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「心の一新(7)信仰と良心」
インターネットのテレビ局CGNTV(Christian Global Network
Television)の番組「みことばに聞く」に当教会の牧師が出演しま
した。以下のURLをクリックすると見ることができます。
2013年5月22日放映「真の生きがい」
http://japan.cgntv.net/_inc/player.asp?pid=2384&type=vod&player=8&bit=high&vid=61335&dreamon=Y
「心の一新(7)信仰と良心」
甲斐慎一郎
テモテへの手紙、第一、1章18~20節
聖書は、「信仰と正しい良心」(18節)は、ともに手を携えてい
かなければならず、もし「正しい良心を捨て」るなら、「信仰の破
船に会」うと教えています(19節)。
一、良心の意味について
聖書は、ユダヤ人は「モーセの律法」を持っているが、異邦人は
「モーセの律法」を持たなくても、「生まれつきの律法(自分自身
の律法)」を持っており、良心は、その証人であると教えています
(ローマ2章14、15節)。「律法」は、何が正しく、何が不正であ
るかを教える「規準」ですが、「良心」は、その律法を土台として、
その律法を守ったかどうかの「裁決を下すもの」です。すなわち、
その律法を守れば「善」、破れば「悪」と裁決を下すのが良心です。
「律法のないところに違反もありません」が(ローマ4章15節)、
「律法」があっても「良心」がなかったら、裁決を下すものがない
ので、罪責を感じることもなければ、道徳的な責任もありません。
それで神は、人間に「律法」と「良心」の二つを与えられました。
これが人間と他の動物との根本的な違いです。ですから誰も道徳的
な責任を免れることはできず、罪を犯した場合、言い逃れや知らぬ
振りをすることはできないのです。
二、良心の任務について
良心は、日本語では「良い心」と書きますが、英語、ラテン語、
ギリシャ語は非常に深い意味を持っています。英語で良心のことを
「コンシェンス」と言いますが、これは「ともに知る」という意味
です。
それでは誰と誰とがともに知るのでしょうか。北森嘉蔵は「私が
他の人とともに知る」ということと、「私が神とともに知る」とい
うことの両者が考えられるが、次のような理由で後者であると述べ
ています。
「彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは
互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています」(ローマ
2章15節)ということばから、良心には、責める(文語訳、口語訳
は訴える)「検事」の役割と、弁明する「弁護士」の役割があり、
弁護士の役割は自分であり、検事の役割は他の人や神です。しかし
検事の役が他の人であるなら、自分と同じ人間ですから、手なずけ
ることができ、真に検事の役を務めることができないので、検事の
役は神でなければならない、すなわち「良心」は「私が神とともに
知る」ことであると結論づけています。
三、良心の完全について
聖書は様々な良心について教えています。
1.正しい良心(第一テモテ1章5、18、19節、ヘブル13章18
節、第一ペテロ3章16、21節)
2.きよい良心(第一テモテ3章9節、第二テモテ1章3節、ヘ
ブル9章14節)
3.責められることのない良心(使徒24章16節)
4.良心を完全にする(ヘブル9章9節)
5.弱い良心(第一コリント8章7、12節)
6.邪悪な良心(ヘブル10章22節)
7.良心までも汚れ(テトス1章15節)
8.良心が麻痺して(第一テモテ4章2節)
「正しい良心」や「きよい良心」や「責められるところのない良
心」とは、「神の律法」を良心の土台に据え、その律法を守ってい
る良心、もし破った時は、そのことを責める検事役の神の声に従う
良心であり、そのことをなし続けていく時、「完全な良心」となり
ます。
これに対して矛盾する二つ以上の律法を良心の土台に据えるのが
「弱い良心」です。人は、「神の律法」だけを良心の土台に据える
べきであり、これとは別に「神の律法」と矛盾する「自分自身の律
法」や「思想・信条・宗教の律法」を良心の土台に据えるなら、一
つの律法を守ったとしても、それは他の律法を破ることになるので、
「良心の呵責」があり、反対に後者の律法を守ったとしても、それ
は前者の律法を破ることになるので、「良心の呵責」があり、互い
に矛盾する二つ以上の律法を良心の土台に据えるなら、絶えず「良
心の呵責」に悩まされることになるのです。
「良心」は、「自分が信じている律法」を守ったかどうかの「裁
決を下すもの」ですから、良心の土台である「神の律法」を信じな
かったり、たとえ信じていても、その律法を破った時、そのことを
責める検事役の神の声を無視したりするのが「邪悪な良心」や「汚
れた良心」であり、どこまでも神の声を無視するなら、「良心が麻
痺して」しまうのです。
人は、「神の律法」だけを良心の土台に据え、「正しい良心」や
「きよい良心」また「責められるところのない良心」や「完全な良
心」を持ち続けなければならないのです。
甲斐慎一郎の著書 → 説教集