甘夏蜜柑の枝の杖

甘夏蜜柑の枝の杖

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

mynagao

mynagao

コメント新着

ySuapO jioqzkz@ ySuapO <a href="http://jioqzkzvtyno.com/">jioqzkzvtyno</a>, [url=http://synfyjf ySuapO &lt;a href=&quot; <small> <a hr…
xxx@ Re:オスプレイ戦闘機反対派の意図(08/02) 凄いな!オスプレイ「戦闘機」。 ミグ31…
kimiki0593 @ 相互リンク 初めまして、人気サイトランキングです。 …
kimiki0593 @ 相互リンク 初めまして、人気サイトランキングです。 …
くーる31 @ 相互リンク 突然のコメント、失礼いたします。 私は…

フリーページ

2012年11月24日
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
ヨブ記第17章15節「どこになお、わたしの希望があるのか。誰が私に希望を見せてくれるのか。」 絞首刑の縄を首にまかれるサダムフセイン、銃殺隊の前に立たされたルーマニア大統領チャウシェスク、アウシュビッツでガス室まで裸で行進させられる囚人。ドストエフスキーも銃殺隊の前で同じ思いを抱いたであろう。明日25日は三島由紀夫の憂国忌である。神風特攻隊の勇士や三島のように進んで死地に赴いた人は絶望とは無縁である。大義のために進んで身命を投げ出したのである。アウシュビッツのコルベ神父の場合も然り。殉教者また然り。アラブの自爆テロのテロリストも絶望よりも憎悪というある種の情熱の故の行為であるかもしれない。ヨブの場合は全くの受け身であり被害者意識しかない。敗者もしくは圧倒されたもの隷属させられたものは絶望して死に慰めを見出す。コルベ神父の場合はイエスの十字架に近い。主のみ胸のままになさせたまえである。無神論であるが 禅の死ぬべき時は死ぬべしに通ずるものがある。ニーチェもツアラツストラで「此れが生なりしか、ならば今一度」とその永劫回帰の思想を語っている。ガス室に裸で行進させられる人生であっても 何べんでも引き受けようといううのである。それからすると キリスト教の救いはアヘン的に甘美であるかもしれない。汝は我とともにパラダイスにあるべしとの慰めが得られるからである。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2012年11月24日 16時05分57秒 コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: