太田典生の「毎朝1話」良い話のおすそ分け

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2015.02.20
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人が幸せに生きていくための愛の心の有り様を、お釈迦さまは「慈・悲・喜・捨」の四つの心(四無量心)から育てることが必要であると説いています。

人間の実態は、あくまでも自分中心的に生きる利己的な動物です。
誰もが、自愛(自分ほど可愛い者はいない)と我欲(まず自分が得をしたい)の塊で、利己的な幸福を願う世の中です。

大抵の人は、自分がひどく、つらい目に遭ってまでも、他人を救いたいとは思わないのが普通です。
だが、なかには、自分を犠牲にしてでも人を救ってあげたいという心を持っている人が稀にいます。
自分を犠牲にしても他人を救ってあげたいというのは、大変すぐれた心の持ち主だから、そういう素晴らしい心をもった人の行いを“菩薩行”とも言って褒め称えます。 

自分を愛するがゆえの人を愛する行為であり、自分の健康を願うがためゆえの人の健康をも祈るというのが、人間本来の正直な心なのです。
つまり、自愛と我欲のために、まず自分が幸せになるように祈り、自分の幸せのためには人の幸せを祈るのです。

そこで、人に優しくなるには、最初に自分の幸せを祈り、自分に優しい心を作ることが大切なんですね。


いわゆる愛の心だが、仏教で「愛」という言葉を用いないのは、「愛」という言葉の持つ不確実性、多様性、複雑性からくる曖昧さがあるからでしよう。
例えば、男女の愛と親子の愛では当然ちがうし、男女の愛のなかにもただ愛という一語では表現できない微妙な差があります。
ですから、この「愛」という言葉の意味を仏教では整理して慈悲喜捨の四つの感情としているのです。
「慈悲」と「喜捨」ではなく、「慈・悲・喜・捨」の四つの感情なのです。

一番目の慈は、慈しみの感情です。
「慈」とは、日本語では「慈しみ」の感情を表します。
慈しみというよりは、むしろ友情にちかい感情と思ったほうがいいでしょう。
簡単に言えば、「みんな仲良くしましよう」という感情です。 

一人で食べるご飯より、二人、三人で一緒に食事をしたほうが楽しいし美味しいでしょう。
その感情なのです。


二番目の悲は、哀れみの感情です。
日本流に言えば、憐憫の感情とでも言いましょうか。
悲しんでいる人を助けてあげたい、苦しみの渦中にある人を救ってあげたいと思う感情です。 

誰かが困っていれば、すぐ助けに行ってあげる。
そのときの助けに行く自分は気持がいいはずです。 

日本中が“悲”の感情で満たされましたが、それは素晴らしいことでした。
これまで忘れすてにしてきた感情を取りもどしたのです。
あの、被災者を助けてあげたいという感情をいつまでも忘れないでほしいものです。
それは、人間であればいつも必要な感情なのです。
この必要な感情を、心のなかに育てていってほしいものです。

三番目の喜は、ともに喜ぶ感情です。
人が幸福になって喜んでいるとき、自分もそれを見てともに喜べる感情です。
しかしながら、ふだん私たちは、自分の回りの誰かが仕事が上手くいったり、大金を手に入れたり、ライバルが美人の恋人を持ったりすると素直には喜べず、嫉妬という感情に苦しめられます。
この嫉妬という感情は、恐ろしいものだから、持たないほうがいいのです。
それだからこそ、人が成功したならば、「ああ、よかった、よかった」と万歳でもできるような喜ぶ感情を抱けるよう心を鍛えてほしいものです。

四番目の捨は、平等で冷静な感情を表します。
人間は、どんな物事に対しても色々な感情を抱くものだが、捨はその感情に流されないよう戒め、生命のすべてを見極める心のことです。
人間は、しょっちゅう怒っていたり、悪いことばかりしていたりする人が多いが、そういう人たちに翻弄され自分も一緒になってともに怒ったり、苦しんでいたんではたまりません。

例えば、この世界には様々な不平等があるが、それをいちいち怒っていても仕方がありません。
悪人がはびこっていても、その悪人をやっつけるというのではなく、ただ冷静な心になって平等に見守っている、それが捨の心なのです。

私は、人に対して良いことをして上げても、「してあげたのに」という気持ちを持たないことだと言っています。
「のに」がでたら、それは見返りを要求している不純な行為に他ならないからです。
人に対して良いことをして上げれば、自分の心もほのぼのとするはずです。それだけでいいのです。

仏教の実践は、これら四つの感情を別々に育てることが目的です。
その感情は、私たちが生まれついて持っていたものではないので、ピアノを練習するように、この四つの感情を習得していく以外に方法はありません。
そのとき、一度に考えると大変だから、どれか一ついま自分の持っている感情を優先して育てていけば、残りの感情も作り易くなっていきます。

・友情を最も大事と考えている人は、慈の感情から最初に育てていきます。
・苦しんでいる人を見てどうしても放っておけないとするならば、悲の感情を育てましょう。
・とにかくみんな仲良くと考える人は、喜の感情育成から始めてください。
・人生経験も豊富で知恵もあり、冷静でいられる人は捨の感情を保つことから始めましょう。

3歳の子供でも分かっていることでも、80歳になってもなおできないのが人間。
大切なのは、実践することです。
どんなに大変な道であろうとも、一歩、一歩足を踏み出すしか有りません。





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Last updated  2015.02.20 05:55:57
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