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そうか、日記を書かなくなってもう3年も経つんだ。いろいろあって私は今ひとりで暮らしています。あれほど人を頼ってばかりいた私が自立してキャリアウーマンしてます。一人でmortgage払って、singleでTaxして。。。 あれよあれよというまの世界不況とか、自分の健康への不安とかいろいろ心配もあるけど、それでも日本に帰りたいと思わない。いままで私の人生なんとかなってきたし、これからも大丈夫みたいな自信がこころの底にあるみたい。普段はワークホリックしてたまにデートして、10年後の私も同じことしてるのかな。。。。
March 1, 2009
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明日から一週間のハワイアンバケーション。ここ二ヶ月ほど、ワークホリックと言っていいほど働いてきた。会社がそれほどのハードワークを要求するわけじゃないが、根が几帳面なためだとおもう。仕事が遅いのを英語のせいにしたくたいためもあって、つい無理をしてしまう。そんな毎日の中にぽっかりあいたような開店休業みたいな10日間、さっそくバケーションをとった。ハワイは私がまだ日本に住んでいた頃に一度行ったことがある。当時でもアジア人の多いリゾートだった。今はもうほとんど東洋系ばかり、白人はマイノリティと聞いたが、本当だろうか。あのころつきあっていた人がいた。彼が持っていたビーチの見えるコンドミニアムで一週間すごした事がある。プロポーズされたこともあったが、ちょっと年上で当時の私にはちょっと考えられなかった。あれから四分の一世紀たった今でもたまに考えることもある。あの人と結婚してたら私の人生どうなっていたろうと。今みたいにお金のために働くことはなかっただろう。家庭的で慎重な人で、たぶん私は昔風の主婦になって彼にすべてを頼って生きて行ったような気がする。別に後悔とかじゃないが。。。あちら側の私を想像するのはちょっと楽しい。その思い出の土地に向けて25年ぶり、明日出発。
May 20, 2006
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子供の頃からシンデレラの話が好きだった。すこし大きくなったら少女マンガとハーレクイン風のサスペンスに夢中になった。いつだって王子様がさらってくれるのを夢見てきた。そんな風だから私はずっと専業主婦を希望してきた。結婚後は仕事をするかもしれないが、それは趣味の延長。本気でキャリアを望んだことはなかった。稼ぐことは男に任せて女は家を守るみたいな、お互い分担を決めて協力しあってお城を築いていくのが結婚だと思っていた。。。むろん今の私はすこし違ったふうに考えるようになっているが、キャリアにものすごく生きがいを感じるというタイプでないのはあいもかわらずだ。職場では思いやりがあって尊敬もできる人たちにかこまれている。待遇に不満があるわけでもない。仕事はしんどいがやりがいがあるものが多い。ただ私もやっぱり疲れてきているのだと思う。私の周りにいる同年代の日本人女性から時々聞かされてきたことだが。早くリタイアしてのんびり暮らしたい、最近切実に思うようになってきた。
February 11, 2006
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1年前までの私は太っていた。アメリカ人の医者からダイエッットを薦められるくらいだから、半端な太り方じゃないことはわかってもらえるだろう。はたちの頃に1週間で6キロ痩せたことがある。なにも細くなろうと思ってやったことではないが、1週間ほどほとんど眠らないことがあって、気がついたらやせていた。激やせはしわの原因と聞いたがそんなことは全然なかった。これがあるから少々の贅肉くらいいつだって落とせると思ってきた。そして10数年たち、気がついたらその何倍もの脂肪を溜め込んでいた。一年ほど前、ついに医者から体重を落とすように言われた。以前日記にも書いたコレステロールの他にも、不摂生のために私の血糖値はかなり上がってきていた。普通の人と糖尿病患者の境目、このままいけばあと半年か一年でタイプB患者。あせった私は即栄養士のカウンセリングをうけてダイエット開始。前なら見向きもしなかったヘルシーフードで、量もほんのちょぴり。なにしろ場合が場合なのであまり贅沢もいえないし、なれればさほど苦痛ということもなくなっていった。月平均5ポンド確実に落として6ヵ月後に30ポンド(15キロくらい?)の減量に成功。まずは、アメリカ人の医者からみた健康な体重ということになった。むろん若い頃に比べればまだまだ太っているわけだが、それでも多少のおしゃれができるようになった。 半年前のその日ちょっとお洒落なレストランに予約を入れ、私は久しぶりのドレスアップ。普段ノーメイクでめったにじっくり自分の顔を見ることのない私がアイシャドーをいれようとしたとき初めて気がついた。目の周りの小じわとゆるみ、すごい衝撃。次の日にはエステの予約を入れた。それからの数ヶ月間、結構なお金を投資してのコラーゲントリートメントを続けた。エステの人はいろいろ気休めを言ってはくれたが、できてしまったシワは元に戻らないとしばらくして気がついた。たかが皮ひとつといえ私にはいまだにショック。ひとつの時代が終わってしまった気がしていまだに立ち直れない。たしかに血糖値もコレステロールも下がってまったく平常。体も軽く毎日気分もいい。今ではほどほどの不摂生もできるようになった。このダイエットは私にはぜったい必要だった。そうは思うが。。。最近ボトックスを入れたという知り合いの話がやたら気になったりする。他の整形にくらべずっと安いらしいし。。。 いま迷っている。
February 5, 2006
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日記を書かなくなって1年くらいになる。表向きには一年前とあまり変わりのない生活を続けているがこの一年は私にとってアップダウンの多い年だった。一番の違いは、40代から50代に入ったことである。40代の終わりまで私は病気知らずできた。それが50代に入っていきなりインフルエンザをこじらせて肺炎、同時期に貧血からくる呼吸困難のとなる。生まれて初めてのERと入院。退院後の自宅療養も含めて1ヶ月も仕事を休むことになった。大学卒業以来、いつもひとつきくらいゆっくりしたいと思っていた。でも病気じゃ休んでもゆっくりできない、ぜんぜんだめ。おまけにその間の収入は激減、やっぱり稼ぐに追いつく貧乏はないと納得したり。追い討ちは病院、クリニックなどの費用。2泊3日ステイした病院からの請求書には1万4千ドルとあった。幸いにも保険会社がほどんど払ってくれて、わたしの分担は六百ドルほどでホッ。自宅療養、クリニックなどの請求書はまだ受け取っていないが、安くないことは想像がつく。支払いに苦労することはあったが、私はアメリカの医療システムがずっと好きだった。でもこの先、好きでいられるか自信はない。自分が健康なうちは問題ないが、この先年をとって病気になったりすれば保険の掛け金は確実に上がる。私の場合、一番安くあげる方法は職場を通じてグループ保険に入ることだ。これは政府の老人保健が使えるようになる60代中ごろまで健康保険のある会社で働き続けることを意味する。。。まだまだ先は長い、ひどく重く感じるのは病み上がりのディプレッションだけのため?私は長い間、あとさき考えることなくフワフワ生きてきた。そんなぜいたくができた理由のひとつは私が健康だったからと思う。痛みといえば二日酔いからくる頭痛くらい。医者にかかるのは、年一度の定期健診と、たまたま風邪をこじらせたときに抗生物質の処方箋をだしてもらうときくらい。真剣にのぞめばなんだって手に入ると信じていた。なにがあっても自分ひとり養っていくくらいなんでもないことだと思っていた。どうにもならかくなったらその時は、死んでしまえばいいくらいに思っていた。病気をしてすこし現実が見えてきたのかもしれない。生きていくのって、もっと根性のいることかもしれないって。。。
January 29, 2006
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すこし高台にあるうちの裏庭は、このあたり一の広さを持つ牧場に面している。夏の夕方に、椅子を持ち出し馬でも眺めながら飲むビールは最高である。その牧場が数ヶ月前に売れたようだ。今手続きの最中らしいが、いずれ分割されて住宅街になるのは間違いない。数年もすれば、私は隣の家の壁を眺めながらビールを飲むことになる。どうりでご近所さん、いっせいに家を売りに出したわけだ。アメリカの家は大きいというが、最近の家、とくに郊外の建売にはあてはまらない。敷地いっぱいに建てられた家の前後にちょっぴりの庭というのが多くなってきて、うちもそうだ。数日前、私がガーデンショップで衝動買いした桃やなしの苗木がガレージにある。さてそれをどこに植えるかダンナが悩んでいる。庭はもういっぱいで、この上はいっそ芝生をめくってしまうか。。。そんな私たちでも昔、大きな家にすんだことがある。たっぷりスペースを取った3ベッドルームにオフィスのついた家、すぐ隣にはゲストハウス代わりの2ベッドルームのトレーラーハウスまである。庭はさらに広い。私は当時庭弄りを趣味にしていたが、今のように場所に困ったことはない。なにしろ家の裏は見渡す限りうちの庭みたいなものだったから。羨ましがってはいけない。ここはとんでもない所だったのだ。確かに見渡す限りなにもない。実際にはうちの土地は数エーカーだけだが、うちの家の裏から地平線の果てまで延々と砂漠が続く。見渡す限りうちの庭みたいなものというのは本当だ。当時、私たちは人口数百人のムラに住んでいた。一番近いスーパーまで、フリーウエイをとばして40分、人口5000人ほどの町まで週一で通ったものだ。醤油くらいはなんとかそこで手に入ったが、それ以上の日本食品となるとさらに北に向かって3時間以上高速を飛ばすことになる。80年代のことで、インターネットなどというものはなくて、なにか日本語の読み物が欲しいとなれば千マイルも離れた日系書店からのメールオーダーしかない。そんな土地で暇を持て余した私は、ちょっちゅう庭を弄っていた。場所はいくらでもあるが、なにしろ土が悪い。ひどく乾燥していて、よほど手をかけない限り育たない。裏庭を少し掘れば20世紀はじめの新聞がうまっていたりするが、雨の少ないその土地ではそれがちゃんと読めたりする。家は大きいが古い。暖炉一つとっても、最近のものならガスで、スイッチ一つでON/OFFできたりする。その家にあったのは当然昔ながらのまきを放り込むやつ。暖炉を使うたびに家具が黒ずんでくる。その薪一つとっても、実は私が夏に電動のこぎりで小さく切って家の横に並べたものだ。日本人の友達でも近所にいればそれなりに過ごせたかもしれない。でも実際には東洋人どころか外国人もいない場所である。実際そのあたりで非白人に出会ったことがない。よほど珍しかったのか、いつもジロジロ見られて嫌な思いもしたし、アメリカに来て最初で最後、日本人に対する差別用語を平気で口にする人に出会ったりした。当時私はダンナの仕事の都合でそこに住んだ。英語も満足にできず車も運転できなかった私は、数ヶ月でノイローゼ寸前になった。そのムラが大嫌いで、それは今だって変わらない。もしダンナが仕事でもう一度そこに住むといえば、私はいってらっしゃいと送り出す。絶対についてはいかない。あの家での悲惨な暮らしに比べ、ここはもう天国みたいなもの。たとえ家のサイズが何分の一であってもそれは関係ない。裏の牧場がなくなり家が建てられ、バックヤードからはフェンスしか見えなくなって。。。それでも私はこの家の方がはるかに好きだ。
March 28, 2005
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久しぶりに母校に寄ってみた。フリーウエイで片道2時間ちょっと。ぶらりと寄ってみるという距離でもなく、一年ぶりくらい。旦那と喧嘩して、ちょっとした気分転換にと車に飛び乗り、どんどん南へ進む。私の卒業した学校は、だだっぴろい野原にかこまれた、ほとんど大学だけでなりたっている小さな町にある。そんな田舎にもかかわらず、世界各国からの留学生も多く、外国人の私にはとても住みやすいところだった。私のメジャーにも日本人の先生がいたが、その日不在だった。私が昔お世話になったマイノリティのグループの先生には会うことができた。その先生には今の会社に入るときにリファレンスになってもらった。大学時代のインターンのときもそうだ。大学以外でほとんどただ一つの地元企業、シリコンバレーに本社のあるその会社で私はしばらくプログラマーをした。インターンのオファーをうけた数日前に、旦那が取引先からいきなり契約を切られ収入がゼロになってしまった。貯金なんてほとんどなくて呆然としていた時に降って沸いたようなジョブオファー。一流企業だけあって、たとえインターンのサラリーでも当時の私にはちょっとした大金。私たちはそれでしばらく食いつなぐ事ができた。あの当時わずかな物も二人で分け合って、貧乏もそう悪いものじゃないと思った。卒業して5年。まだまだ昔夢見た生活には遠い。それでもやはり二人ともフルタイムで働いているので多少の余裕もできてくる。余分のお金は二人のものでなく、私のもの彼のものになってくる。彼が私に断りなく買った車が今日の喧嘩の原因だ。それ以外にも最近後味の悪いケンカがふえてきて、なんだかちょっと疲れている。そんなときぶらりと寄ってみた、学生時代に住んだ町。堪らなく懐かしい。
February 6, 2005
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私は若い頃からわりと不摂生な生活を続けてきた。深酒もしたし、長い間、一日一箱半のタバコを欠かさなかった。いつも青い顔をして、しみひとつなかった肌もがさがさ。さすがに10数年前にタバコは止めた。今では、アルコールと言えば、週一のビール小瓶2本程度で、人は変わるものである。変わらないものもある。たとえば、食生活がそうである。私は子供の頃から、思いっきりくどくて油っこいものが大好きだった。いまでも朝っぱらから、山盛りのカレーとかチャーハンが食べられる。あっさりした和食よりは、たっぷり油を使った中華とか、バター、クリームやチーズを使ったフランス料理に目がない。それでもダンナと私の二人分の料理を作っていた頃は、少しは健康も考えて新鮮な野菜もいっぱい使ったもいた。事情が変わったのは、ダンナが健康上の理由から、かなり節制を必要とする食事療法を始めてから。アトキンズダイエットに近いかもしれないが、栄養を正確に計る必要から、彼は自分の料理を自分で作るようになる。ほんのちょっぴりの肉か魚に山盛りの野菜。穀物なし。砂糖、油、塩分もほとんどゼロで各種ハーブで味付け。私も彼の手料理を味見したが、はっきり言ってぜんぜん物足りない。けっきょく私は、自分で自分の分だけ作ることになったが、これでは腕のふるいようもない。忙しいという口実で、私の食生活は外食、お持ち帰り、冷凍とインスタント食品に頼ることが多くなっていった。そういう私の平均的な一日の食事は。。。朝はスターバックスのコーヒーと、デリーで買ったハムチーズ入りのクロワッサン。昼は近くのレストラン。その日の気分によって食べるものも変わる。夜は持ち帰り、冷凍食品もしくはインスタント中心。ここで特に強調したいのは、昼のランチタイム。ダウンタウンで働く利点の一つはレストランの種類と数にある。職場から南へ歩いて5分でチャイナタウンの入り口。西へ歩けばちょっとおしゃれなエリアでおしゃれな店がいっぱい並ぶ。東にはちょっと格式ある高級な店が多い。北側にはチープなお持ち帰り用の店や屋台が多い。アメリカだからアメリカ料理ばかりということはぜんぜんない。ここでは世界中の料理がその国の料理人によって作られる。競争率の高いダウンタウンだからどこもけっこう美味しいし、ランチタイムだからとてもリーゾナブル。私は長い間、自分の趣味嗜好に100%従って、好きなものを好きなだけ食べると言う天国みたいな生活を送ってきた。それが一変に変わったのは数日前。医者から、コレストロールが『Very High』だと言われてしまった。下げるために薬を飲まなきゃいけない。栄養士のカウンセリングの予約も入れさせられた。運動も始めなきゃいけないし、すこし体重を落とす必要もある。とりあえずもらった食生活に関する注意書きには、わたしの好きな食品のほとんどのが食べてはいけないもののリストに入っている。コレストロールが『High』だとは以前から言われていたが、あんまり気にもとめていなかった。ここ2年ほどチェックアップをサボっている間にずいぶん上がってしまった。このままほおっておけばハートアタックとかストロークの可能性が非常にたかくなるそうだ。。。私の年になると、そろそろ自分の生き方がもろに自分に返ってくるようになる。自由を謳歌したヒッピー生活者も、冬は寒さがこたえるようになる。不摂生な生活をすれば、からだのあちこちにガタがくるようになる。絵に描いたような健康生活者の母が私の年で癌の宣告をうけ手術をうけている。今までの不摂生を考えれば、コレストロールですんだのは幸運と言わなければいけないのかもしれない。物は考えようかも。でも、ああ、くやしい。ダウンタウンでのランチタイム。中華やケイジャン料理を思いっきりほおばる人たちを横目に、私はサラダかサンドイッチ。
November 26, 2004
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アメリカの小都市の外れに住む私は、毎日特急バスで川一つ越えた、このあたりで一番大きな町にある職場に通う。オフィスのあるビルは、その町のダウンタウンのほとんど真ん中にある。その一角は、一流ホテルとか銀行、証券会社などがあって、日本のオフィス街とさほど変わらない雰囲気がある。それでもほんの数ブロック離れると、そこはもう典型的なアメリカのダウンタウン。美しく飾られたブティックやレストランの前にあふれるホームレスの群れ。ティーンエージャーから老人までの、ありとあらゆるタイプの浮浪者が道の端にすわったり寝転んだり。一人ぼっちの人もいれば、夫婦恋人同士の者、数人のグループ、動物連れも多い。全財産をショッピングカートで運ぶ者もいれば、近くのシェルターから『通勤』してるのか、身軽ななりの人も多い。酔っ払いとか、薬のためかぼんやり焦点の定まらない目をした人たちも多い。彼らは通りがかりの人に、Spare some change ... と小銭をねだる。もう何年もこのエリアで働いてきた私には、見慣れた風景である。危険でもあるし、たいていの場合それでお財布を出すことはない。私は出来るだけ姿勢よく、見ない振りをしてどんどん歩いていく。そんな私でも、やっぱり素通り出来ない時がある。めったに見ないが、そのホームレスが、若くないアジア系の、特に女性の場合である。訛りのある英語でchangeをねだられたとき。。。私は金縛りにあったように動けなくなってしまう。日本にいれば、自分とホームレスとの間の接点など考えられない。ところがアメリカでは、私にも一つ間違えたら彼女にようになったかもしれないときがあった。昔、別居してた時で、仕事と仕事を取り巻く人間関係で上手くいかなくて、ひどい不眠症になったことがある。経済的にもまったく自由がないときで、とくに頼れる人もいなくて、たった一人、まだ私にとって『外国』だったアメリカで立ち往生しかけた。もうどうなってもいいような倦怠感で、目が覚めて一日、ベッドから起き上がるのも面倒におもえる毎日。あのまま起き上がらなかったら、わたしも彼女たちのようになっていたかもしれない。故郷に留まっていれば、たぶんこんなこととは一生無縁な人生を送っていっただろう。箸の上げ下げにもうるさく言われる封建的な田舎で、私は人に指図されるままに生きていただろうから。遠く離れたここでは、私はじぶんの思うままに生きられる。同棲しようが結婚しようが、離婚しようが再婚しようが、私が望めばそのままできてしまう。そしてそうして自分で選んで手に入れた人生は自分で責任を取るしかない。私はいまだに与えられた自由を持て余しているようなところがある。いまだにアメリカの自由に慣れていないような気がする。街角でアジア人女性のホームレスを見るとき、私は眩暈がするような重さを感じてしまう。
October 25, 2004
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私はあんまり幸福じゃない子供時代をすごした。アメリカに来て何回か受けたカウンセリングで、忘れてしまうことが一番だと言われた。忘れたい私が、忘れたい思い出のある場所へ行きたいとは思わない。もし私が普通の家庭に育ったら、アメリカに来なかっただろう。来ても、アメリカ人と結婚しなかったろう。結婚しても、ちょっとしたつまずきで、日本に帰っただろう。結婚し続けても、老後は日本に住みたいと思うだろう。アメリカに住みたかったと言うより、自分の育った田舎から出来るだけ離れたかったのだと思う。カナダであろうがイギリスであろうが、外国人がそれなりに住みやすそうにみえる国ならどこでもよかったような気がする。住んでみてから、アメリカが好きになったのは本当だが。多くのアメリカに住む日本人が日本だけをみてアメリカで暮らす。何人かの日本人の知り合いは、年に一度の里帰りを楽しみにバケーションをためこんでいる。同じくらいたまったバケーションを私はアメリカ国内での旅行に使う。私が日本へ帰るのは、どうしても外せない事情がある場合だけ。。。日本が嫌いな訳じゃない。実際、私がOL時代住んだ町は大好きだった。そこでの友達は20年以上たっても、連絡をとっている。嫌いなのは、私が育った田舎での子供時代、そして思い出。そんなことが、日本に行くことすら億劫にしてしまう。たぶん、もうすこし私が大人になったら行けるかもしれない。京都への一人旅とか温泉巡りとか。。。 そんなことが、なんのこだわりもなく出来る日が来るといいと思う。
October 10, 2004
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911以来、空港のセキュリティがぐんと厳しくなったようだ。80代半ばの旦那のお母さんが、X線チェックで靴まで脱がされたと文句を言っているのを聞いたこともある。だから自分が旅行などで、ゲイトに入る時は持ち物に注意する。爪きりとか、ペーパーナイフはなどは持ち歩かない。数週間前のことである。私は日本からのお客さまをエアポートに送っていった。旅慣れず、英語がまったく話せない方なので、セキュリティを越して、搭乗口まだついてきて欲しいといわれた。以前人を見送ったときは、エアラインの係員から一時的なパスをもらってゲートに入ることが出来たので、今回も大丈夫だろうと思い安請け合いした。で、お客様がエアラインのカウンターで搭乗券を受け取る時、私はパスを発行して欲しいと係員の頼んだ。返事はOK、IDを見せるように言われた。そこで免許証を出そうとしてお財布を開けると、どういうぐあいか中に入っていたレシート類がパラパラと床に落ちる。拾おうとしたら、今度は名詞が10枚ほどさらに落ちる。それでもなんとかもとに戻して免許証を見せたが、受け取るときに今度はそれを床に落とす。これが原因かもしれない。係員が急にパスは発行できないといいだした。さっきまでOKと言ってたのに、なんで?と聞いてもダメの一点張り。腹が立つが、これ以上話しても無駄なようで諦める。どうしようかと思ってX線チェックの外でうろうろしていると、なんてラッキー。たまたまばったり遭った昔からの知り合いにお客様を搭乗口まで送ってもらうことが出来た。飛行機が離陸するのを確認してからエアポートをでる。その間、エアラインの係員のことを思い出してはムカムカする。その日の夜、自分のかばんの中身をチェックしてて、ちょっとドキッとする事があった。私は普段、もしものためにペッパースプレイを持ち歩く。普段使う機会もなく自分でも忘れるくらいだが、いつもかばんの奥に入れてある。むろんこれはゲート内に持ち込めないものだと知っているから、飛行機で旅行する時は家に置いてでる。その日は、スプレイをかばんに入れたままにしてあった。もし私があのままテンポラリーのパスをもらっていたら。。。でもまあ、悪気はなかったのだし。。。ペッパースプレイは没収かもしれないが、パスがあることだしX線は通してくれるだろう。上手くいけば、お客様をお見送りした後で、ゲートから出る時に返してもらえるかも。。。などと考えていた。そのことを聞いた旦那は大声で私をどなりつける。なに考えてんだ!と。みんなの前で手錠をかけられて警察行きだという。一緒にいたお客様の前で、大恥かいて。今頃、旦那は私を貰い受けに警察に出向いているだろうなどと脅す。旦那はなんでも大げさに言う癖があるので、私はいつも割引して聞く。それでも911以来、空港のセキュリティが厳しくなったと今、彼の話は妙に説得力がある。 これって本当だろうか。もしそうなら、私はパスをもらえなくて本当にラッキーだったと言えるが。。。
September 18, 2004
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スプリンクラーの水で、裏庭の芝はぬれている。ちょっと前まで、思いっきりその上を歩き回った家のワンコ、今は家の中を駆け回っている。タオルで足をふいたが、そんなの焼け石に水。シミだらけのうちのカーペットが、元は白っぽいベージュだったなんて、ちょっと信じられない。日本的な基準から言えば、私の掃除はかなりザツだ。旦那も似たようなものである。二人とも少々の汚れは気にしない。カーペットはそろそろクリーニングが必要だと思うが、そのまま何ヶ月もほおってある。キッチンのストーブトップは油っぽいし、たぶん冷蔵庫の底には、忘れられれて干からびた野菜がいくつかころがっているだろう。普段なら、ザツな私たちは気にもとめない。急に気になりだしたのは家にお客があるから。たいていの場合は、旦那関係(親戚、友人)で、彼らもたいてい私たちとあんまり変わらない人たちなので、キッチンとトイレ、ゲストルームを軽く掃除して終わり。私の、それも日本からのお客さんだったりすると、ちょっと違う。家中を引っかきまわす大騒ぎになる。いくら私たちでも、人の家に行ってキッチンとかトイレが極端に汚れているのを見るのはいい気分じゃない。きれい好きの人から見れば、私たちの家なんてゴミ箱にみえるかもしれない。来週、日本からのお客さんがある。それも、とびっきりきれい好きな人たち。。。そんな人たちが、私のおかずの食べ残しを、お皿ごと床に置いて犬にやっているとこみたらいやな顔するだろうな。人間のお皿を犬が使うことに、旦那は何のこだわりもない。どうせdishwasherで洗えば同じこと。。。と言われて育っている。私もそれで納得している。日本人だったらたぶんやらない事をいくつか私は平気でする。たとえば洗濯は色で分ける。白いゾーキンと白いキッチンタオルは一緒に洗う。ブリーチで熱湯消毒するから、清潔だと思ってる。そんな私の掃除はきれい好きな、特に日本人から見たら、アラだらけだと思う。そういうわけで、今日は日本からのお客のための大掃除。ついでに長いこと当たり前だと思ってたことも再点検。たとえば家は犬がいるから、私たちは気がつかなくてもにおいがするかもしれない。におい消しをまいておいた方がいいかも。ほんとに面倒くさい。これをやるのが一向に苦でない場合もある。たとえば、母とか昔からのベストフレンドのためだとか。時間の無駄としか思えない場合もある。本当は断りたいがそれができない知り合いとか、ふだん付き合いのない親戚がホテル代と食事代節約のために家に泊まる場合。。。そして今週の土日、そんなつまんない事のために、せっかくの休みが消えた。
August 30, 2004
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数日前、会社の近くで大学時代のクラスメート、Nに遭った。彼はストレートAのDepartment一番の優秀な学生だった。たまたま私の当時の日本人の友達が彼のガールフレンドだったということもあって、私もいろいろ彼には助けてもらった。話しているうちに、当時のクラスメートや教授の話題で盛り上がったりして、楽しかった。毎日勉強に明け暮れた学生時代も、過ぎてしまえば懐かしい。私はWindows 95が出てしばらくした、90年代半ば過ぎくらいにCSメジャーを決心した。もちろん私は決して理数系の人間じゃない。でもアメリカに来て以来、不本意な仕事を繰り返してきた私は、安定した仕事につきたかった。それゆえ当時一番人気の学部だったCSを選んだ。私もNもハイテクバブルのはじけるちょっと前に卒業した。ほとんどのクラスメートが卒業までに、平均2つくらいのジョブオファーがある中、私はアプライしたどの会社でも面接で落とされている。理由はわかっている。私の英語力である。どこか子供っぽく聞こえてしまう訛りの強い英語。とてもプロフェッショナルな世界では通用しない。昔は、アメリカにすんでいれば自然に英語が出来るようになるものだと思っていた。とんでもない! それが出来るのは子供だけ。たしかに日常会話程度なら毎日の生活の中で、なにもしなくてもそれなりに上達するだろう。テレビのソープとかプロのアナウンサーの英語なら大筋で解るようになる。でもテンポの速いコメディー映画など、結局俳優の動きで想像してストーリーを追うことが多い。高校や大学くらいでアメリカに留学して来た人たちなら別だが、私のようにずっと後で英語の勉強を始めたものにとって、英語の上達はとても時間がかかる。大学に入る前、私は英語力不足で仕事探しに苦労した。まさか卒業しても同じ理由で苦労するとは予想もしていなかった。やっぱり大学院まで行かなきゃいけないのかなと思っていたところへ来たのは、短期のコントラクターの仕事。OSの知識プラス日本語が読めること(書けなくていい)が条件だった。私の勉強してきたこととはほんの少しエリアが違ってくる。とはいえ、べつにそれが不満と言うことはない。私はさっそく働き始めた。そうこうするうちに、ハイテクバブルの崩壊。私の同級生の多くが失業、レイオフの波をもろにかぶる中、私は幸運にもそれ以来ずっと同じラインの仕事を続けている。卒業後何年もたっている。アメリカ人ばかりのco-worker、とうぜん一日中英語ばかりの環境。さすがにこれだけ経てば英語は上達しただろうって?あいも変わらずである。読む方は多少遅いが、まあなんとかなる。書くほうも、相手にちゃんと分からせる程度の物は書ける。お世辞にもProfessionalとは言えないが。話す方はやっぱりダメ。それに訛る。ディスカッション、プレゼンテーションなどではとてもついていけない。聞き取りもちょっと怪しい時がある。それでもなんとか私に仕事が勤まっているのは、会社の仕事でのコミュニケーションは、私にとって比較的楽な読み書きに重点が置かれていることが一つ。さらに、私に『日本語が読める』という『特殊技術』があるから多少の英語の失敗は許してもらえるようなところもある(と思う)。さんざん今まで言葉で苦労して、はじめてまともに日英バイリンガルが役にたっているといえる。そんなことから、何人かのアメリカ人の知り合いから言われたことがある。日本語が出来て羨ましいと。そうかな。。。たしかに今は役にたっている。でもアメリカで働くということを考えたら、日本語ができることなんかより、英語ができないことの方が私には大きな問題だ。英語のために私は考えるのもいやになるほど多くのチャンスを逃してきた。今だって、下手な英語で人の何倍もかけてテストプラン書いたり、山とあるテクニカルドキュメント読んだり。。。 きちんと話せないとか聞き取れないために回りの人にも迷惑をかけ続けている。これだけ苦労しているから、多少は前よりは進歩していると思うが、やっぱり私のは外人の英語である。まだまだ遠い。
August 22, 2004
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911以来、グリーンカードの手続きがやたらに面倒になったと聞いた。昔ならすんなりいった事でも、最近のイミグレーションの審査は以前の何倍もの時間と手間を必要とするとか。昔、トラブッた私の場合、今だったらいったいどうなっていたかと考えると、ちょっとヒヤリ。私は若い時、アメリカに旅行者として滞在した時にビザを切らしたことがある。切らしたというと、うっかりミスにも聞こえるが、実のところ私はそれでは通らない位の期間、ビザなしでアメリカに住んだ。もぐりで働くとかはしなかったので、みつからなかったが、これはむろん違法滞在である。ばれていたら、とうぜん強制送還。パスポートが切れるほんの数ヶ月前にアメリカを出たが、その時ロスのエアポートではっきり言われた。当分アメリカに再入国できないよと。。。そんな私が、一年もしないうちにアメリカに再入国できたのは、日本でアメリカ人と結婚したからである。いくら昔の話でも、記録は残っているはずで、私に対するイミグレーションの心証がいいわけない。グリーンカード目当てで結婚したと思われてもしかたない。実のところ、アメリカにいる間、ずっと一緒に住んでいたのは今の旦那で、そのあいだ、特別に変わった生活をしていたわけでもない。あとで旦那が日本に来て、日本で結婚して、日本でビザの申請をして。。。そんなすごい話でもない(と思う)。むろん移民局の人たちはもっと想像力を使っただろうが。。テンポラリーのグリーンカードは再入国後、すぐ渡された。問題は、二年目の審査の時だった。イミグレーションは私たちの結婚が偽装じゃないかと疑ってきた。あとで知ったこと事であるが、私たちが疑われたのにはもう一つ理由がある。当時、私たちが何一つ法的に共有と言える物をもっていなかった。銀行の口座も車も、税金までも別。これは典型的な偽装結婚の兆候の一つであるそうだ。そして私たちは、まるで映画のグリーンカードのように、移民局で別々の部屋に呼ばれ、同じ質問を別々にされた。もうずいぶん昔になるが、今でも覚えているのは、家の間取りに関するテスト。これは正しく答えられた。旦那の歯磨きチューブの種類は分からなかった。いつも旦那が自分で買っているので、今でも知らない。結局審査はパスして、グリーンカードをもらったが、今のような時代だったらどうなっていただろう。結婚後の再入国だってすんなりいかなかったろうし、最初のテンポラリーのグリーンカードだって何倍もの手間がかかってたんじゃないかしら。二年目の審査はどうなっていただろう。。。あれに懲りて、今私たちの持ち物はすべて共同名義。私の車、彼の車、私の口座、彼の口座、家。。。 みな夫婦連名となっている。そして私のアメリカ不法滞在。。。遠い遠い昔、フラフラとアメリカにやって来て、そのままいついて、ビザ切らして。。。 不法滞在だから、何かあってもアメリカの法律は私を守ってくれなかっただろう。でも当時の私は、それがどういうことかちっともわかっていなかった。考えてもみなかったのが本当のところである。年とともに、コンサバ化した今のわたしでは、ちょっと考えられない頃の昔ばなし。。。
August 8, 2004
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土日も含めての9連休のバケーション、あっけないもので今日が最終日。日本で評判になったという『冬のソナタ』も20話全部見たし、推理小説も三冊読んだし、そうそうラスベガスにも行ってきた。もともとは旦那と海に行くつもりで取ったお休み。休暇に入ってからいきなり忙しくて行けないとか言い出して。。。 ムカついてベガスに行ってショウでも見ようと思って、インターネットでホテルとエアチケットのパックを探してみたら、直前でもけっこう安めのがあった。二泊三日でホテル代と往復のチケット代(片道2時間ちょっとの距離、ノンストップの昼間のチケット!)、空港からホテルまでのシャトルバス代、税金含めて300ドルくらい。夏場でなかったらもっとお徳なのもあったと思うが、この季節、前日の予約にしては安い。たまには旦那にお留守番してもらって、一人で行くってのも悪くない。ちょうど出発前この辺一帯、華氏で100度(37-38Cくらい)以上にもなっていたが、ベガスについたら108度。摂氏で何度になるか、考えるだけで頭がクラクラする。たった2泊のステイなので、さっそく着いたその日にショウを。。。と思ったが、見たいと思うものがホテルの近くにない。ホテルはstripのはずれ。このエリアは安全で、夜歩きに問題はないが、暑い暑い。あんまり外に出たくない。それで、泊まっているホテルでSplash(三度目!)をみた。おなじショウでも前と少し変わって、ライオンが出たり、あいも変わらずドハデなオートバイ乗りや、フィギアスケート、ちょっとセクシーではらはらさせてくれて、やっぱりよかった。ベガスのショウはもちろんいいが、やっぱり目的はもう一つある。ひさびさ、本場でのギャンブル。ちょっぴりの予算でもやっぱり雰囲気がちがう。結局、いつもやるのはスロット関係。技術もなにも関係なく、ただ運だけのゲーム。中でも、kenoなどの、確立は悪いが、あたれば大きいといったゲーム。一回25セントの投資で6スポットをねらって、始めてから1時間ほどでちょっとツイてきて、25セントから50セントに変えたところで6アウト6を当てて800ドルの儲け。これはものすごく運がいい。昔と違って、kenoのゲームのスピードを早くしてあるマシンが多い。50セントから25セントに変えてしばらくゲームを続けたが、全然ダメ。場所を変えて、もう一度6アウト6で、さらに400ドルの儲け。すこし使って、それでも1100ドルの現金が手元に残る。もっと遊んでみたい気もするがここでやめ。これで旅行代は無料の上、秋に旦那と二人でもう一度遊びにこれる。こんなラッキーはめったにない。あとはカップとかキーホルダーなんかのおみやげを買ったりして、2泊3日のベガス旅行はおしまい。そして今日は9連休のバーケーションの最後の日。1100ドルはいまだに手付かず。とってもいい気分で明日から仕事に戻れそう。
August 2, 2004
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私たちは、1年半前にコッカスパニエル犬をシェルターから引き取った。初めから、昔の犬と同じ『雌のコッカスパニエル』にこだわっていたので、引き取る犬探しは困難をきわめた。探し始めて一ヶ月目、ようやくインターネットを使って見つけた犬は、うちからフリーウエイで1時間半、岩山と砂漠に囲まれた町にいた。ある動物愛護協会のボランティアの運営するシェルターから連絡をうけ、私たちはさっそく犬を見に行った。その犬は。。。年齢不詳、若くないことは確かで、その種の犬としてはかなり大柄の38ポンド。係りの人から教えられたその犬の保護のいきさつは次の通り。ひどく冷え込む1月の中ごろ、地元のカップルが山道をドライブしていると、目の前を一匹の小動物が横切った。一瞬のことで、子鹿かと思って、車から出て周りを確かめているところへ、その動物が車の中へ飛び込んできた。それは、汚れ放題の毛ぼうぼう、怪我もしているひどい状態の犬だった。そのカップルは一週間ほど自宅でめんどうをみてから、その犬を地元のシェルターへ連れてきた。すぐその犬は一人の親切なボランティアの家に引き取られた。怪我の手当てをしてる間に、その犬の飼い主をさがしたが、それは無駄に終わった。そういった場合シェルターでは、その犬にトレーニングなどを施して、新しい引き取り手に渡せる状態にする。生まれつきの野良犬ではなく、その犬のしつけに時間はかからなかった。準備完了で、ボランティアたちはインターネットで引き取り手募集の宣伝を始めた。私たちは運良く、ちょうどその翌日にアドをみつけた。私たちはひと目でその犬が気に入ってしまった。10年ほど前に亡くなった、私のかわいがっていた前の犬にそっくりだということもあるが。私たちはその犬をべティさんと名づけた。べティさんはびっくりするくらいお行儀のいい犬で、ほえることはめったになく、床にステーキ肉を置いても、私たちが許可を与えるまでぜったい手をつけない。これなら人前に出して大丈夫。さっそく近所にお披露目。。。というところで、問題がおこる。それまで気がつがなかったが、このべティさん、ものすごく嫉妬深い。私か旦那が隣の家の犬の頭でもなでようものなら、ふだん静かなのが一変、すごい勢いでその犬におそいかかっていく。相手が自分の何倍もあるジャーマンシェパードにさえも。三軒となりの可愛い韓国系のアメリカ人の女の子は、以前小さなプードルを連れれうちの前を散歩してたが、似たようなことがあって、今ではうちを避けて、逆方向へいく。そんなことが重なって、私たちはもう犬を表通りにだせない。近所の人から、すっかり粗暴な犬と思われてしまった、うちのワンコ、でも人間にはびっくりするくらい従順である。たとえ相手が幼い子供でも。。。 冬山で助けを求めて車に飛び込んでくるくらいで、人間にはぜったいの信頼を寄せている。ところが、相手が動物となると、とたんに闘争心に燃える。あとで聞いた話では、里親(ボランティア)の元でも、他の犬の食べ物まで独り占めして絶対渡さなかったとか。冬の岩山の町で野良犬として生き延びてきたことを考えれば、無理ないとおもうが。。。いまもカウチで寝そべっているうちのべティさん。一週間前に二度目の乳癌の摘出手術をうけて、まだ完全に回復していない。その平和な寝顔を見て、いろいろ想像してみたりする。いったい私たちの知らないどんな過去を背負って、うちにたどりついたのだろうと。
July 20, 2004
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私は学生ローンを使って大学へいった。若いクラスメートの中には4年制の大学を卒業するまでに、5万ドルもの借金をする人もいたが、私は自分の年齢のことも考えて、出来るだけ自分たちのお金でまかなうようにした。そして私は1万ドルの借金をした。少し、リッチな熟年旅行でもすれば簡単に消えてしまう額だが、生活費を払った後で、それだけのお金を貯めようと思うとそんなに簡単でもない。私が最初のフルタイムの仕事を見つけたのは卒業5ヶ月後。学生ローンには半年のグレースピリオドがあって、それまで支払いは待ってもらえ、私はぎりぎりでローン返済を始めた。月額150ドル。それがむこうから送られた請求額。夫婦二人ともフルで働いていたのでさほど気にも留めず、払い始めた。同時に旦那の新しい車を買ったり、旅行もよく行った。学生時代出来なかったちょっとした贅沢、たとえばたまに一流の日本食レストランでお寿司を食べることも始めた。二年半くらいローンを払ったある日、旦那が聞いた。学生ローンはいつまで払うんだと。さあ、そう言えば何時までなのかしら。一年に一度、明細が送られてくるけどチラッと眺めただけ。政府のローンだからあんまり阿漕なことはしないと思うけど。。。旦那の目が点になる。学生時代、10セント20セントのキューポンにも目を光らせてた私がなんてうかつ。平和ボケして2年半も銀行の口座から自動引き落としにまかせ、自分では借金の残高も知らない。。。結局大急ぎで調べた結果、ローンは30年払い、元金の何倍ものInterestを払うことになる。2年半払っても借金はほとんど減らず、元のまま残っている。30年という長い年月、二人とも働いていれば150ドルの支払いに困ることは無いと思う。でも、もし私が失業でもしたら、たかがなどと笑っていられない。うちには家のローンもあるし、車だって数年で乗りつぶしている。自分の年齢を考えたら、これから15年も働けたらラッキーな方だろう。結局旦那と話し合って、私は家計にまわす金額を減らし、余分にローンを支払っていくことにした。そして、一年半。私の給料の手取りから相当な金額がローンの支払いに消えていった。今月の支払額はすでに私の口座にある。そして来月の8月でほとんど払い終わる。残りの100ドルちょっとを9月に払って、私の借金は完済。ここで、リッチに記念の海外旅行とでもいきたいが、すでに次の支払いが待っている。私の車!マイレッジはすでにトータルで145000マイルちょっと。この暑いのにエアコンが壊れた。エンジンとトランスミションの状態がとてもいいので、もう少しだましだまし使って、その間に学生ローンにあてたお金と同額を貯金して次の車を買うしかない。ああ、ほんとうに追いかけっこ。いったい何時になったら、"たかがお金"と、鷹揚に笑って暮らせるのだろう。
July 12, 2004
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毎年、独立記念日近くの夕方ともなると、ご近所の各種グループ主催の打ち上げ花火が始まる。9時ごろから始まって、やっと暗くなる10時近くなると、一本100ドル以上もする大型の花火を打ち上げる人もいる。中でも一番の見ものは、市が主催する大型花火大会。私が住むのはアメリカの中都市のさらに郊外の町で、それでも一応City。そんな町のどこにそんなお金があるのか、その花火大会は近辺の州も含めてあたり一番の大掛かりのもので、去年も6万人が繰り出している。打ち上げの場所は、2つの州をへだてる川の船の上からで、車でわずか15分の距離だが、さすがに家からではあまりよく見えない。みんな、早くからブランケットや椅子を持ち出して場所を確保して花火大会に備える。私も以前は、朝からテントをはって一日がかりで場所とりをしたことがある。あるときは、無人の駐車場にもぐりこみ、そこから見たこともある。でも私たちももうさすがにめんどうで、ここ数年はもっとお手軽な隣町の花火を野原から見たり。。。さすがにそれは寂しい。今年はちょっとリッチに、川に面して、打ち上げ場所のまん前にあるホテルを予約した。旦那が一ヶ月前に予約を入れたが、すでにもうちょっと遅かったらしい。バルコニーが川に面した部屋はすべて完売、フリーウエイ側のへやがやっと取れた。それでも、泊り客にはホテルが特別に用意した場所からからゆっくり花火見物ができる。いろいろ催しもあって楽しみ。唯一つの気がかりは、家の犬。実のところ、今まで泊まりの旅行はいつも犬を連れて行ったが、やっと取れた部屋はノーペット。犬を動物専用ホテルに預けるという手もあるが、家の犬は他の動物がいると落ち着かない。ま、わずか15分の距離である。花火の後旦那が、ちょっと様子を見に家に戻れば大丈夫だろう。。。(Before)******************************(After)花火観賞の場所は文句の言いようの無いほどに完璧。川に面したリセプションルームの裏のベランダから花火を見ることができた。目の前は川、打ち上げ場所のすぐまん前。迫力満点で、日本をも含め私がいままで見た中では、最高の花火大会だった。花火終了後、私たちは部屋に戻り、旦那は部屋でしばらく時間をかせぐ。外は花火ラッシュで6万人が一斉に動き出す。都合のいいことに、部屋はフリーウエイに面して、道路状況がすぐわかる。私は夜の運転が苦手で、ホテルで彼を待つあいだ読書。1時間ほどしてから、旦那は犬のトイレや薬のために家に戻り、またホテルに帰ってくる。ベッドに入り、これから消灯という時になって、旦那が言い出した。ガレージのドア閉めたっけ。。。。?な、何ですって~~~~!家は典型的なアメリカの家で、ガレージの奥にドアがあって、そこから家の中へ入っていける。つまり、こんな深夜、家のドアを開けっ放しにして出てきたかもしれないと言う。おばかな旦那はまた家に戻る。結局ガレージのドアは閉めてあったようで、二度目のドライブから戻って今度こそ本当に消灯。やっと眠れる。本当に長い一日だった。来年の独立記念日にもまたこのホテルに泊まろうと思う。私たち二人とも、来年の今頃も今と同じように健康に働く事ができたら、そのお祝いとしてまたこのホテルに泊まる。今度は(フリーウエイ側でなく)、川に面した、できればスイートを借りたい。旦那のお母さんやおばさんも呼ぼう。私の母にもこの時期に遊びに来てもらおう。部屋のバルコニーから見る花火!来年ぜひやってみたい。それまでは、またアリさん生活。がんばらなきゃ。
July 6, 2004
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知り合いに紹介してもらった東洋人のセラピストのところにいってみた。 カウンセリングは大学のとき以来。学生時代、年間5回まで無料で、他のアメリカ人同様、ちょっと落ち込んだ時の人生相談くらいの軽い気持ちで通っていた。当時の私のセラピストは日系のアメリカ人、以前はベトナム傷痍軍人のカウンセリングにあたっていたベテランで、私はとっても気に入ってた。最近なんか全体的に熱意がなくなってきて、飽きっぽくなってきたような気がする。仕事も集中力がなくなってきた。以前に比べるとあんまりハッピーじゃなくなったと思うのは気のせいかしら? ちょっとやばい。そんなこんなで、教えられたセラピストのところに行ってはみたが、最初の第一印象でがっかり。やっぱり偏見なのかもしれないが、私としては相談を仰ぐわけで、自分よりはるかに若い人、それもちょっとお嬢サマっぽいカウンセラーというのはなんだか頼りない。つい次の予約も入れてしまったが、なんだか気が乗らない。それでも彼女は、自己紹介程度の第一回目のセッションで、それなりの結論を出してくれた。自分でも感じてはいたが、私はずいぶん無理をしてるんじゃないかと。独身時代の私は、フワフワしたキリギリス生活を送ってきた。昔だんなとした生活は、キリギリスでも程度が違う。私にとって、はるかに振幅の激しい激動の時代だった。学生時代を境に180度転換して、アリ生活に突入。キリギリスの時は心の底でどこかおちつかなかった。それが不安に変わって、私は眠れなくなった。ところがアリさんになってしばらくすると、今度は今の生活が退屈でつまんなく思えたり...と、いうことかしら?あこがれてアメリカに来たのに、実際住んでみると、アメリカの悪いところがやたら目に付く。嫌気がさして日本に帰れば、今度は日本の悪いところばかり目につく、と言った人が昔の知り合いにいた。ちょっとに似てるかも。私の心の疲れはこの他にも、アメリカの生活にちゃんとadjustしてないんじゃないかという不安からもきてるような気がする。アメリカは好きだと言いながら、でも内心どこか納得してないようなところがある。昔、日本にいたような、心の底から何でも話せる友達が近くにいないことも原因かも。。。やっぱりセラピー、しばらく続けてみよう。
June 26, 2004
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ときどき通勤途中に会う日本人がいる。私と同じくらいの年代でアメリカ人の配偶者を持ち、私と同じように日本人のいない会社で働き、カレッジのクラスを仕事の合間に取ったりしている。いろいろ共通点があって、話し出すと話題は尽きない。その日は、仕事の話に始まって、私が昔ほんのちょっとの間働いた、ある日本人が経営する小さな会社のはなしになった。その会社の名前を言った時、その人はすごくいやな顔をした。そして、その会社のためにこうむった迷惑を私に話してくれた。私の働いたその会社は、地元の日本人の間でとても評判の悪い会社だった。最初はなんの疑いもなく、ごく普通の会社と思って入社した。それにしては、小さなオフィスに何本も電話が引いてあって、それぞれに違った社名を名乗り、違った受け答えをして、似たようなものを売ることにちょっとひっかかりはしたが。しばらく働いた後、やがて見えてきたずさんで荒っぽい営業方法。あまりアメリカを知らない日本人を相手に、かなり強引な商売をする。アメリカ人や、アメリカに長く住んだ日本人なら必ずつけるはずのクレームも、こちらに来たばかりの日本人なら泣き寝入りしてしまう。ずっとむかし、私がアメリカに来たばかりの頃、日本人はもちろん外国人をほとんど見かけない町に住んでいたことがある。ある日ショッピングモールで日本語で、同じ年代の女性から話しかけられた。数ヶ月のあいだ、日本語を使っていなかった私はもう、有頂天。聞けば彼女もアメリカ人と結婚してこの土地に来た日本人とのことで、私たちはその場でさっそく住所と電話番号のメモを交換した。その人とは、その後何度か一緒にお茶を飲んだりした。とは言え、日本でなら道で知り合った初対面の人に自分の電話番号など知らせなかっただろう。でも外国で日本人どうしというのはものすごい大きな共通点で、それだけで安心して信用してしまうことがある。その会社を訪れる客はアメリカに来たばかりの私のように、社員が日本人ということで安心して、まったく無防備に信用してしまう。私は当時どうしても働かなければならない経済状況にあった。すぐにも辞めたかったが、それでも次の仕事が見つかるまでのあいだ続けて働かざるをえなかった。そのあいだ、同じ日本人を騙す片棒を担いでいるようで、毎日、いたたまれない思で過ごした。大急ぎで決めた次の仕事は、最低賃金の軽作業で、何のベネフィットも無かったが、それでも本当にほっとしたものだ。その後知り合った何人かの日本人に聞いてみると、その会社の事を知っている人はけっこういる。驚いたことに、私と同じように事務員として働いた事のある人もかなりいる。わざわざその会社で働くために前の仕事を辞めてきた人すらいる。それでも結局、みな数日から、一ヶ月くらいで怖くなったり、嫌気がさして辞めているのは同じである。その会社のことがあってから私は小さな日系の会社に警戒心を抱くようになった。ほとんどの会社はまじめな商売をしていると思う。それなのにたった一度の苦い経験が私を臆病にした。その後似たような経験を人間関係でもしている。ほとんどの日本人は善良で親切なひとたちであろう。それなのにひとにぎりの、外国で出会う特別な日本人を知って私はひどく人見知りするようになった。遠い外国でたまたまめぐり合った日本人どうしが、共通の言葉を使って共通の根っこのようなものを確認しあう。それなのに私はもう日本人ということだけでそのまま人を信頼することができなくなってしまった。私は大人になったのかもしれない。それとも単に疑り深くなっただけかも。どちらにしろ、人を簡単に信じられないのは悲しいことだ。
June 14, 2004
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数日前たおれて、病院に担ぎ込まれた旦那の叔母さんのお見舞いからちょうど帰ってきた。2日前心臓の発作をおこしてリビングに倒れていたのを、彼女の娘が見つけて救急車を呼んだのである。このおばあちゃんは、糖尿病などいろいろ持病もあって、かなり危なかったが、やっと峠を越したところだそうだ。彼女は70代後半、私のイメージにあるアメリカ人女性とはちょっとタイプが違う。いかにも弱々しく、シャイで自己主張などとは無縁。でもあったかく、傍にいて安心できる人。彼女はとても苦労してきたひとだ。子供時代は親から虐待され、結婚してからは夫から虐待され続けてきた。三人の娘はとっても母親思いだが、自分を批判すると言って、この亭主、娘やその家族との付き合いをいっさい禁じてしまった。このおばあちゃんは旦那のお父さんの妹にあたる。旦那のお母さんはかげから彼女をずっと支えてきた人だが、やっぱり私に言う。。。。彼女の亭主は最低のゴクツブシだけと、彼女の不幸は彼女のせいでもあるはず。そこまでの手前勝手を亭主に許してしまった彼女自身の責任でもあるはず。ほんの数年前、亭主が病気で亡くなって彼女はやっと自由になった。娘の一人の持ち家で、生まれて初めて、彼女が長い間あこがれ続けてきた独立した暮らしが出来るようになった。むろん近くに住む娘たちやその家族が毎日のように様子を見に来る。会うたびに、彼女は幸せだと言っていた。幸福に暮らすこのおばあちゃんを見るのが嬉しくて、旦那のお母さんはしょっちゅう彼女に会いに行く。本当なら私たちより先に病院に駆けつけたことだろう。今、旦那のお母さんは旅行中。前から楽しみにしてたナイアガラの滝見物を含む、列車でのクロスカントリー旅行の真っ最中。旦那もそんな母親に知らせるべきかちょっと迷っていた。結局、もうしばらく様子を見ることにした。**********************************けっきょく家族の応援もあってか、彼女は私たちが病院を訪ねた日の翌日くらいからすこしづつもちなおしてきたそうです。数日前に病院を出て、一時的に看護婦付のナーシングホームに入ったとウチの旦那さんが言ってました。もう、一人住まいはできなみたい、でもみんなかわるがわる彼女を見舞ってます。彼女のようないい人には本当に健康で幸せでいてほしい。
June 7, 2004
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31日はメモリアルデイ。ウイークエンドと自分のバケーションを合わせて休みを取り、小旅行をすることになった。旦那とお義母さん、そして私とワンコで三人と一匹の組み合わせ。バスみたいなでかい大型SUVをレンタルして、自炊道具など山と積み、うちから250マイル南に下った海辺の町でゆっくり過ごす予定を立てた。釣りの名所で、私たちの目的はダンジェネスクラブなどの蟹取りと磯釣り。美しい海辺の風景を眺めることと、そして近くのカジノでちょっぴり運試し。一日目の土曜日、モーテルに到着して荷物もほどき終わるやいなや、旦那は体の調子が悪いとベッドにダウン。長いドライブで疲れたのだろうと思ってほおっておいたが、明け方になってから胸が痛いと言い出した。旦那の家族の多くの人が心臓の病気で亡くなっている。家にいる時ならまだしも、こんな遠く離れたれた見知らぬ町の明け方のモーテルの一室、私はどうしていいかオロオロ。911に電話しなきゃ、でも保険会社のポリシーをチェックしてからじゃないとやっぱりまずかろう。電話番号は保険のカードに。。。 で、保険のカードをもって来てないことに気がつく。すっかり混乱してる私に代わって、84歳のおばあちゃんは保険会社の番号を調べ上げて連絡、そして近くの緊急病院にもコンタクト、私にもてきぱきと指示をあたえる。病院でチェックした結果、胸の痛みは気管支炎のためと分かる。数日前からすこし咳き込んでいたが彼はさほど注意を払っていなかったのと、やっぱりせっかくの家族旅行をメチャメチャにしたくなかったそうだ。どちらにしろ、本来は旅行などとんでもない。医者から無理しないように言われ、無事病院から開放される。胸の痛みは薬で治まったが、計画していた蟹取りや釣りなど出来っこない。いざと言う時に旅先ではいろいろ不便。旅行2日目の朝けっきょく家に帰ることになった。が、そこでまた私は愕然。彼が、体のほうがまだ本調子じゃないので運転できないと言う。つまり、ホリデーラッシュの中、こんなバスみたいな車、わたしに運転しろってわけ。病人とおばあちゃん、ワンコと荷物を山ほど載せて250マイルも。私は出来ない理由を一つ一つ挙げていく。私のいつまでも上達しない運転テクニックだとか、夕べあんまり眠れなくて体の調子が悪いとか。そこで、旦那のお母さん、静かに立ち上がって言う。私が運転するわ。。。。彼女だって大きな車など運転したことは一度もない。でも必要だと思ったら、どんなことでもやりぬく人だ。結局、しばらく休んで、それで少しらくになった旦那が昨日に続いて250マイル運転して、夕方になって家に着く。なんとも恥ずかしいい、役立たずのわたしが。いつも温厚なお義母さんも今日のことではちょっとイライラしているのが分かる。旦那のファミリーはみんな強い人ばかりだ。みんな筋金入りの自立心を持つ。男はもちろんだが、女だって男たちと全く同じ権利を持ち、かつ同じ義務を負う。この家では『女だから』とか、やってみもしないで『できない』という言葉は絶対禁句。だんなのお母さんなど、どちらかというと家族の中で例外的にあたりが柔い人。それでも若い時に離婚して赤ん坊二人抱え、ちゃんと自立して生きてきた人だ。強い女性であることに変わりはない。私は彼の家族のだれもが普通に持っている自立心とか強さがとても羨ましい。たとえどんなことあっても生きていける雑草にようなたくましさ。生きることに全然格好つけてない、自由さとか。はっきり言って旦那はわたしの好みのタイプじゃなかった。理由は山ほどある。それでいて離れなかったのは、彼がわたしの持っていない、私が心の底から欲しかったふてぶてしいほどの強さを持っていたことが理由の一つ。何にでもガラムシャに体当たりして、大怪我して、それでもしばらくするとまた起き上がってくる。むかし、私は運命と言うものを信じていた。人には生まれ持った、分とか徳とかあって、なんとなく自分は運命の女神からちょっぴり差別されているように感じてきた20代。与えられたものをそのまま受け入れ、時には時間が流れるのをぼんやり眺めるように過ごした日々。そんな私に、他人にはどんなに愚かに映っても、自分でひとつひとつ確かめていく生き方はとても新鮮に映った。自分も彼らのようになりたいと思った。長い年月のあと、私も多少の進歩はあったと思う。 でもまだ、遠い。
June 1, 2004
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数日前からダンナのお母さんが家に来ている。84歳、ちょっとした持病があるものの、先ずは健康そのもの。一年の半分を旅行、あとの半分はにぎやかな友達付き合いとボランティアですごし、いつも時間がないとボヤいている。彼女は思いやりがあってとてもいい人。まだ英語がろくに話せなかった昔から、私と同じ立場に立って話してくれた数少ないアメリカ人の一人である。私と旦那がケンカしても、できるだけ公平な立場をとるか、もしくは少し距離をおく。私にとって理想的なマザーインラブである。私の母は日本にいる。彼女は嫁姑問題も含め、結婚生活でとても苦労した人である。私は子供の頃から何度もなんども、きつい同居の祖母から責められて台所で一人泣く母を見てきた。冷たく手前勝手な父につくし、家の仕事と家事、子供の世話で寝る間ももなく、からだを壊すほど働き続けた母。そんな生活の中でも人への思いやりとか、暖かい心を持ち続けた母が私はいつも好きだった。小学生だった私は、いつか大人になったら母と二人だけで暮らしたいと思ったこともある。実際にかなえることのできなかった子供の頃の夢である。その後、大人になって、いろいろなことがあって、80年代の中ごろにアメリカにきた。長い年月が流れ、それでも昔と変わらず今も、日本風の食事をして日本の本や雑誌を読んで。。。 ただ、昔と決定的に違うことが一つある。私はもう日本が恋しいとか、日本に帰りたいとは思わないこと。たった一つ、母のことを別にすれば。。。もし母がアメリカに住みたいと言うならば、私は彼女をスポンサーするためにアメリカ市民になることをためらわないだろう。めったに日本に帰らないことに罪悪感を感じる必要が無くなるならのだから。残念ながら、母に日本を離れる気もちはない。年をとってからほんの少しだけ自由を手に入れた母は冒険を好まない。代わりにといってはなんだが、最近では母は一年おきくらいにアメリカに遊びに来るようになった。私が母とは違う結婚生活を送っていることを確認して、ホッとして帰っていく。
May 22, 2004
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旦那が出張から帰ってきた。予定より早めにきりあげることができたようである。彼はさっそくお土産の入ったかばんを私の前に出す。一瞬私はひるむ。前の出張でアフリカに行った時はナントカ族の手作りのアグリーなネックレスとか、私にはちょっと使いようの無い原色のドハデなスカーフ、ETC。今回は。。。安物だといって渡されたキイチェーンとかコースター、Tシャツ類は気に入った。それだけで終われば私は大満足。でも続きがあった。USドルで$100もする香水。うちのトイレにはもらいものの香水が10種類ほどかざってある。びんがきれいだから部屋のアクセサりーに使っているが、中身はちっともへってない。私が香水を使わないのを彼は知ってるはず。スエットシャツ。アボリジニーアーティストのデザインとかで、やっぱり100ドル近い。それも二枚も。うれしいけど、ユニセックスのLサイズはひどい。一枚20ドルもする特殊ウールの靴下を4セット。サイズはぴったりだが、乾燥機にもかけられない特殊素材。私は靴下は安売りのウォルマートのもので十分ハピー。。。出発前にさりげなく彼にいっておいたがやっぱり聞いちゃいない。近くのみせならその日のうちに返しにいくが海の向こうでは手が出ない。子供時代から結婚生活ずっと、波乱万丈と言ってもいいようなアップダウンの多い生活をしてきた私は、人一倍お金に慎重。やっぱりそれだけあれば新しい炊飯器が買えるとか、貯金にとかいう風に考えてしまう。同じような生活をしてきた旦那はずいぶん変わってきたとはいえ、やっぱりなにかと口実をつけてお金を使うのが大好き。。。そうは行っても、贈り物、とくに家族への物は純粋に人を思いやる気持ちがこもっていると思う。私だってそれは感じている。それゆえわたしもはっきりは言いづらくていつも同じことを繰り返してきている。半分苦笑いでありがとう。
May 17, 2004
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財布の紐...国際結婚をしている楽天のメンバーがよく取り上げるテーマの一つである。読んでいると各家庭の事情もあったりして勉強になる。日本の場合、奥さんが財布の紐を握っている家庭が圧倒的に多い。結婚したら旦那さんは最初の給料からまるごと奥さんにさしだす。その中からどれくらいお小遣いに使っていいかお伺いを立てる。このことだけを考えたら日本女性の家庭内での権力はそうとうなものである。アメリカ人家庭でよく聞くのは夫婦別会計。財布の紐は二つあって、旦那さんが家のローン、奥さんが食費とかいったぐあいに分担を決めて自分の収入から払っていく。聞いた限りではアメリカに住む国際結婚のカップルでもこのタイプが多い。中には日本式で、日本人の奥さんがすべてお金のやりくりをするところもあるが、旦那さんがすべて処理すると言う家もけっこうある。うちの場合...私がアメリカに来たばかりの頃は、旦那が自分で稼いだお金を全部じぶんで管理していた。チェックの書き方も知らない、請求書をみても何がなんだか分からない当時のワタシ、くやしいけど仕方ない。パートで働くようになって私も多少のお金を家に入れるようになった。別会計とはいえ、全体的には旦那がお金を管理する。この頃から彼のお金の扱いに少しづつ不満を持つようになる。旦那はお金に関してどんぶり勘定。ものすごく無駄が多い。そして貧乏な学生時代。この時は私が全部管理した。ケッソウを変えてキューポンをクリップして、古着屋と安売りショップのお得意さんになる。私もこの時代ケチを極めた。この時は旦那が私のお金の管理に文句ばっかり言う。いくらなんでも潤いが無さ過ぎる。私はすべてにチープだそうだ。最近のウチの財布の紐はふたつ。別々の口座があって分担をきめて支払いをしている。自分のおこずかいは自分でまかなっている。そうはいっても完璧に別会計という訳ではない。旦那が私の口座やクレジットカードにアクセスできるように、私も彼の口座とクレジットカードにアクセスできる。お互いの収入と支出も把握している。それぞれに余ったお金は自主的に共同の貯金にまわしたり、ローンを余分にはらったり。税金は二人一組で申告している。これくらいが私たちにはちょうどいいのだろう。
May 9, 2004
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家の旦那は今月初めからしばらく出張に出る。久しぶりの海外、それもオーストラリアとあって彼はもうホクホク。 オーストラリアなら私だって行きたい!旦那は、仕事だから仕方なしに行くんだと思いっきり渋い顔をして見せるが、目が笑ってる。旅行大好き人間なのだ。観光地なら一緒に行くという手もあるが、行き先は超ドイナカ。ホテルも無いところで、直接取引先のオーナーの家に泊めてもらうそうな。むろん観光どころでなく、私にはつまんないだけだろう。それで私は結局お留守番。どうしよう...私には一人でいたくない理由がある。実は、うちの旦那は私と違ってものすごく家のことをする。掃除や料理なら半分(それ以上かも)する。家のメインテナンス、庭のこと、犬のケアー、そしてもちろん車の簡単な修理ならほとんど彼がする。旦那がいないとラクできると言う人もいるが私の場合はぜんぜん違う。むかしは遠慮もあって控えていたが、いまは彼を上手ににおだてて思いっきり家事に参加してもらっている。そんなわけでいま彼のいない間の対策に頭を痛めている。いくらなんでも掃除や料理ならなんとかなる。あんまり忙しければテイクアウトと外食ですますという手もある。掃除洗濯なんてもともと週一で楽勝。ゴミだし。。。これは、いまだにシステムがよく解らない。芝刈り! この辺はすこしでも芝が伸びてくると近所から文句をいわれる。ローンモアの使い方なんてわからない。庭の水遣りなんて結構めんどう、私はどこに蛇口があるかも知らない。車!エンコしたらどうしよう。旦那はやたら車に詳しくて、彼がしょっちゅうチェックしてくれるので私はボロ車(でも慣れてて運転しやすくて大好き)を安心して乗り回せる。運転しにくい旦那の車をしばらく使うしかない。家のワンコ、病弱でいろいろケアが必要。ヘアカットもそろそろだし...なんと旦那は犬のヘアカットやつめきりまでできる。家の電気系統その他のトラブルなんてどうしていいかぜんぜんわからない。ここはとても安全なエリアだけど、それでも絶対なんて保障はない。泥棒とか...一人は怖い。ETC、ETC。。。けっきょく、できる事ぜんぶまとめてやってから出張に出てもらう。できないことは今週末、大急ぎでトレーニング。緊急の場合の対策も教えてもらう。突然の旦那の出張でパニックのわたし。自分でも、甘ったれてると思う。私だって、アメリカで自活したことがある。でもレージーな私はチャンスさえあれば人に任せてしまう。そしてだんだんひ弱になっていく。無知になっていく...ま、これがチャンスと少しくらい旦那から習ってみようかななどと考えてみる。
May 1, 2004
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パワーボールのジャックポットが103ミリオン!通勤途中のフリーウエイからみた宝くじの看板のうたい文句である。しばらくだれも大きな賞金のを手にしてなくて、ジャックポットは上がっていくばかり。合衆国とステイトからごっそり税金を取られても半分は残るだろう。余りを20年の分割払いにしても年収、2ミリオン以上のキャシュが手に入る。ラッシュの中、私はたちまち空想の世界へ入っていく。莫大な金額!ついついジャックポットを当てたら何をしようかなどと考えてしまう。そう、私なら。。。長旅に出る。大きな家を買う。別荘を何軒も持つ。毎日高級レストランの食べ歩きをする。いや、それだけあれば、ちょっとしたシェフを雇ったっていい。とうぜんメードさんも必要になる。太りだしてから何を着ても似合わなくなって、おしゃれに興味をなくした。でも高級店のラージサイズはまだ試してない。いや、いっそのこと、下着から、ぜーんぶカスタムメードという手もある。BMWの新車、大型ボートとオーダーメードのトラベルトレーラーは生活を楽しむための必需品である。それからそれから。。。それだけあれば私は幸せになれるのかしら。楽天の日記には貧乏だった時の事ばかり書いてきたが、実のところは、旦那のアップダウンの激しいライフスタイルにつきあって私はちょっとした贅沢な暮らしもしてきている。そしてそのお金にもかかわらず、私は不幸せなことが多かった。お金をかけた生活はもちろん好きだが、それだけで確実に幸せになれるという事はない。私のアメリカ生活で一番に楽しかったこと、それは貧乏の中でした学生生活だった。できるならもう一度やってみたい。お金に煩わされることのない学生生活ならもっと楽しいだろう。どのメジャーが就職に有利なんて考える必要も無い。好きなクラスを好きなだけを取る。そして、取りたいクラスは山ほどある。もし学生に戻るなら大学のある町に住むことになる。長旅なんてできないし、食べ歩きとか、おしゃれとかそんなヒマもない。大きな家など手間がかるばかり。結局むかしの貧乏学生生活とあんまり変わらない身軽な生活を選ぶだろう。なんて安上がりなわたしの夢の生活。こんなんだったらジャックポットを待つまでもない。パートタイムの学生生活なら今でもできる。フルタイムならがんばってリタイアまで働けばかなえられる。コミュニティカレッジや多くの4大はシニアシティズンの授業料の大幅なdiscountをしてくれるから。そんなことを考えているうちに目的地に到着。一日がはじまる。
April 26, 2004
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8年前、某サーチエンジンで作った初めてのウエブサイト。フリーのカウンターがついてきたが、数値はいくつからスタートしてもいいと言われた。私は1001から始めた。このカウンター、同じコンピューターからアクセスもしくはリロード(更新)を繰り返すたびにどんどん数字が上がって行く。昔のカウンターに比べずっと進化した楽天のカウンター。IPアドレスとアクセス時間の間隔をチェックしてるみたいで同じ手はもう通用しない。だだし、これには例外がある。アクセスログを見た限りでは、二台以上のコンピューターが交互にアクセスした場合カウンターが不必要に上がっていく(ような気がする)。この二台は別々のIPアドレスをもっている必要がある。そこで実験。家にある私のコンピューターからVPNを通して会社のネットワークへアクセスする。そこのコンピューターから私のページへアクセス。カウンターがひとつ上がる。そこで、家にあるもう一台のコンピューターから某サービスプロバイダーを通して私のページへアクセス。またカウンターが上がる。ここで、もう一度会社のコンピューターからリロード。次、家のコンピューターからリロード。。。上がって行く、上がって行く。リロードするたびにカウンターが一つづつ上がって行く。結局、交互に25回づつ、トータルで50カウンターをあげておしまい。何でもっと上げないかって?時間の無駄で、なんだかばからしい。それに、日本語の練習くらいのつもりで書いてる週一(もしくは2週間に一度)の日記、無理やり数時間かけて1000くらいカウンター上げて、前日のアクセス数のランキングにでものったら恥ずかしい。それとも、楽天ではそういうインチキをチェックするソフトウエアーを走らせているのかしら。ちょっと試してみたい気もするが、体力が続かない。なぜかって?実験に使った一台のコンピューターは私の部屋においてある。もう一台は私の部屋からもっとも離れた部屋にある。考えてみてほしい。リロードするたびに部屋から部屋へ移動する。小さな家とはいえ、計25往復はけっこうな運動になる。ところでこのカウンターの問題、これって楽天のバグなの?それともどんなカウンターにも起こる当たり前のことなの?だれか知ってたら教えてほしいな。
April 17, 2004
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この用紙に友達の名前を5人書いて明日の朝提出しなさい。小学校の時のホームワークにこんなのがあった。放課後、クラスのみんなで話し合う。あなたは誰の名前をかくの? あの子とこの子と... えー、それじゃ、わたしはあなたの友達じゃないわけ?結局、5人という制限を無視してみんな20人以上の名前を書いて提出した。だれとでも簡単に友達になれた時代である。成長すれにつれ多少シャイになり、誰とでもとはいかなくなる。当時急成長の会社で働いていた私たちのアフターファイブは連日の祭り騒ぎ。めぐり合う人間の数が多いから必然的に"友達"も増える。毎日でも飽きることなく話し合った私たちグループ。彼氏の近況、ショッピング、芸能情報、職場での愚痴、将来の夢、結婚...話題が尽きることは無い。無論グループの中での小さないざこざはたまにある。でもそれに対処するエネルギーだってある。たいていの場合、私たちはとても楽しい時間を共有した。そして、アメリカへ。せっかくアメリカへ来たのだからアメリカ人の友達作りをとおもった。それで何人か親しくなる。でも日本にいた時のような友達関係は持てなかった。文化、価値観? それとも私の英語力? 1つ語れば10理解しあった昔の友達のようにはいかない。アメリカに住む日本人は? 日本人ならカルチャーも英語力の問題も軽くクリアーできる。私のまわりにそれほど日本人はいない。日本語が話したいばっかりに日本でなら付合わないような人とべったりした付き合いを始めてしまったことがある。それで何回もいやな思いをして、私はいまとても臆病になっている。たぶん本当は心から語り合える友達候補はまわりにいるはず。それなのに今の私はそんな出会いのチャンスさえ避けてしまう。あんまりライフスタイルが違う人とは合わない。年齢が違えば話すことも違う。アメリカに何年いるかによっても会話は微妙に違ってくる。極端にお金持ちとかあまりケチな人とかは付合いにくい。旦那と子供、日本人のうわさ話しかしない人は疲れる、悪口を言う人とは付合いたくない...それらをクリアーして残ったほんの数人のアメリカでの友達、背伸びしたり努力したりすることなく自然に付合える人たちだ。そして、今もまめに電話とメールでコンタクトする日本での2人の友人がいる。昔のにぎやかな人間関係を思えば少しさみしくなる。反面、面倒な人間関係に煩わされることなくほっとしているところもある。今はもうしばらくこのままでいたい。
April 12, 2004
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旦那にはとても仲のいい兄貴がいる。ミリタリー時代に同じ職場の女性と結婚して、40歳くらいで夫婦そろってリタイア。二人分の軍の恩給とそれまでのちょっとした投資でその後仕事に戻ることはなく、いま60近くなる彼らは田舎で完全な隠居生活に入っている。ソウシャルセキュリティが入るまでそう遠くもない。リタイア...なんて素敵な響きだろう。彼らは、好きなときに寝て好きなときに起きる。一日じゅう本を読んだりネットしたりしてあくせく働くことも無い。月に一度くらいは泊まりで小旅行にでかける。あーあ、うらやましい。先日わたしはSocial Security Statementなるものをもらった。年金の見積もりみたいなものである。それによるともし私がここで働くのをやめてSocial Security Tax (日本の厚生年金の掛け金みたいなもの)を払わなくなっても62歳で少ない金額だが年金を受け取る権利ができる。むろんずっと働いて70歳から受け取れば金額は上がる。これにはびっくりした。ここ4,5年は別にしてそれまであんまり働いていない。延べにして7,8年くらいかしら。アメリカの年金の掛け金は収入のなかから払われるので当然わたしはあまり掛け金をはらっていない。それでもいくらかの年金受け取りの権利ができる...べつに年金のためという訳ではないが、今の私はアメリカで老後を過ごすのだという気持ちが95%。むろん、準備なんてぜんぜんできてない。家のローンもあるし、貯金なんてほんのちょっぴり。ソーシャルセキュリティだけで生活などできないことはわかっている。別に贅沢な生活をしたいと思っていないが、アメリカ的な『リタイア後の生活』はあれでけっこう金がかかる。まだまだこれから長い間働かなきゃいけない。仕事が嫌いなわけじゃない。だた、遅くから働き始めた私は人より遅くまで働かなきゃいけないだろう。それを考えるとちょっと落ち込む。 今は金曜日の夜、ちょっとビールでも飲んでリラックス。旦那の兄さんみたいな引退を目指してまた月曜日から仕事にもどる。
April 3, 2004
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私がよく訪問するハリウッドのおばさまさんのサイトで日本のスポーツマンガについての日記を読んだ。エースをねらえ!残念、名前くらいは聞いたことがあるが読んだことは無い。ひとまわり近く早く生まれた私は、そのころすでにもうマンガを読まなくなっていた。私が夢中で読んだスポーツ根性ものならアタックナンバーワン、ストーリーは全く覚えていないが、バレーボールのマンガだった。当時中学生だった私は、他のクラスメート同様、さっそくバレーボールのクラブに入部した。今覚えているのは毎日玉拾いとうさぎ跳びばかりやらされたことくらい、半年か一年くらい続いたかしら。それより少し前のマンガになると外国を舞台にした話がやたら多かった。作家の名前はもう覚えていない。今考えてみれば私の子供時代のマンガの主人公は二つのタイプがあったと思う。1.いつもメソメソしたシャイな女の子、まわりがいつも助けてくれるシンデレラ。2.強くて陽気な女の子、美人じゃないが人気者。むろん私は2番目が好きだった。あー、懐かしい、もう一度読んでみたい。私と同世代の女性、今ではお母さん、人によっては孫のいるひとまでいたりする。当時みんなで分担を決めて買ったマンガ雑誌。私はマーガレットを買って2日読んだあと、クラスメートの少女ナントカ?と交換した。アメリカではちょっと前から、日本のマンガとかアニメがブームになっていて、大き目の古本屋さんに日本のマンガ本が置いてあったりする。中には私の覚えているものもあったりして...このあいだもそれで、里中満智子の時代物を買った。
March 31, 2004
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インディアンカジノから数時間前に帰ってきた。スロットゲームはブランド物など高級品にいっさい興味のない私のたまの娯楽。額に多少の差はあってもここしばらく負けっぱなしでいる。 こんな私でも一生に一度、数年前のラスベガス、安い掛け金でウソみたいに勝ち続けたことがある。掛け金25セントのkeno(ナンバーゲーム)で 6 out 6 を5回ヒット(2000ドルの儲け)、加えて 5 out 6 は覚えてないくらい何度もヒット。勝ってる時で気が大きくなって派手に賭けてみたり、また旦那が負け続けで何度もせびられたりしてだいぶ減ったけど、それでも1500ドルくらいリッチになって家に帰った。そんなあぶく銭、それでもきちんと貯金にまわした。もともと日本ではパチンコすらしたことがなかった。ずいぶんむかしアメリカに来たばかりの私にいろいろなカジノゲームを教えてくれたのは旦那である。当時住んでいたはネバダは一定の手続きをとった賭け事を合法とした州。行ったことのある人なら知っていると思うけど、あそこではギャンブルが生活の一部のようになっている。スーパーマーケットとかレストラン、コンビニにだって必ずスロットマシンが置いてある。当時ものすごいホームシックだった私は簡単にスロットにはまってしまった。旦那は忙しくて、朝出かけたら夜遅くまで帰ってこない。時間を持て余した私は歩いて行ける近所のカジノのスロットマシンでちょっと運試し。マシンに向かっているあいだは勝ち負け以外なに一つ考えない。その興奮が癖になり、お財布の中の現金が無くなるまでやめられない。むろん私が旦那に内緒に使うお金だから大金というわけではない。それでも全部足せばまとまったものになる...ただ時間が流れていくのをぼんやりと眺めている生活のなかで、マシンの前に座ったときだけ人生が輝いて見えた。当時私のまわりにはギャンブルで本物のトラブルになっている人を何人かみたり聞いたりしている。知り合いになったアメリカ人の奥さんはやっぱりポーカーにはまり、家の貯金まで持ち出して旦那さんから離婚をいいわたされていた。私がたまに買い物をしたアジア人向けの食料品店がある日突然店じまいした。経営者がギャンブルに夢中になってすべてを失って夜逃げしたとか...しばらくして旦那の仕事の都合で私たちは州外にお引越し。私のスロットゲームもお終い。新しい土地で日本人の知り合いも出来て、パートタイムの仕事も始め、暇を見つけてはESLに通う。一日中忙しくして生きがいもできてくる。たったそれだけのことで賭け事のことなどまったく考えなくなった。...アメリカに来たばかりの頃の事だから、もうずいぶん昔の話である。そして、2004年の今、私にとってカジノ通いは数ヶ月に一度の罪の無い娯楽の一つになっている。
March 28, 2004
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最近旦那と大きなケンカをしなくなってきた。なんだか兄弟みたいな関係で...やっぱり年のせい?いつもこうだったわけじゃない。20年近くも一緒に暮らしていれば山あり谷あり、ケンカもあればこじれて別居したこともある。とくに旦那は若いころ、宵越しの金を持たないみたいなタイプだったので、お金の悩みは後を絶たないといった生活だった。それでも長いあいだ一緒にいて同じものを見て、いつの間にか似たようなことを考えるようになってきた。そして今ではちょっとしたことでは離婚しないだろうという、信念みたいなものが出来てきた。私の場合、それは学生時代の貧乏生活が土台となっていると思う。アメリカへ来てから5,6年目くらいから少しずつ私は経済的に自立したいと思うようになった。英語も満足に話せずとりたててあげるほどの技術もない。そんな私にオファーされる仕事は日本でならとうてい見向きもしなかったようなものばかり。アップダウンの激しい旦那の仕事も不安...私が失業中で旦那の仕事もあまりうまくいってない、私たちの経済状態が最悪に近いとき旦那に宣言した。大学に行ってDegreeをとりたいと。むろんESLからのスタート。彼は賛成してくれた。そうして手に入れた学生生活、とっても楽しかった。毎日輝いていた。自分よりはるかに若いアメリカ人と肩を並べCalculusとかEngineering physicsなんか取ったりして。ひとつだけ問題があった。私たちは貧乏だった。旦那の給料だけで生活費と授業料を払い、出来るだけ学生ローンは使わないようにしたから。今でも思い出す。毎朝起きるなり弁当箱にサラダとサンドイッチを詰めたこと。むろんお弁当は健康のためと言うより節約のため。旦那はとても派手好きなひとだ。レストランへ何人も連れて行ってバッと奢りたいほう。その彼が私の学生時代ほとんど毎日お弁当をもって仕事にいった...私はわたしでクーポンを切りあつめ、食料品はむろん生活一般、今では考えられないような切り詰めた生活をした。ほとんどの衣類は古着屋で調達、旦那も出来る限りそれに付合ってくれた。レストランなんて年に数えるほどしか行かなかった。 いろいろ貧乏生活を並べ立てたが、実は私はお金が無いことをそれほど苦にしていなかった。自分のやりたいことをやってて当然とも言えるが。私の夢に付合ってくれた旦那にはとても感謝している。学生時代、そして卒業後安定した仕事が見つかるまでの数ヶ月の間、さほどいやみもいわずにサポートしてくれたこと。あれからもう何年も経って今ではすっかり大きな態度をとる私。憎まれ口を叩いたりするが、忘れたわけではないのです。明日はお休み、旦那の好きなお寿司でもつくろう。
March 20, 2004
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前日の日記で思い出した。うちにはもうひとつ借金がある。四年以上も前の病院入院費。とつぜん旦那が胸の痛みを訴えだし救急車を呼んだ。原因究明のために2日半精密検査をうけて、結局ちょっとたちの悪い胸焼け(症状が心臓発作と似てる)とわかった。うわさに聞く世界最高の米国医療技術。むろん値段も世界最高。2日半の入院と検査で1万ドル近くの請求書を送ってきた。旦那は自営で、普通アメリカの会社が出してくれるグループ保険のようなものは無い。保険会社から直接買うことになるが、年齢や持病など考慮されて結局、高くてそのわりに内容の悪い保険をあてがわれる。四年前私はまだ大学を卒業したばかりで、短期の契約社員をしていた。職場を通しての保険はない。もしものため、わざわざ取りたくもないコミュニティカレッジのオンラインのクラスを6クレジット取って、私たちはカレッジのグループ保険を2人ぶん買った。その保険、たしかに無いよりはまし。1万ドルのうち5千ドル払ってくれた。残りの5千は私たちが払わなきゃいけない。まだ私も働き始めたばかりで、一度に払える金額じゃない。5年のローンにして月に100ドル位払うことになった。医療費に悩むアメリカ人は多い。考えてみれば私が学生していた90年代中ごろから2000年まで私たちは本当に貧乏。お値打ちと言われている学生保険すら買えないような時あった。そんなときに限って健康そのものに見える旦那は救急病院に駆け込む。胆石、(たちの悪い)胸焼け、背中を痛めた、足を折った...などなど。病院の会計に電話してペイメントプランを交渉するのはいつも私の仕事だった。ありがたい事に、今現在は私の働く会社を通してかなり有利な健康保険をただ同然でもらえるのでこういった問題はもう起こらない。四年も払い続けた今では医療費の借金もそんなに残っていない。まとめて払ってしまった方がいいと思うが、旦那は意地になってわざとちょっぴりづつ払っている。ああ、早く借金から開放されたいのに。
March 14, 2004
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私の車はサンバード。94年物だから今年でちょうど10年目になる。新車で買ったわけではない。98年、私がまだ学生の時、すでに走行距離9万マイル(15万キロくらいかしら)乗ってあったのを4000ドルで買った。この車、とても作りがシンプルだそうで、機械の得意な旦那はオイルチェンジから、車輪をはずしてブレーキ丸ごと取り替えることまで自分でやってしまう。エンジンはとても調子よく、すでに15万マイル近くいってる今でもぜんぜん問題なく快適に走る。エアコンも完璧。でもこの車のせいでこの5年、何度冷や汗をかいたことか...一番はじめのトラブルはエンジンの温度。運転しているうちに温度が上がっていく。普通ならファンが自然にスタートするものだが、その気配なく温度は上がる一方。この車を買ってまだ一年くらいの時、たまたま旦那が私の運転のスキルチェックのつもりで隣に座っていたときに起こった。旦那がすぐ気がついたからよかったものの、それまで私はダッシュボードの温度計に注意を払ったことはなかった。それがなんのためにあるかも知らなかった。直しても直しても2年くらいたつとファンがきかなくなる。もう今では慣れて、ファンが利かなくなった場合、思いっきりヒーターをスタートさせれば急場をしのげるとわかっている。夏だとたまんないけど。あと大きな故障はトランスミッションのエラー。しばらく運転した後、交差点でブレーキを踏んでいると、そのまま止まって動かなくなることが2度ほどあった。フリーウエイなどで起こったらと思うとぞっとする。これはトランスミッションの温度を調整する装置の問題だそうだ。修理してもらってからはもう同じ問題は起こっていない。あとは、普通に動いていた車がなぜか急にパワーが無くなってしまったことがある。配線関係のエラーもある。すべて直した。今の問題は2つあるドアのどちらかがときどき開かなくなること。もうひとつは、雨の日が続くと(3日以上)水が中に入ってくること。さすがに旦那だって堪り兼ねて言う。もう車を買い換える時期じゃないかって。でも今の車のトラブルは命にかかわるようなものでない。アメリカじゃこの程度の車、運転してる人いっぱいいる。ミニ車検ともいえるエミションのテストだって文句なしにパスしているんだから。 どのみち私がこの車を使うのはうちの近所(郊外というより田舎!)を運転するくらい。通勤には近くにある高速バスのバス停まで運転してそこの駐車場に停める。ガソリンを入れて、ときどきオイルチェンジに出して、保険料と税金さえ払えば後は無料。支払いは4年も前に終わっている。私には借金がある。家のローンは別にして、私個人の借金として学生ローンが残っている。学生時代できるだけ旦那の給料だけでやりくりしてきたからそんなに大金ではないが。毎月余分に払ってきて、あと6ヶ月で終わる。それまでなんとか今のボロ車をなだめなだめ運転する。はやく借金返してすっきりしたい。
March 13, 2004
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日本での高校時代、わたしは微分積分とかいったクラスを一番最初の頃に落ちこぼれてしまった。そのわたしがアメリカでは理数系のクラスをとても楽しく取ることができた。 代わりにといってななんだけど、アメリカの大学で一番苦労したのはDiscussionとかPresentationとか日本では遊びくらいに思ってたクラス。結構年取ってから習ったわたしの英語力の問題もありとてもついていけなくて、それは苦痛の連続。同じような事を考える外国人の学生は結構いて、わたしはいつも彼らとつるんでた。サボってあんまり進歩しなかった私のコミュニケーションスキル、実はこのアメリカ社会ではとても大切なものである。学生時代はともかく、社会人になるとごまかしはきかない。大学最後にインターンで入った某一流企業も典型的なアメリカンスタイル、どんな疑問でもみんなでとことん話さなきゃいけないみたいな雰囲気があった。アメリカ人にとって自由な社風も私にとっては頭痛の種。ずいぶん気疲れしたものだ。いま働いている会社も自由でオープン。DiscussionやPresentationも毎日のようにあるが、同僚が理解ある人たちばかりで、無口なままでもそれはわたしの個性(もしくは日本人のCulture)として自由にさせてくれる。つい、ミーティングなどで、自分の意見もあるのについ口をつぐんでしまう。疑問もあるのに質問しない...きちんとコミュニケーション出来ない自分がじれったなることがある。
March 12, 2004
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私のまわりには犬好きが多い。 私も含めてみんな犬を人間と同じに扱う。そんな中でも、私の働く“会社”の犬好きはハンパじゃない。どれくらい変わっているかと言うと…アメリカの会社には ”Bring Your Children To Work” を実行している会社がある。一年に何度か、親がこどもを自分の職場に連れてくる。子供に親の働くすがたを見せよう...という訳である。むかし、私が今の会社に働きはじめた最初の週の木曜日に言われた。毎週金曜日、うちの会社は “Bring Your Dog To Work” を実行していると。おもわずひっくり返りそうになった。金曜日には愛犬を職場に連れてこいというわけで、これが当時、創立以来三年間続けてきたギシキだそうな。会社は若い人の多いStartupでとても自由。みんなパーティ好きで、勤務時間の制約といったものもない。そうは言っても、家族経営の会社ならいざ知らず、当時でもすでに100人以上の従業員を抱える会社である。金曜日ともなればありとあらゆる色、かたち、サイズの犬たちが従業員をともにご出勤。同じビルで働く他の会社の人たちがとても不思議そうな顔をしていた。つれて来て良いのはきちんと躾けのできている犬で、リーシュ付きに限るとは言うものの、やっぱり彼らにも好き嫌い、虫のいどころとかある。ちょっとカジュアルな金曜日、職場は犬の鳴き声で始まる。下手するとケンカも始まる。粗相をする犬もいる。しばらくして会社は引越しすることになった。ダウンタウンの高級っぽいオフィスエリア。 一応会社としては引越し前に週一の愛犬同伴出勤についてビル管理会社に聞いてみたそうだ。 もちろん返事は “NO PET!” 当然と言えばとうぜんですけどね。もう職場にお犬様はいない。それでもいまだに職場も同僚も超個性的。仕事はハードだけど好きです。
February 28, 2004
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土日を挟んで9連休のバケーションをとりました。ラスベガスで数日ゆったり過ごす予定だったのが、旦那の仕事の都合でキャンセル。日帰りと一泊のミニ旅行に変更。バケーション4日目の今日は、海岸沿いのインディアンカジノに寄ってみた。カジノとは名ばかり、日本の大きめのパチンコ屋さんといったところ。レストランで1時間ほど待たされてまずいクラムチャウダーのランチ。一階のクオーターkeno(ナンバー当てゲーム)で2時間ほど過ごしました。勝ったり負けたりで、25ドルの損。まあまあと言ったところ。ちょうどバケーション最後にあたる週末にもう一度ここへ戻ってくる予定です。カジノの裏にある、海に面したホテルにお犬様同伴で一泊の予定、今度は時間を気にせずあそべる。今からたのしみです。
February 18, 2004
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今私たちグループがかかわっているプロジェクトが月曜日で終わる。今日のじてんで私たちの手をほとんど離れ、あと私のタスクはmanufacturerから出来上がって来たCDをチェックするだけ。もう最高。毎日の残業はもちろん、休日だってVPNで家からずっと仕事してたんですよ。よく、アメリカ人はナマケ者だとか仕事がザツだとか言う日本人がいるけれど、それは人によりけりだといいたい。すくなくともわたしの知るIT関係者の仕事ぶりは、日本のワークホリックのお父さんたちとすこしも違わない。彼らのプロ意識はすごいと思う。ここしばらく旦那にまともな料理を作っていない。今日はまじめにトンカツとか餃子でもつくろう。箱からでてくるやつじゃなくて、材料から切ったりこねたり... ついでのとっておきの白ワインもつけよう。
February 7, 2004
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先日おとなりさんが離婚した。子供のいない夫婦で、家は奥さんのものとなったがすでに払ってあるローンの半分を旦那さんが受け取ることになる。車も家具も預金もまさに真ん中でまっぷたつ。うちの旦那がびっくりしていた。彼は離婚経験者。若い頃の旦那には山師的なところがあって、彼は長いあいだアップダウンの多い生活を送っていた。波に乗っている間に結婚して、三年後、仕事がうまくいかなくなったころ離婚となった。70年代のアメリカ、とくにカリフォルニアの法律は女に甘かった。彼は家も家具も預金も取り上げられ、Van一台で家から放り出されるかたちとなった。巷ではウーマンリブが叫ばれていたが、法廷では離婚する女は弱者として、しっかり保護されていた。それから四半世紀、もう女が弱いという言い訳は通用しない。自立した女に保護はいらないとばかりに、結婚においても当然コミュニティプロパティ、フィフティフィフティ。女が車一台で旦那を家から追い出せる時代ではない。実のところ、わたしは旦那にサポートしてもらって大学に戻りバッチェラーをとった。離婚の場合これは旦那の得点となる。下手をすると慰謝料を払わされるのはわたしかもしれない。
January 24, 2004
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わたしがアメリカに来て一年目、ホームシックでうつ状態だった頃のことである。ある日、旦那がわたしの為にと保健所から犬をもらってきた。亜麻色の美しいコッカスパニエル犬で、当時のわたしはすっかり夢中になってしまった。わたしはこの犬をベティと名づけた。シャンプーやヘアカットはもちろん、健康のためにとベティ専用の料理を作り、もちろん歯磨きもかかさない。どこへ行くにもベティ同伴で、当時まだ犬連れでとめてくれるモテルがあまりなく苦労したものだ。よくけがや病気をする犬で、五年目には心臓病を患い、あと半年から一年の命と獣医から宣告された。諦めきれずあちこちの医者を訪ね、最後には犬の心臓病専門医にまで相談した。そのかいあってベティは一年たった後でもさほど変化なくわたし達をホッとさせた。さすがに一年半後には発作を起こしたりして、まわりの薦めもあって安楽死させた。ずいぶん前のことである。その後しばらくは引越しの多い生活で、またわたしも大学に戻り勉強に専念したりでペットのことを考える余裕は無かった。大学卒業後はわたしなりに仕事に没頭する生活が続いた。一年ほど前に旦那が急にまた犬を飼おうと言い出した。できればベティと同じような姿容と性格...どうせならまた保健所からアダプトしたい。...で、やっとみつけた犬に今度も一目ぼれ。名前も前と同じくベティさん。専業主婦だった昔とちがって今は時間も限られ、手入れもかなりザツ。もう犬専用の料理など作らないし、歯も磨かない。でもやっぱり病弱の犬で、一年もしないうちに近くのペットクリニックの大のおとくいさん。わたし達が犬のためにかけづりまわっていることに変わりはない。
January 17, 2004
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数日来の雪にFreezing Rain、外は氷一面の世界。新聞を取りに外へ出るにも滑ったり転んだりで、相当の覚悟がいる。さらに悪いことに夕べからの停電でテレビもコンピュターもダメ、ヒーターもないし、全て電気に頼っているうちでは料理もできない。バーベキューの器具でお湯を沸かしてカップスープで朝ごはん。天候を理由に3日休んだ後ではさすがに仕事が気になって手早く身支度して、さて車をガレージから出そうと思ったら、ドアが開かない。これも電気仕掛けでした。旦那に頼んで、なんとかバス停まで辿り着いてホッとしたのもつかの間。あたりいちめんの雪と氷でフリーウエイは前代未聞の大ラッシュ。通勤に片道4時間使ったのは初めて。12時出勤です。できるだけ大急ぎで仕事を済まし5時半に会社を出る。もう雪も多少は解けて、道も空いているだろうと思ったら...バスで3時間半。普通なら40分もあれば十分な距離なのに。めったに無い経験でした。
January 10, 2004
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ここ数年懲りもせず New Year Resolutionのひとつにあげているものがある。今年こそは痩せよう!超Lサイズの女性達の間で育った旦那は、細い女はすべて美人だと信じている。その基準からいけば、昔の私は相当の美貌であったらしい。よく私が恥ずかしくなるくらい人に自慢してまわったものだ。つい最近も言われてしまった。結婚した頃はまるで自分がジャックポットを引いたラッキーな男だと思った。でもそんな幸運、いつまでも続かないよな...なんて。私は太ったのだ。最初のきっかけは禁煙、気がついた時には10ポンドほど増えていた。その後、学生生活のストレスとか、仕事のトラブルとか、生活が変わるたびに数ポンドづつ太るということがパターン化する。これはいけないと、ダイエットやエクササイズに夢中になったこともある。ジムにも通ったし、いろいろ健康食品も試してみた。いくら食べても太らなかった私が、今ではいくら注意しても痩せない。年とともにこれでもいいやとさえ考えてたりする。女の幸福、サイズだけじゃないないなんて。それっでもたまに旦那にいやみ言われたりすると考えてしまう。また始めてみようかな、なんて。いつでもまた実行できるように準備だけはしてある。ガレージには買って一年目、まだ2度使っただけのエクササイズマシンがいつでも使用可能な状態で置かれている。
January 6, 2004
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夕べはニューイヤーイブ、旦那は秘蔵の18年物のシーバス、私はオレンジを絞って作った甘いカクテルを手に、ご近所さん主催の打ち上げ花火を見てすごした。4連休に入る前のイブ、いろいろ計画もねったりした。一夜あけて、2004年は何年ぶりかの大雪で幕あけ。予定していた旦那の家族もこの悪天候で訪問を延期。なんとなくテレビでもながめてみる。レポーターが新年の抱負を聞いて回る、よくある正月番組のひとつ。日本と違ってアメリカの正月はびっくりするくらいなにもない。最初はすこしさみしいきもしたが、渡米20年近くにもなればそれもごくあたりまえになる。アメリカ人と結婚して、外国人のあまりいないエリアにすんで、アメリカ人ばかりの会社で働いて、それで普通に時間がながれていく。すべて日本式でやっていきたいとはもうあまり思わない。私はアメリカにあこがれてやってきた。現実のアメリカは、むかし夢見た50年代のハリウッド映画と大違い。しばらくホームシックでDepressionになったりしたこともある。なんとか気を取り直して舵をとりなをし、それからはアメリカになじめるよう努力してきた。小さなことの積み重ねで、ようやく現実のアメリカが好きになってきた。...で、先ほど見たテレビでみた正月番組ではないが今年の私の抱負は:幾つかあるけど、まずは、カレッジで、Unix関係のクラスを幾つかOnlineで受ける。B以上でパスすることを一番の目標とする。もう50近い。確かに昔にに比べれば頭の回転もおそくなって体力的に無理もきかない、以前の何倍もの努力を必要とする。時には、若いときこれだけがんばっていたら、私の人生まったく違っていただろうと思ったりもする。 ...でも現実の私の青春時代は努力と無縁の生活、ずいぶん失敗も多い。若さを失いはじめた今頃になってやっと手に入れることのできるものもある。すくなくともいまの私は10代20代の頃より幸福、新しい年ををむかえまた一つ年を重ねることを恐れていない。
January 2, 2004
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クリスマスはとうに過ぎたのに、家ではラップをかけたままのギフトがツリーの下に所狭しと並んでいる。旦那のお母さんたちが来るニューイヤーまでギフトをあけない。旦那の家族はまつりずき。プレゼントをもらうのもあげるのも大好き。彼も例外ではない。私たちたった二人だけの家で、毎年クリスマスには相当の出費を覚悟せざるをえない。いつも親切にしてもらっている親戚、友人はさておき、やっぱり一番困ってしまうのがお互いへのギフト。旦那がくれる以上、私だって買わざるをえない。毎年さりげなく、あんまり派手にしないように言ってあるのに今年もツリーの下には私へのギフトはざっと見ただけでも20品はある。。安いものは2,3ドルの石鹸から上は200ドル以上もする鞄とか...彼は自分のギフトバジェットのかなりの部分を私のギフトに遣う。 残念ながら、本当に私が心から欲しいと思ったものをもらった事はあまりない。結局、安いものはそのままキープ、高いものは多少の後ろめたさを感じながらも返品か交換。 家計のことを考えればクリスマスはムダだらけ。それでも私は旦那にあまり強くはいわない。私の父はとても見栄っ張りで浪費家だった。人前で札びらを切ってまわる反面、家族の前ではとてもしまりや。母は結婚以来、一度として父から贈り物などもらったことが無い。むろん幸福な結婚ではなかった。母の生活は苦労の連続...アメリカに来てからずいぶん旦那に強くでるようになったわたしも、クリスマスの散財は大目にみる。彼が私の贈り物を笑顔で受け取るように私もそうする。わたしがほんとうに感謝しているのはギフトそのものでなく、彼の気持ちなのだから。
December 31, 2003
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