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2022.10.09
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テーマ: 史跡巡り(781)
カテゴリ: ・・・九州外
五龍城跡 34.6974083917529, 132.752855420887

 五龍城跡は、甲立盆地の西南端の丘陵先端部山城で、南北朝期以後、毛利氏の防長移封までの約二百五十年間、宍戸氏の本拠として用いられた。
 宍戸氏は、常陸国宍戸(茨城県西茨城郡友部町)にいた宍戸朝家が、元弘三年(一、三三三)、足利尊氏と共に六波羅攻略に功があり、翌建武元年(一、三三四)に安芸守に任ぜられて甲立荘を領し、当初菊山中腹の柳ヶ城に入ったが、ここは城として不適当と考え元木山に城を移した。しかし、用水がないので、五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに井水が湧出したので大変喜び山名を五龍山と改称した。
 城の遺構は、本村川と江の川に挟まれて半島状に延びる丘陵尾根上に、先端部を空堀で区画した約七〇〇mの範囲に広がっている。尾根上の郭は尾根を横切る三本の空堀によって三群にわかれ、毛利氏も幾度かこの城を攻めたが遂に落城させることができなかった。のち、天文二年(一、五三三)には八代城主隆家と毛利元就の娘との婚姻により両氏は和睦した。所領は約十五万石にも及んだという。
 九代元続は、慶長五年(一、六〇〇)毛利氏が防長二州に移封の際に、これに従い周防三丘(約一万二千石)に移った。

城跡中腹に在る宍戸司箭神社登り口

裏に回って駐車場に「宍戸の里」の石碑



お城:宍戸城(五龍城)  本城跡は宍戸氏の本拠城である。宍戸氏は南北朝期にこの地に移り、当初本村川の対岸にある菊池山の中腹に「柳ヶ城」を築き、これに拠ったが、やがて対岸の元木山に城を築き本拠とした。
五龍城の名は「この山に城を移したが用水が足りず、五龍王を勧請して祈願したところ、直ちに水が湧き出た」という伝承に由来したものという。
尾根筋上及びその山腹部分約700m×150mの範囲に広がる遺構は、尾根を遮断する堀切と土塁によって三つの郭群に分ることができる。
両側を堀切によって区切られる中央部郭群は本城跡の中核をなす部分で、「本丸」「二の丸」「三の丸」などの郭名が残る。西側の堀切に面した本丸西端には削り残した高さ5mの土塁があり、堀底からの高さ16mにも及ぶものである。

宍戸司箭神社がある尾崎丸

横の細い山道を進むと・・・両側が崖のところ・・手すりがあって助かります。
この城が難攻不落の造りなのがわかります。


さらに進むと、いくつか段があり、ついには本丸の表示がありました。

今は、石垣が残り、いくらか平らにされた地が感じられますが、杉の木などが乱立しています。
下草や雑木は感じられませんでした。


https://shishido.blog.jp/
です。





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最終更新日  2022.10.09 11:03:48
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