遊心六中記

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2017.12.24
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カテゴリ: 探訪 [再録]
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天理市立井戸堂小学校の傍を通り、集落の一角から、現在合場町のこの辺りで合場遺跡の調査がなされた という説明を聞きました。ここには、 古墳時代前期から中期の集落遺跡が確認された そうです。今は田畑として利用されている景色です。
大凡の位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。

「合場」は「愛波・阿波」とも書き、中世は興福寺領、近世は旗本山口家領だったそうです。 (資料1)

向かった先は 「三十八社神社」 です。マピオンやグーグルで拡大地図を参照しましたが、記載のない小さな神社です。 所在地は天理市合場町259番地。集落の南東の杜に鎮座します。

ここにかつては真言宗の教恩寺というお寺があった そうです。このお寺は 布留社の神宮寺 明治2年に廃寺となりました (資料1)
「布留社」とは石神神宮の別称の一つ のようです。「中世には、布留社を中心にして52ヶ村からなる布留郷が成立していた。布留郷には32ヶ寺からなる中筋寺があり、明治の神仏分離の処置までは、中筋寺と内山永久寺及び桃尾竜福寺は、輪番で布留社の社僧を務めていたという。」 (資料2)


三十八社神社の境内の一角にある建物(会所)に、この 薬師如来坐像 が祀られ、維持管理されているのです。まず廃教恩寺の仏像を拝見しました。 天理市内の丹波市町迎乗寺から移座された仏像と伝わるもの です。 (資料1)
欅一木造で脚部は別材の矧付で、手先は後補されているとか 。「一木造りの構造にふさわしく両肩が張り、体躯の奥行きを十分とって両脚で厚みがあり、ねばりのある肉づけなどが加わって重量感に溢れた偉容を示している。殊に本像の特色は律動的な衣文の表現にある。」 (資料2) というもので、平安前期の特徴が濃く出ている仏像だという説明でした。衣紋には翻波の名残があり鎬立った彫りがみられるものです。 10世紀初に造立されたと推定されています 。穏やかな顔相ですが、鼻先の後補や一部彫り直しの痕跡もあると云います。 (資料1,3)

見仏の後、神社の拝見です。

境内の一端に石灯籠と「御百度」石が一列に並んでいます。
御百度石の左隣りの石灯籠
この石灯籠の竿部分に「三十八社」と陰刻されている
「御百度」石の左側面には「安政六巳未年正月吉日」と建立日付が刻されています。安政6年は江戸時代で、1859年です。
その右隣りの石灯籠の竿には、正面に「大神宮」、側面に「文政」という年号が刻まれています。文政の下の文字は私には判読不可。文政年間は1818~1830年です。
   拝殿に近いところの建物の傍で見た 角柱の灯籠
こちらには 「愛宕山大権現」 と刻されています。側面には文政4年云々と刻されています。

拝殿

本殿
拝殿を回り込むと朱色の鳥居と腰板部分が朱色に塗られた屋根付きの瑞垣で囲まれた本殿があります。
祭神は和加宇賀売神 (わかうかめのかみ) (資料4)

和加宇賀売神が「若宇迦之売命 (わかうかのめのみこと) 」と同じと考えると、この名称は「宇迦之御魂神」の別称であり、古代社会の農神の稲魂で、農業・田の守護神ということになります。 (資料5)

この三十八社神社は石上神宮の境外社とされているそうです また、この神社は愛宕神社とも称されるようです 。境内に「愛宕山大権現」と陰刻された角柱灯籠があることが納得できます。

石段前の狛犬像
それでは本殿の拝見です。



近年に補修されたのか、本殿の彩色が鮮やかです。 一間春日造。

後補材が多いとのことですが、柱や斗、虹梁、蟇股、木鼻に室町中期の特徴が残る建物だとか。 (資料1 )木鼻はごくシンプルな表現になっています。
建立年代を室町後期と記す資料もネット検索してみて見かけました ​。​ 中期の特徴を備えて後期に建立されたとみることもできますね。




本殿の側面で面白いことに気づきました。
壁に描かれている鶴が両面とも本殿の正面には尾の方を向けているのです。神様が本殿の奥側に鎮座するということで、そういう向きで描かれているということでしょうか。

この神社は三十八社神社ですが、「三十八神社」という名称の神社が結構あります。この「三十八」が何に由来するのかという関心が出て来て、ネット検索していて興味深い説明を見出しました。
起源は吉野の金峯山に求めることができるそうです。​ こちらのサイトにアクセスしてみてください。
(「三十八社神社」御所市今住字堂垣内 :「御所市観光HP」)

神社を後にして、次の探訪地に向かいます。
  集落の民家の軒屋根上で見つけた 鍾馗像



再び山辺御縣坐神社の石鳥居前にもどり、境内地を東方向に回り込んで北に向かいます。

道の途中でふと見上げたNTTのコンクリート製電信柱の表示ラベルが 「イドンド」 と記されています。境内を回り込み、川を渡る折に見た 橋名は「いどうどうはし」 という銘板が付けられています。 たぶんどちらも「井戸堂」という地名の呼び方なのでしょうね。
「イドンド」という方が、昔からの地元の人が呼びそうな感じ・・・・事実は確かめていませんが・・・・。


「富堂西」 というコミュニティバスのバス停のそばを通ります。 川が南北に流れています
このあたりは、中ツ道跡そのものを使った現在の道路を北上しているようです。この布留川北々流がかつての中ツ道の側溝の利用なのかどうかは、確認をし忘れました。

さらに北上すると、現在は田畑が広がっている一角に 「岩室阿弥陀堂」跡 に至ります。

現在は土壇が残るだけです。そこに集落にあった石仏が移されています。

土壇の上に立って眺めた石仏群
個別に見仏してみましょう。



こんな感じの石仏です。


中央の地蔵石仏は高さ120cm。 私は確認できませんでしたが、 天文14年(1545)の銘 があるそうです。光背頂部には地蔵の種子(梵字)が刻まれています。

次は、岩室池古墳です。

つづく

参照資料
1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室24 ~天理・中ツ道」 当日配布のレジュメ
   (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)
2) ​ 大和内山永久寺多宝塔・西谷薬師院三重塔 ​  :「がらくた置き場」
       附録:石神神宮(布留社)を参照
3) 「合場町 廃教恩寺 木造薬師如来座像」 当日拝見時にいただいた説明資料
4) 合場町・愛宕神社  :「奈良の寺社」   ⇒ 2017.12.24時点でアクセス不可
5)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p261
  ​ 宇迦之御魂神 ​  :「玄松子の記憶」
6) ​ 奈良県天理市・桜井市の建築 ​ :「奈良県の古建築」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
島田三尊種子板碑の紹介
  地蔵の種子がわかります。
野間中 地蔵一尊種子板碑 ​ :「板碑」
総本宮 京都 愛宕神社 ​ ホームページ
地蔵種字板碑 ​  :「文化遺産オンライン」
梵字と種字の一覧 ​  :「古文書ナビ」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -1 長柄環濠跡、中ツ道跡、天皇神社 へ
探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -2 中ツ道跡・山辺御縣坐神社・妙観寺(観音堂)へ
探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -4 岩室池古墳・雲井寺地蔵堂・前栽遺跡 へ



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Last updated  2017.12.25 12:19:13
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