側は羊のなりをし(マタイ7章15節)、柔和な表
情で、たくみに話し、熱心にふるまうことがあります。
人の心は見えないので、わかりませんが、その心を知る唯一の方
法があります。それは、どのように話すかではなく、何を語ってい
るかということです(同12章34、37節)。金持ちは、アブラハム
に語った言葉によって、その不信仰な心が現れてしまいました。私
たちは、人が何を語るかという言葉の内容によって、その人の心に
神に対する信仰があるかないかを見分けることができるのです。
拙著「キリストの生涯の学び」134「金持ちとラザロ(3)」より転載
