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ブログ、引越しすることにしました。今まで読んでくださった皆さん、ありがとう。引越し先もよろしくお願いします。Let's play
2012年03月13日
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ここのところ、私が気になっていることは、怒りなどの、俗に「良くない」と言われている感情についてのことです。アレクサンダーのレッスンで、身体が緩んできたときに、筋肉の解放と同時に、知らずに押さえていた感情が解放される時があります。あるレッスンの時、生徒さんに「怒り」の感情が出て来て、しばらく怒っていらしたので、頃合いをみて、起きていることを冷静に分析するのを手伝うつもりでいたのですが、ご本人が「もっと怒りたい」と申しましたので、そのままからだ全体で「怒る」ことを表現して頂きました。 生徒さんは出てくるものをそのまま言葉にしてくれたのですが、「怒り」は移動していきます。仕事の問題から、家庭の問題へ、生い立ちの問題から社会の問題へ...。現在から過去へ、過去から未来へ、そしてまた現実へ...。人に迷惑をかけぬよう、そしてまわりとうまくやって行くために、私達は意外と自分の感情を後回しにしています。身体が動き出すと、心も動き出してくる...。アレクサンダー氏が言っています。こんな言い方ではなかったのですが、私達は身体とか心とかではなくて、ただ全体があるのみ。身体も心も私自身の全体の動きとして、一緒に動いているのです。 今回のレッスンで思うのです。表現されてこなかった「思い」とか「感情」とかは、表現されないまま、自分と一緒にいるのでしょうね。「怒り」が表現されていくうちに、生徒さんにちょっとした変化が現れました。今までとは違った考えが浮かんできて、今までと違った見方に気付いたようでした。 古舘武先生だったでしょうか?「感情とはマインドの反応である。」とおっしゃっていたのは。自分の感情に気付くことは、自分のマインドの反応を知ることかもしれません。反応として現れたものに対して、一生懸命蓋をしたり、隠したりする必要はないかもしれません。それは、自分のことをもっとよく知るための道具となってくれるでしょう。自分の感情をもっと認めてあげよう!自分なりにそんなまとめをした、2011年の年末でした。
2011年12月31日
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1月にワークショップを企画しています。 カラダのキセキ学校では学べない 親と子のふれあい講座『カラダで伝える』大切な人と向き合う時、何かを伝えたい時に、ただ伝えたいことの他に将来の不安とか、心配とか、責任とか、さまざまな思いが頭の中に浮かんでいることに気付いていますか? 私達のカラダはそのことに気付いて、さまざまな表現をしています。お互いに本当に伝えたいことは、もっとシンプルなのかもしれません。 今回のワークショップでは、一緒にゲームなどをして、シンプルに伝える、あるいはお互いに伝わるものを探求します。 <実施要項>日時:2012年1月6日(金)10:00~12:00場所:BODYCHANCE目黒スタジオ講師:荒川克美ファシリテーション:福井けんたろう定員:10組 (最低試行人数4組)料金:おとな2,000円 こども1,000円対象:5歳から上は何歳でも(親子で是非どうぞ) <お申込>tel/090-1802-9191(福井)e-mail/kentaro.f91@gmail.com <講師紹介> 荒川かつみATI認定教師。BODY CHANCE 東京目黒スタジオ教師ピアノ教師、ピアニスト。趣味のバレエを通してからだの使い方について興味を持ち始めた頃、アレクサンダー・テクニークと出会う。レッスンを受けてみて、自分がいかに自分自身を知らないでいるかを実感しました。「動くこと」は生きている私たちの最大の喜び。「発見」は自分の可能性を広げること。このワークを通しての「質」の変化に大変興味があります。1988年 武蔵野音楽大学卒業2009年 ATA東京校(BodyChance)卒業2010年 ATI認定<ファシリテーター> 福井けんたろうBODYCHANCE 東京目黒スタジオインナーマネージャー専業主夫時代に体調を崩し、ココロとカラダを合わせることの大切さに目覚め、アレクサンダーテクニークに出会う。カラダのことについてを深く学ぶうちに自分自身への信頼を取り戻し、自分を表現する事に目覚める。現在10歳の息子をもち、カラダについての興味を共に探求しあう。2000年 中央大学理工学部卒業2009年 BODYCHANCE一般コース終了 <地図>1. 目黒駅西口を出て目黒通りにでる。2. 権之助坂(目黒通り)を下り、目黒川を渡って大鳥商店街へ入る。進行方向左手。セントヒルズ目黒10階。1階は天津飯店とリサイクルショップ。リサイクルショップの右にビルのエントランスがあり、エレベーターで10階までお越しください。〒153-0064 目黒区下目黒2-21-28?セントヒルズ目黒10階(部屋番号1000)お問い合わせ:tel/090-1802-9191(福井) e-mail/kentaro.f91@gmail.com
2011年12月13日
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今、アレクサンダー・テクニークの先輩、田中千佐子さんを中心としたワークショップを企画しています。その名も「晴れ晴れ小顔ワークショップ」です。 見て下さい、この違いを!小顔になったというばかりか、肌の透明な質や首から下の違い、ご覧いただけますか? 中心となる田中千佐子さんはクロワッサンに掲載されたジェレミー・チャンス&鈴木重子さんの「小顔」についての記事の原案を作成した、福島出身のアレクサンダー教師であり、薬剤師、アロマトリートメント、オーラソーマ、ヨガ・・・、いろいろな顔を持った楽しい人です。今回のワークショップでは、千佐子さんの知識を総動員して、楽しく和気あいあいと、気楽に進めてゆきます。アレクサンダー教師、田中千佐子の魔法のトリートメントタッチを体験したい方、この機会にぜひいらして下さい。私も少し、お手伝いします。 <ワークショップ開催日時&場所> 12月10日 13:30から 参加費: ¥3000 会場:北とぴあ 東京都北区王子1-11-1 03-5390-1100 JR京浜東北線王子駅北口徒歩2分 東京メトロ南北線王子駅5番出口直結 http://www.city.kita.tokyo.jp/docs/facility/525/052549.htmお申し込み process.facial@gmail.com 田中千佐子さんトリートメント中
2011年11月26日
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レッスンの中では、特定のシチュエーションに対してワークすることがあります。誰にでもいると思いますが、自分が苦手に感じている相手とコミュニケーションをとるとき、当然居心地の悪さを感じます。先日も、会話を重ねていくうちに、苦手な上司に尋ねるというレッスンになりました。職場全体の雰囲気が悪く、誰もがたくさんの仕事を抱え、殺伐としている中で、自分が苦手な上司に仕事のことを尋ねる、というものでした。二言三言、再現して頂いた時、生徒さんが相手の方を見ないで話をしていたのでそれを尋ねると、相手がとても嫌いで、顔を見たくないとのことでした。たいてい返って来る返事は不愉快なものに決まっているし、職場の仲間も嫌がっているし、「これは戦いです。」とおっしゃいました。すごく決意を固めて、話しかけていました。 仕事について尋ねる必要があるのですが、尋ねた結果まともに答えてもらったことがない経験を何度かしていて、生徒さんは自分のやっていることに意味がないように言っていました。 過去のたくさんの経験と、そこから予想される未来、生徒さんの頭の中はたくさんの思いでいっぱいで、なるべく自分が最低限やりたいことを思い出し、相手に伝える時に本人のコーディネーションを手伝い、同じ状況を再現しました。 生徒さんは、ただ上司に話しかけるというだけのことに、必要以外のエネルギーを何倍も、下手すると何十倍も何百倍も使っていたことに気付きました。「仕事がとても忙しい」、とおっしゃっていましたが、仕事ではないことにこんなにたくさんのエネルギーを使っていることに気付き、驚かれたようです。 相手が嫌いなことは仕方がないけれど、この経験によって、相手に対しての見方も、違った角度から見るという事も起きてきたようでした。 本人は、ただ「相手の顔を見たくない」くらいの思いの自分の行動だったと思いますが、そのエネルギーは職場の殺伐とした雰囲気を和らげるものではなく、殺伐としたものに更にエネルギーを注ぎ、その状態を維持するのに一役買っていたことになります。 日常のちょっとした選択が自分の居場所を決めている、そんな感想を持ちました。ささいな事に気付いた時、見えなかったものが見えるようになった時、現実は少しずつ変化していくのではないでしょうか?
2011年11月12日
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先日ピアノの生徒さんのお母様より相談がありました。娘さんにピアノを続けてもらいたい。だけど最近練習していないので、アニメや歌謡曲を取り入れてレッスンしてもらえないだろうかと。学校の教科書などでよくいたずら弾きをしているので、そういった曲なら練習するだろうと。 私は特に曲を強制しているつもりはないので、本人に「アニメや歌謡曲、持って来ていいよ」、と伝えると、本人はきょとんとした顔をしていました。私自身、その子にいつも「何か弾きたい曲ないの?」と尋ねているので、ちょっと驚きでしたが。「何で?」という顔をしていたので、お母さんが連絡帳に書いたこと、いたずら弾きの話を伝えたら、「何でそんなこと言うんだろう?」みたいな表情をしました。 彼女が帰ってから私自身のことを考えてみると、練習の途中で何か前に弾いた曲とか、好きな曲とか弾いて遊んだ覚えがあります。というか、ほとんど練習しなかったのですが。どちらかと言うと、気が向いたら練習する、という感じでした。その、自分の弾きたい曲を弾いている時間がとても楽しかったことを覚えています。 親にしてみれば、きちんと課題を練習して上手になれば、ピアノが上達すると思っていらっしゃるとは思うのですが、私の経験からすると、ピアノで遊べない子は続かない、と思っています。音を出して遊べる子は、音楽が自分にとってどういうものかを知っていると思うのです。いたずら弾きしているような曲をレッスンに持ってきたら、彼女にとってはつまらないかもしれないなあ、と少し思いました。 「遊べる」って才能だと思いました。自分で何か心地の良いものを創り出しているんですよね。本当に学んでいるのは、実はこういう時間だと思うのです。 レッスンでは曲をまとめたり、仕上げたり、ある程度の価値観を伝えていますが、それはその子の学びにとっての一部分でしかないと思います。 それをどうやって自分のものと結び付けていくか、その時間が大切だと思うのです。教えられた情報だけを出来るようにしていく、それは学びとしては不十分だと思うのです。 アレクサンダー・テクニークのレッスンでも、実はレッスンでない時に気付いたり、変化が起こったりします。レッスンが自分の一部分になって身に付いた時、内側から変化が起こる、教育ってそういうものかもしれない、と思いました。レッスンを受けて、「すぐそれを身につけなければならない。」なんて自分に課してしまいがちですけどね。
2011年10月26日
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先日面白い体験をしました。ある方と知り合ったのですが、その方は英語を専門的に学んでいらした方でした。その方は、小さい頃から学校の先生に「相手に失礼だから、相手の目をきちんと見て話さなければいけません。」と言われ、外国で学んだ時も、相手の目を見て話すのがマナーだと知らされ、常に失礼にあたらないよう、相手の目を見て話すようにしてきたそうですが、ある時、習い事をしていた先生に、「あなたは私のことをじっと見て、失礼だ。」と言われる体験をして、憤慨していました。 私自身、小さい頃から「目を見て話しなさい。」と言われたので、とにかく相手の目を見なければいけないと思っていたので、どうしてその方は「失礼だ。」と言ったのか全く理解できなわけだったのですが、そばに座っていらした、小さい頃に戦前の教育を受けていらした紳士の方が、驚くことをおっしゃおました。 「私は戦前の教育を受けてきたのですが、小さい頃に教えられてきたことは、相手の目を見て話してはいけません、と言う事でしたよ。相手の目を見て話すと、自分の言いなりにさせるような、そういった力を出すから、相手に失礼だと言うんです。だから失礼のないようにいつも目をそらしていました。」とおっしゃいました。ついでに「戦争が終わって、まったく違う価値観を教えられたのです。」ともおっしゃいました。 そのお話を聞いて驚きましたが、でも自分でも何か納得したものがあります。相手を見ないと失礼だと思う反面、じっと見ては失礼だとも感じる事があるからです。アレクサンダーのレッスンの中でも、相手をじっと見る事に、多くの人が戸惑いを感じているのをよく目にします。そして私が小さい頃から見てきた大人たちの中にも、同じものを見ていたことを思い出します。 今日合唱シニアの方々が集まったので、この話をしてみました。戦後派は、当然のごとく「相手の目を見なさい」と習ってきたと言っていましたが、戦前の教育を受けた方がいらして、「私は相手の目をまっすぐに見たら失礼だ、と言われてきたんですよ。」とおっしゃいました。その方が語る時に、ちょっと視線をはずされたのですが、その仕草の美しかったこと...。浮世絵のようでした。 戦後シニアは、「そんな価値観があったなんて...。」とショックを受けていたようでした。 私達の長く続いてきた文化は、こっちの戦前の考え方なのでしょう。こっちの方が感覚に合うような気がします。私にとって、自分の中の闘いが少ない気がします。そう言えば、おばあちゃんもそうでした。私達の文化は、自分の主張をするものではなく、相手を尊重する文化なのだなあ、と思いました。奥ゆかしい、繊細なものですね。今でも私達日本人の多くの人達の魂に、細胞にこの感覚を持っているような気がします。 相手の目を見て話す、欧米の文化も、相手を尊重するための表現であると思いますが、目的は同じでも表現の仕方が違うのは、面白いですね。
2011年10月13日
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ふとした会話から借りて読んだ、千賀一生さんの「ガイアの法則」。すごく素敵な文章で、書いてある内容も面白く、理解できたかどうかは別として、気になっていました。そしてたまたま図書館で見つけた、やはり千賀さんによる「タオ・コード」という最新作。やはり文章の美しさと、書いてある内容の面白さに惹きつけられました。 不思議だったのが、この千賀一生さんという方が、ダンサーであったことです。なぜこの方が、このような内容の本を書かれるのか、この方の主催される「わの舞い」とはどういうものなのか、とても気になって、先日練習会に参加してきました。 手続きを済ませ、教室の中に入ると、たくさんの方がいらっしゃいました。インド人のような白い衣装を着て、やわらかく、すっと美しく立っている方がいて、あの方が千賀さんだと直ぐ分りました。 いきなり踊りの練習に入り、経験者と初めての人に分けようとしたら、半数が今日初めて来た人なのに驚きました。まずは人数を半分に分け、その半分の人達の中で経験者数人が中で小さい輪を作り、私達新人はその外側で中の踊りを真似て踊りました。私は最初のグループで、何をするのかわからないまま参加しました。 音楽はクリスタルボウルのような音から始まり、どこの国のものとも思われないようなイメージのものでしたが、はじめの踊りは東洋的な、私のイメージでは韓国舞踊のような感じのものに見えました。千賀先生が中で踊って下さったので、私の眼はそちらに釘付けになりました。 流れが、動きが、とても美しいものでした。千賀先生はとても美しく動いていらっしゃいましたが、でもそれは全体の中の一部で、全体と溶け合っていました。私自身、今真似しながら参加していただけですが、全体の中に含まれていて、それが何とも心地の良いものでした。そして「全体」というものも、部屋のことではなく、果てしなく遠い宇宙や、広がった空間、大地、そういったものと繋がったもののように感じました。「祈り」とか、「感謝」、そういったものを感じました。 踊るということの意味、人間という存在の意味、あるいは地球とか宇宙とか。とてもシンプルで美しいものを感じました。 「流れ」とか「動き」とか、それは「生きている」とか「存在している」とかと同じ意味なのですね。私達はアレクサンダー・テクニークの中で「何もしない」って使っていますが、何もしなくても「流れ」や「動き」の中にいるのですね。 シンプルに楽しい経験でしたが、いろいろなものが新しくなった気がします。
2011年10月05日
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北海道に行ってきました。ボディチャンスでレッスンを続けていらっしゃる声楽家、皆方純子先生が主催してくださり、函館でのボディチャンス流アレクサンダー・テクニークのワークショップが実現しました。 純子先生は、とても賢明な方で、私の拙い言葉や説明をよく理解して下さり、アレクサンダー・テクニークが声楽や音楽の技術の向上に役立つものだけのものではなく、日常生活や無意識下の考え方、あるいは反応の仕方など、ご自身の人生がこのレッスンをきっかけにどんどん変化して行くことを体験され、「どの人にとってもとても良いものだと思うので、ぜひ函館で紹介したい」と、この機会を作って下さいました。 ひとこと付け加えさせて頂きますと、純子先生にたくさんの変化が起きたのは、すべて純子先生の力です。レッスンで起こったことに対してどのように考えていくか、この経験をどのように日常に生かすか、過去に対してはどう考えるか、日常のひとつひとつの選択が意識的にできる可能性に気付いていかれたと思うのです。 私が出来る事は、ただ動きを観察してサポートするだけ。私は声楽なんてど素人ですが、純子先生はわたしのアイデアを素直に受け入れて、実験にお付き合いくださいます。 函館のワークショップは、純子先生の広いレッスン室で行われました。午前中に1回と、午後に1回。参加して下さった生徒さんは、下は小学校3年生から80歳の方まで。声楽、トロンボーン、バレエ、ソシアルダンス、体操、字を書く、などたくさんの実験をしました。小さいスケルトンや頚椎の模型を、はじめは怖がっていらっしゃったけど、次第に興味を持ち始められ、お互いの実験を観察し合って、感想を言い合って、とても良い学びの場となったと思います。 私がこのワークをとても素敵だと思うのは、このような学びの場が出来上がることです。それぞれの人の学びを皆で共有してゆけること、お互いの変化を喜びあえること、そしてアレクサンダーの先生もその一人であること。生徒さんの感想が学びになります。観察している人達の意見が学びになります。このような学びの場が増えて行くと素敵だな、と思います。 そしてこのワークを理解し、支えて下さる方々。私の先生のジェレミー・チャンスもそのひとりです。日本という、彼にとっての外国で、私財を投じて夢のような学校を実現してくれました。 「良いものだから、たくさんの人に伝えたい」純子先生のシンプルで情熱的な思いに感動し、このワークが世界中のたくさんのそういう方たちの支えで今に伝わっているのだなあ、と思いました。 学びの場がもっと広がりますように。
2011年09月28日
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月1回のゆるいペースでTAZUKOさんにジャンべを習って2年くらいでしょうか、もっとかな、経ちました。おそらくアレクサンダー・テクニークを使えるようになったことと、ものごとを習う、ということには、ものすごく相乗効果があって、習得の時間の短縮が出来たと思うのです。 もちろん楽器ですし、全く知らないジャンルの音楽ですし、価値観も何もかも違くて、「習得する」なんてずうずうしいことは言えないのですが、これはあくまでも自分の今までの経験と比べての感覚です。違った世界が垣間見えてきたのです。今までの経験だと、習い始めて5~6年はかかるものだったと思うのです。 私はピアノをずっと弾いてきましたが、大きな括りでは、ピアノもジャンべも椅子に座って手を使って音を出すことには変わりがありません。私の情報の処理の仕方として、この入ってきた情報に対して、ピアノで持っている情報から、処理をしようとし始めるようです。また、音の聴き方も、習慣的なものがあって、瞬時にだいぶ情報を削って処理していることが分かってきました。 TAZUKOさんはアレクサンダーのトレーニングを重ねている人ですし、ピアノを教えてきた経験もたくさんあって、私にどう伝えたらよいのか、どうしたら表面ではなく、本質に近いものを伝えられるか、私がどのように受け取っているのか、よく見ていてくれます。この辺りのことは、どの先生も考えていらっしゃるとは思うのですが、アレクサンダー・テクニークを学んでいる先生は、実際に役に立つ手段を持っているので、全体的なバランスを見てくれて、無理なく楽しく学ぶことが出来ます。 ピアノを勉強してきて、ピアノを通して音楽を教えてきた私達ですが、「人間にとって音楽とは何なのか」という根源的な問いを、TAZUKOさんはアフリカンを通して学び続け、私はアレクサンダー・テクニークやバレエを通して学び続けています。 そんな彼女から伝わってくるのは、力強く聴こえるアフリカの音楽、ジャンべと言う楽器の繊細さ、人や世界とのかかわり合い方、多様さです。 こんなたくさんの情報が短期間で手に入れられるようになったのは、もちろん先生が素晴らしいことと、自分自身の今までの経験もあるかもしれませんが、デーヴィッド・ゴーマン先生が「ラーニング・メソッド」と呼んでいるこのアレクサンダーで、「学ぶ」自分自身の態度が飛躍的に変わったからだと思うのです。 アレクサンダー・テクニークを使える人が増えたら、私達の文化はもっと容易に先に進める事が出来るようになると思います。
2011年09月18日
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先日、外苑前の「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」を体験してきました。真っ暗やみの中、8人のグループを組んで、白い杖を片手にいろいろな体験をする、というものですが、ナビゲーターとして盲人(目の不自由な方)がひとり、グループについてくれます。 このアトラクションは、季節によって体験の内容が変化するそうですが、今回は夏バージョンだったそうです。 目を慣らすために、ナビゲーターからアトラクションの説明を受けながら、段階を踏んで少しずつ暗い部屋に入って行くのですが、目への刺激が少なくなるに従って、耳などの他の感覚が鋭くなっていくのがわかりました。 ここからがアトラクション、という場所は本当に暗くて、まったく何も見えませんでした。暗さに段階があるのもよく知らなかったし、本当の暗闇って、実はあまり経験がないのですね。 暗闇に中に入ると、いったい自分がどこから来て、どこにいるのかが全くわかりません。少し歩いただけで、入口の方角がまったく分からなくなりました。グループの仲間は知り合いもいるし、今はじめて出会った人もいます。何をしている人かも知りません。年齢も職業もバラバラなはず。お互いの呼び名を決めて、触れあった時に声をかけると、それが情報に変わります。 このグループで橋を渡ったり、道具で遊んだり、喫茶店に行ったり、といった体験をしました。真っ暗やみの中、皆が安全に、はぐれないで行動できるよう、お互いが助け合っていました。困った時に声を出すと、手を差し伸べてくれる人がいる。誰かが困っていたら、手を差し伸べる事が出来る。 「見えない」というだけで、まるで世界の見方が変わってしまう。そこには私達が一番望んでいるものが存在していました。いいえ、いつでもそれは存在していて、でもそれに気がついていない。まるでアレクサンダー・テクニークのレッスンのようです。見方が変わると世界そのものが変わってしまう。 私達がダイアログ・イン・ザ・ダークで体験している世界は、目の見えない人の世界です。皆がナビゲーターのちいちゃんに、たくさんの質問をしました。私達は彼女の体験している世界に興味を持ち、彼女は自分の体験している世界を話してくれます。同じ時代に、同じ世界で体験していることなのに、私達は別の世界で生きているのです。 でも、よく考えてみれば、ちいちゃんだけが別の体験をしているのではないと思いました。私達はひとりとして同じ感覚を持っていないし、感覚そのものは身体の使い方によって、考え方によって、まわりの状況によって、今までの経験によって、様々な条件で常に変化しています。ひとりとして共有できません。 人が存在する分だけ、世界がある。お互いの世界が尊重できれば、それだけたくさんの世界が広がって行きますね。
2011年09月14日
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昨日のグループレッスンの中で、私にとって思いがけないことが起きました。肩こりに対してのレッスンでしたが、何となくその方の会社の状況を創り出そうと思って、グループの皆さんに手伝って頂きました。 机をふたつ並べて、あちらに上司、こちらに同僚、ここにはちょっと問題のある人達がいて...。彼女が普段の状況を説明してくれます。 部屋の中はさっきまでのゆったりとしたグループレッスンの空間ではなくなっていきました。 彼女は会社ではそこそこ楽しんでいて、冗談やいたずらで笑い合える仲間たちがいて、楽しく働いている、と言っていました。 会社の状況の説明が続いていきます。よく言い合いをしている人達がいること、それに対して彼女や仲間が取りつくろっていること、その状況に対して何もしない上司。その上司が上からきつく言われているのを皆が知っていること。グループレッスンの部屋の中は、もう完全にものすごい緊張感のある空気に変わって行きました。 話している本人も、「あれっ、こんなつもりでは...。」と驚いた様子です。 ひとりの人が言いました。「もうこんな状況耐えられない。」 それはきっと皆の体験した事のある状況だと思います。誰もが嫌がる状況、空気。でもお互いにどうしていいかわからない。 バレエ仲間の会社の話を思い出します。状況を見て、その中でうまく働くことのできない仕事の仲間。その人に対して何時も聞こえる上司のどなり声。嫌な気持ちでその場にいる人達。 私の見てきた小学校、中学校...。腐るほどそんな状況を見てきました。あるいはそんな目に遭ったことがあります。 「もう耐えられない。」と言った人が続けました。「上司も誰も何も言わないなんて。自分が放っておかれた立場になったことを考えてしまう。」 私はこれに対して答えを出せずにいました。ただ思い出したのはマザー・テレサか誰かの言葉。「"愛"の反対は"無関心"です。」 何気なく過ごしている日常。同じことが繰り返して起これば、苦しい現実も「何でもない日常」としてみなしてしまう。見たくないことは無意識に「存在しない」ことにしてしまう。でも自分は知っているのです。見ているのです。 今回のレッスンで学んだことは、ただ疑似でさえ、私達はこんな空間を創り出すことが出来てしまうということ。 自分が何をしているのかに気付くことは、すごいことだと思います。
2011年08月31日
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7月にキャシー・マデン先生の来日があり、レッスンが行われたのですが、私にとってとても印象的なことがいくつもありました。 その中のひとつですが、通常のクラスの中で行われたレッスンを見学していた時に起こりました。ひとりのトレーニーが「聞くこと」についてのレッスンを希望しました。彼女は、自分が「聞くこと」について問題があるのではないかと思っていて、それを探求したいと言っていました。 彼女は小さい頃から「聞く」時に、落ち着いて聞いていられない、聞くときに動いてしまうことを、「自分はおかしいのではないか」と、気にしていたそうです。 その問題は、彼女とキャシーが会話をしている時に、いとも簡単に解決しました。彼女が、「自分は片方の耳が聞こえないのだ」と言った時に、「あなたが動いたのは、あなたにとって必要なことをからだがやってくれているのよ。」ということでした。ただ聞こえる方の耳で聞こうと、からだが考えるよりも先に動いて助けてくれたからではないか、という言葉でした。 その時の彼女の表情が忘れられません。自分に対する愛情がワーッと出てきて、とても幸せそうな顔になりました。 「私はまわりの人達と違って、自分がだめだ、だめだと思っていたけれど、わたしのからだは私を助けてくれていたんだね。」と言った言葉に、また彼女がその問題を解決しようとしてたくさんのことを学んできた彼女の人生を聞いて、私はなんとも言えない気持ちになりました。 人と違うと、どうして私達は自分を責めてしまうのでしょう。どうして学校で、世間で、人と同じ行動をすることを強いられるのでしょうか?人と同じ行動をすることが、本当に「和」の心なのでしょうか? 彼女のような子が、「落ち着きがない」と親や先生に怒られたり、親が親戚や知りあいの人に「親の教育のせい」などと言われるのを聞いて、自分を責め続ける人生を送っていたとしたら...。そう思うと私は悲しみでいっぱいになりました。 私達は他人の人生について、何も知りえないのだなあ、と思います。たとえそれが小さな子供であっても、その子にとって何が必要で、何が不必要であるのかは、本人でないとわからないのですね。 不用意に他人の行動についてあれこれ言うのは、賢い選択ではないですね。 「教育」に対する考え方が、もっと優しいものになってほしいと思います。本人が、自分の必要なことを自分で選択して生きていけるような、そんな力が育って欲しいと思います。そしてお互いにそれが許し合えるような、そんな社会になってほしいなあと思います。
2011年08月21日
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生まれてから3歳になるくらいまで、人は機能的で無駄のない、素晴らしい動きをしていると言われています。その後まわりの大人の動きを模倣しながら動きを学んだり、考えや思いさえも模倣したり反発したりしながら学んでいき、たくさんのものを学習していきます。ただ残念なことに、多くの人はたくさんの不必要なものまで身につけてしまって、前よりもどんどんと不自由になっていくことに気がついていません。 たくさんのものをまだ身につけていない子供のうちから、このアレクサンダーのちょっとした知識を遊びながら伝えてみたらどうだろうか、それも大好きなお父さんやお母さんと一緒に。そんなアイデアをちょっと口にしてみたら、アレクサンダー教師修業中のハンサムなお父さんであるけんたろうさんと意気投合して、実現することになりました。 もし興味のある方がいらしたら、ぜひ目黒のスタジオでお会いしましょう! 『カラダのキセキ』日時:2011年8月17日(水)10:00~11:30(途中休憩あり)場所:BODYCHANCE 目黒区下目黒2-21-28セントヒルズ目黒10階講師:荒川かつみファシリテーター:福井けんたろう定員:10組(20名)※最低施行人数4組(8名)費用:2,000円/組対象年齢:小学生全学年お申込:e-mail/mailto:kentaro@gmail.com詳しくはけんたろうさんのブログでどうぞ。けんたろうさんブログ
2011年08月01日
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先日、学校の勉強仲間であり、アレクサンダーの通訳でず~っとお世話になっている竹内いすゞさん主催の、「共時性ワークショップ」に参加しました。 どんなことをしたのかと言うと、ひとつの空間の中で、声を出す人達、絵を描く人達、身体を動かす人達がいて、お互いに影響を受けながら即興的に制作する、というものでした。 いすゞさんは詩人であり、舞姫であり、とにかく自分の感じているもの、受け取っているものを自分独自に表現してゆくことを探求している人で、自分のものだけでなく、皆のそういった表現をたくさんの人と分かち合って楽しみたい、と常日頃語っています。 いすゞさんがここのところ主催している英語のワークショップも、目から鱗のアイデアがいっぱいで、ただずっと遊んでいるような、お互いの年齢も性別も国籍さえも超えているような、不思議な学びの時間を提供してくれます。 今回のワークショップはその英語のワークショップで使った空間、マスミスペースで行われました。マスミスペースは表具屋さんの建物を改装して出来たスペースで、木と和紙の壁と素敵な中庭がチャームポイントです。 ただただ目的もなく、各自が声を出したり、動いたり、絵を描いたり...。約束事は、沈黙を守ること。外の鳥の声と誰かの出す声や口笛。時には笛が加わりました。疲れたら寝て、絵を描きたくなったら描く。誰かの動きを見たり、歌いたくなったら歌う。 私達は空間や時間を超えた沈黙の中にいました。終わった後に気がついてみると、いかに自分がたくさんの垣根の中に居たのか、ということ。「絵を描く」にも「声を出す」にも「動く」にも、それぞれの垣根はなかったのですね。 すべては自分から発する同じ行為であり、なんの違いもありませんでした。 マスミスペースの社長さんが言った言葉「私達にはやるべきことも、やらなきゃいけないことなどないんです。」「きっと昔の人達はこうやって遊んで暮らしていたのでしょう。」 過したのはほんの数時間。それも東京の池袋のすぐ近く。でも、みんなの感想は「とても贅沢な時間を過ごしました。」 私達はいつでもこういった時間がすぐに持てるのですね。どうして気がつかなかったんだろう。 いすゞさん、ありがとうございました。
2011年07月30日
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私のところで1年くらいレッスンを受けて下さっている方がこの前レッスンにいらして、私が「ピアノを弾いている姿が1年前と大分変わりましたね。」と言いましたら、「ええ、はじめは自分がふたりいるような気がして慣れなかったのですが、ここのところ気にならなくなってきました。」とおっしゃいました。 彼女のコメントを聞いて、自分自身のいろいろなことを思い出しました。すごく鮮明に覚えているのは、ヴィヴィアン・マッキー先生のレッスンです。身体を酷使してきた私にとって、音の情報は身体や思考よりも情報量が多く、ピアノで受けたレッスンは、表面で認識できたもの以上に、ものすごい情報量として自分の中に眠っているのですが、それがひとつ起こされた感じです。 他のブログで書いたこともありますが、当時の私にとって、「表現することは」とても辛い作業でした。尊敬する先生がおっしゃったこと「思った以上に表現しないと、人には伝わらないものよ。」という言葉が、私にはとても重たいものでした。思った以上に表現することは、私にとっては「嘘をつくこと」と同じ意味でした。感じた以上のものを表現することは、感じていないものをも含むことでした。 ヴィヴィアン先生のレッスンで私が受け取ったものは、私が音楽と繋がれば繋がるほど、私には音楽が頭の中でクリアーになってきました。私は受け取っていました。音楽は私の指から出ていました。私は身体でした。私は思考でした。私は自分の演奏を聴いていました。私から感情が出ていました。自分であって、自分でない、至高の体験でした。 生徒さんの言葉で思い出したのは、この体験でした。その時、今まで私は自分の出している音を聴いていなかったことに気付きました。弾く音のイメージが、弾いている実際の音よりも強かったと思うのです。自分のやりたいことと、実際にやっていることが繋がっていなかったことに気付きました。 その時気がついていたのはこのような事でしたが、私はこの時無意識に素晴らしい情報を手にしていたことに、今気づきました。「感情」は「私」ではない、ということです。少なくとも私は自分の「感情」を表現するためにピアノを弾いているわけではない、ということに気付きました。私の表現したいものは「音楽」で、それによって私から出てくる感情がある、ということに気付きました。 「感情」とはとても厄介なものです。キャシー・マデン先生は「何かに反応した時に、自分から出てくるもの」と言っていました。「私の感情」は主役ではないのです。そう考えると、「感情」を愛おしく思っても良いかもしれません。私の中の小さな子なのですから。
2011年07月16日
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ここのところ、自分の判断の基準について、ふと考えました。私が何かを選ぶ時、いったい何を基準にしているのだろうかと。何となく頭に浮かんだのは次の3つです。1「好き」、「嫌い」もしくは「やりたい」、「やりたくない」2「良い」、「悪い」3「正しい」、「正しくない」私の場合、もともと「好き」か「嫌いか」の判断が多かったわけですが(大人になりきっていないのでしょう)、アレクサンダー・テクニークに出会ってから、余計にこの判断基準が多くなったような気がします。だって昔は「良い」と「悪い」、「正しい」、「正しくない」を考えていましたから。私にとって「良い」とか「悪い」とか、「正しい」とか「正しくない」は、実は自分の判断の基準ではないような気がします。世間で言われているような基準をベースに、自分が判断の言い訳として使っているような…。良いかどうか分かりませんが、「好き」と「嫌い」の判断が増えてからは、ものごとを自分の判断で選んでいるような気がします。「好き」とか「嫌い」だったら、完全にこの基準は主観的なもので、判断の責任は自分自身にありますが、「良い」とか「悪い」とかになると、判断の責任の所在がちょっと曖昧になる気がします。「世間」とか「一般」とか「常識」とか「神」とか。私がずるい時は、責任を逃れるために、無意識でこんな言葉を使っちゃったりしています。また私が「正しい」、「正しくない」なんて考えている時は、完全に言い訳を探しているような時の場合が多いです。でもこうしてみると、私が考えている時って、いつでも2択にしているなあ、と思います。2つ以上の選択肢が持てないなんて、よっぽど頭が悪いのですね。あるいは2択にしないと考えられない、とも言えます。テレビに出てくる人を見て、「この人ずるいな~」なんて思っているのは私だけかしら?
2011年07月02日
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今私が探求しているテーマのひとつが、繋がることと相互依存の違いです。先日健太郎さん主催のワークショップがあり、高田彰一さんを講師に迎え、「伝える」というテーマを皆で学び合いました。とても素敵なワークショップで、ワークショップの主旨は「ビジネスを考える」というものです。1回目が「伝える」だったのですが、「ビジネスとは何か」、ということを曖昧に定義づけている自分を発見しました。あるいは自分の定義はなく、世間一般に言われているようなイメージを自分の定義にしているような気がしました。どうしていろいろ考えるようになったかと言うと、このワークショップで彰一さんは決して答えを出したり、意見をまとめたりしなかったからかもしれません。実は自分の「ビジネス」の定義から身動きのできない自分が、「定義を決めるのは自分で、そこにはあらゆる可能性が広がっていることに気がついた」、そんな瞬間が無限に見えたような時間でした。私にとって「ビジネス」とはとても冷たくて、非情なものに感じていたのですが、「ビジネス」とはお互いに「富」を分け合うことではないかしら、と思いました。(そう思っていなかった自分がいたのです。奪う/奪われる、勝者/負者というイメージがありました。)人間同士の行為なのだから、温かい関係であって良いと思いました。「伝える」ということを矢印を使って絵にして、それに各自が絵を足してイメージを作ったのですが、その中の会話で私は矢印が小さい輪になって循環するイメージを持ち、それをちょっと怖いものに感じました。循環は素晴らしいのですが、その循環から逃れられなくなるようなイメージを持ちました。このことが「繋がること」と「相互依存」を考えるようになったきっかけです。関係が出来上がって流れが出来た時、ある程度決まった流れが出来てくるとそこから抜ける事ができなくなる…。これは私が社会の中で感じてきた息苦しさです。繋がることがなぜか相互依存の関係になってしまう。そこで新しい選択がしにくいという部分に、私の考えを変える余地がありそうです。「うまく動かない→アイデアを変える」これは全くアレクサンダー・テクニークですね!健太郎さん、彰一さん、素敵な機会をありがとうございました!
2011年06月20日
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アレクサンダー仲間と共に学んでいるリンクレーターのメソッドは、2年目になりました。新しい仲間を加えて、また新しく「振動」の体験をしました。ひとりがハミングをして、もうひとりがすぐそばでハミングをすると、音の振動が伝わってきます。アレクサンダーの教師&トレイニーで学んでいるせいか、皆とっても自由で、こういった実験は小学生のようにどんどん新しく発展していきます。 後ろからハミングするとどうなるだろう、二人以上でハミングするとどうなるだろう、一列になるとどうなるだろう、じゃあ円になるとどうなるだろう...。先生から「からだに触れてみよう」と提案があり、実験は自由にどんどん進みました。 音の振動はからだのあちこちに伝わります。皆の共鳴が振動し合って、部屋全体が振動していました。ただ皆でハミングをしてお互いのからだに触れて振動を観察していただけなのに、皆のからだはどんどん変化して行きました。背が高くなったり、顔の表情がやわらかくなったり。からだじゅうが振動して、からだがゆるみ、まるでお風呂にはいったみたい。 人間の声とは素晴らしいものですね。自分のからだがとても繊細な粒子で出来ているように感じました。音楽大学では学ばなかった「音」の可能性。「音」とは何なのか、とても興味があります。そして何の気もなく出している自分の「声」。人間の「からだ」という楽器の素晴らしさ、世界との共鳴。私の知らなかった、豊かな「音」の世界が既に存在しているのですね。 私達は自分の持っているものに気付いていないだけ...。まさにそれはアレクサンダーで知ったことです。
2011年06月15日
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ゴールデンウィーク合宿で、高椋浩史さんの「遊ぶ」ワークショップに参加しました。御殿場の芝生のフィールドを借りての、外でのワークショップです。ワークショップの部屋からフィールドに行くまでも目隠しゲーム。大の大人が「遊ぶ」世界に入って行きやすいよう、さり気ない工夫がたくさんありました。 大人になってみて子供の「遊び」をするのは、とても面白い経験でした。誰かが「ハンカチ落とししよう」と言うと、ハンカチ落としのルールを思い出し、知っている人が皆に説明し、遊びながらルールを理解していく。どうやって鬼に捕まらないようにするか、とか鬼はどうやって捕まえようかとか、それぞれが毎回工夫して動き、子供の頃は夢中になって遊んでいたけれど、こんなにも頭と身体とをいっしょになって使っていたとは、思いもかけませんでした。 何回か遊べば、誰かが「飽きた」と言い、違う遊びに変わります。何箇所かで別の遊びが並行して行われ、皆興味のあるところへ集まって行きます。遊びの始まるたびに誰かがルールを説明し、皆で理解しながら遊びを作って行く。 うまく動こうなんて思わないし、正しくやろうなんて思わない。何の目的もなく、ただただ身体を動かすことを楽しみました。でも後になって写真を見ると、皆の動きの美しいこと!私達は与えられているものを、ただ喜んで受け取るだけで良いのかもしれません。たくさんの気づきのあった、素敵なワークショップでした。
2011年06月01日
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3月11日の震災後、ほとんど間もなく恩師の危篤を知りました。一時は良くなったのですが、桜の花の満開の時、恩師は向こうの世界へ逝ってしまいました。 震災、お葬式、そして4月からの私の仕事の変化、ゴールデンウィークの合宿、と私の生活は慌ただしく過ぎて行きました。 合宿も終わり、新しい生活のパターンに少しずつ慣れてきたと思われる今日、ピアノを弾いていたら、突然恩師のレッスンの時のような空気を感じました。ショパンのノクターン2番を弾いていたら、ものすごく優しい空気になり、恩師が私の曲を一緒に聴いていた時間を思い出し、涙が出てきました。ああ、私はなんという豊かな時間を彼女から与えて頂いていたのでしょう! 私自身より、私の弾くピアノをよく聞いてくれた先生。何よりも私のピアノを喜んで聴いてくれた先生。 それから恩師のお気に入りの、何度か聴かせて下さったベートーヴェンの小さなワルツを弾きました。そのワルツは子供の曲集の中に入っているような、かわいらしい曲でしたが、その曲を弾いても、恩師のようには弾けませんでした。あんなに小さい曲なのに、華やかで、深く、力強く、活き活きとした、命そのものの表現。芸術家の生きざまそのものでした。 人は何を与えてくれるのか。私が受け取ったものは恩師のそのままの生きざまであり、魂であり、愛情であり、その人の存在そのものだったと思うのです。 私の中にある、恩師との豊かな時間。これは私にとっては、きっと永遠のものでしょう。 人と人、何かがずっと繋がって、私達は存在し続けるのでしょう。
2011年05月18日
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ドロンジョさんからコメントを頂いて、はっと思いました。ドロンジョさんは、まわりから「努力しなさい」と言われた経験も、自分で意識した経験もあまりないそうです。では、私の「努力」という言葉のイメージは、いったいどこから来るものなのだろうかと。私に「努力しなさい」と励ましてくれた人は、親ではなく、特に思い出すのはピアノの先生方です。先生方の「努力」という言葉の裏に含まれていたイメージが、私に「努力」というものの質を伝えていたことに気づきました。それは先生方からうかがったストーリーともつながります。留学生の少なかった時代、親が田畑を売ったお金で外国に留学し、言葉も通じない所で孤独に学んだこと、あるいは物のなかった時代、ピアノは学校にしかなく、ひとりだけお正月にも学校に行ってピアノを練習した話。来る日も来る日も練習した話。 その中にはたくさんの思いが含まれているのだと思います。辛い思いもあれば、喜びもあり、悲しい思いも、楽しい思い出も含まれているのでしょう。たくさんの思いの中で私が拾えたのは、苦しみと意思を強く持つということ、不屈の精神、そのようなものでした。 「努力」という言葉を言う時の、先生方の表情、しぐさ、声色、息遣い、すべてのことが私の中でこの言葉のイメージを創り出しています。 だから、「努力」というものは生半端な気持ちではいけない、挫折してはいけない、楽しんではいけない、そのようなイメージで受け取っていたのでしょう。もしかすると、もっと広い意味で、テレビなどでもこうしたイメージは知らず知らずのうちに、日本民族的なイメージとして受け取っているような気もしますが。 私の持っているイメージ、それは私のものでないことがあります。私達は知らず知らずのうちに情報を受け、勝手に世界を創り出しているのでしょうね。自分の創り出した世界だとも思わずに。
2011年05月11日
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私の現在のチャレンジは、「グループ」です。今まであまり積極的には関わってこなかった「グループ」に、何か可能性を感じています。先日毎年恒例のゴールデンウィーク合宿を終えたのですが、その中で私はとても素敵な経験をすることができました。 ひとつは仕事での経験です。私は今年から、この総勢80人にもなる合宿の責任者のひとりになりました。とは言え、私がしていたのは宿泊と食事の人数の確認くらいなのですが。 影のボスのサポートが完璧で、必要な時に必要な助言をいつでも与えてくれましたし、健太郎さんはどんどん持ち物の準備を進めてくれましたし、あっちこっちから「こうするといいよ」という天使の声が聞こえ、皆がそれぞれ自分の仕事をどんどん進めてくれました。実はものすごい失敗もあったのですが、宿の人が助けてくれましたし、いろいろな人にお願いした仕事は、それぞれの人が協力しあって成し遂げてくれました。 私は仕事を振り分けただけ。うまく協力し合って助けてくれました。みんな、なんてすごい人達なのでしょう! もうひとつの経験は、合宿で行ったワークショップ。主旨は、皆でアイデアを出し合って、パフォーマンスの助けになるものを見つけよう!ということだったのですが、参加してくれた人達がどんどんアイデアを出してくれて、グループがまとまって、たくさんの実験をして楽しむことが出来ました。私は先生というより、ほとんど司会者のようで、一番楽しんでしまったかもしれません。 仕事でも、ワークショップの時でも、ひとりひとりがとても素晴らしい、たくさんの経験と思いやりを持った人の集まりで、それが協力し合って動いた時、魔法のようなことが起きました。私は仕事もワークショップも、あまり働いていないのですよ! 皆が無理なく自分のできる事をやって、全体が変化する。理想的だなあ、なんて勝手に思っています。皆がアレクサンダーで「まず自分の面倒をみる」ということを学んでいるから、このような各人が独立しているグループが成立しやすかったのかもしれません。風通しの良いグループ、それぞれの人が自由なグループ、目指します!皆さん、ありがとうございました。
2011年05月08日
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私はずっと努力って何なのか、知りたいと思っていたと思います。私が好きだったのはピアノを弾くことで、ずっと努力をしたいと思っていました。先生に「努力しなさい」と言われ、努力したいと思ったので、とりあえず時間をかけることが努力だと思い、時間をかけてみました。次に、努力することは身体が疲れることだと思い、身体が痛くなるように練習しました。今から考えると、これ以上愚かなことはないと思えるほど、何の考えもない「努力」でした。そして私は努力をしているつもりでした。「知ること」が努力だと思い、知識を得ようと試みたこともあります。「経験」が必要だと思い、いろいろチャレンジしてみたこともあります。でも今思うと、「努力」って好きなことを続けてきた結果かもしれないと思います。もしくは好きなことを学び続けていること。そして学ぶという事には、質があると思います。その時に気になったことをどんどん吸収してゆくこと。楽しんで吸収し続けることが良い質の学びだと思うのです。好きなことを続けることはあたり前のことなので、「努力」ってあたり前のことを言うのでしょうか?私にとって「努力」という言葉が意味をなさなくなってきた感じです。生きている限り、おそらく現状の自分には満足することはない気がしますが、それこそ生きている意味かもしれません。そして、どうして努力をしたいと思ったというと、音楽に対する愛情を表現したかったのかもしれません。そう、私は音楽が大好きなのです。
2011年04月28日
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いつも何気なく起きている日常会話での出来事ですが、何となく観察していたら面白い事に気付きました。何人かの人達で話をしていて、ひとりの人が不愉快な経験をしたことを話し始めました。はじめは皆がその人の出来事に耳を傾け、その人が自分の感情を表現することをシェアしていました。しばらくすると、2つの動きが見られました。その人に近づいていく動きと、そこから離れていく動きです。それを私なりに分析すると、その人の話に反応して、自分の物語を話し出す人達と、話は聞いているけれども、反応しない人達。反応している人達は、その人にどんどん近付いていきます。その動きに対して、反応しない人達はどんどん離れていきます。どちらの人達も善意から動いています。その人にとって最善と思う情報を与えています。こういった場面で、もしそのふたつの動きに気がついたら、人はその時点で選択肢を持っている、ということに気付きました。感情に反応し続けることを選ぶか、感情はそのままにして他の建設的な選択肢に気付くか。感情にふたをすることもできますね。ただの日常会話なのに、こういったささやかなことの連続が私の無意識の時間を占めているような気がします。私は情報に反応し続けて生きているのかもしれません。無意識に選び続けているちょっとした選択。善意からの情報たち。私は毎瞬選び続けているのですね。
2011年04月17日
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思いも描けなかったこのたびのひどい災害により、私の中でたくさんの価値観が変わったように思います。今私の中で、アレクサンダー・テクニークで伝えたいもの、あるいは自分で得た恩恵はなんだったのか、考え直している私がいます。それは以前と大した違いはないのですが、自分の中で形がどんどん変化して行くのを感じています。アレクサンダーで得た大きなものは何か?それは関係性の変化だと思います。ピアノとの関係性、まわりの人との関係性、すべてにおいて私がまわりとの関係性の中で存在していることに、少し気づきはじめました。それは自分が変わると全体が変わるということです。変わるものとは、自分のものの見方や捉え方のことでしょうか。アレクサンダーで頭と脊椎の関係が変わるとからだを含めた自分全体が変化することを経験しますが、自分と自分のまわりとの関係も同じではないかと思い始めました。そして逆も然りです。受けた刺激に対して、自分自身に無意識に変化が起こる。そして今、このたびの経験により自分自身のものの見方が変化しています。感じ方が以前とは違ってきています。今それを意識的にする作業が、自分の中で起こっていると思います。自分とは何か?それは自分の肉体や精神だけの問題ではないのかもしれません。まわりや環境を含めたものも自分の一部なのかもしれません。今回の経験を無駄にしたくない、そんな思いでいっぱいです。
2011年03月31日
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大変なことが起こりました。私は目黒のビルの10階で大地震に遭いました。食器の割れる音、物の落ちる音が聞こえ、尋常でない揺れを経験しました。でもその時に、まわりに何人かの人達がいて、それだけでもとても助かったと思います。皆で安全だと思われるところに移動し、お互いの確認をしていました。警察からの放送も聞こえ、建物の中にとどまり、外に出ないように呼びかけていました。その日は電車も止まり、私は帰宅できなくなりました。でもその時そばに仲間がいて、本当に良かった!情報を手に入れたり、片づけたり、家に泊めてもらったり、思いつくままに動いただけだったけど、仲間の存在に助けられました。そして出会う人出会う人にどれだけ助けられたか!不安で入った市民センターの喫茶店の人達、とにかく食事をしようと入ったイタリア料理のお店の人達、途中で出会った仲間、友人の奥様とお子さん。知っている人も、初めて出会う人も、出来る限り助け合っていました。私が強く感じたのは、人間が生きていくために必要なことは「助け合うこと」だと思ったことです。そしてそれをさっとできる人の多いこと!私の見えないところでは、原発の処理をしてくれている方たち、安全を調べてくれる人たち、誰もがどうしていいかわからないけれど、皆自分のできる事をして役に立ちたいと、たくさんの人が言っていました。今回気付いたのは、自分の無意識で「生きるためには勝ち抜かなけれえばならない」という観念があって、それに支配されていたことです。でも今回の経験で、もっと深いところではそんなことを自分がちっとも望んでいないことに気付きました。そして、自分の「恐怖」の正体はいったい何であろうかと考えました。死ぬことなのであろうか?死ぬとはどういうことなのでしょうか?私が怖れているのは、大好きな人達といっしょにいられなくなることだと思いました。地震がおきてまず最初に思ったのは、家族の安否、友人の安否です。死ぬというのは、この私の大好きな人達といっしょにいられなくなる事なんだなあ、と思いました。でも考えてみると、地震が起こらなくても、放射能が漏れなくても、遅かれ早かれ誰でもが自分の大好きな人達とお別れする時が来るのです。「生きる」ということは自分にとってどういう事なのでしょう?自分の経験すること全て、出会う人すべてが愛おしく思えます。いつだって先のことはわからないのです。たくさん愛して生きていたい、今そのように感じています。
2011年03月22日
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先日、リンクレーターのヴォイスワークの公開レッスンをしました。私はレッスン生のひとりとしての参加でした。ウォーミングアップの後、いつも通り各人のテキストワークになりました。私の持っていったものはシューマンのドイツ歌曲で、この曲はこれで三回目のレッスンになります。テキストワークは、自分が深く感動したテキストを各人が探して持って来るものです。私がこの曲を持っていったのは、感じているものを表現しきれていないもどかしさを、どうにかしたいと思っていたからです。この曲は恋に落ちたばかりの心情を表現したものですが、一回目のレッスンは、その心情の時に自分から出てくる感情とそれに伴う呼吸の変化に焦点を当て、呼吸の動きから感情が生き生きと流れ出し、恋した時の喜びと興奮が声に現れたような気がします。二回目のレッスンは、歌の中でさらにその心情が繊細に感じられ、創り出した世界の中で自分は自分の感情に正直でありました。公開レッスンが三回目のレッスンになりましたが、公開しただけあって、観客の中で歌うという、いつもとは違った環境に自分の中からいろいろな反応が出てきました。今回の実験は観客の方に手伝って頂いて、実際に目の前に大好きな人として立っていてもらい、伝えたい言葉を自分の言葉として声にしてみることを、先生から指示されました。私は贅沢にもプロの俳優のカズさんに手伝って頂き、先生が「もっと、もっと」と言う中で、カズさんに向かって言葉を出して行きました。その時に以外にも出てきた言葉が、「私を見て」とか「あなたが欲しい」とかではなく、「あなたがいてくれてうれしい」とか「あなたに会えてうれしい」とか、でした。それはカズさんが全てを受け入れるように、素敵に立ってくれていたからかもしれません。その後で歌った歌は、本当に自分の感情をシンプルに伝えた感覚でした。自分の感情が出てきて歌になったというより、感情よりも思いが明確になって、思いそのものが出てきた、という感覚でした。歌った感じさえしませんでした。これはアレクサンダーのレッスンで得る、より明確になる感覚と似ていました。素人の、ドイツ語などほとんどでたらめのドイツ歌曲なのですが、観客の方がその歌に共感してくれたと、感想を言って頂きました。3回のレッスンの中で、表現がどんどん変化してゆくのがとても面白かったです。表現の変化は実は結果で、そこに至る自分から出てくる感情の変化がありました。音楽を演奏する中で、同じ演奏は二度と出来ないことは知っているつもりでしたが、自分に変化が起こっている、そして感情も二度と同じ感情は出てこないのだ、と思いました。また、自分の深い思い、真実の思いに自分で気付かず、それを表現することが出来ないと、感情は繰り返してしまうかもしれない、とも思いました。まだ自分の中で整理できない体験でしたが、もっと「感情」、「思い」、「表現」って人間にとって何なのか知りたいなあと思いました
2011年03月06日
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ここ1週間くらい、強烈に思い出しているレッスンがあります。2年前のゴールデンウィーク合宿の、トミー・トンプソン先生のミニグループレッスンでのことです。なんとなく、自分の番が来ても質問が思いつかず(私にとってはすごく珍しいことです)、先生のお任せでお願いしてみたところ、「日本人は大変礼儀正しい人達で…」に始まり、「いつもお辞儀をしている」と言われ、何故かお辞儀のレッスンになりました。その時私にはあまり印象はなく、ああまたピアノの習慣が無意識に出ていたんだなあ(からだが常にお辞儀をしているような状態を無意識に、習慣的に作り出している、という意味)と思った程度で何気なく終わったのですが、今になってこの言葉がもっと深い意味で自分に響いて来ました。気になってきたのは、自分の、外側の世界に対する認識の仕方の習慣のような、無意識の反応のようなものの存在です。常に謝っていたり、常に謙遜していたり…。日本人的な反応なのかもしれないし、私の家族から伝わっているものかもしれませんが、その言葉を思い出すたびに、「お辞儀をしないで歩いてみよう。」とか、「お辞儀をしないでピアノを弾いてみよう。」と実験しています。実験してみて思うのは、世界と私が同じような大きさになったと感じることです。以前は、無意識だったけど、「大きな世界に対して小さい自分」という観念があったみたいです。自分は世界に対して小さく在らなければならない、と思って、その目で世界を見ていたような気がします。でも2年前のレッスンが今になって効いてくるなんて、人間の「記憶」とか「認識」って面白いなあと思います。アレクサンダー・テクニークをとおして、つくづく人間の大きさ、凄さを実感しています。
2011年02月27日
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アレクサンダー・テクニークと相性の良いと言われているヴィオスメソッド、リンクレーターメソッドを学び始めておよそ1年経ちました。海外ではリンクレーターメソッドをいっしょに手伝ってきたアレクサンダーの先生も多く、サラ・バーカー先生、キャシー・マデン先生がこのワークを詳しくご存じです。私がこのメソッドでとても面白いと思ったことは、もっとも原始的な人間の表現手段としての「声」というものに、人はいろいろな感情や観念を結びつけているのを知ったことです。感情というものは、刺激に対する心の反応である、と言っていたのは時々学校へ教えに来て下さるたけしさんだったでしょうか?そして「声」というものは自分の中の動きを、外の世界に向けて表現してゆくための手段だと思います。そして今まで私はどれだけの自分の「声」を殺してきたことだろう、とも思います。そんなことをわたしの身体は知っていて、私の「声」を創っているのかもしれません。レッスンの中で歌ったドイツリートが面白かったです。自分であれこれイメージして歌ったけれど満足がいかないでいた曲、先生の一言で視点をもっとこの歌から現れる感情に、そしてストレートに反応するからだの状態を作って歌った時、私の表現され切れていなかった感情が声と一緒に出てきました。私は身体でもあり、思考でもあり、感情を持ちます。私の中には経験してきたもの、感じてきたものなどの海が広がっています。そしてそれは彼にも彼女にも、あなたにもあって、共有することを望んでいると思うのです。それが表現することではないかしら?今の私の思いです。
2011年02月21日
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先日アイボディでお招きした、マティアス・アードリック先生の個人レッスンを受けてきました。「アイボディ」とは、かつて私達の学校、BodyChanceプロコースの前身のATA教師養成スクールでお招きした、ピーター・グルンワルド先生の主催する、目の使い方とアレクサンダー・テクニークを合体させて進めているようなワークで、書籍も出ています。私はピーター先生の合宿形式のワークショップに過去2回参加しているのですが、かなり前の参加で、4~5年ぶりのレッスンでした。マティアス先生は、ニュージーランドでピーター先生とともに教えていらっしゃり、かつオーケストラのコントラバス奏者だと聞いて、ぜひレッスンを受けてみたいと思い、申し込みました。今回も、2回目のワークショップ参加の時にも感じたのですが、このアイボディのレッスン、自分ではすっかり忘れてしまったような気がしていても、からだがすぐに思い出す、ということを体験しました。「見る」という行為は、もうほとんど無意識なので、レッスンを受けた後、気がつくと無意識の底に沈んでしまうのですが、何か神経のつながりがどこかに残っているようで、先生の言葉にからだが素早く反応しだすのが面白かったです。私にとって「見る」ということと「聴く」ということは、今までの音楽の経験から、すごく自分独自の働きを持っているようで、即時に反応、判断と結びついています。「見る」「聴く」とは、自分に来る情報をそのまま受け入れることであるとは思っていながら、待てないでいる自分に気がつきました。(前よりはだいぶましにはなったのですが。)まだまだ自分の演奏するピアノ、聴いていないのですね。楽譜を見る、指が動く、音が出る、音が聞こえる。また新しい探求が出来そうです。
2011年02月10日
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アフリカの太鼓、ジンべのレッスンを月1回くらいのスローなペースで受けて、1年が過ぎました。楽器を習うとは、やはりすごく楽しいことです。ピアノやフルートなど、音程のはっきりした楽器しか知らなかった私にとって、太鼓の音を聞き分けることは、なかなか難しいことです。先生の音が鳴っていて、自分の音は鳴っていないのはわかるけど、自分の出す雑音のどれが必要な音で、どれが必要でない音なのかさえわかりません。リズムも、習ったリズムを頭の中で西洋のリズム譜に自動的に置き換えて、置き換えたリズムのまま叩いてしまいます。まったく違う音楽なのに、西洋音楽のフィルターを通してでないと、理解できないような気がしてしまいます。すでに持っている知識と言うものは、手放すことは怖いことです。でもそれではいつまでたってもアフリカの音楽そのものに近づきません。新しいものが欲しいのに、古いものを通して理解しようとしてしまう…。まるでアレクサンダー・テクニークのレッスンで起こることのようです。でも時の経過は面白いもので、1年くらい経ってやっと音の違いに気付き始めました。音の違いって、音程だけじゃないのですね。音程って、ドレミファソラシドだけじゃないのですね。太鼓をたたくこととピアノを弾く事がかなり混ざってしまっていたことにも気づきました。指で楽器を触るのは一緒だけど、指とか手とかにピアノとは別の使い方があることにやっと気付いた次第です。(わかっていたけど、ちっともわかっていなかったのです。)私の知っている音楽って、本当に音楽の一面だったなあ、と思います。今迄とは違う角度から音楽を学んで、音楽の普遍的な部分に触れられたらいいなあと思います。
2011年02月02日
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先日プレイヤー&音楽教師のためのワークショップ第4回目を終えました。いつも二人で講師をしているのですが、今回は相棒の香苗さんがローザルイザのスイス合宿引率のため、講師は私ひとりで行いました。香苗さんといっしょにアレクサンダーの音楽ワークショップを始めてからいつも、ふたりの感想は「楽しかったね。」でした。やはり音楽の好きな方たちが集まってのワークショップなので、今までの経験、経験してきた世界での常識、いろいろな物事に対しての意見が出て、とても楽しいです。皆でお互いのパフォーマンスを良くするために意見を出し合ったり、グループがひとつになって動きだすので、とても素敵なことだと思います。楽器やジャンル、年齢や経験が違っていても、それぞれの目的が同じなので、それぞれが気持ちを理解しやすいのかもしれません。いろんな時代の自分自身が見えてきたりします。この経験は、私がいちばん勉強になっているかもしれません。先日のワークショップでとても印象に残った事がありました。緊張のあまり、客席にいる人を無視して(お客様から隠れるように)挨拶をし、演奏された方がいらっしゃいました。その時のお客さん役(他の参加者の方々)のがっかりした顔。演奏は素敵だったのに。考えてみれば、お客さんは楽しもうと思ってここにいるはず。実際私も怖さのあまり、同じようなことをした事があると思います。自分の創り出した恐怖が、自分が何をしたいのかを見えなくさせて、まったく期待していないような結果を招いている事にびっくりしました。何のために人前で演奏するのか。何のために音楽をするのか。いろいろなな発見がありますね。もちろんそれをやめたそのプレイヤーは、音も華麗になり、お客役の皆さんをたいへん喜ばせてくれました。
2011年01月17日
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デーヴィッド・ゴーマンというアレクサンダー・テクニークの素晴らしい先生が来日されたのは、2~3年前のことだったと思います。ゴーマン先生はアレクサンダーのメソッドを更に独自のものとして発展させ、ご自分のメソッドを「ラーニング・メソッド」と呼んでいる、とその時に聞いていました。最近ふとした会話から、アレクサンダー教師仲間の眠れる獅子K氏より、「彼(ゴーマン先生)がこのワークを『ラーニング・メソッド』と呼んでいるのは、このワークはものごとを学ぶ時に役立つメソッドだからです。」と聞き、目から鱗が落ちました。いつも私達の仲間内で、「アレクサンダー・テクニーク」という名前は、このワークとちっとも関係がないから、どんなものかは名前から推測できないよね。」とか、議論のもとでありました。本屋さんに行っても、どのカテゴリーで本を探したらいいかも分からず、レッスンの経験が増えていくうちに、ますます説明が難しくなり、頭の中で整理できずにいたのですが、ゴーマン先生の命名で、自分の言いたいことが少しはっきりしました。それにしても、これに気付くのに2~3年必要だったなんて!「からだの使い方」から始まり、「自己の使い方」に繋がってくるのですが、「自己」とは何であるか、ということが明確ではなく、それに気付いていくことがこのワークの面白みだと私は思っています。「ものごとを学ぶこと」と「自己の使い方」とが密接に繋がっていることに気がついた時、人は本当に学び始めるのだと思います。「学ぶこと」は楽しいことです!今年もたくさんの発見、気づきが見つかりますように!
2011年01月03日
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最近スピリチュアル系の本を読んでいまして、面白い事が書いてありました。「マインド」と「ハート」という言葉を使って「マインド」についての説明が書いてありました。アレクサンダー・テクニークのレッスンの中でも、「マインド」と「ボディ」とか、「マインド」についてはかなり語られていることですが、私は実はあまり「マインド」が何であるのか、あまり考えたことがないなあ、と思いました。その本の中で明解だったのが、「マインドとは、ハートで受け取ったことを理解するために分解したり分析したりする道具である」(あまりちゃんと覚えていないのですが、このような意味だったと思います。)「ハート」というのも私にとってはとても曖昧なもので、何の事だかわかるような、わからないような…。でも「ハートは直感で受け取る、自分で絶対にわかっていること。」という説明でした。そして、「マインドの暴走」という言葉がありました。マインドが分析したり、理由をいっぱいつけて、ハートで受け取ったものを分からなくしてしまう。これは実際に自分に良く起こることだなあと思います。起こった感情を分析したりしていくうちに、マインドが暴走して、不安が大きくなってしまったり、怒りに火がついたり、行き場のない気持ちになってしまうことがあります。そんなとき、からだは必ず緊張していますよね。反対にからだの緊張がなくなると、こだわっていたことが消えてしまうことがあります。マインドの暴走を止めるのに、からだはとても助けてくれると思います。「マインド」、「ボディ」、そして「ハート」を加えると、もしかしたらもう少し自分のことを理解できるかもしれません。「ハート」とは、「存在」のことなのかもしれません。
2010年12月23日
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音楽をずっと学んできた私にとって、音楽とアレクサンダー・テクニークを学ぶことはとてもよく似ているなあ、と思います。どちらも終着点がないところとか、目的地を自分で選ばなくてはならないところとか、自分で判断して進めていくしかないところ、掴みどころのないところが良く似ていると思うのです。何事もそうなのかもしれませんが。アレクサンダー・テクニークを使って、結果が変化することはかなり多いのですが、結果が目的ではないところが面白いところです。私は音楽大学に行ったので、受験したり、試験を受けたり、演奏が評価の対象であるために良い結果が欲しいと思っていました。良い結果とは何なのか、深く考えないで、良い結果を欲しがりました。「良い結果」とは「良い成績」の事だと思いました。「良い成績」を取るには、えらい人から認められる必要があります。人から認められるにはどうしたらいいのか、人に聞く必要があります。それを教えてくれるのは、「先生」でした。私はいつも他人の判断を目的地にしていました。自分で選ぶこと、自分の選択に責任を持つことから逃げていました。今私は自分の求めるものが何処にあるのかを知りません。ただアレクサンダー・テクニークを学んだことは、私が音楽と共にいることがどういうことであるか、人にとって音楽とはどういうものであるのか、深く考えるきっかけとなりました。今「過程」こそが「人生」ではないかなあ、と思っています。
2010年12月13日
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どこかの聖者のお話で覚えていることがあります。それは「怒り」「恨み」「批難」などを受けたらどうしたらいいのか、という質問に対して聖者が話したたとえ話。誰かがプレゼントを持ってきて、プレゼントを受け取ればそれは自分のものになる。でもそれを受け取らなければ、それは持ってきた人が持って帰ることになる。「怒り」「恨み」「批難」もプレゼントと同じである。いらなければ受け取らなければいい、と。これを読んだ時、「なるほどなあ」と思ったのですが、でも「怒り」などを受け取らないってどういうことだろう、と思っていました。だって目に入ってくるし、耳に聞こえてくるし、防ぎようがないじゃありませんか。いくら「貰わないぞ!」って決めたって、不快な思いは残ったまま。こういった自分にとって欲しくないものを受け取らないってどういうことなのでしょう?最近になって、それは「受け取った時の自分に起きる反応に気がつくこと」かもしれない、と思い始めました。自分の欲しくない情報を受け取った時、自分にすぐさま反応が起きて、それに対する感情が生まれます。その瞬間に立ち止まることができれば、どうしてそういった感情が自分に起こったのか、それは自分の中の何かを気づかせてくれるものかもしれません。あるいは全く理解できないものなら受け取る必要がないことに気づくかもしれません。自分に反応が起きた時、アレクサンダー・テクニークはとても役に立ちます。ちょっと自分自身を思い出すだけで、感情と自分は別のものであることを冷静に思い出せるのです。「アレクサンダーを学んで、生きることが楽になった。」という言葉をたくさん聞きますが、こういった選択が少しずつできるようになっていくからかもしれません。「自己のつかいかた」って奥が深いです。
2010年11月24日
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ヴィヴィアン・マッキー先生の来日で、たくさんのパフォーミングのレッスンを見る機会がありました。もちろん普段でも、アレクサンダー・テクニークのレッスンを通してたくさんのパフォーマンスのレッスンを見る機会はとても多いのですが、私は特にヴィヴィアン先生のレッスンがとても印象に残ります。パフォーマンスをするということは、いったいどういうことでしょうか?パフォーマンスを見るということは、人はいったい何を求めているのでしょうか?このあたりのことで自分自身を観察すると、とても面白いです。パフォーマンスをする側の私と、パフォーマンスを見る側の私にかなりのギャップがあります。本来パフォーマンスとは、プロでも素人でも、表現したい人が表現することだと思ってはいるものの、表現をする側になる時、私の中の批評家が猛威をふるい、それはそれは死刑台に向かう囚人のような気持ちになってしまいがちです。ところが見る側になると、ただただ共感や共鳴をしたいだけなのです。ヴィヴィアン先生のすごいなあと思うところは、パフォーマーの求めているイメージを、さらにもっと高みへと導くような指導をされることがあることです。楽しみ、愉しみ、喜び、歓び、悦び…。もちろんパフォーマー自身に準備ができていなければそれは起こるとは限りませんが…。自分の中から湧きあがってくるイメージが自分自身のからだを通して現れてくる表現。表現してゆくことがもっとその人自身のパワーを強くしてゆく。ああ、たくさんの芸術に接していたいですね。
2010年11月17日
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今、マリア・モンテッソーリという人の本を読んでいます。イタリア初の女性医師で精神科医だった人のようですが、彼女の始めた「モンテッソーリ教育」が感覚に基づく幼児教育であるというくらいの情報を聞いて、読み始めたところです。いろいろな意味で私にはちゃんとした理解はまだ遠いのですが、彼女の人間の成長を観察する力には驚いてしまいました。あるいは人間とはどういう特質のあるものなのか、何のために教育するのか、などの着眼点が大変面白いです。赤ん坊が生まれてから、自らの興味から動きが始まり、五感の発達、運動器官の発達、言葉の発達、知能の発達などに向かっていく、そんなことが書いてあったと思います。人間は自分自身の中に自分を育てる力を持っている、と。この最初の部分を読んだ時に、私は私達の学んでいるマージことマージョリー・バーストゥ流のアレクサンダー・テクニークを思い浮かべました。私達のレッスンはメニューが決まっていません。生徒さんが来たら、「今日は何をしますか?」というところからレッスンが始まります。自分の学びたいことを生徒さんが探さなければならないのです。自分が何を学びたいのか、何を知りたいのか、これを各自見つけることは大変な作業だと思います。自分が今現在どう生きていきたいのか、と同じような意味だと思うのです。この作業は、自分自身を強くしていく作業だと思います。そして自分の興味あることからレッスンを進めていくことは、自分自身としっかり繋がっていく作業だと思います。何気ない積み重ねですが、意外とこのようなことは今までやってきたことがありませんでした。興味があることはやってきたつもりだけど、どこかで「私だけ楽しんじゃって申し訳ないなあ。」なんて気分があったりしましたし。100%自分の興味を肯定するなんて!自分自身の興味について意識するということは、自分自身と向き合うことじゃないかと思います。あるいは身体の痛みに興味が言っている時は「今私はこうしていたくない。」という身体の声であったりします。自分自身の中の、自分を育てる力が、何か訴えてきているのかもしれません。
2010年10月23日
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図書館で何気なく取った熊谷守一氏の書の本。めくっているうちに魅せられて、借りてきました。今までそんなに「書」なんて興味を持ったことがないのに、自分でも不思議です。趣味の高い友人に付き合って、池袋の熊谷守一美術館に行ったのは数年前でした。その時も面白いな、とは思ってみていたものの、「書」も目にしていたものの、ほとんど覚えていませんでした。今回強く感じるのは、この人は本質を見てそれを書や絵にしたのだな、と思いました。誰でも芸術家はそうするのだと思うのですが、でもすごく感じるのは、「自分」というフィルターの透明さです。「雨」という書はまるで私が体験している「雨」がそのまま書になったようでした。「からす」は私が見た「からす」。すべての「字」には「命」がありました。ただの「字」なのに、そこから私達が自然の一部であること、永遠の時間の一部に今存在しているだけであること、を思い出させてくれます。もう一度「熊谷守一美術館」に行きたくなりました。
2010年10月13日
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夏にヴィヴィアン先生のところへレッスンに出かけ、アレクサンダーな日々を1週間送ったこともあって、脚(足)の感覚が前と比べて変化しました。変化したのは足だけではなく、もちろんアレクサンダーで言う、中心の脊椎と頭の関係だと思うのですが。こういった経験の後で、いつものバレエクラス初級のレッスンはとても興味深いです。何しろ同じ動きをしても、返ってくる感覚がまるで変わってしまうからです。ここで「この感覚はおかしいから、前の感覚でやろう。」と戻してしまうと、動きは以前の動きに戻ってしまいます。今まで持ったことのない、新しい感覚であればこそ、新しい動きを覚えたのだと思い、どの動きも新鮮に楽しむことができました。今回の感覚的なテイストは、自分の脚が思ったより長かったこと。もちろん残念なことに、脚そのものは長くはなっていませんが(笑)。脚(足をも含めて)の感覚が以前に比べてもっと明確になったのだと思います。ちょっと(かなり)うれしかったのが、アレクサンダー仲間のバレエの先生、南穂さんから「脚の形変わった?」って言ってもらったこと。脚の形にはかなりコンプレックスがあるので、これからの励みにしていきます!またからだの感覚が変わると、バレエの先生の指示がもっと繊細になって、レッスン自体もさらに楽しくなっています。(先生の教えてくれる繊細な指示を、感覚的にキャッチできるパーセンテージが上がって、自分的にはかなり嬉しい。)アレクサンダー・テクニークとダンス、このコンビネーションはかなりお勧めです!
2010年10月11日
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Eちゃんというピアノの生徒さんがいました。彼女は20歳になる前にあの世へ逝ってしまいました。彼女は15歳の時、脳腫瘍になりました。 Eちゃんは3人姉妹の真ん中の子で、私は3人にピアノを教えていました。Eちゃんは3人の中では一番まじめで、私のアドバイスもきちんと受け取ってくれ、ピアノの練習をちゃんとやってくる子でした。ちょっと心配だったのは、小学校の高学年になっても、中学生になっても、相変わらず天使のように素直だったことです。私の経験では、誰でも小学校4年生くらいからどんどん新しい感情が芽生え、それに伴い表情に暗さが加わり、皆大人っぽくなってゆくのですが、彼女にはそれが見られなかったのです。病気が発覚したのは、中学3年生になったばかりの頃でした。「勉強でもピアノでも、どの姉妹よりも毎日こつこつと努力していたあの子がなぜ?」お母様が泣きながら言っていました。彼女の腫瘍はとても難しいもので、それでも手術を繰り返し、良くなっていったのに、体力が続かなかったのか、何回目かの手術の後、誰よりも先に逝ってしまいました。学校で1番だった成績も、病気のために失ってしまいました。視力も以前のようには見えなくなってしまいました。彼女が高校時代に楽しんでいたのは大好きな書道と、ピアノを弾くことでした。ピアノも前のように覚えることができなくなっちゃったけど、弾けることを喜んでいました。前に弾いたショパンの7番のワルツをゆっくり楽しんでいました。彼女が亡くなったのは、歳の暮れでした。お母様から最後に彼女を見てやってほしい、彼女に私のピアノを聴かせてあげてほしい、と言われ、彼女に会いに行きました。彼女の練習していたピアノで、彼女の大好きだったショパンの7番のワルツを弾くと、お父様が号泣して「ああ、Eちゃんが弾いているみたいだ。」「Eちゃんのピアノと同じだ。」と繰り返しおっしゃっていました。「生きる」とはどういうことでしょうか?私達は何かを成し遂げるために生きているのでしょうか?その人がその人である、それ以上のことを、果たして私達は求めているのでしょうか?私が覚えているのは、Eちゃんが楽しみながらピアノのレッスンをしていたこと。楽しみながら勉強していたこと。楽しみながらいろいろな話をしてくれていたこと。私のイメージの中で、ショパンの7番のワルツはEちゃんの喜びで溢れています。暗い曲調にもかかわらずにね。きっと彼女は天使だったのでしょうね。「今のよろこびが大切」と。
2010年09月30日
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現在来日中のマリー・フランソワ先生は大変エレガントで、さすがフランス人!と言うべきか、とにかく自立していて、大変魅力的な人です。彼女のレッスンは、私達日本人にもっとも不足している「自立」ということを、さりげなく、授業を通して実践的に教えてくれます。「自立」とは一体どういうことでしょうか?一般的な「自立」とは、金銭的なイメージが強いような気がします。でも、マリー先生の言っていることはそんな表面的なことではないと思います。マリー先生は毎回「私のこの服は好きですか?」というような、簡単なイエス・ノーの質問を私達に与えます。そしてそれは完全に自由なイエス・ノーであるか、投げかけます。答えが重要ではありません。そんなシンプルな質問にさえ、その刺激によって自分の中にいろいろなものが浮かび上がってきます。相手の立場、自分がどう思われたいか、これからの関係、一瞬のうちにどれだけの思いが頭をかすめるのでしょうか。私はいったい何を望んで答えを出しているのでしょうか?社会的なもの、習慣的なもの、今まで因習的に教育されてきた価値観からどれだけ自由な選択ができているのでしょうか?あるいはまわりの人に対してどれだけ自由を与えられるのでしょうか?各人が自立した存在であるならば、私達はお互いに必要な時に協力することができます。でも、各人自立していなければ、それは「依存」になってしまう。ひとりでは身動きが難しくなってしまう。夫婦、家族、地域、私が日本の社会に対して居心地を悪く感じる時、このことを強く感じます。なぜお互いにまわりのことを考えながら行動しているのに息苦しくなってしまうのか。自分たちの無意識に創り出している牢獄に気がつく必要がありそうです。
2010年09月20日
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人は美しいものが大好きです。特に女性にとっては「美しいこと」を、何よりも大切に思う人は多いと思います。私は何をもって「美しい」と感じるのでしょうか?ある意味では教育などで受けた社会的なものかもしれないし、コマーシャルのような、大企業からの植えつけられたイメージがあるかもしれません。こういった人工的なものとは別に、私の奥底のほうで有無を言わさず「美」を感じるものがあります。川のせせらぎ、水の動き、波の動き、たくさんの花々、雲の流れ、そして人…。「美しいひと」は、顔がきれいだから「美しい」と感じるのでしょうか?「美しい音楽」は、音が「美しい」から「美しい」と感じるのでしょうか?アレクサンダー・テクニークを学び始めて、私はこの「美」に対する感覚が変化したなあと思います。私はレッスンの中でたくさんの人が自分の「いらないこと」(動作、考えなど)に気づいて手放してゆく姿を見てきました。自分の内面の闘いがなくなると、誰でもが内側から輝いてくるのが見えます。私はそれを、その人の本質が現れてきたのだなあ、と理解しています。もしかして「美しさ」とは、ものごとの本質なのかもしれません。
2010年09月15日
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私は5歳の時、交通事故に遭いました。不思議と事故の記憶はなく、目が覚めたら家で寝ていて、まわりにお母さんとお父さんとおばあちゃんが心配そうな顔をして見ていたことと、履いていたズボンがはさみで切られていて、自分の足に包帯が巻かれていたことくらいしか覚えていません。足の甲を車に轢かれたらしく、傷跡が残っています。先日母と話していて、ふと私の交通事故の話題になりました。母は私が交通事故の記憶がないことを知らなかったようです。また怪我が治るのに何カ月もかかり、母に抱かれて病院に行ったことも、自分が思うように歩けなかった記憶もありません。全く記憶がないので、どんな状態で事故に遭ったのか、足はどんな状況だったのか人ごとのように聞いていたのですが、自然と身体が動き、部屋から出てしまいました。話が聞けなくなっていて、自然とからだがその話から逃げ出したような感じです。よく人間には自分にとってあまりに辛いことを経験すると、無意識で記憶を消してしまうことがある、と本で読んだことがありますが、自分にもそんなことが起きていたんですね。自然と逃げ出しちゃったことは、まだ自分に思い出したことを受け入れる用意がなかったのでしょう。でも無意識でこういった本能があるということは、その記憶が私のどこかに存在するのだなあ、と思いました。どちらかというと、身体のほうが先に反応していたようです。でも人間ってうまくできていますね。この記憶があったら、私は怖くて外に出られなかったかもしれません。まともに歩いたり、走ったりできなかったかもしれません。すごいなあ、と思いながら、人間っていったい何だろう、って思います。身体って、記憶を貯蔵しているのかな?アレクサンダー・テクニークのレッスンで起こることと併せて考えてしまいます。
2010年09月06日
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友人達と話をしていて、気がついたことがありました。きっかけは私の前回のブログで、自分の中に明確な答えが出ていなかったので、言葉にまだなっていなかった部分の、具体的な説明をしたことでした。私は「やりたいこと」と「やるべきこと」のバランスをとることを考えていて、それを説明していくのに、自分の使っていた言葉が自分の考えに合っていないことに気がつきました。それは「やるべきこと」という言葉で、使っていてものすごく違和感を感じ、途中で使うのを止めました。何年間かのアレクサンダー・テクニークの訓練の中で、「やらなくちゃいけないことは何もない」という考え方に変化していた自分に気がついたのでした。1%でも、やりたいからやる。やりたくないのならやる必要はない。もちろんどちらかを選択するにあたって、その結果自分のまわりに起こることは引き受けなければなりません。あるいはそれを踏まえて選択できます。自分の人生に責任を持つ。周り(環境、人)のせいではなく、自分の意思で決める。このことはジェレミー・チャンス先生から学んだ、最大の贈り物かもしれません。知らず知らずのうちに、私の中で「やりたいこと」「やるべきこと」の葛藤の観念が、あるいは壁がなくなりつつあるのを感じました。先日来日していたキャシー先生の言葉、すべてをイエスにして動く。自分の中の戦いをやめていくこと。それに気づけば、人生の時間がスムーズに流れ出すかもしれません。私の欲しいもの、それは「質」の変化です。
2010年08月29日
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グラスゴーへ行ってきました。英語もたいしてできないのに、単身でヴィヴィアン・マッキー先生のところへ1週間くらい、レッスンに行ってきました。グループでの合宿は日程的に合わず、ただただ「会いたい。」「行きたい。」で決めてしまった旅行でしたが、後から考えれば私なりに見つけたいものがあったのだなあ、と思います。自分の中では考えたいことがまだ言葉にもなっていなかったのですが、すごく大きなくくりで言うと、「これからどうやって生きて(生活して)いこうかな?」ということです。グラスゴーでの生活は、とてもゆったりとしたものでした。アレクサンダーのレッスンを受けたり、ピアノを練習したり、食事を作ったり、庭を楽しんだり、合奏を楽しんだり、美術館に行ったり、自分のやりたいことを優先に動いていました。自分のエネルギーはすべて自分のやりたいことに使うことが出来ました。もちろん住んでいるわけではないので、お客様として味わっていたからかもしれませんが、それにしても日本での生活はいつも時間に追われていて、やりたいことをやる時にはエネルギーが足りなく、自分は何がやりたくてこういう生活を選んでいるのか、考えてしまいました。好きなことを仕事にしているので、仕事自体が楽しく、仕事を優先して生活を考えてしまいがちですが、もっと自分のやりたいことを中心に考えていいのではないか、と思いました。またヴィヴィアン先生にくっついていたおかげで、ヴィヴィアン先生がいろいろな形でまわりの人達(自分の生活から近い人も遠い人も)をサポートしているのを感じました。それは日常のちょっとした買い物だったり、会話だったりしましたが、何が大切であるのか、ということをすごく考えさせられました。それは自分自身を良くわかっている人の行動に思えました。私のこれからの目標は、引き続き「自分を知る」ことだと思いました。
2010年08月21日
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今、外では雨が降っています。私は雨の音が大好きで、雨がいろいろなところに当たって音を創り出しているのを聞いているのが好きです。雨の音を聞いていたら、6月のトミー・トンプソン先生のワークショップの始まる前、健太郎さんと歌ったことを思い出しました。健太郎さんはBodyChanceのオフィスの人で、ワークショップのために三線を持ってきていました。三線を弾いてくれとせがんだはずが、なぜか私も一緒に歌っていました。健太郎さんと歌っているのは本当に楽しくて、何が楽しいんだかわからないまま、ひたすら楽しい気持ちでいっぱいになりました。この嬉しくて楽しい感じは、以前にも経験したことがあるなあと思いました。思い出したのは、おばあちゃんと歌っていた、小さい頃の時のことです。私はおばあちゃんの歌に合わせて、全身で歌を聞いて、全身で歌っていて、おばあちゃんがやさしくそばにいてくれた、そんなことを思い出しました。全身で音楽を創り出すって、そういうことなのかもしれません。私はアコースティックな音が好きで、あまり電子音は好みません。テレビもラジオもCDも、実はあまり好きではありません。だからCDを聞いて覚えるより、楽譜を読んで音にするほうが好きなので、こういった感覚を遠い昔に経験していたことを、改めて思い出すとともに、おばあちゃんに深く感謝する気持ちでいっぱいになりました。安全な環境で、大好きな人の歌をただまねるだけ。シンプルですが、最高の癒しと音楽教育なのかもしれません。健太郎さんの、ただただ一緒にいてくれて歌ってくれる、そんな彼のやさしくて素朴な人柄と音楽が、思ってもいなかった自分の持っていた「豊かさ」に気づかせてくれました。
2010年07月29日
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キャシー・マデン先生の来日がひとまず終わりました。ひとまずというのは、キャシー先生はこれから大阪、オーストラリアと周り、また8月半ばに東京へ戻ってきてくれるからです。 入学した時から毎年受けて続けてきたキャシー先生のレッスン。問題点を述べて動きを見せると、キャシー先生のほんの一言で問題が解決してしまうのを毎回体験したり見たりしていて、その凄さを先輩方は「魔女」と呼んでおりました。キャシー先生は控えめでおとなしい方ですが、彼女の伝えてくれる情報は非常にシンプルでわかりやすく、なぜそのように伝えることができるのか、不思議でなりません。 私達が学んでいる、マージョリー・バーストー流のアレクサンダー・テクニークはグループで学ぶことを主体としていますが、このグループによる学びをひとりひとりがより学びやすいものにするために、先生方はグループの質感を高めるようにもっていきます。キャシー先生はたくさんの経験の違う人たちをいっせいに教えているのに対し、情報の量、情報の伝え方、情報の深さなどが絶妙なバランスでレッスンを進めていきます。 今回キャシー先生のレッスンの後で、別のエクササイズのワークショップに参加したのですが、そちらも大変楽しかったのですが、この質感を比べると、キャシー先生のクラスで得たものは、その場では理解できないものを含めて、とてつもないものだと改めて感じました。 知識というものは、現在の自分にとって必要な分だけ受け取れるものなので、ただやみくもに受け取れば良いのではなく、理解できるまでそのままにしておく必要のあるものもあります。キャシー先生のそのあたりの伝え方も、非常に絶妙だなあと思いました。 授業中に私の投げかけた漠然とした質問「いったい何を教えるのでしょうか?」に対して、キャシー先生はたくさんの引用文を用意してくれました。それはひとつのシンプルな答えではなく、常に自分が見つけていくもの、考えていくもの。その過程こそが大切なことだと思いました。 そしてレッスンの中で言った一言。「『勇気』の根底には『愛』があります。」 『生きる』ということを考えさせてくれる、素晴らしいレッスンでした。
2010年07月19日
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先日に大変興味深いことが起こりました。アレクサンダー仲間の一人が民謡を勉強しているのですが、先日その民謡のとてもすごい大家のレッスンを受けてきたそうです。すると今まで自分がアレクサンダーなどを使って学んできたことと全く逆のことを教わり、戸惑いながらもその新しいやり方に挑戦することにしたそうですが、そのことについて起こったこと、話し合ったことが大変面白いことでした。彼にとってその新しいやり方は、からだや耳の感覚的にもかなり違和感の感じるものだったようです。でも挑戦してみようと思ったということは、きっと何かを感じ取っていたのかもしれません。彼の唄は完全に前のものとは違っていました。新しい使い方に慣れていないせいで、たいへん疲れるようです。2つのフレーズを歌った彼はもうへとへとでしたが、以前にはないほど、彼の中から、あるいは彼の下の大地から彼を通してエネルギーが出ているような感じがしました。それは「唄」と言うよりも「声」、「声」と言うよりも「音」、そんな感じがしました。都会のビルの一室が、突然原生林の土臭い匂いでいっぱいになった気がしました。本当にすごい先生に教えてもらってきたのだなあ、この民謡はなんて奥深いものなのだろうか、と思いました。日本にはこういう素晴らしい文化があったことを改めて知りました。以前読んだ、中沢新一さんの「妖精の王」を思い出しました。私の知らない、日本の奥深い文化をもっと知りたくなりました。日本って思っているよりもっと凄いところなのかもしれません。またこの後、他の仲間のコメントで、「アレクサンダー・テクニークは決して楽に歌うためのものではなく、古代から伝わる文化の枠の中で表現を求める時、それに対して使うことができる。」という意見が出ました。私もそれには大賛成で、目的がはっきりしていればしているほど、アレクサンダーはその人の役に立つものになると思います。その目的に対して、最小限のエネルギーで最大の結果を求めていくのに良い道具だと思います。アレクサンダーを使えば、現在の自分のできることがもっと少ない努力とエネルギーでできるようになるし、更に効果的に作用するようになります。ただ、それば現在の自分の持っているものに対して使えるだけで、その先に行くためにはきちんと専門家の教えを請うべきであると思いました。自分の目的に合う良い先生を探す、もしくは自分の行く先を示してくれる師に出会う、それもきっと才能のひとつなのでしょう。芸術というものは、本当に奥が深いですね。
2010年07月07日
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