ドロンジョさんからコメントを頂いて、はっと思いました。
では、私の「努力」という言葉のイメージは、いったいどこから来るものなのだろうかと。
私に「努力しなさい」と励ましてくれた人は、親ではなく、特に思い出すのはピアノの先生方です。
先生方の「努力」という言葉の裏に含まれていたイメージが、私に「努力」というものの質を伝えていたことに気づきました。
それは先生方からうかがったストーリーともつながります。
留学生の少なかった時代、親が田畑を売ったお金で外国に留学し、言葉も通じない所で孤独に学んだこと、あるいは物のなかった時代、ピアノは学校にしかなく、ひとりだけお正月にも学校に行ってピアノを練習した話。来る日も来る日も練習した話。
その中にはたくさんの思いが含まれているのだと思います。
辛い思いもあれば、喜びもあり、悲しい思いも、楽しい思い出も含まれているのでしょう。
たくさんの思いの中で私が拾えたのは、苦しみと意思を強く持つということ、不屈の精神、そのようなものでした。
「努力」という言葉を言う時の、先生方の表情、しぐさ、声色、息遣い、すべてのことが私の中でこの言葉のイメージを創り出しています。
だから、「努力」というものは生半端な気持ちではいけない、挫折してはいけない、楽しんではいけない、そのようなイメージで受け取っていたのでしょう。
もしかすると、もっと広い意味で、テレビなどでもこうしたイメージは知らず知らずのうちに、日本民族的なイメージとして受け取っているような気もしますが。
私の持っているイメージ、それは私のものでないことがあります。
私達は知らず知らずのうちに情報を受け、勝手に世界を創り出しているのでしょうね。
自分の創り出した世界だとも思わずに。
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