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2018.01.27
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カテゴリ: 探訪 [再録]
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JR京都駅前に見える 「京都タワー」 は、東西の塩小路通と南北の烏丸通の交差する北西角に位置します。七条通は京都タワーから一区画北に位置する東西の通りです。その 七条通の北側に「東本願寺」があります。
冒頭の画像は東本願寺の「阿弥陀堂門」前から京都タワーを眺めた景色です 。烏丸通の西側歩道を少し北に上がった位置から撮っています。
2015年の夏 に、七条通沿いに、時にはその周辺に寄り道をしつつ、歩いてみることにしました。その時にまとめたものを 再録しご紹介します (再録理由は付記にて)

かつての「平安京」の広さで言えば、七条通は東西におよそ5.4kmの長さの通りでした。現在の七条通は東端は、東大路通とのT字路交差点、智積院の前まで伸びています。西端は、葛野大路通の西にある府道113号線との交差点から、南東方向にカーブを繰り返しながら進み、桂大橋のところで八条通に至り、桂大橋の交差点が西端です。一方、西進する七条通はそのまま西につながり、天神川に架かる橋を越え、京都アクアリーナや西京極総合運動公園に沿って北西方向に進む「葛野西通」となって行きます。

そこで、烏丸通七条からまずは西方向に歩いてみます。近辺の史跡に立ち寄りながら、ご紹介していきたいと思います。過去の拙ブログ記事でご紹介ずみのものは、そのページをご紹介致します。訪れた時期が異なりますが、折々に撮った写真で一部再構成しながら、まとめてみたいと思います。

これは「御影堂門」の東前方にある大きな噴水池の東側から門を見たものです。




数年がかりで建物全体を巨大な覆屋の構造物が覆っていたのですが、この2015年7月初旬時点では、その覆屋がここまで撤去されていました。覆屋がかなり撤去されているのを知ったので、ちょっと訪れてみたのです。(2018年の現時点では記録写真ということになります。)


この境内案内図をご覧いただくと、現状がおわかりになるでしょう。

この探訪時点で、 「御影堂」 の建物は修復後の全景が眺められるようになっています。
御影堂の堂内は撮影禁止ですので、外廻りの外観をご紹介します。



御影堂の外周の廊下の南側、正面、北側の景色。お堂の扉の修復後の装飾金具に光があたり、磨き込まれた廊下の板に映じています。

廊下の突き当たりにある扉。装飾金具がきらきらしています。
扉の上部・長押部分の二頭の鹿と樹木の立体的な彫刻がなかなか繊細です。



廊下の天井面になる屋根の軒裏は全面的に金網が設置されています。鳥害除けの対策なのでしょう。
建物の蟇股の彫刻などを拝見するのを楽しみにしている私にとっては、すごく残念です。写真にもなりませんから・・・・。





御影堂の屋根を間近にみると、やはり建物の迫力があります。 軒丸瓦には「本願寺」と陽刻されています。

屋根の大棟の獅子口の造形は、側面の佳麗な装飾と対比すると結構シンプルです。




空想上の亀でしょうね。躍動する獅子を造形した像が置かれていることが多いのですが、亀もまた建物守護の飾りなのでしょう。




手水舎の龍も、このときは工事中の仕切り塀がノイズとなってしまいます。


  阿弥陀堂門(境内側から)と門扉



この門も唐破風の内側上部が金網で完全防御されていて、残念ながら装飾彫刻を楽しめません。この点は、西本願寺でも同様な面がありますが・・・・。
木鼻の獅子の彫刻がかなりリアルに表現されています。


東本願寺には、​ 2017年に再訪し、「スポット探訪 京都・下京 東本願寺細見」として5回シリーズで、再探訪のまとめをしています。こちらからご覧いただけるとうれしです ​。
記念事業が完了し、親鸞聖人の遠忌終了後の境内を探訪しました。

東本願寺の東方向には、現在は飛び地の境内となる 「渉成園」
         (「スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見」を 6回シリーズ でご紹介しています。)

七条通に戻り、西に向かいます。
「東本願寺」が七条通の北側、烏丸通に面して西側に所在するのに対して、「西本願寺」は堀川通に面して西側に位置します。

西本願寺も東本願寺同様に 境内は堀で囲まれています。

境内の北東角には 「太鼓櫓」 があります。

こちらは堀川通に面した山門を境内側から撮ったものです。

また、北小路通に面した境内南側の築地塀には、国宝「唐門」があります。

西本願寺は、7回シリーズでまとめたものを再録しご紹介しています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 ​   (「スポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見」)

東本願寺の境内が七条通を南端とするのに対して、 西本願寺は、北小路通を挟み、南隣が興正寺です 。興正寺の境内が一部七条通に面しています。
ここは 「真宗興正寺派」として一本山になっています 。室町時代に蓮如上人と歩みを共にし、本願寺と行動を共にしてきたそうですが、明治9年に独立した一派の本山となったのです。 (資料1)

歴史的に眺めると、大坂の石山本願寺が織田信長との戦いに敗れた後、第11代顕如上人は大坂を退去します。そして、石山本願寺の地が後に大坂城となります。秀吉から寺地の寄進を得て、天正13年(1585)大坂天満に本願寺が再興されます。さらに、天正19年(1591)に、京都・堀川七条の地に本願寺が移転することになります。阿弥陀堂・御影堂が完成するのが翌文禄元年(1592)です。しかしこの年に顕如上人が往生され、譲状 (ゆずりじょう) があったことから、 第12代は三男の准如上人が継承 していくことになります。
一方、長男の教如上人は、慶長7年(1602)に徳川家康から烏丸七条に寺地を寄進されることになります。そして、翌年にはここに阿弥陀堂が建立され、慶長9年(1604)に御影堂が建立されます。大谷派本願寺の起源です。そして、 教如上人が「東本願寺創立の上人」 となるわけです。つまり本願寺が東西に分立することになります。 (資料2,3)

京都の地理としてみると、興味深い点があります。
西本願寺ができる以前には、現在の豊国神社がある東山から 「正面通」 と呼ばれる東西の通りがありました。現在の地図でも、西本願寺の西から千本通まで正面通の表記があります。つまり、 西本願寺ができた時点で、大仏殿(豊国神社の場所)まで繋がった通りが存在した のです。家康が烏丸七条の寺地を寄進したことで、東本願寺が創建されたことで、この 正面通が分断されます
地図(Mapion)をご覧いただくと位置関係が一目瞭然です。こちらをご覧ください。

安永9年(1780)に出版された『都名所図会』には、「大仏殿方広寺」という見出しで、「天正6年、豊臣秀吉公の御建立なり。本尊は盧舎那仏の坐像、御丈6丈6尺。・・・・寬文2年、本尊銅像を改めて木像とし給ふ。・・・・」と記されています。大仏殿が灰燼に帰すのは、寛政10年(1798)7月に雷が落ちて火災に遭ったことによります。 (資料4,5)
つまり、秀吉が京の都に残した威信を証するもの、秀吉が寄進した本願寺の寺地と秀吉が建立した大仏殿とが可視的に分断された訳です。政治的にみると、東本願寺の立地は徳川の威信を示すことになるのでしょう。

一方で、平安京を継承した都市構造から見ると、北に位置する御所との位置関係からみて、七条通の北側で、境内が東西に位置するというのは、可視的にもバランスがとれていることになります。浄土真宗という宗派の分立の均衡が政治的に意図されているようにも受け止められます。
さらに、慶長8年(1603)に、家康は「知恩院を永代菩提所と定め、寺領七百三石余を寄す」、さらに翌年「青蓮院の地を割き、寺地堂舎を造堂」を始めとして、諸建物の造立寄進を行っていきます。浄土宗の本山に対しても対応しているわけです (資料6) 。他の宗派にも寄進などの貢献をしていることでしょう。徳川幕府が宗教勢力全体のバランスに意を配り、かつ政治的観点から、宗教の枠を逸脱しないようにコントロールしていったということなのでしょう。
日本史年表を参照すると、徳川秀忠の時代、 1615年に「諸宗諸本山法度」 が制定され、また三代将軍家光の 寛永期には、「寺請制度」 が全国に拡大していきます。宗派毎にそれぞれの各寺と民衆が直接関係づけられていくことになります。
ちょっと、横道に逸れました。元に戻ります。

西本願寺は東西でいえば、堀川通と大宮通の間が境内の幅になっています
大宮七条の交差点を横断し、JR嵯峨野線の高架下をくぐる少し手前まで歩くと、

「梅小路公園」 が広域避難所を兼ねているという説明板があります。七条通から少し南に下がると、梅小路公園です。 (この地図は南北が逆転して描かれていますので、下辺側が北になります)
感覚的にいえば、京都駅前の塩小路通を真っ直ぐ西に延長して大宮通と交差するあたりが公園の北東角あたりという位置関係になります。

京都駅から梅小路公園に行くには、 京都駅の建物沿いに西に進み、線路に沿った道をそのまま西に進む経路 があります。もう一つが、これも再録でご紹介した 「粟嶋堂宗徳寺」への道、つまりリーガロイヤルホテルの北側の幅が狭くなった塩小路通を西進する経路 です。このいずれかが便利です。どちらも南北の大宮通に出ます。狭くなった塩小路通は、北東角よりかなり南寄りの位置で大宮通に出ます。
上掲案内板では左端にある縦の道路が大宮通です。京都駅はこの地図ではさらに左方向に位置することになります。

「梅小路公園」については、再録してご紹介しています。こちらをご覧ください。
(観照 [再録] 京都・下京 梅小路公園の梅)

史跡関連としては、 この地にかつては平清盛の別邸「西八条第」があったところです 。『平家物語』に登場する祇王・祇女・仏御前にまつわるエピソードが生まれた場所。 「京都水族館」が現代のお楽しみスポットとして、公園の一画にあります 。そして、公園の西隣にあるのが、「梅小路蒸気機関車館」です。これらをご紹介しています。尚、2018年時点では、「梅小路蒸気機関車館」が閉館となり、 「京都鉄道博物館」 としてリニューアル・オープンしています。

次回は、JR嵯峨野線の高架下をくぐったところからです。

つづく

参照資料
1) ​ 本山興正寺 ​ ホームページ
2) ​ 浄土真宗本願寺派 本願寺 ​ ホームページ
3) ​ 真宗大谷派東本願寺 ​ ホームページ
4) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p231-234
5) ​ 京の大仏 ​  :ウィキペディア
6) ​ 年表 ​  :「総本山知恩院」

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
平安京 ​  :ウィキペディア
石山本願寺 ​  :ウィキペディア
石山合戦 ​   :ウィキペディア
北御堂 ​  ホームページ
南御堂 ​  ホームページ
方広寺 ​ 京都の観光スポット :「KYOTO design」
方広寺 ​ :ウィキペディア
京の大仏 秀吉の方広寺 国家安康の鐘.wmv ​  :YouTube
梅小路公園 ​  :「京都市都市緑化協会」
京都水族館 ​ ホームページ
2012年 3月 梅小路公園内 京都水族館 オープン!館内を動画でご案内! ​ :YouTube
カフェあり!ショップあり!「京都市電ひろば」オープン!梅小路公園 ​:「Teavel.jp」
梅小路蒸気機関車館 ​ :ウィキペディア
京都鉄道博物館 ​ ホームページ

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 [再録] 京都・七条通を歩く -2 丹波口・西鴻臚館跡・朱雀御旅所・権現寺・源為義公塚 へ
探訪 [再録] 京都・七条通を歩く -3  籔内家・渉成園・七条仏所・松明殿稲荷・豊国神社・耳塚・京都国立博物館・三十三間堂ほか

こちらも、併せてご覧いただけるとうれしいです。
観照 [再録] 京都・下京 梅小路公園の梅
スポット探訪 [再録] 京都・下京 粟嶋堂-人形供養-宗徳寺 細見 ​ 
スポット探訪 [再録] 京都・下京 京都水族館


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Last updated  2018.01.28 22:56:00
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