■1962年(昭和37年)リーグ戦の開幕は、神宮の東映‐大毎3連戦に人気が集中した。その前年に東映入りしてすぐさま2位に躍進した監督 水原茂
が、榎本、山内、田宮、葛城の打線をしく大毎とどう戦うかが注目されたが、東映は大激戦の末に3連勝した。そして勢いに乗った東映はその後も快進撃を続け、とうとう初優勝を飾った。
■以下、大和球士さんの分析。『野球百年』(時事通信社)より。
「水原采配のうまさは、大物新人投手の尾崎行雄の起用の仕方によく表現された。浪華商業を中退した尾崎は稀にみる剛速球の持ち主であると同時にまだ恐ろしいもの知らずでもあった。この利点を買って思い切り投げてみろ、と指示したのが的中した」
とし、
そして 「東映の底を流れていたものは、水原さんの指示のままに働けば勝てる、という選手たちの監督への強い信頼感であり、いささか誇張すれば水原監督への信仰心でもあった」
と評す。
さらに、 「(これは)この2年前の大洋の三原監督と同じく、選手たちは監督の催眠術にかかっていたような心理状態であったことは確かだ」。
■嗚呼、ここでも出てくる水原茂と三原脩の接点ーーー。
しかし、大和さんは逆の視点から見た辛口批評も忘れていない。
「水原と三原は優勝の翌年はもう催眠術の魔力を失ってしまう点もよく似ている」
と。
その言葉どおり、水原東映は翌63年は3位に下降し、以降、水原が優勝の美酒を味わうことは一度もなかった。同様に三原大洋も優勝した翌61年はリーグ最下位になり、以降、一度も監督として優勝を経験することはなかった。
浪商を2年で中退、東映入りした新人・尾崎行雄投手は開幕早々から力投に次ぐ力投。ベテラン打者を手玉に取った。何度か両手をスイングさせ、打者をじらせる投法がヤリ玉にあがったのも「なんとか尾崎攻略を」というベテラン打者の強い突き上げがあったからともいえた。『激動の昭和スポーツ史』(ベースボール・マガジン社)より。
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