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2017.01.08
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カテゴリ: 探訪

蛇塚古墳から次の古墳に向かうときに、京福嵐山本線(嵐電)「帷子 (かたびら) ノ辻」駅を経由します。そこに向かう 途中で「大映通り」を通りました 。「帷子ノ辻」駅の西、「太秦広隆寺」駅の北で、広隆寺の寺域の北側に「東映太秦映画村」が位置します。東映撮影所があります。

大魔神像

大魔神像の台座の正面に、 説明板 が掲示されています。
かつて大ヒットした映画の像が通りに出現していました。1966年に大映の京都撮影所で制作されたのが『大魔神』でした。映画の中で悪者を退治する時の顔貌を表しているぞうだとか。「この地域をはじめ京都の住民とくに子どもたちの守護神として、皆様に親しまれ、可愛いがられれば幸いです」と記されています。この大映通り商店街のシンボルとしてここに復活したのです。 (説明板より)

1945年に大映株式会社と社名変更した「大映」は劇場映画全盛時代を経て、2003年まで存続しましたが、その後、映画事業は徳間書店を経て角川映画会社に継承され、現在はKADOKAWAに吸収されているようです。 (資料1)


嵐電・帷子ノ辻駅 に進みましょう。
「帷子ノ辻」という名の由来は、 檀林皇后にまつわる遺跡伝説の一つ だとか。
「ここは檀林皇后を嵯峨深谷山に葬送のとき、棺に覆った帷子が風にふかれて飛びちったところといわれる」 (資料3) ことに由来するそうです。

駅前に掲示のある地図の部分図です。方位を赤字で加えました。 蛇塚古墳との位置関係 がおわかりいただけます。 帷子ノ辻駅は京福電鉄の北野線と嵐山本線が合流する駅 でもあります。北野線だと、帷子ノ辻の東方向の次の駅が「撮影所前」駅です。この駅の東が、太秦西蜂岡町です。蜂岡の地名が残っています。


前回ご紹介した、天塚古墳と広隆寺・東映太秦映画村の位置関係はこの部分図の方でご確認ください。蚕の社(木嶋神社)と地下鉄・太秦天神川駅との位置関係もわかります。

帷子ノ駅の地下通路を北に抜けていくと、 垂箕 (たるみ) 山町 があります。この町内に 「垂箕古墳」 「仲野親王高畑墓」 と比定されています。


陵墓の傍は住宅街です。坂道の傍に陵墓参道が設けられています。陵墓の門扉と柵がありますので、傍の道路を上る事になります。
このあたりは、広隆寺から西へ延びる丘陵の西端(垂箕山)にあたる場所だそうです。 (資料3)

(じゅんな) 天皇の異母弟であり、867年に亡くなっている皇子です。そのためこの古墳の築造年代とは直接一致しないそうです。
この古墳は、大地がから南に緩やかに傾斜している崖面の縁辺に長軸を合わせて築かれている 前方後円墳 です。眺めているのは、古墳前方部の東面になります。この古墳には 馬蹄形の空堀と堤が巡らされている そうです。全長75mで、後円部に比べ前方部が発達した墳形だとか。研究者の指摘では、岡ミサンザイ古墳に類似していて、同古墳の約4分の1に縮尺した図面を使用していたと推定されるそうです。5世紀末~6世紀初頭に築造された古墳という説が有力のようです。 (資料1)

この後、古墳の周辺を時計回りに回り込むため、住宅地内の道路を通り抜けていくことになります。

途中に「垂箕山大明神」の扁額を掛けた朱塗りの鳥居と小社があります。

後円部の一部を離れた位置から眺めつつ、JR嵯峨野線上の陸橋を渡って広沢池の方向に向かいます。
まずは北上し、新丸太町通の太秦北路町のバス停傍にでました。ここから新丸太町通沿いに西に歩み、北上するために「広沢南野町」の道路標識のある交差点で右折します。
この辺りの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。

新丸太町通を横断し、北方向に道なりに進みます。

「広沢山遍照寺」の寺号標石 が門前に立つ 「遍照寺」 です。真言宗御室派の準別格本山。
現在は広沢池の南、嵯峨広沢西野町に所在します。永祚 (えいそ) 元年(989)に花山天皇の勅願により、 寬朝 (かんちょう) 僧正が広沢池の北西にある遍照山の麓にあった山荘を改めて寺院にされ、遍照寺を開創 されたそうです。寬朝は宇多法皇の皇子敦実 (あつざね) 親王の第二子で、真言宗では最初の大僧正となり、長徳4年(998)83歳で寂したといいます。日本では三番目の大僧正になるとか。寬朝大僧正の門流を広沢流と呼び、聖宝系の小野流とで、真言宗の二大流派をなしたそうです。応仁の乱で罹災し、衰微します。その後に こちらに移転 したといいます。 (資料2,3)
お寺の由来によると、江戸時代の 文政13年(1830)舜乗律師により復興された そうです。 (資料4)

現在のお寺には、寬朝の念持仏と伝えられ罹災を免れた赤不動明王と広沢池の観音島に祀られていた十一面観音が安置されているそうです。本尊が十一面観音菩薩立像です。
地元では、 「広沢の赤不動さん」 として親しまれているようです。

余談ですが、寬朝大僧正は関東で平将門が反乱を起こした際に、弘法大師空海作の不動明王像を捧持して関東に下向し、成田の地にて祈祷したといいます。その時の不動明王を本尊としたのが 成田山新勝寺 で、平安時代の940年に開山されたのです。「新たに勝つ」という寺号です。歌舞伎役者の市川団十郎の家は「成田屋」という屋号を名乗っています。これは市川団十郎が成田山の不動明王に深く帰依したことによるというのは有名な話です。 (資料2,5)

ついつい、脇道に迷い込みます。戻りましょう。



遍照寺の北側に 、広沢古墳群のなかの一つ、「稲荷古墳」 があります。
「冨岡大明神」の額が掛けられた鳥居があり、 墳丘上に稲荷社が祀られています 。そこで稲荷古墳と称されているのでしょう。ここは堀川高校グラウンドの南西になります。 直径25mの円墳で、横穴式石室 と推定されています。
広沢古墳群には4基の円墳が点在 していたそうですが、 現在はこの稲荷古墳と 北東方向の広沢公園の東にある住宅地に位置する 「遍照寺古墳」(直径30mの円墳、横穴式石室)の2基を残すのみ だそうです。
広沢古墳群のうち、一本木古墳は消滅。2号墳は堀川高校グラウンドの北東隅に横穴式石室を移築。堀川高校グラアウンド内に存在した1号墳は発掘調査後、2号墳の横の祠に発掘品の一部を安置。3号墳は広沢公園内に小さな高まりの墳丘として残っているようです。 (資料2)


ここから道沿いに北に進むと交差点に出ます。 広沢池の南西畔 になります。


広沢池  南西畔からの眺めをパノラマ合成
次の駒札の末尾に説明されていますが、 「池ざらえ」の時季 に入っていたようです。現在はこの池で鯉などの養殖が行われていて池の水を抜いて成長した鯉を収穫するという季節だとか 。京の風物詩の一つ だそうです。



広沢池の北西側に見えるのが 嵯峨富士とも称された遍照寺山 です。
広沢池の西辺を通る道路から橋が架けられた 観音島 が山裾の前に眺められます。
現地は遠望しただけですが、手許の本とネット情報によると、この 観音島に十一面千手観音石仏 が建立されているそうです。機会をみつけて拝見に再訪したいと思っています。 (資料3.6)


広沢池の西南、交差点の北西角に 「兒 (ちご) 神社」 があります。
由来説明板
創立年代は不詳です。 寬朝大僧正に仕えていた侍童を祀っている神社 だそうです。「寬朝に仕えていた侍童が、寬朝の死後、悲しみのあまり、池に身を投じたのでその霊を祀ったとつたえる」 (資料3) とか。


手水舎


拝所の先に本殿があります。シンプルな建物です。
 側面から見た 本殿
(これは覆屋なのかもしれません。内部は確認できず)
 境内の樹木


境内の一隅にある 石柵の囲い 「第二の御神体」という説明札 が立てられています。
「本殿が移転するまでこの場所からお祈りしていたとのことです。(祈祷場所)」と記されています。昭和8年建立とあります。

「兒(ちご)の石椅子」というのも目にとまりました。



上掲の石鳥居の近く、交差点に近いところにある石碑
上部に「廣澤池之碑」と 刻されています。下部に漢文で碑文が刻まれています。冒頭に陸軍大将というフレーズから始まりますので、明治以降の建立でしょう。本文は「真言宗」という語句から始まりますが文面の判読ができません。

この後、広沢池の南辺を東西に伸びる府道29号線に沿って西に歩き、大覚寺4号墳(狐塚古墳)に向かいます。

兒神社境内の少し先で、道路沿いにこの石標を見かけました。記録しただけの通過点でしたが、後で写真を拡大して眺めると、 右側面に「千代」という文字 が鮮明に読み取れ、左側面に和歌らしきものが刻されているのです。
調べてみると、 「千代の古道 (ふるみち) という項を見つけました。旧市内より北嵯峨に至る道を「千代の古道」と称したそうです。

在原行平が
  嵯峨の山御幸 (みゆき) 絶えにし芹川の千代の古道跡はありけり
と詠んだことに由来し、歌枕にも採り上げられて有名になったそうです。
元来は歌の上での天皇の行幸に対することほぎの言葉として使われたようですが、後世の好事家がどの道かと想定してきているのです。 (資料3)
いくつかの説があります。今回の探訪から大きくズレますので深入りは辞めておきます。


北嵯峨野の山並みと田園風景が眺められます。パノラマ合成してみました。

この川の 上流に大沢池 があります。南に下るとやがて 梅津に至り、桂川に合流 します。


そして、地図で見ると大沢池の南方向で、府道29号線の南側、京都工芸繊維大農場の西側にある竹林が繁茂したエリアに入って行くと、その中に 「大覚寺4号墳(狐塚古墳)」 がありました。嵯峨大覚寺門前堂ノ前町の北東端部に近辺になります。
大覚寺古墳群には、円山古墳、南天塚古墳、入道塚古墳、狐塚古墳が含まれているそうです。 円山古墳と入道塚古墳は、現在北嵯峨高校の校内に位置する上に、陵墓参考地扱いになっているとか。今回の探訪地である大覚寺4号墳(狐塚古墳)は最近、龍谷大学文学部により発掘調査が実施されたのです。


径28mの円墳で、南東方向に開口した横穴式石室があります。墳丘はご覧のように竹が繁茂しています。周囲を巡ってみると、竹を彫りだしたのか墳丘面に穴が開いている箇所もありました。右の写真の奥側に石室の天井石の側面が一部見えます。

石室の規模は現在長8m、玄室長3.8m、同幅2~2.4m、羨道現在長3m、同幅1.5mです。
羨道部は腰を低く屈めてなんとか入っていける位で、玄室内は立つことができる高さでした。奧壁は各段1石で3段に積むという形だそうです。勿論、石室には懐中電灯がなければ暗黒です。小さなライト数本だけでしたので、部分的に石室内を眺めるにとどまりました。

ライトで照らされた方向をデジカメのフラッシュでなんとか撮れたのがこの2枚だけです。玄室の奧壁に向かった右隅あたりの天井石、奧壁上部、側壁上部の箇所と右隅部の箇所の写真です。基底石までの発掘はされていない状態で、流入した土砂がかなり石室内に堆積しているようです。これもまた貴重な体験でした。

竹林域を出ると、竹林と工繊大農場との間の道路を一路南進して、丸太町通横断~JR嵯峨嵐山駅構内横断~嵐電踏切横断と言う形で、三条通まで南下します。角倉町のバス停に近いところに出ます。右折し三条通を進みます。


「花のいえ」の表札 が掛けられた 表門(唐門)の西側に、石標 が立てられています。
この場所が、江戸時代初期の豪商 「角倉了以」の屋敷址 であり、幕府の許可を得て保津川を開削した後はここに船番所を置いたそうです。
石標には 、上部に横書きで「此附近」と刻されていて、その下に 右に「桓武天皇直営角倉址 了以翁邸址」とあり、左に「平安初期鋳銭司旧址」と 刻しています。角倉とは倉庫のことです。 (資料7,8)


臨川寺 の門前を通過し、最後の探訪地は「大井神社」です。

大井神社
渡月橋の交差点の東北側の土産物店が建ち並ぶ区域で、渡月橋から北上する道路より一筋東側の細い道が大井神社への参道です。土産物店の間にある通路です。


現在は小さな祠に覆屋がついているだけの神社です。大きな通りは観光客が溢れ大混雑していても、この細い通路の奧にある小さい境内は喧騒から隔絶した感じです。わすれられた存在感が漂うところ。
しかし、延喜式内社と推定されている古い由緒をもつ神社です。大堰神社、大橋神社ともいわれるとか。現在は松尾大社の境外末社となっています。

つまり、 大堰川の守り神 です。祭神は宇賀霊神 (うがみたまかみ) だそうです。
「秦氏が大堰を造ってこの地を開拓した際に、治水の神として祀ったものであろう」と考えられ、「『三代実録』貞観18年(876)によると山代大堰神が従五位下を授かっている。『延喜式』「神名帳」の葛野郡に大井神社の名前はないが、乙訓郡に大井神社があり、記載を間違えた可能性も考えられている。」 (資料2) ようです。
この神社の付近に古代の葛野鋳銭所の址があるそうです. (資料3)

駒札によると、現在の社殿は野宮神社の旧社殿を移築したものだとか。

渡月橋から川沿いに西に50mほど上流側に行けば、 「葛野大堰」 の場所と推定されるところがあります。今回はこの大井神社を最終探訪地として終了しました。

今回の探訪の全体地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。
なかなかいいウォーキングの距離にもなりました。私にとっては初めて歩いたルートでした。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 大映   :ウィキペディア
2)  「嵯峨野の古墳と神社」 REC講座のレジュメ
 (龍谷大学REC講座「嵯峨(太秦)の古墳と社寺」 講師:龍谷大学名誉教授 岡﨑晋明氏)
3) 『昭和京都名所圖會 洛西』 竹村俊則著 駸々堂 p217-245
4) 遍照寺  ホームページ
5) 成田山のはじまり(開山縁起)   :「大本山成田山」
6) 広沢池十一面千手観音石仏  写真・河合哲雄氏  :「石仏と石塔」
7) 『京都府の歴史散歩(下)』 山本四郎著 山川出版社 p37
8) 花のいえの唐門前に建つ石碑   :「花のいえ」

補遺
京都嵯峨野の遺跡  1997 京都市埋蔵文化財研究所 pdfファイル
京都府京都市右京区嵯峨の古墳   :「大和國古墳墓取調室」
広沢池   :ウィキペディア
千代の古道   :「京都観光Navi」
千代の古道   :「京都通百科事典」
千代の古道(ちよのふるみち)のルートを知りたい。 :「レファレンス協同データベース」
花のいえ  ホームページ
角倉了以  :「歴史倶楽部」
葛野大堰  pdfファイル
葛野大堰   :「京都の古代風景に想いを馳せる」
檀林皇后 ←  橘嘉智子  :ウィキペディア

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -1 木嶋神社(蚕の社)へ
探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -2 太秦広隆寺 へ
探訪 嵯峨野の神社・寺・古墳を巡る -3 車僧影堂・千石荘公園・天塚古墳・蛇塚古墳 へ





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Last updated  2017.01.08 10:51:27
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