遊心六中記

遊心六中記

PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

茲愉有人

茲愉有人

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません
2017.03.28
XML
カテゴリ: 探訪 [再録]
知恩院の三門
円山公園の中心部にある枝垂桜
これは2014.4.6に岡崎から円山公園の観桜で撮ったものです。
もうすぐ見られる桜の景色をご紹介しておきます。

ここでは、2015年秋に、霊山にある坂本龍馬の墓などを訪れたとき、併せて散策した円山公園周辺の探訪を再録してご紹介いたします。[探訪時期:2015年9月]

知恩院三門前から枝垂桜のある円山公園の中央部を通り、南に下って行くと、右側に大雲院があります。
大雲院の東には市立円山音楽堂があり、その東に次回ご紹介する双林寺があります。正式には古い漢字を使った「雙林寺」と書くのですが・・・・。

かつて、北は知恩院三門前より南は双林寺に至る東山山麓一帯は 「真葛ヶ原」 (すすき) 、茅などが一面に繁茂する原野だったそうです。その風景を踏まええて、天台座主慈円僧正が、

  わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり 新古今和歌集 1030

と詠んだ歌が有名です。新古今和歌集には、他に俊恵法師の詠んだ歌も載っています。

  嵐吹く真葛が原に啼く鹿はうらみてのみや妻を恋ふらむ  新古今和歌集 440

慈円僧正や俊恵法師にしても、浄土宗の開祖・法然上人にしても、真葛ヶ原が現在のような景観に変貌するなんて、夢想もできなかったことでしょう。
ここでご紹介する地域の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。


竜池山大雲院
現在は浄土宗の単立寺院で、普段は非公開寺です。直近では2013年夏に特別公開されています。

門前から境内を眺めますと、正面に屋根が寄棟造・本瓦葺の鉄筋コンクリート造りの 本堂 が見えます。
(ていあん) 上人。
貞安上人は、『信長公記』に「浄土宗は、墨衣にて、如何にも左道なる仕立、関東の長老、安土田中の貞安長老二人、是も硯・料紙を持ち候て、出らる。」「貞安問ひて云ふ、法花八軸ノ中ニ念仏有ルカ」と記されている僧です。天正7年5月、安土城下の浄厳院で行われた法華・浄土宗論の当事者の一人となった人。 (資料1)

宗論で勝った貞安は織田信長の知遇を得ます。「信長公厚く帰依し給ひ、江州八幡に西光寺を建立して、貞安ここに住職す」 (資料5) 。その織田信長・信忠父子が天正10年(1582)の本能寺の変で亡くなります。そのことを伝え聞いた貞安は京都に上り、正親町天皇の命により信長・信忠の菩提を弔うために、二条烏丸あたりに一宇を建立します。信忠の法名が大雲院殿三品林仙厳大居士ということから、「大雲院」と号したのが、当寺の起源なのです。そして、天正18年(1590)秀吉の命により寺町四条下ルの地に移転します。 (資料2,3,4,5)


『都名所図会』 に載っています。 寺町四条下ルに寺があったときの図 を引用させていただきました。江戸時代には知恩院に属していたようです。 (資料6)
「その後、日向国(宮崎県)佐土原藩主島津以久 (ゆきひさ) の帰依をうけ、寺運は隆昌に赴いたが、天明以降の累次の大火に罹災した」 (資料2) のです。四条河原町にある高島屋京都店の増床に伴い、昭和48年(1973)4月、東山の現在地に移建されたのです。ここは、 大倉喜八郎(大倉財閥の創始者)所有の別荘地だったところ です。

正面左側の廻縁に 大理石製の釈迦涅槃像 が安置されています。


本尊は丈六阿弥陀如来坐像(江戸)です。


四脚門の木鼻はシンプルな造形です。蟇股は中央に菊紋が刻されています。

境内には、 織田信長・信忠の碑 があり、また本堂背後の境内墓地には、 桃山時代の大盗賊石川五右衛門の墓 があるそうです。石川五右衛門は、「楼門五三桐 (さんもんごさんのきり) 」という歌舞伎の演目で広く知られた人物です。文禄3年(1594)に捕らえられ三条河原で釜ゆでの刑に処せられています。
ここでいう楼門というのは、京都・南禅寺の三門です。

なぜ、この寺にその墓があるのか?

石川五右衛門が三条河原の処刑場に引き立てられるとき、寺町通りにあった大雲院の門前を通りかかったおりに、貞安上人の教化をうけて、感涙したのだそうです。そこで、処刑後に大雲院に五右衛門の遺骸が埋葬されることになります。墓石は石川五右衛門の三十三回忌追善供養に建てられたのだとか。
柱状の墓石の端が欠けているといいます。「賭けごとのまじないによいといってけずり取られたため」 (資料2) だというエピソードが伝わるようです。

  境内の南東角部分は凹地になっています。

ここに 「円山地蔵尊」 が建立されています。
 その傍にある 由来碑

この地に大雲院が移建されて以来、16余年で境内の堂宇の山容が整うに至り、時代も昭和から平成に代わりました。「平成を寿ぎ、恒久の平和と人類の降伏を希い」、この地蔵尊が篤信者の人々により奉納されたそうです。
寺の敷地の内側でなく、敷地の一角を切り出して築地塀の外側にこの地蔵尊が安置されているところに、辻に建てられる地蔵尊、地蔵信仰の系譜を感じます。


地蔵尊の立つ角を右折しますと、 南門 が見えます。

この門の左側斜め奥、東向きの本堂の背後に見えるのが、 「祇園閣」 です。
高さ36m、鉄骨鉄筋コンクリート造りの三階建で、一見してお解りのとおり、 祇園祭の山鉾を模した形 です。「設計は伊東忠太。1997年(平成9年)12月12日、国の登録有形文化財に登録された。」 (資料3)

上記のとおり、ここはもと大倉家の別荘地でした。昭和3年(1928)大倉喜八郎がこの地に別荘を構えたときに、この祇園閣を建造したのです。「金閣寺には金閣、銀閣寺には銀閣があるので、あらたに銅閣を作ろうとして祇園閣が作られた」 (資料4) という意図があったそうです。
そのため、大雲院には、銅閣寺、銅閣という通称もあるようです。

塔上には平和の鐘を架け、一階には阿弥陀像を安置するといいます。


鉾先には金鶏がとりつけられています。

特別公開の機会があれば、一度この閣上から京都市内を眺望してみたいものです。

大雲院の旧地、寺町四条下ルには、現在の高島屋の南側に 「貞安前之町」という地名 が残っています。

つづく

参照資料
1) 『新訂 信長公記』 太田牛一著 桑田忠親校注 新人物往来社 p257-262
2) 『昭和京都名所圖會 洛東 上』 竹村俊則著 駸々堂 p199,p208-210
3) 大雲院(京都市)   :ウィキペディア
4) 大雲院   :「京都観光研究所」
5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫  p106-107
6) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍総合データベース」  
        巻之2 図は6コマ目、説明文は7コマ目です。

【 付記 】 
「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。

補遺
第38回 京の夏の旅 文化財特別公開  大雲院 祇園閣
大倉喜八郎   :ウィキペディア
石川五右衛門  :ウィキペディア
ルパン三世の五ェ門の先祖「石川五右衛門」の壮絶な最後がすごかった :「NAVERまとめ」
楼門五三桐   :ウィキペディア
「楼門五三桐」 さんもん ごさんのきり  :「歌舞伎見物のお供」
「楼門五三桐」   :YouTube

            ネットに情報を掲載された皆様に感謝!


その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2017.03.28 21:04:50
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: