太田典生の「毎朝1話」良い話のおすそ分け

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2010.08.10
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臓器移植が新しい局面に入りました。少し考えてみたいと思います。

「死」の伝統的な定義は、「心臓死」=心臓、肺、脳機能の停止を確認する「三点死」でした。←心臓が止まれば、血流が停止し、やがて脳も死ぬ。逆に脳機能が停止すれば、心臓も止まる。
「脳死」とは、生命維持装置によって人工的に心臓や肺は動いている(=体は生きている)が、脳機能が停止した状態を言います。
脳死という概念は、臓器移植を可能にするために作られたものです。←心臓や肺や肝臓は、心臓停止後では、移植できない。
臓器移植をしないなら、脳死判定をする必要はありません。
問題提起1 臓器移植に都合がいいように死の定義を変えていいのか?

心臓移植の当初は生存率も低かったが、70年代後半に免疫抑制剤(サイクロスポリン)が向上し、生存率が伸びた。(アメリカのデータでは、心臓移植後の生存率は、1年後で79.4%、5年後で65.2%、10年後で45.8% )
アメリカでは、毎年2万件近くの移植が行なわれている。(移植の希望者は、その倍以上いる。)
臓器不足は深刻であり、そのための問題(臓器売買など)も生じています。


◆シアトルの「神の委員会」―誰に生き残る権利があるのか?
腎臓の透析が始まった1962年、シアトルのスウィーディシュ病院では、17人の患者に透析を行うことができたが、透析を必要とする患者はそれより遥かに多かった。そこで患者の選択に関する意思決定をするための委員会が作られた。
委員会は地域社会を代表するのにふさわしい構成となるように、聖職者、弁護士、労働団体の幹部、州の役人、銀行員、外科医の7人に加え、透析の専門医2人がアドヴァイザーとして参加した。
当初、患者は、透析の費用(年間2万ドル)を負担できる、45歳未満のワシントン州在住者に限られたが、それでも数が多すぎた。
そこで委員会は、候補者が定職に就いているか、子供を扶養する親であるか、教育を受けているか、意欲は強いか、すぐれた業績をあげているか、他人に役立つ何らかの能力があるか、を検討事項に加えるようになった。
この事実は『シアトル・タイムズ』や『ライフ』など雑誌や新聞に取り上げられ、「誰が生き、誰が死ぬべきかを決めるという、神のような役割を演じている」<神の委員会>だと非難された。

◆ジョン・ハリスが呈示した「生き残るための抽選」というモデルもある
いま、臓器移植の技術が向上し、臓器移植で完全に病気が治るようになったと仮定する。すると、心臓病と肝臓病で死にかかっている二人の病人が、病院の近くにいる誰かを捕まえてきて殺し、その臓器を自分たちに移植しないなら、自分たちが死ぬのは医者の責任だと主張し始める。しかし実際にそんなことを実行したら、社会不安を引き起こすだろう。
(例えば、病院には恐くて行けなくなる。今でもそうだが。)そこで次のような、臓器提供の抽選制度を作ることにする。
社会のメンバーのうち、健康な者には全て抽選番号が与えられる。どうしても必要な臓器が「自然」死によって入手できない場合、医師はコンピューター・プログラムでランダムに数字を選び、その当選者は、自分の健康な臓器を病人に提供しなければならないものとする。そうすると、一人の犠牲によって、少なくとも二人以上の病人が助かるから、現在よりも多くの人が健康で長生きできるようになる。(ただし、例えば、煙草の吸いすぎで肺癌になった者など、不節制で病気になった人は自業自得だから、対象外とする。)
これは、功利主義の原則「最大多数の最大幸福」によって判断すれば、「善い」ことである。

再反論 自分の臓器の病気のために死ぬ病人にも罪は無い。健康な人は、たまたま運がよくて健康なだけで、病人よりも生きる値打ちがあるという訳ではない。
反論(2) 病気で死ぬ人を放置することと、健康な人を殺すこととは道徳的に別である。
再反論 多くの人の命を救うのを避けて通るのも、結果的に殺人になる。何もしないで放置することも、行為である。消極的に死ぬに任せることと積極的に殺すこととの違いに基づいて、これに反論しようとするのは、救うことが出来る命を放置して死なせるのは、結果的に殺人になるのではないか、という問いを避けているだけだ。

医者に限らず科学者は誰しも、目の前にある新事実や新技術を試してみたくなるもので、それはまるで、幼児が玩具をいじりたくなるような心理だ。核分裂の方法を発明した科学者が、やがて原爆をつくり出したのも、科学者の欲望がとめどないものであることの証拠といえる。
医者が臓器移植を行いたい気持ちのどこかに、そういう科学者根性がありはしないか。患者の命を救いたいという崇高な使命感だけが彼らの動機のようにいい、あたかも正義を行うように高姿勢だけれど、もしそういう崇高な精神があるのなら、もっと違うところに、いくらでもその精神を発揮することがあるはずだ。日本中のどこの病院でも見られる医療の荒廃などは医者たちのちょっとした努力で改善できる。心臓移植といった突出した技術が脚光を浴びるのではなく、日常的な地道な医療に力を注ぐほうがどれほど大切か知れない。


臓器移植は究極的には脳移植に行き着くと思うが(この間、脳移植した警官と暗殺者の二人が戦う小説を読んだばかりだが)、そうなったときの世界が恐ろしい。
科学者に大切なのは、「できる」からやるではなく、「やっていいこと」か「やってはいけないこと」かの倫理観ではなかろうかと思います。





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Last updated  2010.08.10 07:55:20
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