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2017.06.08
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カテゴリ: 歩く [再録]
      [探訪時期:2015年4月] 
「名勝 史跡 淨瑠璃寺庭園」という石標 が立つところから、 長い参道が山門まで一直線に 延びています。          

拝観の折にいただいたリーフレットから切り出して引用しました。浄瑠璃寺の境内配置をイメージしていただくのに役立つことでしょう。 (資料1)

参道の途中、左には、蓮華座の上に梵字で仏名を四方仏として記した石造角柱の上に、宝篋印塔の笠の部分がのせられたおもしろい形のものが建てられています。また、右側には冒頭の石標と同趣旨の石標があります。
 こんな景色の参道を歩みます。
      「当尾」についての説明板も途中にあります。



築地塀には、三筋の白線が入れられています。
山門の両脇には、前垂れで姿が見えませんが、たぶん地蔵菩薩箱型石仏が置かれているのでしょう。
門柱には、 「真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺」 の表札が掛けられ、その下に、 「西国薬師霊場第三十七番」 の表札もかけてあります。また、 「関西花の寺の第16番」 でもあります。

浄瑠璃寺の山門は境内の北に位置します。 境内に入ると中央におおきな池(宝池) が広がっています。池辺から西方向の樹木の上に、三重塔の上部が見えます。

浄瑠璃寺の本堂は東に見えます。現在の 本堂 が、 「九体阿弥陀堂」

本尊は九体の阿弥陀如来坐像(国宝) です。 九体阿弥陀仏が現存するのはこの浄瑠璃寺だけです 。堂内は撮影禁止でした。拝観の折にいただいたリーフレットには、中央の丈六阿弥陀如来坐像の左に半丈六の四体の阿弥陀如来坐像が並ぶ姿が大きな写真で掲載されています。東面する九体の阿弥陀像を、北側から撮った写真です。
中尊は2m強、左右に四体ずつ並ぶ八体の半丈六像は1m50cmほどの像高です。桧の寄木造、漆箔でで金色の輝きが保たれています。この九体の阿弥陀仏が坐す姿は、まさに壮観です。
「浄瑠璃寺」を常設ページとして紹介され、当寺紹介の中で諸仏像の写真を掲載されているウエブサイトをみつけました。こちらからご覧ください。 北側から見た九体阿弥陀仏の写真が掲載されています。 (「浄瑠璃寺門前 あ志び乃店」ホームページ)    (資料2)

平安時代後期、出家した藤原道長が、鴨川の西に丈六阿弥陀如来像九体を本尊とする九体阿弥陀堂を建て、寬仁4年(1020)に落慶供養して無量寿院と号します。これが道長建立の法成寺 (ほうじょうじ) この無量寿院を始まりとして、平安貴族の間で九体阿弥陀堂の建立が流行していったのです 。法勝寺 (ほうしょうじ) ・梶井の御願寺・尊勝寺・白河の新阿弥陀堂・成菩提寺など30ほど創建されていったようです。
京都の寺々はその後の兵火・火災などで滅尽します。平安後期の遺構として、この浄瑠璃寺本堂だけが現存する唯一のものなのです。 浄瑠璃寺の九体阿弥陀堂は、平安時代の1107年に造立されたお堂です 。道長の無量寿院からは87年後の建立ということになります。 (資料1,3)

「九体阿弥陀堂は人の生前の信仰心や行為の善悪の相違によって九種の往生のしかたがあるという浄土思想にちなみ、九体の阿弥陀如来像を安置する堂」 (資料3) です。これは、「仏説観無量寿経」の最後の段階で、仏が阿難 (あなん) 尊者と偉提希 (いだいけ) 夫人に、修行者のように心を一定にできない散心の凡夫(凡人)が西方浄土の極楽世界に往生することができる九種の方法を説いたということに由来します。経典では上品上生 (じょうぼんじょうしょう) から説き始め下品下生 (げぼんげしょう) まで説いています。往生の段階は下品(下生・中生・上生)から、中品を経て、上品上生までの9つの往生- 九品往生 -の段階があるとする考え方です。


訪ねた時期がちょうど浄瑠璃寺での花まつり(灌仏会)の行事が行われる日でした。

本堂の前面、向拝をまず拝見。頭貫の上、中央の蟇股には、月輪の中に梵字・キリークが陽刻されています。阿弥陀如来を意味しています。頭貫には瑞鳥が彫刻されています。一方、木鼻はいたって簡素で、斗を支えている形です。最近、この形式の木鼻を見る機会が増えています。

南側からの眺め。御堂の周囲に外縁が付けられています。正面が11間、側面が4間の建物です。 九体の阿弥陀如来のそれぞれに、堂前の板扉がある形です 。板扉とその内側の障子戸を全開されていますと、池の東辺の畔に佇み、本堂(九体阿弥陀堂)を眺めたとき、現世の此岸から、浄土の池に面して、彼岸に九体の阿弥陀仏が九種のどの往生であれ、迎えてくださる姿を拝することができるということになります。
右の画像は、本堂の背面の外縁です。本堂には、この外縁をぐるりと半周して南側面の戸口から入ります。つまり、左の画像の格子戸の所からです。


              向拝屋根に置かれた獅子の飾り瓦。


本堂の南側の空地の奧に、多くの箱型の石仏が集められていて
一方、本堂正面の外縁の南への延長線上あたりで、
空地の端になるところに、 南無阿弥陀仏の名号を刻した石碑 が建てられています。

石碑のある辺りから池辺に近づき、池を眺めた景色。 池の中島 です。 弁財天を祀る小祠 が設けられています。

本堂の前の池辺、対岸の高みに建つ三重塔の前の池辺とにそれぞれ一基の石灯籠が置かれています。南北朝時代の作だそうです。


本堂の前を通り、池辺に沿って時計回りに歩むと、本坊・灌頂堂の先に、 「鐘楼」 があります。



池の西辺から石段を上った高みに開削された平坦地に 「三重塔」(国宝) が建てられています。室生寺の五重塔とほぼ同じ16mの高さだそうです。

池を中央にして、東岸にあるこの三重塔には秘仏・薬師如来像が安置されています。
塔の正面、外廊に置かれた祭壇の傍に、この三重塔の開扉日は「毎月8日・彼岸の中日他(ただし好天に限る)」と説明表示があります。他というのは正月3ヶ日のことのようです。

当尾の地域は、奈良から笠置に抜ける笠置街道が通っていて、東に岩船、中央に東小下 (ひがしおした) 、東小上 (ひがしおかみ) 、西に西小 (にしお) という集落があり、奈良に入ると鳴川 (なるかわ) 、中の川 (なかのかわ) という集落がつづいているのです。かつては、この集落ごとに寺があり、岩船寺・東小田原寺・西小田原寺・鳴川山寺・中川寺があったと言います。寺の名前にあるとおり、東小・西小あたりは小田原と呼ばれた土地だったそうです。 奈良の大きな寺での修行に満足できない修行僧が、この地で修行をするようになり、小田原聖と呼ばれる行者集団が興ってくるようです。それが後に、高野聖へと発展していく ことにもなるのだとか。
平安時代の1047年に西小田原寺が創建されます。薬師如来を本尊とし、薬師如来の東方浄土が浄瑠璃世界と称されたことから浄瑠璃寺と称するようになったようです。 この時期の本堂が取り壊されて、上記のとおり、 1109年に九体阿弥陀堂が造立される のです。その時は、薬師如来像もまた、この新本堂に安置されたのでしょう。
その後に、奈良の興福寺の僧、恵信が浄瑠璃寺の興隆に尽力し、池を掘り、庭石を据え、境内の整備をしたとされています。 1150年に「浄瑠璃寺庭園造、寺観整備」がなされた のです。 1178(治承2)年に、京都の一条大宮にあった三重塔をこちらに移建し、東方浄土の薬師如来像をこちらに安置されます (資料1,4)

尚、鎌倉時代の浄瑠璃寺の記録「浄瑠璃寺流記事」(重要文化財)は、「浄瑠璃寺の根本史資料文書(重文)」 (資料1) であり、この文書には 永承2年(1047)に、当麻出身の僧義明が薬師如来を安置して開基した ことを伝えているそうです。 (資料5)

小田原の地だということが、たぶん。山号の小田原山に反映しているのでしょう。

この段階で、現在の浄瑠璃寺の伽藍配置ができあがるのです。
太陽の昇る東方にあるのが薬師如来が教主の浄瑠璃浄土、太陽の沈み行く西方にあるのが阿弥陀如来を教主とする極楽浄土です。池の東側に佇み、西に九体の阿弥陀如来を眺めれば、現世の此岸から彼岸の西方浄土(極楽浄土)を眺めることとなり、池はまさに浄土の池となります。

                      三重塔もある高みからの本堂の眺め

石段を下り、池の東辺・此岸の位置に立った眺め。こちらの石灯籠には貞治5年の銘が刻されています。貞治5年は1366年で、南北朝時代、北朝の年号です。

この石灯籠の火袋からの眺め。本堂の前に置かれた石灯籠と対極にあるのがよく分かります。

この伽藍配置に関してですが、リーフレットによると、「彼岸の中日」つまり、春分・秋分の日、中尊の丈六阿弥陀如来坐像、来迎印のお姿のこの阿弥陀仏の後方に太陽が沈んでいくように本堂が配置されているそうです。快晴の日であれば、荘厳感が増すことでしょう。

池に目を転じると、中央に厚みのある板が渡されていて、亀たちがおもしろいことにほぼ等間隔で板の上にあがっていました。

池の傍の石組み

池を回り込んでいきます。


池の南辺からズームアップした本坊(左)と潅頂堂 (かんじょうどう) の屋根。
潅頂堂の本尊は智拳印を結ぶ大日如来坐像で、秘仏です。詳細は不詳ですが、平安末~鎌倉初期の造像のようです。

潅頂とは、「密教の儀式。伝法・受戒・結縁などのとき、香水 (こうずい) を受者の頭に注ぐこと」 (『大辞林』三省堂) です。もう一つ、仏教上では、「菩薩が最終の位にはいる時、仏が智慧の水を注ぐこと」。ここではやはり前者の儀式に使われるお堂ということでしょう。このお堂は前を数度通り過ぎただけになりました。
鎮守跡

手間に箱型石仏が並んで居ます。
岩船寺も含めて、当尾の石仏では、箱型の石龕石仏が多いという特徴が見られます。


                 鎮守跡側から眺めた本堂(九体阿弥陀堂)
秋の紅葉した景色も見てみたい・・・・、そんな思いです。



最後に、 浄瑠璃寺を訪れた文学者の文の一節 をご紹介しましょう。
五木寛之 氏が三重塔の薬師如来を拝見したときの一節  (資料4)
「・・・この日は特別になかに入らせていただいた。狭い空間のほとんどを薬師如来像が占めている。いままで多くの薬師如来像を拝んできたが、こうして肌を接するようにして拝んだのは初めてのような気がした。
 威圧的ではなく、しかも薬師如来像によく見られる大きな肉厚の像でもなく、すんなりとやさしい像だ。薬壺をのせた左手や掲げた右手の指先の表情には、なんともいえない繊細な感じが漂っている。・・・・
 薬師如来像が安置されている空間が狭ければ狭いほど、薬師如来がつかさどる浄瑠璃世界というものを現していると強く感じるのは私だけだろうか。・・・・」

*同氏が阿弥陀堂に入ったときの文の一節  (資料4)
「一歩足を踏み入れて、あ、と息を呑んだ。居ならぶ九体の阿弥陀仏に圧倒されたのである。堂宇はどちらかというと素朴なのだが、その中に二メートル強、あるいは一メートル五十におよぶ阿弥陀仏がずらりと並んでいるのは、ものすごい迫力である。
 私がこれまでもっていた阿弥陀仏のイメージは、どこかやさしい母性的な感じだ。しかし、阿弥陀如来像も歴史によってかなり変化するもののようだ。浄瑠璃寺の阿弥陀如来坐像は藤原時代に流行した九体阿弥陀の唯一の遺物だそうだが、体躯は堂々として、眼から鼻、唇、肩、手にかけて、力強くしっかりしている。
 この九体は同じデザインでつくられたそうだが、やはり彫る職人の個性がそれぞれにじみ出ているようだ。よくみると一体一体が微妙に違う。機械的な仕事とはちがって人間の仕事はこういうところに面白みがある。
 堂々とした九体が、それぞれに縁無き衆生に顔を向け、それぞれの光を投げかけてくる。浄瑠璃寺という山間の寺の素朴な堂宇のなかに、おおらかでどっしりとした九体の阿弥陀如来が、天井低しとばかりに座っておられる姿は、あるショックを私にあたえた。」

堀辰雄 氏の『大和路・信濃路』中の「浄瑠璃寺の春」の一文より  (資料6,7)
「この春、僕はまえから一種の憧れをもっていた馬酔木(あしび)の花を大和路のいたるところで見ることができた。
 そのなかでも一番印象ぶかかったのは、奈良へ著いたすぐそのあくる朝、途中の山道に咲いていた蒲公英(たんぽぽ)や薺(なずな)のような花にもひとりでに目がとまって、なんとなく懐かしいような旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、漸っとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、丁度いまをさかりと咲いていた一本の馬酔木をふと見いだしたときだった。…」

『俳枕 西日本』 という本に、浄瑠璃寺の一項があります。そこに、編者が12句を紹介しています。私の好みで、5句引用しご紹介ます。 (資料8)

   馬酔木より低き門なり浄瑠璃寺   水原秋桜子   馬酔木:アシビ
   水澄みて九つの弥陀現れたまふ   阿波野青畝   
   虎落笛吉祥天を離れざる      橋本多佳子   虎落笛:モガリブエ
   九体仏金色の冷えまさりけり    能村登四郎
   萩枯れて暮るるいかりの九体仏   藤原たかを

これで浄瑠璃寺の探訪を終わります。



ここからJR加茂駅に戻りますが、この道も石仏をめぐりつつ歩くことができました。

つづく

参照資料
1) 「真言律宗 小田原山 浄瑠璃寺」 拝観時の入手リーフレット
2)  浄瑠璃寺前 あ志び乃店   ホームページ
3) 『仏像 日本仏像史講義』 山本勉著  別冊太陽40周年特別記念号 p162
4) 『百寺巡礼 第三巻京都Ⅰ』 五木寛之著  講談社文庫 p194-217
5) 浄瑠璃寺   :ウィキペディア
6) 堀辰雄の奈良を歩く  【浄瑠璃寺の春編】 堀辰雄を歩く :「東京紅團」
7) 『花あしび』堀辰雄著 青磁社   :「近代デジタルライブラリー」
   76/103コマに引用文が載っています。75~85/103が「浄瑠璃寺の春」全文です。
8)『俳枕 西日本』 平井照敏編  河出文庫  p74

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
浄瑠璃寺(木津川市)   :「京都やましろ観光」
 京都府のサイトのこのページに、九体阿弥陀仏を南側から撮った写真が載っています。
西国四十九薬師霊場会   ホームページ 
【御朱印マップ】西国薬師四十九霊場(近畿地方>
早春の寺(浄瑠璃寺)-京都府木津川市加茂町西小札場-  :「近畿風雲抄」
虎落笛・もがり笛 ~風の音色2~   :「林道百拾号線」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2024.05.27 12:26:22
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