先日面白い体験をしました。
ある方と知り合ったのですが、その方は英語を専門的に学んでいらした方でした。
その方は、小さい頃から学校の先生に「相手に失礼だから、相手の目をきちんと見て話さなければいけません。」と言われ、外国で学んだ時も、相手の目を見て話すのがマナーだと知らされ、常に失礼にあたらないよう、相手の目を見て話すようにしてきたそうですが、ある時、習い事をしていた先生に、「あなたは私のことをじっと見て、失礼だ。」と言われる体験をして、憤慨していました。
私自身、小さい頃から「目を見て話しなさい。」と言われたので、とにかく相手の目を見なければいけないと思っていたので、どうしてその方は「失礼だ。」と言ったのか全く理解できなわけだったのですが、そばに座っていらした、小さい頃に戦前の教育を受けていらした紳士の方が、驚くことをおっしゃおました。
「私は戦前の教育を受けてきたのですが、小さい頃に教えられてきたことは、相手の目を見て話してはいけません、と言う事でしたよ。相手の目を見て話すと、自分の言いなりにさせるような、そういった力を出すから、相手に失礼だと言うんです。だから失礼のないようにいつも目をそらしていました。」とおっしゃいました。ついでに「戦争が終わって、まったく違う価値観を教えられたのです。」ともおっしゃいました。
そのお話を聞いて驚きましたが、でも自分でも何か納得したものがあります。
相手を見ないと失礼だと思う反面、じっと見ては失礼だとも感じる事があるからです。
アレクサンダーのレッスンの中でも、相手をじっと見る事に、多くの人が戸惑いを感じているのをよく目にします。
そして私が小さい頃から見てきた大人たちの中にも、同じものを見ていたことを思い出します。
今日合唱シニアの方々が集まったので、この話をしてみました。
戦後派は、当然のごとく「相手の目を見なさい」と習ってきたと言っていましたが、戦前の教育を受けた方がいらして、「私は相手の目をまっすぐに見たら失礼だ、と言われてきたんですよ。」とおっしゃいました。その方が語る時に、ちょっと視線をはずされたのですが、その仕草の美しかったこと...。浮世絵のようでした。
戦後シニアは、「そんな価値観があったなんて...。」とショックを受けていたようでした。
私達の長く続いてきた文化は、こっちの戦前の考え方なのでしょう。こっちの方が感覚に合うような気がします。私にとって、自分の中の闘いが少ない気がします。
そう言えば、おばあちゃんもそうでした。
私達の文化は、自分の主張をするものではなく、相手を尊重する文化なのだなあ、と思いました。
奥ゆかしい、繊細なものですね。
今でも私達日本人の多くの人達の魂に、細胞にこの感覚を持っているような気がします。
相手の目を見て話す、欧米の文化も、相手を尊重するための表現であると思いますが、目的は同じでも表現の仕方が違うのは、面白いですね。
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