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この「通し矢」がいつ頃から始まったかは明確ではないが、すでに室町期には「洛中洛外図」に弓を射る者が描かれており、かなり古い歴史をもっています。特に流行をみるようになったのは1570年頃からで、1606年(慶長11年)には津島家臣 浅岡平兵衛が51本を通して「天下一」を称して、お堂に掛額をしたのを期に矢数を競うようになり、諸藩が名誉をかけて競う風習ができました。江戸時代になると太平の250年間におおいに流行し、大衆にもてはやされて寛永19年(1614年)には江戸浅草に競射場として三十三間堂が建つほどになりました。
通し矢とは「的に当たった矢」という意味で、本堂西側の軒下 幅2.5M 高さ5.5M 長さ120M を南から北へ射通す競技で種目は4種目あったが、その中でも通し矢の華でもあったのが「大矢数」と呼ばれる暮六つ(午後6時)から24時間一昼夜に1万本前後の矢を射続ける豪快、壮絶な競技です。
とはいっても、剛弓(想像を超える強い弓でしょうが)であっても竹の弓矢で弾道の高さ5.5Mで120Mを飛ばすとなると、立射では不利なため座して射ちました。
記録的には明暦2年(1656年)紀州の吉見台右衛門が6343本を、次いで寛文2年には尾州の星野勘左衛門が6666本を通して「天下一」を名乗ったが、寛文8年(1668年)には、紀州 葛西園右衛門が7077本を通して「天下一」を奪取しました。これに対して、翌9年5月2日 星野勘左衛門は再度挑戦し総矢10542本中正午までに8000本を通して葛西の記録を塗り替え「惣一」を手中にし、今だ余力を残しながら「打ち止め」にした。この記録は長らく破られることはなかったが、貞亨3年(1686年)4月27日、紀州の和佐大八郎は弱冠18歳で総矢13053本中、8133本を通し先の勘左衛門の記録を凌駕し通し矢史上不朽の大記録を打ち立てました。
この大八郎の24時間での総矢13053本は1時間に544本、1分に約9本を射つ速さで弓の強さ、技術、そして精神力は想像を絶するものです。

