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庭掃除をした。見上げるとあらかしの木が立っている。一応、これもどんぐりの木なので、秋になるとどんぐりがころころ・・こぼれ落ちてきた。そのうち、自然と落ちてきたどんぐりの実が芽をだして育ちだした。この芽が年月をかけて、あの大きなあらかしの木になる。これでだいたい2、3年目の大きさ。これどうする?もって行くよ。もって行くって、街中でここみたいに植えるところないでぇ。さてどこに植えよう・・・うちでは庭もないし、土地もないし、育てられるところじゃないし、、、どこに植えたらいいと思う?*アラカシ(樫)はブナ科の常緑の広葉樹であり、温暖地方に自生していますがこのお店の目印でビルのシンボルの樹は鹿児島から移植されて来ました。中国では気象樹と呼ばれ、ふだんは濃い緑の葉をしていますが天候の変化や季節によって赤く変り、そのため昔の人は葉の色を見て野良仕事に出かけたといわれています。庭にタイムカプセルが埋められている。ビルの持ち主の歴史が埋め込まれている。ここに80年の歴史がある会社の歴史を物語るものが埋められていることをどれだけの人が気がついていただろう・・・この庭にあったことを。次にタイムカプセルが掘り出されて開けられるのは2025年。あと18年先のことになる。その時には 中にどんなものが入っているのかのぞいてみたかったなぁぁ。。
2007.03.30
最近好きなタレントで大好きなのが大泉洋さん。ローカルのバラエティー番組がまたおもしろい。昨日のドラマ ビデオ撮りして見た。こんなに演技うまかったけ・・感動してうるうるしてしまった。でもね。『 チャングムの誓い 』(NHK・韓ドラ)が最終回で毎回見逃せずこちらを優先したら裏番組の 「 東京タワー 」後半 いちばんの泣き所は撮れなくて最後わからないまま、きっと泣いただろうな。また小説を読もう。チャングムもすごい壮大なドラマだったし、志をもって生きる。そんなことを教えられたような気がする。生きる目的を持つと人は元気になり 健康になり生活も変わる。志を持つ。人のために生きるのもそうだし。「 東京タワー ~僕とオカンと時々オトン~」こっちだと通天閣にあたるんだろうけど家の窓から小さいけど見える、でもほとんどかかわりがない。けど我が家の東京タワー物語。「 俺とオフクロと時々ヨメ」と題して 我が家のドラマ。去年の11月末に俺(チーフ)のオフクロさまが亡くなってから1年たった。その4ヶ月前には オヤジ(義父)が亡くなって去年は一度に両親が居なくなって 心にぽっかり、大きな穴ができてしまった。時々気弱になる俺を見ると きっと淋しくて陰で泣いていそう。男親より 母の方が偉大でかなり応えてるのか1年くらいでは 埋め尽くせないものがある。オヤジとオフクロが40年近く住んでいた団地住居。昭和30~40年代に建った公団第1号に入居。思いで深い部屋の後片付けと遺品の整理は「 おれが全部やる 」といって任せた。オフクロ姉妹で形見分けしたのであとは生活用品のみ。遺品もほぼ片づけて家主のいない部屋も解約手続きし終えてると思っていた。3ヵ月後、家主と住人とその家族が居なくなってダレも居ないのに解約手続きを最後まで終えていなくて住人不在のまま まだ部屋は名義がそのままだった。「 早く手続きを済ませてください 」と再三の勧告も重い腰が上がらない。このままほっとけば 3ヶ月どころか半年、7ヶ月8ヶ月・・1年1周忌と住人不在のまま残して置いていただろうという感じ。そのままだった。俺が片づける といわれるがまま任せていたけど早く住居の解約手続きを済ませるよう促がしようやく 故人の住居も手放し終わった。残ったのは住居不在のまま 居続けた空家賃3か月分。その空家賃・・知らんかった出来事だったのでどうすんねん! とヨメが困惑。俺の勝手やろ! といわれる。どう解釈したらこの怒り おさまるだろう・・・・人の痛みがわからない人間ではないがこのときは理解不能。結局仕方ない。この料金は 俺とオフクロの思い出料金 と思うことにした。一年たっても空洞化した心の穴は簡単に埋めれないみたい。自分では気づかないが後で振り返るとそのときボーっとしてることが多かった。オフクロは長年つれそったオヤジがなくなったときはやれやれ・・とおもってそんなことを言っていたけどひとりでは心細いだろうと俺は オフクロと昔からよく行ってた中華屋へふたりでよく食べに行っていた。そのうちオヤジが見えると言い出した。オヤジがとなりで食べてるといいだした。そのままオヤジが連れて行ってしまった。ひとりでは淋しいかったのかくそオヤジ連れて行きやがってって言う。取り合い。4ヶ月だけだったけどオフクロとふたりだけで水入らずで過ごした。ヨメは時どき 世話をしにいって見てた。11月下旬 緊急入院するまで元気に中華屋へ行って過ごしてた、俺とオフクロ。俺にとってのオフクロの存在はやっぱりでかい。ビートたけしが言ってた。みんな男はマザコンだと。そうかもしれない。 (俺は一人っ子じゃない、長男です)俺とオフクロの日が続いてたのでわかっちゃいるがヨメもいわないし、ヨメの誕生日をやりすごしオフクロとすごした。忘れてた。今年は2日送れてキザに花束をもらった。ありがとぉ。
2006.11.19
ライブを終えて・・・。まだあのままもうちょっと歌っていてほしかった。聴いていたかった。。こんどは観客として聴きに行こう。12月にもそれぞれライブあるそうなので、二人の優しい歌がまた聴ける場所へ。1時間半。いったん終わって一部のお客さんも帰ったあと、 遅れてきた方もいたのでアンコールでまた2,3曲歌ってもらった。お客さんも拍手喝采。喝采のなか、輝いていた。それぞれずっと音楽活動をされて、好きな音楽で通じあい素敵やなと思った。また聴きたくて来てくれるファンもいるのだからほんと素敵。喝采・・・昔、ちあきなおみがうたっていた。引退してもう随分になるけどものすごく歌がうまくてもう一度 生でちあきなおみが聴きたい。小学生のころだったからまともに聴いてないけど昭和の名曲の歌番組で見ることがあると聞き惚れてる。喝采は心に残る名曲だね。なぜか最近、美空ひばりや越路吹雪・・・他歌がほんとうまかったなぁと感じる。子供の頃は 演歌やシャンソンなんて難しくて聴いてもさっぱりだったけど今聴くとあぁやっぱすごいなぁ聞き惚れるな・・生で聴いてたらもっと感動鳥肌立つんだろなぁ・・と思ってる。ふだんミーハーで馬鹿だからしゃれた歌聴かないからどんなアーチストが好きで聴いてるか言ってない。初めて手にした洋楽のレコードはアバのダンシング・クイーンと、イーグルスのホテル・カルフォルニアは初めて聴いた洋楽の中でも感動。いつ聴いてもせつなくさせる。
2005.10.23
今年は知り合いの方が何人か 病気で亡くなられてるのが多くてお葬式に呼ばれることが多かった。春先お寺の息子でお坊さんだった二階堂さんが 若くしてガンで亡くなられて ショックだったいつも病院帰り 牛ヘレカツランチを食べによってくれてたのが来なくなってそしたら、残念ながらダメだった。ご自分で覚悟されていた。抗がん剤で頭も坊主に。坊主はお坊さんでもあるからだけど。それから夏にはお酒の業者さんでお世話になってた黒島さんがガンで亡くなられた。先日、雑誌・テレビでうちのお店を知って来店されたお客さんも日本酒好きで島田商店の黒島さんからその方も日本酒のいろはを教わったと言いガンで亡くなったと知らなくて驚かれていた。そして、夏の真只中、義父が亡くなった。このとき、月末でしかも連続で大きな宴会が予約が入っていて危篤状態が続くさなか落ちつかない日が続いた。亡くなる直前、ランチタイムのピークが終わってすぐ病院から『 心臓停止いたしました。すぐ来て下さい。』と電話を受け取ったのは私。丁寧に伝えて来られてチーフが病院に着いたときにはきれいに洗いも終わりおうちへ連れて帰れる支度が出来ていた。残念ながら最後を看取ってあげれなかった。覚悟はしていた。その後、お通夜の日前後お客さんに断ることも出来ただろうが何事もなかった様に宴会を受けて 営業を続けた。お客さんたちは何も知らないし、知らせてもいない。お通夜には義弟に任せて取り仕切ってもらい柔道部の同輩や後輩がお通夜のあと お店に寄ってくれていっしょに過ごしてくれた。お葬式は日曜日だったので喪主として全うした。けど、ある人に『 親が死んだんやで! なんで店なんか開けてるんや! 親不孝もんッ!! お前ら親不孝もんや! 宴会ぃ?! そんなもん断れるやろ! お前らあほか!死ンでまえ!』と怒られた。 私:「 そんなこと言うたってしゃぁないやろ! そんな簡単に急に断られへん。」 『 たかだかどーせ!安もんの飲み会やろ。』って言われてカチン。 「 安もんの商売で悪かったな!!」と遺産争いではなく お通夜の日も亡くなる直前もお店を開いたことが争いになった。そう、私は義父の最後よりもお店を選んだんだ。月末、売上げほしい、 ちいさな予約は断ったけど大きな宴会はもう決まっていて今更 断れない。とお店のことばかり考えてしまった。芸能人は親の死に目に会えないのを覚悟しなさいとよく言う。舞台に穴を開けられないと。芸能人じゃないけど来てくれるお客さんに迷惑をかけられない。のもあった。良かったのか悪かったのかわからないけど商売するという事はこういう事もあるって思ってほしい・・・いろんなお客さんがいる。その中にお坊さんがいて、4年前に本を頂戴した。 松島如戒 さんいうお坊さんだけどなかなか老獪で豪傑な坊さん。話をしてても人を飲み込むくらい覇気があってすごかった。このお坊さんから「死後の人権」の提唱。納得して死ぬためには、何をどう決めておけばよいのか。葬儀・お墓の最新事情から遺言の残し方まで解説し、死後の事務をしてくれる生前契約を記されている。遺産争いも耐えない世の中。死ぬ時まで揉め事が絶えないのは死んだ人も浮かばれない。そうならないためにも読んでみるのにいい本だと思う。また人には寿命があるんだなと思うこともあった。生かされてるという事を知り気力・体力ともしっかり持って過ごしたい。
2005.10.16
今日は満潮日。忙しくて驚いた。この前まで潮が引いたように・・・あまりにもヒマ・・だったので今日きた常連さんに『 いつも忙しいくせにぃー。ヒマなわけあらへんやろぉ。』って・・・とんでもない正直に言ってあげた。閑古鳥がしばらく鳴き続けた。どうなんてるんだろう・・・って感じで波がすううっぅぅ・・・と引いたように静かだったり津波のようにどっぉぉおおーと押し寄せたりの大波小波の毎日。波が引いたように静かだった日に続けて来ていた新人のバイトには申し訳ないがヒマを与えたとたん 忙しくなった。女将、へとへと・・・>*(◎o◎)*<。知り合いのマスターに『 僕が来たら忙しくなるよ。お客さん呼ぶから。』って、・・まさに福の神。客を呼ぶ人 呼ばない人がいるのはほんとかも知れない?その人が来たら 人が人を呼んでお客さんが入る?。反対もあり。だれか貧乏神でも私らスタッフ・店の中のもんにいるのかもしれへんでぇ。と意地の悪い話をしていた。私が貧乏神? 引力に欠けてる・・・・少々意地の悪い話になるけど・・・・・この前入ってきた新人のバイトには申し訳ないがヒマを与えた。貧乏神という事でヒマを与えたわけじゃない。2007年後、この先団塊の世代の方たち大勢が定年退職されていく。団塊世代に限らず今でも退職後 悠々自適に過ごされる方、あるいはまだこの先もずっと働く方がいると思う。そして、再就職についたりバイトに行ったりされると思う。女将もいい年なので思うことだけど(何かの事情でいつ人の下でまた働くことになるか分からない。)この先、中高齢の方がなんらかの形で働きに出ると自分よりずっと下の年齢の人に使われることもあるし、ご自分の息子・娘ぐらいの人が上司になるのは当然起きること、ありえることで。そのとき、どうするか。私らより長い人生歩んでる分人生経験豊富なのは当たり前で 仕事もできる方もいる。でも、新しい職場に自ら来られた場合よく考えて欲しい。誰があなたの上司か。誰がオーナーか。誰が長か。誰が仕事の先輩か・・・実年齢は関係ない。新しい職場に来たら仕事の上では新人。経験豊富でやる気があるのはすごくいいことなんだけど僕が、私が・・・と自分のことばかり先になると大変。そういうプライドはこの際捨てた方がいいように思う・・。暇を与えるほうも心苦しいもんで気持ちのいいものじゃない。しばらく悶々とした気分が続いた。今日も常連の会社の部長さん40代後半の方が新入社員さんを連れてこられた。がその新人さんのほうがずっと年上の方だった。まずは職場になれるように・・・・と食事にさそって連れてこられた。人材育成も大事な課題で確かに若い子達を採用して育てるのが先なんだけど経験を買って 採用したバイトさんだったけど馴染めなかった。私でよければいつでもお手伝いに来させていただきますとおっしゃってくれたYさん。のようにそういう気持ちでお勤めされてもいいかと思う。使ってみて初めてわかる人と生り。人を雇い使う立場としてはいつもいろいろ考えさせられることが多い。人材育成はこれからもずっと課題。
2005.09.20
どんぐり、コロコロ♪ どんぐりこぉ♪~小さい秋を見つけた。今年ようやく、あらかしの木・・・どんぐりの実が成りまだまだ少ないけど 落ち始めた。雨のようにこれから どんどんどんぐりも落ちてくるといいなぁ。実りある秋になりますように・・・・・。人気blogランキングへGo! 秋の便りをお届け。
2005.09.16
台風無事通り過ぎてくれて・・ホッ・・・来る来るって騒いでいたけど大阪はまた無事でした。1都市集中型の日本の首都・・・・・大阪に変えませんか?今日は台風一家が通り過ぎて風がかなり吹き荒れていてびゅぅぅぅ~って 音がすごかった。あらかしの木も強風にあおられて揺れまくり。踏ん張っている。嵐の中、耐えて耐えて生きてるよ。えらいだろう。軟弱なあらかしの木もどんどん生長してたくましくなったかな?と思ってついあらかしの木を見上げる癖がついた。おい!あらかし、大丈夫?。あーぁぁ大丈夫、だいじょーぶ。女将の独り言。あらかしと会話をたのしんでるんだぁ。 あらかしの木「雨ニモマケズ」雨にも負けず 風にも負けず 雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫なからだをもち・・・・(原文)雨ニモマケズ風ニモマケズ雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ慾ハナク決シテ瞋ラズイツモシヅカニワラツテヰル一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベアラユルコトヲジブンヲカンジヨウニ入レズニヨクミキキシワカリソシテワスレズ野原ノ松ノ林ノ陰ノ小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ東ニ病気ノコドモアレバ行ツテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ南ニ死ニサウナ人アレバ 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ北ニケンクワヤソシヨウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシサムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボウトヨバレホメラレモセズ クニモサレズサウイフモノニ ワタシハナリタイ 【宮沢賢治】日本の名詩を読みかえす
2005.09.07
どうやら、台風は関東へ上陸模様。こっちは夕べ、風が強くて台風が来るんじゃないか!?と お客さんたちも家路を急いでの帰宅でお店も開店休業状態だった。・・・・^^;今日はとっとと台風も行ってくれて晴れ間がみえて夕方、準備中外を見るとお日様が出ているのにパラパラと雨が降っていて『 キツネの嫁入り 』 でした。キツネといえば前にも話した 土佐稲荷のキツネの神様のこと。「 最近ココのビルついてない事が多くてどうしてでしょう?」って開運プロデューサーの藤尾先生や十津川村の玉置神社の神主様にお尋ねしたことがある。屋上に奉ってあるお稲荷さんは土佐稲荷さんが母体でキツネさんが神様でお願い事をしたらすぐ叶えてくれるけどきちんとお礼をしないと倍返しでやられる!キツネさんの仕返しはきつい。っいう。商売人が好む御神体だそうです。昨日。大恩人がいる。このお店「 あらかし 」を開店する時に大変ご尽力いただいた方がいて、その方は例えると 釣りバカ日誌に出てくる スーさんのような人。浜ちゃんとスーさんという関係。大恩人モーさんが会社を退職されてから今年に入って初めて、お店に顔を出してくれて久々の再会だった。店どうやぁ、うまいこといってるかぁ?見回りに来たったでぇ。といって遊びにやってくる。大事なお茶友達。相談役。といっても、もうお年は70代。人生の大先輩で経営の大先輩。モーさんと肩並べてお茶しながらその屋上の神社について聞いてみた。 モーさんがいた会社の本社ビル(あらかしのあるこのソーラービル)がここ阿波座に移転してきて新設して約5年経つ。屋上のお稲荷さんも奉るの止めようか、それとも奉ろうか迷ったらしいけど 御神体なくしたらダメだということできちんと移転してもってきたとか。きちんと御神体を奉って掃除もしているものの(掃除はきっと掃除のおばチャンたち。)モーさんが退職してから 誰か会社の人がきちんとおキツネさまに ご挨拶、お供え、訪問して大事にしてるかというと モーさんも全く関知してなくて『 ちゃんとお参りして 、きちんと奉って丁寧に扱わないと 倍返しされますよ。 キツネさん怒らせるとこわいらしいですよ。^^』ってちょっと脅しておいた^^。かなり脅した^^。モーさんも少しマジな返事で『そやなぁぁ。いっぺんちゃんとお参りして奉ってあげなあかんかぁ!』そうですよ。どなたか会社の方に伝えといた方がいいですよ。土佐稲荷さんが御神体で奉ってるところで最近不景気に悩まされてるところはトップの方きちんとしたほうがいいらしい。モーさんの代わりに屋上にいってだいぶ前、エミちゃんとダレンからお土産にもらった愛媛の道後温泉の伊予ロールケーキを1個持って(たった1個ぉ・・・)お供え・ご挨拶してきた。これで機嫌直して下さい。おキツネさま。シマッタ・・!お清めのお塩忘れてたな。なんでこんなとこに伊予ロールケーキがお供えされてるのか?って掃除のおばちゃん思うやろ。それ、私。台風もさって無事お天気。おキツネさまもお嫁入りして (どこにお嫁に行ったんやろかぁ?・・・)これで安泰。ますます繁盛?って。ロールケーキじゃ満足しないなら昨日作ってたパウンドケーキはどう?おキツネ様ぁ。 コぉぉーン♪
2005.08.25
先の肩書きについて、もう少し触れたいので思い切って書きます。が、ここから本とに長くなり難しいので、心してかかって読んでください。面倒な方はここで終わった方が楽です。そうして下さい。では、この肩書き。各個人の肩書きに限らないと思う。企業名が肩書きにもなる。うちのお店にとってこの肩書きが経営に影響があった。お店を始めるきっかけ。2000・12ごろ前に務めてたお店は今の所から歩いて僅か7.8分にある。そこへ、オーナービルの役員さんや社員さん達がいつからか、食事に来られるようになっていた。その頃の私はパート主婦でランチだけ手伝うだけで、ほとんど面識がなかった。そして、チーフはこの頃、よく常連さんからも『これだけの腕があって、料理が出来て、なんでここにいてるねん?』『店もったらいいのに・・』『自分の店を持ったほうがやりがいもあるやろう。』と、独立を進める様な発言が出ていた。本人だって自分のお店を持ちたいという夢はもってたし料理人の夢である。が当然お店をするからには資金がいる。満足な資金も持ち合せてないから夢の夢。その頃、〒局へ行くのにあらかしの木の前を通っていたチーフは下が空いていたのが気になりそこでお店をと・・・願うようになった。しばらくしてある日お店がやれるかも知れないというから、聞いたら、一部役員が店を持ちたいなら、『一度お話を伺いましょう。』という事で私と友達とチーフは会社訪問し会社案内してもらった。隣のフロアではいつも見かける社員さん達が仕事をしていた。その時初めてこのオーナービルが大企業だと知った。この時の話は資金含めての全面協力だった。が、いくら料理が旨くて腕をもっていても一料理人で会社と関係ない人間にそれは出来るはずがない。当然だ。会社は私物じゃない。と言うことで、運転資金の一部を用意したらお話を進めましょう。となった。それからの1年、開業資金の調達や民商さんにご相談、親戚家族会議、・・と続いた。運転資金一部が用意できたのでこれでいけるかとなと期待。が、 ちょっと待った!会社は私物じゃない、社員を含む全てのこの会社の公共であり簡単に店を出していいのか!工事資金はどうする?!と中断しかけてた。店が出来るとその気になってチーフもお店に辞めると言うし、店を出しますというし・・まだ何も決まっていないのに・・(ーー;)気が気でない私、大丈夫かよ。これで破棄されたら路頭に迷うでぇ・・次にオーナービルから事業計画書の提出を求められ20~30Pに及ぶ新店舗の計画書を作った。作成に費やすこと約半年・・税理士さんや元新聞記者の方に教わりながらどれだけの採算があるか数字算出、経営理念、消防対策、資金内訳など多岐項目の計画書を提出した。一料理人のお店出店について連日話題になり役員会議が行われた。お店をしたいとスター○○ッスや大手外食産業などオファーが数百件あっても断っていた場所。その間にも残りの運転資金の準備におわれてたけど工事資金はどうなる?八方塞り、あきらめるしかない状況だった。万事休す。あらかしの木やめて別のとこでやる?・・・前のお店には事情説明して退職願もだし円満退社の予定、路頭に迷う寸前どうしよう・・。その中ビルの会長がランチタイムに来られた。そこでチーフも最後のお願いと会長に直に面談を申し入れたら『この後すぐ来なさい。』と受け入れ 夫婦そろって会長室へ招かれどうしてもお店をしたいと話した。この会長は企業業積の高い評価と長年の慰労を認められ一昨年陛下から勲章をもらい園遊会に呼ばれた民間企業の一人者でまず普通にいくと私が関る事がない人だった。会長室へいった。密室じゃない。(間違わないように)会長は始終ニコニコ、周りにいた人も緊張、私も笑顔満開ながら緊張。チーフは熱意を語る。断られるかも。でもいける?!ハラハラどきどきの緊迫の場面。一通り聞かれた後の一瞬の一言。『おやりなさいよ!お店したいんでしょ。協力しましょ!』と鶴の一声がでた。この時お店出店が決まった。人生最大のチャンスをこの時つかんだ。2002・10月この後打ち合わせに入り工事資金は会社が立替払い10年契約で、自己負担。けっして会社が先にもこれから後もパトロンになったんじゃない。(言い方を悪くいうと パトロン・・経済的支援者、特定の人物の後援や後ろ盾をさす。たにまちとか。一料理人が料理一つで自分の腕で夢をつかんだ。そして応援してくれていた社員さんや役員さんの好意も受けて会長や元社長にご尽力いただいて常連さんと喜びのオープンになった。2002・12オープン翌年しばらくして事業計画の通りだと ビル内の会社の人や社員が来てくれる筈が会長や役員の訪れる所に それら人が集まる店に誰が好んで食事を行くか・・敷居が高すぎて僕ら一般人の行くとこじゃないと敬遠された。悪循環の始まり。中にはやっぱり非難中傷、会長がついてるからいいやんとか。(冗談ない、後で話す)オープン景気もありお客さんも連れていただき売上げ上々。前の常連も続入て来ていた。世間は阪神の20年ぶりの優勝に沸き阪神ファンのこの会社も優勝祝賀会を開いて歓喜。その頃会長の下では自社株が毎日下がり始め不穏な動きに気づき現因究明をしていた。乗っ取り?この時ずっとそばで見てた私は会長の唯一のお茶のみ友達でなぜか相談役になっていた。女将業も教わりながら・・。そして優勝の余韻も冷めてないある日とんでもない事が起きた。クーデターが起きた。一部報道され過去のことなので話すが公共工事の協力会社の人が仕事の事で内部告発を起こし一挙に危機に落ちいったのだ。休日返上して全社挙げての出勤、会議。誰も全く事故が起きていて内部告発されることがわからなかった。これを機に前社長は引責辞任(責任とっての意)問題当事者の役員解雇、会社は一ヶ月の営業停止。さらに追い討ちをかけるように会長まで退任することになった。退職金の2億円も自から蹴ってしまった。会長辞任と同時に会長を慕っていた社員たちが大勢一挙に退社していった。私やチーフにしてもよき理解者であり最大の相談者を失った。私は えらいことになった、この先どうなるんやろう・・その後直に新体制で新社長になり会社再建、業務縮小 経費削減、希望退職などでまた大勢が退職した。残った役員と社員で『残った我々で再建してがんばろ!』と新社長のもとがんばってはる。店では頻繁に元・会長や一部役員の利用で売掛け収入があり助けてもらってたがこの方々が来る事によって他が寄り付かずオープン景気も終わり気がつけば客は僅かの常連さんと会長だけで売上げも下がっていた。これは大変だ。売掛けを当てにした売上げで店がこの先続く訳がない・・・。何とかしないと大変。と私は悩んでいた。危惧していた。売掛けを当てにしない正規の売上げをつくり新規客やリピーター、一般客が出入りするようにしないとやばい! そこへもって会長の辞任。売掛けも減るじゃないか・・・でも、これはそれに気づいてた新社長や役員さんがクーデターを機に店の危機も救ったわけだ。会長がいなくなり他の人がよく利用する様になって来た。よそのお偉いさんが来てたら落着いて食べれないし話も出来ない。当然の理由だ。私だって敬遠するよ。一大クーデターはお店にも起きてた。がいずれ話そう。会長が辞めてから久しぶりに来られた時『僕が来ないようになってお客さんふえたやろう。 他の人きてるかぁ? 僕らじゃましとったもんなぁ。』本人も気にして気づいてた。私。『正直に言いますとその通りです。 会長が来る事によって他の方が来なくて困ってたのも事実 です。でもお店が出来たのも会長のおかげでもありますか ら時々は寄ってください。』ところで会長室であの時OK!した理由を聞くと『夫婦二人そろって来たからや。 チーフ1人できてたらOk!してない。 お店は2人仲良くするモンや。』この2月の売上げは内容はすごくよくなったとは言っても結果が全て。赤字・・。3月がんばらなあかん。失くした売上げを戻すのは会社再建と同様、時間がかかる。肩書きがなくなり、売掛けも減収で真の実力勝負。走るしかない!独立とはそれまでの肩書きが無くなり会社の庇護を離れ、自力でやることだ。
2005.02.27
今日は帰り雨だったので自転車をちょっと飛ばしていたら曲がり角で危うく前から来た自転車とぶつかりそうになった。あぶない、あぶない・・。車(Mayポルシェ)は急に止まれない!飛ばして走っているから当然、信号無視もし・て・い・る。ごめんなさっいぃ!車社会も信号無視がいちばん多いのが大阪だ。データあり。車を運転しているときは急に飛び出して来る自転車におこっている自分がいて、勝手なもんでしょ。でも、ナニがいちばん危ないって携帯しながら走っている自転車の人だ。絶対前なんて見てない。わたし・・けいたい持ちません。ずいぶん前、朝の通勤中にいつも通るガソリンスタンド前で前から携帯しながら走って来た女性が全然気がついてなくてぶつかる!と思ったので先に私が止まった。あわてて止まっても携帯を離さない女性。危うく正面衝突しかけるところで止まった。あぶないなぁ!あほ!(失礼!乱暴な言葉で。)とつぶやいているとそこへほんの数秒後、突然後ろからドカァーン!! ガチャツ!別の自転車が私に思いっきり追突してきたのである。ぼう然とする私と先の女性。何が起きたかさっぱり・・。車で言うと玉突き事故のような状態。後ろから前方不注意の車がおかまをほってきて私の車はバンパーと後ろ車体がV字にへこんで前は止まっていた車に勢いで玉突きをしてボンネットも破損、両方から突っ込まれた状態。私は首から下がむち打ち状態・・・か重体ていう状況。幸いポルシェはなんともなかったけどそのときすごい顔をしてたんやろねぇ。どこ見て走ってねん!あほぉ!といいたかったけど(めったに言いませんヨ・・こんなこと。)ガソリンスタンドの人もみんなあっけに取られて事故をみていたので何もいえませんでした。その場を立ち去った後、全然知らないもの同士残った女性ふたりはしばらく立ちすくんだままだった。後で考えたら慰謝料請求したらよかったかなぁ。自転車事故、なんもなかったとはいえ・・・(^_^メ)とにかくぅ!自転車乗りながら携帯するのだけは絶対!やめてほしい。前見てないしあぶなすぎるよ!信号無視?・・・それはまだいいんですぅ・・(^_-)前置きが長くなったが、昨日久しぶりに陶芸教室の先生がお店に来てくれた。先生ちは近所なので前はお店の近くに教室があって、先生もチャリ通勤で帰りはよくいっしょに帰っていたからチャリ友。雨の日も風の日も。昨日も一緒にかえろうぉ。って先生、誘ってくれたけど最後まで勤務だったので残念・・いっしょにチャリ友出来なかった。30分の道のりを私のグチを聞いてくれるチャリ友。最近は教室にいけてないので今年は何もまだ作っていない。去年までの作品は・・一部。こんな感じ。変なもの作る人でとおっている。まともなものは上の写真の豆乳の茶碗蒸しの器。 カエル ・・塾の先生のリクエスト作品。 学習塾の窓口で生徒お迎え中。 カメのお香立て・・癒し効果抜群。 カエルの蚊取り線香。夏場大活躍・・・登り窯で焼いてもらって世界に1つしかない自慢の作品。入り口でお出迎え。お見送り中です。今年も大作に挑みたい。時間が許す限り・・元某私立芸大を 半年で中退。最終学歴・・高卒・・。以上
2005.02.24
チーフ登場。なんか書け!というたら書ける事はいっぱいあるというので書いてもらいました。自分の料理をやり始めて約10年。(38歳からごろから本格的にはじめた)いろいろな料理(僕の売りは材料があれば何でも料理をしますよという事)を今までしてきましたが、一番の思い出は,前に務めていたときのお店の常連さんのことですが、奥さんが『くもまっか出血 』 で倒れ入院したという事は聞いておりましたが。しばらくしてその常連の社長さんは 『 人間は、口から直接食事をしないと”生きる”という事が生まれない,点滴だけではダメだ』という事を強く言われてきました。そして、ある日 いきなり 僕に向かって 『だから(奥さんの)料理をつくってくれ!』と頭を下げられました。僕の中ではその人が一番怖いお客さんだったので僕に対して頭を下げるという事が考えられなかったので二つ返事で引き受けました。とは言うものの、流動食なんて作ったことがなかったので随分考えました。そして、僕なりの料理で1週間だけでしたが作らせていただきました。お忙しい方だったのですが、毎日仕事が終わってから僕の作った流動食を取りにこられ奥さんに食べさせていました。その後、その方から『君の作った流動食は 命の水(スープ)だ』と最高の言葉をいただきました。本当にこのときはうれしかった。涙が出ました。 今から6,7年前にあったこと。 その後お元気で過ごされています。流動食はほうれん草と鶏肉をミキサーにかけて作ったもの。よく覚えていない。チーフのお母さんもC型肝炎のため食事制限がある。今もチーフは作っているけどややこしい。食べるって大事なことだなと思う。
2005.02.06
お店の話ばかりになって申し訳ないけどお店のできるまでの様子を書いたついでにもう1つ、忘れてならないものがあった。あらかしの木の下、お店の中庭の花壇のところにオーナービルの会社のタイムカプセルが埋め込まれている。 2000年11月、このビルが出来てからすぐ埋め込まれていて、初めて見たときなんだろうと思っていた。タイムカプセルを埋めている会社って他にあるんだろうか?それで、簡単に紹介しておくと、日本中、世界中の大小さまざまな橋を作っている会社、鉄鋼会社なんです。東京タワーもそうですネ。 ちょうど あらかしの木の周りに一巻きぐるっとまかれているのは 橋のケーブル線で 明石海峡大橋にも使われているものです。2000年11月に埋め込まれたこのタイムカプセルの中にいったいどんな物が入っていてどの位の大きさのカプセルかも知らない。勝手に掘り起こすわけにもいかない。このタイムカプセルが開けられるのは2025年11月吉日である。あと、20年後になる。それまでがんばっているだろうか・・・?小学校の卒業にタイムカプセルを埋めたことがある人もいるだろう。思い出の品を持ち寄って 卒業後10年後、20年後に宛てた自分への手紙だとか、卒業文集だとかいろいろ・・。自分だけのお宝を埋めている人もいるだろう。子どものころの遊び道具やおもちゃ。例えば、ビー玉やべったん(めんこっていうのかな。)とか・・。夢があっていいね。この会社が20年後にタイムカプセルを開ける時,私もみたいなぁ。どんなものが出てくるのかなぁ。タイムカプセル埋めたことありますか?
2005.02.03
こんなに寒いと自転車通勤もつらい。あまりの寒さに凍りつく。顔がいたい、耳が飛びそうなぐらい風がきつくて思うようにMayポルシェも進まない。のらりくらり。今日は業者さんが集金に来たので世間はどうですか?と聞いてみると『動きが両極端です。忙しいところとそうでないところがは っきりしてきました。』と。うちのお店はどーちっぃ?業者さんはいろんなお店を廻っているだけによく知っている。『今一番よく入っているお店が○○町の△△屋というお店ですけど一度行かれるといいですよ。』って教えてもらったので、ちょうど帰り道にあるようだったので途中付近を見に行ってみた。確かこの辺やねんけど・・・・。見つけられず。代わりに見つけたのが、看板に『刺青道場・彫富士』と書かれたお店?いれずみ道場?って背中に登り竜とか桜吹雪とか書いてくれる所?ちょっと覗いて見たい気がしたけど、怖いお兄さんたちがいてそうなので止めた。私が刺青?とんでもない。明日から近くのやよい軒がリニューアルオープンする。まあ、相手にしていない。形態が違う。あちらが明日オープンならばこちらも新装オープンだ。2002・12月始め工事が予定より遅れていたけど内装もほぼ完成に近づき、グラスやお皿、椅子やテーブルを揃えていき12月22日のオープンに間に合わせる。 飾り棚にグラス類やお皿を並べていく。テーブル席もそろい、いただいた暖簾をかけて、(もらった暖簾ので使わないと失礼かと使っていたが、お店の雰囲気に合ってなくて私が気にいってなかったので使用後取り替えた。暖簾の作者、実は国宝の有名版画家だった・・。) 奥に見える絵画もお祝いにとわざわざ画廊屋を連れてきたので今もつけいている。洋画だけどなんて人の絵か・・・わからない・・・。表玄関に筆書きの看板を。本来、あらかしは粗樫と書くのが正しいが、ここは新しいお店なので縁起をかついで 新樫 となっている。そして、酒屋さんからも立派な日本酒銘酒会の看板をちょうだした。 完成したお店はこんな感じ。奥に見えるのはクリスマスツリー。(お礼参り?1月14日号参照) お皿は全て信楽焼き.斬新な色使いの器に料理を盛る。信楽の窯元に1年以上通い、チーフは自分の料理とイメージに合う器を直接作っていただいた。お店の中にはお皿、器、置物全てが信楽焼き。もちろん。私が作った作品もインテリアとして置いてます。2002・12・20開店を前に日頃お世話になった方、またお客様をお招きしてのパーティー。 スッタフの塚ちゃんも乾杯!(今もいます。)そして2002・12・22 おまかせキッチンあらかし オープン現在に至る。(また日記の最初からどうぞ。お話がつながるので(^。^)お店の名前はみんなでアイデアを出し合うがなかなか思うような名前が出てこなかった。ただ、 チーフは あらかし という店名だけは最初から決めていた。前の店からいつも『なんかつくって。』とよく言われて断ることを嫌うチーフはジャンルを問わずいろんな料理に挑戦していた。それで、スッタフの塚ちゃんが これはどうですか? と言う事で採用したのが おまかせキッチン というサブネーム。そして、お店の名前が決まる! いまだ聞かれる。あらかしってどういう意味って。大きなあらかしの木が立っているでしょ。気づいてあげてください。あらかしに。2005・2・1現在の店内の様子はこんな感じ。 ライトアップされたあらかしも成長中。 ウ~ぅん、うまくつながったかぁ。お店の出来上がりいかがでしょうかぁ。2月になりました。今日も女将は走る・・・。
2005.02.01
冬になると手にあかぎれができて手が荒れる。最近の洗剤は殺菌効果が強すぎるから困る。大好きな陶芸もいけない。バンドエイドもむれたりはがれたりで役に立たない。料理人はバンドエイドの変わりに瞬間接着剤をつけるというからそんなのがあればいいなぁと思っていたら、しらなかった。すぐれもの発見!おしえてもらって即買った。 すごく便利な接着剤型バンドエイド。これはお奨めグッズ。2002・11月中旬お店の内装工事がどんどん進んでいく。 カベにタイルを貼り付けていく。 玄関に自動ドアを取り付ける。バリアフリーにしたかったけど床を底上げしたので玄関に段差が出来てしまい、あとでつまづくことになってしまう・・ エアコンの取り付けと空調設備。エアコンの排気口に困る。あらかしの木を枯らさないように熱風を当てないように排気口も取り付ける。 カウンター内にシンクをつけて食器洗浄機や製氷機なども取り付け。水道も排水用の溝を作ってビルの貯蔵タンク室ポンプ室のある方面から引き。 厨房に電磁調理器などの機材を取り付ける。 店内正面の飾り棚をつける。大工のおじさんの技がずい所に現れる光る。作業をするのに動きやすいように配置するか見た目重視のインテリアで取り付けるか棚の位置でちょっともめたけど職人気質の大工さんのいうとおりにインテリア重視の位置につけた。 中庭が見えるように窓の取り付け。店内の座席・床の内装も進む。外に立っているあらかしもそれまで目立つことがなくて通りがかりの人もこれが樫の木としらず、忘れられた存在でぽつんとさびしくたっていた。このあらかしの木があるところでお店が出来たらいいなぁとチーフは早くからこの場所に決めていた。この木はオーナービルが 鹿児島から持って来て植えた。お店をつくるから植えたんじゃなくて先にあった。 いよいよお店も出来上がりに近づく。つづく。*エコビルとは・・・自然環境の保全や環境保護に配慮のあるビルとして出来ている。 光と風・土がこのビルのテーマ。 屋上にはビオトープ(自然を取り入れ た人口池)がある。
2005.01.30
今日は疲れた。おまかせコースに鍋コースに誕生日パーティーでその他、お客さんがやってきて忙しい1日になった。夜、23時過ぎ看板も下ろして、外のライトも消して札も準備中にしていたのに、吹き抜けからわずかに見えるお店の電気がついているのを見逃すことなく、よく知っているお客さんたちが『 まだ、いけるぅ~?』といって、やってきた。まだ、先にいたお客さんもいたし、階段をわざわざ下りてまできてくれたから追い返すわけにも行かず、『どうぞ、良いですよ。』といって、そのまま深夜まで営業が続いた。ありがたいなぁ。金曜の夜。今週末、大寒波が押し寄せてくると天気予報。今日より気温が5℃以上も下がるというから近くのやよい軒オープンとともにいやな寒波。2000.8.○ごろお店が出来るまで、私もただの人。いまもただの人なんだけど。前のお店の時はランチタイムだけ手伝い、午後から別のバイトで二毛作。ただの人から,事態がどんどん変わる。自営業者になる。いろんな手続きや見たことも聞いたこともない書類に初めてかかわり、右往左往。いろんな人に教えてもらい手伝ってもらい新しい事柄を知る。2002・11・1いよいよ工事にかかる。その前に、電気も水道もない倉庫にどういう風に電気をもってくるか・・・また、環境重視のこのエコビルでは一切火を使ってはいけないという条件。環境を重視するためエアコンの室外機の位置まで厳しくチェック。熱風であらかしを枯らしてもいけない。消防法をクリアできるかどうか。どこから水道を引くか・・・これらいろんな問題をクリアしてのようやくの店舗工事開始。それ以前に最大の難関だった電気工事を済まして店舗工事に取り掛かった。お店の設計、建築はチーフのおじさんが大工さんなので自分たちの意見を最大限に取り入れてもらい、また、いろんな面で助けてもらった。 厨房は全てオール電化のため大きな分電盤を取り付ける。 水道の配管工事やカウンター取り付け トイレは男女別に。どんどん作業が進む。出来ることを手伝う。つづく。
2005.01.28
新年そうそう、すぐ近くの大手チェーン店食堂『めしや丼』が改装工事をはじめ2月まで閉店中となり、その間、ランチタイムの好景気が若干続いている毎日。今年最初の営業日は、目が回る忙しさだった.以前書いたように。(1月4日号参照)近辺で目だってお昼ご飯を食べられるファミレスもないのでしばらく めしや丼 の恩恵を受けて、客足が鈍るこの時期にお客さんが少し流れて助かったんだぁ。。そのめしや丼の改装工事ももうすぐ終わって、新しいお店として来週水曜日ぐらいから開店する。今日も店の改装工事が突貫で遅くまでやっていて、中の様子も見えてきた。居抜き(元あったお店の後に引き続き改装して利用することです。)なので、看板もそのままの位置で新しい店名になっていて、厨房も座席も元のままで内装を変えていた。居抜きの方が物件的にも安いので良いが、よく下調べをしないと反対に工事費用や資金がかかってしまうこともあるのでその店を注意して、掘り出しの物件もあるかもね。めしや丼から 次は『あじわい食堂・やよい軒』だそう。ランチタイムの好景気もここまでかぁ・・・ずっと閉まっていればいいのにぃ。なんて、パートさんとも話していた。でも、ちょっとはうちのお店を知ってもらうこともできたのでいいかぁ。でも、やっぱり影響があるだろうなぁ・・。改装工事の様子を見ているうちにうちのお店の出来上がっていくまでを思い出し、確か お店の出来上がるまでの様子を写したあらかしのアルバムがあったはずなんだけど・・・どこだ、どこだ、あった、あった。2002・10・25 当時の様子 あらかしの木について説明が書かれた石碑が建っている まだ、草も植木も何も植えられていなかった中庭。 下から見たあらかしの木 元はビルの倉庫、自転車置き場何もないコンクリートの壁。何もないところからお店を作る。つづく。(写真写り悪くてすみません。(^_^.)
2005.01.27
この前、以前のお店のときのスッタフM君が徳島からきてくれたけど、4年ぶりの再会で、しかも彼女と一緒に来てくれたわけであるけど。4年前、介護福祉の資格をとって介護士になりたいといって涙流して辞めていった。それから、一切連絡がなくてどうしているものかと思っていたが、どうやら本人の決意できちんと資格を取って1人前になるまでは会わないでいようと決めていたから、来ないでいたという。晴れて、資格もとって介護士の仕事をしているのでやっと顔見せできると来てくれた訳である。一緒に来た彼女も徳島の子で地元のケーキ屋さんに勤めている。それを聞いてM君に 『お前、俺がケーキとか甘いもん好きなんしってるやろ ぅ。全然連絡もしてけーへんし、挨拶に来て手ぶらか ぁ。』と、チクリ!あ、しまった。と思ったのだろうか。後日、昨日宅急便にてM君から荷物が届いた。中身は お菓子 となっていたのでさっそく開けて見ると30CM四方の箱にいっぱいケーキ菓子やクッキーが入っていた。それと、M君の彼女からのお手紙が店主宛に入っていた。店主は読んでみるとしきりに感心しているのでどうしたのかと聞くと『この前来た時 彼女ケーキ屋に勤めてるんやったら オマエェ、菓子折 りの1つぐらい持ってこいよなぁ~。 (^。^)ってちょっと言うったったら 彼女気を遣って送ってきたけどコレ、Mのやつは知らんみ たいやな。』というので、彼女から届いたお手紙を拝見するときれいに清書したような字で丁寧なお礼状を書いてくれていた。《 吹く風一段としみるこの頃、いかがお過ごしですか?(中略)先日は閉店後の忙しい時間帯に連絡もなしに突然行 ったのにもかかわらず、おいしいお酒とお料理を頂き、 とても楽しい時間を過ごす事ができありがとうございまし た。 甘い物が好きだということでしたね。少しで申し訳ない ですが私なりにチョイスして・・・・(中略) お口に合うかどうかわかりませんが、皆さんでお召し上が りください。 末筆となりましたが、お体に気をつけてお過ごしくださ い。》ときちんとした立派なお礼状だった。なかなかこうは書けませんよ。若い20代の子が目上の方に普段書くことってめったにないだろうし。たいしたもんだと感心してしまった。そう思い出した。私といえば、お店をオープンする時、お店のあるオーナービルであるこの『西本町ソーラービル』(景観と環境を重視し、エコビルで あらかしの木が立つ上には太陽光を集める集光機と 屋上 にはNHKでも紹介された事のあるビオトープがある。)を設計した一級建築事務所の女性社長から開店祝いにと クリスマス時期ともあってファイバスコープで光る、デパートのショウインドウに飾ってあるような大きなクリスマスツリーをいただいた。ただでもらったので喜んだはいいが後がいけなかった。あとで、このオーナービルの会長から聞いた話で、会長と懇意にされていて、会われたときに女性社長から『あらかしさんから、いまだお礼のひとつもないと言いはってなぁ。ちょっとそう言うてたからなぁ。(塩じぃみたいなきれいな大阪弁で) あのな、便せんあるか、今から書いたお詫び状と一緒にワインが好きな人やからそれすぐ用意してそれと一緒に渡し。僕の隣、ここに座って、書きなさい。女将としての心得や。これからもこーいうお礼状やら書くことがあるだろうから、これは女将さん修行のひとつや。』『はぁ、どんな風な内容書いたら良いですか?書いたことってないもので・・・・。(しきりに頭を掻いてる私。)』『自分の思ったとおりに書きなさい。』『ちょっとお手本のような書いて見せてもらえませんか。』と後は考え考え、書いて、お詫び状なるクリスマスツリーをいただいたお礼状を書いて、ワインと一緒に会長にお預けしてお渡しした。女性社長いわく、会長が書き!言うて書かしたでしょー!とばればれ。お礼状一つかけないなんて女将の不徳のいたすところ。これをきっかけというか・・・ことあるごとに書くようになった。何たる未熟さ。女将業教わる。お礼状、下手でもいいから心こめて書こー。
2005.01.14
初詣は毎年、気の流脈が最大といわれる伊勢神宮に行ってたけど今年はいけなかったので、厄落としの神様のいる我孫子観音さまに行って来ました。さむかったぁ~。とにかく寒くてこれが本来の冬なんだ。もちろん商売繁盛を願ってついでに家内安全も頼んできた。こー言うのは気持ちの問題でもやっぱり効果はあるから欠かさずいってるところ。おみくじは末吉。 ”たえず険しけれども到達する”って。小難しいこと書いてたけど あぁ、あたってるなぁ~と認める。商売を始めるとやっぱり神頼みだとか運気だとか気になりだして オープンする時も気にした。オープンの年は2人とも運気が良くて次の年から運勢が落ちるとわかってその年内中(オープンした14年12月までに)に何が何でも開けないといけないということで工事日程から全て計画して年末どたばたしている中、見事にオープンさせたのである。オープン前(2年前のこと)は 知り合いの会社社長に教えられて ちゃんとご祈願してもらいなさいとアドバイスがあったのでオープン当時のスッタフ一同連れてえびすさんで有名な今宮戎さんにいって ちょっと奮発してご祈願していただいた。祝詞を読んでいただき粛々と神聖に神主さまにご祈祷いただいた。気持ちが引き締まったしこれはやってもらってよかったと今でも神聖な気分になる。家にも神棚を作ってきちんと北西の神様のいる方角に奉った。ここまでするかぁーと思うだろうが気休めでもなんでもいいんです。ただし気にいらなかった神さんもいたんです。2時間ドラマの女王片平なぎさも参ったという地元にある絶対車の事故や飛行機事故にもあわないというくらいご利益のあるこの神社に行って 車によく張っている ”交通安全”のお札を頂いてきた。そのお札を我が家の車に付けてから・・・・・。あれよあれよ。。。!!と駐禁やら右折禁止やらなんやかにゃと立て続けに捕まるもんだから 悪い事はできないもんで見逃してもくれないんだ!ということがわかってちょっと頭にきてすぐにそのお札を取り外した。お札は付けないでいる。その神社の隣は交通機動隊の建物がしっかりあるんだからすごい!とりあえず初詣もすませておばあちゃんのところに行ってその後 北新地まで行ってラーメン屋でぬくもった。こうして今年も始まりました。
2005.01.02
今年1年の収穫はというと、お店を始めて2年経ちましたが。夫婦の会話がいつも以上に増えたことと、お客様が増えたこと。夫婦の会話が増えたことについては一緒にお店をやっていく上で大事なことだと思う。つまらないケンカももちろんあったけどよりお店を盛り立てて行く上で必要なことだから。一番お店がしんどい時こそ些細なことでも報告しあってやることが協力してやっていくことにつながった。仕事の話ばっかりだけになるとしんどいから ドーデもいいことまで会話が増えた。お店を始めると途中トラぶったり苦境になるとケンカが耐えないでお互いを責め合うようなことをする。一時そんな時期が続いた。お店をやっていく上で一番ぶち当たることはどこでもそうだけど特に個人点は運営資金の問題である。どうするか・・・またどうやったらお客さんが来るか・・・・などなど。一喜一憂ばかりしても疲れるから気を長く持つようにして余裕を持てるようにしようと途中で吹っ切れた。とことん話し合ってお店を盛り立てるやり方、得意分野は違っても目指す目標は同じだったからいつからか落ち着いて話せるようになった。大きな収穫だと思っている。お客さんが増えたことはうれしい。お昼は最低何人来客すればいいか、夜は何人来れば黒字になるかというのを数字にはじきだして目標として書いて張り出した。お店の掲示板にスッタフも見えるところに。そうすると自然勢いが出て目指している。特にランチタイムは女性客が増えてくれてうれしかった。早速来年の目標を書き出し見えるところにはった。いい1年にしたい。やることがいっぱいいあってお店をしていて楽しい。たのしいからいいんだぁ~。実りある商売をしなさいと お母ちゃんに云われた。ごもっともです。
2004.12.31
年賀状も終わった。クリスマスも終わって年内営業は残りわずかとなってしまった。例年、クリスマスはやっぱみんな家族とかカップルで過ごすのが優先でお出かけも多いから、静かで早めに終わりそう・・と思っていたら東京から、南港でコンサートがあって近くのホテルに泊まっているから寄ってくれた。あ、ぁ。誰のコンサートか忘れたけど。ケーキを作って待っていたお客さんも予約を入れていたのを忘れているのか来なかったのであまったケーキをみんなで食べる・・・ケーキ尽くしでおなかがいっぱい・・来年早々はホテルの宿泊客に来てもらえるよう近辺のビジネスホテルに営業に行こうと思う。スッタフのミセガーがホテルのフロントで働いていたのでいろいろ教えてくれたし、2,8と言って1,2月飲食関係は暇な時期に入るから今から次のことも考える。飲食店経営しているある社長が 『場所は関係ないです。』といっていた言葉がいつも頭にある。うちのお店は吹き抜けの地下1階にあるから外目にわからないからむずかしいな~と思ったりするけど、駅からは近く、飲酒運転取締りの影響も郊外ほど出なかったからホッ・・・。今年もがんばったから売上げも結果的には軌道に乗ってきたのでちょっとうれしいかな。商売は3年我慢して成り立つと 親戚のおばちゃんにも言われて納得。ここはもう人ふんばり!なのだぁ~。
2004.12.26
お店を開店して今日で丸2年経過した。右往左往しながら、紆余曲折しながらやってきた。オープン当時の写真をみると満面に笑みを浮かべてお店を持てた喜びで一杯の(^。^)をして写っている。たくさんのお祝いの花をもらいたくさんの方をお招きして開店を祝った1年目。決してここまで順風満ぷうに来たわけではない。いろんなトラブルや危機が次から次と起こりその都度、夫婦げんかもあったりやめときゃよかったと口から吐いたりしながらやってきた。ましてや365日毎日が気分のいい日とは限らずそれでも笑顔、笑顔と鏡に向かってにっこりしたりする。お客さんの前で夫婦喧嘩をしてそれを見た人は一度来きり来ない。だから何があってもお客さんの前ではけんかしているのを見せない。口を利かないこともある。家に帰っても仕事の店の話でうんざりしてチーフは家に帰ってこない日が何日か続いたこともある。夫婦で一緒に朝から晩まで仕事をすると切替がきかづ、またトラブルについてもまともな話し合いに面倒になっていや気がさしてまた家に帰ってこない日が続いたりすることもあった。でもやっぱりお店が持てて好きな料理が出来るしあわせがあるから協力してやってきた。従業員もよくついてきてくれている。オープン当初のメンバーとは随分人が入れ替わってしまったが今いてる人たちはよくやってくれている。ここまでやってきて自信もついた。やれるね。と。オープンした時はうれしいの気持ちが一番で簡単にお客さんもきてくれてやっていけると思っていた。そうじゃない。オープン最初というのはお店をやらしてあげるよ。あとは自分たちしだいで繁盛することが出来るかどうかがんばり次第ということでチャンスを与えられただけのことである。お店を持った時点ではチャンスを与えられただけで確実に繁盛する、成功する約束をもらったわけではない。だからこの2年経営の本から経理、サービスについて、料理本から商売に関するありとあらゆる本を読みまくった。机の上で商売をするわけじゃないので実践してはじめて商売とは・・こういうことだ。と知る。その中で自分の商売のバイブルとも言うべき本も見つけた。気持ちが後ろを向いたり迷ったり困ったことがあるとその本を読んでいる。超おすすめの本でお店をやっている人には勧めたい本がある。また紹介しますその本を。そしてまたお客様から教わることも多い。オープン当初から来てくれている方もいればその前のお店のときからの付き合いのあるお客様もまだいてありがたいことである。
2004.12.22
商売をしているといろんなことがおきる。トラぶったりくれーむもあったり、もちろん資金のやりくりから従業員とのコミュニケーション、夫婦仲・・・まで多種多様に問題は起きる。 そのうち多少の出来事でも動揺することなく踏ん張っている自分がいるようになった。オーナーや女将さんが暗い顔をしているわけにはいかない。この前、老舗高級料亭のおかあはんがお店によってくれた。いまだにどこのお店か教えようとしないがなぜかうちのだんなさんを気に入ってはちょくちょく来てくれる。老舗は老舗でかなり大変らしい。昔のように接待がなくなって大きい宴会の需要も減り思ったような売り上げが上がらず、苦戦中らしい。それでもおかあはんも顧客周りに回ってガンバっている。決してくらい顔など見せない。お店ではどうかわからないけど。そうみんな、うたれ強くなっているんだ。88歳になるうちのおばあちゃんが あんたの父ちゃんは商売上手やったといつもいう。(今はもういないけど)うちの父は公務員から脱サラしてスナックをやったりいろんな商売をして儲けた人だ。自分の3人兄弟の仲で一番私が父に似て自営業をしているのも私。でもおばあちゃんがいうように父のように商売上手とは今のところいえない。生きていれば商売の指南・アドバイスをしてもらうところだが。今日はまた忘年会の予約も入って一安心。がんばろう。
2004.12.14
第2土曜日は暇である。今日は会社関係もお休みが多くて街はゴーストタウン。おとつい忘年会だった人たちは昨日はぐっすりお休み中なのだろう。隣の隣に某飲食店のチェーン店ができて1ヵ月半・・一軒ぽつんとあるより何軒か並ぶとお店がることがわかってもらえやすくなったけど 昨日はやっぱり静かな1日だった。
2004.12.12
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