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2021.04.09
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テーマ: 史跡巡り(781)
大津山家稜の墓に来ました。 33.05971, 130.5976

県道194号線から上がる歩道があります。





大津山家稜の墓: 大津山氏は、藤原不比等より出た中流貴族日野権大納言資名の子資基が、応永二年(一 三九五)足利尊氏に属して武士になり、当時振るわなかった北朝の挺入れのために、臼間野 荘大津山の地頭に補任され、関外目に下向土着したことに始まる。  以来、北朝側として大津山城を拠点に威武を振るった。大津山の地は交通の要衝であり、 戦国時代に入ると大友氏の肥後目代小原鑑元に、また、竜造寺氏の北肥制圧の頃には竜造 寺家治に一時城を追われたこともあったが、よく難関に耐え、肥後の国衆として戦乱の世 を生き続けた。  八代領主大津山家稜は、天正一四年(一五八六)島津氏の先駆となり、士二五〇人・足 軽一〇〇余人を率いて、筑前岩屋城の高橋紹運攻めに参戦し、その翌一五年(一五八七) の豊臣秀吉による島津征伐においては、秀吉を大津山城に迎え参戦を願い出るも、留守役 となっている。秀吉の九州平定後には所領を削減、新領主の佐々成政には大津山城を追わ れ、神尾城に移っている。
 天正一五年に国衆一揆が起こると、和仁・辺春氏と共に反佐々の旗を揚げ、二六〇余人 を率いて神尾城に立て寵もったが、『南関紀聞』には、佐々成政の偽手紙によって、吉日の 浄満院で酒宴中、伝七生駒お千に刺殺されたとある。『中原雑記』『九州治乱記』などを総 合して考えると、安国寺恵瓊らの謀略により浄満院で殺された可能性が高い。その時期は
恐らく、田中城陥落以前ではなかろうか。 





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最終更新日  2021.04.09 00:00:20
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