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4つのとげを持つバラ

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2007/03/31
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カテゴリ: 創作
小さな四角い窓から見える空。

小さな窓からしか外を眺めることができない人がいるとしたら、その人はいつもどんなことを思い、どんなことを夢に見るのだろうか。

もうその部屋から出ることもなくこのまま人生を送っていくのだとしたら、その人は何を求めて生きていくのだろうか。

その部屋からもう45年も出た事のない人がいた。
60歳、男性、慢性関節リウマチで床上生活。自分では寝返りすらできない状態。彼は療養型の病院でずっと暮らしている。
15歳の時に発症してから45年。60歳になる今まで外にでる事なく過ごしてきた。身よりはなく、ただ親の残してくれた遺産だけがたよりの身の上である。
彼の日常は病院のベッドで目を覚まし一日をここで過ごしあたりが暗くなり一日の終わりを告げるころ眠りにつく。
彼は頭を右に振った場面と左に振った場面しか見ることはできない。

彼はよく窓の方を見ている。
「何を見ているの」そう訊いても面倒くさそうにううんと首を振るだけで、答えはしなかった。

彼は、いつも諦めたような表情をしていた。
しかしその表情の中にはちらりと光る火花のようなものが感じられた。
命の迸りのような熱さを感じさせるような火花だった。

彼と出会ったのは、私がその病棟に配属されて1週間目の事だった。
彼は自分の人生について投げやりな言動を繰り返していたが医療従事者に対してはかなり厳しい意見を吐いた。
体の向きの変え方が乱暴だ、体もきちんと拭いてくれない…そんな不平から、スタッフがおざなりの言葉しかかけてくれない、気持ちがちっとも伝わらない…そんな寂しさも訴えたりした。
言葉が乱暴なのでスタッフの間では密かに嫌われていた。
「体を拭きに行ったら、もうあんたなんかこなくていい、そう言われて手を振り払われたのよ、サイテーよね。」
そんなスタッフの声も時折聞かれた。

何を言われても受け流すしかないよね、相手は病人だし、と考えながらドアをノックした。

コンコン。

扉の向こうから返事をする声が聞こえた。
私は思いきってドアを開けた。
中にはいると黒目がちの丸顔の中年男性がベッドに横たわっていた。

そう挨拶をすると男性は私の顔をちらっと見ながら吐き捨てるように言った。
「また新人か、やだなぁ。またむちゃくちゃされそうだ」

これが初めての挨拶だった。私はむっとしながらも心のなかで「病人病人」とこっそりと呟いていた。
なんて失礼な人なんだろうと密かに苦手な気持ちを抱いたが黙っていた。
初対面の印象はお互い最悪だった。

しかし次第に話をするうちに乱暴な言葉の中に見え隠れする子供のような無邪気さが伝わってくるのが感じられた。
人に気持ちを伝えるのに抵抗がある。
人と話をしたいのに素直に話すことができずにいる。
それは、好きな女の子をからかってしまう少年を彷彿させるかのようだった。
そう・・彼はいろんな思いを伝えたいのだがなかなかうまく伝えることができずにいる。
彼にとって外とは、四角く切り取られた空が見える窓と無機質な部屋のドアの向こうでしかないのだ。
彼は40年間寝たままでただ訪れる人を待つだけの生活を送っていたのだ。
自分からは追いかける事もできず、ひたすらされるがまま、言われるがままの生活を送らざるをえなかった状況。
彼は訪れる人に対してどういう思いを抱いていたのだろう。何を望んでいたのだろう。
私には彼の思いが遠くにあるようでなかなか掴み切れずにいた。
難しい。
そう思った。

彼と知り合いだして半年くらい経ったころだろうか。
彼一流の毒舌も彼なりの親近感の裏返しであるという事、彼の「出ていけー」と拒否して怒鳴る声も実は恐る恐るで「何を言ってるの」と軽くたしなめられたがっている事の裏返しであるというに気がつきだしてから私は、彼とのつきあいに気負いがなくなったような気がした。

言葉の裏にある哀しみ。
言葉の裏にある寂しさ。
うわべだけの言葉からは決して伺うことのできない人間的に素直な感情が彼の表情の一部に見えたような気がする。

彼は子供なんだ。
彼は大人の姿をした子供なんだ。
そう思うようになった。


ある日彼は「なぁ、杏樹さん?酔うってどんなことなんや?」と不思議そうに訊いた。
私は「お酒を飲んだ事がなかったんやねぇ。酔っぱらったら、なんともいえないいい気持ちになるよ」と言った。
彼は「いいなぁ」とぽつりと言った。
彼は窓の外を眺めながら「いい気持ちになったら、いやなことも忘れられるんやろなぁ」と言った。
私は「ねぇ?今いやなことがあるの?」と訊いた。
彼はううんと首を振りながら「いや、特にない」と言ってまた思い直したかのように言った。
「僕はいつもいやな夢を見ているような気がする。醒めない夢。一生ここに縛り付けられているという夢。こんな悪夢を見ながら一生を終わってしまうのか。」
私は返す言葉を失った。
彼はさらに続けた。「酔っぱらったら夢から醒める事ができるのかなぁ。少しでも悪夢を見ているという今を忘れる事ができるのかなぁ。」
彼は私に言った。
「一度だけ酔ってみたいんだ。ねぇ、お願いだから一度だけ僕を酔わせて…」


翌日私は部屋に入り彼に目配せをした。
「いいもの持ってきたよ~なんだと思う?」
そう言いながら私は白衣のポケットから小さな缶ビールをとりだした。
彼は「あっ!」と小さく呟きにっこりと笑った。
「杏樹さん。」
私たちは秘密の隠れ家にいるような気分になった。
誰かが入ってきたら怒られるよねと話しながらくすくす笑った。
「これは絶対秘密だからね!」
約束げんまんをして私は缶ビールにストローを差し彼の口許に持っていった。
小さな缶…125ミリリットル。
彼は少し顔をしかめながら飲み干した。「どう?」
いたずらっぽく笑う私に彼は言った。
「なんだかふわぁっとしてきたよ。」
私は気分が悪くなったのではないかと心配になり彼の顔を覗きこんだ。
彼は笑った。
「ありがとう、なんだか嬉しいよ」
今まで見たことのないとびっきりの笑顔だった。
私もつられて笑った。

彼の体はほとんど自分で動かすことができなかった。
肘は拘縮しほとんど曲がった状態から動かずまっすぐに伸びなかった。
彼の日常はテレビとたまに入ってくる訪問者との会話で占められていた。
便意を感じてもそれを自分で処理することはできない。
当然ナースコールを押して知らせるのだが、来る人によっては「またか・・」というような顔をしながら面倒くさそうにおむつ交換をする人もいるらしかった。
「何回も呼ばないでよね、オムツだから後でちゃんと替えにくるんだから」
そんなことをいう人もいるんだと彼は寂しそうに笑った。
「人生そんなものさ」
そういいながら今にも泣き出しそうな表情を浮かべている彼を見ているのは辛かった。
彼のいつも遠くにある視線の行方が少し私にも見えたような気がした。
しかし何の慰めの言葉も彼にとっては気休めとか嘘にしか聞こえないという気がして私は何にもいえなかった。
「まぁ、しゃーないことなんかなぁ。」
そういうしかなかった。


そんなやり取りをしていて彼と何だかもっと話がしたいと思った時のこと。

私は彼の部屋を訪れた時彼が泣いているのを発見した。
一人で静かに泣いている・・。
布団だけが小刻みに揺れている。
音もなく身じろぎもせず、ただ声を殺して泣いている・・。
暫くして彼の大きな体はふぅっと力が抜けたように静かに動かなくなった。
何か、魂のようなものが抜けていったような、そんな感じだった。
そんな姿に私は声をかける事ができずにいてドアをそっとまた閉じた。
何か悲しいことがあったのだろうか。
彼はドアに背を向けて頭は窓のほうを向いていた。
彼の姿はシルエットのようになって布団の形だけが妙に私の脳裏に焼きついていた。
どうして泣いていたんだろう・・。
そんな疑問が私の心の中で渦巻いていた。


数日して私は彼の部屋で検温をしていた。
すると彼は小声で私を呼んだ。
「杏樹さん?」
どうしたのと私は彼に訊いた。
「便が出てしまったみたいなんだ。」
そう彼は恥ずかしげに言った。
「ん。分かった。いいよ。お湯を持ってきて洗おうか。」
私は彼に言いながらお湯の準備をした。
「便なんて毎日出なきゃいいのに」
そう悔しそうに言う彼に私は言った。
「何言ってるの。毎日出さなきゃだめよ、生きているんだもの、仕方のないことよ。こんなことで遠慮しないでよ・・あ・・でも気を遣っちゃうよねぇ。」
私は便をふき取り、お湯でお尻を洗おうとした。
お湯をかけてそっと洗い流す。
ふと目に入ったものに私は軽く息を呑んだ。
見る間に中央に存在するものが硬く大きくなっていたのだった。
私は知らない振りをして、あまり触れないようにお湯だけをかけるようにした。
「もういいよ・・。」
弱々しげに呟く彼に私は無言で簡素に作業を続ける。
内心私も早く終わらせたかった。
このままではまずいことになるのでは、そう思った。
そうこうしているうちに突然彼は叫んだ。

「あ!い、痛い!お、おしっこがもれる!」

そう叫んだ瞬間彼の顔は真っ赤になった。
「あ・・だめだ・・。」
するとその瞬間大きく屹立したものの先から白く透明な涙がでた。
「う・・」
大きな吐息の後に彼の肩が小刻みに揺れる。
彼はうわごとのように「おしっこが・・」と繰り返し叫んでいた。
私は何も言わず涙をティッシュでふき取った。
彼も無言になる・・。
なぜだか数日前に眺めていたかれの布団の丸い山の揺れ方を思い出した。
ひっそりと、しかし小刻みに揺れている・・。
あれは・・。



私は黙って部屋を後にした。
少し頭が混乱していたのかもしれない。
あれはきっと・・・。
衝撃的だった。
慣れていなかった・・といい訳したくはないがしかし驚いた。
変な話これまで彼に「男性」をほとんど感じなかったというのもあったからかもしれない。
私にとって男性でも女性でもない性を超越したかのような人間であったのだから。

私は自分の心の動揺が抑えきれなかった。
今見た自分の中の映像が繰り返し脳裏を掠める。
真っ赤な彼の顔。
「痛い・・」そう叫んだ彼の声。
彼が涙を流した後の萎えていく様子。

「ねぇ、聞いて・・。」
私は思わず同僚に今しがたの光景を話したのだった。


翌日出勤すると同僚がニヤニヤしながら私の傍に来た。
「おはよう。昨日は災難だったね。ちゃんと言っておいてやったよ、変なことを考えてやらないでやってくれってね。」
そういって同僚は私の肩をたたいた。
私はその言葉を聞いた瞬間目の前がすーっと暗くなっていくのを感じた。
あの話を彼女は彼にしてしまったんだ・・。
私は気持ちが深く落ち込んでしまうのをどうすることもできなかった。
彼は知ってしまったのだ、あの場面でのことを他人に喋ってしまったということを。
迂闊に他人に話してしまった自分の浅はかさを呪った。
彼の信頼を踏みにじったかのような自責の念にかられた。
彼の寂しそうな表情が浮かんできた。
申し訳ない・・心が痛んだ。








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Last updated  2007/04/01 07:52:29 AM
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