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2018.04.17
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カテゴリ: 観照
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かつては京都市内に住み、今は宇治市に住んでいて、頻繁に三条周辺には出向くものの、三条大橋の雪景色を撮ったことがありません。これはフリー画像を見つけましたのでまずご紹介しておきます。 (資料1)

さて、現在の三条大橋を細見し、広重の『東海道五十三次』の絵や、『都名所図会』に掲載の挿絵を既にご紹介しています。一方、狩野永徳筆『洛中洛外図』に三条大橋が描かれていないことにも触れました。そこから 三条大橋が過去にどのような姿で描かれているか、あるは写真に撮られているかに興味を持ち 、少し調べて見ました。


これは、 平成27年(2015)3月に京都文化博物館で鑑賞した特別展の図録の表紙 です (資料2)
様々な洛中洛外図に京都がどのように描かれているかを知り味わうという企画展でした。永徳が描いていない三条橋(大橋)が、描き込まれているかどうかが今回の私の関心事です。ここで、大きな違いは永徳が描き、信長が謙信に贈った洛中洛外図屏風の後の天正18年に石柱橋が建造されていることです。秀吉の時代以降、江戸時代にかけて数多く描かれた洛中洛外図屏風(以下、屏風と略す)に、天正の石柱橋あるいはその後の修復、立て替えなどが繰り返し行われて行った三条大橋が描かれているかの探査になります。改めて手許の図録を三条橋の描写の有無に絞って眺めて行くと、やはり描き込まれているものがありました。


「秀次悪逆塚」と呼ばれた塚 です。たなびく金雲の西側に大きなお寺が描かれていますので、位置から考えて 「誓願寺」 とわかります。そこから判断して これが三条橋 です。東詰の両端の柱に擬宝珠らしいものが描かれていますが、橋上の高欄は描かれていません。

『都名所図会』を読みますと、「文禄年中に秀次公、太閤秀吉公に対して逆心の企あるよし。故に紀州高野山に入って自殺す。首を取って三条河原に梟 (か) け、また三十余人の妾婦並びに稚子共、この所に於いて断罪して同穴に埋む。」 (資料3) と記しています。逆心の企てというのが当時、秀吉が喧伝し通説になっていたのでしょう。ここに塚が築かれたのです。そして、塚の頂上に秀次の首を納めた「石びつ」を据えてあったといいます。秀次が高野山で切腹したのが文禄4年7月15日、一族の処刑が同年8月2日の昼下がりだったとか。後に、高瀬川の開削工事をしていたときにその塚が荒廃しているのを見た角倉了以が供養のための寺と六角型宝塔の墓石の建立を行ったのです。それが慶長16年(1611)。その寺が 「瑞泉寺」 です。「寺伝によればこの塚の位置に現在の本堂は建てられたとされています」 (資料4) 。瑞泉寺門前には、角倉了以の開削した運河・高瀬川が流れています。

この屏風(尼崎市教育委員会蔵)には南西側から塚と三条橋が描かれています。三条橋の東詰の柱にだけ擬宝珠が見えます。大部分が金雲で隠れています。橋と塚には判読できないのですが名称が明記されています。



江戸時代前期の原本からの屏風模本(東京藝術大学大学美術館蔵)とされるこの図には、「誓願寺」が平かなで明記されています。左斜め上の橋に 「三条橋」 と明記してあります。


こちらは、江戸前期~中期のもので、 大和絵師・住吉具慶 「三条大橋」と明記 されています。四文字の連なりから推測できます。東詰北側の柱に擬宝珠が描かれています。

こちらも江戸時代前期~中期の作で歴博F本と称される屏風(国立歴史民族博物館蔵)です。これは上掲の具慶作屏風と強い影響関係があるとされる作品です。

こちらは江戸時代中期の屏風(柳谷観音楊谷寺蔵)です。有名寺社建造物にピンポイントを絞って描き出されている屏風です。三条大橋に関してはこの屏風がほぼ全景を描き、描く数は省略していますが両高欄の擬宝珠もちゃんと描き込んでいます。橋脚も石柱であるという雰囲気がよくうかがえます。


これは横山華山(1781~1837)が原画を描き、紙本色摺で版行された京都鳥瞰図です。この 「花洛一覧図」 (国立歴史民俗博物館蔵)は文化5年(1808)の初版が出されたものです。道をかなり弧状に描いていますが、三条大橋は橋脚の数や擬宝珠も含めて、かなりリアルに描いている感じを受けます。注目すべきは、四条河原が大きく描かれている点です。川中に広い州が形成され、河原に建物が描かれています。河原が興行の場になったり、夏には納涼床が賑わったということが連想できる絵でもあります。これを見ると、江戸時代の洛中洛外図に三条橋と五条橋が大きな橋、四条橋が簡易な橋で描かれていることをナルホドと思います。川中の広い中州に渡る橋を各岸との間に架けておけば十分だったということなのでしょう。


           寛政9年(1797)に出版された 『伊勢参宮名所図会』に載る三条大橋
これは、興味深いことを描き込んでくれています。 (資料5)
東海道は、滋賀の大津から逢坂山を越えて三条大橋へと往来します。この幹線道路は京の都に東国諸国から物資を搬入する重要な街道でもありました。 牛車に荷物を積んで運搬 しやすいように、その通り道は石が敷設されたのです。雨天荒天に道路がぬかるみ重量物の運搬に困難を起こさない工夫がなされたのです。それが轍の跡が深く凹んだ 「車石」 として各所で保存されいます。その牛車が三条大橋まで来ると、 三条橋の傍の川中を渡って洛中に入るという通路ができていた ということをこの絵が明らかにしています。
一方、洛中洛外図の三条橋には、荷駄を積んだ馬、人を乗せた馬が、橋を渡るところを描き込んでいます。このあたり、興味深いところです。

明治時代に入ると、ほぼ同時期に類似の京都案内ガイドが各種出版されるようになります。「国立国会図書館デジタルコレクション」を検索しますと、その状況が理解できます。京都の名所案内の一つとして「三条大橋」自体を『都名所図会』と同様に、紹介しています。それがどのように描かれているかを抽出して出版された時系列で引用し、ご紹介します。
調べた範囲で最初期のものがこれです。

    『京都名所案内記』横井達之輔編  明治20年1月出版。 (資料6)
そして、同種の出版形式でエッチング風の様々な立ち位置から描かれた三条大橋の挿絵が見られます。どの位置から描いたものかを考えてみるのもおもしろいものです。

     『京都名所案内図会』和1冊(上)石田旭山編[他]  明治20年6月出版。 (資料7)


『京都名所圖會 上』 淺井広信著  明治26年9月出版  (資料8)

『京都名所圖會 上』 清水晋之助著  明治28年2月出版 (資料9)

『京都名所案内 上』 岩崎喜助著  明治28年3月出版   (資料10)

『京都名所案内』 青木恒三郎著  明治28年4月出版   (資料11)

『京都名所案内』 片岡賢三編  明治32年1月出版   (資料12)

明治40年に入ると、写真が掲載されるようになります。

これです。 『京都名所帖』 というタイトルで、 京都市参事会というところが明治40年6月に出版 しているのです。写真が登場すると、現在との対比が明確にできますね。
この景色は、三条大橋西詰北側、現在スターバックスの店が入っているあたりに当時建っていた建物の上部あたりから撮られたものでしょうか。東岸に沿って建物が櫛比している景色が見えます。

昭和3年(1928)には、京都府が『京都名所』を出版しています。

上掲の明治の諸出版書はいずれもほぼ類似の説明文で、この名所案内文の最初の部分の紹介と同趣旨が主です。三条大橋が「長63間幅4間5寸」という橋の規模説明、擬宝珠の刻銘に触れるというところです。
本書で、明治以降の経緯がわかります。
 明治14年に一度改造、明治27年に修築
 大正元年(1912)10月 木造長55間幅9間に造築し、擬宝珠は今までの通り継承
   ⇒明治45年3月に三条通の幅を拡張する都市計画の実施に対応
このページに掲載の写真を見ると、天正の三条橋に使われた石柱が写っていますので、大正元年時点での造築の際に、石柱を使った橋脚が撤去されて一部、現在の位置に保存されたと推測できます。
そして、川端通の東に御所の方向を向かった高山彦九郎像が設置されていますが、高山彦九郎は当時の三条大橋の上から、御所の方向に向かって拝跪したのだという事実もわかります。

最後に、ウィキペディアから画像を引用します。 (資料15)

この写真が何時撮られたものかの明示はありません。しかし、明治40年の京都市参事会による出版時点の写真と比較して、橋の幅が拡幅されていること。鴨川東岸沿いに走る電車と線路が写っている一方、東岸沿いに二葉の写真には同一屋根と判断できる建物が写っていることなどから、いくつかのことが分かります。

琵琶湖疏水は、第一疏水が「明治23年3月に大津から鴨川合流点まで完成し,そこから伏見までは明治25年11月に着工し,明治27年9月に完成したのです。」 (資料16) ということなので、明治40年の写真は鴨川運河が既にできている後の景色です。さらに三条大橋の幅が倍加していることで、まず大正元年以降の写真だということがわかります。
京阪電車は、大正4年(1915)10月に五条駅-三条駅間が開通しました。 (資料17)
この写真には京阪電車が地上を走っていてかつ三条駅の駅構内の整備は今後という様子ですから、大正時代の前半くらいに撮られたものに思えます。

かつての三条駅が疏水の上に拡張してつくられた写真や、鴨川と疏水の間を京阪電車が走る写真が公開されています。​ ページの末尾です。こちらから御覧ください。 (「京阪電車」)

因みに、東福寺-三条駅間の地下化工事が完成したのは昭和62年(1987)5月です。 (資料17) その後に疏水が暗渠化され、京阪電車の地上線跡地と合わせて、現在の幹線道路・川端通が整備されました。現在の三条大橋の東は、鴨川沿いの「花の回廊」(散策路)と川端通を越えたその東側に建物が道路沿いに続くという景観です。

三条大橋の姿は、鴨川の洪水、琵琶湖疏水(鴨川運河)、河川整備などの関連で変遷・変化してきたようです。一方で、天正期の橋の姿をどこまで維持できるのか? これからも三条大橋は新たに変化していくのかもしれません。

                        追補 四条大橋上から撮った三条大橋の全景 2018.4.19 撮影


ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) ​ 鴨川の雪景色 三条大橋 ​ :「京都の無料写真素材」
2) 『特別展 京を描く -洛中洛外図の時代-』 京都文化博物館 2015.3.1発行
3) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫
4) ​ 瑞泉寺の由来 ​  :「瑞泉寺」
5) ​ 伊勢参宮名所図会 巻之1 ​ :「古典籍総合データベース」
   6)~14)は「国立国会図書館デジタルコレクション」より
6) ​ 京都名所案内記 ​ 横井達之輔編 明20.1    8/55コマ
7) ​ 京都名所案内図会 ​ 和1冊(上)明20.6    15/91コマ
8) ​ 京都名所図会、上 ​ 淺井広信著 明26.9   39/43コマ
9) ​ 京都名所図会、上 ​ 清水晋之助著 明28.2   8/33コマ
10) ​ 京都名所案内 上 ​ 岩崎喜助著 明28.3    16/51コマ
11) ​ 京都名所案内 ​ 青木恒三郎著 明28.4    16/40コマ
12) ​ 京都名所案内 ​ 片岡賢三著 明32.1       16/38コマ
13) ​ 京都名所帖 ​ 京都参事会 明40.6         20/41コマ
14) ​ 京都名所 ​  京都府 昭3    82/301コマ
15) ​ 三条駅(京都府) ​ :ウィキペディア
  ​ File:三条大橋 ​  :WIKIMEDIA COMMONS
16) ​ 第2章 第一疏水 ​  :「京都市上下水道局」
17) ​ 沿革 ​ :「京阪ホールディングス」

補遺
京都・三条大橋界隈 ​ :「懐かしの風景・町並みアーカイブス」
京阪沿線の名橋を渡る 三条大橋 ​ 若一光司 :「KEIHAN」
珍しい洛中洛外図を寄贈 尼崎市民から ​ :「歴史~飛耳長目~」
《『洛中洛外図屏風』文献目録》 ​  :「東京大学史料編纂所」
昭和10年京都大水害 ​  :「京都市消防局」
高度経済成長期頃の鴨川周辺の様子を巡る“その1”(第234号) ​ :「京都府」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) へ
観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2) へ ​​​​​​​​​​​​​​​​​​​





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Last updated  2018.04.19 23:18:33
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