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前祭の山鉾巡行が行われた7月17日の夕刻、「神幸祭」が行われます。3基の神輿が八坂神社を出発し、氏子区域を巡った後、神輿はここ四条寺町の御旅所に到着し、この場所に7日間とどまるのです。3基の神輿は、四条通に面する東西の社殿の間のスペースに置かれています。そして、後祭の山鉾巡行が7月24日に行われ後、同日夕刻に「還幸祭」が行われ、神輿は再び氏子区域を巡った後、夜ふけに八坂神社(本社)に還るのです。祇園祭の神輿をごく間近に拝見できるのは、この7日間ということになります。22日の午後、後祭の宵々山巡りに行きました。今回は初めて、予めルートを設定して巡ることにしました。その出発点がここ御旅所です。神輿細見からご紹介します。御旅所では、3基の神輿は中央に「中御座」、その東側に「西御座」、西側に「東御座」という形で置かれています。冒頭の景色に沿って、西側から順番に東へと拝見して行きましょう。 「東御座」の正面。素戔嗚尊(スサノオノミコト)の妻である櫛稲田姫命(クシナダヒメノミコト)の神霊が載る神輿です。(資料1、以下同様) 神輿の正面の鳥居に掲げられた額 神輿の屋根は擬宝珠が飾ってあります。これは葱花(ソウカ)と称されています。 正面左側の蕨手とそこに留まる小鳥 正面の右側 右側の蕨手と小鳥 小鳥に朱色の房を懸けてある様子が左右の2つでわかります。 正面のズームアップです。 屋根の軒面下に房懸け金具を取り付け、二重の菊花結びと総角(あげまき)結びをつけた房が懸けてあります。(資料2)長押を覆う金具の上にさらに植物文の飾り金具が取り付けられ、欄間部分は細やかな雲形文です。房懸け金具から継ぎ手をのばし、瑞鳥(鳳凰)を浮彫にした飾り板が吊り下げされています。 「中御座」の正面。素戔嗚尊の神霊を載せる神輿です。御旅所の西側の社殿が、素戔嗚尊と櫛稲田姫命を祀る社殿です。正面に吊された紐結びの房は東御座と同じ形式。 鳥居に掲げられた「中御座」の額。 屋根の露盤の上に立つ大鳥(鳳凰) 正面右側・蕨手の小鳥 右側の蕨手と蕨手に取り付けられた金具には華麗な天蓋が吊されています。 正面をズームアップ飾り板は瑞鳥(鳳凰)一羽を大きく丸彫りにした感じのものです。飾り板の下の透かし彫りの装飾は東御座と同じ形式。否、東御座が中御座と同じ形式を使っているというべきなのでしょうね。3基の神輿では中御座が中核なのですから。さらに、その下には八坂神社の神紋が透かし彫りにされ、「五瓜に唐花(ごかにからはな)」紋と「左三つ巴(ひだりみつともえ)」が一列ごと交互にバネ状のリンキング金具でつながれています。この形式は上掲東御座も同じです。(資料3) 「西御座」の正面。素戔嗚尊の子らである八柱御子神(ヤハシラノミコガミ)の神霊を載せる神輿です。御旅所の東側の社殿が八柱御子神を祀る方です。こちらも屋根飾りの大鳥は鳳凰です。ここも軒面から吊された紐結びの房は他の二座と同じ形式です。鳥居に掲げられた「西御座」の額 正面右側奥の蕨手 この蕨手の意匠は各神輿それぞれに異なり、見比べるのも楽しいところです。右側の蕨手上の小鳥 神輿により、小鳥が嘴にくわえている飾り金具のデザインが異なります。 正面左側奥の蕨手 小鳥 正面左側手前の蕨手 こちらの飾り板には、雲形の中に上空を睨む獅子が丸彫りにされています。 飾り板の下に釣られた飾り金具は、中御座と同じ形式です。3基並んだ神輿を正面から拝見できる範囲で眺めてきました。 神輿の西側に、青白幕で仕切られた一角があります。ここには、「宮本組神宝奉持列」が神輿に伴い巡行する折の神宝が陳列されています。17日の「神幸祭」の後の「神輿渡御」に伴い御旅所まで到着すると、神輿と共に神宝が「還幸祭」まで、同様に併置されるのです。神宝は、矛、盾、弓、矢、剣、琴の6種です。これに巡行の先頭に携えられる「勅板」が加わります。 矛 団扇 菊華紋が付けられた盾、弓と平胡簶(ひらやなぐい:やを入れて背に負う武具)、剣 それぞれ中御座、東御座、西御座の神輿と同じ数になっているそうです。 一番手前、東側に琴が立て掛けられています。 一番手前には、宮本組の講社の人々で、今年の巡行に関係する人々の名簿が広げて開示されています。誰がどの神宝の奉持を担当するかは毎年、籤で決められるようです。この神宝類展示区画の正面には、ガラスケースに保管された袋が3つ並べて展示されています。その前に木札が置かれ、花の陰になっていますが、「御太刀袋」です。三振の神刀のもとの袋だったということでしょう。一通り拝見してから、いよいよ後祭の山鉾を巡り行くのですが、今年はその前に、鉾建てと関わる位置決めの基準となるところが、普段はどのような状態なのだろうか、という今まで考えなかったことにふと関心を持ち、四条通近くのものを、大船鉾に行く前に確かめてみました。鉾建てのとき、道路に杭が立てられていて、その杭を基準にして鉾の胴部が組み建てられます。そして横に寝かせた胴部の中心に真木が立てられ、鉾全体の構造体部分が出来上がると、杭と杭に縛り付けられた丸太が支点となって、鉾が垂直方向に立ち上げられるのです。この場面が「鉾建て」の最初の見所でもありま。これらは、以前のブログ記事でご紹介しています。 長刀鉾保存会の会所の前に、長刀鉾が建てられ、会所の二階と鉾が橋で結ばれます。 会所の前の四条通にこんな四角い鉄板で蓋をされた箇所があります。普段はこんな状態なのですね。いままで意識していませんでした。 烏丸通を横断して、少し西に入ると、北側に函谷鉾保存会の会所札を掲げたビルがあります。 函谷鉾の杭穴の位置です。 同様に四角い鉄板の蓋がしてあります。 菊水鉾保存会の会所は、四条通室町北入ルにあります。 会所前の室町通に同様に杭の位置に鉄板の蓋が被せてあります。 室町通を南に下がると、池坊短期大学の学舎があります。 学舍から少し南に下がったとことに、同様の箇所が確認できます。上の四角い鉄製蓋が一つあるところは、その他の鉾にも同様にあります。鉾建てをするとき、古き時代には大勢の人々が鉾の上部に綱をつけて、綱引きをするかのように引っ張って鉾を起こしたそうです。今はロープを、巻きとり機を利用し機械力で引く形に代替されています。その際の機械の固定位置に使われる箇所です。最後に確認したのは、四条通の南側に面した月鉾です。 月鉾保存会の会所は、四条通に面した和風建築の建物が維持されています。 ここが杭の立てられる位置。四角い鉄製蓋が見えます。 こちらは、鉾を立ち上げるときに利用される箇所です。月鉾保存会の会所から少し西に進むと新町通と交差します。新町通を南に入ると、「大船鉾」のある四条町です。つづく参照資料1) 祇園祭神輿 :「京都観光・旅行」2) 飾り紐の結び方 :「愛瓢市場」3) 【祇園祭】八坂神社の御神紋はキュウリではない【マクワウリ】 :「家紋を探る ~家紋研究家・家紋伝導師のつぶやき~」補遺八坂神社 ホームページ 祇園祭 概要 神輿の各部名称 :「下館の神輿」神々の先導者・宮本組 :「祇園祭」(京都cf祇園祭特設サイト)町衆が和御霊が合体するとき悪霊が退散する 祇園祭 清々講社 by 五所光一郎 祇園祭の主役は三基の神輿!「神幸祭」と「還幸祭」の勇壮な神輿渡御は必見:「Travel.jp」知られざる祇園祭 点描 神輿洗と四若 by 五所光一郎 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -19 神幸祭 神輿渡御 (1) 4回のシリーズでご紹介しています。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -11 還幸祭・八坂神社西楼門前にて(1) 2回のシリーズでご紹介しています。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -1 長刀鉾の鉾建て (1) 胴組の初日 鉾建ての位置を決める杭が立つている写真を載せています。観照 祇園祭 Y2018 後祭 -2 大船鉾、放下鉾の位置決め へ観照 祇園祭 Y2018 後祭 -3 南観音山、屏風祭(吉田家住宅主屋)へ観照 祇園祭 Y2018 後祭 -4 北観音山・八幡山、屏風祭(2) へ観照 祇園祭 Y2018 後祭 -5 鷹山(復興準備中)・役行者山・鈴鹿山・黒主山 へ観照 祇園祭 Y2018 後祭 -6 浄妙山・鯉山 へ観照 祇園祭 Y2018 後祭 -7 宵山巡りの最後に橋弁慶山 へ
2018.08.15
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展覧会の期間があと数日となった7月18日に、岡﨑公園内にある京都国立近代美術館に、久しぶりに出かけました。生誕150年として企画された「横山大観展」を見るためです。冒頭の景色は、近代美術館前に置かれた箱形の展覧会案内掲示板を北側から撮った景色です。 立ち位置を変えて撮るとこんな感じに. 展覧会の予告として入手していたPRチラシです。このチラシの裏面は、8月末からの「東山魁夷展」の予告になっていました。 こちらは、展覧会を観てから購入した図録の表紙と裏表紙です。これらから、今回の横山大観展では、 昭和6年(1931)9月に制作された「紅葉」(足立美術k館蔵)が一つの目玉作品に位置づけられていたようです。残念ながら、前期展示だったため実物を見られませんでした。これは図録表紙の折り返し部分を広げて撮ったものです。折り目の線が見えますが、作品の大凡のイメージを知る役には立つでしょう。やはり、後期展示の作品群では、これほどの豪華絢爛な作品はありませんでした。図録によれば、六曲一双の屏風の左隻です。 裏表紙も折り返しを広げてみました。これでもまだ部分図です。昭和4年(1929)に制作された「夜桜」(大原集古館蔵)六曲一双の屏風の左隻です。周囲から篝火の火照りで浮き上がる夜桜が大胆にクローズアップされています。これも残念ながら、前期展示作品でしたので、実物を見ていません。屏風の前に立てば、咲き誇る夜桜の雄大さに圧倒されたかもしれません。会場で入手した出品目録を見ると展示作品は総数が92点です。大凡半数近くは前期・後期で入れ替えとなりますので、展示数としては比較的小規模でした。チラシが片面というのも頷けます。 これは、入場券の半券。背景に使われているのは、通期展示の作品でした。昭和27年(1952)9月に制作された「ある日の太平洋」(東京国立近代美術館蔵)です。大観は昭和33年(1958)2月逝去ですので、晩年の作品です。横山大観というと、明治30年、大観29歳の折りに描いた「無我」(東京国立博物館蔵)と題する童子を描いた作品と、富士山の絵を連想してしまいます。「無我」は7月の第1週の展示だけで、これも見られずでした。富士山については、様々な富士山を一連のものとして眺めることができたのが展覧会の利点でした。大観が富士山を具象的に様々に描いているのをこの展覧会で知りました。これまで、心象風景としての富士を描いた人という印象を強く受けていました。富士山の特徴が抽出され、一種のデザイン化した表象の富士を描いた作品の記憶があるからでしょう。富士山の描き方が様々に変転していくところを一堂にして見られるのが回顧展のおもしろいところです。「ある日の太平洋」には具象性を留める富士山が描かれています。図録解説によると、「富士越え龍図」という伝統的な主題に基づく作品に位置づけられるようです。太平洋が荒れて逆巻ダイナミックの立ち上がる壮大な波が白く砕け散る瞬間のシーンにまず目が惹き寄せられます。その白い波濤の右側に、遠くの富士の頂上を睨む龍がいま正に昇っていこうとしています。龍を小さく描くことで、波濤の巨大さを描いてもいるようです。富士山の具象性が高いのと対比し、白い波濤は荒ぶる神の出現の如くに想念化され、デザイン化されている感じを受けます。この対比がおもしろいと思いました昇龍は荒ぶる神の使いなのかもしれません。ふとそんな想いに・・・・・。 神宮道に架かる慶流橋を渡ると、まず展覧会案内掲示板のこちらの側面が見えます。 チラシから切り出した富士山図ですが、この絵がまず目にはいります。横山大観⇒富士山という直結連鎖反応が起こります。大正6年(1917)頃の作品で「群青富士」(静岡県立美術館蔵)です。後期の展示作品でした。これも六曲一双の屏風です。右隻の第4扇を中心に群青の富士が雲海の上に突き出しているだけという雄大な拡がりを感じさせる図です。表象化されデザイン化された印象を強く受けます。この2年後、大正9年制作の「霊峰十趣」という連作の中から、春・秋・夜・山という4点が後期展示として出品されていましたが、「霊峰十趣のうち 春」と「霊峰十趣のうち 夜」という作品では、富士山の特徴を示す頂上部の輪郭だけで富士を表象するという極限までに至っています。まさに、富士山の記号化とも言えます。葛飾北斎が「富獄百景」を描いています。その第一編に、「孝雲五年不二峯出現」という浮世絵があります。四角の画面枠から富士山の山頂部を突き抜けさせて描いた一枚です。この突き抜けた富士山の山頂部の描写に大観の描く富士山の一種が通奏するところがあります。個人的には、「ある日の太平洋」の富士に通じるのですが、「山に因む十題のうち 龍躍る」(足立美術館蔵)、「春光る(樹海)」(公益財団法人ひろしま美術館蔵)が好みです。「群青富士」は屏風絵として描かれた富士で魅力的ですが、この富士にも通じ、もう少し具象性が高まっている青系統の「霊峰十趣のうち 秋」(今岡美術館蔵)に惹かれます。 この側面の展覧会案内掲示の下部に使われている作品も、前期のうち、1週間限定展示作品でした。購入した図録で、全体図を眺めるだけになりました。大正元年(1912)制作の「瀟湘八景」という八景の連作のうち「平沙落雁」という図の下部を取り出した部分図です。上半分には雲と飛び去る数多の雁が描かれています。東京国立博物館蔵のこの作品、重要文化財に指定されています。 近代美術館の疏水端に近いところにも、展覧会案内掲示が定位置としてでています。その背景に使われているのが、この部分図です。これは昭和21年(1946)3月に制作された「漁夫」(足立美術館蔵)です。通期展示作品でした。部分図は上部が切り出されたものです。漁夫たちは断崖絶壁の先端にて釣りをしています。下部には絶壁が海から屹立している姿と絶壁の近傍の岩に波が打ち寄せています。様式化した波濤で描かれています。大きな「観」という文字が重ねられたあたりには、大きく垂れ下がる松の枝振りが描かれています。紙本墨画の軸ものです。 展覧会案内掲示のもう一つの定位置であるこの壁面には、大正6年(1917)9月制作の「秋色」の部分図が使われています。これもまた、六曲一双の屏風です。鹿は左隻の第4~6扇に描かれています。右隻は全面に蔦と槙が装飾性の高い、はれやかな色彩で描かれています。図録は「大正時代の大観の装飾的作品の代表格として、また、大観の琳派への傾向をはっきり示す作として名高い」と解説しています。会場では、やはり目立った作品の一つでした。第1章「明治」の大観、第2章「大正」の大観、第3章「昭和」の大観という時代構成の会場を巡って行きました。そこに写実的絵画の基礎時代を経て、装飾性の強い画風に変化し、さらに心象を重視するデザイン性が強く表出される画風が高まる変転を感じた次第です。図録を見ると、京都展には来なかった作品、前期に出品された作品で、これは実物を見たかったというのがいくつかあります。いつか実物を見たいものです。明治期の作品では、「屈原」(厳島神社蔵)に惹かれます。「迷子」には、幼児を囲む様にして、孔子、釈迦、老子、キリストがその場に登場している構図です。信仰の揺らいでいた当時の世相を大観は表現したのだと言います。なかなか興味深い絵です。私には、初めて「朦朧体」の手法で描かれた作品を数点みたことが印象に残ります。この用語は知識としてありましが、大観の実物の絵を見るのは初めてでした。「生々流転図」は巻物になっていますので、部分的にしか見られなかったのが残念でした。京都に来なかった作品を含めても、今回の出品点数は100点ほどでした。これくらいの規模なら一挙に鑑賞したかったという思いが残ります。ご一読ありがとうございます。参照資料横山大観展PRチラシ「生誕150年横山大観展 出品目録」(会場にて入手したリスト)図録『生誕150年横山大観展』 補遺横山大観 :「コトバンク」没骨/朦朧体 :「artscape」朦朧体 美術用語詳細情報 :「徳島県立近代美術館」見どころ :「生誕150年 横山大観展」無我 横山大観 :「ColBase 国立博物館所蔵品統合検索システム」横山大観 :「足立美術館」絹本着色瀟湘八景図 横山大観 :「文化遺産オンライン」絹本墨画生々流転図 横山大観筆 : 「文化遺産オンライン」海潮四題・秋 :「Google Arts & Culture」横山大観 作品まとめ :「NAVER まとめ」孝霊五年不二峯出現/ 富嶽百景 第一編 葛飾北斎 その4 了 :「身辺雑木林」岡倉天心と屈原 :「国を磨き、西洋近代を超える」横山大観と「屈原」 :「Science Potal China」横山大観筆<<屈原>>に関する考察 :「UEDAの美術史研究報告」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.08.13
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綾小路通で西洞院通と新町通の間に「伯牙山」があります。下京区矢田町です。 二階正面に虫籠窓がある町家の表に幕が吊され、赤い傘と赤い提灯が町家とうまくマッチしています。これも宵山で好きな景色の一つ。風情があります。伯牙山は戦後会所がなくなったそうで、「杉本家住宅」の表の間が「飾り席」となっています。「杉本家住宅」は重要文化財に指定されている町家です。 帳の向こうに立つ人形が御神体の伯牙です。伯牙は両手に鉞(まさかり)を握りしめています。中国の琴の名手伯牙が、友人であり大切な理解者の鍾子期の死を聞き、悲しみのあまり琴の弦を断ち切ろうとする姿を表現しています。この逸話が「知音(ちいん)」という言葉のルーツとなったのです。例えば、『日本語大辞典』(講談社)を引くと、この故事を説明した後に「1.親友、知己 2.知人、しるべ」と説明しています。明治維新までは、この山は「琴破山(ことわりやま)」(琴割山、破琴山、琴ハリ山等)と称されていたそうです。明治4年に官辺の指示があり、「伯牙山」に改称したと言います。「琴破山(琴割山)」と称されて来た背景には、王の演奏命令に従うのを良しとせず琴を叩き割ったという琴の名手の戴逵(たいき)の物語がモチーフとして重ねられていたと言います。 水引は、胴掛の半分くらいに幅が広く、緋羅紗地に楼閣や樹木と唐人物図の押絵貼で房付というものです。 水引の前に隅房と隅金具が展示されています。他の山鉾との大きな違いは舞楽風源氏胡蝶文様の金物は、隅房をその外に掛けるやり方ではなく、内側から白い組紐の束が垂れ下がるという形です。様々な形の組み紐の隅房ではありません。隅金具そのものを際立たせる意図を感じます。胴掛の下半分が見えます。これは花卉尾長鳥文様の綴織です。 これは前掛に使われる「慶寿裂」(復元新調)です。上と下に詩、中央に人物風景図が描かれていて軸装様に仕立てられています。元の「慶寿裂」は明時代のもので文化11年(1814)から用いられてきて、明治16年に掛軸に改装されていました。今は維持保存品となっているのでしょう。この画像に「白幣」が「慶寿裂」の手前に置かれています。山の前部・後部の左右に白幣が計4本飾られるというのも特徴的です。巡行で白幣を飾るのはこの伯牙山が唯一のようです。また、この「慶寿裂」は山の幅の3分の1くらいですので、この下に前掛として雲龍瑞華文金茶地蝦夷錦が飾られます。 後掛「錦織龍文模様」。後掛は219年ぶりに新調されたもので龍村美術織物製です。 見送「三仙二仙女刺繍」です。白鷺を抱く女仙人、孔雀を従える仙人などが描かれた図柄です。京都西陣の柳絲軒製の異色作。 宵山飾りとして、山にはかつて使われた懸装品が展示されています。金幣が使われていた時代もあるのでしょうか。伯牙山からふたたび西洞院通に戻り、北上して四条通で左折します。 「郭巨山」。西洞院通と新町通の間、西寄りで四条通の両側が下京区郭巨山町です。山に飾られた懸装品には透明シートが被せてありましたので、写真を撮るのはやめました。中国の「二十四孝」という孝子24人の伝記と詩を記した教訓書に取り上げられている「郭巨」の故事に因んだ山です。郭巨は金の釜を掘り当て、母親に孝行を尽くしたとされる人。そこから、かつては「釜堀り山」と呼ばれていたのです。この山も伯牙山と同様に、明治4年に「郭巨山」に改めたそうです。 山の傍で見上げると、他の山が大きな朱傘を用いるのに対して、日覆障子の屋根を設けているのが特徴的です。その屋根裏に描かれた八坂神社の神紋が鮮やかでした。四条通の歩道に面して建つ会所の前にテントが特設されて、テーブルに載せた粽やグッズの販売係の人が数人立っておられました。会所内の座敷に山に飾る一式が展示されています。写真が撮りづらかったのが少し残念・・・・。 御神体になる郭巨の人形と童子人形は、正面の神前のお飾りや帳の陰になり全く見えません。「郭巨山町会所平面図」が公式ホームページに載っています。こちらをご覧いただくと様子がおわかりいただけるでしょう。 左側に展示された前掛を撮れました。中央部に、岩組のある庭園での「唐婦人遊楽図」の綴織です。その上と左右を、散雲瑞鳥を金糸彩色で刺繍した色紙大の飾り布が連なっています。中国製で、天明5年(1785)の作。前掛の上は、一番上が欄縁です。桐・桜・菊が細密に厚肉透彫りとなっています。その下に、胴掛を吊すための小裂(乳)を隠すための飾り板である「乳隠し」があります。これは金地彩色法相華文です。 右の壁際に置かれた隅房と隅金物をクローズアップしてみました。 四条通の高いビルの東隣、膏薬図子(こうやくのずし)と称される小路の入口の角に会所となっている町家があります。四条通に面して町家の存在感を残しています。郭巨山は会所に山土蔵がなく、八坂神社境内に接した東側に設けられた円山収蔵庫に一式が収納されています。四条通を東に進み、烏丸通で左折し北に上ります。烏丸通四条上ルの西側に位置する「孟宗山」です。中京区笋(たかんな)町に所在します。笋というのは「筍(たけのこ)」の古名なのだとか。 胴掛 会所の座敷には神前の飾りの背後、帳の内に御神体として孟宗の人形が安置されています。孟宗は、元の郭居業編による二十四孝の一人です。中国の三国時代(220~280)江夏の人で、後に呉の国の官吏となった人。筍が好物の母が老いて病が篤い厳冬期に、雪の中から筍を掘り当てて歓喜して持ち帰り、母に食べさせたといいます。そして、母の病も癒えたとのことです。この伝記を題材にした山ですので、「孟宗山」です。俗に「竹ノ子山」「「竹子ほり山」「筍掘山」「笋山」とも呼ばれるそうです。 右隣には、見送が掛けてあります。昭和15年(1940)に竹内栖鳳(1864-1942)が白綴地に墨絵の孟宗竹を描いたという「孟宗竹薮林図」です。織物ではなく肉筆の見送という意表をつく異色作です。 展示されている座敷には町内の人々がかなりの人数集まっておられましたので、胴掛は部分図でしか撮れませんでした。平山郁夫筆の胴掛「砂漠らくだ行(日)」「砂漠らくだ行(月)」で、平成20、21年(2008,2009)に新調されました。 会所に建てられている山土蔵 庭の一隅に延命地蔵大菩薩の提灯を吊した地蔵堂が祀られています。孟宗山の会所で展示品を拝見した後、最後の「占出山」に向かいます。 烏丸通を北に上がり、錦小路通との交差点で西に入ればすぐです。「占出山」は、中京区占出山町にあります。 14日時点では、占出山は山建てが行われ、駒形提灯が飾ってありますが、山本体が建てられたままでしたので、逆に山の構造体が良く分かります。山建てに縄をもちい、なわがらみの技法で組み立てられています。いくつかの山では縄の代わりに白い綱(ロープ)を使い同じような技法で山建てされているのを垣間見しました。台の上には、丸い形の山駕が載っています。丸い形の山駕は、多くの山の中で他には孟宗山と後祭の鯉山だけで使われているそうです。他は山洞の形です。籠の上に出ている真松は、他の山がすべて真松に赤松を用いるのに対し、この占出山だけは黒松(雄松)を用いるそうです。 会所敷地の通路に入ると、左側に「神功皇后」の扁額を掛けた社殿が設けられています。この山は身重の神功皇后を御神体としています。神功皇后が肥前松浦の玉島川の岩の上で釣糸を垂れて、戦勝ならば直ちに魚を釣れることを祈願されたところ早速魚がとれたという伝説を趣向としているそうです。「占出山」の名の由来です。別名は「鮎釣山」です。 会所内通路の右側には懸装品等一式が重ならない形で整然と展示されています。会所内の通路に沿って並べられた懸装品の多くはかつて巡行に使用されたものが並べられています。水引の一番は刺繍による「三十六歌仙図」です。二番水引は一番に縫いつけた17cm幅の猩々緋に有職風の様々な図案を刺繍したもので、すべての図案は異なるというものです。そして金唐革細縁が付いています。前掛と胴掛の綴織3枚は日本三景を三幅対として構想され天保2年(1831)に作られたものです。前掛が「厳島図」、胴掛は「天橋立図」と「松島図」です。一番奥に旧見送として「霞に新羅古鏡の図」(1890年作)、「富士山浦風景図の綴錦」(1831年作の後掛を1890年に見送に仕立て直し)、さらに、双龍・花鳥・牡丹・鳳凰等の文様を合わせた綴錦(明時代)等が展示されています。 通路の奥に別棟があり、その座敷に巡行の折に山に飾られる復元新調された懸装品が並べられています。ガラス戸越に撮りましたので鏡面反射をしていますが、大凡のイメージはおわかりいただけるでしょう。座敷に置かれているのは見送で「花鳥龍文様の綴錦」の復元新調です。占出山では、元の懸装品と復元新調品を見比べてみる楽しみがあります。 欄縁と見送掛が一箇所に集めて展示されていて、装飾金物を間近に見ることができます。欄縁は臘色漆塗りで、隅金物は揚羽蝶と唐草文様の意匠です。中間には神紋が取り付けられています。明和7年(1770)の作。見送掛も同様に臘色漆塗の丸型で、雲と龍の浮彫金物が取り付けてあります。文化14年(1817)の作です。 占出山の山土蔵。その傍に小祠が見えます。 土蔵の左斜め前に展示されているもの。これで、前祭の山鉾巡りが一応終了です。錦小路通を東に進み、寺町通辺りで四条通に戻ることにしました。 錦市場は高倉通を西端として東方向に錦小路通両側にびっしりと商店が並んでいます。アーケードの前面に伊藤若冲の絵が掲げられ、南側の角に若冲の鶏図とともに「伊藤若冲生家跡」の表示板が立っています。錦小路通から寺町通に右折し、四条通に出れば通りの南側に八坂神社の御旅所があります。 西側の社殿(西御殿)とその西隣の冠者殿社(境外末社)です。前祭の山鉾巡行が行われた後、夕刻に「神幸祭」が行われ、3基の神輿が八坂神社を出発すると、この御旅所に到着し、両社殿の間の建屋空間に、3基の神輿が並べられます。素戔嗚尊(中御座)と櫛稲田姫命(東御座)がこちらに遷座されるそうです。神幸祭は2017年に拝見しています。 東側の社殿(東御殿) 八柱神子神(西御座)がこちらに遷座されるとか。24日の後祭の山鉾巡行の後、夕刻から始まる「還幸祭」まで、神輿はこの御旅所に留まるのです。今年も祇園祭・前祭の山鉾巡りをできました。ご一読ありがとうございます。参照資料伯牙山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭-伯牙山の名宝- :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)山鉾の魅力細見 -伯牙山- :「下京区」祇園祭 ☆山鉾龍村織物巡り☆ 『伯牙山』『鈴鹿山』『北観音山』『南観音山』編 :「龍村美術織物公式ブログ」郭巨山 公式ホームページ孟宗山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭-孟宗山の名宝- :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)占出山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)八坂神社御旅所 :「京都通百科事典」補遺奈良屋記念杉本家保存会 ホームページ2016年 祇園祭・前祭の光景と歴史 8 :「資料の京都史蹟散策」祇園祭 前祭 山鉾巡行 2014年度 :「龍村美術織物公式ブログ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾)へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -2 鉾建てを経て 鉾の姿(月鉾・菊水鉾)へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -3 綾傘鉾・白楽天山・保昌山 へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -4 岩戸山・長江家住宅・船鉾 へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -5 放下鉾・霰天神山・山伏山・四条傘鉾 へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -6 油天神山・太子山・木賊山・芦刈山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -19 神幸祭 神輿渡御 (1) この記事を含めて4回のシリーズでご紹介しています。
2018.07.27
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油小路通を南に下り、綾小路通を横切った先に、「油天神山」が見えます。所在地は下京区風早町。普通市中はどこでもそうですが、ここも油小路通綾小路下ルか、油小路通仏光寺上ルと言う方が、位置がよく判ります。 駒札 かつては、町名の由来となる公家の風早家邸内に天満宮が祀られていたといいます。この御神体が天神像(菅原道真公)であり、これを勧請して作られた山なのです。油小路通に位置しますので「油天神山」の名称が付けられています。現在は通りの角にこの小祠が祀られています。勧請した日が丑の日だったことから「牛天神山」とも呼ばれるとか。 油天神山の会所の前に傘、提灯、幟が立てられていて、1階の表の座敷に所狭しと巡行当日に山に載せられる社殿や懸装品その他が展示されています。部屋の左から中央、右へと眺めて行きましょう。 隅房と房掛金具が前に展示されていたりして、懸装品それぞれの全図が見られないのが残念ですが、大凡についてはごく間近で拝見できることが利点です。左右の壁面に、欄縁・水引・胴掛・見送などが一式の形で眺められます。欄縁は天神ゆかりの牛と梅の錺金具がついていて、天保4年(1833)の製作。水引は平成18年(2006)に新調されたもので、パリのクリュニイ博物館所有のタピスリーを図案に用いたもの。胴掛は前田青邨原画による「紅白梅図」です。 水引の図柄をクローズアップしてみました。様々な花の中で小鳥が羽ばたく花鳥図です。 部屋の中央に安置されているのが、「天神山」の扁額を掛けた朱塗の明神鳥居と社殿です。社殿は高さが約1m、全体金塗で、屋根は木賊葺流造千鳥破風の形式です。扉を開けた正面には、金襴縁の御簾が垂れていて、その前に円鏡が吊るされています。また、階上の縁には狛犬金塗一対が配されています。豪華な社殿です。この社殿の左には、富士山を描いた梅原龍三郎原画の綴織「朝陽図」の見送が置かれています。これは平成2年(1991)の新調です。一方、右側は、前掛で、雲龍文様の繻子地錦です。こちらは平成6年(994)の新調です。 宵飾りには、以前に使用されていた欄縁や懸装品などが飾り付けられています。宵山巡りの楽しさは、このときしか見られない所蔵品を眺めることができることです。その山の長い歴史と営々とした継承の重みを感じることができます。欄縁は正面が凹型に切り込んだ形になっています。これは山洞の前に置かれた社殿をはっきりと見せる為に仕組まれた形です。会所に展示の欄縁は復元新調されたものと思われます。 水引はかなり褪色していますが、龍鳳凰文の刺繍です。胴掛は19世紀のカザフ絨毯だそうです。 以前に使われていた見送「宮廷宴遊図」です。油天神山からまずは真っ直ぐ南に下り、太子山に。仏光寺通下ルに位置します。下京区太子山町です。 この町家の雰囲気と赤い傘と提灯「太子山」のコラボレーションが、私のお気に入りシーンの一つです。 「太子山」はその名の通り、聖徳太子を奉戴する山です。四天王寺の建立に関わった杣入りの逸話から、他の山が真松を立てるのに対して、真木に杉を使用する唯一の山です。今年は展示の仕方が変化していました。今年は道路側からの拝見です。 中央に御神体が安置されていて、左右に胴掛が展示されています。向かって右側に他の懸装品などが展示されている形です。聖徳太子は頭髪を美豆良に結った少年時代の白装束の姿です。帳があって見えませんが、右手に斧、左手に衵扇(あこめおうぎ)を持つ孝養大師像だそうです。 この2枚の胴掛は243年ぶりに新調されたもので、2018年が初巡行となるものだそうです。左胴掛は2017年に、右胴掛は今年完成したそうです。従来のインド刺繍の胴掛に描かれていた「生命の樹」と「クジャク」をモチーフに、着物意匠デザイナーの原田茂氏の図案により、ベトナム刺繍として制作されたとか。黄金のクジャクと色とりどりの花々が鮮やかに刺繍で描き出されています。縦1.7m、横2.4mという大きさ。昨年訪れた時に眺められたもので見られないものもありました。今年は、御神体と胴掛に重点を置いた展示のようでした。左の方は、御幣の陰になり黄金のクジャクが見えなかったのがちょっと残念。その前に、水引が展示されています。 会所となっている町家の前面、南端に「荷茶屋(にないちゃや)が置かれています。天秤棒の前後にこの箱をかけて、そこには風炉釜・水指・茶碗など茶道具一式を納めてあるというものです。可動式茶屋。お茶を点て神仏に供えて、そのお下がりを行事参加者がいただくというもの。それも宗教行事の神事の一つだそうです。 太子山から仏光寺通で右折して、東に少し歩けば、「木賊山(とくさやま)」です。14日に訪れた時に、会所の入口を覗くと展示の準備中でした。 埒(らち)の隙間から従来の見送の一部が見えます。16日に木賊山に立ち寄ってみました。 会所の間口が狭くて奥行きのある1階フロアーに巡行当日の一式が展示されています。 一番奥に、御神体の人形が見えます。世阿弥の謡曲「木賊」から採られた題材を表す山です。わが子をさらわれて生き別れた翁が信濃国伏屋の里で悲しみにくれつつ木賊を刈る姿を表現しています。部屋の中央、天井に、山正面の水引が掛けてあります。日輪鳳凰文様の綴錦です。 奥側左の壁面に水引「蝦蟇鉄拐琴壽図」、右の壁面に水引「西王母黄初平図」が掛けられ、その下の左右の胴掛は綴織「飲中八仙図」で平成11~13年に復元新調されました。中国の故事による人物図です。手前左の水引は「寿老人図」で前掛が「唐人交易図刺繍」。 右側の手前には、見送が掛けてあります。中国明代の牡丹双鳳文様綴錦。床に置かれた説明札はよく見えるのですが、懸装品を正面から眺められないのが残念なところです。 木賊山から仏光寺通を東に歩み西洞院通との交差点で左折し、北に上がります。綾小路通との交差点に立つと、東西に山形提灯が見えます。西から巡ることにしました。西洞院通西入ルと、下京区芦刈山町にある「芦刈山」です。 山の前掛は、ライオンの頭部を描いた「凝視」です。現在巡行で使われているもの。山口華楊原画の段通です。 駒札 芦刈山のご神体は、芦を刈る翁の姿をした人形です。扁額「芦刈山」は上村松篁筆によるものです。 このパネル写真の姿で山に奉戴されます。「芦刈」という物語は、歌物語集「大和物語」の第148段に記載されていて、それが後にアレンジされて謡曲「芦刈」に仕立てられたそうです。貧しさ故に離別した夫婦。妻は宮仕えの機会を得たことから豊かになり、夫は芦刈とそれを売る生業で貧しいまま。妻は夫の消息を探しますが落ちぶれたままの夫は身を恥じて隠れます。歌を交わすことから、夫婦は縁を戻し、連れ添って難波から都に帰って行くという物語になっています。夫婦和合の姿に繋がる芦刈山です。謡曲「芦刈」は世阿弥が古能を改作したものだとか。 会所の入口にちかい壁面に、欄縁、水引と前掛が展示されています。水引は中央に孔雀などの鳥、上部に瑞雲、下部に岩波を配した色紙型の総縫つめ刺繍したものです。前掛は「欧風景」の毛綴で天保3年(1832)の作。 黒漆塗の欄縁は、波に雁文様鍍金の飾金具がついたもので、河辺華挙下絵、錺師藤原観教によるもので、明治36年(1903)の作。 胴掛は一部しか撮れませんでしたが「雲龍図中国刺繍」です。前掛と同じ天保3年の作。 藍地に金糸の龍8頭が3・2・3と3段に刺繍され、下部に岩波を刺繍し、一面に白雲が散らされているという図柄です。これは以前に使われていた胴掛です。 現在は尾形光琳原画の綴織「燕子花図」が巡行時に使用されています。平成5・6年(1993・1994)に新調されたものです。 隅房を飾る房掛金具は芦丸文様鍍金で嘉永元年(1848)の作。 見送は山口華楊原画の綴織「鶴図」で昭和60年(1985)の新調です。 この旧見送も展示されていました。「唐子嬉遊図」で文政3年(1820)の作。 芦刈山の荷茶屋です。天秤棒として角材が使われています。姉小路通を引き返し、東に見える「伯牙山」に向かいます。つづく参照資料油天神山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)太子山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)太子山の胴掛、243年ぶり新調 祇園祭、ベトナム刺繍で :「京都新聞」木賊山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)芦刈山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭-芦刈山の名宝- :「京都文化博物館」『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元 編&画 郷土行事の会補遺油天神山(あぶらてんじんやま)のわらべ唄 祇園祭2012 :YouTube京のまつり 予告(2018/6~219/3) :「京都文化博物館」 祇園祭-油天神山の名宝- 2018.8.11~10.21太子山(たいしやま)保存会 如意輪観音と厨子修理 :「京都市文化観光資源保護財団」阿房宮図」表情生き生き 祇園祭・太子山前掛けの下絵発見 :「ワルディーの京都案内」木賊(とくさ) :「小原隆夫のホームページ」芦刈 能楽事典 :「銕仙会~能と狂言~」芦刈 あしかり :「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾)へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -2 鉾建てを経て 鉾の姿(月鉾・菊水鉾)へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -3 綾傘鉾・白楽天山・保昌山 へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -4 岩戸山・長江家住宅・船鉾 へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -5 放下鉾・霰天神山・山伏山・四条傘鉾 へ
2018.07.25
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四条通を横断して、新町通を北に上がると、「放下鉾(ほうかほこ)」が見えます。 放下鉾の名前は、真木の中ほどに設けられた「天王座」に放下僧(ほうかそう)像を祀ることに由来するそうです。放下僧は、中世から近世にかけて大道で手品・曲芸の類いを演じるとともに仏法を説く僧形の人のことです。芸を見せるのは仏法を説くための人寄せというねらいがあったのでしょう。「放下」を「ほうげ」と読めば、「投げ捨てること」という意味と、「禅宗で捨てること。特に、悟りを開くためにあらゆる迷いや執着を捨て去ること」(『大辞林』三省堂)を意味してしまいます。ちょっと、ご注意を。放下鉾は、中京区小結棚町に所在します。 放下鉾の天王座は、幕で覆われていて放下僧像をズームアップしても見られません。 鉾頭のこのシンボルは、日・月・星の三光が下界を照らす様子を示しているそうです。尚、この型が州浜に似ていることから「すはま鉾」とも呼ばれるといいます。 鉾の右側面(鉾位置で西側面)ですが、14日には透明シートが被せてありました。天井幕は、柴田是真の下絵を組み合わせた意匠の綴織「四季草花図」です。平成22年(2010)に新調されています。天水引は、平成8年(1996)に新調されたもの。下水引の一番は、栂尾高山寺の国宝華厳宗祖師絵伝を下絵にした綴織で平成6年(1994)に新調されたもの。二番は、緋羅紗地に上部円下部角という形の中に牡丹と兎の二種の図柄の金糸綴付刺繍。三番は、駒井源琦の下絵による青海波におしどり図綴織の復元品です。胴掛は花模様のコーカサス段通。放下鉾から更に北に向かい、錦小路通との交差点で右折し東に入ります。 中京区天神山町に所在する「霰(あられ)天神山」です。 ここも、山の胴部には透明シートが被せてありました。これは前部の前掛です。中国刺繍の太湖岩鳳凰図です。 会所の入口の両側上に赤い傘と提灯が掲げてあります。会所室内の展示品をここでも拝見しました。 開放された部屋にの右側に、「天神」の額を掛けた赤い鳥居と社殿が安置されています。これらが巡行日に山に載せられます。 室町時代の永正年間(1504~1521)に大火が発生した際、霰(あられ)とともに一寸二分(約3.6cm)の天神様が舞い降りて、鎮火したといいます。この山はその故事に由来します。霰天神山は山台上を天神宮境内と見立て、山の定式となっている山洞と真松がありません。それに代わるものとして、若松12本を両側に並べるとともに上掲の画像に見える紅梅2本が立てられます。そして左右の欄縁上に透塀が取り付けられます。これは廻廊と呼ばれています。 社殿の左には前掛。もとは16世紀にベルギーで製作された「イーリアス」物語を描いた毛綴です。これが平成21年(2009)に復元新調されました。 左右の胴掛は上村松篁(昭和60年新調)、上村淳之(平成14年新調)親子の原画花鳥綴織です。これはそのうちの一つ、松篁原画「金鶏図」です。胴掛の手前に透塀(廻廊)が一部見えます。 隅房を掛ける房掛金具。大きな楕円形で松・梅・紅葉の厚肉彫です。霰天神山から錦小路通を東に歩みます。そのまま室町通を横切って進めば占出山です。駒形提灯が見えています。この時は先に左折して室町通を北上することにしました。 錦小路通と蛸薬師通の間に「山伏山」があります。所在地は中京区山伏山町。 こちらはカバーのシートが被せてないので、懸装品をこんな感じで眺めることができました。 山の両側面の水引は、狩野派による細密な下絵で、支那風俗で楼閣と大勢の人々の働く姿、機織養蚕の情景が描かれています。金地綴織の「養蚕機織図」です。二番水引は猩々緋に花文様が刺繍されています。「緋羅紗地草花文様刺繍」。胴掛は埒(らち)で囲われていますので上部しか見えませんが、花卉胡蝶文様の綴錦です。左右の側面に各3枚掛けという形です。 室町通に面して建つ会所の二階に、巡行当日まで御神体(人形)が祀られています。 この山伏姿の人形がそのまま「山伏山」という名称の由来になっています。浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)の大峯入りの姿だそうです。浄蔵貴所は、平安時代の参議宮内卿文章博士三善清行の第八子です。八坂の法観寺の塔が傾いたとき法力によってそれをなおしたという伝説があります。もう一つ有名なのが一条堀川に架かる橋が「一条戻橋」と呼ばれる由来を作ったエピソードです。父・三善清行の死を聞いた浄蔵貴所が熊野から急遽戻って来たとき、一条堀川のところで葬列に出逢ったのです。そこで浄蔵貴所が祈祷を行うと、清行が蘇生したというのです。葬列は橋の所から引き返したという伝承です。 会所二階の天井にもご注目を!余談ですが、ここに由来する「一条戻橋」は、かつて出征する兵士はこの橋を渡ることで、無事帰還できることを祈り、花嫁行列はこの橋を渡らないように于迂したとか。嫁いだ後に出戻りとならないようにとの縁起かつぎだそうです。また、安倍晴明は式神を使役したということで知られいます。その晴明が式神をこの戻橋に封じておき、必要なときに呼び出したといいます。こんな伝承・伝聞を思い出しました。さて、この後蟷螂山を経由しさらに南に位置する山を巡ることにしました。室町通を引き返し山鉾巡りの人々の中に入ることを回避するために、山伏山の少し北の蛸薬師通との交差点で左折し西進し、西洞院通との交差点で西洞院通を南進します。 四条通の手前に「蟷螂山」があります。こちらもずばり、所在地は中京区蟷螂山町です。西洞院通の南側から眺めた蟷螂山の駒形提灯です。 山の台上に御所車が載せられ、その屋根に大きな蟷螂(とうろう:かまきり)が乗っています。この蟷螂がカラクリ人形という次第。首をかしげたり、手斧を振ったり、翅を広げたりという動作をさせることができるのです。巡行の折りにそのパフォーマンスがどよめきと拍手を起こしています。カラクリ蟷螂は、鉾の辻回しと同様に、巡行でしか見られない楽しみの一つです。宵山では大きいな!でとどまるのですが。それと、御所車の車輪も回ります。これもカラクリの一つです。山の胴まわりは透明シートが被せてあります。写真を撮るのは止めました。 隅房と房掛金具はシートの外にでていましたので、房掛金具をクローズアップしてみました。山のすぐ傍の建物に懸装品等の展示があるのに気づきました。 鏡面反射して絵にならないのですが、房掛金具が表側と裏側と両面で展示されていたので、画像は見づらいものですが、ご紹介します。裏をみられたのがおもしろい。 背後に置かれた箱の箱書から考えると、これは御所車の屋根に載っていた旧鯱ということなのでしょう。狩野永徳が描いた「洛中洛外図屏風」(上杉本)には、長刀鉾のすぐ後に蟷螂山が描かれています。蟷螂山は、「蟷螂の斧を以て隆車の隧を禦がんと欲す」という中国の故事にちなんでいるそうです。元治元年(1864)の禁門の変での大火で蟷螂山もまた罹災しました。それ以来117年間、休山として巡行されていなかった山です。そして、昭和56年(1981)に遂に復活したのです。四条通に出て、西に進み、油小路通を南に向かうことにしました。 油小路通の手前、北側歩道寄りに位置するのが「四条傘鉾」です。 綾傘鉾と同様に、四条傘鉾も古い鉾の形態を保っているものの一つです。傘そのものが御神体だそうです。傘の上には赤松が立てられ、三方に赤幣が飾ってあります。 この御幣を固定する腕を伸ばした葱坊主のような、花瓶のような金具の形がおもしろい。明治5年以降絶えていたこの四条傘鉾は昭和60年(1985)に傘本体が復興され、路上に飾られるだけの「居祭」として祇園祭に参加しました。風流踊と囃子が復元されたことで、傘と踊りと囃子がセットとなり、117年ぶりに昭和63年(1988)から山鉾巡行に復帰するという経緯を経ています。風流踊の復元にあたっては、滋賀県の滝樹神社に伝わる「ケンケト踊」が参考にされたそうです。風流踊りは棒振り踊りで、赤熊(しゃぐま)を被った鬼面の棒振り2人、花傘を被り、鉦・太鼓・ササラを子供各2人が扱い、合計8人で構成されます。2組16人が風流踊を演じるそうです。それに囃子方が加わります。 胴掛はインド更紗です。 山の欄縁の角の下に設けられた隅房を掛ける隅房金具にご注目ください。 鬼面です。鬼の長い舌が隅房を掛けるフックになっています。ユニーク! 四条通の南側歩道の南西側からの景色です。この後、油小路通を南に向かいます。つづく参照資料放下鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭-放下鉾の名宝- :「京都文化博物館」祇園祭放下鉾、新調「天井幕」に柴田是真 2011.6.27 :「路地町家」霰天神山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)山伏山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭-山伏山の名宝- :「京都文化博物館」蟷螂山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)四条傘鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元 編&画 郷土行事の会補遺(財)放下鉾保存会 pdfファイル放下鉾天井幕 ・ 下絵に関する逸話 :「路地町家」祇園祭 放下鉾稚児、久世駒形稚児 :「京の記憶アーカイブ」一条戻橋 :ウィキペディア陰陽師安倍晴明 伝説の地を訪ねて :「能面を打つ-能仁会-」四条傘鉾 :「京都と京都近郊、桜と紅葉寺院神社写真集」平成28年度祇園祭山鉾巡行 四条傘鉾棒振り踊り :YouTube平成29年祇園祭 四条傘鉾 棒振り踊り :YouTube瀧樹神社 ケンケト踊り :「滋賀・びわ湖 観光情報」ケンケト踊り :「山車とまつり」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾)へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -2 鉾建てを経て 鉾の姿(月鉾・菊水鉾)へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -3 綾傘鉾・白楽天山・保昌山 へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -4 岩戸山・長江家住宅・船鉾 へ
2018.07.23
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高辻通を西に行き、新町通との交差点で右折し、北に上れば「岩戸山」です。岩戸山町に所在します。鉾と同じ形になっていますが、「山」であることは、屋根の上に真松が立ててあることからもわかります。鉾は真木が立ちます。 岩戸山は透明シートが被せていなかったので、懸装品を楽しめました。これは北西側からの眺めです。 正面の水引と前掛。前掛は「玉取獅子図」で中国絨毯です。 山の左側面。胴掛は「藍地連花額変わり斜め格子花文様」のインド絨毯です。 欄縁の下には、下水引が鉾と同様に3枚重ねてあります。一番水引は「金地鳳凰瑞華彩雲岩に波文様刺繍」。平成15年(2003)に復元新調されたものです。二番水引は「緋羅紗地宝相華文様刺繍」、三番水引は「紺金地雲三ツ巴五瓜唐花文様綴」。この二番・三番は平成17年(2005)に復元新調されたもの。どの山鉾もそうなのですが、懸装品が順次復元新調される形で、鋭意伝統の継承が図られています。一方で、新たな懸装品が順次加えられ、時代の変遷を祭に採り入れて行くという側面もあります。祇園祭にその時代の新しいものが徐々に負荷されて、その混合が今を表現していくというところもおもしろいと感じます。 巡行中には、囃子方が欄縁沿いにずらりと並んで坐っていますので、この天井部分の景色は眺められません。観覧者が上っていないタイミングに出会えて、撮ることができました。この天井幕「白茶地五彩瑞雲文様」は平成23年(2011)に新調されました。また、一部だけ写っている天水引は緋羅紗地に鳳凰丸と彩雲を配した刺繍で、明治に製作されたものです。 これは、胴掛の下の裾幕です。埒(らち)越しに撮りました。この裾幕も山鉾それぞれに様々な意匠が見られます。そう言えば、長年祇園祭を見物していますが、未だこの裾幕をすべて撮ったということはなかった・・・・・。あらたな楽しみ課題が見つかりました。 既にご紹介した鉾の場合には会所の二階と鉾の上(囃子台)に渡りを架けています。しかし、岩戸山は山の後部(南側)に階段を特設し独自に道路から観覧者が上るようになっています。岩戸山も毎年のように訪れていますが、今年初めて気づいたことがあります。 この町家です。「THE TERMINAL KYOTO」(ザ ターミナル キョウト)という立看板が入口左に置かれているのが目にとまりました。岩戸山のすぐ南東側です。町家に入った見世(みせ)の間に岩戸山の懸装品が展示されていたのです。勿論、中に入って見ました。 入ると、北側に低めの見世の間があり、道路側には見送が展示されています。皆川泰蔵作の「ヴェネチァ図」です。 奥側にもう一つの見送が展示されていました。「日月龍唐子嬉遊図の綴織(一部刺繍)」です。 上部の中央には、正面龍が居て、左右は日・月を形象しています。 その下に唐子が麒麟に跨がって天空を駈けています。 唐子が様々に遊ぶ姿を一つ一つ眺め、何をしているかを推測するだけでも楽しい図です。 右下の4人組は掛軸様の物を広げて見入っています。その左上の子は竹馬に跨がっています。その左下の子は硯や筆の置かれた台の上に上ろうとしているよう・・・・・。 前掛の傍に、「ミニ岩戸山鉾」が飾ってありました。その左に説明書きが置かれています。説明文の要点を箇条書きにしてご紹介します。*仏光寺通油小路西入の川本家の元所蔵品。昭和57年(1982)7月17日付京都新聞で初紹介された。*明治21年6月二代目川本元三郎さんの手作りで、本式の細工物としての仕上がり。*川本晃之助氏が家宝としてきた品を、111年を経て岩戸山に寄贈された。 見世の間に、下水引「紺地丸龍文様錦織」(18世紀初期朝鮮王朝製)が展示されていました。元文5年(1740)に新調され、安政3年(1856)に仕立直しをしたものと付記されています。宵山までの山鉾巡りで興味深いのは、現在の巡行には使われなくなり、保存されている懸装品を拝見できることです。 この龍たちは、久々に大勢の人間たちを見つめ返していることでしょう。真向龍の描き方もその意匠にさまざまあり、懸装品間の龍の姿を眺めるのも一つの楽しみです。 この町家でいただいたカード閉ざされていた町家を復元して5年前にオープンしたそうです。2階にお茶室を設け、お稽古も受けつけているとか。喫茶室もあり。普段、展示・イベント会場として利用されているそうです。今回、初めて知りました。序でに、ご紹介しておきます。通りの西側に幕を吊した町家がありました。近づいて見ると、ここも屏風祭をされていました。 六曲一双の竹をテーマに描かれた屏風が飾られていました。そして、少し北に上ると船鉾町です。14日に市中に出かけた第一目的は、この町にある「長江家住宅」の内部を見学することでした。数日前のテレビ報道で、この長江家住宅が紹介されているのを見ました。屏風祭とリンクさせて、この町家の内部を見学(有料)できる機会を作るというものでした。京町家の内部を拝見する機会はそうそうないので、山鉾巡りと併せて訪れることにしたのです。山鉾巡りの寄り道をしながら、現地着。なんと、めざす場所は、船鉾のすぐ傍でした。 これが見学の折にいただいたリーフレットの表紙です。 以下これを利用してご紹介します。「長江家住宅」は京都市指定有形文化財に指定されている町家です。見学時、屋内は撮影禁止でしたので、内部を画像でご紹介できないのが残念。リーフレットから、見学した1階の平面図を引用します。長江家三代目が文政5年(1822)に当時袋屋町と称された現地に35坪の土地家屋を取得されたことに端を発するそうです。この地で代々呉服商を営まれてきたとか。元治元年(1875)禁門の変の京都大火で家屋焼失。慶応4年(1868)に上記平面図の主屋北棟の部分を再建。6代目が明治39年(1906)に南隣地を取得し、明治40年に主屋南棟部分を新築し、大正4年(1915)に化粧部屋、浴室を新築するという経緯を経ているようです。職住機能の大半を南棟に移し、それまでの北棟は隠居所として利用するようになったとか。そして、北棟内部を日常生活の点から改築されて使用されていたと言います。平成27年(2015)5月に、長江家8代当主から、一企業がこの長江家住宅を継承され、文化財としての「長江家住宅」を維持・保全・活用するという役割を担われたとか。そして、この2018年5月には、主屋北棟を当初の内部に復元修復されたそうです。今回は、主屋南棟の1階部分を見学する機会を得ました。一部は除外ですが。京町家は間口を狭く奥行きが長い「鰻の寝床」と称される建て方だと言われます。かつては、間口の広さが税を徴収する基準にされたので、できるだけ間口は広くしないという対応を町衆が行ったのだと聞いた記憶があります。まさにこの町家もその典型のようです。入口から裏まで通り庭が真っ直ぐにあり、部屋は「ミセ、ゲンカン、ダイドコ、オク」と縦に一続きになっています。奥座敷からは庭が見え、庭の南側に廊下が設けられていて、庭を挟みさらに奥へ繋がっています。明治の段階で、中庭の北側に「ハナレ」が新築されたのです。そして、大正時代に化粧部屋と浴室が新築された結果、上掲の平面図に至ったようです。細長い敷地の家のほぼ中心に設けられたこの主庭が、採光や風通しの役割を果たすとともに、通りに面した職の世界、通りの喧騒とは切り離された空間を生み出します。私・住の世界での安らぎと風趣を工夫する空間です。市中の山居を演出する場となっています。この町家は、「厨子二階型と呼ばれる江戸から明治にかけて引き継がれてきた江戸期継承型京町家」だとか。また、この辺りは歴史的経緯から繊維業の大店が集中していたので、「糸屋格子」が用いられています。「これは、作業がしやすいように細い格子を木間返しにして家内に光を取り入れる工夫がなされたもの」だとか。通り庭にも工夫があったのです。「格式を重んじるオクと呼ばれる奥座敷を除いては、各々の居室が接する土間(トオリニワ)は、それぞれミセニワ、ゲンカンニワ、ハシリニワと空間が分節され、公私(職・住)の用によってその用途が暖簾や嫁隠しなどでやわらかく仕切られている」のです。見世(みせ)の間と玄関の間には、それぞれに屏風が飾ってありました。「ダイドコ」の間には、アイスクリームを手回しで作る道具など台所関連の明治・大正期の道具と思える物が展示されていました。通り庭の壁側にはオクドサンなどの昔懐かしい設備が見えます。大正初期に新築された浴室には、マジョリカ・タイルが使用されています。化粧部屋には、公開用に誓願寺近辺を描いた屏風の復元が置かれ、その復元関連資料が展示されていました。離れ座敷では、はるか昔の祇園祭の映像が放映されていました。なかなか見る機会のない貴重な映像で、興味深いエピソードがいくつか盛り込まれていました。これらは、今後公開の機会があれば再び展示され見られるかもしてません。 長江家住宅を出てから、確か主屋北棟側で、格子越しに撮ったものです。これも屏風祭の一環で、新町通から見える様にしてあったのでしょう。それでは目の前の船鉾のご紹介です。船尾側が長江家住宅南棟に近いのですが、船首側からまとめましょう。 新町通の北側から船鉾の駒形提灯を眺めた景色船鉾の提灯に記された「フネ」の漢字にまずはご注目ください。「舩」という漢字が使われています。大昔に初めて船鉾を見に来たときに、アレ!と思ったものです。 船首には「鷁(げき)」と称される瑞鳥が見えます。木彫総金箔置の像で想像上の鳥です。宝暦年間(1751~64)長谷川若狭の作。 船首部の左舷。下水引は西村楠亭の下絵による金地雲龍図の肉入刺繍です。龍の眼にご注目! 眼にレンズ状の玻璃をはめてあります。 船体の正面に駈けられた前掛。昭和8年(1933)山鹿清華作の綴錦。上部に鶴が飛翔し、真向龍が睨んでいます。岩波彩雲が五色で描かれています。 船鉾の左側面 屋形の天水引の前面の一部。猩々緋地に雲と鳳凰が刺繍されています。 屋形の欄間の装飾彫刻 こちらは艫(とも)の部分。艫櫓には紫縮緬幕がかけられ、高欄の下の腰板には極彩色の雲に金色飛龍の丸彫があしらわれています。その下の水引は、緋羅紗地に雲と麒麟が刺繍されています。 見送は、靑海波の上に真向の昇り龍、雲その他も見られる和綴錦です。 私が個人的に好きなのがこの大舵の図柄です。黒漆塗の厚板に青貝螺鈿細工で荒波と飛龍が研ぎ出されてます。左舷は降龍、右舷は昇龍です。翼を持った龍という発想がおもしろい。狩野派鶴沢探泉の下絵、塗師田中次兵衛、青貝師佐々木吉兵衛のコラボレーションだそうです。 毎年のように船鉾を眺めに来ながら、つい見過ごすのは大舵のこの飾り金具です。ここにも龍がいます。 右舷の後部。高欄下の赤色の水引は平成21年(2009)に新調されたものです。最後に、この船鉾は神功皇后の伝説をテーマにしたもので、「出陣」の船鉾です。巡行の時には、神功皇后像とともに龍神・住吉明神・鹿島明神の3体の神像の合計4体がご神体として搭載されます。神功皇后の面は文安年間(1444-48)の作と考えられているとか。船鉾からこの後、新町通を北に上り、四条通を横断して、放下鉾に向かいます。つづく参照資料岩戸山 ホームページ岩戸山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)祇園祭 -岩戸山の名宝- :「京都文化博物館」船鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)山鉾巡行の歴史と文化 :「京都文化博物館」『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元 編&画 郷土行事の会補遺THE TERMINAL KYOTO ホームページ京都市指定有形文化財長江家住宅主屋「北棟」の復元修復工事完成 案内文 pdfファイル :「フージャースホールディングス」第3回「日本の近代装飾タイル -和製マジョリカタイルと白色タイル-」:「LIXIL」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾)へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -2 鉾建てを経て 鉾の姿(月鉾・菊水鉾)へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -3 綾傘鉾・白楽天山・保昌山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -2 船鉾観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 宵山 -1 長刀鉾・函谷鉾・月鉾・舩鉾、岩戸山、木賊山、太子山探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -16 前祭宵々山(7) 岩戸山
2018.07.20
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室町通に面した池坊短期大学の学舎近くに位置する鶏鉾からまず、南に進むと綾小路通と交差します。この通りを西に入ると、善長寺町の「綾傘鉾」です。14日に入手した祇園祭山鉾連合会作成の祇園祭案内チラシから前祭山鉾の位置図を部分的に切り出し引用します。位置関係がわかりやすいでしょう。 「綾傘鉾」です。 大きな傘に「綴織の垂り」と呼ばれる綴錦「飛天の図」の傘飾り幕が取り付けてあります。いわゆる風流傘です。応仁以前からある山鉾の古い形態で特殊な徒歩の傘鉾として、その姿が維持されてきたそうです。天保5年(1834)6月に小形の曳き鉾が新造されたのですが、この鉾は30年後の元治元年(1864)、禁門の変で焼失してしまいます。そして、現在は再び傘鉾という古い形態で、傘鉾2基と「棒振り囃子」が巡行に加わっています。この2つがセットになって、神事として「風流拍子物」の特質を発揮することになるそうです。もう一つの傘には、綾傘鉾が1979年に復興した折、人間国宝の染織家・森口華弘氏が制作し寄贈された「四季の花」が取り付けられます。 この町内に「大原神社」があり、その入口に提灯が飾られています。この神社の中に綾傘鉾の会所があります。 現在は、風流傘を山車に載せて、他の山と同様に曳く形で巡行されています。以前に部分図を引用しご紹介していますので重複を避けますが、狩野永徳筆「洛中洛外図屏風」(上杉本)を見ると、傘鉾を担ぎ手が担いで練り歩いた図が描き込まれています。この山車の四隅の飾り金具が素敵です。 この「飛天の図」の図案は、法界寺の阿弥陀堂(国宝・鎌倉時代)内の長押に描かれている壁画が基になっているそうです。法界寺は京都市伏見区日野に所在します。余談ですが、この法界寺(日野薬師)に近いところに、日野誕生院が所在します。ここが浄土真宗の開祖親鸞が藤原有範の長子として誕生した地です。「親鸞聖人ご誕生之地」碑が建てられています。元に戻ります。綾小路通から、再び室町通に戻り、少し南に下がれば、 「白楽天山」です。 室町通の南から、白楽天山を眺めた全景です。鉾は真木が屋根から突き出て高く聳えています。一方、山には山岳信仰に基づいて、山を表象する真松が立てられます。山により松の代わりに杉も使われているようです。駒形提灯の背後に、真松が少し見えています。山に載る御神体や懸装品類は会所に飾られて公開されています。山によっては所蔵の懸装品を14日時点で既に飾りつけてあるところもあります。巡行日には使用しない懸装品を山に飾って宵山までの展示公開をされているケースもあるように見うけます。白楽天山は、会所で一式が展示公開されています。 会所の正面奧に、御神体が置かれ、左右の壁や壁の前に、懸装品等が所狭しと並べてあります。正面左に唐の詩人白楽天、右に道林禅師です。 白楽天は、手に笏を持ち、唐冠をかぶり唐織白地狩衣姿です。 道林禅師は藍色羅紗の帽子をかぶり、緞子地の紫衣姿で、右手に払子・左手に数珠を持っています。これら御神体(人形)の衣裳が今の様式に改められたのは文政4年(1821)と言います。 白楽天が杭州刺史になったとき、泰望山に登り、好んで老松の樹上に座す道林禅師に対面して、仏法の大精神は何かと問うのです。道林禅師は「諸悪莫作、衆善奉行」と答えたそうです。そんなことはわかっていると白楽天が言うと、道林禅師は白楽天をへこます厳しい返答を即座にしたというオチがついています。この二人の問答のエピソードは以前白楽天山のご紹介をした折りに記しています。「諸悪莫作、衆善奉行」は、七仏通戒偈と呼ばれる四句の前二句です。手許の本によれば、一休和尚の墨跡でとくに良く知られた禅語になっていますが、「伝説によれば、『過去七仏に通じる大事な教えは何か」という問いに対して、阿難尊者が答えた言葉と言われている」そうです。』(『一日一善 上』秋月龍珉著・講談社現代新書) 左の壁側に見送が展示されています。手織錦の「北京万寿山図」です。昭和28年(1953)山鹿清華製織と木札に記されています。上部の房掛金具は昭和32年(1957)野田嘉一郎製作によるものです。 左側手前には、前掛が見えます。紺地雲龍文様刺繍裂(1808年製作)とギリシャ神話を題材とした図柄の毛綴(1860年蟷螂山より買受)が三点継(つなぎ)になっているものです。この毛綴はゴブラン織だとか。 向かって右の壁には、水引と胴掛に仕立てられた17世紀製作の毛綴のものです。こちらは、前面に展示されたものとの関係で、部分的に撮れただけです。これは「農民の食事風景」を織上げたもので1978年にフランスから購入されたものだそうです。白楽天山の後、14日は当初の目的から、西隣りの新町通に行ました。ここでは、いつも宵山を巡るルートから外れてしまう「保昌山」を16日に見に出かけましたので、こちらをこの続きに加えます。山鉾位置図をご覧ください。この山だけが前祭では少し離れた位置に所在しています。かつてはその間にもっと山などがあったのでしょうが、兵乱、火事などを経て消えていったのでしょう。さて、白楽天山から南に下ると、高辻通と交差します。高辻通で左折して東洞院通まで東進し、そこで東洞院通を少し下がります。 保昌山(ほうしょうやま)です。保昌は丹後守平井保昌(やすまさ)という武将の名前に由来しています。保昌には恋物語としての有名なエピソードがあるのです。祇園祭の出し物としては、京童にとっては欠かせないネタだろうと思います。尚、平井保昌は摂津国平井に住んだことからこう呼ばれますが、藤原保昌の別称です。 和泉式部に恋をした平井保昌は、和泉式部のために紫宸殿に忍び入り紅梅を手に入れるという危険を冒したと言うのです。紅梅を手折る場面の姿を題材にした山です。和泉式部は18歳の頃に、父の働きかけもあり、橘道貞を婿に迎えています。だが、その夫婦仲にはやがて亀裂が生じ、長保6年(1004)3月に道貞が任国陸奥に別の女性を妻としてともない下向することで、別離が決定的となります。藤原道長の家司だった保昌と和泉式部は寬仁2年(1018)ころまでには再婚していたようです。その後、保昌が丹後守として丹後国に下向するとき、和泉式部は同行しています。保昌の冒した紫宸殿の梅花を手折るというリスクは、酬われたということになります。(『和泉式部日記』 近藤みゆき訳注・角川ソフィア文庫)この梅枝を手折るというのは、伝承レベルのドラマチックにするお話かも・・・というところ。 燈籠町会所(保昌山)の二階に宵山まで御神体(人形)が飾られています。 緋縅の鎧が一部見えます。太刀をつけ、梨地蒔絵の台に紅梅の枝を一杯にもってこれをささげる姿を、巡行の折には眺めることができます。以前に巡行の折の場面をクローズアップでご紹介しています。そちらもご覧いただけると、うれしいです。 この会所自体についての駒札が設置してありました。二階の格天井を上掲画像から少しお解りいただけるかもしれません。この会所の建物が、1983年6月1日、京都市の指定有形文化財に指定されています。 1階は道路に面した戸が全て外されて、座敷全体が見渡せます。前面には、山に因んだ縁結びのお守りや粽をはじめ祇園祭関連グッズが並べられ、町内の人々が対応されています。座敷の中央に入母屋造り妻入りで檜皮葺風に褐色に屋根を塗装し、三方が蔀格子で設えられた小振りな社殿が置かれています。これが「紫宸殿」です。山籠を左に寄せて、この紫宸殿が巡行当日山に載せられます。階上の保昌の人形がメインですので、山の後部に紫宸殿が位置します。 正面には1.6m×2mの見送が天井の縁から掛けてあります。全体を撮ろうとすると、蛍光灯や紐、扇風機などが一緒に写ってしまいます。これはまあ宵山までの山鉾町巡りでは何処も同じです。 この図柄、道士二人が太極図を広げて指さしながら、何事かを語り合っています。岩に座り、背後で傍観しています。傍に香炉が置かれ、香が焚かれている景色です。 左の道士の斜め後ろには、子供を抱き鶴を従えた弁財天が少し前に身を乗りだすようにして福禄寿と同様に傍観しています。背景には、松梅、瑞雲、瑞鳥など、縁起のよいものが描かれています。綴錦で寛政10年(1798)の作。ここに掛けられているのは復元新調されたものです。 左の壁面に目を向けると、水引と胴掛が掛けてあります。胴掛は、巨霊人と傍に鳳を配し、従者と唐子などを刺繍の作品で、左胴掛です。巨霊人は河の神で、流れを遮る山を手で突き崩し、足で踏み分けて両側に押しのけて河を通すというパワーを持った神だそうです。 手前の図柄をズームアップしてみました。汀で霊菓を捧げ持つ従者と傍に坐る唐子が見つめ合い、楽しそうな雰囲気です。 水引は、座敷を囲む壁面にぐるりと掛けてあります。中国明末文官の衣服の胸背に施された絽刺風刺繍が素材で、それを30cm角の小品に仕立て、それを横に連ねて造られた水引だとか。雲龍波濤文様に鳳凰鶴虎を配し、特に孔雀の羽根を縫込んだ刺繍の逸品です。水引は、山の前面には7枚、両側面には8枚、後面には両側に一枚が使われています。 右壁面に目を転じますと、壁面に掛けられた胴掛の前に隅房と金具が掛けてあります。浅葱二重丸組紐大房です。 大房を掛ける金具は、乱れ桐鍍金地彫で26cmというもの。大正8年(1919)に製作されたものといいます。 大房と金具の陰になり、右胴掛は一部しか見えません。ズームアップして撮った部分図で、胡人の図柄部分だと思います。こちらは、張騫と胡人、虎を図柄にした刺繍です。張騫は「中国、前漢の旅行家。武帝の使者として、紀元前139年大月氏い派遣されたが、匈奴に捕らえられ11年間抑留。脱出して大月氏に至り、前126年に帰国。」(『日本語大辞典』講談社)という次第です。その見聞が漢の西域経営や西域との交流に役立ったのです。 水引と前掛です。前掛は「蘇武牧羊図」 蘇武をズームアップしてみました。蘇武もまた「中国、善漢の武将。武帝の命により匈奴に使いして捕らえられ、19年間抑留されたが、節を守って降伏しなかった。雁の脚に書状を結んで故国に届けたという故事で有名」(『日本語大辞典』講談社)脇道に逸れました。これら前掛と両胴掛は、円山応挙(1733~95)の下絵によるものです。また、ここに掛けてあるのは巡行用に復元新調されたもののようです。 東洞院通の南側から保昌山を眺めた景色です。ご覧のように、山建てされた形の姿を、埒(らち)で囲ってある状態です。そのため、山建ての「なわがらみ」をみることができます。埒越しに撮ったものをご紹介します。 鉾建ての「なわがらみ」と基本的には同じようです。鉾の「なわがらみ」の小形版というところでしょうか。 これでいよいよ、新町通に向かいます。つづく参照資料綾傘鉾保存会 ホームページ 「綾傘鉾と棒振り囃子」 「綾傘鉾の懸装品」 綾傘鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)白楽天山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)保昌山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)『祇園祭細見 山鉾篇』 松田元編並画 郷土行事の会発行補遺森口華弘 :ウィキペディア森口華弘 :「コトバンク」森口華弘の作品一覧 :「日本工芸会」大原神社(京都市下京区) :「京都風光」法界寺(日野薬師) :「京都観光Navi」親鸞聖人ご誕生地 :「フィールド・ミュージアム京都」日野誕生院 :「京都風光」祇園祭-白楽天山の名宝- :「京都文化博物館」藤原保昌 :ウィキペディア藤原保昌 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾)へ観照 祇園祭 Y2018 前祭 -2 鉾建てを経て 鉾の姿(月鉾・菊水鉾)へ次の記事もご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -7 綾傘鉾探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -18 前祭宵々山(9) 霰天神山・山伏山・白楽天山・洛央小学校前の史跡観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -3 17番・月鉾から20番・郭巨山まで この記事に、保昌山を載せています。
2018.07.19
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四条通の北側歩道で北西側から月鉾を眺めた景色です。ビルに挟まれた瓦屋根の二階建ての建物が鉾の右に見えますが、月鉾の会所です。 鉾頭には新月(三日月)が掲げてあります。そして天王座には「月読尊」が祀られます。ここに鉾の名称の由来があるそうです。この鉾は、応仁の乱以前からあり、文献によるとかつては「かつら男ほく(ほこ)」と呼ばれていたといいます。 月鉾に近づきます。勿論、北側歩道上でということですが。デジカメのズームアップ機能をフル活用です。14日(土)には、天水引と胴廻りの懸装品には透明シートが被せてありました。 鉾の屋根と天水引です。鉾の左側面(鉾の現在位置では北側)です。 屋根の棟部分をズームアップしてみました。飾り金具が数多く使われています。等間隔に八坂神社の神紋が付けられています。 屋根の裏側、鉾の後部側(西側)ですが、金地に草花が描かれているのが見えます。一部しか見えませんが、これは円山応挙作「金地彩色草花図」だそうです。余談ですが、四条通を東に進むと、四条通堺町東入に、 「四条SETビル」という表示があります。その辺りにはいつも多くの看板類が並べてあります。その陰になっている場所に、 円山応挙宅があったということを示す石標と駒札が立てられています。 駒札の画像を色調補正してみました。元に戻ります。 月鉾の屋根と天水引ですが、上掲画像との違いに気づかれたでしょうか。こちらは、昨日16日(月)に撮ったものです。宵山の午後に訪れると、透明シートを取り外し、さらに巡行用の天水引に取り替えてありました。 この天水引は、霊獣図刺繍で、天保6年(1835)円山応震の下絵による作品だそうです。1833~39年は、日本全国に順次広がる天保の大飢饉が発生しています。その初期に重なりますが、祇園祭の伝統を継承する為の懸装品の作製という営みは続けられていたことになります。 下水引の中央部分をズームアップ。こちらは14日に飾り付けられたままです。 こちらが、鉾の左側面の胴部分全景です。下水引の一番は、皆川月華作の四面に四季を表す花鳥図です。二番は、旧二番の角龍金糸刺繍で、三番は皆川月華作の魚尽し染繍が掛けられています。尚、二番としても皆川月華作の魚尽し染繍が造られています。また旧三番は波に鯉の図で、「荒磯切の形也」といわれるものだとか。胴掛は、17世紀のペルシャの段通(絨毯)です。 北東側から撮った全景です。真木の上部が入っていないのが残念ですが。 そして、菊水鉾です。四条通室町上ルに位置します。前祭では、この室町通の北には山伏山が、四条通を横断した南方向には第1回にご紹介した鶏鉾と、さらにその南に白楽天山が所在します。 鉾頭には菊花を透かし彫りにしたシンボルが取り付けられています。 榊の上部には、菊の花が飾られ、菊水文を染め抜いた幡が掛けられています。真木の中ほどにある天王座にはは彭祖像が祀られているそうです。残念ながら見えませんが。ここの町内に「菊水井」と称される名水があったことに鉾名が由来しています。巡行の折は、菊の露を飲んで長寿を保ったという菊慈童(きくじどう)を能装束姿で稚児人形として鉾正面に配しています。 14日に菊水鉾を訪れた時には、囃子方が鉾上に勢揃いし、囃子の演奏が始まったところでした。透明シートが被せてあり、懸装品をすぐ傍で撮っても絵になりません。注目点の一つは、この鉾の屋根が唐破風造だということです。この形式の屋根は、数多い鉾の中で、この菊水鉾が唯一のものであることです。 鉾の背後の後掛です。巡行ではこの上に大きな見送りがさらに掛けられますので、これはその陰になって見えません。大きな鯉の瀧登り図が描かれています。皆川月華作の昇鯉図です。 鉾の車輪の輻(や)に菊水鉾と刻されています。車軸の先端部には菊文が輝いています。 室町通の北側から撮った菊水鉾の姿これで、鉾建てを経た後の、懸装品を飾り終えた鉾の姿について、一旦ご紹介を終わります。14日には、室町通の白楽天山を見た後、新町通の岩戸山を経て長江家住宅の拝見に行きました。今日7月17日は前祭の山鉾巡行が午前中から午後にかけて行われました。予定があり、残念ながら巡行風景はテレビの報道で眺めるだけにとどまりました。この後の前祭山鉾巡りは、少し経路を編集してご紹介したいと思います。つづく参照資料月鉾 ホームページ月鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)月鉾 :「京都通百科事典」菊水鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)菊水鉾 :「京都通百科事典」補遺祇園祭 トップページ :「京都新聞」応挙の話 :「大乗寺 円山派デジタルミュージアム」無量寺 串本応挙芦雪館 ホームページ円山応震 :ウィキペディア皆川月華 :「東京文化財研究所」菊慈童 :「銕仙会 ~能と狂言~」枕慈童 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭 Y2018 前祭 -1 鉾建てを経て 鉾の姿(長刀鉾・函谷鉾・鶏鉾)へ
2018.07.17
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14日、長江家住宅を拝見に出かけ、気温38.5度と報じられた頃を含めて、前祭の山鉾巡りをしました。先日、今年の前祭での鉾建ての途中経過をご紹介しています。まずは、その完成形としての該当鉾のご紹介から始めます。冒頭の景色は、勿論「長刀鉾」を四条通の南側歩道から眺めたもの。昼間の四条通はほぼ平日通りに自動車やバスがひっきりなしに走行しています。 長刀鉾に近づき、車の途切れる瞬間に全景を撮りました。 鉾の中央部をクローズアップします。鉾の前後には山形提灯が飾られています。夜には灯火が入り、宵山の雰囲気が盛り上がるのです。宵山までは、鉾に囃子方が乗り込む囃子台のところ、つまり鉾の上内部に上り、一般観光客が有料ですが拝観できます。拝観に上り写真を撮る人が写っています。 まず、屋根の上に目を向けましょう。(四条通、南側歩道の南西から眺めて) 鉾の中央には、屋根を貫き真木が立てられ、屋根のすぐ上はあみ隠しがされています。真木は縄で縛り赫熊(しゃぐま)が作られています。髷のようなものが7つ並んでいますね。それです。下から2つめと3つめの間に榊が横に伸びています。(南東側からの眺め)上に見える赤いには大幡です。 「天王座」です。 和泉小次郎親衡の衣裳着の人形が祀られています。宵山の夜の見物、巡行当日の観覧で、これを眺めることはないでしょう。望遠鏡を携えた観覧者ならできるでしょうが・・・・。それよりも山鉾の懸装品等に「動く美術館」として目を奪われることでしょう。ズーム機能付のハンディなデジカメで、手持ちで最大にズームアップしてやっと撮れたもの。 長刀鉾には、この日、鉾の胴廻りに透明シートの覆いが被せてありませんでしたので、ラッキーでした。南側の歩道から眺めた長刀鉾の右側面です。鉾の位置でいえば南側面。囃子台の下に、下水引が三枚重ねられ、その下が胴掛です。 下水引は上から、一番、二番、三番と三枚が重ねられています。下水引は平成20年(2008)度までに全面新調されています。この一番水引は多分、以前のものを巡行当日までの展示として使われているものと推測します。 二番水引の一部を中心にズームアップ。この三本爪の金龍を撮りたかったのです。その下の三番水引もまた、龍の意匠です。 この面の胴掛には孔雀図が織り込まれています。 屋根の前面の鯱飾り 鉾の後部、西側面です。 鉾頭の大長刀にご注目。長刀は疫病邪悪をはらうものとして、巡行の先頭にたちます。長刀の刃は南を向いています。御所と八坂神社の方向にこの位置で刃先が向くことを避けているのです。四条通の四条麩屋町で注連縄切りが行われて、鉾が四条通を東に八坂神社の方向へ進むとき、刃先は南に向いた状態のまま、つまり神社側からは大長刀の側面が見えるだけです。現在、現物の長刀は保存され、鉾頭には複製品が使用されています。 函谷鉾です。 函谷鉾の真木。赫熊の形が長刀鉾とは異なります。天王台が見づらいでしょうが、これも長刀鉾と違って、屋根がかなり上に取り付けてあります。函谷鉾の鉾頭は、飾りが正面を向いているので、この画像では見られませんが、右の会所のビルのうえにその飾りがシンボルとして設置されてます。三角形に三日月形が上についた形です。三角形は山稜を表し、「函谷関の山稜にかかる三日月」をシンボライズしているそうです。古代中国の孟嘗君の「鶏鳴狗盗」の故事に由来します。大幡のすぐ下に角幡が見えます。大幡のところも形状が全く違います。 屋根を南側歩道からみた景色。鉾建ての折りに撮った作業中の完成形がこの赤い網隠しです。屋根の両端の覆屋根は宵山まで。天水引には、八坂神社の紋章が象られています。 鉾の右側(南側面)の下水引と胴掛です。透明のシートが被せてありますが、まあまあ全容を眺めることができました。この水引は、山鹿精華(1885~1981)の手織錦「群鶏草花図」です。胴掛には「梅に虎文」の17世紀李氏朝鮮絨毯を含め3種の絨毯が組み合わされています。 函谷鉾を南西側から眺めた景色です。 池坊の学舎には、こんな飾り付けがしてありました。鶏鉾はこの南に見えます。 鶏鉾を真正面から眺めた姿。鉾は駒形提灯にスッポリ隠れています。 駒札 鉾正面の屋根の裏側の装飾と正面の鶏の彩色彫刻がいいですね。かなり褪色してきています。当初は極彩色だったことでしょう。中国・堯の時代の故事に由来する鶏鉾です。設置されている諫鼓(訴訟用の太鼓)が使われることなく、天下がよく治まり、諫鼓に苔が生え、鶏の栖になったといいます。疫病を避け、平和を祈願する思いが込められているのでしょう。天水引は、四条派画家・下川辺玉鉉の下絵による作品です。 こちらは、鉾の背後(現在位置での南側)の同じ位置の装飾彫刻。勿論、こちらも鶏です。さて、鉾建てを経て、続きの鉾の姿を見物に参りましょう。つづく参照資料長刀鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)函谷鉾 ホームページ補遺長刀鉾祇園囃子保存会 練習(2013年7月4日) :YouTube函谷鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)鶏鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.07.16
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我が家の玄関先の小さな庭に、一匹の蝶が先日舞い来たりました。(2018.7.2)デジカメを取りに二階の部屋に戻り、庭に立つとまだ居てくれました。漠然とアゲハチョウの一種と思いネットで調べてみると、どうも「ヒメアカタテハ」のようです。(資料1)ウィキペディアの「アゲハチョウ」を皮切りに、いろいろネット検索してみて、辿りついたのが「蝶の生態写真集 アジアの蝶」というウエブサイトです。それによるとアゲハチョウ科、シロチョウ科、タテハチョウ科、シジムチョウ科、セセリチョウ科という分類で蝶の画像が列挙されています。わが庭を訪れてくれたのは、アガハチョウではなくて、タテハチョウ科タテハチョウ亜科に分類される中のヒメアカタテハのようです。掲載されている写真と見比べてのわたしの判断ですので、間違っているかもしれません。そこで今度は逆に「ヒメアカタテハ」をキーワードにしてウィキペディアその他を調べてみました。この蝶は世界各地に分布する蝶で、「アカタテハによく似ているが、後翅の表側は褐色ではなく橙色で、黒い斑点が3列に、点線状に並んでいるので区別できる」(資料2)そうです。さて、この蝶どこから来たのでしょう? ヒメアカタテハの起源はいずこ、という疑問を持ちました。「アカタテハ属の種を見渡してみると、アジアで発展しているので、アジア起源と思いがちだが、DNA 解析によると、最初の種の分岐は 3400 万〜 2300 万年前ごろ、南北アメリカに分布しているルリボシヒメアカタテハ Vanessa carye 群とその他のアカタテハ群であり、東南アジアのアカタテハ類はごく最近になって発生した種という結果がでている(Wahlberg ら 2011)」(資料3)とのこと。さて「蝶」に想いを広げてみて、関心の波紋を広げてみます。手許の歳時記を引きますと、蝶は四季を通じてみかけるけれど、単に「蝶」と言えば、春の季語となり、それ以外の季節は夏の蝶、秋の蝶、冬の蝶、凍蝶と区別するそうです。俳句は文学ですので、蝶の分類学名称とは直接的な関係はありません。「蝶」という季語の下に、「蝶々、白蝶、初蝶、黄蝶、胡蝶、紋白蝶、山蝶」が並記されています。初蝶=春いちばん早く目につく蝶。山蝶=山に見られる蝶のこと。つまり、蝶の種類ではなくどの場所で見た蝶かのイメージを引き起こせば種類は読者次第ということでしょう。白蝶は紋白蝶のことのようです。紋白蝶はアゲハチョウ上科シロチョウ科に分類されるチョウの一種。手許の複数の歳時記を見る限り、「白蝶」を季語とした俳句は載っていますが、「紋白蝶」を季語にした句は載っていません。歳時記は胡蝶について説明を加えて居ませんが、調べてみると、蝶の別名/異名と説明されるだけです。(資料4,5)季節柄、「夏の蝶」(夏蝶、梅雨の蝶、揚羽蝶、烏蝶)を季語とする句を歳時記から引用しご紹介します。(資料3,4) 山深き飛瀑をのぼる大揚羽 飯田蛇笏 夏の蝶こぼるる如く風の中 原 石鼎 夏の蝶高みより影おとしくる 久保田万太郎 杉の間を音ある如く夏の蝶 星野立子 水打てば夏蝶そこに生まれけり 高浜虚子 作業着の灯台長に夏の長 三好茱茰子 夏の蝶一族絶えし墓どころ 柴田白葉女 磨崖仏おほむらさきを放ちけり 黒田杏子「揚羽蝶」といえば、 ウィキペディアからの引用ですが、これは揚羽蝶紋。平家一門の紋章として有名です。また、蝶は動物紋の一種として紋章としては様々な図柄があります。この紋章以外に「胡蝶、崩蝶、鎧蝶、浮線蝶、対浮線蝶、対蝶、対揚羽蝶、三連蝶、三連浮線蝶」や平家一門の揚羽蝶紋とは異なる図柄の「揚羽蝶」があります。(資料6)「糸輪に変わり胡蝶」という紋もあるようです。「胡蝶」は紋章以外にも、様々なところで顔を出しています。『源氏物語』で光源氏36歳の晩春から初夏を描く第27帖が「胡蝶」です。(資料7)『荘子』の内篇の第二斎物論篇には、「昔者、荘周は夢に胡蝶と為る」という一文から始まる一節があり、「胡蝶の夢」として有名です。(資料8)雅楽には、高麗楽<胡蝶楽>の舞曲があります(資料9)。そして舞楽「胡蝶の舞」があります。(資料10)花に「胡蝶蘭」がありますが、調べてみた範囲では、この名称と蝶との関係性を見いだせませんでした。こんな詩を見つけました。 西條八十の詩「蝶」です。(資料11) やがて地獄へ下るとき、 そこに待つ父母や 友人に私は何を持つて行かう。 たぶん私は懐から 蒼白め、破れた 蝶の死骸をとり出すだらう。 さうして渡しながら言ふだらう。 一生を 子供のやうに、さみしく これを追つてゐました、と。もう一つ、手許にある詩集から。坂村真民の詩「蝶」も。(資料12) 蝶は一気に 海へ向かって 飛んでいった 蝶のなかに 何が起こっていたのであろうか蝶からは外れますが、この詩の2つ前の詩「三願」をご紹介して終わります。 鳥のように 一途に 飛んでゆこう 水のように 素直に 流れてゆこう 雲のように 身軽に 生きてゆこう最後に、「1957年日本昆虫学会で国蝶に選定され」たのが「オオムラサキ」で、「自然環境を測定する目安になる指標昆虫の一つ」だそうです。(資料13)わが庭に来たった蝶から関心と想いを広げてみました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) ヒメアカタテハ :「アジアの蝶」2) ヒメアカタテハ :ウィキペディア3) バタフライ・サイエンス・ニューズレター 2015年12月15日 pdfファイル4) 『改訂版 ホトトギス新歳時記』 高畑汀子編 三省堂5) 『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所6) 『歴史探訪に便利な日本史小典 3版』 日正社7) 『源氏物語ハンドブック』 鈴木日出男編 三省堂8) 『荘子 内篇』 森三樹三郎訳註 中公文庫9) 源氏物語の音楽 ─平安・鎌倉時代の雅楽はこんな曲!?─:「日本伝統音楽研究センター」10) 2014 熱田神宮 雅楽 舞楽神事 胡蝶 :YouTube11) 西條八十「蝶」 :「図書室たき火通信」12)『坂村真民全詩集 第三巻』 大東出版社 詩国 第二集 p368,36713) オオムラサキについて :「オオムラサキセンター」補遺オオムラサキ :ウィキペディア国蝶オオムラサキ :「ぷてろんワールド」雅楽 高麗楽〈胡蝶〉 急一返 ~現在伝承のスタイルによる(管絃合奏)~ 公演Aより :YouTube蝶の図鑑 ホームページ日本の蝶 日本産蝶類デジタル成虫生態図鑑 杉坂美典氏日本のチョウ :ウィキペディア西條八十 :「コトバンク」坂村真民記念館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.07.15
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別件で京都市内に出た序でに、そろそろか・・・・と思い、四条通を「長刀鉾」のところに午後4時すぎに行くと、「鉾建て」が半ば出来上がっていました。「山鉾建て」は昨日10日から始まっていたようです。組立そのものの仕上げをして飾り付けを終え、巡行の鉾の姿が完成するのは、明日の午後でしょうか。祇園祭の行事そのものは、7月1日から既に始まっています。1日の午前中に「吉符入り」と称される神事始めが行われ、同日「長刀鉾町お千度の儀」が実施されたことが、確か新聞で報じられていました。これは祭全体の無事を祈る儀式だそうです。「長刀鉾に乗る稚児が、同町の役員らとともに八坂神社に参拝、本殿でお祓いをうけたあと、社殿を右まわりに三周し、無事を祈願する」という行事です。(資料1) 四条通の南側歩道から 烏丸通を横断した、四条通の北側では、「函谷鉾」はほぼ同時刻に本体の鉾の屋根まで組み上がっていました。いつもここは一歩早く鉾建て作業が実施されています。 函谷鉾の鉾建て作業。四条通の南側からの眺め。四条通から、室町通を南に入ると、 池坊短大の学舎のすぐ近くで、「鶏鉾」の鉾建て作業が進んでいました。 鶏鉾では、囃子舞台の構造(柱と梁など)部分の組み建てが進んでいました。再び、室町通から四条通に戻り、左折して西方向に進みます。 四条通の西方向、南側に見える「月鉾」 囃子台の床面と高欄部分までが組み上がった段階でした。通りを北に横断し、「菊水鉾」を見に回ります。 室町通を少し入れば「菊水鉾」 南側からの眺め 北側からの眺め 鉾の胴部分の東側面 ご覧のように、菊水鉾は鉾の構造体全体(鉾胴から鉾頭まで)が建ち上がり、これから囃子舞台の組立を始める前の段階でした。 鉾の足許。道路に設置されている鉾建ての位置決め穴に角柱が建てられて、丸太と鉾の構造体の柱がしっかりと綱で縛ってあります。横に寝かせた状態で構造体全体が組み立てられた後、それを立ち上げるときに、この部分が支点になるのです。そのやり方は、どの鉾も同じです。上を見上げると、「菊水」の額が紙垂(しで)と榊が翼を広げるような形の中央に掲げてあります。今年も、この姿を眺めることができました。四条通に戻り、北側の歩道を東に進み、鉾町を離れ、河原町通に戻ります。 今度は「函谷鉾」のすぐ傍を通り過ぎます。 鉾の車輪を取り付ける車軸を石持(長い直方体の横木)と頑丈に固定してしまう作業段階までが既に仕上がっています。 今回、初めて気づいたのですが、函谷鉾の真木に愛宕山の火除札が貼られているのが目にとまりました。「阿多古祀符 火廼要慎」と記された護符です。 東側からの眺め 山鉾はまさに動く美術館です。鉾の屋根裏には絵が描かれ、破風の背後に隠れる部分にも極彩色の装飾彫刻が施されています。山鉾巡行の場ではほぼ見られない、目に止まらない部分です。宵山はこういう部分を眺めるのが楽しいと言えます。 石持に車軸が縄締めの技法だけで固定されて仕上がった縄絞めの形が伝統の美を見せてくれます。この縄締めの美を見られるのは、この「山鉾建て」行事が行われるそのプロセスか、巡行終了後の山鉾解体プロセス、そのいずれかに立ち合い眺めるときだけです。鉾の構造体に胴懸が付けられ、その下部に吊幕が取り付けられると、こちらの伝統美は見られません。 烏丸通を横断し、東に戻る時、デパート「太丸」の少し手前の三井のビルの前に「祇園祭鉾立町&巡行マップ」が掲示されています。 長刀鉾の傍に戻ってきました。西から眺めた縄締めの伝統美です。車軸を固定する石持は位置決めを終えてセットされていますが、まだ車軸を固定する作業に入る前の段階です。函谷鉾の最後の画像と対比してみてください。 囃子舞台の裏側中央を眺めた景色 長刀鉾の鉾建ての位置決め穴です。 東側からの眺め 長刀鉾の長刀の先を眺めながら、いよいよ祇園祭・前祭が近づいていたことを実感しました。分解されて保管されて1年間保管されてきた組立用木製部材が、倉から道路上に運び出され、所定の位置で、釘は一本も使わずに、受け継がれてきた伝統の縄締め技法で組み上げられていくのです。(資料1)鉾は地上から屋根までが約8m、鉾頭までだと約25m。囃子舞台の広さは8㎡~10㎡。重量は約12トンという規模です。(資料3)それを木組みと縄締め技法であの姿を現出し、巡行させているのですから、スゴイなあと思います。情報をネット検索してみて、今年の山鉾巡行のくじ取り式の結果を見ますと、くじ取らずの長刀鉾は勿論慣例の先頭です。そして、前祭では、函谷鉾が同様にくじ取らずで、前祭の山鉾総計23基の第5番。鶏鉾が鉾1番で、第9番。月鉾が鉾2番で第13番。菊水鉾が鉾3番で第17番と決まっていました。7月2日に「くじ取り」の行事が行われました。ご覧いただきありがあとうございます。参照資料1) 『京都歳時記』 編集 宗政五十緒・森谷尅久 淡交社2) 祇園祭山鉾巡行のくじ取り式の結果について :「祇園祭」3) 鉾と山の解説 :「京都市観光協会」補遺祇園祭 :「祇園祭山鉾連合会」 山鉾について祇園祭 :「京都市観光協会」函谷鉾 ホームページ 函谷鉾 鉾の説明 月鉾 ホームページ長刀鉾 囃子方の公式ホームページ祇園祭2018の詳しい日程と場所一覧 :「SYASHIN.KYOTO」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 探訪&観照 祇園祭Y2017の記憶 記事総目次 「探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶」としてまず22回のシリーズをまとめました。 長刀鉾の鉾建て 2日にわたり3回シリーズでご紹介 函谷鉾・鶏鉾・月鉾・菊水鉾の鉾建てを各1回でご紹介 鉾の裏方の美を編集してまとめてご紹介 神輿洗式のご紹介 前祭宵々山巡りを9回のシリーズでご紹介 神幸祭 神輿渡御を4回シリーズでご紹介 その後「探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part2」として12回にまとめています。 八坂神社御旅所のご紹介 後祭の宵々山巡りを8回のシリーズでご紹介 還幸祭を御旅所前(昼間)で2回、八坂神社西楼門前(夜)で2回の計4回でご紹介観照 祇園祭点描 -1 神輿渡御・八坂神社御旅所・冠者殿社 2016年に8回シリーズでご紹介しています。これはその第1回。観照 [再録] 祇園祭 Y2014・前祭 山鉾巡行 -1 2番・芦刈山から9番・菊水鉾まで 2014年の前祭を宵山2回、山鉾巡行5回でご紹介。その第1回です。観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -1 橋弁慶山 2014年の後祭の宵山を11回でご紹介。その第1回です。観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 花傘巡行 -1 2014年の後祭の山鉾巡行・併行して行われる花傘巡行を計4回でご紹介。その第1回。観照 [再録] Y2013・酷暑の記憶 祇園祭 -1 菊水鉾 2013年の祇園祭を8回でご紹介。その第1回です。
2018.07.11
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先日、大阪に別件で出かけたとき、数時間早く出て、中之島で開催中の「フランス宮廷の磁器」展を鑑賞してきました。 入場券の半券この展覧会の副題は、「セーヴル、創造の300年」です。ひょっとしたら、図録の背表紙を見ると、こちらがタイトルで、「フランス宮廷の磁器」がいわゆる冠なのかもしれません。展覧会は美術館の2階と3階が会場です。 階段を上がると、会場の入口手前正面でこのパネルが出迎えてくれます。 これが当日購入した特別展の図録表紙です。事前に入手していたチラシから図録まで、今回は一貫して1757年に製作されたポプリ壺「エペール」(セーヴル陶磁都市所蔵)が特別展PRの主役になっています。ポプリ壺とは「香りを拡散するために乾燥させた花と香辛料を入れるもの」だそうです。18世紀には寝室や浴室には欠かせないアクセサリーとして使われたのだとか。この壺が一例ですが、今回展示作品のうち18~19世紀のフランス宮廷の磁器は全体的にミニアチュールの技法で描かれた繊細で華麗な絵が磁器を飾っていました。動物、花、木々、人物、風景など様々な細密画が磁器に描かれています。写実性に秀でていて、名もなき絵付け職人たちの技量の高さも含めて、その技量の高さと質がうかがえます。これは2階のロビー2の壁面に掲示された「セーヴル陶磁都市」の説明パネルから切り出した図です。赤丸を付けたところがパリにあるルーヴル美術館の位置です。会場に入ってまず印象に残ったのは、説明パネルの記載内容でした。フランスの磁器製作は、中国磁器の秘密を探求するというところから始まったというのです。はるばると中国から輸入された磁器の魅力にヨーロッパの人々は憧れたのです。当初、ヨーロッパの人々には「素地を構成するカオリンという成分が特定できず模倣品しか製造できなかった」と言います。だが、遂にこの成分が解明でき、ザクセンでカオリンの鉱脈が発見され、1710年にマイセン製作所が設立されるに至ります。フランスでは、1740年にパリ東端のヴァンセンヌに軟質磁器工房が設立されたのです。もちろん「磁器製法の探求」とヨーロッパの他製作所との競走です。この工房が国王の庇護を受け、パリとヴェルサイユの間に位置するセーヴルに移転し、王立のセーヴル磁器製作所となったそうです。1769年には硬質磁器の開発に成功したのだとか。会場の説明パネルによりますと、「2010年、国立セーヴル磁器製作所と国立セーヴル陶磁美術館が統合され、フランス文化通信省が管轄する『セーヴル陶磁都市』という公共施設」が誕生したのです。尚、2012年5月からは、さらに統合が進展し「セーヴル・リモージュ陶磁都市」になっているようです。今回は、国立セーヴル陶器美術館のコレクションが展示品の中心となっています。この展覧会では、「プロローグ/王のための磁器」から始まり、4章構成で展示されています。プロローグと「第Ⅰ章/18世紀のセーヴル」は数点を除き、軟質陶器の作品群です。「第Ⅱ章/19世紀のセーヴル」、「第Ⅲ章/20世紀のセーヴル」は硬質磁器の作品に移行しています。そして「第Ⅳ章/現代のセーヴル 1960-2016」という最終章になります。ここでは、伝統的なセーヴル陶磁の枠からは大きく飛躍した様々なタイプの作品創作が展開されていて、300年の歴史を背景に感じます。ここでは、新硬質磁器をはじめとした新タイプの材質による作品も展示されています。今回、会場内での撮影がOK(一部作品を除く)となっていて、うれしいかぎりです。勿論、ガラスケース越しなので鏡面反射などもありますが・・・・。私好みで撮った展示作品を中心に一部のご紹介をします。現在開催中のこの特別展への誘いになれば幸いです。プロローグ/王のための磁器写真は撮りませんでしたが、皿の中央に飾り文字のイニシャルをあしらったものが数点印象に残っています。やはり王侯貴族たちの特注品なのでしょう。ここでは、皿類よりも、「貝を捧げ持つニンフ」「ルイ16世/王の胸像」「マリー・アントワネット/王妃の胸像」という軟質磁器の真っ白な彫刻像に興味を持ちました。第Ⅰ章/18世紀のセーヴルまず、今回の花形になっているポプリ壺「エベール」が18世紀の作品です。 まずは図録の裏表紙に使われているこの「乳房のボウル」から始めます。これには括弧書きで「ランブイエの酪農場のセルヴィスより」と付記されています。オリジナルは1787年-1788年頃に製作されたものですが、今回展示されていたのは脚台が2006年、ボウルは2011年版の作品です。なぜこんな名称が? じっとよく見ると、わかりますよね。 脚台がやはりいりますね・・・・・。 壺「コテ・デュ・ロア」(1776年)この特別展のPRチラシの裏面にも紹介されているのを後で知りました。やはり、一際目を引くもののひとつです。ゴールドの輝きとちょっと過剰と思える胴まわりの装飾なのですが、ハデなケバケバしさだけというものとは一線を画した落ち着きを感じるのです。これは裕福な貴族の城館のマントル・ピースの上に置く3点セットの置物のうちの中央に置かれる壺だそうです。人々の集う大きな部屋のマントル・ピースの上なら、丁度バランスがよくなるのでしょうね。 皿(中心に十字形の花綱装飾) 1791年 フランソワ・ブイヤ(息子)作上下左右対象に図柄が描かれています。中心の十字形は金色ですが、そのまわりの可憐な花綱の少し淡い色調の装飾との調和がスッキリとしていていいな・・・・と思いました。 こんな形でカップとソーサーが並べて展示されています。どれも良い感じです。 一番奥側の作品がこれ。 カップと窪んだソーサー 1763年モダンな感じを受けました。このカップ、「トランブルーズ」と呼ばれ、1762年ごろからセーヴルで製作され始めたもの。「その装飾は、当時流行の異国のドレスからインスピレーションを得ている」もので、当時、「女性にとっての究極の洗練は、トータルルック効果を狙って、服あるいはアクセサリーと同時に装飾のカップを所有することだった」(図録より)といいます。異国情緒の溢れるファッションを着て、このカップで「当時特別だったココアのような飲み物」を飲みながら、会話を楽しむうら若き貴婦人をイメージしてみてください。 「墓石形の花器」 1759年この作品にはおもしろい説明が付いていました。ローズの地色はコストが高い上に、完璧な色を出すのが難しいという事から1757~1760年というごく短期間の実用で退場となったそうです。なんと経済的理由から、この作品の背面は加飾されていないので、この正面しかみせない作品だとか。希少品の類いですね。ローズ色とグリーン色の配色がステキです。 壺「バトン・ロンピュ」 1775-1780年頃図録によると、「この器形は1763年に登場し、把手の形が、18世紀に流布した版画の中のクラシックな石製の壺を想起させる」ものだとか。壺の胴に貼り付けられた編み紐状の太い紐が、全体を華やかにするとともに、大きな把手の形とのバランスを生み出している感じです。この壺の胴体の地の色が好きです。第Ⅱ章/19世紀のセーヴル 水差「ディーテルル」<アマゾネス> 1873年 銅胎七宝 アルフレッド・トンプソン・ゴペール、ジャン=バプティスト=セザール・フィリップ作 まるで写真をみるような細密さで騎乗のアマゾネスを描いています。アマゾネスの伝説、その神秘性が当時の人々には魅力的だったのでしょうか。もちろん、今でもアマゾネスは映画のネタにもなっていますよね。 壺「テリクレアン」 1842年 硬質磁器と鍍金されたブロンズ 器形:ジャン=シャルル=フランソワ=ルロワ 装飾:ピエール=ジョセフ・ルドゥーテ これもPRチラシに載っています。やはり展示作品群の中では、目に止まる作品です。壺の把手の面白さがまず目に入り、壺の胴体正面一杯に描き出された花が目に飛び込んできます。一方でそれぞれの花々は壺の黒地に包まれるようにして、穏やかに咲いている安定感を感じます。 こちらは一転してはれやかな暖色を背景に木の枝にとまる小鳥が描かれています。花瓶「花器AB」(1873年)。作者不詳です。この作品の近辺に展示されている作品群とはちょっと異質。図録には、「セーヴルは、20世紀初頭まで大きな成功を得ることが約束された意匠を推し進めるため、ふたたび中国に着想を得た」とこの作品の冒頭解説に記されています。この色彩感覚と東洋的な作品の印象に惹きつけられて撮った1枚でしたが、自宅で図録を読み、納得した次第。様式化された描法の中に緻密さがあります。 シメールのティーセット 1892-1893年 器形:アルベール=エルネスト=カリエ=ベルーズ、装飾:アシール=ポンニュイ ポットの注ぎ口と把手を人物像で装飾しているのが少しおもしろい趣向です。飾り置きしてあるだけでも、楽しめるポットです。淡い色調の控えめな図柄がいいなあと思いました。そっとそこに置かれているだけでいい。 デザート皿≪将校デュプレシの戦闘と死≫(「エジプトのセルヴィス」より) 1811年騎馬の4人が戦う場面で、デュプレシが長い槍で脇腹を突きさされた場面が細密に描かれています。よくこんな場面をデザート皿の図柄に選ぶものですね。デザート皿の形式による飾り皿なのでしょうか。それならわかりますが・・・・・・・・。 これは、ロビー2から3階の展示室への階段上から見下ろした景色です。 ここにも作品が展示されています。 杯≪ネレイスとトリトンとイルカ≫ 1862年この作品には、杯の内面の絵を拡大した図が垂れ幕に転写されて、正面の壁に掲げてあります。銅胎七宝による作品。作者は、ジャコブ・メティエル=エーヌ。「国王ルイ=フィリップの要請により、フランス・ルネサンス趣味の、とりわけリムーザンの七宝作品を作る目的で、1845年に七宝の工房が創始された」(図録より)と言います。 この作品はセーヴルで製作されたものの一つのようです。絵を部分拡大してみます。 この大杯は、「ローマのヴィッラ・ファルネジーナのラファエロのフレスコ画に着想を得ている」(図録より)作品だとか。『ギリシャ・ローマ神話辞典』(岩波書店)を引くと、ネレイスとは、ネーレウスとドーリスの間にできた50人(あるいは100人)の娘たちのこと。ネーレウスはホメーロスに海の老人と呼ばれた海神で、海の底(とくにエーゲ海)に住んだといいます。大杯の中央、イルカの引くホタテ貝の上に立ち、綱を握るのがネレイスの一人であるガラティアという海の精です。トリトンはポセイドンとアムピトリーテーの子です。半人半漁の姿でポセイドンに従って海馬に跨がり、ほら貝を吹き鳴らて海を鎮める姿で想像され、ときには複数でも考えられている神です。両サイドに描かれたのがトリトンなのでしょう。実に細密な絵が描かれています。 ロビー2の反対側の壁面に、大きな作品が展示されています。 壺「ロドス」 1874年 装飾:シャルル・バリア画家バリアは古典主義への回帰を実践した人だそうで、「この作品はネオ=グリークに着想した『フレスコ画の壺』シリーズに含まれ、セーヴルで19世紀後半に製作された」(図録より)のだとか。 壺「クロディオン」 1885年 フランスの19世紀は、強烈な歴史趣味の時代だったようです。「~風の」装飾が好まれた時代で、この作品は作者不詳ですが、フランス・ルネサンスの装飾スタイルをイメージさせる作品です。 壺「秋」 1900年頃 器形:クロード・ニコラ・アレクサンドル・サンディエ 装飾:レオナール・ジェブルー 図録には、「複雑な装飾は消え、自然主義的ではあるが様式化された花は、新たな器形の輪郭線と見事に一致する」と説明しています。私はこの壺の絵に、日本画で描かれた花のイメージを重ねて眺めてしまいます。この3作品を眺めるだけでも、19世紀後半から20世紀への移行の時期に様々な試みがなされていることがわかります。余談です。明治維新後、岩倉具視を全権大使とする使節団が欧米を視察してまわりました。フランスではセーヴルを訪ね実見した記録があるのです。「仏国陶器ノ精美ナル」ことを賞賛し、「世界陶器ノ首(コウベ)ト推スハ、即チ此ノ製造場ニテ製スルモノタリ」と、国家が関与し近代化・技術革新で高品質を実現をしていることと、製造・販売が連携している姿に着目しています。そして、日本の製磁産業の近代化に思いを馳せていたそうです。(図録より)第Ⅲ章/20世紀のセーヴル 壺「ル・ブルジェB」 1901年 器形:クロード・ニコラ・アレクサンドル・サンディエ 装飾:H.ユルリク/ガブリエル・ローに基づく 壺「アシェール」 1897年 器形:アンリ・バルブリ、 装飾:ルイ・トラジェ/ガブリエル・ローに基づくこの2つの壺がいいですね。図柄に落ち着きがあり、日本的感覚に通じる気がします。 壺「モンシャナンC」 1898年 装飾:クジューヌ・シマ素足でつま先立ちして上方に腕を伸ばす二人の女を、正面を向いた女が腰を少し屈めて、両方の手を左右の女に回して支えようとしている様子です。二人の女は何かを取ろうとしているのでしょうか。それとも三人の女が踊っている瞬間を切り取った絵でしょうか。 ガラスの鏡面反射で少しおもしろい画像になりました。アガトン・レオナールが彫刻した「ダンサー」という白磁(硬質磁器)の作品が5点出ています。(テーブルセンターピース「スカーフダンス」より)という付記がある作品群(1899-1900年)です。これはそのうちのNo.13興味深かったのは、この展示のすぐ傍で、シカゴ出身のダンサーであるロイ・フラー(1869-1928)が演じ表現したダンスの映像が見られることです。1892年11月にパリで初演したとかで、その演出と表現にセンセーションを巻き起こしたとか。このダンサー作品群はその刺激を受けているのかもしれません。1900年万国博覧会では、セーヴルがアール・ヌーヴォーとして評価され、なかでもこのダンサー群の作品が賞賛されたそうです。1904年に初めての外国人滞在芸術家として、沼田一雅(1873~1954)が招かれたと言います。「お菊さん」はじめ5点の作品が出ています。 これはそのうちの「象とねずみ」(1906年)です。象の後脚の傍にねずみがが居て、象に乗る少女の右側には鳥、右肩には猿がくっついています。何かの物語からの発想なのでしょうか・・・・。後であらためてPRチラシを読むと、「日本との交流では、20世紀初頭に外国人作家として初めて、沼田一雅が型の製作に携わったのは特筆すべきことでしょう。」という一行が記されています。「お菊さん」は展示品リストに「1904年(1920年版)」という記載があるのです。「型の製作」ということから合点がいきました。 ゆったりとスペースをとり、全く異なる作風の作品を展示している一隅もあります。左の作品は、「リューマンの花瓶 N0.2」(1926-1927年)というもの。器形:ジャック=エミール・リュールマン、装飾:シュザンヌ・ラリック=アヴィラン。モノトーンで至極シンプルな図案装飾の作品ですが魅力的です。右の作品は「ラパンの壺 Np.12」(1925)。鹿と満開の樹木をモダンなタッチと図柄で描いています。器形:アンリ・ラパン、装飾:ジャン・ボーモン。こちらは、ファイアンスと呼ばれる施釉陶器だそうです。材質・技法としては展示品の中で希少の部類です。 「ダンサー No.1」(1925年) 同じダンサーというタイトル・硬質磁器作品でもこんな作品が出ています。一瞬、華麗な孔雀をイメージします。デザイン:ジャン=バティスト・ゴーヴネ、装飾:マルセル・ブリュニエ/ゲオルギー・オダルチェンコに基づく。 第Ⅳ章/現代のセーヴル 1960-2016ロビー2の階段を上がると、最終章の展示セクションです。 展示室入口で、まず目に飛び込んでくるのがこの作品「ネイチャー・スタディ」(2003年)、ルイーズ・ブルジョア作です。入口から、ガラリと雰囲気が激変します。ユニークさが爆発しだした感じ・・・・・。この「ネイチャー・スタディ」は、どの立ち位置、アングルから眺めるかでその印象が大きく変化します。ビスキュイ磁器だそうです。図録に掲載の写真は、異なる立ち位置、アングルから撮られています。その場で、いろんな角度から鑑賞してみてください。 この展示室の一方向はこんな感じの展示です。一番左から、作品名と制作年だけ列挙します。「ディアンヌの盛り付け用皿、オリヴィエ・ドゥブレの装飾」(1992年)、「皿、装飾 No.17-70(「ディアンヌのセルヴィス」より)」(1970年(2005年版))、「皿、装飾 No.1-69(「ディアンヌのセルヴィス」より)」(1969年)、「ゲリドン(小型円卓)の天板」(1968)。一方で、次の作品も展示されています。 「アルプの壺 No.4」、または「夢のアンフォラ」(1975年)。ジャン・アルプによる白黒一対の作品ですが、双取手が付いていないのに、ギリシャの壺の一種の名称が使われているのが不思議。確かに頚部の伸び上がりや胴部のふくらみなどが造形されているのですが・・・・。この形状と黒白の一対であることに何か引き寄せる磁場が働いているのでしょう。 この作品もおもしろい。「セルヴィス≪ハルビュアの喜び≫」(2009年)。図録には8連作のシリーズとして掲載されています。展示室では枚数をカウントしていません。メルヘンチックな一連の作品が展示されている中で目に止まった1枚です。 絵の左上を部分撮りしたのがこれ。メルヘンの世界だけれど、見ようによっては恐ろしい。怖さがないのは美女顔だからでしょうか。 「プレルの壺≪ボーリアを探して昇るドラゴン≫」(2016年)、ニコラ・ビュッフ作。 上半分を撮ってみたもの。マンガ的な世界の図柄なんです。部分部分を見ていくとおもしろくて、親しみが湧く。これを見たらゲームソフト世代、マンガ世代は惹きつけられるのでは? 「花器≪sakura≫」(2016年) ネンド作。 この飾り壺の発想がおもしろいな・・・・と惹きつけられました。 ユニークさの極みの一つがコレ! ≪ゴールデン・スピリット≫(2005年) 鍍金されたビスキュイ磁器作者は草間彌生。さすが、ユニークな発想です。図録には次の一行が記されています。「頭頂が逆立ち全身が金で覆われ、キュプロスの一眼を頂く、交雑動物である」と。私好みで、少し偏ったご紹介になっているかもしれません。勿論、この最終章を含め各セクションには他にも惹きつけられた作品がいくつもあります。ぜひ、会場で貴方好みの作品と出会ってみてください。もう一つ。時間のゆとりを持ってお出かけください。会場の一画にセーヴルでの陶磁器製作プロセスの映画が流されています。作家たちが各自の創造的な作品を作る段階、ここでは壺などの表面に絵を描くそのプロセスの作業シーンがまず映し出されます。そして、焼成窯への原作品の窯入れから始まり、焼成を終えるまでのステップを克明に映像化していきます。ここには焼成の専門職が活躍しています。完全な職能分担のようです。そして、作品の窯出し作業のプロセスが続きます。窯の封印が解かれ、作品の窯出しが始まるのですが、ここには各作家たちが立ち合って、見守っています。順番に作品が新潮に運びだされるプロセスが映像に収められています。作家達と焼成専門のスタッフ達が喜びを共有する瞬間です。これがけっこう長いのです。動画というよりドキュメンタリー映画という感覚のものです。最初から最後まで、これを見てから会場を巡ると、また作品の味わい方に奥行きが加わるかもしれません。ご覧いただきありがとうございます。参照資料特別展覧会図録『フランス宮廷の磁器 セーヴル、創造の300年』 発行 サントリー美術館PRチラシ『ギリシャ・ローマ神話辞典』 高津春繁著 岩波書店補遺大阪市立東洋陶磁美術館 ホームページラファエロの美しいフレスコ画が圧巻、ヴィッラ・ファルネジーナ。 2014年9月11日 :「イタリア/ローマ特派員ブログ 阿部美寿穂」沼田一雅 :「東京文化財研究所」沼田一雅の作品 :「日本陶彫会」ファイアンス :「コトバンク」ファイアンス焼 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.06.22
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地下鉄の「天王寺駅」で降りて、天王寺公園を通って久々に大阪市立美術館に向かったのですが、公園内の通路を歩き始めて、雰囲気がだいぶ変わっている感じを受けました。スッキリとした印象です。歩いてきた通路を振り返ると、高層ビル「あべのハルカス」が聳えています。 美術館の手前にあるのがこの長屋門です。長屋門を通り過ぎて、まずはこちら側からの全景を撮ってみました。 左側に立つ石標が「旧黒田藩蔵屋敷長屋門」であることを示しています。なぜ、蔵屋敷の門がここに? 蔵屋敷って川沿いにあったのでは・・・・・。その答えは側面に刻されていました。その説明に寄れば、この門もとは中之島に設けられていた福岡藩蔵屋敷の長屋門だったのです。昭和8年(1933)に中之島三井ビルが建設される際に、数少ない蔵屋敷遺構の一つということで、大阪市に寄贈されてここに移設されたのです。 こんな文学碑が建立されています。 林芙美子作「めし」よりの一節です。「昔 通天閣のあったころは この 七十五メートルの高塔を中心に 北方に 放射状の通路があり 国技館や映画館 寄席 噴泉浴場 カフェーや酒場が 軒を並べていたものだそうである 芳太郎は いつの間にか 里子の腕をとって歩いていた」たしかに、通天閣のところは地図(Mapion)を見ると、北方向に放射状の道路がありますね。こちらをご覧ください。「昔 通天閣のあったころは」という碑文の書き出しに、大阪人ではない私はあれっ!と思ったのです。なぜ、過去形なのだ・・・・と。調べてみて、わかりました! 現在の通天閣は二代目なのです。1954年9月に通天閣観光株式会社創立事務所が設置され、1956(昭和31)年10月28日に二代目通天閣が誕生して、現在に至るのです。二代目の誕生は、初代が姿を消してから13年後のことだったそうです。(資料1)現在の通天閣は高さが103mです。4階の展望台が84mで、展望台の位置が既に初代の高さを抜いています。ビリケン神殿のあるのが5階で87.5mだとか。(資料2)ならば初代は? 当然の疑問ですよね。1903(明治36)に大阪に誘致された第5回内国勧業博覧会の跡地に、1912年(明治45)7月3日に建設されたそうです。ところが、太平洋戦争中の1943(昭和18)年1月16日、通天閣の直下にあった映画館の火災で通天閣の脚部が加熱による強度不足となったことが理由で、翌月から塔の解体作業が行われ、その姿を消してしまったといいます。(資料3)これで、ナルホド! です。この「めし」という作品は、『放浪記』がベストセラーとなった作家・林芙美子(1903-1951)が、昭和26年(1951)に朝日新聞に連載していた作品だったそうですが、連載中の突然の死により絶筆となったのです。しかし、後に映画化されて絶大な成功を収めたといいます。2003年5月に出版されています。新潮社のウエブサイトには、「ひたすら愛情だけに生きる女が、その愛情を失うことになったときの虚無感、生活と心の拠りどころを失った女の哀しい運命を描く」というメッセージを記しています。(資料4)青空文庫には、林芙美子の作品が現在64作公開されています。残念ながら「めし」は現在公開のための作業中とのことで未公開です。(資料5)何気なく素通りしてしまいそうな小さな碑に、思いがけない大阪史の一端をも知ることになりました。 南西側から眺めた景色美術館の南側から正面に回り込みます。美術館の正面は西方向に面しています。 林芙美子文学碑から少し先にあるのが、このブロンズ像です。アートプロデューサー・彫刻家の田村務制作「いのちいきいき」です。(資料6)この像は、天王寺博覧会が「いのちいきいき」をテーマとして、1987(昭和62)年8~11月に天王子公園で実施された時に、そのテーマをもとに制作されたそうです。このブロンズ像の遠景にピラミッド形の頂点部分が見えています。この建物は、安藤忠雄/安藤忠雄建築事務所が設計した「天王寺博覧会テーマ館」です。(資料7,8,9)このブロンズ像と建物も、今まで幾度か横目に見ながら通り過ぎていただけでした。意識的にとらえなおすと、いろいろ学べるものです。ここにも温故知新の一端がありました。そして、天王子公園の入口付近を通過するとき、だいぶ変わったな・・・と感じた理由がわかりました。2015(平成27)年10月から20年間の事業期間という計画で、「天王寺公園エントランスエリア魅力創造・管理運営事業」がスタートしていたのです。(資料10) 美術館の正面に立ち西を眺めると、高架道路の手前が天王寺動物園で、その先に新世界の地域が見え、北側に通天閣が見えます。「ハルカス300」(展望台)は、現在日本一の高さ300mのビル「あべのハルカス」にあります。だけど、高さを誇れなくなったとはいえ、やはり通天閣は大阪の歴史的なシンボルという気がします。 北から眺めた美術館の正面 大阪市立美術館の背後(東側)には、南に入口の門、北に出口の門がある「慶沢園」と称するゆったりとした庭園がひろがっています。こちらは別項としてまとめてご紹介したいと思います。最後に、大阪市立美術館の歩みについて、ご紹介しておきます。このあたりにもとは住友家の茶臼山本邸があったそうです。1921(大正10)年12月に、住友家がこの地に美術館を建設することを条件に大阪市への寄付を申し出たそうです。それを受けて、大阪市は1928(昭和3)年に美術館地鎮祭を行い、美術館建設に歩み始めたのですが、世界恐慌が到来し工事をやむなく中断します。そして1936(昭和11)年5月に開館を果たします。1970年代後半から順次建物の改修が行われ、また1992(平成4)年には、美術館の正面地下に地下展覧会室が新設されて、現在に至るそうです。8400件を越える館蔵品と社寺などからの寄託作品を随時平城展示されています。(資料11)ご一読ありがとうございます。参照資料1) 資料館[通天閣ヒストリー] :「通天閣」2) 新世界 Gookulu MAP pdfファイル :「通天閣」3) 通天閣 :ウィキペディア4) めし 林芙美子著 :「新著社」5) 作家別作品リスト:No.291 林芙美子 :「青空文庫」6) アートプロデューサー・彫刻家 田村務さんのページ :「漱石枕流」7) 天王寺博覧会 :ウィキペディア8) 80年代の写真・番外編(後編) 天王寺博覧会 :「かつて大阪日本橋でんでんタウンで生まれ育ったおっちゃんの思い出ブログ。」9) 天王寺博覧会テーマ館(天王寺公園映像館・植物温室) :「HeT大阪建築」10) 天王寺公園エントランスエリア魅力創造・管理運営事業予定者を決定しました:「大阪市」11) 美術館の歩み :「大阪市立美術館」補遺植木市概要 :「大阪緑化会」林芙美子 :ウィキペディアハルカス300 :「あべのハルカス」大阪市立美術館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 大阪市立美術館 -1 「江戸の戯画」展 へ
2018.05.31
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先日、後期展示期間に入った特別展「江戸の戯画」を鑑賞してきました。場所は大阪の天王寺公園内にある大阪市立美術館です。展示期間は残すところ2週間を切りました。6月10日までです。 美術館の入口には、このパネル掲示が為されています。 ロビーに入ると、展覧会の記念撮影用のこんなパネルがデンと正面に置かれています。展覧会場はこの背後の階段を上がって左方向です。 これは今ならまだ入手できる展覧会のPRチラシです。2つ折りにしたA4サイズの表と裏。 チラシの裏面から2箇所を切り出し部分拡大して引用します。 これはチラシの内側から切り出したものです。今回の「江戸の戯画」のサブ・タイトルは「鳥羽絵から北斎・国芳・暁斎まで」と題されています。後期展示に出かけましたので、歌川国芳の「金魚づくし」のうち、ベルギー王立美術歴史博物館蔵の7点は、残念ながら会場で写真パネルの掲示を眺めるだけでになりました。このシリーズのうち、個人蔵の「ぼんぼん」と「いかだのり」の中判錦絵は原図が後期も展示されています。 こちらは鑑賞後に購入したこの展覧会の図録です。今回の展示は、「第一章 鳥羽絵」、「第二章 耳鳥斎」、「第三章 北斎」、「第四章 国芳」、「第五章 滑稽名所」、「第六章 暁斎」という構成でした。展覧会に行く少し前に、清水勲著『北斎漫画 日本マンガの原点』(平凡社新書)をたまたま読んでいました。この新書に掲載されている北斎漫画の刊本の絵の実物を見ることができましたので、ああ!この絵かと結構楽しめました。さて、上掲の画像には絵がかなり重複していますよね。会場に行くプロセスではそれほど意識していませんでした。事後に改めて記録写真・PRチラシ・図録を眺めてみて感じたことなのです。会場で実物の戯画を楽しんだ後の副産物になりました。同じ絵から切り出された部分絵がそれぞれ、レイアウトの妙で巧みにアレンジされて異なる形に組み合わされています。パネルやポスター、チラシなどに利用され、それぞれをおもしろく飾っていることが別の楽しみを与えてくれました。江戸の戯画の本歌取りのような感じ・・・・・です。これらから逆に、原画探しと当てはめの妙を楽しめたといえます。入口のパネルの左上角は、会場では「第五章 滑稽名所」に展示の作品です。上掲に引用した一鶯斎芳梅「滑稽都名所 清水寺」からの切り出し。清水の舞台から傘を差して飛び降りた女です。あの次の瞬間に蛇の目傘はつぶれているでしょうねえ・・・・。三都の名所を取り上げて、その名所をきっちりと描いた上でカリカチュアーで一捻りして滑稽な場面に転換しているところが「戯画」としておもしろいところです。「滑稽名所」は歌川広景「江戸名所道化(外/戯)尽」、一鶯斎芳梅の「滑稽都名所」「滑稽浪花名所」のシリーズからの作品展示です。入口パネルの上部中央は、同じく引用した河鍋暁斎『暁斎漫画』の部分図です。暁斎は数えで7歳の時に歌川国芳に入門し、そこで2年ほど学んだそうです。戯画には国芳の影響が見られるものがあるようです。一方で、暁斎は多分『北斎漫画』を見ているでしょう。北斎の戯画をどのように見ていたのでしょうか? 入口パネルの右側は歌川国芳「金魚づくし」から切り取られています。上の方は「いかだのり」、下の方は「ぼんぼん」からです。この2枚の錦絵は通期展示ですから、第四章のセクションで楽しめます。 左側のパネルに切り出された猫! 国芳の「其まま地口猫飼好五十三疋」から切り出されています。この戯画タイトルから連想は・・・・働きましたか?図録には「東海道五十三次の宿場の地口(語呂合わせ)を猫の姿で表現した図」と冒頭に解説があります。左の猫は戯画では魚を加えています。ここでは魚を消していますが。会場で五十三疋の中からこれらの猫を捜してみてください。楽しめますよ。上掲のロビーの記念撮影用パネル刳りぬかれた円形の回りにいる金魚と猫は「金魚づくし 百ものがたり」からの切り出しです。この戯画は以前に見た記憶がありました。猫がすごく印象的だったのです。後で手許の図録を参照すると、平成3年(1991)に京都国立博物館で開催された「うきよ絵名品展」(東京国立博物館所蔵/松方コレクション)に出展されていました。このパネルの手前とパネルの左側の切り出し絵は、もうおわかりですね。 こんな風に眺めるのもおもしろい。金魚は仏に何を語りかけているのでしょう・・・。 これだけに着目するとまた違った印象に・・・・大きく口を開けている意味は・・・何だろう? ロビーに別に置かれたこの金魚像、「金魚づくし 玉や玉や」からの切り出しです。この「玉や玉や」も松方コレクションの中で出展されていました。 こんな組み合わせも。この展覧会の図録表紙の中央部分に笑う男二人が切り出されています。これは第五章に後期展示されている歌川広景「江戸名所道戯尽」の一枚「四十五 赤坂の景」(太田記念美術館蔵)からの切り出しです。何を見て笑い転げているかは、大判錦絵を会場で眺めてみてください。なぜ、赤坂の場面がこれなのか・・・・私にはわかりません。場面がわかるのですが、赤坂である必要は何なのか・・・・判じ物みたいな気分です。図録の裏表紙の切り出し絵は、印象すらないな・・・と思っていたら、前期の展示作品でした。一鶯斎芳梅「滑稽浪花名所」中の「四天王寺」(和泉市久保惣記念美術館蔵)です。「滑稽名所」は、背景に名所を描き、前面にひっくり返ってあわてふためく姿態、それを見て笑い転げる人々などを描いているものが多いようです。想像すると滑稽ということでしょうか。 この戯画は5/29~6/10の展示替えの作品なので、見られなかったのが残念です。暁斎は駿河台狩野家で修行を積んだ絵師で、終生狩野派絵師として筆を取り続けたそうですが、一方で独立直後には多くの戯画を浮世絵として描いているそうです。図録解説によると、蛙のモチーフを得意としたとか。これは元治元年(1864)の江戸幕府の長州征伐を蛙の合戦に見立てていると考えられるとか。その暗示は紋を描き込んでいるところに見られるのです。大判錦絵三枚続の作品です。図録の絵を眺めても、蛙の表情や動きがおもしろいものです。暁斎が「伊蘇普物語内」としてイソップ物語のエピソードをシリーズ絵にしているのを知り、エ~ッと思いました。第一章と第二章も触れておきたいと思います。「第一章 鳥羽絵」の鳥羽絵ですが、辞書を引くとその第一羲として「江戸時代の略画風の漫画。名称は鳥羽僧正に由来」(『日本語大辞典』講談社)と記されています。風刺的な『鳥獣戯画』の作者とされる鳥羽僧正の名前に由来するということですね。「より限られた意味では、18世紀の大坂を中心に流行した軽妙な筆致の戯画のことを言います」(PRチラシより)とのこと。 この絵は、PRチラシの内側に掲載のものを引用しました。『軽筆鳥羽車』に所載の見開きの絵です。上記の『北斎漫画』を読んだとき、この絵を参考にして、葛飾北斎が「鳥羽絵集会 魚頭観音」という戯画を描いていることが記されていたと記憶します。この鳥羽絵を描いた絵師は大岡春卜という見方もあるようですが確定できないようです。名前がわかっている絵師としては、大岡春卜、竹原春朝斎、長谷川光信、二代喜多川歌麿、安達真速の作品が展示されています。北斎漫画と直接関連づけられる絵を見られたのがうれしいところでした。この鳥羽絵には、「目が小さく、鼻が低く、口が大きく、極端に手足が細長いという特徴」(PRチラシ)で描かれていることが実際に見るとよくわかります。その姿でのドタバタにユーモアが醸し出されるのでしょう。 第二章は「耳鳥斎(にちょうさい)」という絵師のセクションです。私はこの18世紀後半の大坂を中心に活躍したという絵師のことを初めて知りました。略筆画なのですが、独特のユーモア感があり、剽軽な感じでごく気楽に楽しめるセクションでした。すごくやわらかいタッチの略画です。筆で描かれているところが相乗効果を出しているのかもしれません。これは、「地獄図巻」(大阪歴史博物館蔵)のわずか2コマです。11m余の長い絵巻として描かれているのです。国立歴史民俗博物館の「地獄図巻」との2巻が展示されています。源信が『往生要集』の冒頭に「地獄」を詳細に記述しました。それが始まりとなり、おどろおどろしき地獄絵が数多く描かれています。それらの地獄絵と耳鳥斎が飄々と略画で描いた地獄との大きな差を感じます。厳しく激しい風景を描いているのですが、見る者にとって意外と嫌悪感が薄れるのです。不可思議な地獄絵です。ちょっと地獄を覗いてみたい感すら感じさせるところのある戯画だと思います。『絵本 水や空』上(大屋書房蔵)、『画本古鳥図画比』中(大屋書房蔵)、『画本古鳥図画比』(千葉市美術館蔵)などは楽しい略画です。まさに漫画です。 これは会場を出て、1階に降りたとき記念撮影パネルの後側に隠れていた絵の切り出しです。歌川国芳「福禄寿あたまのたはむれ」の「年始回り」(個人蔵)から切り出されたものです。まさにピッタリ!「どうもご覧いただきありがとうございました。今後ともごひいきに」とでも言っている感じです。この特別展、日本の漫画のルーツとその奥行きを感じさせつつ、楽しませてくれました。この大阪市立美術館周辺も序でにまとめておこうと思います。つづく参照資料上掲のPRチラシと図録「特別展 江戸の戯画」補遺鳥羽絵 :ウィキペディア浮世絵 鳥羽絵 :「浮世絵」耳鳥斎 :ウィキペディア耳鳥斎 :「伊丹市立美術館」<<ゆるカワ絵師列伝>> 松屋耳鳥斎の巻 :「KIJIDASU!」北斎漫画 :ウィキペディア北斎漫画 :「近代デジタルライブラリー」 検索結果の所蔵58件のリストのページ。北斎漫画各編ほかにアクセスできます。北斎漫画 YouTubeHokusa Hokusai Manga 北斎漫画 YouTube北斎漫画 YouTube葛飾北斎 肉筆画集 YouTube歌川国芳 :ウィキペディア3分でわかる歌川国芳(人から分かる3分美術史50) YouTube【浮世絵】歌川国芳:名作選【幕末】Utagawa Kuniyoshi (1798 - 1861) YouTube河鍋暁斎 :ウィキペディア画鬼と呼ばれた天才絵師、河鍋暁斎の絵にぶったまげる :「NAVERまとめ」河鍋暁斎記念美術館 ホームページ 河鍋暁斎とは ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.05.30
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大阪の中之島に「中之島香雪美術館」がオープンしました。これは開館記念展として現在開催されている「『珠玉の村山コレクション』~愛し、守り、伝えた~」の第Ⅱ期展の入館チケット半券です。第Ⅱ期は「美しき金に心をよせて」というテーマで、コレクションの一部が展示されています。大阪に新しくできたこの美術館を初体験したくて、先日訪れてきました。はや第Ⅱ期展になっていました。もう一つの目的は、この美術観内に再現された茶室「玄庵」を見たかったことです。「喧騒を忘れる。市中の山居」というキャッチフレースに惹かれたからとも言えます。茶道は門外漢ですが、茶室の建物・姿を眺めることには関心があり、大阪のそれも中之島のビル内にどういう風に再現されたのかに興味津々というところでした。 これは土佐堀川側から撮った景色です。北に堂島川、南に土佐堀川が東西に流れ、その中間が中之島です。アクセスするための最寄り駅は、堂島川の方は京阪電車・渡辺橋駅、土佐堀川の方は地下鉄肥後橋駅です。四ツ橋筋を挟み、東に「中之島フェスティバルタワー」、西に「中之島フェスティバルタワー・ウエスト」のビルが建っています。 美術館は西側の「中之島フェスティバルタワー・ウエスト」の4階にあります。ビルの南東角の外側にエレベーターがあります。ビルに近づいて、警備員の方に尋ねるとこのエレベータ利用が一番便利と教えてもらいました。 4階のロビー部分です。「中之島香雪美術館」がこの4階のフロアーに設置されています。美術館入口から一旦遠ざかって、ロビーの端側から全景を撮りました。 こんな雰囲気の壁面の先に、入口があります。入口の左側に第Ⅱ期のバナーが出ています。 そして、ロビースペースで美術館入口に近い方の一端は、ガラス壁面になっていて、再現された茶室の全景をロビーから眺められるようになっているのです。つまり、この4階のフロアーに行けば、美術館内に入館せず茶室の外観全体を眺めるだけなら、無料で遠目に眺めることができます。だけど、関心のある人ならガラス壁面ごしでは物足らなくて入館して、すぐ近くから眺めたくなるでしょうね。 これは今なら手軽に入手できるPRチラシからの引用・ご紹介です。今回、美術館を訪れて知ったのですが、「香雪」という名称は村山龍平(1850~1933、敬称略)の雅号に由来するとか。村山龍平は朝日新聞社の創業者です。日本美術の保護にも大きく貢献した人で、自らも古美術品のコレクターとなったそうです。それがこの開館特別展で5期に分けて展示される「村山コレクション」になります。村山龍平は50歳代に茶の湯の世界を楽しむようになり、籔内流の茶を修得したそうです。「明治44年(当時61歳)には、籔内節庵の指導を受け、籔内流家元の茶室『燕庵(えんなん)』の忠実な写しである茶室『玄庵』を建てました。」(PRチラシより)その場所は、神戸市の御影にあった村山邸内です。この旧村山邸内の茶室「玄庵(げんなん)」は重要緒文化財に指定されているとか。神戸市東灘区御影にある旧村山邸の場所が「香雪美術館」の本来の所在地です。そういう意味では、大阪の都心に分館が誕生したということになるのでしょうか。常設展示となる茶室「中之島玄庵」は、チラシの説明によれば、「茶室『玄庵』を萱葺き屋根、土壁、柱などは実物と同じ部材を使い、路地にある飛び石の形や色までも忠実に再現しています」とのこと。茶室の傍近くで眺めると、路地の雰囲気とともに、茶室の内部が拝見できる形になっているのが、やはり良い! 茶室の間取りや室内の造作を、立ち位置を変えて違う角度から眺められ興味深いものです。写しの写しということになりますが、京都の家元藪内家にある「燕庵」がどういう茶室なのかがリアルにイメージできて参考になります。 これは第Ⅱ期展を鑑賞後に購入した図録の表紙・裏表紙です。 こちらは上記の引用に参照した大判のPRチラシです。この2種からもうかがえますが、この「稚児大師像」(重文)がやはり目を惹きつけます。「プロローグ 美しき金」というセクションに3つの展示品があり、その一つです。(5月27日までの展示。展示替えあり)鎌倉時代・13世紀に描かれた絹本着色です。弘法大師空海は入定する6日前に、門弟に遺誡「二十五箇条遺告」を与えたそうです。そこには空海が幼少の頃に、毎夜諸仏と語り合ったということが記されているとか。それを描いたのがこの作品だと言います。稚児大師像は十数点確認されているそうです。その中でも早い時期に制作された作品だとか。(図録より)調べてみますと、「二十五箇条遺告」が現代語訳されて公開されています。それを参照しますと「初めに(真言宗)成立の由来を示す縁起第一」の冒頭が「そもそも思いめぐらしてみれば、わたくしが昔生まれて、両親の家に住んでいたとき、5,6歳の頃、いつも八葉の蓮華の中に坐って諸々の御仏たちと言葉を交わしている夢を見た。」という書き出しで遺告が語り始められているのです。(資料1)冒頭から強烈な語りかけだと感じます。この図像を見た真言宗の僧は直ちに冒頭の一文を連想したことでしょう。今回は「第1章 金色の光」、「第2章 空間を飾る」、「第3章 金の装飾」の三部構成で企画展示されていました。「金」とくれば、どうしてもキンキラキン、豪華さ、ハデさがまずイメージされます。しかし、「美しき金に心をよせて」というテーマ・メッセージにあるとおり、金の使われ方が真逆にちかい感じです。金の永遠の輝きという恒久性はうまく使われていますが、金を作品の中に慎ましく落ち着いた輝きを放つ形で取り込んだ作品群でした。しっとりと抑制された華麗さを感じさせるという作品に惹きつけられました。 この第Ⅱ期展の柱は、やはりこの長谷川等伯筆「柳橋水車図屏風」です。2010年、「没後400年 長谷川等伯」展が京都国立博物館に出展されていたときに鑑賞して以来、久々に実物を眺めることができました。それもごく静かな雰囲気の中で、壁ぎわのベンチに腰掛けてしばし味わえました。この屏風が制作された当初は金の輝きが一段ハデ気味だったのかも知れません。また川面に描かれた波のダイナミックな流線は銀の細線で描かれていますので、白銀のきらめきを見せていたことでしょう。しかし、今ではちょっとくすんだ感じの橋の金や黒変した銀の波紋の落ち着きが、全体の大胆な構図の方に一層目を向けさせてくれます。水車の支柱にぶつかり跳ねる波しぶき、岸や蛇籠に当たる波しぶきが水流の流れの方向を示しています。柳は右隻の葉の短い若葉から、左隻の葉の長い描写に転じて行き、春から夏への季節の移ろいをも描き込み、橋を渡るという時の経緯を視覚的にも取り込んでいるようです。図録の表紙には、この屏風の水車の部分が切り取られて装画に使われています。 上掲大判チラシの背景に使われているのが、この「世界地図屏風」です。屏風の下辺に小さなコマ絵が並んでいます。世界地図に出てくる民族、たとえばイスパニア人、トルコ人、フランス人などの人物像を描いているのです。この屏風、なんと西洋画の技法を学んだ日本人が江戸時代17世紀に描いたと言います。一部の人々の世界認識がどこまで広がっていたかを推測できて興味深いところです。この屏風と六曲一双として、対になるのが、 こちらです。「レパント戦闘図」です。キリスト教国がイスラム勢力に初めて勝利した1571年のギリシャ、レパント沖での海戦です。海面や雲はかなりシンプルに形式化して描かれている一方、戦士や馬の群像は細密に描かれています。長崎の出島を窓口にして、西欧のかなりの情報が徳川幕府の為政者側にはもたらされていたということなのでしょう。歴史知識と併せて、絵手本となる描画も入手されていたということが推測できます。 このチラシがなかなかおもしろい発想です。「香」の「日」の部分には、明代・景徳鎮窯の「赤絵唐人物図鉢」に置き換えられています。この鉢「大マレモノ」という銘を村山龍平自身が付けたといいます。発色が中華的で美しい。「雪」の「ヨ」は、「菊水蒔絵硯箱」の蓋上面の上半分を使っています。一見同じ図柄のパターンを繰り返しているように見えますが、良く観察していくとそうではなく微妙に変化しているのです。流水変化極まりなしというところでしょうか。館内には蒔絵の技法についての丁寧な解説パネルが掲示されていて、学べる機会でもありました。等伯筆の柳橋部分図の下に金色の円が見えます。「花兎蒔絵面中次」の上蓋上面です。なかなか可愛いい意匠です。図録を読むと、この文様、名物裂の一つである花兎の金襴の文様を使い、それも反転させた図柄と組み合わせているという面白さを加えているものです。これらは「第3章 金の装飾」のセクションに展示されています。同じセクションで印象に残るものから2つご紹介します。引用できないので残念ですが、原羊遊斎作「菊蒔絵大棗」という作品に惹きつけられました。三種の大きめの菊を蓋面から胴にかけて重ねながら大胆に配置した意匠です。 野々村仁清の作品が2点でています。そのうち、面白いと思ったのはこの三角形の香合です。「色絵花唐草文鱗形香合」という名称です。三角形の香合というのを見た記憶が無いので、おもしろく感じました。余談ですが、改めて、手許の本で紋章をチェックすると、三角形を組み合わせた紋章がいくつかあります。二鱗、三鱗、五鱗、七鱗です。三鱗は武田鱗とも称するようです。3つの三角形を全体の外周が三角形になる形、つまり2つの三角形を並べた頂点に残りの三角形を乗せた形です。中央が逆三角形になります。五鱗は一見、風車を連想させます。もう一つ、「第2章 空間を飾る」というセクションで眺めた「堀江物語絵巻」を挙げておきます。作者は一応岩佐又兵衛(1578~1650)となっていますが、岩佐又兵衛とその工房が制作した作品だそうです。本来は全20巻程度の絵巻物だったようですが、現存するのは5巻分と断簡一幅でそれらが現状は分有されているそうです。会場では、コレクション3巻のうちの中巻を見たと記憶します。極彩色で色鮮やかに描かれていて、17世紀に描かれたとは思えないほど維持保存がうまくなされてきた感じでした。戦場に向かう人馬の一群が描かれ、巻の先には戦闘場面が描かれてます。かなり細密に描かれていました。岩佐又兵衛は戦国時代の武将荒木村重の子として生まれ、からくも生き延びることができた人で、大和絵が出発点だったそうですが、諸流派の技法を取り入れ、浮世絵の源流・開祖と評価されてきている人物です。最近少し関心を抱き始めています。(資料2,3)舟木本「洛中洛外図屏風」(東京国立博物館蔵)が岩佐又兵衛とその工房が製作したということは、特別展「京を描く 洛中洛外図の時代」(京都文化博物館)を鑑賞した折に知りました。一方、豊国廟の探訪絡みで、豊国神社のことを調べていたとき、「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館蔵)を描いたのがこの岩佐又兵衛と知った次第です。最後に、この中之島香雪美術館の茶室再現という特徴と併せて、もう一つの特徴は「村山龍平記念室」が常設展示として設営されている点です。 御影の旧村山邸の一室を再現したのでしょうか。少しレトロな雰囲気の室内があり、その一壁面に村山龍平の年表などのパネル掲示があります。村山龍平の生涯と日本美術の保護に尽力した様子がうかがえる顕彰スペースになっています。なかなか興味深い記念室です。このビルを出るときは、違うルートの探訪を兼ね、エスカレーターで1階まで下りました。余談ですが、このビルのガラス壁面から中之島を眺めた景色をご紹介しておきましょう。 開館してまだ日が浅いこと、なおかつ平日だったこともあるのでしょう。静かな日本美術鑑賞のひとときを過ごせました。美術館内が来館者でざわつくという喧騒も無く、まさに茶室「中之島玄庵」のスペースは「市中の山居」然としていました。ご一読ありがとうございます。参照資料「『珠玉の村山コレクション』~愛し、守り、伝えた~」 編集・発行 香雪美術館 中之島香雪美術館 開館記念展 図録「はじめまして 中之島香雪です」(大判PRチラシ)と第Ⅱ期展のPRチラシ1) 弘法大師空海25箇条 御遺告 :「英ちゃんの高野山真言宗」2) 岩佐又兵衛 :ウィキペディア3) 岩佐又兵衛 :「コトバンク」補遺香雪美術館 ホームページ 旧村山家住宅の概要弘法大師二十五箇条遺告 収蔵品データベース :「奈良国立博物館」原羊遊斎 :「コトバンク」File21 蒔絵 :「美の壺」(NHK)蒔絵(まきえ)とは?蒔絵の技法と作業工程について解説! :「KARAKURI JAPAN」研究ノート 京都国立博物館蔵《柳橋水車図屏風》について 大原由佳子氏 :「静岡県立美術館:柳橋水車図屏風(伝長谷川等伯筆) :「MIHO MUSEUM」柳橋水車図屏風 作者不詳 島根県立美術館蔵 :「Google Arts & Culture」柳橋水車図屏風 作者不詳 東京国立博物館 :「文化遺産オンライン」岩佐又兵衛 浄瑠璃物語絵巻 :「MOA美術館」岩佐又兵衛 「山中常盤物語絵巻」 :「美の巨人たち」岩佐又兵衛筆 「伊勢物語 鳥の子図」 :「文化遺産オンライン」長谷川等伯(信春)とは :「石川県七尾美術館」籔内家の茶 ホームページ 茶室・路地村山龍平 :ウィキペディア村山龍平 :「コトバンク」朝日新聞社創業者・村山龍平 系図 :「近現代・系図ワールド」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.05.18
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4月下旬に奈良国立博物館で4月14日から始まった「国宝 春日大社のすべて」という創建1250年記念特別展を鑑賞してきました。冒頭の仮設門は、JR奈良駅前の広場に設けられています。今年の秋10月に興福寺中金堂再建落慶の予定であり、春日大社は創建1250年を迎えた年であることを祝って、この仮設PR門が設置されたようです。 奈良公園の入口にある奈良博の掲示板です。 博物館への通路沿いの街灯に、こんなバナーが吊されています。 博物館の少し手前に設置されているのがこの案内板です。 この2つは、今ならいろいろなところで手軽に入手できる特別展のPRチラシです。左はこのサイズの両面印刷ものですが、右は2つ折りなので、見開きで展示品の案内となっています。 これは、当日の特別展入場券の半券です。 そして、こちらは2階にある2つの会場を巡って、スロープを下り1階出口に向かう時、売店の傍に設けられていた記念撮影コーナーです。京博の企画展と同じように、この奈良博の企画展でも展示品を異なる組み合わせ方で例示して、幾種類かの異なるPRデザインが試みられています。そして、そこには企画展示において大半の鑑賞者を惹きつけるメイン・アイテムになるとおもわれる展示品が抽出されているのです。会場で入手した展示品リストを見ますと、総数224件が列挙されています。その内、通期展示品が67件、途中中間で8日間展示が途切れるものが2件、残りは前期(4/14~5/13)と後期(5/15~6/10)で展示入れ替え品となります。つまり、ある時点でとらえると150件弱の展示品を鑑賞できることになります。 奈良国立博物館の2階に上がると、第1会場の入口付近に展示されているのが、この「春日神鹿御正体」(京都・細見美術館蔵)です。鹿は春日大社の神の使いです。その鞍の上に神籬(ひもろぎ:榊)が立ち、その枝に円板が付けられて、その中の5つの小円板には春日四所と若宮の本地仏が線刻されています。この本地仏を線刻した円板は「円相」と称するそうです。この「春日神鹿御正体」を細見美術館で初めて見たときは、本地仏が線刻されているところまで観察できていませんでした。今回間近に鑑賞して遅ればせながら線刻像に気付きました。これが端的な事例になりますが、今回の記念特別展を鑑賞しての第一印象として、明治より前の時代には神仏習合の思想が基盤となり、本地垂迹の考え方が当たり前だったということを国宝を初めとする展示品を眺めて実感しました。日本における歴史的感性という点では、明治の神仏分離という発想は人為的すぎてやはり無理があるのではないか・・・・という感じです。今回の記念特別展は9章構成で展示されていました。第1章 平安の正倉院 - 本宮御料古神宝類・若宮御料古神宝類の美 「古神宝類」と総称されているとおり、このセクションの展示品は全点国宝です。 これはPRチラシから引用した本宮の「蒔絵箏」です。一見、流水をイメージさせる図柄の間に動植物の姿が研出蒔絵で表現されています。この銀鶴はいまでは表面が黒っぽくなっていて、表示がなければ銀製とは思えません。わずか高13.0cmという小品です。 入場券とチラシに載っている「金鶴及銀樹枝」も金鶴は高4.7cm、幅3.7cm、銀樹枝は高10.0cmと同様に小品です。磯形の上に立つ一対の銀鶴も同じ位の小品です。 長17.0cmの州浜(台座)上の銅造狛犬は高17.5cmとごく小さな狛犬像です。チラシに掲載のものを見ていると、もっと大きな像をイメージさせる凜々しさと存在感があります。また、蒔絵弓は国宝の現物と併せ、現代の復元模造が展示されています。対比的に見ていると興味深いです。前期・後期と入れ替え展示が予定されています。第2章 神宝 -神々に捧げられた祈り これは当日購入した図録の表紙です。鎌倉時代に制作された「秋草蒔絵手箱」(重文)・蓋表の部分文様です。図録の説明によると「金平目地に、金の研出蒔絵」という技法による作品で、化粧道具を収めた手箱です。内容品が取り出して、傍に並べて展示されていました。横長で蓋をあける形式なのですが、蓋表の文様は縦方向に描かれています。このやり方は近世まで類例がないとか。貴重な作品例です。これは5月13日までの前期展示です。後期は同時代の作品「亀甲蒔絵手箱」に入れ替わる予定です。 これは入手したPRチラシの裏面です。上掲の「蒔絵箏」の上、左側に「秋草蒔絵手箱」が載せてあります。このセクションには上掲チラシの中央部分に載る「金地螺鈿毛抜形太刀」(国宝)が復元模造とともに展示されています。見比べると復元の仕方もすばらしいもので、興味が一層高まる一例です。この復元模造品の方は前期だけの展示予定。逆に後期は、第1章の方に、若宮御料神宝類の「毛抜形太刀」が復元模造品とともに入れ替え展示で加わる予定です。毛抜形太刀というのは、「茎(なかご)部分を太く大きく作ってそのまま柄とし、そこに古代の毛抜を向かい合わせたような形状の大きな透かしを空けた太刀の形式」(資料1)だそうです。これが平安時代後期以降に衛府太刀として用いられたそうです。官位相当表を見ると、六衛府があります。近衛府・衛門府・兵衛府が左右にあったので合わせて六衛府です。内裏の警備や天皇行幸の供奉などを行った官職です。(資料2) 今、手軽に入手できるチラシには、こんな風に大鎧や三つ物完備の胴丸が対にして載せてあります。これらはこのセクションで鑑賞できます。上の赤色・右側は「赤糸威大鎧(竹虎雀飾)」、左側は「赤糸威大鎧(梅鶯飾)」です。下の黒色・右側は「黒韋威胴丸」。左側は「黒韋威伊予札胴丸」です。黒韋威(くろかわおどし)という名称ですが「胴の威(おどし)は濃い藍色で鹿韋(しかがわ)を染めた」ものだそうです。また、伊与札(いよざね)とは、「通常の札は左右の半分ずつを重ねて仕立てられるが、左右の端をわずかに重ねるたけとした鉄札を綴じ付けたもの」をいうそうです。また、三つ物完備は胴と筋兜、袖が鎧のようにセットになっていることです。(資料1)残念ながらこれらをそれぞれ対で鑑賞することはできません。前期は、「赤糸威大鎧(竹虎雀飾)」と「黒韋威胴丸」が展示されています。後期に入れ替わり展示となるのです。 このセクションの展示品での圧巻はこれ! 「ダ太鼓」(重文)と称される超巨大な太鼓です。ダという漢字一文字は私は初見です。読めませんし書けません。通常のカナ漢字変換では無理。あきらめました。まさに漢字世界の奥深さ・・・・です。このダという漢字をさらりと書ける人がどれくらいいるのでしょう・・・・。これは、「雅楽のうち、舞を伴って行われる舞楽に用いられる大型の太鼓」(資料1)です。これは「左方・龍」の太鼓です。火焔縁高390cm、最大幅336cm、総高658cmというどでかい代物です。修理後は今回が初公開だそうです。上方に日輪を象った飾りが付けられていますが、会場での展示ではこの飾りは取り外して傍に展示されていました。会場の床面から天井までの高さとの関係でしょう。 この火焔縁の龍の彫刻、背面も会場で見られるので、締太鼓の調緒(しらべお)の太さやその姿とともに見応えがあります。鎌倉時代・13世紀の製作品だとか。第3章 春日大社の創建ここは出土品の土器・瓦や文書類が展示され、前期は3点の「鹿島立神影図」掛軸が出ています。 こちらは後期に入れ替え展示される一幅ですが、ほぼこれと同じ形式の図です。武甕槌命が鹿に乗り鹿島を発ち春日の地に降り立ったという伝承を具象化したものです。神の勧請を神秘化した伝承というところでしょうか。 このセクションには、7世紀に制作された春日大社蔵の「禽獣葡萄鏡」(重文)とともに、同時代のもので香取神宮所蔵のこの「海獣葡萄鏡」(国宝)が出展されています。いずれも奉納品だからでしょか、綺麗な姿が維持されている鋳造銅鏡です。第4章 国の護り、氏社-皇室、藤原氏と春日大社個人的に関心を牽いたのは、「御堂関白記」(国宝・陽明文庫蔵)や「小右記」(宮内庁書陵部蔵)、「中右記」(陽明文庫蔵)の一部展示です。これらの名称やその内容は本の記述で目にしていますが、現物を見る機会はあまりないからです。第5章 春日曼荼羅の世界春日曼荼羅とは、上掲チラシの左上に載っている軸物の図です。 この「春日宮曼荼羅図」(重文、奈良・南市町自治会蔵)は、このセクションで展示の一例にすぎませんが、通期で展示されるのはこの1点だけで、残りは入れ替え展示となる予定です。13世紀から15世紀にかけて、春日宮曼荼羅や春日社寺曼荼羅、春日曼荼羅、春日南円堂曼荼羅が数多く掛軸図として制作されたようです。経年変化でかなり褪色して図像が見づらくなっているものが多いですが、この重文指定の曼荼羅図はほぼ明瞭に描かれている姿が鑑賞できるものでした。このセクションで、曼荼羅図がずらりと展示されているのを眺めるのは壮観です。神仏習合の世界が当たり前に受容されていた有り様が実感できるのと併せて、春日大社にそうそう参拝に出かけられない人々が、この曼荼羅図を春日大社参拝の代わりとして飾り拝していた、つまり信仰対象の図像だったことが感じられました。一種の春日大社と祭神を観想するツールになったのでしょうね。第6章 春日権現験記絵の世界 このチラシから引用した「春日権現験記絵」の上部に明記の通り、通期展示ですが。展示される巻は入れ替えが行われる予定です。これは春日の神の霊験譚を集めた絵巻で、鎌倉時代の宮廷画家高階隆兼(たかしなたかかね)が描いた作品だそうです。巻物として保存されてきたためでしょうか、色鮮やかです。この図は第1巻第1段の場面です。「春日社の中門に参籠していた橘氏の女性に春日明神が憑依し、僧や神官らに託宣する」という図です。(資料1)第1巻第3段では、社を建てるために材木の加工作業をする人々の姿が生き生きと描かれています。それを通して、当時の材木加工の方法を見えてきます。この絵巻も、色々な視点で分析・研究する素材になりそうです。第7章 春日大社の神と仏神仏習合の本地垂迹の考え方では、一般的には、一宮-釈迦、二宮-薬師、三宮-地蔵、四宮-十一面観音、若宮-文珠という本地仏構成となるようです。興福寺法相宗の影響を受けた考え方では、一宮-不空検索観音、二宮-弥勒に置き換える構成だとか。(資料1)いずれにしても、このセクションでは春日大社の神々と仏との関連で諸品が展示されています。 チラシに掲載されているこの「十一面観音立像」(奈良国立博物館蔵)はその一例です。解体修理の時に像内の墨書銘等から、この像が鎌倉時代、1221年に仏師善円により製作されたことが判明したそうです。そして、春日本地仏の一具を構成していたという説がある仏像です。 図録の裏表紙 部分拡大してみます。 これはこのセクションに通期で展示されるものの一つです。やはりチラシに取り上げているだけのことはあります。「鹿座仏舎利及び外容器」と名づけられている一具のうちの「鹿座仏舎利」です。これ自体は木製で彩色された高10.7cmというごく小さなものです。鹿の背に榊が立てられ、藤原氏を象徴する藤が巻き付いていて、金銅製の円相に水晶板を嵌め、その中に舎利を奉安した舎利容器が取り付けてあります。これを収納する木製で漆塗、蒔絵の外容器がセットになっています。江戸時代、1652年に製作されたものです。小さい舎利容器ですが存在感があります。いい姿です。春日赤童子像という名称の絹本着色の図像と、一木造りの「春日赤童子立像」(唐招提寺蔵)が展示されています。春日赤童子信仰というのが南北朝時代以降に盛んになったということを初めて知りました。第8章 春日大社の祭礼-春日祭とおん祭両祭の絵巻物が展示されていて、雰囲気がわかりおもしろいです。「春日祭絵巻」の中には「強盗の儀」という場面も描かれています。これは強盗を捕まえる儀式の場面だとか。このセクションには、舞楽面や能面、能装束が展示されています。チラシに載せてある舞楽面の「新鳥蘇」という笑い顔の面はやはりユーモラスで楽しい面です。同形式の面がもうひとつあり、後期には差し替えされる予定になっています。第9章 春日信仰の広がり-全国に広がる春日の社と春日講ここにも春日宮曼荼羅の図が展示されています。「春日鹿曼荼羅」の図が展示されていてこちらに興味を惹かれました。白鹿の背に置かれた鞍に榊が立ち、その上に金色の円相が描かれているという図式です。春日大社と鹿の繋がりが、奈良において鹿を大事に扱うという形に結びつき、今に至るのでしょう。この記念特別展を見終えてふと思ったことは、日本における神仏習合、本地垂迹思想の長い歴史を無視し、神社と仏を分離峻別すれば、この企画展がほぼ成立しないということでした。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 当日購入した図録『国宝 春日大社のすべて』 奈良国立博物館2) 『クリアカラー国語便覧』 監修:青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p52-53手軽に入手できたPRチラシ等の画像を適宜引用しました。補遺春日信仰 :「コトバンク」春日信仰 :「神殿大観」春日信仰 :「歩く・なら 奈良の歩き方新提案」春日信仰を中心とした南都における神祇信仰の展開とその遺品に関する総合的研究 :「KAKEN」特別陳列 おん祭と春日信仰の美術 :「奈良国立博物館」 過去展ですが、以下の特集ページに公開の画像が参向になります。 特集 社家資料と若宮 2017年 特集 奈良奉行所のかかわり 特集 御旅所 2015年春日赤童子 :「徒然草子」春日大社の磐座「赤童子出現石」 :「奈良寺社参拝なび大正楼」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 春日大社境内を巡る -1 大仏殿交差点から境内へ(憶良の歌碑、石灯籠さまざま、萬葉植物園、壺神神社、車舎) 4回のシリーズでご紹介しています。
2018.05.03
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北葛城郡河合町の東部を歩くという探訪をまとめて先にご紹介しました。この時に、「穴闇」を「ナグラ」と読ませるという町域を知りました。それが発端で、河合町には難読地名が他にもあるか、ということに関心を抱きました。そこで地名の一覧としては郵便番号のリストが確実で便利なので、この範囲で調べてみることに。しかし、難読地名はこの「穴闇」くらいでした。そこで序でに、少し悪乗り気味ですが、奈良県の地名で、私にとっては読めなかった、読みづらいなあ、そんな読み方になるのか・・・・と思う地名(町域)を抽出してみました。試し読みしてみてなんとかまあそういう読み方も思いつきそうというのは除きます。東西南北とか上中下などの接頭文字が付く近隣町域がありますが、それはここに抽出したものでカバーしているとご理解ください。括弧内は郵便番号の読み方を転記しました。(転記ミスがあるかも・・・・。その場合は、ゴメンナサイ。妖しいと思われたら、参照資料でのご確認を!)勿論私の主観による難読地名の抽出にしか過ぎません。これらの地名の由来をさらに調べれば、興味深さが一層加わるかもしれません。それが課題に残りますが、まずは・・・・・・まとめてみます。奈良市 阿字万字町(アゼマメチョウ)、藺生町(イウチョウ)、邑地町(オオジチョウ) 興ケ原町(オクガハラチョウ)、肘塚町(カイノヅカチョウ)、杏町(カラモモチョウ) 北京終町(キタキョウバテチョウ)、都祁吐山町(ツゲハヤマチョウ)宇陀市 大宇陀小附(オオウダコウツケ)、芝生(シボウ)、守道(モチ)、 榛原戒場(ハイバラカイバ)、上井足(カミイダニ)、角柄(ツノガワラ)橿原市 雲梯町(ウナテチョウ)、小房町(オウサチョウ)、小槻町(オウヅクチョウ) 膳夫町(カシワテチョウ)、小綱町(ショウコチョウ)、中曽司町(ナカゾシチョウ)葛城市 北道穂(キタミツボ)、薑(ハジカミ) ⇒ 辞書を引くと、ハジカミはショウガの古名だそうです。五條市 賀名生(アノウ)、江出(エズル)、大日川(オビカワ)、御所市 御所市(ゴセシ) 五百家(イウカ)、稲宿(イナイド)、今城(イマンジョウ)、蛇穴(サラギ) 奉膳(ブンゼ)、重阪(ヘイサカ)、桜井市 粟殿(オオドノ)、小夫嵩方(オオブダケホウ)、忍阪(オッサカ)、下居(オリイ) 多武峰(トウノミネ)、外山(トビ)、豊前(ブンゼ)、吉隠(ヨナバリ) 大和郡山市 藺町(イノマチ)、今国府町(イマゴウチョウ)大和高田市 勝目(カジメ)、生駒郡斑鳩町 興留(オキドメ)生駒郡平群町 椿井(ツバイ)、福貴(フキ)、椣原(シデハラ)北葛城郡王寺町 葛下(カツシモ)高市郡明日香村 檜前(ヒノクマ)高市郡高取町 羽内(ホウチ )山辺郡山添村 菅生(スゴウ)、助命(ゼミョウ)、虫峰山(チュウムザン)吉野郡川上村 井光(イカリ)、東川(ウノガワ)、上多古(コウダコ)、入之波(シオノハ) 枌尾(ソギオ)、武木(タキギ)、人知(ヒトジ) 吉野郡天川村 九尾(ツヅラオ)、洞川(ドロガワ)、南角(ミノズミ)吉野郡十津川村 迫西川(セニシガワ)、玉置川(タマイガワ)吉野郡東吉野村 小(オムラ)、木津(コツ)、大豆生(マメオ)吉野郡吉野町 国栖(クズ)、入野(シオノ)、六田(ムダ)如何ですか? ひとめでサラリとこのように読めますか? 地名っておもしろい! それぞれの地名に歴史があるのでしょう・・・・・。さて、京都も試してみましょうか。ご一読ありがとうございます。参照資料奈良県の郵便番号 :「郵便局」こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 奈良県・河合町東部を歩く -1 御幸瀬ノ渡跡・市場垣内遺跡・定林寺・城山古墳ほか 3回のシリーズでご紹介しています。こちらの府県もご覧いただけるとうれしいです。観照 私的に難読地名さがしを行った地域一覧 (掲載 2018.10.6)
2018.04.25
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この案内板は、博物館の受付所から西側構内入口に向かう間、正面の北壁に掲げられています。図録表紙と同じ『瀟湘勝概図屏風』が背景絵に使われています。 案内板から屏風の第3扇・第4扇に描かれた樹木の部分を切り出してみました。大木の幹から伸びた枝に、淡い色調の濃淡の点描で葉が描き込まれています。江戸時代、18世紀に大雅が点描手法で鮮やかに印象的に樹木を描いているのです。点描手法で即座に連想するのは、西洋の後期印象主義の展開の中で、スーラを代表的画家として流行した点描派画家たちの絵です。ジョルジュ・ピエール・スーラが「グランド・ジャット島の日曜日の午後」という有名な点描画の大作を制作したのが1884年です。(資料1)池大雅は1776年4月13日に死没しています。なんと大雅は100年以上も前に点描手法を縦横に使っていたのです。(資料2)併せて想起するのは、点描手法の使い方は全く異なりますが、伊藤若冲筆「石灯籠図屏風」(六曲一双・文化庁所蔵)です。若冲は1800年9月死没。この屏風の制作年は不詳ですが、やはり100年近く前に点描手法を墨画での濃淡で使っています。(資料3)前回、購入図録の表紙・裏表紙をご紹介しました。この表紙、折り曲げてあったので、広げてみて、部分図を撮り、引用します。 折り曲げられた表紙の内側です。六曲一隻の屏風の第6扇(左端)の部分図この画法を大雅は、中国の画譜類から学び取り自己の描法にしたのでしょう。大雅の絵では描かれた姿には峻厳な雰囲気から柔らかみが加わっているように感じます。 大きな屏風絵の中で、第5扇の下辺に小さく描かれています。単眼鏡で実画をズームアップして鑑賞すると、簡略ですがきっちりと描かれ、雰囲気が十分に出ているのです。これは他の掛幅や屏風の絵を見ても同様です。この流水の様子を大雅は湖面を幾度も実見して取り入れたのでしょうね。 こちらは裏表紙の内側です。第2扇を中央に左右の第3扇、第1扇に景色が広がっています。大雅が心象風景として形成した瀟湘八景の景色というわけです。「京都の御典医・福井家の旧蔵品で、裏面に貼り付けられた大雅書簡から、本作の画料が金一両だったことがわかる」(資料2)とか。調べてみますと、一つの試算例として、1両は18~22万円くらいのようです。(資料4)今回の展示作品でみますと、『廬山全景図』(紙本墨画淡彩、一幅)で部分的に点描を併用し始めた様子が見え、重要文化財指定の『漁楽図』(紙本墨画、一幅)で点描法の利用を全開にしています。墨の濃淡を巧みに使い分ける葉の点描描写で光が取り込まれています。これらの作品が『瀟湘勝概図屏風』につながるようです。 この時我が家の小庭のツツジは満開ですが、博物館内西の庭一帯のツツジは未だこれからというところでした。ここ数日の気温上昇で満開近くになっているのではないでしょうか。 平成知新館の手前には、この案内板が出迎えています。前回ご紹介のPRチラシと同じ絵が背景に使われています。背景に使われていたのが次の作品です。チラシから引用します。 『蘭亭曲水・龍山勝会図屏風』(紙本墨画淡彩、六曲一双)の右隻です。この屏風も重要文化財に指定されています。通期展示、静岡県立美術館の所蔵です。この右隻は「蘭亭曲水」という言葉で故事の由来がわかります。「王義之ら文雅の士四十二名が蘭亭に集まり曲水の宴を張った」(資料1)という場面です。第2扇の上部に蘭亭が描かれ、4人が亭内にいます。S字を描き厳の間を流れ下る曲水の各所の岸辺に文雅の士が少人数ずつ集っています。第6扇(左端)には橋が描かれ、釣りをする人物が描かれています。丸みを持った厳の描写がゆったりとした和みを滲ませ、対角線上を曲水が流れ下る構図が空間の奥行きを生み出しています。この宴は3月3日に催されたそうです。 こちらが左隻です。第1扇右上に「龍山勝會」と記されています。第5扇に9月9日に龍山での宴に集った人々が描かれています。第1・2扇に麓の集落、その背後の遠景に山を淡く描くことで近景の龍山からの広々とした空間が表現されています。この宴席で出席者の一人孟嘉が風で帽子を飛ばされたのですが、当意即妙な文で一座を感心させたというエピソードがあるそうです。(資料1) この作品も第7章として、平成知新館の1階会場に展示されています。宝暦13年(1763)7月、大雅41歳の時と、制作時期がわかっている作品です。 館内では3階にまず上がり、そこから会場を巡りつつ順次1階に降りてくるという特別展での展示パターンです。既に触れていますが、全体の展示構成をまとめますと: 第1章 天才登場-大雅を取り巻く人々 3階 第2章 中国絵画、画譜に学ぶ 3階 第3章 指墨画と様式の模索 2階 第4章 大雅の画と書 1階 第5章 旅する画家-日本の風景を描く 2階 第6章 大雅と玉瀾 1階 第7章 天才、本領発揮-大雅芸術の完成 2階、3階私が関心を惹かれたのは、第2章で、大雅の年齢順で作品展示する構成が取り入れられていたことです。画法を学ぶ若き大雅の画業の変化が見えてきます。それは第3章の作品展示でも取り入れられています。 「京都国立博物館だより」(資料5)から切り出して引用します。これは通期展示の作品です。『渭城柳色図』(紙本墨画淡彩、一幅、敦井美術館[新潟市]蔵)は、24.5cm×30.9cmという小品ですが、延享元年(1744)、大雅22歳の時と制作時期が明かな作品です。天才登場と言わしめる片鱗が出ています。この図の上方に「渭城柳色」と隷書体の墨書が合装されています。そこには、唐の詩人王維の詠じた有名な送別詩「送元二使安西」のイメージが重ねられているのです。越後の画家・五十嵐浚明が帰郷する際に、大雅が餞別としてこの書画を贈ったといいます。図録には、大雅が中国の画譜から表現を学んでいる点を分析し解説してあります。 これはと思う作品例のどれかはやはり特別展覧への誘いとして、関連媒体に開示されています。この右の通期展示『風雨起龍図』(紙本墨画淡彩、一幅)は、大雅24歳の作だとか。中国絵画の画法を学ぶ途次とはいえ、大雅の描くという創作意欲がストレートに感じられます。24歳、この頃自分は何をしていたか・・・・、ウ~ン! 一方、左の絵は「指墨画」の一例です。『寒山拾得図』(紙本墨画、一幅)。前期展示だけ。20歳代後半に、大雅が筆の代わりに指を用いて絵を描く「指墨画」を数多く制作しているそうです。この絵が指墨画だという証拠として、頭髪を描く部分に指紋の跡を意図的にくきりと残しているのです。ぜひ会場でご確認ください。PRチラシを見てから行くと効率的です。館内にもPRチラシが置かれていました。いくつかの展示作品を眺めていて、これが指墨画だといわれなければ、筆で描いたと思うばかりです。逆にいえば、指と手、指先、爪先などをどのように使ってこれを描いたのか・・・・私のような素人には、わかりません。それほど自在に描かれています。ここは前期・後期の展示替えが多いので作品名は挙げません。 平成知新館でまずこの博物館だよりを入手されることをお奨めします。今回の展示の企画意図を簡潔に説明し、代表的作品例を載せてあるのですから。この表紙は、5月2日からの後期展示予定の国宝『楼閣山水図屏風』です。前期展示を鑑賞しましたので、図録やチラシ類で眺めています。現物を見られなかったのが、残念! 平成知新館を出ると、ウエルカムの案内パネルの裏側には、秋の特別展の案内メッセージが掲示されています。さて、そこで・・・・・・。今回、野呂介石筆『池大雅居室図』や伝月峰筆『大雅堂旧居図』、伝月峰筆『大雅・玉瀾旧居図』が展示されています。大雅堂がどのあたりにあったかは、碑の存在で知っていました。そこで序でに退館、行ってみました。 池大雅・玉瀾の住居のあった所は円山音楽堂の南側あたりになります。左が円山音楽堂の標識。右が建立碑です。南北で言えば、円山公園と高台寺との間になります。 神宮道の南端部の東側になります。道路を挟み西側には「大雲院」の山門が東面しています。 もう一つは、大雲院境内地の南東隅が凹地になっていて、築地塀の外側に「円山地蔵尊」が立っています。八坂の塔の方から北に「ねねの道」を北上して行くときは、突き当たりで右折すれば、すぐ先にこのお地蔵様が左側の角に見えます。 道路から石碑を正面に。 「大雅堂旧址」と刻された石碑が建立されています。この碑は大雅の死後、その門弟達によって建てられたものだそうです。 その南隣りに「和光同塵」としるされた石碑も建立されています。 池大雅の墓は、西陣の「浄光寺」にあります。 こちらが池大雅の墓です。安永5年(1776)4月13日、54歳で没し、遺言により菱屋家の菩提寺である浄光寺に葬られたのです。 大雅15歳の時に、父嘉左衛門が亡くなったのですが、大雅の父は西陣で扇商菱屋を営み、京都銀座の下役をつとめたといいます。玉瀾は大雅没後、8年を経て天明4年(1784)9月28日57歳で没します。墓は母百合女とともに、洛東黒谷墓地にあるそうです。(資料6) 黒谷とは金戒光明寺(左京区黒谷町)を意味します。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『カラー版 西洋美術史』 監修=高階秀爾 美術出版社 p149-1512) 図録『特別展 池大雅 天衣無縫の旅の作家』 京都国立博物館3) 図録『特別展覧会 没後200年 若冲』 京都国立博物館4) 江戸時代の金一両は今のお金のいくらぐらいに相当するか?:「日本銀行高知支店」5) 京都国立博物館だより 2018年4・5・6号 京都国立博物館発行6) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p210-211補遺池大雅 『近世畸人伝』より :「日文研データベース」 本文と掲載の図版をみられます。大雅・玉瀾合奏の図です。屏風の豆知識 :「本間美術館」池大雅 :「e國寶」 作品5点の画像を見ることができます。池玉瀾 :「コトバンク」池玉瀾 大雅亡き後に求めた独自性 ヒロインは強し(木内昇):「WOMAN SMART」蘭亭 :「コトバンク」蘭亭序拓本 :「藤田美術館」蘭亭曲水図-狩野山雪から浦上春琴へ- 中谷伸生氏 論文 :「関西大学学術リポジトリ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 特別展 池大雅 -1 案内板・PRチラシ・図録とともに へ探訪 京都・洛中 千本釈迦堂周辺を歩く -2 千本えんま堂(引接寺)・浄光寺(池大雅墓所) 3回のシリーズでご紹介したうちの2回目に、浄光寺をご紹介しています。 こちらもご覧いただけるとうれしいです。
2018.04.23
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これは七条通に面して、受付所の横にある特別展「池大雅」の案内板です。 この掲示に、いくつかの情報が盛り込まれています。池大雅が文人画家と称され、書と南画に才能を発揮した人ということは知っていました。平成10年(1998)秋に、京都文化博物館開館十周年記念特別展「京(みやこ)の絵師は百花繚乱」が開催されました。「『平安人物志』にみる江戸時代の京都画壇」という副題が付いていました。鑑賞した後で購入した図録があります。この時の企画は京の絵師の作品をオンパレードで展示するというまさに百花繚乱の作品展示でした。改めて手許の図録を開いてみますと、この時に展示されていた池大雅の作品は3点、池大雅と池玉瀾の共作が1点、池玉瀾の作品が1点でした。この時の展示作品と今回の展示期間中との関連を調べてみました。次の通りです。 薫石図 掛幅・一幅 紙本墨画 No.77 後期 高士訪隠図 屏風・六曲一双 No.67 前期 重要文化財 この作品、1998年時点では重文の表記なし 柳下童子図 屏風・八曲一双 重要文化財 N0.150 通期 山水図 掛幅・二幅 紙本墨画淡彩 大雅と玉瀾が各一幅描く 展示なし 山水図 扇・一柄 紙本墨画 池玉瀾筆 展示なし今回は、前期・後期の展示替え予定を前提で、会場で入手した一覧表には総数162点が列挙されています。それでも、他にまだまだ池大雅の作品があるということでしょう。しかし、この案内板に「85年ぶりの大回顧展」と明記しています。普段はそれほど池大雅の作品に数多く接する機会はないということです。私自身も上掲の記念特別展の時を除くと、京博の通常展示でいくつか見た位です。かつては「池大雅美術館」という私設美術館がありましたが、2014年に閉館となり、京都府に作品が寄贈されたそうです。今回の出展一覧や図録には、所蔵者が「京都府(池大雅美術館コレクション)」と表記されています。そういう意味では、今回の特別展は得がたい機会になるかもしれません。もう一点、今回の特別展では、池玉瀾という画家名称の表記ではなく、旧姓により「徳山玉瀾」と表記されていることに気づきました。なぜなのでしょうか。さらに、今回知って驚いたのは池大雅が日本各地を訪れている「旅の画家」でもあったことです。「天衣無縫の旅の画家」というキャッチフレーズが使われています。 これは今なら観光案内所や駅、デパートなどで入手できるPRチラシです。 このチラシにその一例の絵が載っています。切り出して引用します。「浅間山真景図」と題する紙本墨画淡彩の一幅です。実際に浅間山に登ってスケッチした経験を基に制作したと考えられているそうです。右前景に浅間山を大きく描き、雲海の間から見える麓を描くとともに、浅間山から望む富士山や筑波を雲海の先に描いています。これは会場では第5章「旅する画家-日本の風景を描く」というセクションに展示されています。「山岳紀行図屏風」が通期で出展されています。これは宝暦10年(1760)38歳の大雅が、友人の高芙容・韓天寿とともに白山・立山・富士山を踏破したときの記録を屏風に貼付したものです。登山し実見した山の姿を墨画で記録し、読めませんが細かなメモ書きをしているのです。文人画家という勝手な思い込みから、大雅がそんな行動力を持つ画家だったことにおどろかされました。この山岳紀行の中に、浅間山に登った際のスケッチも含まれているそうです。立山連峰や妙高山のスケッチははっきりと確認できました。 上掲案内板に開催期間を記載した円の中にちょっとマンガチックな人物図が載っています。わざわざ案内板の中にこのための絵を描くことはないだろう。どんな絵から抽出したのだろうか、と思っていました。この人物は、三熊思孝が描いた池大雅像なのです。顔の周囲に紐が見えるのは、萎烏帽子らしきものを被って顎のところで結んでいるようです。この顔をみていると、大雅はどこかとぼけたような剽軽なところがあった人物のような印象を受けます。これは、大雅・涌蓮・売茶翁の3人をそれぞれ描いた三幅対の中にあります。この3人は寛政2年(1790)に出版された伴藁蹊著『近世畸人伝』に登場しています。(資料1)そして、この七条通に面して掲げられた案内板に使われている絵は、通期で展示されている重要文化財の「洞庭赤壁図巻」に描かれた絵の左半分くらいになります。中国の名勝地である洞庭湖と赤壁を一望のもとに俯瞰的に描いたもので、明和8年(1771)、大雅49歳のときの作品(絹本着色)だとか。脇道に逸れます。手許にある少し詳しい日本史の学習参考書を参照してみました。江戸時代の「化政文化」の説明の中に、「化政美術」の見出しがあります。喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川(安藤)広重などの浮世絵師の名前を列挙し、少し説明した後に、次のような文章で説明があります。「従来からの絵画では、狩野派・土佐派が行き詰まりをみせたが、18世紀半ば以降に明・清の南画の影響を受けた文人画(南画)と呼ばれる画風がおこり、池大雅(1723~76)と与謝蕪村の合作『十便十宜図』が代表作である。この画風は化政期以降、江戸の谷文晁(1763~1840)、その門人で豊後の田能村竹田(1777~1835)、渡辺崋山が出て全盛期を迎えた」と説明しています。(資料2)高校用日本史学習参考書の比較的詳しいものでも、通史レベルで池大雅の事を学ぶのは、文人画(南画)の代表画家という知識だけです。その画風を如何に学んだのかなど皆目分かりません。そこまでは知る必要がないのかも・・・・・。今回、その部分がこの大回顧展で理解できました。第2章「中国絵画、画譜に学ぶ」というセクションがあり、その種あかしがされていたのです。才能豊かな池大雅は、若き日に中国から伝来した『芥子園画伝』、『八種画譜』などの中国の画譜類から画法を学んだそうです。これらの書物が展示されています。いわば絵手本としての基本絵の事例掲載ばかりでなく絵画技法や画論にも触れているこれら画学書から新風の画法を見て学んだのです。勿論、同時に当時の中国の画家が描いた掛幅なども数多く輸入されてきていて、それらを見て学ぶということだったのでしょう。中国・清時代(17~18世紀)の李珩(りこう)筆「腕底煙霞帖」(1帖)が展示されています。山岳や崖、樹木の表現などの描法を学び取り、かつ中国の風景というもののイメージを形成していったのでしょう。さらに様々な中国の詩や書物が伝える風景・風土の記述が、中国の風景を描く上でイメージの肉づけとして活用されて行ったのだろうと想像します。この「洞庭赤壁図巻」もそんな経緯を経た作品なのでしょう。図録を読むと、大雅はこの作品を制作するにあたり、揚爾曾編『新鐫海内奇観』(万暦37年・1609刊)を参照していたことや、湖面の水紋を描くために大雅が琵琶湖へ何度もでかけたゆたう水の様子を観察しその成果を取り入れていたというようなことが解説されています。(資料1) 案内板から部分図を切り出してみました。この部分図からでも、俯瞰的にとらえた山水景であることがわかります。大雅は「金碧青緑山水の画法によって描いている」そうです。明和8年(1771)、大雅49歳の頃の作品で、晩年の代表作の一つになるとか。(資料1) 入場券の半券 当日購入した図録の表紙と裏表紙です。これらは同じ屏風絵の部分図が使われています。 上掲のチラシから全体図を引用すると、六曲一隻の屏風絵だということがわかるでしょう。これも重要文化財に指定されています。『瀟湘勝概図屏風』です。中国湖南省にある洞庭湖周辺の有名な「瀟湘八景」を主題とした作品です。浮世絵に描かれて有名な「近江八景」も、そのもとはこの「瀟湘八景」にあり、それになぞらえて琵琶湖周辺の名勝地をあてはめたものです。瀟湘八景とは、遠浦帰帆・瀟湘夜雨・漁村夕照・洞庭秋月・平沙落雁・山市晴嵐・煙雨晩鐘・江天暮雪の八景です。どの箇所にどの景色を組み込んでいるか、実物を前に考えてみるのもよいかもしれません。19日は、まだ始まったばかりで、平日の午後でもあったので静かにゆっくりと展示会場を見て回ることができました。大雅は淡彩による点描表現を巧みに駆使して明るい雰囲気に溢れた瀟湘八景を描き込んでいます。この作品は、第7章「天才、本領発揮-大雅芸術の完成」という最後のセクションで通期展示されます。上記の引用文にある『十便十宜図』は国宝です。最後のセクションに通期で展示されるのですが、場面替えが行われるそうです。現在この作品は川端康成記念會が所蔵されているものだとか。十便図を大雅、十宜図を蕪村が担当して、各一帖の画帖にした作品です。明末清初の時期を生きた李漁という劇作家として知られた人が詠んだ「伊園十便十二宜詩」(実際は十宜詩)を題材にしたものといいます。李漁は別荘伊園での生活の便利さを詩に詠んだのです。(資料1)私が鑑賞した折は、記憶が正しければ、大雅筆「課農便」、蕪村筆「宜夏」だったと思います。つづく参照資料1) 図録『特別展 池大雅 天衣無縫の旅の作家』2) 『詳説 日本史研究』 五味文彦・高埜利彦・鳥海靖 編 山川出版社 p302補遺池大雅 :「京都大学電子図書館 貴重資料画像」池大雅 :ウィキペディア池大雅 :「コトバンク」芥子園画伝 :「コトバンク」瀟湘八景 :ウィキペディア瀟湘八景 :「e國寶」瀟湘八景図を楽しむ :「京都国立博物館」瀟湘八景 :「Bai du 百科」瀟湘八景図 雪舟画 :「古典籍総合データベース」琵琶湖八景・近江八景 :「滋賀県」近江八景 :ウィキペディア李漁 :ウィキペディア李漁 :「コトバンク」李漁『十便十宜』詩・注解 :「漢文の小窓」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都国立博物館 特別展 池大雅 -2 点描画法と指墨画の妙 へ
2018.04.22
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かつては京都市内に住み、今は宇治市に住んでいて、頻繁に三条周辺には出向くものの、三条大橋の雪景色を撮ったことがありません。これはフリー画像を見つけましたのでまずご紹介しておきます。(資料1)さて、現在の三条大橋を細見し、広重の『東海道五十三次』の絵や、『都名所図会』に掲載の挿絵を既にご紹介しています。一方、狩野永徳筆『洛中洛外図』に三条大橋が描かれていないことにも触れました。そこから三条大橋が過去にどのような姿で描かれているか、あるは写真に撮られているかに興味を持ち、少し調べて見ました。以下は過去の三条大橋の姿、イメージということになります。部分拡大図あるいは挿絵の引用によりまとめてみたいと思います。 これは、平成27年(2015)3月に京都文化博物館で鑑賞した特別展の図録の表紙です(資料2)。様々な洛中洛外図に京都がどのように描かれているかを知り味わうという企画展でした。永徳が描いていない三条橋(大橋)が、描き込まれているかどうかが今回の私の関心事です。ここで、大きな違いは永徳が描き、信長が謙信に贈った洛中洛外図屏風の後の天正18年に石柱橋が建造されていることです。秀吉の時代以降、江戸時代にかけて数多く描かれた洛中洛外図屏風(以下、屏風と略す)に、天正の石柱橋あるいはその後の修復、立て替えなどが繰り返し行われて行った三条大橋が描かれているかの探査になります。改めて手許の図録を三条橋の描写の有無に絞って眺めて行くと、やはり描き込まれているものがありました。 桃山~江戸時代前期の作とされるこの屏風(堺市博物館蔵)です。橋の南側に大きく塚が描かれています。これが「秀次悪逆塚」と呼ばれた塚です。たなびく金雲の西側に大きなお寺が描かれていますので、位置から考えて「誓願寺」とわかります。そこから判断してこれが三条橋です。東詰の両端の柱に擬宝珠らしいものが描かれていますが、橋上の高欄は描かれていません。『都名所図会』を読みますと、「文禄年中に秀次公、太閤秀吉公に対して逆心の企あるよし。故に紀州高野山に入って自殺す。首を取って三条河原に梟(か)け、また三十余人の妾婦並びに稚子共、この所に於いて断罪して同穴に埋む。」(資料3)と記しています。逆心の企てというのが当時、秀吉が喧伝し通説になっていたのでしょう。ここに塚が築かれたのです。そして、塚の頂上に秀次の首を納めた「石びつ」を据えてあったといいます。秀次が高野山で切腹したのが文禄4年7月15日、一族の処刑が同年8月2日の昼下がりだったとか。後に、高瀬川の開削工事をしていたときにその塚が荒廃しているのを見た角倉了以が供養のための寺と六角型宝塔の墓石の建立を行ったのです。それが慶長16年(1611)。その寺が「瑞泉寺」です。「寺伝によればこの塚の位置に現在の本堂は建てられたとされています」(資料4)。瑞泉寺門前には、角倉了以の開削した運河・高瀬川が流れています。 この屏風(尼崎市教育委員会蔵)には南西側から塚と三条橋が描かれています。三条橋の東詰の柱にだけ擬宝珠が見えます。大部分が金雲で隠れています。橋と塚には判読できないのですが名称が明記されています。 近年確認されたというこの屏風も、江戸前期のものといいます。ここには誓願寺が大きく描かれていますが、背後を金雲で最早秀次の塚は描かれていません。瑞泉寺建立後に描かれた屏風なのかも知れません。西詰北側の擬宝珠が描き込まれています。 江戸時代前期の原本からの屏風模本(東京藝術大学大学美術館蔵)とされるこの図には、「誓願寺」が平かなで明記されています。左斜め上の橋に「三条橋」と明記してあります。 こちらは、江戸前期~中期のもので、大和絵師・住吉具慶(1631~1705)が手掛けた作だと落款から判明している屏風です。半ば金雲で覆われていますが、こちらは金雲のところに「三条大橋」と明記されています。四文字の連なりから推測できます。東詰北側の柱に擬宝珠が描かれています。 こちらも江戸時代前期~中期の作で歴博F本と称される屏風(国立歴史民族博物館蔵)です。これは上掲の具慶作屏風と強い影響関係があるとされる作品です。 こちらは江戸時代中期の屏風(柳谷観音楊谷寺蔵)です。有名寺社建造物にピンポイントを絞って描き出されている屏風です。三条大橋に関してはこの屏風がほぼ全景を描き、描く数は省略していますが両高欄の擬宝珠もちゃんと描き込んでいます。橋脚も石柱であるという雰囲気がよくうかがえます。 これは横山華山(1781~1837)が原画を描き、紙本色摺で版行された京都鳥瞰図です。この「花洛一覧図」(国立歴史民俗博物館蔵)は文化5年(1808)の初版が出されたものです。道をかなり弧状に描いていますが、三条大橋は橋脚の数や擬宝珠も含めて、かなりリアルに描いている感じを受けます。注目すべきは、四条河原が大きく描かれている点です。川中に広い州が形成され、河原に建物が描かれています。河原が興行の場になったり、夏には納涼床が賑わったということが連想できる絵でもあります。これを見ると、江戸時代の洛中洛外図に三条橋と五条橋が大きな橋、四条橋が簡易な橋で描かれていることをナルホドと思います。川中の広い中州に渡る橋を各岸との間に架けておけば十分だったということなのでしょう。 寛政9年(1797)に出版された『伊勢参宮名所図会』に載る三条大橋これは、興味深いことを描き込んでくれています。(資料5)東海道は、滋賀の大津から逢坂山を越えて三条大橋へと往来します。この幹線道路は京の都に東国諸国から物資を搬入する重要な街道でもありました。牛車に荷物を積んで運搬しやすいように、その通り道は石が敷設されたのです。雨天荒天に道路がぬかるみ重量物の運搬に困難を起こさない工夫がなされたのです。それが轍の跡が深く凹んだ「車石」として各所で保存されいます。その牛車が三条大橋まで来ると、三条橋の傍の川中を渡って洛中に入るという通路ができていたということをこの絵が明らかにしています。一方、洛中洛外図の三条橋には、荷駄を積んだ馬、人を乗せた馬が、橋を渡るところを描き込んでいます。このあたり、興味深いところです。明治時代に入ると、ほぼ同時期に類似の京都案内ガイドが各種出版されるようになります。「国立国会図書館デジタルコレクション」を検索しますと、その状況が理解できます。京都の名所案内の一つとして「三条大橋」自体を『都名所図会』と同様に、紹介しています。それがどのように描かれているかを抽出して出版された時系列で引用し、ご紹介します。調べた範囲で最初期のものがこれです。 『京都名所案内記』横井達之輔編 明治20年1月出版。(資料6)そして、同種の出版形式でエッチング風の様々な立ち位置から描かれた三条大橋の挿絵が見られます。どの位置から描いたものかを考えてみるのもおもしろいものです。 『京都名所案内図会』和1冊(上)石田旭山編[他] 明治20年6月出版。(資料7) 『京都名所圖會 上』 淺井広信著 明治26年9月出版 (資料8) 『京都名所圖會 上』 清水晋之助著 明治28年2月出版 (資料9) 『京都名所案内 上』 岩崎喜助著 明治28年3月出版 (資料10) 『京都名所案内』 青木恒三郎著 明治28年4月出版 (資料11) 『京都名所案内』 片岡賢三編 明治32年1月出版 (資料12)明治40年に入ると、写真が掲載されるようになります。 これです。『京都名所帖』というタイトルで、京都市参事会というところが明治40年6月に出版しているのです。写真が登場すると、現在との対比が明確にできますね。この景色は、三条大橋西詰北側、現在スターバックスの店が入っているあたりに当時建っていた建物の上部あたりから撮られたものでしょうか。東岸に沿って建物が櫛比している景色が見えます。昭和3年(1928)には、京都府が『京都名所』を出版しています。 上掲の明治の諸出版書はいずれもほぼ類似の説明文で、この名所案内文の最初の部分の紹介と同趣旨が主です。三条大橋が「長63間幅4間5寸」という橋の規模説明、擬宝珠の刻銘に触れるというところです。本書で、明治以降の経緯がわかります。 明治14年に一度改造、明治27年に修築 大正元年(1912)10月 木造長55間幅9間に造築し、擬宝珠は今までの通り継承 ⇒明治45年3月に三条通の幅を拡張する都市計画の実施に対応このページに掲載の写真を見ると、天正の三条橋に使われた石柱が写っていますので、大正元年時点での造築の際に、石柱を使った橋脚が撤去されて一部、現在の位置に保存されたと推測できます。そして、川端通の東に御所の方向を向かった高山彦九郎像が設置されていますが、高山彦九郎は当時の三条大橋の上から、御所の方向に向かって拝跪したのだという事実もわかります。最後に、ウィキペディアから画像を引用します。(資料15) この写真が何時撮られたものかの明示はありません。しかし、明治40年の京都市参事会による出版時点の写真と比較して、橋の幅が拡幅されていること。鴨川東岸沿いに走る電車と線路が写っている一方、東岸沿いに二葉の写真には同一屋根と判断できる建物が写っていることなどから、いくつかのことが分かります。琵琶湖疏水は、第一疏水が「明治23年3月に大津から鴨川合流点まで完成し,そこから伏見までは明治25年11月に着工し,明治27年9月に完成したのです。」(資料16)ということなので、明治40年の写真は鴨川運河が既にできている後の景色です。さらに三条大橋の幅が倍加していることで、まず大正元年以降の写真だということがわかります。京阪電車は、大正4年(1915)10月に五条駅-三条駅間が開通しました。(資料17)この写真には京阪電車が地上を走っていてかつ三条駅の駅構内の整備は今後という様子ですから、大正時代の前半くらいに撮られたものに思えます。かつての三条駅が疏水の上に拡張してつくられた写真や、鴨川と疏水の間を京阪電車が走る写真が公開されています。ページの末尾です。こちらから御覧ください。(「京阪電車」)因みに、東福寺-三条駅間の地下化工事が完成したのは昭和62年(1987)5月です。(資料17)その後に疏水が暗渠化され、京阪電車の地上線跡地と合わせて、現在の幹線道路・川端通が整備されました。現在の三条大橋の東は、鴨川沿いの「花の回廊」(散策路)と川端通を越えたその東側に建物が道路沿いに続くという景観です。三条大橋の姿は、鴨川の洪水、琵琶湖疏水(鴨川運河)、河川整備などの関連で変遷・変化してきたようです。一方で、天正期の橋の姿をどこまで維持できるのか? これからも三条大橋は新たに変化していくのかもしれません。 追補 四条大橋上から撮った三条大橋の全景 2018.4.19 撮影ご一読ありがとうございます。参照資料1) 鴨川の雪景色 三条大橋 :「京都の無料写真素材」2) 『特別展 京を描く -洛中洛外図の時代-』 京都文化博物館 2015.3.1発行3) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫4) 瑞泉寺の由来 :「瑞泉寺」5) 伊勢参宮名所図会 巻之1 :「古典籍総合データベース」 6)~14)は「国立国会図書館デジタルコレクション」より6) 京都名所案内記 横井達之輔編 明20.1 8/55コマ7) 京都名所案内図会 和1冊(上)明20.6 15/91コマ8) 京都名所図会、上 淺井広信著 明26.9 39/43コマ9) 京都名所図会、上 清水晋之助著 明28.2 8/33コマ10) 京都名所案内 上 岩崎喜助著 明28.3 16/51コマ11) 京都名所案内 青木恒三郎著 明28.4 16/40コマ12) 京都名所案内 片岡賢三著 明32.1 16/38コマ13) 京都名所帖 京都参事会 明40.6 20/41コマ14) 京都名所 京都府 昭3 82/301コマ15) 三条駅(京都府) :ウィキペディア File:三条大橋 :WIKIMEDIA COMMONS16) 第2章 第一疏水 :「京都市上下水道局」17) 沿革 :「京阪ホールディングス」補遺京都・三条大橋界隈 :「懐かしの風景・町並みアーカイブス」京阪沿線の名橋を渡る 三条大橋 若一光司 :「KEIHAN」珍しい洛中洛外図を寄贈 尼崎市民から :「歴史~飛耳長目~」《『洛中洛外図屏風』文献目録》 :「東京大学史料編纂所」昭和10年京都大水害 :「京都市消防局」高度経済成長期頃の鴨川周辺の様子を巡る“その1”(第234号) :「京都府」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2) へ
2018.04.17
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三条大橋上から川下(南方向)の景色 こちらは、橋上の北側歩道より眺めた川上の景色。青空でないのが残念! 北側の欄干。東からの眺め 南側の欄干。西から見た景色現在の三条大橋は基礎の構造体は鉄筋コンクリートの現代建築工法ですが、高欄のある橋部分は豊臣秀吉が命じて建造された石柱上の木造橋を模して造られました。昭和の架け替え工事の後、歳月が経ち、現在この木製の高欄を間近で眺めますとかなり損傷が進んで来ています。1950年に橋が取り替えられた後に、ヒノキ造りの欄干は1973年に再度取り替えられているのです。それでも傷みがかなり出て来ているという次第です。2017年5月の新聞報道によると、欄干を取り換えるだけでも3億円超の費用がかかり、歩道の整備なども含めると4億円程度が必要と見積もられていると言います。観光都市京都にとっては、頭の痛くなる課題になってきているようです。(資料1)今回、三条大橋東詰南側にある東端の擬宝珠の刻銘をまずさらりと見た後は、まず一旦時計回りの方向で擬宝珠に着目して刻銘のある部分を写真に撮って回りました。擬宝珠をクローズアップしていますので、背景の景色はわずかに位置関係が想像できる程度に垣間見えるだけです。その点は、大橋細見という主旨でご理解ください。 これが南側高欄の東から2つめの擬宝珠です。この擬宝珠、昭和に新造されたものであることが、刻銘からわかります。次の銘文が刻まれています。「三條大橋は明治45年三條通拡張のとき幅員を倍加して14.5米に、橋長は101米に、橋脚はコンクリート造としたが、橋面は従来の風格をもつ木造橋であった たまたま昭和10年6月月の洪水にあい橋の一部と擬宝珠1個を流失、この水害に鑑み加茂川を改修し、河底を深くしたので、天正以来の敷石、礎石は取り除かれた、重ねて今回の橋の修築に際し、橋を鴨川と疏水の二部に分け、橋長は鴨川部74.03米、疏水部16.97米、幅員はいづれも15.5米とし、端免構造コンクリート床板としてかけかえ、この擬宝珠を新に追補した 昭和25年1月 京都市長 神戸正雄」(刻銘転記) 「米」はメートルを意味します。この銘文から現在の三條大橋の橋長が74mとなった理由が理解できます。私の記憶の中でやっと全体の繋がりが見えてきました。かつて、この三条のところまで、鴨川の東側に疏水が流れその疏水に沿って京阪電車が地上路線として走っていました。1987年に京阪電車の東福寺駅から三条駅までが地下化されることになりました。そこで、地上線の跡地ができます。この跡地と疏水を暗渠化することで、鴨川沿いに生み出された用地が道路に転用されて、川端通が創生されたのです。その後、京阪電車は三条から北の出町柳まで鴨川沿いに地下鉄路線を鴨東線として延ばしました。その結果、京阪電車で出町柳まで行き、京福電鉄の路線に乗り換えて、比叡山や鞍馬山、岩倉方面に行く事が便利になりました。川端通は宝ヶ池駅付近で白川通と合流する地点まで延伸されて行きます。川端通が南北の幹線道路となって行ったのです。結果的に疏水の暗渠化でその部分の橋が撤去され道路面になったということになります。この変遷をいままで意識しませんでした。(資料2) 東端から3,4番目のこれら擬宝珠は部分拡大で撮っていた刻銘を読むと、前回ご紹介した天正の刻銘と同じです。 東から4番目、西詰から数えると2つめには、擬宝珠に斜めの鋭利な凹み傷が付いています。「三条大橋擬宝珠刀傷跡」と称されているものです。西詰南側に三条小橋商店街振興組合が設けられた駒札が立っています。「これは池田屋騒動のときについたのではないかといわれており、現在でもはっきり見て取れる刀傷です」と説明しています。 これが西詰の擬宝珠です。この刻銘も天正のもの。 西詰は、高欄が屈曲して南側に少し伸びて欄干の先にもう1本の宝珠柱があります。これがその擬宝珠でこれには刻銘がありません。東詰にはこれに相当する擬宝珠が存在しないのは、上記の疏水部の暗渠化、橋の撤廃の結果ということでしょう。こちらの擬宝珠の先に、小振りな「弥次さん・喜多さん像」が建立されています。 西詰南側の西端擬宝珠の先は、道路脇がこんなコーナーになっています。桜の木の下に、弥次喜多像が立ってます。その手前に茶色い石が見えます。「撫(な)で石」と称されている石です。この石、鞍馬産出の鞍馬石で、酸化鉄を含有しているために鉄錆色なのだとか。この石を撫でて旅の安全祈願をするとよいそうです。「無事に還り来たる」の信仰で知られる還来神社にならって置かれているといいます。(資料3)調べて見ると、還来(もどろき)神社は、右京区にある西院春日神社の境内にある小さな神社で、祭神は淳和天皇皇后正子内親王だそうです。「もどろき(還来)」は、「九死に一生を得た皇太后が無事もとのところへ戻られた、ということからつけられた」のだとか。(資料4,5)尚、同名の神社が滋賀県大津市にもあり、こちらが元なのかもしれません。補遺に取り上げておきます。 それでは西詰北側に回ります。前回ご紹介した天正の刻銘入り石柱がある場所です。こちらも橋から曲折した欄干の西端には刻銘のない擬宝珠の付いた宝珠柱が石柱のすぐ傍にあります。橋の本来の欄干西端がこちらの擬宝珠。天正の刻銘文です。この石柱が置かれた傍、現在のスターバックス店の入っている近江屋ビル前の広場には、江戸時代に「高札場」が設けられていたところです。幕府が決めた法度(はっと)や掟書(おきてがき)などが駒札形の木札に記されて高く掲げられていたのです(駒札より)。余談ですが、奈良の三条通を興福寺の方向に進んでいくと、奈良県里程元標が立つ傍に、高札場が復元・保存されています。 その続きに見ていった擬宝珠はすべて天正の刻銘文が読めます。そして、北側の東端擬宝珠、前回ご紹介した駒札傍に帰着します。そこで、今度はもう一度橋を西に渡り、鴨川の西岸を観察しましょう。 これらは、三条大橋西詰の石垣です。前回ご紹介した東岸の石垣とは明らかに違います。一番上は西詰北側。橋上から見たスターバックスの店がある傍の石垣側面です。その次は、河原に降りて正面まで行き撮ったものです。下2枚は西詰南側の石垣全景と、橋下に近付いた石垣部分。これらは少なくとも、江戸時代以前に建造されたた護岸壁ではないかと推測します。 西詰南側の弥次喜多像から南になだらかな道を少し下ります。お地蔵様を祀る小祠が2つあります。 その先に、鴨川の西岸に出られる坂道ができています。今は階段では無くL字形の坂道になっています。曲がる手前の所で石垣側を見ると、 これらの石仏が祀られています。北側の石像は頭部が欠損しているようでした。 鴨川の西岸には、『都名所図会』の三条大橋図には存在しない小川が流れています。鴨川本流の分流という位置づけで「みそそぎ川」と称されています。「みそそぎ川」(禊川)とは、鴨川で禊(みそぎ)が行われていたことに由来する別称だったそうです。鴨川は幾度も氾濫して大きな被害を出してきていますが、「昭和10年(1935)大洪水」で大きな被害が発生したために、1936~1947年にかけて、大規模な鴨川河川改修工事が「千年の治水」として行われたそうです。このときの改修工事の一環として、この全長2kmほどの人工水路「みそそぎ川」が生まれたといいます。みそそぎ川は賀茂大橋下流西岸で鴨川から取水され、二条大橋下流で高瀬川と分流し、みそそぎ川は鴨川本流沿いに三条、四条を南流して、五条大橋の手前で再び鴨川に合流しています。(資料6)脇道に逸れますが、調べていてこの「みそそぎ川」の起点となる水流の取り込み口の流れのしくみを説明した図を見つけました。こちらからご覧ください。(資料7) 鴨川西岸の下流方向の「みそそぎ川」を眺めた景色 西岸で、三条大橋の下をくぐり、北側に出て、川上側(北)の「みそそぎ川」を眺めた景色このみそそぎ川の上に、夏には納涼床が張り出され、京の夏の風物詩となります。今では数カ所、年中川床上に張り出したテラスを設けているお店も見かけます。この北方向よりも三条大橋から南の四条大橋にかけての方に軒並み納涼床が設けられ一番華やかな風情が漂います。西岸から東を眺めた景色。正面に見えるのは東岸へ下る石段の側面の石垣です。 橋脚部には、心ない輩の落書きが・・・・・・。鴨川河岸の風情を壊しますね。 大橋西詰で南に入り西岸に出る坂道を、北側から見るとこんな景色です。 西岸で、北方向に三条大橋を眺めた景色暖かくなってきましたので、夕刻に近づくと特に四条から三条にかけてのこの西の河原には、人々が座り込み会話を楽しむ風景が恒例になってきます。見事にほぼ等間隔にカップルが並んでいる景色が現出します。 三条河原に集う小鳥たちの姿を眺めて、三条大橋細見を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 三条大橋、木製欄干ぼろぼろ 京都市に苦情 2017.5.11 :「京都新聞」2) 川端通 :ウィキペディア3) 弥次喜多像と撫で石で旅行安全祈願。 :「京都観光地への旅」4) 還来神社 :「京の伝説散歩路」5) 西院還来神社(西院の還来さん) :「京都観光Navi」6) みそそぎ川(京都市中京区) :「京都風光」7) 位置図拡大 みそそぎ川の流れの仕組み :「京都府」 みそそぎ川に流れる水は何処から?(第38号) :「京都府」補遺還来神社 大津市伊香立途中町 :「大津の歴史データベース」(102)還来神社(大津市) :「ふるさと昔語り」(京都新聞)鴨川真発見記<37から42> :「京都府」鴨川真発見記<バックナンバー一覧> :「京都府」京の風物詩 鴨川納涼床への誘い ホームページ京の夏 納涼床 :「京都観光Navi」京の七夕 鴨川会場 :「京の七夕」【奈良縣里程元標・御高札場】復元された「奈良県独立の証」と「御触書」 :「奈良まちあるき風景紀行」御高札場復元の経緯 :「Monumento」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (1) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (3) 描かれた姿・撮られた姿 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 諸物細見 -1 西本願寺阿弥陀堂門 へ観照 諸物細見 -2 西本願寺 御影堂前の銅造灯籠 へ観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜
2018.04.15
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この景色は三条大橋東詰南側から撮ったものです。(2018年4月時点)京都の鴨川に架かる三条大橋は、江戸時代には東海道五十三次の終点でした。 これは良く知られた歌川広重が描いた「三条大橋」です。江戸の日本橋を振り出しに、「東海道五拾三次大尾 京師」にやっと着いた!・・・・つまり、京都が終点で上がり(大尾)ということでしょう。ウィキペディアから引用しました。(資料1)実際の幹線道路としては、この三条を経由して当時の大坂までの街道が利用されたようですが。もう、数え切れないほどこの三条大橋を往来してきているのですが、単に通過点として通り過ぎるだけで、じっくりとこの橋と周辺を観察したことがありません。一度はトライしてみようと思っていたのです。そこで、三条大橋細見という視点で、ちょっとマニアックな紹介をいたします。御用とお急ぎでない方はお付き合いください。現在の三条大橋と広重描く三条大橋。今や高いビル群が洛中の景観を遮っていて、それに慣れっこになっていて普段は意識しません。しかし広重の絵を見ると、かつては北西に連なる山並みがスッキリと三条大橋に辿り着くと見えたのでしょう。船岡山(これは眺められたのか、無理だったか?)の背景に、高尾山から愛宕山、北方向に鷹峯あたりが遠望できたのでしょうね。まさに京都盆地の景観を感じることができたのだろうと想像します。広重は寛政9年(1797)に生まれ、安政5年9月6日(1858.10.12)に没した浮世絵師です(資料2)。その広重誕生よりも17年早く『都名所図会』といういわば観光ガイドブックが安永9年(1780)に出版されています。 それには、既に三条大橋が見開き2ページで描かれています。こちらも引用します。(資料3)この頃には既に鴨川には護岸の石垣が築かれていて、大橋西詰の北側には、三条河原に降りるための階段があったことがわかります。その場所は今も構造は違うものの河原に降りられるようになっています。三条大橋の東詰から眺めていきましょう。 南側には、「花回廊」と刻された平成11年(1999)6月建立の石碑があります。丁度この前が、京阪電車の三条駅、地階からの南西側出入口になっています。 石碑の北側に、この銘板があります。平安建都1200年を契機に「京の川づくり」が着手され、その一環として鴨川東岸の三条から七条の間を「花の回廊」として京都府と京都市が一緒になって整備したのだそうです。この鴨川沿いの散策路に公募による俳句や短歌の碑が設置されることになったのです。花回廊の碑の前の小さな碑がその一例です。 歌碑 我が心きよめ流るる鴨川は優しき母のまなざしに似て 堀井由紀子 (右) 句碑 かもがわにどこからきたのゆりかもめ (左)判読できず。確認課題です。 東詰の北側の景色です。京阪電車三条駅北西側の出入口が対応しています。 出入口寄り、柳の樹下に「京の川づくり」の銘板が立っています。 南隣りに、京都市が「駅伝発祥の地」であり、この三条大橋が出発地点だということを示す記念碑があります。駅伝発祥100年記念として建立されたようです。「我が国、最初の駅伝は、 奠都50周年記念大博覧会『東海道駅伝徒歩競走』が大正6(1917)年4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは、東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。」(説明碑文転記) 大橋東詰北側に駒札が立っています。 駒札を部分拡大してみました。この駒札にある説明について、三条大橋を細見していくとその証拠が順次見つかってきます。そこで、一旦三条大橋を西詰北側に行って見ましょう。この傍にある建物には現在スターバックスというお店が営業しています。このお店を見慣れてしまったので、以前には何のお店だったか忘れてしまいました。 そのスタバ前から橋の欄干側を見ると、この石柱が立っています。 この円柱には、「天正十七年 津国御影」と陰刻されています。御影という文字の右側に「七月」、左側に「吉日」と刻されています。この刻銘から、この石材が現在の神戸市東灘区から切り出された花崗岩製であることがわかります。(傍の駒札より)これはこの三条大橋に使われていた石材の遺物です。脇道に逸れますが、京都国立博物館の西の庭の南西隅には、「津国御影天正十七年五月吉日」の刻銘があり、天正十七年(1589)、豊臣秀吉が鴨川に架けた五条大橋の橋脚、桁の石材が一部保存されています。また、刻銘「天正十七年津国御影七月吉日」入りで五条大橋と三条大橋に使われた石柱も保存されています。(資料4) 再び、東詰南側に戻ります。これは大橋の南側高欄の東端の宝珠柱です。 この擬宝珠を北側から観察しますと、刻銘が見えます。この刻銘の内容が上記の『都名所図会』に原文のまま引用されています。(資料5)「洛陽三条之橋、至後代化度往還人、盤石之礎入地五尋、切石之柱六十三本、蓋於日域石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初之御代、奉増田右衛門尉長盛造之」 洛陽三条の橋は後代に至るも往還人を化度し、盤石の礎は地に入ること五尋、切石の柱は六十五本なり。蓋(けだ)し日域に於いては石柱の濫觴なり。天正十八年正月日、豊臣初之御代に増田右衛門尉長盛奉じて之を造る。(京都・三条のこの橋は後の時代までも往来する人の助けとなる。非常に安定し揺るぎない基礎は地中5尋(ヒロ)の深さがあり、石材の柱を65本使っている。おそらくは日本において、橋に石柱を使う第一号である。天正18年正月、豊臣初代(=秀吉)の時に、増田長盛が奉行となりこれを建造した。)拙訳するとこんな意味合いでしょう。誤訳があるかも。「尋」という長さは、「日本の慣習的な長さの単位。一尋は、両手を左右にまっすぐに広げたときの指先から指先までの長さ、水深をいうのに用いた。明治5年(1872)から一尋は曲尺の六尺、約1.8mとなる。」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。これに従えば、9m近く川底を掘り込み基礎造りをしたことになりますので、まさに大工事だったのでしょう。三条の橋がいつごろから創設されたかは不明であり、上掲駒札に記されていますが、室町時代前期には既に架橋されていたと考えられています。秀吉の命による三条の橋の大改造は、京都の人々には大歓迎されたことでしょう。秀吉の人気上昇ということになったのでは・・・・。天正2年(1574)3月に織田信長が上杉謙信に贈ったとされる、狩野永徳筆『洛中洛外図』(国宝・上杉本)を米沢市上杉博物館発行の大型本で確認してみたところ、四条・五条の橋は描かれていますが、三条の橋の位置は金雲がたなびき、橋は描かれていません。四条や五条の橋と比べると、この頃は簡素な橋で画家が魅力を感じるほどのものでは無かったということでしょう。代わりに粟田口が描かれています。こちらが京への入口として当時は良く知られていたのでしょう。あるいは東国への街道になる三条には意図的に簡素な橋しか造らなかったのかも・・・・ということも考えられます。1790年時点で、秀吉の命令を受けて建造された三条大橋の石柱はそのまま使用され存続していたのでしょうか。図会に描かれた橋脚の感じが石柱のイメージを与えます。図会は「欄干には柴銅(からかね)の擬宝珠十八本ありて、悉く銘を刻む」(資料5)と記しています。京都府観光ガイドは「高欄の擬宝珠14個はその当時のもの」と説明しています。(資料6)高欄を含め橋の木造部分が取り替えられたり修復されたりしても、擬宝珠はそのまま利用され続けたということでしょう。そして現在は昭和に新造されたものが一部混用されているのです。(資料7) 東詰の北側に、東岸に下る階段があります。降りてみます。 鴨川の上流側の眺め東岸は舗装されていて、河岸沿いの散歩が自由にできますし、ここを自転車で往来している人も見かけます。川端通となっている堤防の側壁は石垣となっています。この石垣はそれほど古い年代物ではなさそうです。コンクリート壁面もあります。 大橋の下を見ると、現代建築そのものです。ちょっと意識的に観察していたので、初めて銘板のようなものが嵌め込まれているのに気づきました。 これがそれです。「三條大橋架替工事 施工昭和24年8月 竣工昭和25年3月」の刻銘が読み取れます。上掲でご紹介した駒札に記載の改造時期の証拠をここで確認できます。秀吉が造らせた石材利用の橋脚・桁による三条大橋は、その後元禄・明治・大正と改造を経た上で、昭和25年(1950)の改造により、現在の姿の大橋になったそうです。(資料7)現在の橋は、天正18年(1590)に豊臣秀吉の命で改築された木橋の面影を残すという意図で、擬宝珠高欄付きの木造橋の姿になっています。(資料6)現在の三条大橋は、長さ74m、幅15.5mです。(駒札、資料7)最初に引用した2枚の絵がこの大橋を写実的に描いているとすると、対比的にみて、いくつかの違いがあります。橋脚の数が違います。現在の大橋は写真を撮った角度の関係で最東端の1箇所が写っていませんので、それをカウントすると、8箇所の鉄筋コンクリート製橋脚で橋を支えています。時代によって鴨川の川幅が変化しているのは事実です。ネット検索で得た情報によれば、増田長盛が建造した石柱橋は、長さ101m、幅7mだったそうです。(資料8,9)『都名所図会』に載る竹原春朝斎信繁が描く三条大橋は7箇所の橋脚が描き込まれています。江戸時代には三条大橋は江戸幕府が管理する公儀橋でしたので、鴨川などの氾濫で橋が壊れたりすると、すぐに修復するということが繰り返されたのです。1780年時点で春朝斎が描いた三条大橋は、秀吉以後、既に16回の架け替えが行われたともいわれていた時代になります。(資料8)一方広重の絵には、10箇所の橋脚が描かれています。橋脚の描き方も違います。石材円柱のように思えない印象なのですが、どうなのか・・・・・。構造上の強度の問題で、橋脚間の距離が違うのかも知れません。天正十七年の刻銘のある石柱はいつの頃に取り替えられたものでしょうか。このあたりの事実についての探求課題が残りました。江戸時代に取り替えられたなら、遺物として残さず転用材にしていたでしょうし・・・。明治以降でしょうか? それなら橋の付け替えはあっても、石の橋脚や桁はそのまま継承されたことになるのですが・・・・・。ウ~~ン。 大橋の下で橋脚と桁を撮りました。鉄筋コンクリート製の現代建築工法によるものです。橋上では木造橋の面影が鴨川の流れと遠望する山並みとのコラボレーションで風情を添えてくれます。ここを眺めると機能美は感じますが、三条大橋の感興は沸きません。 下から大橋を見上げると、まさに和洋折衷の美というところです。 一つ不思議なものが目に止まりました。これです。東岸の側面と川端通の堤の側面に、色の違う石板を交互に縦一列につないでいる箇所が目に止まったのです。石積みの壁面上に意図的に貼り付けてあるようです。増水時に川水の水位を簡易に定点観測で目測できるようにしてあるのでしょうか。そんな連想をしてしまいました。余談です。三条大橋を石柱使用の土木工事で丈夫な橋に改造させて人々にも恩恵を与え、己の人気を高める行動を取った秀吉が、その一方でこの三条河原を処刑の場所として使っています。関白職を譲った秀次を高野山に追い切腹させる一方で、秀次の妻妾当一族を残虐にこの三条河原で処刑したのです。人々の葬られた塚は後に荒廃します。高瀬川を開削した角倉了以が、それを知り、この三条大橋のすぐ傍に「瑞泉寺」を建立し、秀次とその一族の霊を弔うという行為を取っています。大盗賊で有名な石川五右衛門が釜茹での刑に処せられたのも三条河原。関ヶ原の戦いで西軍首脳とみなされた石田三成・小西行長・安国寺恵瓊等は六条河原で斬首刑となった後、三条河原で晒し首になっています。長宗我部盛親もまた六条河原で斬首され、三条橋に晒されたとか。新選組の近藤勇は板橋刑場(武蔵国板橋宿付近)で刑に処せられたあと、首が運ばれ三条河原で晒し首となっています。そろそろ、三条大橋の橋上に戻りましょう。長年気になっていた高欄の擬宝珠を立ち止まって眺めることに・・・・・。つづく参照資料1) 東海道五十三次 :ウィキペディア2) 歌川広重 :ウィキペディア3) 都名所図会 6巻. [1] 秋里籬島 著[他] :「国立国会図書館デジタルコレクション」4) 西の庭 :「京都国立博物館」5) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p766) 三条大橋 :「京都府観光ガイド」7) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂8) 三条大橋・三条河原(京都市中京区-左京区・東山区):「京都風光」9) 三条大橋 :「河原町商店街振興組合」補遺[関西歴史事件簿」三条河原の公開処刑(上) 鴨川真っ赤に、「秀吉」残虐公開処刑の全貌…秀次「生首」前で一族39人惨殺、幼児・姫君も容赦なく:「産経WEST」瑞泉寺の由来 :「瑞泉寺」釜茹で :ウィキペディア石川五右衛門~戦国時代のヒーローで釜ゆでの刑となった稀代の大泥棒とは? :「戦国武将列伝Ω」石田三成 :「コトバンク」小西行長 :「コトバンク」安国寺恵瓊 :「コロバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (2) へ観照 諸物細見 -4 京都・三条大橋 (3) 描かれた姿・撮られた姿 へ観照 諸物細見 -1 西本願寺阿弥陀堂門 へ観照 諸物細見 -2 西本願寺 御影堂前の銅造灯籠 へ観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都国立博物館 建物と庭 -2 馬町十三重石塔・正門・西の庭スポット探訪 [再録] 京都・上京 瑞泉寺 -1 瑞泉寺の縁起、展示室兼休憩所、地蔵堂 2回のシリーズでご紹介しています。観照 弥次さん・喜多さんの京都見物 -1 はじめに 4回のシリーズでのご紹介です。その最初に三条大橋に触れています。
2018.04.14
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前回引用した地図を再掲します。ソースの地図(Mapion)は、こちらからご覧ください。 やすらぎの道をさらに西に歩むと、番号7を付した橋に至ります。「荒木橋」です。ここに、この「南山城水害記念碑」が建立されています。右側に「水害記念碑之記」と上部に横書きした当時の状況・経緯を記した文が刻されています。この碑は昭和31年8月に建立されています。昭和28年(1953)8月14日、日没より降り始めた雨が、夜半に豪雨となり、翌日午前3時30分頃に、溜池が次々に決壊し、堤防も決壊したことで全村荒廃の極に達した大水害ととなったそうです。爾来3年の歳月を経て村を復旧することができたと言います。以前にこの田原川の桜を眺めに来た時は、対岸を歩いただけでしたので、この記念碑に気づきませんでした。 荒木橋上から眺めた景色です。この橋のところから田原川が北方向に曲折していきます。この地点で犬打川が田原川に合流しています。今まで南岸の堤防上のやすらぎの道の桜並木が、東岸の桜並木を主体にする形に変化します。 記念碑の背後を見ると、赤い鳥居と小社が見えます。 稲荷大明神が祀られています。 この小社の傍から東岸を眺めた景色 小社の背後、北方向での西岸は桜の木がまばらに植えられています。 番号7の荒木橋を眺めた景色 荒木橋を北に渡り、東岸の堤防上の桜並木を眺めた景色 東岸の桜並木を少し北上し、東岸より西岸を眺めて 東岸を戻るときに撮った景色 番号7を付した荒木橋の北詰から川が曲折する手前の南岸の桜並木 番号6を付した橋の北詰から、保建センターの建物の方向を眺めた景色 しばらく、町役場のある北岸の堤防上を東に戻ります。 振り返った景色少し先に、田原川に設けられた飛石代わりの列柱が見えます。川原に降り、この列柱を渡って、「やすらぎの道」に戻ることにしました。 列柱の上から眺めた田原川の川上(東)の景色 川下側を振り返った景色。番号6の橋が見えます。この右側の桜並木の北側が町役場のあるところです。 飛び列柱渡りを無事終えて、南岸の川原から眺めた川上方向の桜並木 と、宇治田原・やすらぎの道を一巡りして観桜を終えました。 ご覧いただきありがとうございます。ぜひ、宇治田原までお出かけください。補遺自然災害地研究 池田 碩著 抜粋のpdfファイル 抜粋ページ(p142)に南山城8月災害地域図(京都新聞)が載って居ます。南山城水害 :ウィキペディア南山城水害伝える「巨石」保存を 井手町・JR玉水駅建て替え工事で「撤去」方針、住民有志が運動 :「京都民報web」ー 元祖「集中豪雨の里」の水害記念碑 ー :「消防防災博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都府宇治田原町 田原川 やすらぎの道の桜ふたたび -1 へ
2018.04.02
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この景色は、3月30日の午後、田原川の堤防に行く手前で「宇治田原町総合文化センター」を遠望し、デジカメのズームアップ機能で撮りました。今回も、国道307号線沿いにある「コメリ」の東側の道から堤防に向かいました。国道にある最寄りのバス停は「大宮道」です。地名は荒木です。 イメージしやすいように、部分地図を引用し、ご紹介の便宜のために赤字で番号を追記しました。地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。 番号1を付記したところが田原川に架かる「ごこうはし」です。 橋傍の標識 地図を見ると、川の南岸と道路の中央線を境界にして、地区が接しているのです。 冒頭の景色の桜並木が、南岸の堤防上を茶色の舗装路にしたこの道沿いになります。橋から東方向です。また、この堤防上の茶色い道が「やすらぎの道」と称されています。番号1から東方向は、比較的間隔をあけた桜並木ですが、西方向は桜並木が密になっていて見事なのです。訪れた時は、9分咲きくらいでした。今週が満開の見ごろでしょう。 堤防上からの景色 番号1の橋上から東方向、川上側をズームアップで撮った景色 振り返り、西方向、川下側を撮った景色です。ここから南岸の「やすらぎの道」を西方向に桜を眺めて参りましょう。 途中で振り返って撮った桜並木 そして、ズームアップ! 番号2の地点で、川幅の狭い支流に架かる「ねんりんはし」をわたります。 田原川に糠塚川が合流する地点に架かる橋です。 そして、すぐに番号3の「じんきちはし」が田原川に架かっています。 このやすらぎの道には、こんな標識が路面に描かれています。起点がどこかは未確認です。 川中の砂州で遊ぶ子供たちを見かけました。 番号4が「かんじょうばし」です。この橋の南詰には橋のすぐ傍には桜の木がありません。 ここから西方向には、川の南側に茶畑がしばらく続き、桜並木の枝がアーチ状に伸びて、桜のトンネルになっています。良い景色です。その先に進むと、 この「やすらぎの道」の表示板が立てられています。対岸(北岸)に、「宇治田原町役場」の建物の背面が見えます。 歩んできた堤防上の道を振り返った景色 この辺りから、川上側(東)を眺めた景色です。 番号5の地点です。ここに田原川にもう一つ流れ込む支流があります。 堤防上の道から、南側に「宇治田原町立保建センター」の建物が見えます。道沿いに進むと、番号6を付した橋があり、 その少し先に「郷之口川東」の標識が取り付けてあります。 番号7のところの橋を眺めた景色 ここからまだまだ桜並木が続きます。見応えのある桜並木でしょう。京都市内の混雑ぶりと比べれば、桜見物の穴場かもしれません。以前も平日に訪れましたので、土日の週末がどんな感じなのかは知りません。穴場かも・・・・というのは推測の域をでません。つづく補遺宇治田原町 ホームページ宇治田原町観光情報サイト ホームページ宇治田原町(綴喜郡)の観光スポット宇治田原町 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 宇治田原 田原川堤の桜・満開
2018.04.02
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知恩院から円山公園、八坂神社という順で巡ったのですが、ここでは逆に円山公園から知恩院境内という逆順で桜の花を眺めていただきましょう。冒頭のこれは、八坂神社境内の南楼門の横にある手水舎の屋根を背景に満開となった桜です。 境内を抜けて、円山公園に入ると園内の桜の木の下は、花見見物のグループが様々に集い盛況です。人を入れずに桜を撮るのは難しい。まあ、こんな風に混雑していましたということがわかるのも一興かと、加えておきます。 公園中央にある枝垂れ桜のところに行く通路の両側には、びっしりと屋台がでています。例年見慣れた景色です。 枝垂れ桜を、反時計回りに4分の1周くらい視点を変えながら、コマ撮りしてみました。桜を静かに愛でるという風情とは縁遠い雑駁な雰囲気が漂い、思い思いの桜見物、写真撮りをする場になっています。ここはそれぞれの人が写真撮りに執心されているスポットです。その雑然とした人々の集まりを入れずに桜の木を撮ると、浮世の姿は綺麗に捨象され、今を生きる桜の姿と輝きだけが映像として定着します。 ねがはくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃 山家集 77かつて西行法師がこの有名な歌を詠み、その通りの時季に寂滅されたと言います。西行が現在の花見の場面をみたら、どう感じるのでしょうか・・・・・。その西行さんが、 花ときくは誰もさこそはうれしけれ 思ひしづめぬ我心かな 山家集 147 花を見し昔の心あらためて 吉野の里に住まんとぞ思ふ 山家集 1070という歌も詠んでいるのです。桜の花に浮かれ花見した若き時代もあったということなのでしょう。そんなことをふと思うのもおもしろい。と、このように枝垂れ桜の景色も変わります。 こちらが2017.4.6に撮った景色です。薄曇りの空でした。今年は青空のもとでの桜の花を撮れたのがうれしい。そして、知恩院の境内へ。三門については、先日「諸物細見」の一つとしてご紹介しました。ここでは境内地で眺めた桜をいくつかご紹介します。 これは三門を桜とともに南東側から見上げた景色です。境内の一本の桜の木に着目してみました。 三門から男坂の石段を上り、すぐ左側に見える宝塔の傍にある桜の木です。 数歩下がってみると、桜の木が前面に広がります。 北方向に体を向けると、桜のかなたに阿弥陀堂の屋根が見えます。 少しアングルを変えると、桜の木の満開の雰囲気が密になります。これもまたおもしろいものです。 納骨堂の前の池傍の桜は少し寂しい感じがしました。記憶ではもっと桜の花咲くイメージがあったのですが。記憶違いなのか? それとも、花咲くタイミングのズレがあるのでしょうか。円山公園・知恩院の桜のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料『山家集 金槐和歌集』 日本古典文学大系 岩波書店こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・東山 祇園白川の桜と火除地蔵観照 諸物細見 -3 京都・東山 知恩院三門と桜
2018.04.01
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四条通から縄手通に入り、北に少し上がると白川に架かる「大和橋」があります。その南詰から白川に覆いかぶさるかのように満開の桜の枝がまず見えました。3月下旬です。知恩院に向かう前に、祇園の白川沿いに、つまり白川南通の桜を眺めて行こうと思ったのです。平日の午後ですが、通りは大勢の観光客の人々で溢れていました。過半数が外国人観光客というのが第一印象です。皆さん熱心に桜の花をスマホ、デジカメなどで撮ろうと頑張っています。人を入れずに写真を撮ろうとすると、ちょっと大変という感じ。 初めて、祇園の白川に鳥が来ているのを目にしました。近くのお店の人が餌を撒いていました。 吉井勇の歌碑の正面から写真を撮りたかったのですが、やはりここが一つの記念写真スポットになっていて、とてもじゃないが順番待ちなどしている気がしません。この1枚を撮るだけにしました。 2017年4月6日に撮った写真で、昨年の記事には載せていない画像をご紹介します。 かにかくに祇園はこひし寝(ね)るときも枕のしたを水のながるる吉井勇(1886~1960)は、祇園をこよなく愛した歌人として有名です。祇園を詠んだほかの歌とともにこの歌を文芸雑誌『スバル』に発表しました。与謝野鉄幹主宰の文芸雑誌『明星』の廃刊後、森鴎外を中心に石川啄木・北原白秋・木下杢太郎・吉井勇らが『スバル』を発刊。『スバル』創刊号の発行人は、石川啄木が務めたのだとか。この文芸雑誌は1909年から1913年まで刊行されました。吉井勇は与謝野鉄幹につながる浪漫主義短歌の系譜の歌人です。『スバル』は新浪漫主義思潮の拠点となったそうです。北原白秋、木下杢太郎ら眈美派詩人に引き継がれます。(資料1,2)脇道に逸れました。艶やかな桜の花に戻りましょう。 様々な色彩のコラボレーションがみられるスポットもあります。 観光客があまり集まっていない地点をみつけながら・・・・ 祇園白川の満開の桜を足を留めることなしに満喫しました。 新橋通と白川南通の分岐点にあるこの「辰已大明神」はいつでも記念写真スポットとして盛況です。なんとか間隙をねらって人を入れずに今年も数枚撮ることができました。この小祠、「もとは、御所の辰已の方角(南東)を守る神社であったが、祇園の人びとの信仰が篤く、とくに舞妓・芸妓が芸事の上達を祈って訪れる」(資料3)という風に進展してきたとのことです。土地柄から生まれる祈願ニーズの変遷がここにも反映しているのでしょう。 北から南に流れてきた白川が新橋通と交差し南西方向に曲がるところ、新橋東詰にこの小祠があります。「火除け地蔵」と呼ばれるお地蔵様が祀られているそうです。駒札に記されている「地蔵菩薩本願経」をネット検索で調べてみますと、このお経の最後の「嘱累人天品第十三」中に、この経を聞き、読誦し、不施・供養・讃歎・瞻礼(せんらい)すると二十八種の利益(りやく)を得んと記し、それらを列挙して述べていきます。その七番目に「水火の災を離れ」と述べているのです。つまり火除けの利益が挙げられています。(資料4)一般庶民にとって、やはりお地蔵様は身近な存在です。桜の花からまた逸れてしまいました。桜の花のもとには大勢の人だかりですが、火除け地蔵の傍は静かなスポットになっていました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) スバル :ウィキペディア スバル/昴 :「コトバンク」2) 『国語便覧』 監修 青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p222,229,238,2393) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p1344) 地蔵菩薩本願経 : 和文 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 85/101コマ目 本文p81参照 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川観照 京都・東山 -3 祇園・白川南通の桜、辰巳大明神、「かにかくに」歌碑、陶匠青木聾米宅蹟など
2018.04.01
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先日、寄り道して高瀬川沿いの桜スポットを撮る前に、知恩院境内にも立ち寄りました。知恩院三門は幾度も撮っていますが、改めて山門周りをゆっくりと眺めてきました。冒頭のこの画像は、知恩院新門を通り抜けて、知恩院道の途中から少しズームアップして撮った景色です。この三門は東山の山並みを背景として西に向いています。 三門の正面。手前に柵がありますが、大勢の観光客が記念写真をさかんに撮っていました。この三門は江戸時代、元和5年(1619)年に徳川二代将軍秀忠により建立されたわが国最大の楼門だといいます。五間三戸、重層、入母屋造り、本瓦葺の建物です。(資料1)慶長20年4月、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡し、元和と改元されます。元和2年(1616)4月に家康が没し、その年8月に、外国との貿易は長崎と平戸に限定されるようになります。そして、1619年には6月に福島正則が改易され、7月には徳川頼宣が和歌山に移されることで徳川御三家が成立したという時代背景の中で、この三門が建立されたのです。(資料2)「三門は元来禅宗伽藍の表大門であるが、浄土宗のものとしては珍しく、徳川家の勢威をしめすために、もっとも雄大にみえる唐様を採用したものであろう」(資料1)という見方があります。すぐに連想するのが南禅寺の禅宗様三門です。併せて東福寺の国宝三門、大徳寺の金毛閣、妙心寺の三門も思い浮かびます。東福寺、大徳寺の一部は拙ブログで既にご紹介しています。余談ですが、同様に真言宗御室派の仁和寺も大きな楼門です。しかしここの五間三戸の門はその左右に二王像が安置されていて平安時代の伝統を引く和様の「二王門」です。 南側石段横のさくらが綺麗です。ここ最近は外国人観光客を含めて和服姿で散策する人々がやたらと目に止まるようになってきました。このブーム定着している感じです。三門には金色に輝く「華頂山」と記された巨大な扁額が楼上に掲げてあります。華頂山は知恩院の山号です。また背後の山が華頂山と称されています。東山三十六峰の一つです。これは霊元天皇(1663~1687)の宸筆だそうですので、楼門建立後半世紀以上後に掲げられたものということになります。それ以前は、どうだったのでしょう・・・・・。ちょっと気になりました。 正面石段の両脇にはこれまた巨大な石灯籠が奉納されています。 正面の石段ここの石段は上りやすい高さです。三門を通り過ぎて御影堂のある境内地への石段は一段が高すぎ全体が威圧感を与える程の急勾配です。大石で敢えて作られた気すらします。 石段を上がると、中央の扉の前に正面に徳川家の葵紋が付けられた喜捨箱(賽銭箱)がでんと置かれています。現在の知恩院は、鎮西の聖光の流れを嗣ぐ鎮西派により、浄土宗門維持の拠点となったところです。浄土宗徒であった徳川家康が慶長8年(1603)に生母伝通院の菩提を弔うために、寺域を拡張し諸堂を整備し、知恩院を庇護したという経緯があります。(資料1)寺社仏閣で徳川家が寄進を含め関わりを持ったところは、葵紋を様々なところで示すことが認められていたようです。それは逆に、徳川家の勢威のPRにもなったのでしょう。 石段を上り、上から西を眺めると、南側の石灯籠の手前に石板で蓋をした井戸があります。「小鍛治井」です。一名、「刃(やいば)の井」とも称され、名水の一つに数えられたとか。刀工三条小鍛治宗近が名釼をつくるのに用いた井水という伝承があるそうです。(資料1)さて、それでは三門を眺めて行くことにします。 三門は左右に山廊を備えています。西面する楼門の南北の側面に、二層目の楼上に上がるための階段があり、その入口となる建物が設けられています。 これは上掲画像の三門板壁に取り付けられた銘板「知恩院三門修理記」です。 これは北側の建物の花頭窓から内部に入っている山廊を眺めたところです。床面は四半敷の形式で敷瓦が舗装されています、この建物は階段を保護し入口とするための建物です。必要な時以外は楼上に上れないようにすることや、儀式の際の関係者の待機場所を兼ねているのかもしれません。 この階段は結構急勾配です。山廊の建物の柱の根本を見ると、 基壇上に敷かれた平板な礎石の上に、よく見ると木製の礎盤の上に柱が立っています。 三門の北側 南西側から三門の南側面と南側の山廊のつなぎの部分の全景を撮ってみました。 降り棟の鬼瓦 右側の山廊の建物を南側に回り込んだ景色 山廊建物の屋根の棟上の鬼瓦。この鬼瓦の目から青空が見えました。 三門の屋根の棟に置かれた鬼瓦。たまたま鳥がとまっていました。 三門一層目の屋根の降棟の鬼瓦には、角の間に種字が陽刻されています。読めないのが残念! 屋根を支える斗栱、木組み構造の生み出す美しさがあります。剛健な感じです。斗栱の出組は三手先のようです。大斗の上に、肘木と方斗が組み合わされていく連なりの機能美が見事です。また屋根の隅下では尾垂木がにょきっと出ているのもおもしろい。 三門の柱は、基壇上の平板な礎石の上に、石の礎盤が置かれそれに円柱が立っていますが、円柱の上下をやや細め、肩を丸めた禅宗様粽と称される形式になっています。柱や梁には装飾彫刻は見られません。厚い板壁になっていて、三門の両端に大きな提灯を吊すための屋根付きの支え台が置かれています。 三戸の扉はすべて板唐戸です。 がっしりとした厚い板扉に鋲打ちが施されていて、質実剛健そのものです。1598年8月に豊臣秀吉が没した後、1603年2月に徳川家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開く一方で、同年に上記の通り、生母の菩提を弔うためとして、この知恩院を庇護し寺域拡張をしているのは、有事の場合にはここを江戸幕府側の要塞、本陣として利用する意図があったのでしょう。それを考慮すると三門内側の石段の階段の便利さをかなり無理した造りでの威圧感も頷けます。豊臣家没落後に建立された現在の三門も機能重視で頑丈な構造というのも、泰平の世に向かう中においても、非常時を考慮するならやはり城門同様の板扉を選択することになるでしょう。 三門から境内地の北東方向を眺めた景色 振り返って板唐戸越しに北西方向を眺めると、こちらも満開の桜 一段の高さがかなり高い石段を上り始めて振り返り、三門を撮った全景 石段の途中から、三門中央の戸越しに、知恩院道、知恩院新門を一直線に眺めた景色 このあたりで、三門細見と三門周辺の観桜を終えました。2点補足しておきます。(資料1,3)三門は国宝で、上層内部は普段は非公開です。過去幾度か特別公開されています。今後も公開されることがあるかもしれません。一度特別公開時に拝観したことがあります。ひとつは、上層内部が仏堂になっていること。中央に宝冠釈迦如来や十六羅漢像が安置されていて、鏡天井や柱等には極彩色で迦陵頻伽(かりょうびんが)や天女、飛龍が描かれています。2つめは、上層内部に白木の棺があり、五味金右衛門夫妻の木像がその中に安置されていることです。これは「知恩院七不思議」の一つになっています。五味金右衛門は三門造営の命を受けた造営奉行だった人です(資料3)。「一説に大工棟梁五味金右衛門が小規模にとの内命にもかかわらず大規模に建てたため、その責任を負わされ、竣工後五味夫妻は自害したという」(資料1)。「彼は立派なものを造ることを心に決め、自分たちの像をきざみ命がけで三門を造りました。やがて、三門が完成しましたが、工事の予算が超過し、夫妻はその責任をとって自刃したと伝えられています。」(資料4)中井家文書で有名な中井家は江戸幕府京都大工頭という立場でした(資料5)ので、五味金右衛門も同様の立場だった人かもしれません。ご一読いただきありがとうございます。参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p235-2372) 『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社3) 三門(国宝、内部非公開) :「知恩院」4) 白木の棺 -不惜身命 :「知恩院」5) 中井家絵図・書類 :「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」補遺三門 :「南禅寺」国宝三門 妙雲閣 :「東福寺」大徳寺 山門(三門) :「京都観光Navi」三門 :「妙心寺」 仁和寺で歩く :「仁和寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・東山 知恩院(大方丈・小方丈・方丈庭園) -1 3回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 京都・東山 知恩院の境内を巡る -1 阿弥陀堂・大庫裏・黒門坂 2回のシリーズでご紹介しています。スポット探訪 京都・東山 知恩院 ふたたび -1 名号松・納骨堂、層塔との出会い 4回のシリーズでご紹介しています。観照 諸物細見 -1 西本願寺阿弥陀堂門 へ観照 諸物細見 -2 西本願寺 御影堂前の銅造灯籠 へ
2018.03.31
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三条に行く予定があり、四条で途中下車して寄り道をしました。せっかく、桜が満開なので・・・・。そして、四条から高瀬川沿いに途中まで桜を眺めつつ三条近くの目的地に行きました。予定事項を終えてから、三條小橋から高瀬川の一之船入まで散策しました。まずはそのご紹介をいたしましょう。冒頭の画像は、四条通から高瀬川沿いに北に上がり始めて、川面に映じた桜の木と川面に浮かぶ桜の花弁を撮ってみました。 高瀬川の西岸・備前島町に、元・立誠小学校と称された学校の校舎があります。その旧校舎の玄関右脇には、「角倉了以翁顕彰碑」が立っています。 高瀬川に架かるこの旧校舎玄関への橋の傍に、この駒札が立っています。 この旧校舎の北には、この辺りが土佐藩邸跡だと説明する駒札もあります。高瀬川とともに、この辺りの歴史が重層化しています。この先で一旦、高瀬川を外れ、本来の目的地へ。その後、三條小橋から高瀬川沿いに歩き、 まずは御池通を横切る手前まで、いくつか感じの良い場所を撮ってみました。 御池通を横切ってさらに高瀬川沿いに北に上がります。 少し北の西岸に大村益次郎(左)と佐久間象山(右)の遭難碑が建立されています。ここにも桜の木が植えられてます。 そして、高瀬川の一之船入が見えて来ます。 この橋の西側は川原町通に面する日本銀行京都支店の背後になります。 銀行会館に続き、島津創業記念資料館が並んでいます。 帰路は高瀬川沿いに御池通まで下り、川端通に出て京阪電車の三条駅に向かいました。御池通の橋から三条大橋東詰を眺めた景色 御池の橋上から、三条通より北の鴨川東岸を眺めた景色 川端通の桜並木を最後に眺めて、三条駅へ。今日のこの満開の桜、いつまで咲き誇っていることができるのでしょうか・・・・・・。見ごろはあっという間に過ぎゆくことでしょう。ご覧いただきありがとうございます。補遺京都市市立立誠小学校 :ウィキペディア高倉小学校第2教育施設 四畳半神話大系 :「アニメ聖地巡礼マップ『アニメ旅』」こちらも、ご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・三条 高瀬川・新京極誓願寺前・鴨川の桜満開
2018.03.28
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高瀬川に架かる三條小橋から少し南に下がりつつ、高瀬川沿いの桜並木を今日(3/26)眺めてきました。三条に出る序でにしばし立ち寄った次第です。 先週、22日に高瀬川沿いの桜はまだ蕾が多い状態だったのに、一気に開花していました。 新京極に向かうと、誓願寺前の通りの中央部分にある桜の木も満開で、観光客の皆さんが桜の木そのものを中心にして写真を撮っています。記念写真を撮っている人も大勢いました。 お寺の南側の境内沿いの道の突き当たりにも枝垂れ桜が満開ですが、 意外とこちらを撮っている人はいません。おもしろいものです。 先斗町側から三条大橋に出る時に眺めた桜 弥次さん喜多さんの像の近くです。鴨川の川端通沿いの桜も綺麗です。このあたりは、今が見ごろです。このままよい天気がしばらく続いてほしいですね。ご覧いただきありがとうございます。
2018.03.26
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阿弥陀堂門を入ってこの御影堂前にある大きな銅造灯籠を久しぶりに細見しました。「西本願寺細見」でもご紹介しています。少し重複しますが、さらに観察してみたくて立ち寄りました。この景色は灯籠の各部を眺め、写真を撮った最後のものです。ご関心のある方はお付き合いください。阿弥陀堂門から境内を横切っていくと、冬枯れの幹と枝ばかりになった大樹がオブジェ風に眺められます。緑から黄色に変化する葉を一杯にこんもりと生い茂る姿を見慣れていますので、こんな枯れた感じも雰囲気が変わっていいものです。大樹を回り込み、南側から北側の灯籠を眺めてみました。夕刻のせまる少し前の青空が見えます。こちらは北西側から撮ったもの。南東方向の境内の広さが感じられるでしょう。南東隅に鐘楼の屋根が見えます。灯籠の南面です。石造基壇の側面には3つの格狭間が見えます。そこには連子窓様の線刻が施されています。灯籠の基礎部分が二段になっています。下段の基礎は3つの格狭間に区切られ、 それぞれの格狭間には、姿態の異なる獅子がレリーフされています。獅子の周囲の縁がおもしろい曲線になっています。基壇の格狭間に見る曲線形とも異なる形です。下段の基礎の帯状の上面には植物文様がレリーフされています。上段の基礎部分はV字に凹んだ形状に造られていて、上面の反花の部分が目立つ形になっているようです。石灯籠のこの部分の反花では蓮弁のデザインが多いと思いますが、この灯籠は屋根側面の懸魚の一つである「猪の目」の形の近い意匠が取り入れられています。南東角から基礎部分を撮ってみました。灯籠の竿の上下の節の部分には、半円球を六重に同心円の溝が囲む形の図柄が等間隔で飾られています。竿の胴部には、山形に一見ヒトの顔へと連想が繋がりそうな幾何学文様のレリーフが同心円文様3個分の上に描き出され、竿を装飾しています。この画像部分だけを見ると、縄文・弥生という時代に意識が直結していきそうです。 竿中央の珠紋帯と呼ばれる部分には、基礎の反花部分と節の両文様のリフレインがみられます。図柄が大小の関係で照応し、細やかなリズムが生み出されています。竿の上半分という形に切り出すと、こんな感じになります。これもまた図柄の視点をずらせてみるおもしろさにつながります。上掲画像から、中台部分を切り出してみました。中台の下部は蓮弁請花がレリーフされているのは通常通りです。中台の側面は、格狭間が複数個に仕切られることなく、横長のままで龍像がレリーフされています。龍の上半身を拡大してみます。ダイナミックな龍の頭部が彫刻されています。こちらは、西面の中台部分です。火袋の部分は西面です。上掲の南面の火袋との違いが見られます。火袋は上区・中区・下区と分けて眺められますが、この画像は笠の下の上区と中区あたりを撮っています。上掲南面の切り出し画像に見られる通り、下区は横長の格狭間に植物文様がレリーフされています。一方、上区の方は格狭間が透かし彫りの文様となっています。笠には天女像がレリーフされています。そして、普通の灯籠だと笠の上に請花が載り頂点に宝珠がくる形式ですが、この灯籠では、宝形造の屋根の上の形式のように、露盤・伏鉢・宝珠という形式になっています。笠が六角形でなく、四角形なので露盤を載せる方がバランスが良いからでしょうか。一瞥して通り過ぎるだけだと、気にも欠けない部分に目が向きます。そして、この露盤の格狭間に描かれた図柄が、基壇の格狭間の図柄と照応しています。なかなか凝った意匠の灯籠です。 もう一つの面を同様に撮ってみました。 こちらは、御影堂に向かって左側、つまり南側の灯籠を北側から撮った全景です。白い築地塀まで境内地が広々としています。余談ですが、築地塀の南側が有名な飛雲閣のあるところです。こちらは対の灯籠ですので、基本は一緒です。この灯籠の方は基礎、中台、笠の部分をぐるりと巡りながら写真を撮ってみました。次のようになります。まずは基礎の格狭間にレリーフされた獅子です。 北面 西面 南面 東面 次は中台部分です。こちらも同様に北面から始めたと記憶します。 最後に笠にレリーフされた天女像です。 こうして観察していくと、一つの灯籠の装飾彫刻が面の方向によって、太陽光や風雨などの影響度合いが異なることに気づきます。御影堂前の青銅製灯籠の細見をこれで終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社補遺灯籠 :ウィキペディア灯籠 :「コトバンク」銅造燈籠 国宝 :「興福寺」上野東照宮の銅燈籠 :「気ままに江戸 散歩・味・読書の記録」灯籠の意味とは?灯籠とは何か、解説いたします :「終活ねっと」第75回 「篭」と「籠」 2010.11.4 :「三省堂ワードワイズ・ウェブ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -1 西本願寺阿弥陀堂門 へ
2018.03.18
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風俗博物館に行く時に、堀川通の東側歩道から、西本願寺阿弥陀堂門を眺めました。以前、西本願寺細見として境内全体の建物群などを眺めてまとめています。そこで、ちょっと的を絞って、久しぶりにこの門を眺めてみることにしました。「阿弥陀堂門」そのものを、改めて細見してみたくなったのです。風俗博物館の前期展示を鑑賞した後、堀川通を横断し、阿弥陀堂門に行きました。門は境内に入るための通過点として、通り抜けるだけ、せいぜい門全体の景色を記念に撮っておしまいというパターンが大半のような気がします。しかし、立ち止まって眺めてみると、そこには様々な匠たちの仕事の成果が統合されています。長年磨かれ培われてきた様々な分野の職人技が集積されて一つの門を作り上げています。この画像だけですと、切妻造の屋根に見えますが冒頭の全景に見るとおり、屋根の前後中央に唐破風が組み込まれています。一瞥してさらりと通り過ぎるだけではもったいない! ということで、細部を眺めていきましょう。かなり詳しく説明している竹村俊則著『昭和京都名所圖會』でも、この門は挿絵に描くだけにとどまります。西本願寺のホームページを見ますと、現在は「重文」に指定されています。1760年に建立された阿弥陀堂が昭和期に修復された機縁で、1893(昭和58)年に檜皮(ひわだ)の一部葺替、飾金具の修正、金箔押などの補修が行われたそうです。それにより冒頭の全景のように美しい姿が再現され、2009(平成21)年にも修復工事が行われています。 屋根の切り妻部分の合掌部には、三つ花懸魚が見えます。その側面が飾金具で覆われ、その表面には文様が描かれています。 屋根を支える斗栱は二手先の木組みになっているようです。門は四脚門の形式です。本柱は円柱で、前後の控柱は角柱が使われています。木鼻の意匠はごくシンプルです。本柱と控柱の間の欄間は大きな菊花が透かし彫りで装飾されています。 こちらは、南側の欄間です。 控柱の下側の貫の先端部は飾り金具で覆われています。装飾を兼ねた風雨対策なのでしょうか。 近付いて観察しますと、この部分拡大画像に見るとおり、金具の表面には美しい菊花文線刻のレリーフが見られます。正面の四角い部分には、西本願寺の「家紋=寺紋」である「九条下り藤」がレリーフにされています。控柱の下部に目を転じてみます。礎石の上に乗る柱の下部は金具で覆われています。これもまた、装飾の機能とともに、風雨対策の役割を担っているのでしょう。そして、もう一つの着目はここに表現されたレリーフです。南側の控柱のこの飾り金具の四面を撮ってみました。 四面の龍の姿態は少しずつ変化しています。上掲の北側の控柱の龍像にさらに近づいて撮ってみました。 本柱の方は、また違った形です。 向かって左(南)の本柱の龍像 右(北)の柱の龍像の一つ左右に突き出た本柱の頭貫の先端部もまた、飾り金具で覆われています。ここの線刻も菊花文様です。 門扉は桟唐戸の形式です。桟(横木)が細かく入り、入子板が小さくなっています。そして、框と桟には飾り金具がほぼ全体に取り付けられていて、頑丈そうな門扉となっています。 上部には、ここも大きな菊花が彫刻されています。 門扉の飾り金具にも菊花文様が線刻されています。熟達した匠の技がさりげなく金具の表面を飾り、豊かな表情を生み出しています。 こちらは南側の門扉 境内から眺めた阿弥陀堂門の全景細部を眺めて行きましょう。 唐破風には獅子口が乗っています。 破風の要所要所の飾り金具には、寺紋がレリーフされていて、兎毛通は菊花文の透かし彫り彫刻です。 屋根の先端部を見ると、檜皮葺の修復されている状況が少しわかります。破風と垂木の先端は飾り金具でカバーされていて、各垂木の金具の正面には寺紋がレリーフされています。 少し立ち位置を移動して、全景を撮りました。少し踏み込んで細見しましたが、まだまだ見落としがあると思います。表には名前の出て来ない匠たちの技量がこの阿弥陀堂門に結実しています。さらに、その匠の技が連綿と継承されてきた伝統が修復事業の折に発揮されているのでしょう。この後は、折々に立ち止まり関心を持った対象物について、単体として細見した結果をご紹介して行きたいと思います。この日はもう一つ、境内の青銅製灯籠に改めて関心を持ち、眺めてから帰りました。ご一読ありがとうございます。参照資料西本願寺 ホームページ本願寺 :「戦国大名探究」『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社『日本古建築細部語彙 社寺篇』 綜芸舍編集部編 綜芸舍こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -1 御影堂門、総門、灯籠と大水盤 7回のシリーズで、探訪可能な範囲の大凡を細見しています。
2018.03.16
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東の対(対の屋)を北東側から眺めて今回、この部分には平安時代の遊びの姿が具現化されています。 碁に興じる北の端で女房たちが碁をしています。碁は上代に中国から伝来しました。平安時代には男女を問わず盛んに行われたようです。『源氏物語』では、「空蝉と軒端萩(空蝉)、玉蔓の大君と中の君(竹河)、今上帝と薫(宿木)、浮舟と少将の尼(手習)など。物語の展開で重要な場面に、碁を打つ様が描かれている」(資料1)のです。「空蝉」の巻を読みますと、紀伊守が任国に下った後、女同士が邸内でのんびりとくつろいでいる夕方に、小君が光源氏をその邸に連れて行きます。 (小君)「なぞ、かう暑きにこの格子下ろされたる」と問へば、 (年配の女房たち)「昼より西の御方の渡らせたまひて、碁打たせたまふ」と言ふ。このやり取りを聞いていた源氏は、妻戸から歩み出て簾の隙間に入り、空蝉と軒端萩が碁を打っている姿を垣間見るという場面が描写されます。源氏が観察した二人の姿が描き込まれていきます。そんなことを知らない二人の碁のやり取りも書き込まれています。 (空蝉)「待ちたまへや。そこは持にこそあらめ、このわたりの劫をこそ」など言へど (軒端萩)「いで、この度は負けにけり。隅の所どころ、いでいで」と指をかがめて 「十、二十、三十、四十」など数ふるさま、伊予の湯桁もたどたどしかるまじう見ゆ。 すこし品おくれたり。源氏は、負けたと言ってすらすらと盤上の隅の目を数える様子を見て、多少気品には欠けてはいるが・・・・と観察している場面が続きます。(資料2) 「偏つぎ」遊びその南隣りでは、主として女性や幼少の者たちが漢字の知識を競い合う遊戯の場面を具現化しています。漢字の旁(つくり)と偏を組み合わせて文字を作ったり、訓みを答えさせたり、一方を隠し漢字を当てさせるという遊びです。「葵」の巻には、「つれづれなるままに、ただこなたにて碁を打ち、偏つぎなどしつつ日を暮らしたまふに」(手持ち無沙汰に、ただこちらで碁を打ち、偏つぎなどをしては日を暮していらっしゃる)という描写が出て来ます。(資料3) 几帳が部屋の仕切りとなり遮蔽となります。 さらに南隣りでは双六を楽しんでいます。この遊戯もまた上代に中国から伝来してきました。双六盤を部分拡大してみました。併せて、衣裳の文様やかさね色目にもご注目ください。「盤の上に白黒の石(駒)を並べて、相対する二人が交互に二個の『賽(さい)』を『筒(どう)』に入れて振り出し、目の数だけ石を進めて、先に全部の石を敵陣に送り終えたほうを勝ちとする盤上遊戯」(資料1)です。駒の数は各6,12,15と諸説あるとか。双六もまた、『源氏物語』の各所に出て来ます。その圧巻は「常夏」の巻に出てきます。内大臣が近江君を弘徽殿女御に託します。そして、内大臣が女御の御方のところを訪れた時、近江の君の部屋にも様子を見に立ち寄るのです。近江の君は五節の君と双六に興じています。そこでの二人の滑稽な問答を見聞し、内大臣はとんでもない宿縁にウンザリとするという場面です。双六遊びを介してその滑稽な様が描き込まれています。まずは「東の対」の南面に回り込みます。今回、ここには師走(十二月)の年中行事である「仏名会」の場面が再現されています。「幻」の巻の最後の方に、「御仏名も今年ばかりにこそはと思せばにや、常よりもこと錫杖の声々などあはれに思さる」という書き出しから始まり、「仏名会」に関連した様子が書き込まれています。(資料5)初めて「仏名会」が行われたのは、宝亀5年(774)に光仁天皇の宮中でのことと言われています。そして、承和2年(835)に仁明天皇が行って以降、宮中での恒例儀式となり、その後、各地に広まり、寺院などで勤められるようになったそうです。(資料6)仏名会は「毎年12月19日から3夜の間、清涼殿で、過去・現在・未来の三千の仏名を唱えて、その年の罪業を懺悔し消滅させる法会」(資料6)です。貴族の家でも仏名会を催すようになったのです。つまり、「幻」の巻では、源氏52歳の12月(旧暦)に六條院で行われた仏名会の一端を描いています。昨年の8月14日に紫の上が43歳で亡くなり、一周忌を終えた年の暮れに行われました。紫の上が世を去った後、この仏名会の日に、初めて晴れの場で源氏が人々の前に姿を現したのです。(資料5,7)御帳台(みちょうだい)の中に、過去(法蔵比丘)・現在(阿弥陀如来)・未来(弥勒菩薩)の三世の仏を中心に三千仏が描かれた三千仏図が掲げられ、廂には地獄絵屏風が立てられて周囲を囲まれる中で、三千仏に罪障消滅を祈り続ける法会です。 母屋では参集した七僧が仏名経三巻を読み、導師は仏名を唱えながら錫杖を振り鳴らし、御仏名を唱えるたびに礼拝します。僧が薮椿を散華します。それとともに三千仏に香が手向けられます。(資料7) 源氏は導師をもてなします。 この年最後の六條院での仏名会の行事に親王や上達部(かんだちめ)の多くが参列しました。「幻」の巻のこの場面で「例の、宮たち上達部など、あまた参りたまへり」と記しています。(資料5) 東の対の東端にここにも地獄絵屏風を立て渡し、御簾ごしに仏名会に参集する女房たちがいます この場所の屏風絵を部分拡大してみました。地獄の様相の一部が見やすくなるでしょう。この六曲一双のミニチュア版屏風絵の全体が良く見えるように、東の対の南西隅、通路側に展示してあります。 左隻 右隻「幻」の巻では、仏名会を終えて導師が退出するに際し、源氏は導師を前に呼び、盃を与え、併せて禄を与えます。盃を与えるとき、源氏と導師が歌を贈答します。これがこの場面描写の締め括りになっています。(資料5) 源氏 春までの命も知らず雪のうちに色づく梅を今日かざしてん (春までの命があるかどうかも分からないのだから、 この雪の中でほころびはじめた梅の花を 今日は挿頭(かざし)とすることにしよう) 導師 千代の春見るべき花といのりおきてわが身ぞ雪とともにふりぬる (千歳にわたって春にあう花のようにと、院のご長寿をお祈りしておいて、 この白髪の私は、雪が降るのといっしょに年ふりてしまいました。) 風俗博物館内に設置された六條院春の御殿をひと巡りしました。前期展示の大凡をご紹介したことになります。博物館フロアーの北東隅には、「竹取物語」の場面が具現化されています。こちらは既にご紹介していますので、拙ブログ記事をこちらからご覧いただけるとうれしいです。 (探訪&観照 風俗博物館(京都) -4 竹取物語・等身大の時代装束展示)まだまだ見落としている部分や気づいていない事柄が数多くあると思います。是非、実物の具現展示をご覧いただき、当時の衣裳や場面を通じ、平安時代、源氏物語の世界の雰囲気をお楽しみください。そのお役にたてば幸いです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館 p1442) 『源氏物語 1』 新編 日本古典文学全集 小学館 p118-1213) 『源氏物語 2』 新編 日本古典文学全集 小学館 p704) 『源氏物語 3』 新編 日本古典文学全集 小学館 p242-2435) 『源氏物語 4』 新編 日本古典文学全集 小学館 p548-549, p548-5496) 仏名会 :「浄土宗」7) 当日いただいた案内説明資料補遺風俗博物館 ホームページ源氏物語の世界 渋谷栄一氏 ホームページ寝殿造から書院造へ 文化史 :「フィールド・ミュージアム京都」平安の遊びの数々 :「綺陽装束研究所」盤双六(ばんすごろく) :「伝統ゲーム紹介」すごろく :ウィキペディア佛名会 :「浄土宗総本山 知恩院」仏名会 :「石山寺」仏名会 :「清水寺」仏名会 :「東大寺」地獄をのぞいてみませんか? 「熊野観心十界曼荼羅」の世界 :「東京国立博物館」描かれた地獄~浄光寺の六道絵~ 愛荘町立歴史文化博物館 pdfファイル地獄ワンダーランド 三井記念美術館 2017年7~9月 :「ART Age ndA」三井記念美術館 特別展 地獄絵ワンダーランド :YouTube地獄絵 其の三 絵師の魂 :「死の古美術」沙門地獄草紙(沸屎地獄) :「奈良国立博物館」創作佛画 地獄極楽図 六曲一双屏風絵 :「京都佛画研究所」[仏教] 八大地獄って何?今さら聞けない地獄の成り立ち :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -2 十二単の変遷とかさね色目 へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -3 七夕・文月の年中行事、局・女房の日常 へ
2018.03.13
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それでは、宸殿の北面-孫廂と北廂の部分-、そして「東の対」への渡殿(わたどの)にある局の方に周ります。『源氏物語』・「幻」の巻には、「七月七日も、例に変わりたること多く、御遊などもしたまはで、つれづれにながめ暮らしたまひて、星逢ひ見る人もなし」という文から始まる場面があります。源氏が亡くなった紫の上を偲び、七夕の夜に和歌を詠む場面です。 このとき、源氏は 七夕の逢ふ瀬は雲のよそに見てわかれの庭に露ぞおきそふ (七夕の逢瀬の喜びは雲の上の別世界のことと思われ、 この地上では二星の別れを惜しむ涙の露のおく庭に、 わたしの悲しみの涙がさらに降りそそいでいる。) (資料1) という歌を詠みます。この一節をもとに、「展示では二星会合(にせいかいごう)と乞巧奠(きっこうてん)を主とした七夕の夜を紫の上の生前の姿として具現化している」とのこと。つまり、「七夕・文月(七月)の年中行事」をテーマとしています。まずは七月七日の余談から始めます。かつては「相撲節会」が行われたようです。それがいつしか七月下旬の行事となっていったといいます。その角力(相撲)の元祖については、『日本書紀』垂仁天皇の7年秋7月7日の条に記されています。天皇に、おそばの者が、当麻邑(たいまののむら)の当麻蹶速(たいまのくえはや)という天下の力持ちを豪語する勇敢な男のことを話題にします。天皇がこれに勝つ者がいるかと述べられると、一人の臣が出雲国の野見宿禰を挙げたのです。そこで、二人を召し出して7月7日に角力をさせたという記録です。そして、出雲の国から来た野見宿禰が勝ちます。『日本書紀』には、「二人は向かい合って立った。互いに足を挙げて蹴り合った。野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨をふみくだいた。また彼の腰を踏みくじいて殺した」とその経緯を記しています。当麻蹶速の土地を没収し、野見宿禰に与えられたことで、野見宿禰は留まって天皇に仕えたというエピソードです。(資料2)そして、7月7日の夜に移ります。この夜は、牽牛星と織女星が年に一度の逢瀬を楽しむという漢代の伝説「二星会合」から、この二星を祭るという風習が始まったそうです。『万葉集』によると、7月7日の夜を「ナヌカノヨ」として二星会合の和歌を詠む日としていたそうです。例えば、巻八の「秋雑歌」に次の歌ほかが収録されています。(資料3) 山上憶良の七夕の歌十二首 という詞書がついて、 天漢(あまのがは)相向き立ちてわが恋し君来ますなり紐解き設(ま)けな 1518 右は、養老八年七月七日、令に応ふ。 ひさかたの天漢瀬に船浮けて今夜か君が我許(わがり)来まさむ 1519 右は、神亀元年七月七日の夜、左大臣の宅にて作れり。 牽牛(ひこほし)は 織女(たなばたつめ)と 天地の 別れし時ゆ ・・・・ 1520 で始まる長歌のあとに 反歌 風雲は二つの岸に通へどもわが遠妻の言ぞ通はぬ 1511 礫(たぶて)にも投げ越つべき天漢隔てればかもあまた術なき 1522 右は、天平元年七月七日の夜、憶良、天河を仰ぎて作れり。さらに中国(唐代)で織女星に機織や手芸の上達を願う「乞巧奠」の行事が興り、それが日本にも伝わります。この行事は、「庭に祭壇を設け、糸や針、香花や瓜菓・琴などを供え、手芸の上達を願う」(資料4)というものです。平安時代の理想的な女性の条件に、染色技術と裁縫技術に優れていることが挙げられていて、当時の女性は裁縫の技術上達を願わずにはいられなかったとか。『源氏物語』・「帚木」の巻は「雨夜の品定め」の場面が有名です。左馬頭が語る体験談の中に次の一節がでてきます。「はかなきあだ事をも、まことの大事をも言ひあわせたるにかひなからず、竜田姫と言はむにもつきなからず、織女(たなばた)の手にも劣るまじく、その方も具して、うるさくなむはべりし」(たわいのない趣味上のことでも、あらたまっての用件でも、相談しがいがあり、染物の腕前は竜田姫といっても不似合いでなく、仕立物のほうもたなばた姫にも劣らぬくらい、そういう面でも堪能の、たいした女でございました)と。(資料5)そこで、二星会合と乞巧奠が集合し、7月7日の夜の星祭に発展します。牽牛星は農耕の神、織女星は裁縫の神と理解されます。わが国では古来、織姫を棚機津女(たなばたつめ)とも称したことから、「七夕」が「たなばた」と呼ばれるようになったそうです。「七夕の夜は清涼殿の東庭に葉薦(はごも)を敷き、御灯明と香花を供え、星合(ほしあい)ということで二星会合の様を望んだ」(資料6)とか。北廂で、生前の紫の上がその場に居るかの如く、源氏が偲んでいるという想定でしょうか。源氏は「梶(かじ)の葉」に和歌を認めようとしています。「幻」の巻では上記の歌が梶の葉にしたためられたのでしょう。その梶の葉が七夕の祭壇に供えられたのかもしれません。「梶は古来より神に捧げる神聖な木とされていました。」(説明パネルより)七夕の折、短冊に願い事を書き、笹の枝に吊すのは、この名残として継承されている風習です。 紫の上 紫の上の斜め左前の孫廂にいる女房は、伏籠(ふせご)に衣服を掛ける作業をしています。伏籠は衣服に香りをうつすための器具です。(資料6)こちらの女房の傍には、香壺(こうご)や火取という香具が置かれています。香を焚くという作業をしている場面です。一つは、火取で香を焚き、それを伏籠の内側に入れるということで、香を衣服にうつすというつながりになります。この七夕の行事のセクションでは、手芸の上達の願いを七夕に込めるということからの派生するテーマとして、平安女性の務めであった装束の誂(あつら)えや裁縫の場面をテーマとして具現化展示されています。つまり、上掲の源氏に向かって、右側(西北側)の廂には、「裁縫の工程」が展示されています。孫廂の北西端は「打ち物」です。砧で絹を打ち光沢を出す作業の場面です。 「布を裁つ」作業 「ひねる」という作業これは、裏地のついていない単(ひとえ)仕立ての裁ち生地の端に、もち米を練って作った糊(続飯そくい)をつけ「ひねる」という仕立ての作業だそうです。『源氏物語』の中では、浮舟がこの「ひねり」を巧みにできる人として描かれているそうです。源氏に向かい右側には、2つの几帳が大きく間を隔てて遮蔽物として置かれています。そして右側の北廂では、「縫う」作業が行われています。 この縮尺された宸殿の中に、精巧なミニチュアの様々な調度類が置かれ、当時の生活環境が見られる形になっています。この品々とその使われ方などを見ていくのも興味深いところです。立ち位置を変えて違った角度から展示品を眺められるのが、この具現化展示の大きな特徴です。一方、紫の上の居る位置から左側の東廂では、季節に応じた装束を調え誂えることに関わる場面の一端が具現化されています。冬支度の仕立てとして、装束に綿入れを行うための作業をしている一工程だそうです。その背後、南側では、縮みや延びを防ぐための調えとしての「地直し」の作業をしているところだそうです。 装束の整理をしている女房もいます。 宸殿北面の傍の地面に茣蓙を敷き、そこで行っているのは染色作業の一工程場面、糸の染色のようです。これが七夕の「乞巧奠」での牽牛と織女への供え物の祭壇です。2つの祭壇を並べて、牽牛や織女に「貸す」ための楽器が置かれています。ここには和琴が置かれています。箏または琵琶なども並べられたとか。 こちらが牽牛用 こちらが織女用牽牛用との違いの一つは、織女用には裁縫に関係する針が供えられています。その他の供物の内容は両方同じです。詳しくは、展示と説明パネルを現地で対比しながら観察していただきたいと思います。火取が双方に置かれています。供物として一晩中香を焚くために置かれるそうです。一晩中となると、香りを焚き続けるため専用の担当者をはりつける必要がありそうですね。1999年に全国各地での数年間の巡回展覧の最後として、京都文化博物館で「冷泉家の至宝展」を鑑賞しました。その時、知ったのですが、京都御苑の北側に位置する冷泉家では、現在も年中行事の一つとして、旧暦7月7日に「乞巧奠」を継続して行われています。その後、時折、その行事が実施されたという新聞報道などを見聞しています。そのとき購入した図録をあらためて見ますと、この二星へのお供え物をのせる祭壇を星の座とよぶと記されています。図録には「乞巧奠」について、「冷泉家の年中行事」(冷泉貴美子著)の中で説明されています。一部、引用します。(資料7)*星の座は、庭に設けた二星への手向けの祭壇である。大土器(かわらけ)に乗せた二組の海の幸、山の幸他、五色の布、五色の糸、秋の七草、九本の灯台、梶の葉、水をいれて一葉の梶を浮かべた角盥、雅楽器などが手向けの品である。*乞巧奠は陽の高いうちの蹴鞠から始まる。これをあげ鞠という。やがて雅楽の演奏に移り、「二星(じせい:曲名)」の漢詩の朗詠の頃になると、あたりは暗闇の中に沈んでいく。この時、庭の星の座の九本の灯台に明りを入れ、これに向かって座敷より、兼題の和歌を披講する。*流れの座は当座式に当たるものである。男女が向かい合って座り、その間に天川に見立てた白布を敷き、七夕にちなむ恋の和歌の贈答を、鶏鳴を聞くまでくり返すものである。 「局」を覗くと、日常生活の身嗜みの一つである「黒髪」の手入れの場面を取り上げています。平安時代、黒髪は美人の条件として重視され、美しく長い髪が賞賛の対象となっていました。説明パネルには、『大鏡』に記された村上天皇女御芳子の髪の長さの逸話、『源氏物語』に登場する末摘花の長く豊かな髪のこと、『枕草子』の「返る年の二月廿日より」の段の記述、『男衾三郎絵詞』に記された醜女の事例を紹介しています。髪に対する美意識の変化というものが見えてきておもしろいです。それぞれの事例を調べてみていただくのも、一歩踏み込むきっかけになるかもしれません。北面を回り込むと、「東の対」の東面になります。つづく参照資料1) 『源氏物語 4』 新編日本古典文学全集 小学館 p5432) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟 講談社学術文庫 p1413) 『新訂 新訓 万葉集 上』 佐佐木信綱編 岩波文庫4) 当日いただいた展示案内資料5) 『源氏物語 1』 新編日本古典文学全集 小学館 p766) 『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館 p176-1777) 『京の雅・和歌のこころ 冷泉家の至宝展』NHK・NHKプロモーション p19-20補遺七夕の起源 :「七夕(たなばた)のすべて」乞巧奠 :「コトバンク」七夕と乞巧奠 :「お話歳時記」公演 「京都 冷泉家 七夕の雅宴(うたげ) 乞巧奠(きっこうてん) 蹴鞠/雅楽/和歌披講/流れの座」 2017.4.7 :「PRTIMES」乞巧奠(きっこうでん) :YouTube乞巧奠(きっこうでん)(江戸の祭礼と歳事) :「気ままに江戸」七夕辞典 :「京都 地主神社」七夕の笹飾りの由来は?七夕飾りと五色の短冊の意味 :「hibiyakadan.com」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -2 十二単の変遷とかさね色目 へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -4 平安時代の遊び、仏名会・師走(十二月)の年中行事 へ
2018.03.11
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六條院・春の御殿宸殿の南面を西面に回り込みます。通路を挟み反対側には、等身大の美女人形を使い、「十二単(じゅうにひとえ)の変遷」という服飾史がビジュアルに理解できるようになっています。この画像は、宸殿の北西側にあたる通路付近から撮った全景です。第1回でご紹介したエレベータを降りてこの博物館に入った最初の場面の画像を注意深くご覧いただいていると、画像の左端にちょっと違和感をもたれていたことでしょう。まるでガリバーのように、図抜けた女性像が写っているのですから。それがこの衣裳を着た人形です。奈良時代、唐の文化を取り入れて、日本の服制の大綱が確立した時の衣裳の一例がこれだそうです。この人形の傍に衣裳各部の名称も示した説明パネルが個々の人形に掲示されていますので、具体的には現地でお読みいただくとよく理解できるでしょう。「養老の衣服令による四位の命婦礼服」だそうです。すなわち当時の女官の礼服だとか。これが源氏物語のころの十二単に変遷するルーツだそうです。平安時代の初期には未だ唐風が継承されていて、これが当時の「女官朝服」の形式だとか。「平安時代初期の女神像や吉祥天女象などによった貴婦人の姿」になります。平安時代の894年8月、菅原道真は遣唐大使に指名されますが、逆に道真の提言を受け入れて9月には遣唐使派遣が中止されることになります。これを契機にして国風文化と称される日本文化が芽生えて行きます。これがその頃の公家女房装束の晴れの姿だそうです。「裙帯比礼(くんたいひれ)の物具装束(もののぐしょうぞく)」と称するそうです。裙帯とは、「裳の腰につけて左右に長く垂らした紐。官女が正装の時、装飾として用いた」(『大辞林』三省堂)というもの。比礼(ひれ:領布)は領巾(ひれ)と同じでしょう。領巾について手許の辞典には、「奈良時代から平安時代にかけて、正装した婦人が肩にかけて左右に長くたらした薄い布」(同上)と説明されています。そして、平安時代中期になると、日本独自の十二単が完成されるのです。「公家女房晴れの装い」です。つまり、宮中における正装の姿であり、これが「唐衣裳(からごろも)」姿とも称されたそうです。 そして、季節に応じて、この十二単の「かさね色目」を装うことが美しさの条件となり、その女性のセンスの良さを表すことになったといいます。左手に持っているのは「畳紙・帖紙(たとうがみ)」です。「衣冠・束帯のとき、たたんでふところに入れた紙。懐紙」(『日本語大辞典』講談社)のこと。表着(うわぎ)には「浮線藤文」中の「八つ藤丸」の文様が使われています。この文様は指貫(さしぬき)や掌侍(ないしのじょう)の唐衣などに使われたそうです。打衣(うちぎぬ)には胡蝶文様が使われています。紅の袴を着けています。若年で未婚の場合には、濃き色、つまり濃き紅の意味で紫に近い色の袴を着けるそうです。これは「源氏物語絵巻」の「竹河」(上)と「東屋」(下)の場面です。様々な十二単が描き分けられています。ウィキペディアから引用しました。(資料1)そして、江戸時代後期になると、公家女房の正装がこのように変化して行ったそうです。尚、「この姿は天明頃から天保11年(1843)平安朝の裳再興までの姿」だとか。ここでは触れませんが、もう一つ、髪形の変遷にも着目してください。館内の説明パネルには関連事項として言及してあります。訪れられた折にはその点もご注目ください。この等身大の人形を利用した具現化展示のセクションには、実物大の襖も展示されています。時代の雰囲気が醸し出されています。それでは、宸殿の西側側面に目を転じてみましょう。宸殿の母屋の四周を囲む部分は「廂(ひさし)」と呼ばれます。そして、この西の廂の間と簀子を利用して、「かさね色目」の実例をミニチュア衣裳で再現されています。この説明パネルが廂の間の南端に掲げてあります。次の様に具現展示され、それぞれに説明パネルが設置されています。 梅かさね 旧暦11月~2月 藤かさね 旧暦4月頃 白撫子(しろなでしこ)かさね 旧暦4月~6月 紅紅葉(くれないもみじ)かさね 旧暦10・11月頃 雪の下かさね 旧暦11月中旬~春頃まで 松かさね 四季通用・祝いに着る色「かさねの色目」については、長崎盛輝著『譜説 かさねの色目配彩考』が昭和62年(1987)に出版されています。それをもとに構成・編集した本が、平成8年に京都書院アーツコレクションの1冊として文庫本化されました。その本を継承して、長崎盛輝著『新版 かさねの色目 平安の配彩美』という同サイズの文庫本が青幻舍から2006年9月に出版されています。紙面上で「かさねの色目」の名称と配色の実際を見て、配彩美を詳細に知ることができます。しかし、それを衣裳の形にしてみた実際がどういうものかというイメージをつかむことはよほど熟知した人でないと難しいと思います。今回、その配色の組み合わせイメージの代表例にしかすぎませんが、上掲の実物事例という形で見ることができます。このインパクトはやはり大きい!! かさね色目の配色が、こんな感じになるのか・・・・・というところです。これは精緻なミニチュアの衣裳ですが、実物はやはり良い感じ・・・・というところです。対比しながら眺めて行くと、やはりこのかさね色目が一番惹かれるな・・・・という好みが出て来ておもしろいものです。余談ですが、『満佐須計装束抄』には、紅葉の様々として、上掲の「紅紅葉」の他に、「櫨紅葉(はじもみじ)、青紅葉、楓紅葉、捩(もじ)り紅葉」という4種のかさねの色目が載っているそうです、(資料2)「十二単の変遷」セクションの傍の柱には、上段・中段に「有職文様」、下段に「地紋にもなる文様」「それ以外」についての説明パネルも掲示されています。このパネルに列挙されている文様の名称を左から右へという順番でご紹介しておきます。風俗博物館でパネルをご覧いただくか、この名称を手がかりに調べていただくと興味が広がることでしょう。上段:立涌文(たてわくもん)、窠文(かもん)、霰文(あられもん)、浮線綾(ふせんりょう)中段:唐草文(からくさもん)、菱文(ひしもん)、亀甲文(きっこうもん)、小葵(こあおい)下段には、最初に襷文(たすきもん)、そして「それ以外」の見出しの下に次の名称が続きます。朽木形(くつきがた)、繧繝縁(うんげんべり)、高麗縁(こうらいべり)、蕃絵文(ばんえもん)、海賦文(かいぶもん)しっかりパネルの説明を読み、具現展示品の細部まで観察していると、この部分だけでも1時間くらいは楽しめると思います。初めて風俗博物館を訪れた時に、ここで購入した本からいくつか補足説明として、引用しておきます。(資料3)*女房装束とは、朝廷に出仕する高位女官の奉仕姿をいう。*袴に単(ひとえ)、重ね袿(うちき)に裳と唐衣(からぎぬ)を着けた姿を唐衣裳と称し、主上の不在時は唐衣ばかりは略することも許されたが、裳は必ず着けねばならなかった。*平安末期から鎌倉時代には重ね袿を五領までとする「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められる。*五衣の上に、砧打ちをした打衣(うちぎぬ)と二陪(ふたえ)織物の表着を着込め、さらに張袴(はりばかま)を穿いて「物の具」と称して晴の正装とした。*元来の十二単とは、袿を幾枚も着重ねた装束の表現であり、唐衣や裳を着けない寛いだ袿姿を指していたと思われる。つづく参照資料*風俗博物館でいただいた資料と館内の説明パネルを参照1) 源氏物語絵巻 :ウィキペディア2) 『新版 かさねの色目 平安の配彩美』 長崎盛輝著 青幻舍 p56-573) 『源氏物語と京都 六條院へでかけよう』 監修・五島邦治 編集・風俗博物館 p71補遺風俗博物館 ホームページ王朝の華 -源氏物語絵巻- 名品コレクション展示室 :「徳川美術館」国宝源氏物語絵巻 :「五島美術館」源氏物語絵巻 [1] :「国立国会図書館デジタルコレクション」源氏物語絵巻. [2] :「国立国会図書館デジタルコレクション」源氏物語絵巻. [3] :「国立国会図書館デジタルコレクション」 この[1]~[3]は絵巻物の形です。源氏物語絵巻 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 徳川美術館が本形式で出版したもの。十二単の基礎知識 :「民族衣裳文化普及協会」十二単 :ウィキペディア十二単 :「コトバンク」指貫 → 括り緒の袴 :ウィキペディア掌侍 :ウィキペディア有職文様素材集1-2 :「綺陽装束研究所」古典文様(四君子文様・有職文様・吉祥文様) :「着付入門講座」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -3 七夕・文月の年中行事、局・女房の日常 へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -4 平安時代の遊び、仏名会・師走(十二月)の年中行事 へ
2018.03.09
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七条堀川の交差点から堀川通を北に歩むと、通りの西側には興正寺、西本願寺が並んでいます。東側には西本願寺に面して「龍谷ミュージアム」があります。さらに少し北に上がると、冒頭の「井筒佐女牛ビル」が見えます。このビルの5階に、平安時代を感じる博物館があります。この風俗博物館は「源氏物語六條院の生活」をテーマに、平安時代の衣装風俗や宮廷生活・諸行事が源氏物語の場面を介して再現されています。『源氏物語』に関心を抱き、地の利を活かして、宇治市源氏物語ミュージアムで企画された源氏物語関連講座を聴講し始めたころに、この風俗博物館を知りました。現在の場所にリニューアル・オープンされる以前を含めて数度訪れています。既に当時の展示をご紹介していますが、2018年前期の展示が始まりましたので、久しぶりに訪れました。「興正寺細見」というまとめでご紹介した探訪日に、こちらも併せて訪れてきました。入口を入ると、上掲の「風俗博物館」案内表示が置かれています。その先にエレベータがあります。今回は、平安時代の「年中行事」がテーマとなっています。エレベータで5階のフロアーに入ると、 目の前に「祇園御霊会」が具現展示の場面として再現されています。「祇園御霊会」は、「疫病除けの祈祷の御利益を受ける夏の年中行事」です。現在まで継承されている伝統行事である「祇園祭」の起源となるのが「祇園御霊会」です。疫病の流行しやすい旧暦の5月から8月にかけて、京の都だけでなく各地で無病息災を祈る祭礼が行われてきました。「祇園御霊会」が行われた平安時代には、山鉾は未だ登場しません。山鉾が登場するのは鎌倉時代末期から南北朝時代の頃になります。上掲の画像に写っていますが、展示場面のそれぞれには写真入り説明パネルが置かれています。予備知識がなくても展示されている場面と内容が具体的かつかなり詳しく説明されています。説明パネルを読みながら展示を眺めると理解しやすいように工夫がされています。これは上掲場面での説明パネルの一例です。この後のご紹介には、当日いただいた展示案内資料や説明パネルなどを参照して、ご紹介します。時間のゆとりを持って訪れられることをお薦めします。手許の一書には、「祇園御霊会」について次の説明があります。「六月十四・十五の、祇園社すなわち八坂神社の祭礼。社伝によると、貞観11年(869)6月、疫病の流行に際し牛頭天王の祟りによるものとして、素戔嗚尊を祀る祇園社に詣でて、66本の鉾を立て、また神輿を神泉苑に贈ったことに由来するとされる。ただ祇園社の創建は貞観18年ということで矛盾する点もある。そこで『二十二社註式』に従うと天禄元年(970)6月14日ということになる。当初は賀茂川での禊祓も行われたが、平安時代以来、神輿の渡御が主となった。『本朝世紀』長保元年6月14日条には雑芸者が集まり、山なども作られた様子が記されている」(資料1)眺める位置を変えて、この行列を眺める当時の人々の様子を撮ってみました。この「風俗博物館」は「COSTUME MUSEUM」という英文表記をされています。「約400年という長きに渡った平安時代の服飾の流れ」を具体的に展示するということ、当時の「衣装・衣裳」それ自体に重点を置かれています。衣装を当時の生活文化、風俗の中で生きた形に具現展示するという主旨です。それが源氏物語の六條院の生活に仮託されて表現されていると言えます。 この最初に眺める行列部分の先頭には、意匠を凝らした風流傘(ふりゅうがさ)を侍者に差し掛けられた「巫女(みこ)」が騎馬で列に従っています。巫女は唐衣裳(からぎぬも)をつけた正装の十二単衣姿です。巫女の後には、「葱花輦(そうかれん)」と称される「神輿(みこし)」が続きます。ここでは午頭天王(ごずてんのう:素戔嗚尊すさのおおのみこと)の妻であり、祇園社の祭神の一柱である「頗梨采女(はりさいにょ:櫛稲田姫命くしなだひめのみこと)の神輿」だそうです。 宮主(祇園社の神官) 神輿の後には、「細男(せいのう)」と称される覆面をした芸能者が続き、鼓を打ち楽を奏でて、死者を弔う舞を演ずるようです。最後尾には、稚児舞として「延年の舞 花折」を舞う稚児が桜の花の枝を手に続いています。尚、現在では、細男の姿を奈良県の春日大社若宮おん祭りで名残として見ることができ、「延年の舞 花折」は平泉に伝わるそうです。補遺もご覧ください。 この具現展示の先頭で騎乗するのは「乗尻(のりじり)」と称される競馬(くらべうま)の乗り手です。乗り手を「右方(うかた)」「左方(さかた)」と呼びます。左右に分かれて2頭の馬を馬場で走らせて勝負を競ったそうです。それが御霊会の奉納として行われたとか。 「大幣(おおぬさ)」という祓(はらえ)に用いるものが続きます。これに疫病を移して大路を回るのです。大幣の後に、「童(わらわ)」が続きます。大幣を持つ者も同様ですが、この童の額には、祓の姿である「額烏帽子(ひたいえぼし)」がつけられています。童は威儀物の神矢をさしかけた榊の折枝を捧げ持っています。常緑樹である榊の枝は神の永遠の力を表しているそうです。右側のもう一人の童は邪気払いの太刀を榊の枝につけた形で捧げ持っています。「剣鉾(けんほこ:四神旗)」を掲げた人々が続きます。剣鉾は悪霊を祓うとされるものです。その剣鉾に、天上の四方の方角を司る神、青龍(東)・朱雀(南)・白虎(西)・玄武(北)のそれぞれの旗がつけられています。余談ですが、「四神旗(しじんき)」は、「朝廷で、元日の朝賀や即位礼などのさいに大極殿・紫宸殿の庭に立てられた」(『日本語大辞典』講談社)とのこと。 その後に、「鳳輦(ほうれん)」の神輿が続きます。屋根の中央に金銅の鳳凰を据えたのが鳳輦と称されます。この神輿は祇園社の祭神・牛頭天王(素戔嗚尊)を乗せたものです。ここでは具現展示されていませんが、祇園御霊会では、もう一基、八王子(八柱御子神)を乗せた神輿を合わせ、3基の神輿が登場しました。現在の祇園祭でも神輿渡御には3基の神輿が登場しています。そして、四条通の御旅所に3基が鎮座した姿をみることができます。これは祇園祭の一環で既にご紹介しています。当日いただいた資料によると、「神の乗り物としての神輿の起源は諸説あるが、奈良時代の聖武天皇の頃、東大寺の大仏鋳造にあたり、天平勝宝元年(749)に宇佐八幡神を勧請した際、紫の輦輿に乗って奈良の都へ渡御したことに始まるといわれている」そうです。『続日本紀』によると、天平勝宝元年11月19日の条に、「八幡大神は託宣して京に向かった」とあり、11月24日と12月18日の条ではその行路の状況が記録されています。それに続く12月27日の条に、「八幡大神の禰宜尼・大神朝臣杜女<分注。その輿は紫色で、天皇の乗物と同じである>が東大寺に参拝した」という記述があります。(資料2)祓(はらえ)に用いる大幣を持っ者、薙刀を携えた狩衣姿の随身が見えます。白馬に跨がっているには「馬長(うまおさ)」です。馬長とは「祇園の神事に宮中から遣わされ、馬に乗って参列する小舎人童など。」(『大辞林』三省堂)と説明しています。華やかな衣裳を着た騎乗の小舎人童が行列を作って大路を進んだとすると、「馬長は、御霊会における騎馬行列で、御霊会の目玉だった」というのが理解できます。内裏の蔵人が中心になって馬長を調進(=調達すること)していたそうですが、院政期に白河院が祇園御霊会を積極的に支援するようになると、白河院が中心となり馬長を寄せる様になったとか。白河院は院の殿上人だけでなく、内裏・女院の殿上人や摂関家にも馬長の調進をさせるように拡げて行ったと言います。「飢饉となり疫病が流行した時は、その分多くの馬長を寄せ、盛大な御霊会を行うことで御霊(疫神)を慰撫した。しかし、飢饉が続き貴族の経済力が低下していくと、馬長の調進は貴族にとって多大な負担となり、貴族達は馬長の奉仕を何とか逃れようとしたという」状況にもなっていったそうです。逆にみれば、馬長はそれだけ見栄えがする御霊会の目玉になったということでしょう。 そして、編木(びんさらさ)や鼓・太鼓を演奏する「田楽」の集団が続きます。田楽には笛を吹く人も加わります。元来は田植えの前に豊作を祈る伴奏と舞踊が行われ、田楽は豊穣を祈念する意味を担っていたのですが、鎮魂の意味もあったそうです。そこで、水干姿に飾りの藺笠を付けた田楽の集団が、御霊を慰撫する疫病退散の祈願に役割を果たすのです。そして、社寺で行われる田楽を行う職業芸能者が生まれて行きます。田楽は平安中期頃に成立し、中世にかけて流行した芸能です。田楽人の背景には、貴族達がズラリと観覧しているのが見えます。今回の場面ではこの建物が「祇園御霊会」を眺める貴人たちの「桟敷」に見立てられています。祭の見物のために、貴族達は競って道の脇に見物席、つまり桟敷を設けたのです。『年中行事絵巻』などの絵画資料には、様々な桟敷の様子が描かれ、臨時の仮設的な桟敷とともに常設的な桟敷もあったといいます。 儀礼に威儀を添えるために甲冑姿の武者が続きます。「随身の大鎧」です。 大路では、桟敷が設けられる他に、牛車で観覧に来る貴人・貴婦人たちもいます。『源氏物語』で有名なのは、賀茂祭の折の混雑の中で、六条御息所と葵の上との間で引き起こされた「車争い」の場面です。この祇園御霊会の場面では、向かって左端に網代車の一種で、車の屋形や袖などに八葉の文様をつけた「八葉車」が置かれています。右端には染め糸で屋形を覆い飾り、その上に窠文を付けた「糸毛車」が置かれています。(資料1) 左に置かれた牛車、八葉車を観察すると、屋形の側面にある物見を通して、内部の女性の姿が垣間見えます。立ち位置を変えて眺めると、扇をかざした女性の顔も垣間見えます。そのしぐさを眺めると、屋形の中には複数の女性が乗っていることがわかります。細かな部分まで、緻密な具現展示が行われています。装束衣裳という服飾に重点を置いた博物館ですので、それぞれの人形の衣裳、装束は実際の衣裳の精巧なミニチュア版として制作された布地から再現されたものです。一つずつじっくりと観察していくというミクロレベルの楽しみ方もできるところです。この5階のフロアーには、『源氏物語』に登場する光源氏の「六條院・四季の町」のうち、春の御殿の宸殿と東の対(対の屋)の部分が1/4の縮尺で再現されているのです。その建物を時計回りに巡りながら、様々な場面が具現展示されています。今期の企画のテーマでは、七夕・文月(七月)と仏名会・師走(十二月)の年中行事の場面が具現展示されています。その間にサブテーマが組み込まれています。つづく参照資料*当日頂いた展示説明資料と館内展示の説明パネルを適宜参照1) 『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館 p72,p1762) 『続日本紀(中) 全現代語訳』 宇治谷 孟著 講談社学術文庫 p91補遺年中行事絵巻 :「コトバンク」年中行事絵巻 :「国立国会図書館デジタルコレクション」京都大学文学部所蔵 『年中行事絵巻』 所蔵巻一覧のページ毛越寺・延年の舞 花折 民俗芸能アラカルト :「ウチノメ屋敷 レンズの目」春日若宮御おん祭 お渡り式・御旅所 :YouTube「春日若宮おん祭」お渡り式 奈良市 :YouTube2015年 奈良・春日若宮おん祭・お渡り式(先頭から大名行列まで):YouTube 細男座(5:50)、田楽座(7:37)、馬長児(8:03)が含まれています。2010年 春日大社 若宮おん祭より「細男(せいのお)」部分 :YouTube2012年11月3日 春日大社 萬葉雅楽会 細男(せいのお) :YouTube ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 風俗博物館 2018年前期展示 -2 十二単の変遷とかさね色目 へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -3 七夕・文月の年中行事、局・女房の日常 へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -4 平安時代の遊び、仏名会・師走(十二月)の年中行事 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご紹介しています。観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介しています。(こちらは旧所在地での探訪記録)観照 祇園祭点描 -1 神輿渡御・八坂神社御旅所・冠者殿社観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -11 日和神楽と御旅所探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 -19 神幸祭 神輿渡御 (1) 4回のシリーズでご紹介しています。
2018.03.08
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滋賀県犬上郡は多賀町、豊郷町、甲良町の3町で構成されています。これは多賀町の汚水ふたです。『多賀町町勢要覧』を見ますと、町の花「ササユリ」、町の木「スギ」、町の鳥「ウグイス」と制定されています。(資料1)この汚水ふたには、それらが端的にレリーフされています。 これは多賀町の町章です。多賀の「タ」というカタカナを図案化したものだそうです。そして、二代目の町章として、1967年1月に制定されています。(資料2)この町章がふたの中央に線画で描かれ、その内側にウグイスがレリーフされ、町章の上にはスギの木が15本描かれています。そして、町章の外周にササユリの花が12個あります。ウグイスには、「清い歌声が野山のせせらぎに響き渡るような清潔な町」、ウグイスを囲むスギの木には「緑豊かで年輪のごとく歴史と文化にあふれた町」、ササユリには「花の香り漂う心和らぐ町」という願いが込められているそうです。(資料3)もう一つ、こんなバージョンのふたも多賀を訪れたおりに撮っています。こちらはササユリの花が8つになっています。そして、このササユリを観察すると、ふたの中心を通る垂線で左右に分け、上のふたは3つを1組、下のふたは2つを1組にして上下に分けてみます。すると垂線に対して、花の根本の先端が内側向きになり左右対象になっています。ササユリの図柄としては2つのパターンです。均斉がとれている理由がわかりました。写真を撮ったときには気づかなかったことです。犬上郡という名称は、『近江国輿地志略』の巻七十四・犬上郡第一の冒頭に、「日本紀」景行天皇紀に「犬上君」の名が載っているところに由来するとしているようです。(資料4)そこで、『日本書紀』を調べると、景行天皇の51年秋8月4日の条の後半に次の記述があります。「これより先日本武尊(やまとたけるのみこと)は、両道入姫皇女(ふたじのいりびめのひめみこ)をめして妃とし、稲依別王(いなよりのわけのみこ)を生まれた。・・・・その兄の稲依別王は犬上君(いぬかみのきみ)と武部君(たけるべのきみ)二族の先祖である」と。(資料5)また、多賀町は、かつて多賀荘のあった地であり、多賀大社が所在するところにたぶんその名の由来があるのでしょう。(資料4)また、古代よりこの多賀と甲良の辺りに土着の豪族・多賀氏が勢力を持つていたようです。その多賀氏が多賀社を氏神にしていたと考えられるとか。そして、戦国期には甲良の下之郷城を居城とした多賀高忠を始めとする幾人かの武将がいるそうです。関ヶ原の戦いで石田三成方についたことで、多賀氏は没落したといいます。(資料6)多賀大社およびその周辺の史跡探訪を行った時にこのふたを撮りました。(2014.11.22)多賀大社と胡宮神社あたりは複数回訪れています。しかし、河内の風穴また、アケボノゾウの化石が発見され、その全身骨格や動植物の化石が展示されている博物館の所在する「あけぼのパーク」やその近隣にある大岡高塚古墳、土田遺跡は未訪です。いずれ訪れてみたいと思っています。(資料1)多賀神社、胡宮神社、大瀧神社など、見応えのある観光スポットについては、史跡探訪の記録としてまとめてご紹介しています。そちらをご覧いただけるとうれしいです。こちらは、多賀町の西に位置する「豊郷町」の汚水ふたです。豊郷町を起点に平城跡巡りの探訪に参加したを時に撮りました。(2013.10.26) ふたの中央にレリーフされているのが、この町章です。豊郷の「とよ」を図案化したといいます。2代目の豊郷村章として制定されたものが、町制施行(2008年3月6日)後にそのまま町章として継承されたのだとか。「円形にしたのは、町内の和合協力を意味し、上部の両端を左右に出すことで、町の飛躍発展をもたせ」、また豊郷町が「交通の要点にあるので斜めに図を切ることで、その意味をあらわした」と豊郷町のホームページに説明されています。「青森県八戸市:塚本秀樹作」と末尾に記されていますので、公募により村章が決められたということなのでしょう。(資料2,7)というのは、昭和31年(1956)9月に、旧犬上郡豊郷村と旧愛知郡日枝村が合併して、新豊郷村が発足し、それが豊郷町に移行しただけのようです。つまり、現豊郷町は新豊郷村以来、44年の歴史を経ているという次第です。(資料7)町の花は「ツツジ」、町の木は「ウバメガシ」で、これらは昭和59年(1984)1月、つまり豊郷村時代に村の人々から選ばれたものです。ツツジは花の色・形ともに非常に豊富であり、生活環境の緑化、美化の観点からも人気があるのだそうです。またウバメガシは「長寿の木」ともいわれているそうです。「乾燥に耐え、公害にも強く、空気清浄に役立つ事」が選定理由だとか。(資料7)このふたを眺めると、中央の町章の周りを一群の人々が囲み、そのしぐさは踊っている姿です。それは、この豊郷町が「江州音頭発祥の地」であることを表象しているのでしょう。豊郷町を通る中山道沿い、豊郷町下枝に永源寺派「千樹寺」があります。もともとは奈良時代に行基により創建されたと言われています。その寺が永禄元亀の頃に戦火に遭遇し焼亡します。天正14年(1586)に、この地の藤野太郎右エ門が浄財を投じて千樹寺を再建したのです。その落慶供養の余興として、当時の住職が経文の二、三句に節をつけおもしろくくり返し手踊りをして、老若男女と見物客を巻き込んで踊り明かしたのがきっかけで、その行事が続けられたと言います。その後、天明年間に再び千樹寺は消滅。近江商人の又十、藤野四郎兵衛が亡父の意思を継ぎ千樹寺を再建します。弘化3年(1846)7月17日、落慶のための選仏供養を行う際に、歌寅こと西沢寅吉の評判を聞き、彼に経文祭文を取り入れた音頭を作らせて、節をつけて歌い、踊ることを始めたと言います。それが江州音頭の広まる契機となったそうです。(資料8) 中山道端で、千樹寺境内への入口近くに石碑が建立されています。 伝統芸能「扇踊り 日傘踊り」が伝承されています。私は、このことを2012年10月「近江水の宝」という滋賀県文化財保護課の企画の一つ「近江上布の織手と商人の里を歩く」という探訪に参加した時に知りました。 (これは公開ブログ記事を書き始める前でしたので、まとめてご紹介はしていません。)その踊りの輪の外周に刻されているのは、町の花「ツツジ」でしょう。一番外側の図柄は、踊る人と照応する「提灯」です。豊郷町のイメージを浮かび上がらせる図柄になっています。最後に豊郷町で良く知られている箇所を2つご紹介します。一つは「伊藤忠兵衛記念館」です。現在の「伊藤忠商事」「丸紅」のルーツがこの豊郷町です。近江商人の筆頭・初代伊藤忠兵衛の旧邸が記念館となっています。一度、拝見しました。いろいろ見るべきものがありました。 もう一つが、この「豊郷小学校」です。2009年5月30日に旧校舎群がリニューアルオープンしています。ここも訪れています。一見の価値がある小学校の校舎です。楽しいスポットがいくつかありました。犬上郡では、甲良町のマンホールふたが未見です。ここもいずれ一度は訪れて、パート2として付け加えたいと思います。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 多賀町町勢要覧 :「多賀町」2) 滋賀県の市町村章一覧 :ウィキペディア3) マンホール蓋 pdfファイル :「淡海環境プラザ」4) 近江国與地志略 下 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 96/214コマ目5) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟著 講談社学術文庫 p1746) 多賀氏 :ウィキペディア 多賀氏 :「戦国大名探究」7) HARVEST豊郷 豊かな豊郷をめざして :「豊郷町」8) 江州音頭の由来 :「豊郷町」補遺多賀観光協会 ホームページ豊郷町観光協会 ホームページ多賀の豪族 :「岩井國臣の世界」伊藤忠兵衛記念館 :「ITOCHU」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀・湖東 俊乗坊重源の足跡を訪ねて -1 敏満寺城跡、敏満寺遺跡 4回シリーズでご紹介する中で、胡宮神社、多賀大社もご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・湖東 紅葉の多賀を歩く -1 「多賀三社まいり」の紅葉愛でて 7回シリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀 湖東に残る城跡を巡る -1 豊郷町:八幡神社(那須城跡)、高野瀬城跡 3回シリーズでご紹介しています。
2018.02.25
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市章まずは、東近江市の市章のご紹介から始めます。市のホームページからの引用です。調べてみると、”東近江市の東(east)の「e」と「近」をモチーフに、グリーンは豊かな自然を ブルーは清らかな川と環境を レッドは活力を表現。全体として豊かさ・調和・発展・成長・連帯・交流を表し、新生「東近江市」の将来像をシンボライズしています。”と説明されています。(資料1)このご紹介から始めたのは、この市章を取り入れた汚水ふたが既に敷設されているようなのですが、私自身は市域の部分探訪をした範囲ではまだウォッチングできていないのです。東近江市は、八日市市・永源寺町・五個荘町・愛東町・湖東町が合併し、平成17年(2005)2月11日に誕生しました。そしてさらに、蒲生町・能登川町と合併することで、翌平成18年(2006)1月1日に新生「東近江市」になるという経緯を経ています。(資料2)私が歴史探訪で訪れたのはそのなかの限られた市域にすぎないのです。今回はパート1という位置づけにとどまります。東近江市は、西は琵琶湖、東は鈴鹿山系に至り、三重県との県境まで東西に長い都市です。「総面積は、約388平方キロメートル(滋賀県総面積の約9.7%)で、高島市・長浜市・甲賀市・大津市に次いで県内で5番目に大きな市です」(資料2)ということで、ふたウォッチングは歩みだしたところです。歴史探訪に併せたふたウォチングですので・・・・。これは旧「能登川町」の汚水ふたです。能登川の歴史探訪の折に撮りました。ふたの中心に町章が見えます。能登川の「能」という漢字が図案化されています。この町章全体で「能ある鷹は爪を隠す」のことわざを表しているといいます。それで能登川の「能」が鳥の翼と脚の先端の爪を合わせたようなイメージに図案化されているのでしょう。さらに、この「能」は、能力・能率・有能等実力を持つ「能」の意味を表象するそうです。円輪が町章を引き締めているように感じます。その周囲は多角形から同心円に拡大して行く蜘蛛の巣形です。1961年7月に制定された町章は2006年1月の合併で廃止になりましたが、汚水ふたは現役でがんばっています。こちらは、旧「五個荘町」の汚水ふたです。ふたの中心に町章がレリーフされています。昭和30年(1955)4月に制定されたこの町章は、五個荘の「五」を変形して表したものと、実に端的です。当初の東近江市発足で廃止されています。ここも同様にふたは現役です。旧五個荘町では、その30年後の昭和60年(1985)1月に「六心の訓(ろくしんのおしえ)」が制定されています。「はい、すません、ありがとう、私がします、どうぞ、おかげさまで」という6つの言葉です。それをそれぞれに括弧書きで補足してあります。つまり「素直な心、反省の心、感謝の心、奉仕の心、互譲の心、謙虚な心」という具合に。五個荘も近江商人の一翼となった地域です。こてもまた、端的に近江商人の伝統を表しているのでしょう。そんな気がします。そして、この六心は汚水ふたが現役であるのと同様に、現在も営々と継承されているのではないかな・・・・・と推測します。話材を一転させますが、これは兵庫県伊丹市の汚水ふたです。すでに拙ブログ記事でご紹介しています。上掲の五個荘町の汚水ふたと見比べてください。昔、心理学で学んだ「図と地」の関係を端的に示した事例「ルビンの壺」と称される絵を想起しました。現代風に言えば、テトラポットのような形が図柄になっています。五個荘町の図柄はこのテトラポット形そのものを浮き出させています。一方、伊丹市のふたは外形の線でこの形を見せています。この図柄が「毘沙門亀甲文様」と称されるものだということを、最近知ったのです。(資料5)昨日、伊丹市の汚水ふたのご紹介記事に追記しました。こちらはウィキペディアの図の引用です。東大寺金堂の多聞天像です。多聞天は単独の像として毘沙門天とも称されます。(資料6)これは上掲多聞天(毘沙門天)の甲冑の部分図です。胴の右側にこの亀甲文様が描かれているのです。毘沙門天像を各所で見ていますが、見れども見えず・・・でした。この文様を再認識した次第です。こちらは、旧「愛東町」のふたです。ふたの下部には「集落排水」と陽刻されています。旧愛東町は、町の花として「マーガレット」が制定されていました。マーガレットの花が右に描かれ、中央には「Marguerite」と英字で表記し、「アイランド」を「愛Land」と洒落れています。余談ですが、それぞれの地域が独立していたときに制定された花を括弧の中に記しますと、八日市市(ツツジ)、永源寺町(ツツジ)、五個荘町(サツキ)、愛東町(マーガレット)、湖東町(サルビア)、蒲生町(サツキ)、能登川町(キク)でした。また木については、八日市市(アカマツ)、永源寺町(モミジ)、五個荘町(ゴヨウマツ)、愛東町(カシ、花木としてウメ)、湖東町(サザンカ)、蒲生町(サクラ)、能登川町(マツ)です。(資料4,7,8)現在の新生「東近江市」は、市の花を「ムラサキ」、市の木を「イロハモミジ」と制定しています。東近江市の市域に蒲生野があり、万葉の時代に縁深い土地柄です。額田王が詠んだ歌、 あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖ふるに詠み込まれた、「紫野は『ムラサキ』を栽培している野、標野は御料地であった蒲生野をさしています」(資料2)という所から、希少種になっている「ムラサキ」を制定したそうです。イロハモミジはカエデ属の木で、タカオカエデ、イロハカエデとも呼ばれるそうですが、大本山永源寺、百済寺、紅葉公園など市内に秋の紅葉の見所があります。(資料2)その他の地域も訪れて、東近江市自体の汚水ふたの実見とともに、パート2をまとめてみたいと思います。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 市の市章 :「東近江市」2) 東近江市の紹介 :「東近江市」3) 滋賀県の市町村章一覧 :ウィキペディア4) 慣行の取扱いについて 八日市市・永源寺町・五個荘町・愛東町・湖東町合併協議会 資料 協議第18号 pdfファイル 5) 神格性を持った亀甲文様係 伊藤俊治氏 装い-歌舞伎衣装、かつらの美 :「歌舞伎美人」6) 毘沙門天 :ウィキペディア7) 蒲生町 :「WARP 国立国会図書館 インターネット資料収集保存事業」8) のとがわ :「WARP 国立国会図書館 インターネット資料収集保存事業」補遺東近江市 ホームページ図と地 :「デッサンという礎」ルビンの壺 :ウィキペディア臨済宗永源寺派大本山 永源寺 ホームページ天台宗 湖東三山 百済寺 ホームページ滋賀県・紅葉公園&東本誓寺の紅葉 :「4travel.jp」マーガレット :「季節の花300」むらさき :「万葉の花とみどり」万葉集を象徴する植物「紫草(むらさき)」の保存活動 :「万葉の花とみどり」日本マンホール蓋学会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再訪] 滋賀・湖東 能登川東部を歩く -1 佐野天神社、地福寺、数多の地蔵石仏など 5回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・湖東 能登川西部を歩く -1 光照寺・八宮赤山神社 へ 4回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・湖東 景清道を訪ねて~安土から五個荘へ~ -1 浄厳院・安土瓢箪山古墳・鳥打峠 3回のシリーズでご紹介しています。歩く 箕作山ウォーク -1 万葉の森船岡山・十三仏(岩戸山)・小脇山城跡ほか 3回のシリーズでご紹介しています。
2018.02.23
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この2枚は2014年6月時点でJR草津線・甲賀駅構内に描かれていた絵です。忍者といえば、「甲賀・伊賀」が一対のように思い浮かびます。そして、「こうが・いが」とついつい呼んでしまうのではないでしょうか。ところが、「甲賀」は「こうか」、「伊賀」は「いが」なのです。「甲賀」を「こうが」と濁音では発音しないそうです。例えば、「甲賀流忍術屋敷」のホームページをみますと、英文でのページも併載されていますので、ご確認いただけます。「Koka Ninja House (Koka-ryu Ninjutsu Yashiki) と記されています。(資料1)JR甲賀駅も駅舎の正面に、駅名の英文は「KOKA STATION」と表記されています。今回、ご紹介する「甲賀市」も勿論、「こうかし」と称します。そして、こちらが2014年6月の探訪の折に撮ったマンホールの汚水ふたです。中央の円内には二人の甲賀忍者が左右対象にレリーフされ、その周りには手裏剣が散りばめられています。八方手裏剣と二種類の十字手裏剣が描かれています。上記ホームページの「武器と道具」のページで「手裏剣」を見ると、「短刀形、風車形、釘形、針形、槍の穂形などあるが、忍者が主に使ったのは、八方手裏剣、十字手裏剣、せんばん(糸巻き剣)といった風車形のものと、針形のものである。」と説明され、右側には少し違った形の十字と八方、そして二種類の卍形の手裏剣を絵で紹介しています。(資料1)与謝蕪村は、「甲賀衆忍びの砦や夜半の月」と一句詠んでいるとか。(資料2)この蓋は甲賀市が誕生する以前、旧甲賀町の時代に敷設されたものでした。ふたの下部に「こうか おすい」と平仮名ではっきりと、「甲賀」を「こうか」と明記しています。内側の円の外周は町の花「サツキ」がレリーフされているそうです。(資料2,3) 市章上掲の旧甲賀町の汚水ふたは市発足以前ですので、甲賀市について調べてみました。これが市章です。「甲賀の漢字の『甲』の文字をデフォルメしたマークで、外側の円は健康で安心して暮らせる街をイメージし、その中に活気ある街の輝き、未来への希望を表現しています。マークの中心には人を表現し、人が主役の街を表現しています」(資料2)と説明されてます。この市章の図案は公募により決められたそうです。(資料4)甲賀市の花として「ササユリ」が制定されています。「昔から里山の環境によく生育し人と共生してきたササユリは、未来に向けて残していきたい甲賀の里山の自然を象徴する花と言えます。また、甘い香りを放つ薄桃色の花と繊細な姿形は、清楚で気品があり、人を和ませる魅力があります。」という理由でこの花に決められています。近年、ササユリが減少傾向にあるそうですが、地元の人々が保護活動をされているそうです。(資料4)市の木は「スギ」です。古くから甲賀は林業が盛んな土地で、スギはその代表的な木です。「7世紀に伐採・加工されたスギの巨木が市内で出土する」と記されています。市内各地に地名としても残されていると説明されていますので、ネットの地図で確認してみました。甲南町杉谷、甲南町下馬杉、甲南町上馬杉が地名としてあります。石尾池畔のスギを一例として、甲賀市内には銘木・巨木が各地にあるそうです。「その真っ直ぐに伸びる姿は、甲賀市が未来に向かって発展していくイメージとしてふさわしいと考えられます。」というのが選定理由の一つに掲げられています。序でに、市の鳥は「カワセミ」です。この鳥は甲賀市内に広く生息しているそうです。カワセミの姿は「空飛ぶ宝石」とも言われるとか。(資料4)甲賀市は、水口町、土山町、甲賀町、甲南町、信楽町の5町が合併して、平成16年(2004)10月に発足しています。また、上記の「市の花・木・鳥」は、2008年1月に決められています。(資料5)今後はいずれ市域に市章入りで図案化された汚水ふたが敷設されるのでしょうか? 制作されるとしたら、どんなものに・・・・。別のウォッチングの楽しみ、課題ができました。 こちらが史跡探訪の途次に、「旧水口町」で見つけた汚水ふたです。通常の鉄蓋以外に、ラッキーなことにカラー蓋も路上で見かけました。水口では水口神社の祭礼行事である「曳山(ひきやま)まつり」が毎年4月20日に行われています。前日が宵宮で、20日に例大祭・曳山巡行があるそうです。その曳山の車輪と町の花・サツキがこの汚水ふたに図案化されているのです。(資料2,6)この水口は、江戸時代には水口城があった城下町で、東海道五十三次の50番目の宿場でもあります。歌川広重筆「東海道五十三次・水口」をウィキペディアから引用します。(資料8)こちらが旧甲南町の汚水ふたです。「こうなん」という文字の下は、旧甲南町の町章です。これは「こ」という字を端的に図案化したもの。この汚水ふたでは、町章の中に町の木「サクラ」の花が図案化され、外周部には町の花「サツキ」が図案化されています。(資料9)甲南町は、冒頭にご紹介した「甲賀流忍術屋敷」が所在する地域、まさに忍者の里です。旧土山町は未訪。旧信楽町は探訪で訪れていますが、その時点では汚水ふたを残念ながら撮っていません。今後の課題です。土山もまた、かつては東海道五十三次の宿場町です。(資料10)これは歌川広重筆「東海道五十三次・土山」です。江戸を立ち、鈴鹿山脈の鈴鹿峠を越えて、近江国に入って最初の宿場町となります。49番目でした。土山宿-水口宿-石部宿-草津宿-大津宿 が江戸時代の近江の宿場町。大津宿から逢坂山を越えると、京都・三条大橋です。土山は、鈴鹿馬子唄に「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」と歌われています。広重は、参勤交代の行列が雨のそぼ降る土山にさしかかったシーンを捉えたのでしょう。 (2012.9.1)信樂の里に行くと、この巨大なタヌキの像が出迎えてくれます。 そして、大小様々のタヌキに出会えます。かつては様々なデザインの火鉢がこの信樂で主要産品として生産されていた時代があったのです。信樂の陶芸館を訪れた折りに、道路脇で様々な意匠の火鉢を見ることができました。この2枚は信樂の陶器屋さんの店頭の一コマです。信樂が歴史に名をあらわし、現在の私たちが知るのは、奈良時代に聖武天皇が都を転々と変える行動を取ったなかに出てくる「紫香楽宮」を営んだという事績です。信樂の里を訪れると史跡「信樂宮跡」ほかいくつもの地域に遺構があります。また、この地で大仏を鋳造するという試みも行われたとか。(資料10)「町の花」という次元では、甲賀・水口・甲南が「サツキ」、土山が「茶」、信樂が「ツツジ」という設定だったようです。その結果、市域全体として新たに「ササユリ」に決まったという経緯でしょうか。甲賀市全域に関連する汚水ふたについては、ウォッチング課題が残りました。いずれかの機会に再訪して、パート2をまとめてみたいと思います。甲賀・伊賀の対比の関係で少し余談を加えておきます。調べてみると、伊賀市公式観光案内のウエブサイトには、「忍びの国 伊賀上野で忍者に出会う旅」というページがあります。その冒頭に「忍びの国 IGA Official Trabel Guide」と記し、「Journey to Meet Ninja in Oga, Ninja's Home Town」という英訳文も記されています。「伊賀」は「いが」です。当然ながら、「伊賀市」は「Iga city」と併せて表記されています。(資料11)伊賀市のホームページにはトップページに「忍者市宣言」という言葉も記されています。かつては忍術の技と組織力で互いに競った甲賀・伊賀が、現在は「忍術・忍者の里」という遺産を観光資源として相互に競い合う形になっています。あらためてこれもまたおもしろいと思います。血を血で争うのではなく、それぞれの自然環境・史跡・遺跡・忍術/忍者の伝統継承という観光次元で切磋琢磨し競い合うのは、いいですね。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 甲賀流忍術屋敷 ホームページ English Web site 英語版サイト 武器と道具 2) マンホール蓋 pdfファイル :「淡海環境プラザ」3) 甲賀町 :ウィキペディア4) 甲賀市の紹介 :「甲賀市」5) 10年のあゆみ pdfファイル :「甲賀市」6) 水口 曳山まつり ホームページ7) 滋賀県の市町村章一覧 :ウィキペディア8) 水口宿 :ウィキペディア9) 甲南町 :ウィキペディア10) 土山宿 :ウィキペディア11) 紫香楽宮 公式ホームページ :「甲賀市」 紫香楽宮跡 :ウィキペディア12) 忍者に出会う旅 :「伊賀市公式観光案内」 伊賀市 ホームページ補遺忍びの里 伊賀・甲賀-リアル忍者を求めて- pdfファイル水口神社 ホームページ陶芸の森 ホームページ 園内マップ 日本マンホール蓋学会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀・湖東 かくれ里(甲賀)の城跡巡り -1 JR甲賀駅、ササユリ観覧、梅垣城跡 4回シリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 滋賀・湖東 杣の里をゆく -1 杣川・甲南大橋・伊勢街道常夜燈・新宮城・新宮神社 4回シリーズでご紹介しています。探訪 近江・水口岡山城跡とみなくち -1 みなくちのまち(1) 5回シリーズでご紹介しています。
2018.02.22
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近江八幡市は史跡探訪やワンデイ・マーチのウォーキングなどで幾度か訪れています。2012年12月に史跡探訪をした折に見つけて撮ったのがこの汚水ふたです。一目でまず「近江八幡」という文字が目に飛び込んできます。そしてその下の景色です。どこかなと思い、すぐに連想するのが「八幡堀」です。少し蛇行して描かれた水の流れの左右には石垣積みの堤があり、両側には建物が堀沿いに建てられている様です。川の流れの前を眺めると、堀に橋が架かり、その橋のさらに先には山が見えます。この山は「八幡山」でしょう。近江八幡市のホームページには、「近江八幡市の周辺は古くから琵琶湖の東西交通を支えた拠点の一つとして栄え、天正13年(西暦1585年)には豊臣秀次が八幡山城の麓に城下町を開き、西の湖を経て琵琶湖に至る八幡堀を開削した。楽市楽座などの自由な商工業政策が行われ、八幡堀沿いの街は廃城以後も在郷町として発達した。八幡堀沿いの街は舟運で結びついて旧城下町と一体的に展開し、現在の市街地の骨格となった。」(「重要文化的景観に関すること」より)と説明されています。 (資料1)その「八幡堀」が現在は当市の観光資源の一つになっています。 これらは八幡堀を探訪した折に異なる場所で撮った景色です。このふたの図案に合致する景色があるのかもしれませんが、私の散策経験では記憶にありません。これらの3カ所からバーチャル・イメージを描いていただけるのではないでしょうか。八幡堀沿いに歩くことは、近江八幡でのお薦めエリアです。ふたの上部には文字の左右に桜の花が描かれています。近江八幡市のホームページで調べてみますと、市の木に「サクラ」、市の花に「ムシャリンドウ(初夏の花)」と「コスモス(秋の花)」が制定されています。序でに市の鳥は「ヨシキリ」です。(資料1)「ムシャリンドウ」は漢字では「武佐竜胆」「武者竜胆」と書くそうです。一説によると近江八幡市の「武佐(むさ)」で発見されたとか。分布域はより北であり疑問という見方もあります(資料2)。しかし、そう考えると素人的には楽しいですね。もう一つ、ふたの上部左側に、算盤の玉の絵が風に靡く暖簾と思える中に描かれています。近江八幡は近江の八幡商人でも有名です。五個荘・日野・豊郷など地域と同様に近江商人の一つの地域です。算盤の玉は八幡商人を象徴しているのかもしれません。左下の堀傍に植物の葉が描かれているようですが、ムシャリンドウではなさそうです。燕子花の類いのイメージでしょうか。このふたには、市章が組み込まれていませんので、ご紹介します。この市章、市のホームページには由来などを説明したページが無さそうです。調べた範囲では見つけられませんでした。調べていて、ウィキペディアで由来説明を見つけました。織豊時代以前には、近江守護の佐々木氏が観音寺城を拠点に領有していた地域です。佐々木六角という名で知られている佐々木氏です。その佐々木六角の「六角」と「八」を鳩の形にして組み合わせたデザインのようです(資料3)。「八」は八幡から来ているのでしょう。ここには、日牟禮八幡宮が所在します。八幡商人の町でもあります。そして、一つのソースに行きつきました。重複しますが並記しておきたいと思います。「 近江の守護職であった佐々木氏は六角と称し、以来六角は近江の代名詞となった。この六角の中に八幡の「八」を平和のシンボル鳩の形に置いたもの。」(資料4)マンホールのふたではなしに、八幡堀沿いの並木の根元の保護カバーとしての金具に市章とサクラがデザインされているのを見つけました。脇道に逸れます。八幡堀に架かる橋を渡り、「日牟禮八幡宮」の楼門前をそのまま北西方向に歩めば、「八幡公園」があり、「八幡山」への登り口があります。この山に八幡山城が築かれました。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。マンホールのふたの中央辺りに輪郭が描かれた「八幡山」に登りましょう。天気が良いと、この「西の丸址」からの眺望が素晴らしいです。(2009.3.21) この廓から北西~北方向の琵琶湖側の眺望です。「西の丸跡」から「北の丸跡」へは約3分くらいです。また、「鶴翼山」とも称された八幡山山塊の一峰上に、「北之庄城跡(岩崎山城跡)」があります。八幡山の頂上からは北東側で、南津田町・北之庄町に立地しています。こちらの城跡からは、こんな景色を眺めることができまます。近江八幡の水郷では、船頭さんが遊覧船を棹で操りゆっくりと漕ぎ進めるシーンに風情を感じます。 この詩情溢れる風景は、2007年3月に近江八幡市でのワンデイ・マーチというウォーキングに参加したときに撮ったものです。市域の北東部に位置する「西の湖」にはヨシ原の湿地帯が広がり、独特の水郷風景を眺められます。この地域の湿地植物から江戸時代には、「近江表(おうみおもて)」「近江上布(おうみじゅふ)」などの特産物が作られて、近江商人の手を経て流通して行ったのです。「近江八幡の水郷」が2006年に「重要文化的景観」に選定されています。国の選定で全国第一号だそうで、追加申請を重ねて現在は約354haという規模の選定地域になっているそうです(資料1)。西の湖はラムサール条約の登録湿地でもあるとか。(資料4)元に戻ります。近江八幡市の沿革です。近江八幡市は、昭和29年(1954)3月31日に一町四村が合併して誕生しました(八幡町、岡山村、金田村、桐原村、馬淵村)。その後昭和30年代に、野洲郡北里村、武佐村が順次編入され、ここで一旦近江八幡市の市域が確定したそうです。一方、蒲生郡の北部(安土村)、南部(老蘇村)という形で統合されて行政単位となっていた地域が、昭和29年4月1日に合併し「安土町」誕生となり、翌年清水鼻地域が分離したあと、安土町の町域が確定したそうです。その後色々と紆余曲折の経緯があるようですが、結果的に平成22年(2010)3月21日に、それまでの近江八幡市と安土町が合併して、現在の新「近江八幡市」が発足しました。(資料5)市章は、1954年7月に制定されたものが、新近江八幡市にそのまま合併日付の再制定という形で継承されて現在に至るのです。(資料3,4)中世の歴史からみると、近江守護佐々木氏の支配エリアであった地域が、織田信長の侵攻進出により、安土城の築城と安土を中心に城下町が繁栄します。しかし、本能寺の変を経て、安土城が廃城となると、豊臣秀次の八幡山城の築城に伴い、旧安土城下町の大半が八幡山城下に移されて、城下町が形成されるという推移をたどります。かつての小谷城下の町が秀吉により長浜城下に移されたのと同じパターンです。豊臣政権の衰亡は、八幡山城の廃城という結果を迎えます。しかし、ここでこの地域は近江商人が拠点とする商業都市という機能により命脈を維持し続けることになります。幾多の変転を経ながら、マクロでみると行政区域としては再び一つのまとまりに回帰したということでしょうか。そこで、こちらの汚水ふたが繋がってくるのです。2013年8月11日に、安土城跡で夜、大手道に灯りを灯すというイベントが行われました。それを見に出かけた折に、安土城周辺の探訪をしました。安土城のある山頂には大昔に登ったことがあります。この時は周辺探訪でしたが、目に止まったのがこの汚水ふたです。「永楽通宝」という文字が刻まれ、刀の鍔を模した小円が三方向に配されています。その3つの鍔を繋ぐ形で同心円状に描かれた円弧の積み重なりは琵琶湖の水を表象するのでしょうか。信長が安土を拠点にしたのは、交通の要衝地、その地の利であり、琵琶湖の水運の活用だったというのを読んだ記憶があります。日本に「永楽」という年号はありません。手許の辞書を引くと、「室町時代、中国の明から輸入され、流通した銅銭。1411年(明の永楽9年)はじめて鋳造された。室町時代以降、日本の標準通貨となり江戸時代初めまで通用。永楽銭」(『日本語大辞典』講談社)と説明されています。楽市楽座を行った信長は、流通経済と貨幣について、その機能と本質を見抜いていたのでしょうね。調べていて、興味深いことを学びました。この永楽通宝は、明の永楽帝が日本への新たな輸出用の銭として鋳造したものだそうです。そして、輸入に頼れなくなった後は、永楽通宝が日本で鋳造されるようになったそうです。(資料6)汚水ふたから、関心を拡げるとおもしろいものです。もう一つ注目すべき点があります。「安土(あづち)」が「ANZUCCI」と表記されているのです。訓令式ローマ字表記だと「AZUTI」になります。ヘボン式ローマ字表記だと「ADUCHI」。仮に、信長の時代に「あづち」を「あんづち」と呼んでいたとしても、「A」が「AN」と表記されるだけです。(資料7)このアルファベットでの表記法はどこからきたのでしょうか? ネット検索で私が調べた範囲では、現在のポルトガル語とオランダ語にこのCCIという表記は無さそうなのですが・・・・・。ご存知の方があればご教示ください。安土城跡に向かう道路際に、この石標が立っています。 大手道大手道に沿って、その左右には段状に開削された廓の石垣が見えます。平地の道路沿いに見える「南山裾帯廓の虎口」付近の景色です。これは2016年3月に安土城考古博物館に行くときに見つけた汚水ふたです。現時点では新「近江八幡市」と合併したことで、中央にレリーフされた「町章」が廃止になりましたが、当分はこの汚水ふたもまた現役でありつづけるでしょう。この町章は「カタカナの『ア』の字を変形し、西の湖の水流をイメージし、町の発展を表し、土を円形し町民の和を表現している。」(資料4)という主旨で制定されたものです。ふた全体に、六角形が編み目状に繋がっている図柄です。たぶん実質本位・機能本位で制作されたものでしょう。スタンダードからの変形バージョンのように思います。こちらは大阪府豊中市の汚水ふたです。既にご紹介しています。同じ図柄のように思います。汚水ふたをVE的観点から発想すると当然の帰結かもしれません。ちょっと、汚水ふたウォッチャーには楽しみがなくなることですが・・・・・・。尚、近江八幡市には、様々な図柄のマンホールふたがあるということを、「日本マンホール蓋学会」のホームページで知りました。ここでは、自分の足で歩いてウォチングしたマンホールのふたから、連想ゲーム的に想いを拡げて書いています。お陰で、近江八幡市の町歩きの目標と楽しみが増えました。いずれまた、自ら歩いて見つけたマンホールのふたで、パート2としてご紹介できれば・・・・と思っています。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 市の概要 :「近江八幡市」2) 武者竜胆(むしゃりんどう) :「季節の花300」 ムシャリンドウ :「コトバンク」 ムシャリンドウ :「筑波実験植物園」3) 滋賀県の市町村章一覧 :ウィキペディア4) 協議第18号 慣行の取扱いについて 近江八幡市・安土町合併協議会 pdfファイル5) 第1章 新「近江八幡市」の姿と沿革 pdfファイル6) 永楽通宝の謎 :「コインの散歩道」7) 小学校 ローマ字表 (訓令式・ヘボン式併記):「ちびむすドリル小学校」補遺近江八幡市 :ウィキペディア永楽通宝 :ウィキペディア近江守護六角氏と家臣団の城 :「滋賀・びわ湖」佐々木哲学校 トップページ 佐々木六角氏の系譜をはじめ、佐々木氏の研究成果を開示されているブログです。佐々木六角氏の家紋考察 :「近江歴史回廊倶楽部」楽市楽座 :ウィキペディア八幡商人 :「近江商人のふるさと」近江商人 :ウィキペディア近江八幡市立資料館 公式ホームページ滋賀県立安土城考古博物館 ホームページ八幡山城(近江八幡山城)の観光 :「お城めぐりFAN」安土城跡 日本マンホール蓋学会 ホームページポルトガル語 :ウィキペディアWikipedia:外来語表記法/ポルトガル語オランダ語 :ウィキペディアWikipedia:外来語表記法/オランダ語 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 滋賀・近江八幡 秀次の城と城下町 -1 秀次館跡と秀次像、西ノ丸 5回シリーズでご紹介しています。探訪 [再録」 滋賀・近江八幡 琵琶湖の沖島と長命寺 -1 長命寺港、沖島(1) 6回シリーズでご紹介しています。
2018.02.20
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京都の岡崎公園傍にある細見美術館では「細見コレクションの江戸絵画」として「はじまりは、伊藤若冲」と題するの記念展を平成30年(2018)の皮切りとしています。開館20周年記念展Ⅰという位置づけです。若冲好きの私は、この「はじまりは、伊藤若冲」というタイトルに惹かれて、久しぶりにこの土曜日の午後に出かけてきました。冒頭のチラシは今なら各所で手に入るでしょう。この美術館の若冲コレクションが一堂に展示されたのを眺めるのは久しぶりでした。原画を身近に眺めるのはやはりいい!今回のコレクション展示をどこでみたのだろうか・・・・。2003年年末のなんば高島屋での展覧会でした。これがその時に購入していた図録の表紙です。「若冲と琳派」展で、その副題が「-きらめく日本の美-細見美術館コレクションより」です。今回の「はじまりは、伊藤若冲」展では、着色画数点を除くと伊藤若冲の作品は水墨画が中心です。展示室は3セクションだったと記憶しますが、前半に若冲の作品展示があり、後半では、宗達、大雅や狩野派の絵師他のコレクションが併せて展示されています。チラシとこの表紙に載っている「雪中雄鶏図」がやはり微細な描写と彩色の具合がすばらしくて、若冲と名乗る前の初期の作品としてここまで描いていたのかと、再認識しました。款記に「景和」の号が記されていますので、初期の作と解るそうです。細い一本一本の線が力強くかつ優美に延びていてすごい・・・・。2016年に特別展を鑑賞するためにここに来たときは、入場チケットで半券が残ったのですが、今回はこんなシールがチケットの代わりでした。服か鞄などに貼り付けて入場してくださいということです。曜日ごとにシールの色が変化するのでしょうか。この方式は初体験です。こちらが、チラシの裏面です。 作品に番号を付しました。今回の若冲作品の展示でこのチラシに載っているのは1~4の作品です。(薄い図柄に見えるのは割愛)番号1は「糸瓜群虫図」です。右側が一部カットされた部分図で載っていますが、淡い着色の色調で微細克明に描かれた昆虫や虫食いになった糸瓜の葉などが見事です。番号2,3は「瓢箪・牡丹図」で、二幅一対の作品。他の水墨画もそうですが、画に賛が記されているものについては、その賛の原文をそのまま活字体に印刷したものが案内として作品の傍に表示されています。悲しいことに全文を正確に読み下せないのが悲しい・・・・。部分的に判読できる程度。せめて読み下し文でもルビ付で並記してあると、私のような素人には絵の鑑賞の助けになるのに・・・・・と、思った次第。まあ、これは京博の展示でも言えることなのですが。手許の上掲図録には、「瓢箪図」の賛を、こんな風にわかりやすく絵の傍に記しています。引用します。 空カラ化物(ばけもの)降リテ来タ。 痩セッポッチデモ大キナ頭。 ソウデハナクテ神様ガ 起コッテコブシデブンナグル。 ホトケノ道ニ入ラナイ 凡人タチヲブンナグル。 オソロシゲナルコブシダト 見エタガ実ハ瓢箪(ひょうたん)ダ。若冲の描いた絵のモチーフを禅宗の文脈で鑑賞・解釈して賛が詠まれているそうです。何となく水墨画を眺める凡人には、こういう風に意味がわかると、別の視点も見えて一歩踏み込めるんですけどねえ・・・・。やはりちょっと残念。番号4は、「仔犬に箒図」の部分図です。図はご覧の通り、立て掛けられた箒のもとにうずくまる仔犬の絵です。この絵の背景には禅宗の公案「趙州無字」があるようです。犬にも仏性があるかという問いに、趙州が無いと答えたという有名な問答です。それを思うと、この箒からあの寒山拾得の図に描かれる箒を連想してしまいます。水墨画の展示作品の中では、特に六曲一双の「花鳥図押絵貼屏風」が端から2図ずつが一つの対になって、モチーフや構図が構成されているという説明を、なるほどと思いつつ興味深く眺めました。上記の鶏とは趣の違う描法による鶏が対比して楽しめました。同じく「鶏図押絵貼屏風}(六曲一双)も展示されています。やはり若冲の鶏図は見応えがあります。他に楽しめたのは「鼠婚礼図」です。ファンタジーの世界に引き込まれます。「虻に双鶏図」は構図がおもしろい。「朱達磨図」は眉毛とひげ(髭・鬚・髯)の緻密な線描と厳しい眼差しの眼そのものの細部へのこだわりに惹きつけられました。番号5は、俵屋宗達筆「双犬図」です。番号6は青木木米の「富士望見図」。陶工の木米の作品は京都国立博物館で眺めていますが、絵を描いているのを初めてみました。番号7は江戸後期の絵師・浮田一蕙(いっけい、1795~1859)の六曲一双「やすらい祭牛祭図屏風」のうちの「牛祭図」第4扇に描かれている青鬼です。京都・太秦の広隆寺で行われる祭礼行事を描いた屏風です。ちょっとユーモラスな楽しい絵です。一度、この牛祭を見物してみたくなります。細見コレクションの江戸絵画の中では他に、池大雅筆「児島湾真景図」は点描派風の描写部分もあり、印象に残ります。若冲と同様に大雅も点描手法を使っていたのですね。「京の雅俗」のセクションでは、土佐光吉筆「源氏物語図色紙『初音』」、俵屋宗達筆「伊勢物語図色紙『大淀』」、「伊勢物語かるた」に惹かれました。江戸前期の「男女遊楽図屏風」を見るなり、国宝「彦根屏風」を連想してしまいました。今回の「はじまりは、伊藤若冲」展では、図録は作成されていませんでした。しかし、以前に購入していた図録で大凡、事後の再確認ができました。これで、若冲徒然としてご紹介してきたものに一区切りをつけたいと思います。美術展覧会に行き、購入した図録がたくさん眠っています。私の手許にある図録で伊藤若冲の絵が展示された展覧会では、1998年10月、京都文化博物館で、開館十周年記念特別展として、「京(みやこ)の絵師は百花繚乱」という展覧会が最初のものかもしれません。この展覧会は、「『平安人物誌』にみる江戸時代の京都画壇」というサブタイトルが付いていました。当然のことながら、伊藤若冲はこの『平安人物誌』に登場しておりました。有名絵師の一人としての作品展示でした。図録をあらためて見ると、『白鶴図』二幅(京都文化博物館)、「雪中遊禽図」(京都文化博物館)、「鶏図」二曲一隻(兵庫・黒川古文化研究所)という出展です。若冲展ではありませんので、図録表紙は割愛します。一部重複しますが、購入して手許にある若冲に直接関連した図録の表紙とそこに載せられた作品を最後にご紹介します。2000年10月、京都国立博物館にて。これは文化財保護法50年記念事業として、特別展覧会「没後200年 若冲」の図録表紙です。右上:「付喪神図」部分(福岡市博物館)、右下:「紫陽花双鶏図」部分(エツコ・ジョウ プライス・コレクション)、左:「鶏頭蟷螂図」部分(京都国立博物館)、左下:「百犬図」部分(京都国立博物館) 裏表紙上部・中央:「菜虫譜」部分(栃木県・葛生町)、左上:「売茶翁像」部分(京都国立博物館)、左下:「付喪神図」部分(福岡市博物館)、右下:「寒山拾得図」部分(ギッター・コレクション)2006年9月、京都国立近代美術館にて。「プライスコレクション 若冲と江戸絵画」展です。この表紙は、京博の表紙の部分図をさらに拡げたもの。「紫陽花双鶏図」です。 裏表紙こちらは、プライスコレクションの江戸絵画が4作並べて部分図で載っています。序でにご紹介しておきましょう。「源氏物語図屏風」、円山応挙筆「懸崖飛泉図屏風」、雅煕筆「百福図」、鈴木基一筆「群鶴図屏風」からの出典です。2007年5月、京都の相国寺承天閣美術館にて。開基足利義満600年忌記念として開催された「若冲展」の図録です。若冲は相国寺に「動植綵絵」三十幅を寄進しました。これはその中の「菊花流水図」の部分図です。この裏表紙は同じく「動植綵絵」の中の「老松白鳳図」の部分図です。この若冲の代表作である「動植綵絵」は現在宮内庁三の丸尚蔵館の所蔵となっています。この足利義満600年忌記念の折に、120年ぶりに「動植綵絵」三十幅が相国寺に里帰りし、「釈迦三尊像」の三幅と再会を果たすという機会になったのです。現在は、たしかそのデジタル複製画が制作され承天閣美術館で所蔵されています。2016年10月、京都市美術館にて。「生誕300年 若冲の京都 KYOTOの若冲」展の図録表紙です。「布袋図」(京都市美術館)の部分図で、「あかんべ」は何を意味するのでしょう?こちらは裏表紙。「蝶に狗子図」(京都市美術館)の部分図です。この図録の表紙は、若冲の意外な側面を採り上げた感じで飄逸です。2016年12月、京都国立博物館にて。特集陳列「生誕300年 伊藤若冲」として展示されたときの図録です。表紙は「大根に鶏図」の部分図(京都国立博物館)です。こちらは裏表紙。「玄圃瑤華」の中の「10 冬葵」図です。こうして振り返ると、伊藤若冲の絵が私のような一般美術愛好レベルにも知られるようになったのはごく近年ということになりますね。伊藤若冲に関連した歴史小説が出ています。私の読んだのはこの2冊です。澤田瞳子著『若冲』(文藝春秋)と河治和香著『遊戯神通 伊藤若冲』(小学館)です。それぞれについて、読後印象をもう一つの拙ブログで記しています。お読みいただけるとうれしいです。 (クリックでアクセスしていただけるようにしています。)ご一読ありがとうございます。参照資料画像を掲載した各図録『細見美術館名品図録』 細見美術館 平成10年3月発行「はじまりは、伊藤若冲」 出品リスト :「細見美術館」補遺伊藤若冲プロフィール :「古美術 景和」伊藤若冲 :ウィキペディア動植綵絵 :ウィキペディア伊藤若冲の作品画像コレクション :「NAVERまとめ」『平安人物志』 :「日本文化研究センター」 上辺にある明和5年版の項をクリックして、26-27ページを開くと、画家の3人目に「滕汝鈞 字 景和 号 若冲」として載っています。THE PRICE COLLECTION TOP PAGEプライスコレクション 若冲と江戸絵画展 過去の展覧会 :「京都国立近代美術館」細見美術館 ホームページ承天閣美術館 :「相国寺」 名宝紹介 伊藤若冲の世界 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 若冲徒然 -1 「若冲の京都 KYOTOの若冲」展と過去の若冲展 へ観照 若冲徒然 -2 「生誕300年記念 伊藤若冲展」と相国寺承天閣美術館 へ観照 若冲徒然 -3 [番外編] 相国寺承天閣美術館へのアプローチ・前庭 へ探訪&観照 若冲徒然 -4 石峰寺 晩年の若冲と五百羅漢石像ほか その1 へ探訪&観照 若冲徒然 -5 [番外編] 石峰寺 本堂ほか その2 へ観照 若冲徒然 -6 特別陳列(京都国立博物館)生誕300年伊藤若冲と泉涌寺、とりづくし探訪&観照 若冲徒然 -8 伊藤若冲生家跡(錦小路通・錦市場)・若冲の墓・宝蔵寺 へ探訪&観照 若冲徒然 -9 錦市場の若冲絵づくし・錦天満宮ほか へ
2018.02.18
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この汚水ふたは、現在茨木市の一地域となっていて、かつては摂津国島下郡に属する四郷の一つである「安威(あい)」を2016年9月に史跡探訪した際に撮っていたものです。茨木市の汚水ふたも植物が描かれていて、楽しめます。 汚水ふたの中央部を切り出して拡大した画像です。茨木市の年表によると、茨木町・春日村・三島村・玉櫛村の1町3村が合併し、昭和23年(1948年)1月に市が発足しました。この市章は、同年8月31日に制定されたそうです。漢字「茨」を図案化したものであり、同時に中央に「平和の象徴である鳩を表している」とその由来が説明されています。このふたを見つけて一見した時は小鳥がマークに使われているな位にしか眺めていませんでした。茨木市のホームページにアクセスしてみて、ナルホド!と感じた次第です。(資料1)部首の「艸」(くさかんむり)が円弧を描き、「次」という漢字の「にすい」が右の翼に、「欠」の部分が「頭部・左の翼・胴と脚部」にデザインされて「鳩」が表象されています。そして、鳩の下部は半円ではなく、2つの円弧で囲んでいます。中央の鳩を旧茨木町とみると、3つの円弧、つまり春日村・三島村・玉櫛村という3村が集まって、茨木市を形成し、平和な都市づくりをめざして飛びたとうという気持が込められているように見えて来ます。シンプルなデザインでありながら、なかなか巧みだなと思いました。市の花は「バラ」、市の木は「カシ」が制定されています。(資料1)バラ⇒いばら⇒茨木という連想がすぐに働きます。ホームページには赤いバラの画像が載せてあります。今までにご紹介した範囲では、同じ大阪府の豊中市も「バラ」が市の花です。こちらは黄色いバラの画像が市の花として紹介されています。ふたの図柄は東西南北の位置に市章のレリーフのある中心に向かって「バラ」が描かれ、それらの間に「カシ」が描かれています。ふたの外周円がバラとカシの根付く大地を表象しているようです。ホームページの説明では、古来から野生木としてこの地域に生育している樹木であり、現在も庭木や生垣などとして親しまれているそうです。また、「往年の茨木城主中川家の家紋『抱きかしわ』とのかかわりも深く、その芯の強いたくましさが、茨木市の象徴としてふさわしいとして選ばれました。」と説明されています。(資料1)『摂津名所図会』を繙きますと、「茨木」という項目があります。次のように記されています。(資料2)「又茨城と書す。町名二十四。島下郡都会の地なり。交易の商人多し。茨城城は福富氏始て築く。中頃中川清秀居城し、其後片桐東市正且元ここに居城す」と。江戸時代には知られた町になっていたのでしょう。少し脇道に逸れます。この「茨木」の項の前後にいくつかの絵図が載っています。現在の茨木市域に所在する名所史跡です。『摂津名所図会』から引用します。一つは「茨木明神社」です。本文は「茨木神社」の項として記載されています。本文を読むと、祭神は「中央素戔嗚尊、左春日明神、右八幡宮」であり、「茨木庄上中條・下中條の生土神(うぢかみ)とす」と記しています。「延喜式」の神名絡みで説明があり、その後に織田信長の時代、織田方の高山右近がここに在城し、この地の神社仏閣を破壊することが多かったと記します。信長方の破壊を免れるために、明神社を名乗り破壊の難を免れたという経緯が書いてあるという興味深いものです。見開きのページで、「大織冠古廟」が載っています。ここは史跡探訪で訪れたところの一つでもあります。本文には「大織冠鎌足公荒墳」という見出しで説明されています。飛鳥時代の中臣(藤原)鎌足の墓が安威村の西にある「一堆の丘山なり」と記し、安威山と呼ばれていたこと、そして、ここから多武峰に改葬されたことが記されています。島下郡西河原村新屋社の東南一町ばかりのところに、「便(よるべ)の水」という神水があったそうで、世人は「疣水(いぼみず)」と呼んでいたとか。この神水でいぼ・ほくろを洗うときれいになるという霊験で有名だったようです。後世に社を移転し、開墾して田にしたので豊富だった清水が枯れて水量が減ったという顛末まで記されています、その「疣水(便の水)」の北に、「井保桜」と称される一本の桜の大樹があり有名だったことが載っています。見開きで描かれていますので、このあたりではかなり有名だったのでしょうね。現在はどうなっているのか? ネット検索すると、「茨木神社」はホームページがあり、茨木市元町に所在します。一方、「疣水」「井保桜」は、通称「疣水神社」と呼ばれ、正式には「磯良(いそら)神社」という神社が茨木市三島丘1丁目に所在します。補遺をご覧ください。本筋に戻ります。もう一つ、探訪の折に撮ったふたに、こんなのもありました。図柄はほぼ同じなのですが、よく観察すると少し違いがあるのです。冒頭の画像と見比べてみてください。ふたの頂点部分がこちらのふたではバラの木の茎がそのまま描かれています。もう一つ、「おすい」の文字が扇形の中に記されていますが、その上部の図柄も少し違います。他にも変形バージョンがあるのでしょうか?細かくウォッチングしていくと、さらにおもしろい発見があるかも知れません。「防火」と刻されたこんなマンホールふたをみつけました。他の都市では「消火栓」と記されたふたを良くみかけています。このふたがそれに相当して、このふたを開ければ消火栓があるということでしょうか。それとも防火用の流水路があるということでしょうか。確率としては前者のような気がします。このふたは同心円形で放射状に結合円のある幾何学的な図柄です。図柄から連結・連帯・相互関係というイメージが浮かびます。が、実用的機能本位のふたですね。序でに、茨木市の「市の年表」「市のあゆみ」を読むと興味深い事項がいくつかあります。ご紹介したいと思います。(資料1)1.「東奈良遺跡」から銅鐸の鋳型が発見されているということ。縄文時代後半~弥生時代にこの地域で生活していた人々の痕跡が残るのですね。旧石器時代まで痕跡は遡れるとか。2.室町時代に茨木城が築かれたと考えられていること。上記の福富氏と関係するということでしょう。3.江戸時代、西国街道沿いに「郡山宿本陣(椿の本陣)」があり、参勤交代の大名が宿泊に利用したということ。この本陣は現存しているのです。調べてみると5名以上の団体なら事前予約で拝見できるそうです。阪急バス「宿川原」バス停下車 西へ150メートルのところに所在します(茨木市宿川原町)。本陣の門の傍に椿の木があり、毎年五色の花を咲かせたことから「椿の本陣」と呼ばれるようになったそうです。(資料3)4.市が発足した後、昭和29年(1954)~32年(1957)にかけて周辺の6村(安威村・玉島村・福井村・石河村・清溪村・見山村・三宅村)が段階的に合併され、箕面市の一部(豊川村東部)が茨木市に編入された。三宅村の合併を最後にして現在に至っていること。及び、大阪府内では8番目の人口を有する都市となっているとか。5.市のホームページの別ページで知ったことですが、「川端康成文学館」が開設されています。茨木市上中条二丁目11-25に所在。「川端康成は、幼児期から旧制中学校卒業期まで茨木で暮らし、この時期に文学への志を深めました」(資料4)とのことです。「汚水ふた」から思わぬところに関心が移ります。この辺で一旦終わりにします。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 市の概要 :「茨木市」2) 大日本名所図会、第1輯第5編摂津名所図会 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 331/380コマとその前後数コマから3) 郡山宿本陣のご案内 :「茨木市」4) 川端康成文学館 :「茨木市」補遺茨木神社 ホームページ疣水神社 :「タウンページ」日本のパワースポット/大阪 疣水磯良神社 :「55bridgeのブログ」日本の桜 イボザクラ :「このはなさくや図鑑」東奈良遺跡(ひがしならいせき) :「大阪府」東奈良遺跡説明会資料 pdfファイル 大阪府文化財調査研究センター東奈良遺跡 :ウィキペディア東奈良(大阪府茨木市)発掘調査概報 :「全国遺跡報告総覧」(奈良文化財研究所)郡山本陣(椿の本陣) :「古墳のある町並から」茨木市立文化財資料館 :「邪馬台国大研究」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 茨木・安威を歩く -1 地福寺・桑原・安威古墳群・道標 3回のシリーズでご紹介しています。
2018.02.17
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JRの新快速で京都から大阪に行くとき、高槻駅に停車しますがいつも素通りです。このマンホールの汚水ふたは、今城塚古墳の探訪に行った折りに撮りました。景色が描かれた「おすい」のふたです。こういうふたをウォッチングするのは楽しいです。絵を主体にし、下部に「たかつき おすい」と文字が陽刻されていて、その上の小円に「市章」がレリーフされています。高槻市のホームページを見ますと、市章について「大阪市と京都市の市章を組み合わせ、高槻の高をかたちどったもの」と説明されています。(資料1) 大阪市市章 京都市略章こちらがその元となった大阪市の市章と京都市の略章です。両市のホームページから引用しました。これを見て、上掲のふたの市章を見ると、うまくアレンジされて「高」に転じているなと感じます。その後、「京阪両都のちょうど中間に位置し、大きな役割を果たしながら、両都とともに発展する本市の姿」と説明が続くのは、言い得て妙というところでしょうか。そこで「ふた」の景色の読み解きです。左上に描かれた樹木は、「市の木」に制定された「けやき」を描いているのでしょう。そして、右に半分に描かれたのは「市の花」である「うのはな」と理解します。これは「野間の大ケヤキ 全景」 をウィキペディアから引用しました。(資料2)「けやき」の古名は「槻(つきの木)」「つきけやき(強い木の意味)」とも言われていて、室町時代にこの北摂の地には「槻」の巨木が繁茂していたそうです。それで、「高月」という地名が「高槻」になったという伝承があるとか。(資料2)辞書を引くと、「槻」は「ニレ科の落葉高木。ケヤキの変種。古く弓の材とした。ツキノキ。ツク」(『日本語大辞典』講談社)と説明が載っています。また、「ケヤキはきわだつという意味の『けやけし』から生まれたといわれる」(資料3)とか。脇道に逸れます。『万葉集』に「槻」(ケヤキ)が長歌、和歌を合わせて8首詠まれています。その中に、高市黒人がこんな歌を詠んでいます。(資料3) とく来ても見てましものを山城の高の槻群(つきむら)散りにけるかも 巻3 277調べてみて、ケヤキを自治体のシンボルにしているところが、結構たくさんあることに気づきます。近畿では、大阪府の能勢町、三重県(鈴鹿市、菰野町)、京都府(福知山市、舞鶴市)、奈良県(河西町)がそのようです。(資料2)こちらも、ウィキペディアからの引用です(資料4)。「うのはな」は「ウツギ」ともいわれると「市の花」に記されています。「卯の花」という言葉は童謡の『夏は来ぬ』にでてきますね。アジサイ科ウツギ属の落葉低木。「うつせみ」を「空蝉」と書くのと同様にウツギは「空木」です。「うのはな」は、高槻市の西面(さいめ)地区に群生しているそうです。ここは古来から「玉川の里」として有名な地です。『摂津名所図会』に「玉川」の項が載っています。ふたの中央から左下方向に斜めに描かれた部分は川の流れと理解しました。玉川を表象しているのでしょう。「摂津の玉川」です。『摂津名所図会』を読みますと、こう記されています。「三島江の西の方、西面村(さいめむら)田畔(あぜ)の中にあり、名所六つ玉川の其の一なり。土人云ふ、中秋の月此流水にうつる時は、其影二つに見ゆるとなり。和歌には玉川の里を多く詠めるなるべし。卯花・時鳥・揆衣(きぬた)・月・萩・氷柱・氷・あられなどと詠合(よみあはせ)なり」と。これが『摂津名所図会』に描かれた玉川です。見開きページの上半分に「玉川」、下半分には「三嶌鴨神社」が描かれています(資料5)。三島鴨神社は、高槻市三島江に所在します。上記引用文の続きに、玉川を詠んだ和歌が列挙されています。これもご紹介しましょう。 時しらぬ里は玉川いつとてか夏の垣ねをうづむ白雪 定家 風雅集 見わたせば波の柵かけてより卯花咲ける玉川の里 相模 後拾遺集 松風の音だに秋はさびしきに衣うつなり玉川の里 俊頼 千載集 氷柱ゐてみがける影のみゆるかなまことに今や玉川の水 崇徳院 千載集 月さゆる氷のうへに霰ふり心くだくる玉川のさと 俊成 千載集 けふよりは波にをりはへ夏衣ほすや垣ねの玉川の里 前関白 新勅撰集 白妙の衣ほすよりほととぎす啼くや卯月の玉川の里 家隆 続拾遺集 玉川と音に聞きしは卯の花を露のかざれる名にこそ有りけれ 仁和寺後法親王 千載集 卯の花の露に光をさしそへて月にみがける玉川の里 為教 玉葉集この図会が出版された当時の読者には、名前だけで作者の人物像が即座に思い浮かんだのでしょうか。これら詠み人の中で、『百人一首』にも登場するのは、藤原定家・相模・源俊頼・崇徳院・藤原俊成です。後は藤原家隆、藤原為教は姓を思い浮かべられますが、前関白とは? 調べて見ると、藤原道家です。仁和寺後法親王とは仁和寺後入道法親王覚性をさし、仁和寺の五世となった人。鳥羽天皇第5皇子(1129-1169)です。(資料6,7,8)西面地区は、こちらの地図(Mapion)をご覧ください。高槻市の最南部で、淀川の右岸(西側)に位置します。この辺りの淀川が玉川と称されていたのでしょうか。上記の引用文にある「名所六つ玉川」はネットで検索すると「六玉川」という語句として説明されています。そのうち4カ所が近畿にあります。摂津三島の玉川(高槻市)、山城井手の玉川(京都府の井手町)、近江野路の玉川(滋賀県草津市)、紀伊高野の玉川(和歌山県、高野山にある川)です。それに、武蔵調布の玉川(調布の多摩川)、陸奥野田の玉川(宮城県の塩釜市~多賀城市を流れる玉川)が加わり、歌枕として古歌に詠み込まれてきたのです。(資料9) 井手の玉川は、藤原俊成の歌で有名です。井手町の探訪をしたときに知りました。 駒とめてなほ水かはむ山ぶきの花の露そふ井出の玉川 新古今集 野路の玉川は、直接その場所には行っていませんが、草津市の史跡探訪の折に、このことを知りました。萩の名所として有名だったところだとか。源俊頼の詠んだ歌は、 あすも来む野ぢの玉川はぎこえて色なる波に月やどりけり 千載集 231 また、『摂津名所図会』に挙げられいる藤原家隆は、 うづらなく野ぢのたま川けふみれば萩こす波に秋風ぞふく と詠んでいます。 高野山の玉川については、弘法大師が詠まれたという歌があります。 忘れても汲みやしつらむ旅人の高野のおくの玉川のみづ 風雅集 巻16・雑歌『摂津名所図会』に描かれた玉川の景色の次の見開きには、「服部社、霊山寺、大門寺」の景色が描かれこれらの名称が付記されています。「霊山寺」は高槻市霊仙寺に所在するお寺です。「大門寺」は茨木市です。これらは「摂津八十八ケ所霊場」の一つに数えられているようです。(資料10)また、服部社というのは、高槻市宮之川原元町に所在する「神服神社」がそれに該当するそうです。(資料11)「おすいふた」から話材が外れていきそうです。高槻市のホームページを参照していてこんな絵葉書用の画像がダウンロードできました。このご紹介で終わります。 これがその画像です。高槻市のマスコットキャラクター「はにたん」が2011年6月8日に定められたそうです。生まれた場所は「今城塚古墳」、誕生日は高槻市の「ハニワの日」である8月20日だとか。生年は不詳。「はにたんは、今城塚古墳で出土した武人埴輪がモデル」だそうです。詳しくは、こちらからご覧ください。(高槻市マスコットキャラクター「はにたん」について)ご一読ありがとうございます。参照資料1) 市のあらまし :「高槻市」2) ケヤキ :ウィキペディア3) 『普及版 萬葉植物事典』 大貫茂著 クレオ p1784) ウツギ :ウィキペディア5) 大日本名所図会、第1輯第5編摂津名所図会 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 348/380コマめです。6) 新勅撰和歌集 :「お得区案内図」7) 千載和歌集 :「お得区案内図」8) 仁和寺歴代譜 :「総本山仁和寺」9) 六玉川 :「コトバンク」10) 鶴林山霊山寺 :「大阪再発見!」11) 神服神社 :ウィキペディア補遺大阪市 ホームページ京都市 ホームページ三島鴨神社 ホームページ神服神社 ホームページ摂49 霊山寺(高槻市) :「うさみ一の御朱印御首題日記」神峯山大門寺 :「大阪再発見!」インターネット歴史館 トップページ :「高槻市」 今城塚歴史館 トップページ「多摩」か「玉」か 六玉川へ 観字紀行 :「ことばマガジン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 大阪・高槻市 史跡今城塚古墳(いましろ大王の杜) -1 内濠をかこむ内堤を歩く 4回のシリーズでご紹介しています。
2018.02.16
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歴史探訪で長柄や二階堂を訪れたときに天理市のマンホール汚水ふたを撮りました。この時道路で撮ったふたはこの一種だけです。 ふたの中心部にレリーフされているのが「市章」です。天理市のホームページを調べてみて、初めて気づいたのですが、市章のデザインの上部2カ所が少し隙間を開けた形だったのです。これは、「天」の文字を模様化して、梅花を形づくっているそうです。天という文字の第一画の「一」が中央の円形で頂点部で少し隙間を空けた部分です。そして、第三画と第四画がその円を5つの半円形のつながりで囲み、花びらの形にデザイン化されています。「中央の円は丹波市町、外の5つの円は二階堂、朝和、福住、柳本、櫟本の合併5か町村をあらわし、和の精神を尊ぶ緊密な連携発展の意義を表わしています。」(資料1)とのこと。この市章に表象されるように、昭和29年(1954)4月4日に6か町村が合併して、「天理市」が誕生しました。「市のあゆみ」を参照すると、1958年に磯城郡田原本町の4か大字が天理市に編入されて現在の市域ができているようです。市章の制定時点で考えると、中央に市章をレリーフした円から放射状に広がる6つの軸もまた6つの町村を意味するように思えます。各区画に同心円状に小さな方形が描かれているのは、市域に広がる市民の居住地あるいは田畑を表象しているようにも見えます。市章が梅花に模様化されていますので、「市の花」はとみると、やはり「梅 Plum Blossoms」が制定されています。序でに、「市の木」は「いちょう Ginkgo Tree」です。「いちょう」の説明に添えられた「Ginkgo」という単語を知らなかったので、英語の辞書を引いてみました。そして、おもしろいことを知ったのです。「ginkgo, gingko」という見出しで、「[日本語『銀杏』(音読み)から;ginkyo の y を g と誤記したことから」この単語(名詞)ができたそうで、「[植]イチョウ(maidenhair tree)」と記されています(『新英和中辞典』研究社)。一方、手許の図鑑とウィキペディアを参照すると、イチョウの学名は「Ginkgo biloba」です。そして、ウィキペデイアには、「Ginkgo は発音や筆記に戸惑う綴りで、しばしば gingko と誤記されている。植物命名規則に依れば、誤植ならば訂正して、GinkjoまたはGinkyo(Pulle、1946年や、Widder、1948年による主張)とすべきだが、誤植かどうかが分からないため、訂正されていない。」という説明があります。誤記なのか不明なのか、いずれにしてもおもしろい点を見出しました。(資料2)イチョウは、「中国原産の落葉高木。室町時代には日本で栽培されていたといわれ、各地に老木や巨木が多い」(資料3)そうです。イチョウの種子は「ぎんなん(銀杏)」で食用にもなります。一方、イチョウの木材は「まないた」によく利用されてきたそうで、それも高級とされるとか。「イチョウは油分を含み水はけがよく、材料も均一で加工性に優れ、歪みが出にくい特質を持つ。カウンターの天板・構造材・造作材・建具・家具・水廻りなど広範に利用されており、碁盤や将棋盤にも適材とされる」(資料2)といいます。イチョウの英文表記名の方も初めて知りましたので、逆にこちらを辞書で引くと、「maidenhair」とだけ言えば、「[植]ホウライシダ、クジャクシダの類」を意味し、「maidenhair tree」と言うと「イチョウ」のことだそうです。(同上辞書)ウィキペディアには、この maidenhair tree について、おもしろい一説を紹介しています。参照資料2をご一読ください。市の花「ウメ」には「Plum Blossoms」と表記されています。手許の図鑑では、学名としては「Prunus mume」です。blossom を辞書で引くと「花」の意味ですが、plum を引くと「1a 西洋スモモ、プラム b 西洋スモモの木 2(菓子などに入れる)干しぶどう」等と説明されていいます。そして、「比較」と記し、「日本の『梅』はume または Japanese apricot」と付記されています。手許の他の辞書も見ましたが、plumの項で、ウメの意味に言及しているのは見かけませんでした。脇道に逸れました。本筋に戻ります。これはJRの「長柄」駅前の案内板です。古代の天理市域は大部分が山辺郡で、柳本から南は磯城(しき)郡でした。天理市域の東部山麓は、古代の主要道路だった「山の辺の道」が南北に通り、丘陵部から平坦部にかけては古代大和の時代から開け、集落が発展してきた地域です。『万葉集』には数多くの歌が読まれています。上掲の長柄駅周辺図は左側が北になる地図です。そして東の山麓沿いの緑色の道が「山の辺の道」です。また、現在地の長柄駅から上方向(東)に赤い線で道路が表記されています。この道路辺り以南の天理市南部から桜井市北部にかけては、「オオヤマト古墳群」と呼ばれ、初期の古墳約40基の前方後円(方)墳が散在しているそうです。この周辺図には、一駅南の「柳本」駅の東方に、宮内庁が「崇神天皇陵」と治定している「行燈山古墳」があります。逆に、長柄駅より一駅北の「櫟本」駅の東方には、「東大寺山古墳群」やその南に「石上・豊田古墳群」などがあります。(資料4,5)奈良時代の平城京が栄えた時代には、天理市域を上ツ道・中ツ道・下ツ道という古代からの道路網が桜井市に位置する畝傍山・天香久山の近くから平城京まで南北方向に通っていました。上ツ道は現在の国道169号線沿い、中ツ道は国道24号線沿いに位置していたのです。(資料4,6,7)中世になると、天理市域には、数多の城館が存在したようです。1980年に出版された『日本城郭体系』には、櫟本城・苣原(ちしゃわら)城・豊田城・福住城・別所城・山田城・龍王山城など15の城館が紹介されているそうです。(資料4)そして、江戸時代末期に天理教が創始されます。手許の辞書を引くと、「教派神道十三派の一つ。天保9年(1838)中山みきが天啓を受けて創始。天理王命を親神とし『陽気暮らし』を説く。本部は奈良県天理市」(『大日本語辞典』講談社)と説明されています。この地域が「天理教」の隆盛とともに宗教都市として発展してきたのです。「天理」という地名はここに由来するのでしょう。天理教信仰の聖地は「ぢば」と称され、この聖地が「天理市に位置し、天理教会本部の宸殿と礼拝堂は『ぢば』を取り囲むように建てられています」と天理教のホームページに記されています。(資料8)市の花は上記のとおり「梅」です。「梅の名所」というキーワードで検索すると、天理市の名所として挙がってはきません。しかし、市内の散策という観点で見たとき、天理大学正面、山の辺の道、景行天皇陵、天理ダムが「梅のビュースポット」となるそうです(資料9)。意外と梅を眺める穴場になるのかもしれません。市の木「イチョウ」は、天理市役所北側の東西の通り「親里大路」がイチョウ並木であり、黄葉の名所だといいます。(資料10)また、石上神宮には、JR「天理」駅のプラットフォームを含め、天理市内の各所からも見えるという大イチョウがあるそうです。「この大イチョウは、高さ約30m、幹周り3.26m、樹令は約300年と言われています」とか。(資料11)ご一読ありがとうございます。参照資料1) 市の概要 :「天理市」2) イチョウ :ウィキペディア3) 『山渓ポケット図鑑1 春の花』 山と渓谷社 p3364) 『山辺の歴史と文化』 天理大学文学部編 奈良新聞社 p33-415) 行燈山古墳 :ウィキペディア6) ゆっくりゆったり!上ツ道ルート :「奈良県自転車利用総合案内サイト」7) 北下ツ道ルート 奈良まほろばサイク∞リング マップ pdfファイル8) 天理教について 概要 :「TENRIKYO」9) 梅のビュースポット :「はなごよみ」10) 天理市役所周辺 おでかけ :「ぱ~ぷる」11) 大イチョウ 境内MAP石上神宮の歩き方 :「石上神宮」 補遺山の辺の道(北)コース :「散策の路」山の辺の道(南)コース :「散策の路」上街道コース :「散策の路」天理教 ホームページ天理教 :ウィキペディア石上神宮 ホームページオオヤマト古墳群の国史跡指定を求める声明 :「日本考古学協会」オオヤマト古墳群(奈良県天理市) :「古墳を歩く」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 こちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -1 長柄環濠跡、中ツ道跡、天皇神社 4回のシリーズでご紹介しています。探訪 [再録] 奈良・二階堂 下永を歩く -1 前栽駅付近・弥勒堂・星塚古墳・下ツ道・杵築神社 3回のシリーズでご紹介しています。探訪 山辺の道・北辺(櫟本~帯解) -1 和爾下神社 5回のシリーズでご紹介しています。
2018.02.15
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これは大阪モノレールで「大阪空港」駅に着いた時に撮った景色です。2014年10月に「大阪国際空港(伊丹空港)」の南側をぐるりとウォーキングしました。その時に歩いた記録は既にご紹介しています。このとき、ウォーキングの行程でウォッチングしたマンホールのふたを写真に撮っています。そのご紹介です。大阪国際空港は空港のターミナルビルが豊中市の北西端の蛍池西町にあり、滑走路は兵庫県伊丹市の東端部を主体にして、南東端部が豊中市、北東端の一部が大阪府池田市に跨がっています。地図(Mapion)をご覧いただくと一目瞭然です。こちらからご覧ください。冒頭から話が逸れます。国内線の飛行機しか飛んでいないのに、なぜ「大阪国際空港」なのか? なぜ「伊丹空港」と呼ぶのか? なぜ地図にも括弧書きで付記されているのか?そう言えば、かつて、この空港で飛行機を利用したとき、伊丹空港という言葉を使ってもいました。ふと疑問を抱き調べてみました。昭和11年(1936)に当初「大阪第二飛行場」がここに建設されることになったのです。その飛行場が1940年に拡張されます。そして「伊丹空港」と称されるようになったそうです。それが「大阪空港」と改称され、国際便も飛ぶようになって「大阪国際空港」となります。泉佐野市に「関西国際空港」が建設され、平成6年(1994)に開港して国際便がこちらに就航することになりまっす。大阪国際空港では平成6年9月までで国際線が廃止されたのです。「大阪国際空港は『第一種空港』として位置づけられていましたが、空港整備法が空港法という名称に改正されるとともに、空港の区分が見直され、平成20年6月18日より 『国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港』(28空港)として、東京国際、新千歳、福岡、那覇と同様の位置づけとなりました。 空港の名称につきましても、国において名称変更が検討されていましたが、周辺都市の要望などにより、改正前のままの『大阪国際空港』に据え置かれました。」(資料1) という経緯があるそうです。大阪国際空港のWEBサイトがあります。これを見ると、「ITAMI Osaka International Airport」という英文表記と「ITAMIガイド」という言葉がトップページにあります。そして、「大阪国際(伊丹)空港は国内線のみです」と表記してあるのがおもしろい。やはり「伊丹空港」という呼び方にかつての馴染みがあり、わかりやすいということでしょうか。そこで別の疑問が生じました。「大阪第二飛行場? ならば、第一ってどこにあったの?」です。調べると、情報は得られるものですね。ルーツは、大阪市大正区に、大正12年(1923)に水陸両機能の民間空港として「木津川飛行場」が開港されたことにあったのです。ここが大阪飛行場とも呼ばれていたとか。ところが、この飛行場の発着数の限界を迎えるにあたり、堺市大和川辺に大阪第一飛行場、伊丹に大阪第二飛行場を建設し、機能を移転することになったとか。しかし、大阪第一飛行場は計画だけで終わり、大阪第二飛行場が飛行場として実現し、現在に至ることになります。(資料2,3)今まで疑問を抱かなかったので、このことを知りませんでした。本筋に戻ります。大阪空港の滑走路の南端側にぐるりと回り込むために、歩き始めて道路で撮ったのがこの汚水ふたです。中央の小円の中に、市章がレリーフされています。この市章は一般公募をして1939年3月30日に制定されたそうです。”図案化した豊中(トヨナカ)の頭文字「ト」を4個組み合わせて「トヨ(豊)」ともじり、全体の形を「中」と見たてて、「豊中(トヨ中)」としたものです。”とか。そして「図案文字の突起は豊中市が四方八方に発展することを象徴しています。」(資料4)このふたを観察すると、六角形の網状模様がベースになり、内円より外周円にやや寄る位置に6個の小円が配置されています。これは何か意味を持つのでしょうか・・・・。単なるデザインか?ふたのベースに亀甲文(六角形)の網状のものを使うのは、他の都市の何カ所かで見ています。車のスリップ防止という機能的な役割があるのでしょうか。あるいはコストパフォーマンス的な利点でしょうか。 もう一つ見つけたのが、この雨水用のふたです。形式は汚水用のふたと同じです。扇形のところに、「雨水」という文字を入れて識別されていることと、4箇所の小さな円の内側が穴になっているという違いが見られます。路面の雨水が落下できるようにということでしょうか。二つに共通する汚水、雨水の二文字の間に上向きの矢印マークがあるのは何を意味するのでしょう? 疑問が残りました。それはさておき、ふたについては実質本位、機能本位の印象を抱きました。これも一地域だけでウォッチングして撮った「ふた」ですという限定つきです。他のデザインのものがあるかもしれません。ふたには表現されていませんので、序でに調べてみますと、市の木は「キンモクセイ」、市の花は「バラ」が、1966年に市制30周年記念として市民投票で決定されたそうです。(資料4)豊中市のホームページを見ると「キンモクセイ(モクセイ科)」と記された横に「Osmanthus fragrans」と記されていています。これはモクセイの学名で、広義には属する変種、品種の総称をさすようです。同様に「バラ(バラ科)」の横に「Rosa x hybrida」とあります。Rosaがバラ属を意味するようですので、hybridaとの交配によるバラということかと思います。(資料5,6)バラは種類が多いのですね。検索してみて、驚きました。一説に約2万種以上もとか。(資料7)豊中市の地域を歴史的に遡ると、『古事記』に「それで、兄のヒコヤヰは、茨田の連、手島の連らの祖(おや)になったのじゃ」と語られる部分が、神代篇・其の七に出て来ます。この手島の連が摂津国豊島郡(大阪府豊中市・池田市・箕面市あたり)を本拠とした豪族と考えられているようです(資料8)。そして、豊嶋郡という記述は『続日本紀』の称徳天皇の時代、神護景雲3年5月22日の条に「摂津国豊嶋郡の人で、正七位上の秦井手小足(はたのいでおたり)ら15人に秦井手忌寸の姓を賜った」(資料9)と記されています。中世には藤原氏の私領となり、戦国期に至ると、伊丹市のところで触れますが、荒木村重がこのあたりも支配下においた時期があるようです。江戸時代には幕府が政策的に領地を入り組んだ形にして「入組支配」を行ったと言います。意図的にこの地域がまとまることを回避したようです。そして、明治22年(1889)に町村制が施行されたときに、豊島郡豊中村が発足したそうです。豊島郡の中央に集落があったことから名づけられたと伝えられていて、「豊中」という地名ができたのはこのときだとか。そして、豊中村から豊中町に、さらには昭和11年(1936)に、豊中町、麻田村、桜井谷村、熊野田村が合併、豊中市となります。その後、中豊島村、南豊島村、小曽根村、三島郡新田村のうち大字上新田、豊能郡庄内町が段階的に豊中市に編入されて行きます。(資料10)発足時の豊中市を1つに数えると、6カ所が統合されて現在の市域になったようです。想像を膨らませて、6角形や6つの小円は6カ所の統合の表象と受け止めるのもおもしろいかもしれません。伊丹市の方に滑走路の境界沿いに回り込むと、空港のターミナルビルや滑走路など全景を眺められる場所があります。「伊丹スカイパーク」です。ちょっと余談に。伊丹市の昆陽池公園の近くの道路で撮ったのがこの汚水ふたです。伊丹市の名前の由来は、このあたりを領有した伊丹氏が伊丹城を構えていたことに由来するのでしょう。天正2年(1574)に織田信長に仕えていた荒木村重が伊丹城に入城します。そして、有岡城と改名して、摂津国を任されるのです。しかし村重は信長に反乱を起こします。黒田官兵衛がこの城に幽閉されて足を萎えさせたのは良く知られた話です。信長の大軍の包囲により、有岡城は落城します。その後、廃城となります。江戸時代の寛文元年(1661)から明治維新まで、このあたりは京都の公家である近衛家が領有していたそうです。荒木村重・有岡城のことは知っていましたが、近衛家の領地というのは知りませんでした。この汚水のふたの中央にあるのは調べてみると伊丹市の市章ですが、「近衛家(京都の公家で五摂家筆頭)の家紋のひとつである合印紋」を昭和18年(1943)に市章として制定したものだそうです。(資料11)伊丹市のふたは、ベースがテトラポットをイメージさせるような形をつないだデザインになっています。そして、中央の市章を左右と上の三方向で囲むように小円がその中に配されています。こちらは9つの小円です。伊丹町と稲野村が合併して伊丹市が発足し、その後に神津村の編入、宝塚市の一部(旧長尾村の一部)編入という経緯を経て現在に至るようですので、しいて言えば、3という数字がリンクするのかも知れませんが、単なるふたのデザインなのかもしれません。(資料11)こちらも、豊中市と同様に、実質・機能本位という印象を受けます。 【2018.2.22 追記】 その後、他の都市関連で調べていて、思わぬところからベースの文様のことを知りましたので補足します。「毘沙門亀甲文様」と称するそうです。「六角形を下にふたつ、上に一つ結合して人の字形にした」という文様だとか。毘沙門は「毘沙門天」のことです。「毘沙門天の着衣や甲冑に使われていることからその名がつきました」とのことです。 詳しい説明は、「神格性を持った亀甲文様係」(伊藤俊治氏)と題する「装い-歌舞伎衣装、かつらの美」の項(「歌舞伎美人」の記事)をこちらからご覧ください。 そして、この名称がわかったことから、愛知県常滑市が汚水ふたのベースにこの文様を利用されているということを、あるブログ記事で知りました。序でにご紹介します。こちらをご覧ください。(「毘沙門亀甲文様のマンホール[蓋女が行く] :「きょうのちょい福その2」)このことを知れば、少し見方が変わりそう・・・・。それよりも、 この2種類のふたを道路に見つけたときが、楽しい感じでした。彩色されているものの方が、やはりインパクトが強いですね。伊丹市の市の鳥はカモです。「昭和45年、市内の小中学校の理科担当教諭などでつくる協議会が市民の意見を募り選定」(資料11)したそうです。大阪国際空港周辺をウォーキングした時、昆陽池に立ち寄りました。11月ごろには、北の国からカモが昆陽池に飛来するそうです。また、「春には白鳥の抱卵やひなたちを引き連れて泳ぐ可愛らしい姿」を見ることができるといいます。(資料12)こちらのふたは、中央にコブハクチョウを、その周辺に市の鳥・カモが昆陽池に浮かぶ姿を描いていると読み取れます。序でに、伊丹市の市の木は「クスノキ」で、市の花は「ツツジ」が選定されています。法厳寺には高さ28mの大クスノキがあり、兵庫県の天然記念物に指定されているそうです。市役所前にもクスノキがあるとか。ツツジは「緑ケ丘公園や昆陽池公園、瑞ケ池公園、千僧浄水場前、伊丹スカイパークなどには、まとまって植えられています。」と説明されています。開花シーズンにこれらの公園などを訪れると楽しめるでしょうね。京都なら、蹴上げにある浄水場のツツジをまず私は思い浮かべてます。最後の脇道です。伊丹氏に少し関心をいだき、ネット検索で少し調べてみました。摂津国川辺郡伊丹荘、つまり伊丹城を拠点とした国人の伊丹氏は、信長の命を受けた荒木村重に城を包囲され、落城自刃して果てます。それとは別流として、徳川の旗本となった伊丹氏が存在するようです。おそらく同族ではないかとか。(資料13)マンホールのふたから波紋を拡げていくと、結構様々な史実や事象が結びついてきて、興味深いものです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 大阪国際空港の沿革 :「豊中市」2) 木津川飛行場 :ウィキペディア 大阪伊丹空港は予備の第二空港だった :「ROSSさんの大阪ハクナマタタ」3) 大和川国際飛行場について知りたい。:「レファレンス協同データベース」4) 市の概要 :「豊中市」5) キンモクセイ :ウィキペディア モクセイ :ウィキペディア6) バラ科 :ウィキペディア バラ属の種の一覧 :ウィキペディア7) バラの種類 :「公益社団法人農林水産・食品産業技術振興協会」 バラ図鑑 :「NOIBARA」8) 『口語訳 古事記 [完全版]』 訳・注釈 三浦佑之 文藝春秋 p1409) 『続日本紀 (中)』 全現代語訳 宇治谷孟 講談社学術文庫 p44910) 豊中市 :ウィキペディア 豊中の歴史と歩み(市の歴史) :「豊中市」11) 歴史・文化 :「伊丹市」12) 昆陽池公園 :「伊丹市」13) 伊丹氏 :「戦国大名探究」補遺豊中市 ホームページ伊丹市 ホームページ 法厳寺の大クス大阪国際空港 :「国土交通省 大阪航空局」大阪国際空港 ホームページ昆陽池公園 pdfファイル荒木村重 :ウィキペディア遠くからでもその迫力は...法巌寺(ほうがんじ)の大クス~伊丹紹介⑧:「阪急電鉄」【2018.2.22 追記】 毘沙門天 :ウィキペディア 毘沙門天像 :「京都国立博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 歩く [再録] 大阪国際空港ぐるり -1 離着陸プロセスの絶景スポット これを含めて4回のシリーズでご紹介しています。 こちらもご覧いただけるとうれしいです。
2018.02.13
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2018年、私の京博通いは、特別企画「豪商の蔵 -美しい暮らしの遺産-」を見ることから始まりました。京博の平常陳列である名品ギャラリーは勿論1月から様々な企画展示として始まっています。「新春特集展示 いぬづくし ー干支を愛でる-」と「特集展示 御所文化を受け継ぐ -近世・近代の有職研究-」は1月に終了しましたので、見逃しました。ちょっと残念ですがしかたなしです。先日、冒頭の特別企画を見てきました。印象を交えたそのご紹介です。七条通に掲示された「誘い」のパネルの右半分を拡大します。ご紹介のために、作品に番号を追記しました。豪商というのは、泉州の港町貝塚で栄えた商家「廣海(ひろみ)家」のことです。この廣海家は、「米穀の廻船問屋として天保6年(1835)に開業し、肥料商、株式投資、銀行経営などで資本を蓄え、これを活かして地域の産業の発展を支えた」(資料1)といいます。泉州とは和泉国のことです。五畿の一国でした。和泉国は大阪府の南西部地域です。当時の国府は現在の和泉市府中にありました。泉州貝塚は、現在の貝塚市貝塚あたりになるのでしょう。関西国際空港のあるのが泉佐野市で、貝塚市は泉佐野市の北東側に隣接した都市です。江戸時代、泉州貝塚は大名の支配地ではなく、浄土真宗の願泉寺が治めた寺内町だったそうです。寺内町という形で自治都市としての港町が栄えていたということでしょう。「廣海家は、本家にあたる明瀬(みょうせ)家から分家した際に、願泉寺の住職から『広い海』という名を授かりました」(資料1)京博がこの廣海家の敷地にある4棟の土蔵の調査を足かけ6年かけて調査したのだそうです。この廣海家から1,000件を超える作品が京博に寄贈されたのです。そこで今回の「貝塚廣海家コレクション受贈記念」として「豪商の蔵」という特別企画が組まれたのです。「このまれにみる大型寄贈を顕彰し、選りすぐりの優品をお披露目します」(資料1)という次第。 今回の「豪商の蔵」展には、図録が発行されていましたので購入しました。その表紙と裏表紙です。 こちらに番号を追記したものを併載します。作品のご紹介で使います。 (資料2)平成知新館1階の「1F-1彫刻」を除くその他の全展示室・5室がこの特別企画に当てられていました。ひとことで言えば、見応えのある「貝塚廣海家コレクション」です。5室がそれぞれ一つのセクションとして、テーマ別に展示がされています。第1章は「寺内町の廻船問屋」まず冒頭に、六曲一双の「花鳥人物図扇面張交屏風」が目を惹きつけます。廻船問屋を彷彿とさせるものとして、「南蛮屏風」や狩野永信筆「船団図」が展示されています。船団図は宝船図の船のように帆を膨らませた船がズラリと船団を組んで進んでくるところを正面から描いた軸物です。ここに番号7の「青花牡丹唐草文盤」(中国・明時代、口径41.2、景徳鎮窯)が展示されています。第2章「抹茶と煎茶」4棟の土蔵の1棟には茶道具がぎっしりと詰まっていたそうです。泉州堺は茶道の祖たちの生まれたところです。貝塚廣海家もその風を引き継ぎ、茶の湯を支え、満喫することを是としていたのでしょう。番号2は、中山胡民作「富士蒔絵盆」です。径24.2、高2.1の干菓子器。明治元年(1868)制作。これは大坂の豪商・鴻池善右衛門(十代、幸富、1841~1920)から贈られたものだそうです。善右衛門が明治元年の遷都の際に、道中勘定役を無事果たした記念に作り、数寄者に配った20枚のうちの一枚だとか。数寄者の豪商同士には交流があったのですね。(資料2)番号6は勝軍木庵光英(ぬるであんみつひで)作「菊蒔絵棗(なつめ)」(江戸~明治時代、径7.0、高7.32)作者は松平不昧の孫にあたる松平斉貴(なりとき)の御用塗師だそうです。番号13も棗です。近藤道恵作で遠州好(えんしゅうこのみ)の「桐唐草漆絵丸棗」(江戸時代、径7.3、高6.5)遠州というのは小堀遠州で「きれいさび」と呼ばれる茶の湯の道を開いた武士です。作庭家でもあります、私はこんな手毬のような形の棗をこの展示で初めて見ました。番号9は、永楽保全作「金彩色絵菊置上香合(こうごう)」(江戸時代、総高3.4、口径8.2、高台径4.7)永楽保全は江戸時代後半に活躍した京焼の陶工です。千家十職の一つ、土風炉師・善五郎の十一代です。茶道と関わりの深い系譜の陶芸家です。(資料3)番号12は、田邊竹雲斎(初代)作「柳里恭式瓢形花籃(りゅうりきょうしきひさごがたはなかご)」(大正9年・1920、直径30.0、高49.5)柳里恭とは江戸中期の文人画家柳沢淇園(きえん)のことで、この淇園が中国風の花籠を描いているそうです。竹雲斎はそれをヒントにこの花籃を実際に作ったのだとか、緻密な竹の編み方とその竹の色合いに惹きつけられます。全く形が違いますが、早川尚古斎(初代)作「興福寺形牡丹籠」も出ています。これも形がよく、いい色合いです。茶道具が一通り展示品に出ているのですが、門外漢の私がおもしろいと感じたのは、「田楽箱」というのが五種展示されていることです。こんなのもあるんですね。茶懐石での道具なのでしょう。勿論田楽料理のためのもの。そして、このセクションで、なんと、伊藤若冲筆「筍図」を見ることができたのです。茶室で掛けられたのでしょう。他にも軸物が出ています。第3章 「祝宴」番号3,10,11はこのセクションに展示されています。番号3は、偕楽園焼の「交趾釉唐草文花入」(江戸時代、高47.8、口径17.8、高台径16.1)です。偕楽園焼とは、和歌山藩、紀州德川家のいわゆる御庭焼の窯です。番号10は、「青花捻文(せいかねじもん)瓢形徳利」(中国・明時代、高19.6、口径2.4、高台径5.1)この形の徳利は江戸時代以降、茶人を中心に珍重されてきたそうです。これとマッチする感じの「青花雲龍文猪口」が数多く並んでいます。多くの枚数の「青花唐花唐草文皿」も。青花とは「白磁の釉下にコバルト絵付けを施した磁器のことで、青花とは中国における染付の呼称」(資料4)です。番号11は、「淀川名所蒔絵七ツ盃(さかづき)」(江戸時代)径が異なる大小7つの盃がセットになった品です。その名称のとおり、淀川の7つの名所を一つずつ小さい盃から大きい盃に、川を遡るかのように、難波から伏見の名所を描いて行くという趣向の品です。その順番に酒をつがれて飲んでいけば大変でしょうね。いや、酒好きには淀川を呑み干すようで大歓迎かも・・・・。第4章 「趣味と支援」番号8がここに展示されています。「片輪車蒔絵小鼓胴 銘波返(なみかえし)」(江戸時代、径10.1、高25.3) 第1章にも「波に帆蒔絵小鼓胴」が展示され、こちらのセクションには、さらに「夕顔蒔絵小鼓胴」が展示されています。小鼓があれば、能や狂言の趣味の世界では当然のことでしょうが、「狂言面 武悪」「桜蒔絵太鼓胴」なども展示されていて、さらに「鳳凰蒔絵笙」もあります。 興味深いのは「盆石道具」というのが展示されていたことです。さらに、古墳出土品と思われるものや、中国・清時代の「麻江型胴鼓」まで展示品にあることでした。住友家の青銅器コレクションが現在は「泉屋博古館」で鑑賞できるのと同様なのかもしれません。一方で、同時代の芸術家のパトロン的な役割、支援者としての役割を担っていたようです。第5章 「婚礼 -名家のネットワーク」華やかさでいえば、やはりここが楽しめるセクションかもしれません。豪商のかつての婚礼がどういうものだったのかの一端を垣間見ることができるからです。番号1、4,5はこのセクションに展示されています。パネルや図録のメインにもなっているのが番号1の大岡春卜筆「四季草花図屏風」です。六曲一双の屏風。屏風の図柄で全体の構成を見ますと、番号1が屏風の左隻の左端にあたり、その右側に図録の表紙の草花を重ねてご覧いただくと、左端が一部欠落しますがほぼ左隻になります。そして、屏風の右隻の第6扇の半ばから第3扇の左端までが図録の裏表紙に使われている形です。この屏風は、裏面に全く趣の異なる山水風景画が描かれているのです。「天保九如図」と称され、同じ春卜筆です。四季草花図は、宗達風、光琳風にならった描きかたといわれています。大岡春卜(1680~1763)は大坂の画家と言われていて、この屏風は「款記から宝暦2年(1752)、73歳の作と知られる」(資料2)とか。廣海家の婚礼において、背景にこの屏風が使われて撮られた新郎新婦の記念写真が参考資料として会場に展示されていました。祝儀の場を飾る調度として使用されたことがわかります。番号4は、人形類「本咲和子コレクション」の中の一つです。図録によると、46種54点のコレクションだそうです。京博の調査を支援し、寄贈についての中心になり支援された廣海春木氏の実母なのだそうです。この人は石野子爵家の生まれ、「大正天皇即位後の大嘗祭において五節舞姫をつとめ、絵をよくするなど、豊かな感性の持ち主であったという」(資料2)。この人が江戸時代~近代の人形を蒐集し、身近に飾っておられた品々のようです。その一部が展示されています。このセクションでの圧巻は婚礼調度の数々の作品の展示です。それを見たときの第一印象は、江戸時代の大名家の婚礼調度一式みたい・・・・・というところ。どこかの展覧会で見た時のイメージを連想してしまいました。今回の特別企画では、図録によると寄贈品のうちの117件が展示されています。貝塚廣海家という豪商の美しい暮らしの遺産、その姿をひとまとまりとして寄贈されたもの。ほとんどの作品が初公開のものといいます。「豪商」という言葉を抽象語から、具体的イメージの肉づけをして具象語に展開、転換できる機会だと思います。京博の庭に置かれたロダンの「考える人」を入れた写真を撮るのが好きです。冬空の寒気の下で、いつもと変わらず考え続けているこの彫刻像をこんな風に撮って見ました。ご覧ください。 ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「京都国立博物館だより 2018年1・2・3月号」 京都国立博物館2) 『豪商の蔵 -美しい暮らしの遺産-』 図録 京都国立博物館 2018年2月 貝塚廣海家コレクション受贈記念特別企画 3) 永楽保全 :ウィキペディア 千家十職 :「茶の湯 こころと美」4) 青花 :「平野古陶軒」補遺廣海家住宅 :「貝塚の文化財」貝塚寺内町と紀州街道 ホームページ 貝塚寺内町のなりたち 願泉寺 -重要文化財-大阪の寺内町めぐりに貝塚の貝塚御坊願泉寺を訪ねました :「地域活性局 藤丸正明」貝塚の寺内町を歩く 2013年2月14日 :「カメラと一緒に」重要文化財「願泉寺」平成の大修理 :「貝塚の文化財」千家十職 :ウィキペディア御庭焼 :「コトバンク」交趾焼 :「コトバンク」作品紹介 オーギュスト・ロダン 地獄の門 :「国立西洋美術館」地獄の門の人物たち :「静岡県立美術館」地獄の門ロダン美術館~地獄の門~ :「salut! ~パリを楽しもう~」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝! (情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2018.02.12
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2016年。1月はデジカメ持参、南座での「前進座初春特別公演」の観劇です。演目は「夢千代日記」です。2012~2014年の頃と比較すると、正面に掲げられた横長のパネルの表示が変化しています。演目を大きくアピールして誘う形式になりました。2015年はどっちの形式だっただろう・・・・? 記録写真って、やはり必要ですね。前進座を長らく観劇していて、女優自身が主演で登場する芝居を観劇したのは、私にはこれが初めてだったように思います。女形の河原崎国太郎が主演となる芝居はしばしば観劇してきましたが。夢千代日記は今村文美が夢千代(永井左千子)役を熱演していました。早坂暁=原作、志村智雄=台本/志村智雄・橋本英治=演出です。京都国立博物館の見慣れた「誘い」の形式です。京博の春の特別展覧会は「禅 -心をかたちに-」でした。「臨済禅師1150年 白隠禅師250年遠諱記念」という機会からの企画です。(2016.4.18)パネルの左端には、雪舟等楊筆「慧可断臂図」です。洞窟で禅宗初祖となる達磨が面壁坐禅をしています。新光(のちの慧可)が達磨に参禅を請うのです。しかし、達磨は許しません。そこで神光は「自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許可されたという禅機の一場面」(図録より)です。この図を雪舟は77歳の時に描いた旨、図の左下端に記しているのです。雪舟最晩年期の作品。パネルには「見て感じる禅問答」というフレーズが記されています。中央部の上には、一休宗純賛、伝曾我蛇足筆「臨済義玄像」(重文、京都・真珠庵藏)です。その右側には、上から「玳玻天目」(国宝)、「青磁碗 銘『雨龍』」、「牡丹彫木漆塗大香合」(重文)が並んでいます。 右端は、白隠慧鶴筆「達磨像」(大分・萬壽寺蔵)です。ギョロ目の達磨像の左には、十八羅漢坐像のうちの、范道生作「羅怙羅尊者(らごらそんじゃ)」(京都・萬福寺蔵)です。「羅怙羅は釈尊の息子で、醜い容貌をしていたとも伝えられるが、心には仏が宿っているということを、胸を開いて見せている」(図録より)という木造・彩色・漆箔の像です。入口近くの北側の壁面には、狩野山楽筆「龍虎図屏風」(重文、六曲一双、京都・妙心寺蔵)の右隻に描かれた龍が出迎えてくれました。 平成知新館に入る手前では、同屏風の左隻に描かれている虎が会場への「誘い」となっています。箱型パネルの北面には、伊藤若冲筆「竹図」の部分図です。これは「鹿苑寺大書院壁画のうち」の「竹図」。襖4面に描かれた水墨画です。 京博の「禅」とほぼ同時期に龍谷ミュージアムでは、「水 神秘のかたち」という特別展が開催されていました。(2016.4.28)掲示されたポスターに載っているのは、14世紀、鎌倉~南北朝時代の作である「弁才天坐像」(滋賀・MIHO MUSEUM蔵)です。「水の力/ほとけたちと神々の姿/水に祈りて/水の理想郷/水と吉祥/水の聖地」という構成で、水と社寺の関わりを通して、様々な像や絵画、工芸作品が展示されていました。観音様は水瓶を左手に持っています。住吉神は海(水)と関わる神。弁才天の起源はヒンドゥー教の女神です。由来はサラスヴァーティで、これはサンスクリット語で水を持つものという意味だそうです。サラスヴァーティ河を神格化した女神だとか。(図録より)7~9月に、京都市美術館で、「ダリ展」が開催されました。かなり以前にダリの展覧会を見た記憶があります。久しぶりの展覧会に8.17に出かけました。この時はデジカメを持参しなかったので、「誘い」の景色を撮れませんでした。 これが鑑賞後に購入した図録です。引用します。表紙を、1934年に描かれた「謎めいた要素のある風景」が飾っています。図録の文字を除けばほぼ全図がそのまま使われています。裏表紙は勿論、サルバドール・ダリ本人です。ダリの作風が変移していく状況がわかる回顧展でした。やはりダリの本領はシュールな描写の世界にあるなぁと感じた次第です。 (2016.9.9)7~10月に国立国際美術館では、特別展「始皇帝と大兵馬俑」が開催されました。入口前の広場に貼り付けてあったシートがこれです。「カメラやスマホのレンズでのぞくと、兵馬俑が立体的に見えます!」というキャプションが付いています。様々な姿態の実物兵馬俑が会場に点在して展示されている間を巡りながら鑑賞するのはおもしろい体験でもありました。また、複製品の展示でしたが、始皇帝の御用車だったという1号・2号銅車馬の展示は興味深いものでした。展示は「秦王朝の軌跡 周辺の小国から巨大帝国へ」「始皇帝の実像 発掘された帝都と陵園」「始皇帝が夢見た『永遠の世界』 兵馬俑と銅馬車」という三部構成です。キャッチフレースがおもしろいものでした。「『永遠』を守るための軍団、参上。」です。 (2016.9.18)7~9月に、奈良国立博物館では、特別展「忍性-救済に捧げた生涯-」が開催されました。忍性の生誕800年記念として、忍性にゆかりのある名宝・文化財を全国から集めて、その生涯と偉業を偲ぶ特別展でした。PRチラシとともにこの大きなポスターにも「忍性菩薩坐像」(神奈川・極楽寺蔵)が載っています。大きな鼻に澄んだ小さな目が印象的な坐像です。鎌倉時代に奈良で生まれ、律僧の一人となった良観房忍性は、ハンセン病患者や貧者の救済に生涯を捧げ、勧進僧として行動したそうです。1303年、鎌倉・極楽寺で没します。87歳での入滅です。この時に購入した図録には、「笑顔のお坊さん 忍性 すべては、母からはじまった。」というタイトルのDVDが特別付録としてセットになっているというユニークな形でした。この特別展のキャッチフレーズは、「すべては、母から始まった。」でした。チラシに記された忍性の救済行動の一端を転記しておきます。「建てた伽藍83か所、供養した御堂154か所、描いた地蔵菩薩像1355像、病人・貧者に与えた衣服33000着、架けた橋189橋、修築した道71所、掘った井戸33か所、開いた湯屋・療養所5か所、雨乞い・祈祷数知れず」というものです。 10月は、まず岡崎公園の京都市美術館へ。10~12月に「若冲の京都 KYOTOの若冲」展が開催されたのです。ここに掲示のパネルにある若冲の絵は、 美術館の正面南側の上部壁面に、掲げられています。 (2016.10.12)2016年は若冲の生誕300年にあたりました。そのため、京都市内の各地で若冲関連の展覧会が幾分重なりながら開催されました。これもその一つでした。上掲の一つは「竹に雄鶏図」(紙本墨画)の部分図。もう一つは「老松鸚鵡図」(絹本着色)の部分図です。図録によれば、後者は絵の署名の仕方から、若冲が「動植綵絵」に着手する以前の制作と推定されています。図録の表紙には「布袋図」(紙本墨画)のあかんべえをする布袋さんと、裏表紙には「蝶に狗子図」(紙本墨画)の狗子をクローズアップして載せているのがユーモラスです。この展覧会で、若冲が鯉と鶴もたくさん描いていることを知った次第です。 この日は、京都国立近代美術館とのはしごをした鑑賞日です。京都市美術館に行く前に撮ったのがこの景色。9~12月に「メアリー・カサット展」が開催されました。近代美術館の正面には、こんな「誘い」のディスプレイが設置されていました。北側の壁面は近代美術館での「誘い」の普段の形式です。知らない画家だったので、鑑賞してみたくなったのです。キャッチフレーズは「あふれる、愛の眼差し。」でした。PRチラシには、「日本では35年ぶりの大回顧展」と記されています。「母子像の画家」として有名な人だとか。19世紀後半にパリで活躍したアメリカ出身の女性画家です。カサットもまた日本の浮世絵から影響を受けた画家の一人だったらしく、喜多川歌麿、葛飾北斎の浮世絵が数点ずつ展示されていました。「誘い」のパネルに載っているのは,1896年頃に描かれた「母の愛撫」という作品です。一方、壁面に掲示のポスターは、1878年に制作された「桟敷席にて」です。この絵を眺めて面白かったのは、桟敷席からオペラグラスで舞台を熱心にみつめる女性に対して、左斜め上の位置の桟敷にいる紳士が身を乗りだしてオペラグラスで桟敷の女性を眺めているのを描き込んでいるのです。ここにカサットの意図があるとか。「脇目もふらずに舞台を見つめる彼女は、見られる対象ではなく見る主体としての近代的な女性像を示唆する」と図録に解説が記されています。(図録より)10~11月、京博の晩秋の特別展覧会は「坂本龍馬」展でした。2016年は龍馬の没後150年にあたることによる企画展でした。この七条通に面した「誘い」のパネルには、様々な情報が含まれています。右端の龍馬像は一番よくみかけるものです。長崎の上野彦馬撮影局で慶応2年頃に撮られた「坂本龍馬湿板写真」です。右足許には、歌川貞秀画「肥前長崎丸山廓中之風景」三枚続の左半分です。中央の下部には「ペリー来航図巻(甲寅記事画巻)」に描かれた蒸気船軍艦です。そして、中央の文字「龍馬」の左には、板倉槐堂筆「梅椿図(血染掛軸)。その左の一番上は、龍馬書簡で「文久3年3月20日 坂本乙女宛」のもの。刀は、たぶん「銘吉行 坂本龍馬佩用」です。その下の彩色絵が載っているのは、前川五嶺筆「近世珍話」という絵巻物・三巻のうち下巻に載る部分です。一番下は、千葉定吉筆「北辰一刀流長刀兵法目録 龍馬宛」の末尾。左端に坂本龍馬殿と明記されています。ここに、龍馬の生きた時代と人生が点描されているとも言えます。そして、このパネルには、「龍馬は、手紙の中に生きている-」というフレーズが記されています。「誘い」のパネル掲示の定位置である北側の壁には、パネルでは飛ばした龍馬書簡の中でも特に有名な箇所が拡大して載せてあります。龍馬が日本初の新婚旅行をした人物ではないか?とよく言われる手紙で、「霧島山登山図」がスケッチされているものです。 (2016.10.26)平成知新館への手前の箱型パネルには、再び龍馬の肖像写真が出迎えてくれます。館内に入ると、記念撮影コーナーには、「坂本龍馬の像」が置かれていました。 箱型パネルの北面は、今回次の特別展覧会「海北友松」の予告です。あのダイナミックな龍が使われています。 奈良の晩秋、恒例の「正倉院展」(第68回)の期間も残り少なくなった11.2に出かけました。この時は、何とこの1枚を撮っていただけでした。ポスターに載っているのは「漆胡瓶(しつこへい:ペルシャ風の水差し)」(北倉)です。図録によると、唐からの将来品の可能性が高い、唐文化を伝える宝物のようです。もう一つは、「磁皿(じざら:二彩の碗)」(南倉)です。緑釉と白釉で飾られた二彩陶器です。(図録参照)この後、東大寺境内を探訪し、巡ったまとめは既にこちらで再録しています。ご蘭いただけるとうれしいです。 (2016.11.13)相国寺の承天閣美術館では、勿論「伊藤若冲展」が開催されています。美術館への入口傍の案内掲示板には、12月後半から翌年(2017)にかけての「伊藤若冲展[後期]」の案内ポスターも掲示されていました。10~12月に、京都文化博物館では「黄金のファラオと大ピラミッド展」が開催されていました。ここは確かいつも通り、案内板のところにポスター掲示だけだったと思います。記録写真がありません。これが当日購入した図録と一緒に手許に残していた事前のPRチラシです。国立カイロ博物館所蔵品の展覧会でした。「エジプトの至宝 光輝く黄金のマスク登場!」がチラシに記されているキャッチフレーズでした。これは「アメンエムオペト王の黄金マスク」です。展示室の最後のセクションに出展されていたと記憶します。図録をあらためて参照しますと、この王の治世は紀元前993~984年頃で、第3中間期、第21王朝だとか。フランスのエジプト学者ピエール・モンテが、1939年にデルタ地帯東部の遺跡タニスで発見したといいます。チラシの裏面に掲載されているのですが、やはり「アメンエムペルムウトの彩色木棺とミイラ・カバー」を間近で眺めるのは見応えがありました。12月の顔見世興行は出かけませんでしたが、12.11に京都観世会館で「杉浦定期能」を拝見する機会をえました。能の演目は「江口」と「猩々」で、間に仕舞と狂言「柑子」があるという構成でした。京都観世会館は掲示案内板に各例会などのポスター掲示がしてあるだけです。敢えてそれ以上に「誘い」をする必要はないというところでしょうか。一定数の鑑賞者が保たれているのでしょう。2016.12.13から2017.1.15にかけて、京博では特集陳列として「生誕300年 伊藤若冲」が企画されていました。そこで展示が始まった直近の16日に鑑賞に出かけました。そして時期を合わせて、新春特集陳列として「とりづくし-干支を愛でる-」という企画展も開催されていました。2017年の干支「酉(とり)」にちなんだ美術作品の展示です。それぞれ点数はそれほど多くはないですが、静かな雰囲気の中でゆっくりと鑑賞でました。今までに幾度か見ている若冲の作品を改めて鑑賞する機会になりました。「六歌仙図押絵貼屏風」という六曲一隻の本邦初公開という作品を見ることができたのが収穫でした。近年見出された大作で、若冲六、七十歳代の制作と考えられいるようです。また、「蝦蟇河豚相撲図」という前代未聞のおもしろい絵を楽しめました。ヒキガエルとフグに取組をさせるという発想はどこからきたのでしょう? 図録の解説には一つの可能性が示唆されています。 (図録参照)2016年はこんなところで年末を迎えることになりました。2016年4月から、楽天ブログに引っ越してきて、拙ブログ記事を書き始めましたので、この2016年末までをまとめると、大凡消滅したブログ・サイトでの「観照」記録をカバーできることになります。私にとっての記憶のインデクスをまとめることができました。この後は、適宜個別の「観照」まとめ記を続けていきたいと思っています。ご一読いただきありがとうございます。参照資料展覧会で購入した図録や手許に留めていたPRチラシなどを適宜参照しました。補遺2016年演目 夢千代日記 あらすじ :「前進座」京都国立博物館 ホームページ これまでの特別展覧会 これまでの特別展観・特集陳列秦始皇帝陵及び兵馬俑坑 :ウィキペディア兵馬俑 :ウィキペディアこの人が、兵馬俑を発見した :「swissinfo.ch」サルバドール・ダリとは? :「諸橋近代美術館」サルバドール・ダリによる絵画作品の一覧 :「MUSEY」超天才サルヴァドール・ダリの意外と知らない10の秘密・前編 :「知的好奇心の扉 トカナ」 後篇忍性 :ウィキペディア批判された社会福祉の先達 忍性 :「馬込文学マラソン」忍性と福祉の領域に関する一孝察 日高洋子氏 論文 pdfファイル伊藤若冲 :ウィキペディア伊藤若冲の作品画像コレクション :「NAVERまとめ」坂本龍馬 :ウィキペディア[真実]意外と知らない本当の坂本龍馬 :「NAVERまとめ」龍馬って何した人? :「高知県立坂本龍馬記念館」能楽師 杉浦豊彦 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -1 2004年, 2008年~2011年前半 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -2 2011年後半 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -3 2012年・2013年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -4 2014年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -5 2015年 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へスポット探訪[再録] 奈良・正倉院スポット探訪 [再録] 奈良 東大寺南大門探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂) 3回のシリーズで戒壇院・指図堂・勧進所のあたりをご紹介しています。探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに 3回シリーズで、鐘楼・行基堂・俊乗堂・大仏殿・春日野あたりのご紹介です。探訪 東大寺境内再訪 -1 手向山八幡宮・法華堂(三月堂) 2回のシリーズで、三月堂・二月堂・龍王の瀧・閼伽井屋・三昧堂あたりをご紹介しています。
2018.02.05
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2015年。京都国立博物館の春の特別展覧会は「桃山時代の狩野派 永徳の後継者たち」でした。ここにクローズアップされているのは、狩野山楽筆「唐獅子図屏風」に描かれた唐獅子です。四曲一隻。京都・本法寺所蔵です。この唐獅子は、このときの図録の表紙を飾ってもいます。この特別展覧会では、狩野探幽筆「八尾狐図」が特別出品という形で、初公開されるという付録がありました。(資料1、図録)この展覧会で桃山時代の狩野派の作品として展示された作品の作者は次のとおりです。 狩野光信、狩野宗秀、狩野山楽、狩野孝信、狩野内膳、狩野長信、狩野甚之丞、 狩野宗鈍、狩野貞信、狩野探幽 京博において、新規に平常展示館として、「平成知新館」が2014年9月に開館されました。この2015年の特別展覧会はどこで行われるのだろうかと思っていたのですが、「明治古都館」でまずは上掲の通り開催されました。 7~9月、京博では、「第100回大蔵会記念」として、特別展観「仏法東漸」展が開催されました。「仏教の典籍と美術」という観点での企画展でした。開催期間の終了直前の9月2日に見に出かけました。「大蔵会」とは、大正4年(1915)から始まった「仏教にかんする典籍を中心とした伝統ある展観事業」(資料1)だそうで、京都仏教各宗連合会が主催されている展観事業です。100回記念ということで、京博との共催で行われたようです。仏教経典の総集である「大蔵経(一切経)」の展示が一つの柱であり、そこから「大蔵会」という名称が由来するようです。仏教はインドで発祥し、中国・朝鮮半島を経て日本に将来されたゆえに、西から東のわが国へ、「仏法」が「東漸」してきたわけです。経典はその物証と言えます。この「大蔵会」では、大蔵経典の展示と併せて、第二部として、各宗派の宗祖等の肖像画(御影・頂相)や絵画、工芸品などが展観されていました。この時の展示会場は「平成知新館」です。このパネルに載っているのは、国宝「法然上人絵伝」巻第九に描かれた「経供養の場面」の部分図です。この場面の中央部分が載っているのです。「八月十四日押小路の仙洞御所で行われた前方便と正懺悔において、法然が経塔の前に坐し懺法(せんぽう)を行う」(図録より)という場面だとか。尚、法然上人が導師を務めたか否かについては論議の点として残るといいます。9月に行きましたので、残念ながら「日本の仮面」は終了していました。ちなみに、調べてみると「第101回大蔵会」は佛教大学宗教文化ミュージアムで開催されています。2017年は調べた範囲では情報不詳です。京博では、10月10日からいよいよRINPA「琳派 京を彩る」が始まりました。琳派誕生400年記念の特別展覧会です。七条通の歩道傍のこの大きなパネルには、俵屋宗達の風神図が人目を引きます。左側には、琳派の有名な作品が抽出されて載せてあります。一番上は、酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双、重文)。その下の左は尾形光琳画の「秋草文様小袖」(重文)、右側も光琳筆「太公望図屏風」(重文)二曲一隻)です。さらに下の右は、本阿弥光悦作「舟橋蒔絵硯箱」(国宝)、中央は尾形光琳作「八橋蒔絵螺鈿硯箱」(国宝)、左は尾形乾山作「銹絵染付金銀白彩松波文蓋物」(重文)と名だたる品々。一番下は、酒井抱一筆「八橋図屏風」(六曲一双)です。七条通の歩道の街灯には「雷神図」のバナーが出ています。京博の七条通側の西壁鉄柵上には、「風神雷神図屏風」(国宝)の二神がクローズアップされています。やはり、迫力があり魅力的です。京博の受付所前の北側壁には、七条通の「風神」と呼応する形で「雷神」がピンポイントで、鑑賞客を出迎えています。そして、平成知新館への通路の傍に、この箱型のパネルが設置されています。これが記念撮影コーナーにもなっています。やはり宗達の風神雷神が一番人気があるのでしょうね。このあたりで既にお気づきでしょうが、特別展覧会の会場が「平成知新館」主体になりました。いつからかは明確には解りませんが「明治古都館」の耐震改修計画が行われることとの関係があるようです。少し調べてみると、この年の12月16日には、「明治古都館(本館)耐震改修計画関連 発掘調査について」というお知らせが発表されていました。(資料2) 箱型のパネルの東面には、本阿弥光悦筆、俵屋宗達画のコラボレーション作品である「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(国宝)の部分図が使われています。図録の表紙をRINPAの金文字とともにこの歌巻の部分図が飾っています。明治古都館の入口でのパネル設置は無くなり、平成知新館への通路傍のこの大きな箱型パネルが入口手前の「誘い」という形式に変化しました。記念撮影としては、様々な位置から京博の風景を写真に撮ることができるようになったとも言えます。平成知新館の入口を入った正面の北壁が最後の「誘い」となり、記念撮影コーナーにもなっています。やはり風神図は目立ちますねえ・・・・・。 (2015.11.4)奈良公園の秋は、やはり「正倉院」(第67回)の大きなポスター掲示がふさわしい。奈良国立博物館の入口側のパネル。左側には「磁陶残欠(三彩の小塔)」(南倉)と、右側には「蘇芳地金銀絵箱(すおうじきんぎんえのはこ:献物箱)」(中倉)が載っています。 中央のパネルには、右が正面で、左が背面を撮った「紫檀木画槽琵琶(したんもくがそうのびわ:琵琶)」(南倉)が見えます。この年の図録は表紙にこの背面の部分図が全面に使われています。「木画」とは、「シタン(紫檀)・コクタン(黒檀)・カリン(花櫚)などの木地に木・竹・牙・角類などの色調の異なる材を寄木細工風に組み合わせて象嵌し、文様を表す技法」(図録より)を言います。非常に緻密な細工の美には驚嘆します。まさに匠の技です。西側のパネルには、左に「粉地花形方几(ふんじはながたほうき:献物用の台)」(中倉)、右に「金銅火舍(こんどうかしゃ:金メッキの銅の香炉)」(中倉)が載っています。この香炉には怪獣の頭部を鋳造した獣脚が使われています。正倉院展に行った1月後に、ここを初めて訪れました。門の右柱には「徳川園」、左柱には「徳川美術館」と「蓬左文庫」の2枚の木札が掛けてあります。門を入ると幅の広い通路が真っ直ぐに延びています。正面にあるのが「徳川美術館」の建物です。左側に「徳川園」と称される広大な庭園があります。右側に「蓬左文庫」の建物が所在します。徳川美術館と蓬左文庫は回廊で繋がっています。現代風の通路での連結です。今回の展覧会を見たいがために名古屋まで日帰りで出かけました。展覧会の掲示が出ていたのはこの美術館入口近くの掲示板だけでした。展覧会用の案内チラシは全国に流布していたでしょう。それだけで、十分に鑑賞者が訪れるのだと思います。 掲示を部分拡大してみました。「全点一挙公開 国宝 源氏物語絵巻」です。この源氏物語絵巻が全点一挙公開されるのは5年に1回なのです。それもこの徳川美術館と東京の五島美術館の提携により、交互に展覧会を開催する約束事になっていると聞きました。この2015年の機会を逃せば、東京まで出向かない限りは、10年先まで全点一挙に鑑賞出来ないという次第。この数年前から、遅ればせながら源氏物語に少し関心を持ち始めたために、この機会にと・・・・・。お陰で、この鑑賞後に名古屋市内探訪もできました。この名古屋見物記は既にご紹介しています。この年は、12月20日に南座の顔見世興行・夜の部を観劇したのですが、記録写真はゼロ。うっかりデジカメ持参を忘れたのか・・・・・・。なぜだろう? 思い出せません。この時の演目を調べてみました。覚書として記しておきます。(資料3) 昼の部 玩辞楼十二曲の内 碁盤太平記 山科閑居の場 義経千本桜 吉野山 心中天網島 玩辞楼十二曲の内 河庄 新古演劇十種の内 土蜘 夜の部 信州川中島合戦 輝虎配膳 四代目中村鴈治郎襲名披露 口上 玩辞楼十二曲の内 土屋主税 歌舞伎十八番の内 勧進帳【追記】 2018.2.4「誘い」という意味では外れますので、覚書としてさらに追記します。この年、どうもデジカメを持たずに出かけたことがけっこうあったようです。再度チェックしてみると、やはりありました。 (表紙引用)2015年1月、南座での「前進座初春特別公演」を観劇に行っていました。購入していたパンフレットが見つかりました。演目が「薄桜記」。五味康祐原作の同名小説で、ジェームス三木脚本演出でした。余談として、序でに記しますと、今2018年の1.16~2.7の期間、この「薄桜記」を全国巡演をしているそうです。前進座のホームページを見てわかりました。 10~12月に、大阪にある国立国際美術館で開催された「クレオパトラとエジプトの王妃展」にも出かけていました。購入していた図録を見つけました。表紙を引用します。(購入図録の分散保存で迷子に・・・)この表紙を飾っているのは「アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ」です。新王国・第18王朝時代で、テーベ西岸、ウセルハト墓出土だそうです。裏表紙の左上が、プトレマイオス朝時代(前1世紀中頃)のもので、クオレパトラの彫像の頭部とされるものです。右下は、サニエル・デュコマン・ドゥ・ロクレ作「クレオパトラ」(1852~53年)です。青銅像で、フランスのマルセイユ美術館所蔵。小さくて見づらいでしょうが、クレオパトラの右手には腕輪ではなくて、毒蛇が絡みついているという場面なのです。つづく参照資料1) 特別出品 狩野探幽筆 八尾狐図のご紹介 2015.4.8 :「京都国立博物館」2) 明治古都館(本館)耐震改修計画関連 発掘調査について :「京都国立博物館」3) 松竹創業120周年 京の年中行事 當る申歳 吉例顔見世興行 :「歌舞伎美人」補遺狩野派 :ウィキペディアー日蓮宗の団信徒(信者)池上本門寺に眠る江戸狩野家一族の墓・系図ー 江戸時代 江戸狩野派の世界 :『馬込と大田区の歴史を保存する会』鶴図下絵和歌巻 :「京都国立博物館」本阿弥光悦 :ウィキペディア俵屋宗達 解説と画像 :「Salvastyle.com」【俵屋宗達】の『風神雷神図屏風』にあるしかけを解説! 尾形光琳、酒井抱一の模写との違いは? :「趣味時間」尾形光琳 解説と画像 :「Salvastyle.com」尾形光琳と尾形乾山の作品集まとめ :「NAVERまとめ」徳川美術館 ホームページ 第6展示室 王朝の華 -源氏物語絵巻- 複製と映像による作品紹介 特別公開 国宝 源氏物語絵巻 2015.11.14~12.6五島美術館 ホームページ 国宝 源氏物語絵巻源氏物語絵巻 :ウィキペディア2015年の演目 薄桜記 あらすじ :「前進座」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -1 2004年, 2008年~2011年前半 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -2 2011年後半 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -3 2012年・2013年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -4 2014年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -6 2016年 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 名古屋 徳川美術館とその道すがら片山八幡神社にスポット探訪 [再録] 名古屋・東区 徳川園細見スポット探訪 [再録] 名古屋・東区 建中寺スポット探訪 [再録] 名古屋・東区 旧豊田佐助邸(町並み保存地区内)スポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -1スポット探訪 [再録] 名古屋・東区 文化のみち二葉館(名古屋市旧川上貞奴邸) -2スポット探訪 [再録] 名古屋・中区/東区 久屋大通を歩く
2018.02.03
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2014年。この年も、京都・南座の前進座初春特別公演の観劇で始まりました。演目は「一本刀土俵入」と「松竹梅湯島掛額」でした。そして、3月の南座は、 (2014.3.16)「三月花形歌舞伎」です。 昼の部を観劇しました。「吹雪峠」、新歌舞伎十八番の内「素襖落(すおうおとし)」、「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の内「木更津海岸見染めの場」と「源氏店の場」の二幕でした。「素襖落」はもともと狂言の演目だったものが、歌舞伎舞踊として取り入れられたものです。滑稽味あふれる所作がおもしろかったです。(資料1)夜の部は「御摂勧進帳(ごひいきかんじんちょう)」の二幕、「京鹿子娘道成寺」です。4月に「兵庫県立歴史博物館」に出かけました。姫路城の堀端の道路からかなり奧に入ったところに建物があります。これはそのアプローチの景色です。 目的は、「軍師官兵衛」展を見るためです。2014年NHK大河ドラマ特別展として企画された展覧会でした。「時代を創った知将 ゆかりの品々、一挙公開」というのがキャッチフレーズです。この歴博の入口に吊されたバナーの甲冑は、図録の表紙にも使われています。「朱漆塗合子形兜(しゅうるしぬろいごうすなりかぶと)・黒糸威五枚胴具足(くろいとおどしごまいどうぐそく)・小具足付」と称されるものです。この兜は身とと蓋からなる容器の合子をモチーフとしたものだとか。お椀の形そのものですね。でも、官兵衛が実際に使ったのなら綺麗すぎる。実はこの朱漆塗の兜は、官兵衛の曾孫・福岡藩三代藩主の黒田光之が実際に官兵衛が戦場で使った兜を模して作らせたものだとか。胴は官兵衛所用と伝わるそうです。 この時、官兵衛所用したという兜の方も展示されていました。「白檀塗合子形兜」(もりおか歴史文化館所蔵)です。兜に「銀箔を施した上に透き漆をかける白檀塗りと呼ばれる技法が用いられており、透き漆に混ぜられた朱によって赤く見えるため、官兵衛の『赤合子』として戦場で敵に恐れられたという」(図録より)そうです。なぜその兜がもりおかに? 慶長9年(1604)、官兵衛は亡くなる間際に、この兜を家臣の栗山利安に与えて後事を託したそうです。後に黒田騒動が起こり、栗山家が森岡藩南部家預けとなったことにより、この兜も盛岡に持参されていくということになった結果だとか。「後に栗山家から南部家に献上され同地に伝来した」(図録より)という次第です。 (図録参照)余談ですが、司馬遼太郎作『播磨灘物語』が黒田官兵衛の生涯を描いていて、読み応えがありました。もう一つ、短編集としてまとめられたものですが、葉室麟作『風の王国 官兵衛異聞』を読みました。2017年末に葉室麟逝去の新聞報道を目にしたときは愕然としました。愛読作家の一人だったので、これからの活動に期待していたのですが・・・・・嗚呼!無念・・・・合掌。違った視点からのフィクションを興味深く読んだ次第です。文庫本化される際に改題されて『風の軍師 黒田官兵衛』となっています。他にも関連で読んでいます。それらについては、もう一つの拙ブログで読後印象を記しています。本筋に戻ります。 (2014.10.15)京都国立博物館の秋は、勿論特別展覧会が開催されました。この芝生に置かれた絵でピンときたでしょうか?この景色は「平成知新館」の建物内からガラス壁面越しに撮った「明治古都館」の景色です。この時は、国宝『鳥獣戯画』の修理完成記念として全巻一挙公開という形で、「国宝鳥獣戯画と高山寺」展が開催されたのです。「戯画」の雰囲気に合わせ、この「誘い」パネルも楽しいものになっています。上部の蛙の吹きだしには「明治古都館こっちだよ!」と、展覧会場がこの明治古都館だったことがわかります。さすがにこの特別展覧会は鑑賞者の長蛇の列ができました。かなりの時間、列に並んで入場待ちした記憶があります。部分的な閲覧とはいえ、全巻が揃った状態で鑑賞できる機会は多分もうないかもしれませんね。貴重な機会でした。 そのときも図録を購入しましたが、図録とこの鳥獣戯画の「甲巻・乙巻」と「丙巻・丁巻」を裏表にし全図ミニチュア印刷にした折りたたみ本(70mm×95mm)がセットになっていたと記憶します。これ自体も斬新な企画だと思いました。部分引用します。甲・乙巻は平安時代、丙・丁巻は鎌倉時代に描かれた戯画だということも、この時知った次第です。甲巻が一番有名なのですが、乙巻には麒麟や龍などの空想上の動物も描かれています。さらに、丙・丁巻には人間も描かれているのです。これも知らなかったことでした。 奈良国立博物館の秋は、恒例の「正倉院展」(第66回)です。 (2014.11.6)この「誘い」のパネルに載っている宝物をご紹介しておきます。名称を上の画像から順に列挙します。「桑木阮咸(くわのきげんかん:弦楽器)」(南倉)、「衲御礼履(のうのごらいり:儀式用の靴)」(南倉)、「伎楽面 崑崙(こんろん)(伎楽の面)」(南倉)、「鳥毛立女屏風(鳥毛貼りの屏風)」(北倉)の部分図です。この年の図録は、表紙に毛立女屏風の第5扇の女性像、裏表紙には桑木阮咸が載っています。この奈良博での「正倉院展」の開催期間と併行し、それよりも前後に長い開催期間で開かれていたのが、奈良県立美術館での「大古事記展」です。 美術館近くの道路脇の展覧会への「誘い」のバナーとポスターです。美術館入口横の壁面には大きなパネルが設置されています。この位置が掲示の定位置になっています。この展覧会のコンセプトになっているフレーズは、「語り継ぐココロとコトバ」と「五感で味わう、愛と創造の物語」でした。この正面のパネルには、実に様様なものが抽出されています。時計回りにご紹介しましょう。河鍋暁斎筆「伊邪那岐命と伊邪那美命」部分図、本居宣長著『古事記伝』再稿本、「禽獣葡萄鏡」、「太安萬侶神坐像(おおのやすまろしんざぞう)」、「隼人の楯(はやとのたて)」(復元品)、国宝「七支刀」、翡翠・瑪瑙・水晶を使った勾玉(まがたま)類、「石見神楽提灯蛇胴」、「鞆形埴輪(ともがたはにわ)」、堂本印象筆「木華開耶媛(このはなさくやひめ)」部分図です。古墳時代から現代アートまで「古事記」の世界を感じましょうという企画でした。私は、写真でしか見たことのない「七支刀」の実物をまずは拝見したかったのです。このとき、復元品も併せて見ることができました。この展覧会の最後のセクションは「未来へ語り継ぐ古事記」という設定で、現代のアーチストが『古事記』から何を語り継ぐか、どんなインスピレーションを得たのか? という観点で作品が展示されていました。この時の購入図録には現代アートの部分は収録されていません。当時の拙ブログ記事を確認すると、その一つに山口藍氏の作品が展示されていて発想が興味深いものでした。その時ネット検索してみて見つけたツイッターのアクセス先で、その時展示されていた作品の画像が載っていました。それを紹介していたのですが、現時点でもアクセスできました。こちらからご覧ください。(2014年10月25日とその辺りの箇所にツイート記事と作品が載っています。) 同じ時期、この年にオープンした「あべのハルカス」の中にある「あべのハルカス美術館」では、「新印象派展」を開催していました。11月に、あべのハルカス初見聞を兼ねて美術館を訪れました。この展覧会は、「光と色のドラマ」をキャッチフレーズにして、「-モネ、スーラ、シニャックからマティスまで-」の作品が展示されていました。上掲バナーに掲げられたキャプションがおもしろい。小さな文字「もっと近くで」、大きな文字「みつめてほしいの。」です。今、改めて読むと、ダブルミーニング、掛詞の感じですね。鏡に向かって髪を結うしぐさの女性が、近くで見つめてほしいと思っている気持の表現、それが表の意味でしょうね。その裏には、美術館の会場に入り、新印象派の作家たちの作品を身近でみてほしいという「誘い」が投げかけられていると受け止めました。私はきっちり間近で作品をみつめてきました。この絵は、ポール・シニャックが1892年に描いた「髪を結う女、作品227」の部分図です。この「誘い」の景色をみれば、もうおわかりですね。そうです。神戸市立博物館です。12月に、メトロポリタン美術館所蔵品による「古代エジプト展」を鑑賞に行きました。 こちらは、入口を入った吹抜けのロビーに設置された記念撮影コーナーです。上段のパネルの左側は「ハトシェプスト女王像の頭部」、右側には「イシス女神とアシュートのウプウアウト神の像」と「アメン・ラー神の歌い手ヘネトタウィの人型内棺」部分図が使われています。入口へのスロープ傍の個別パネルの中央は、「セクメト女神像」だったと思います。記念撮影コーナーに置かれている2つのコピーは上記のもの。「ハトシェプスト女王のスフィンクス」が加わっています。エジプトの神々も、日本と同様に様々の神が信仰されていたようで、なかなか全体像がわかりません。また、名前と像の図が曖昧に留まってしまいます。日本の神々ですら、十分に分かっているわけではないので、当然なのかも・・・・・。いずれにしても、エジプト文明にも関心は尽きません。まだまだ未発見のものが眠っていることでしょう。振り返ってみると、2014年に鑑賞した展覧会や観劇で、「誘い」関連の記録写真を残しているのは意外と少なかった気がします。会場に足を向ける頻度自体が多少少なかったのかな・・・・。つづく参照資料1) 素襖落 :「コトバンク」展覧会で購入していた図録を適宜参照補遺2014年の演目 みどころ・あらすじ :「前進座」三月花形歌舞伎『素襖落』 ようこそ歌舞伎へ :「歌舞伎美人」与話情浮名横櫛 :「歌舞伎演目案内」現代語訳 古事記 武田祐吉訳 :「青空文庫」太安万侶 :ウィキペディア太安万侶墓 :「邪馬台国大研究」太安万侶の墓誌の謎 :「暗号『山上憶良』目次」七支刀 :ウィキペディア七支刀 :「石上神社」本居宣長記念館 ホームページ『ぼうるぺん古事記』 こうの史代 :「平凡社」Ninyu works 団体 facebook 10月19日の項に山口藍氏の作品が載っています。新印象派 光と色のドラマ :「あべのハルカス美術館」メトロポリタン美術館古代エジプト展 女王と女神 :「神戸市立博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -1 2004年, 2008年~2011年前半 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -2 2011年後半 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -3 2012年・2013年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -5 2015年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -6 2016年 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 [再録] 大阪 あべのハルカス初見聞 新印象派展と16階の展望もう一つの拙ブログ「遊心逍遙記」(gooブログ)に読後印象記を書いています。こちらもお読みいただけるとうれしいです。『播磨灘物語』 司馬遼太郎 講談社文庫『風の王国 官兵衛異聞』 葉室 麟 講談社『風渡る』 葉室 麟 講談社 『黒田官兵衛 智謀の戦国軍師』 小和田哲男 平凡社新書
2018.02.03
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2012年、この年も1月は前進座公演観劇でスタートです。前進座創立80周年記念の年でした。口上が述べられた後、「明治おばけ暦」という文明開化改暦事情を芝居にしたもの。もう一つが「芝浜の革財布」という演目でした。京都国立博物館の1月は、特別展覧会「中国近代絵画と日本」から始まりました。 京都国立博物館の展覧会への「誘い」は、七条通の歩道脇に横長の大きな案内パネルを設置し、受付所への階段をを上がると、北側の壁にパネル掲示があり、さらに明治古都館のアーチ状の入口の中央に会場への最後の誘いパネルを取り付けるという形式です。京博は2009年3月から旧平常展示館の建て替え工事が開始されていて、2013年8月の新平常展示館の竣工を目指して工事中でした。そのため、この時期は年に数回の特別展覧会だけを開催するという状況でした。北側の壁上にニョキリと巨大なクレーンが見えるのはそのためです。 庭園のつつじが咲き誇る5月、京博では「王朝文化の華」展が開催されました。 この特別展覧会のサブタイトルは「陽明文庫名宝展 宮廷貴族近衛家の一千年」です。サブタイトルでわかりますが、「陽明文庫虎山荘」(登録有形文化財:建物)が京都市右京区宇多野にあり、同じく「旧公爵近衞家に長年にわたって伝襲した、大量の古文書および古典籍、ならびに若干の古美術工芸品を一括して保存管理している、特殊な歴史資料館」としての建物があり、公益財団法人陽明文庫が維持管理されているのです。春と秋に参観ができるようなのですが、20名以上の団体での受付になっているのが個人としては残念です。(資料1,2)「ちなみに陽明の名は、近衞大路が大内裏の外郭十二門の一、陽明門より東に発する大路でこれを陽明大路ともいい、従って近衞殿あるいは近衞家をも陽明殿、陽明家と称したことによるものであり、この呼び名は早くから記録などに見受けられます。」(資料2)こんな名称由来があるそうです。陽明文庫の名称は知っていても、由来までは今まで意識していませんでした。 8月には京博で、この年が「古事記1300年・出雲大社大遷宮」ということで、特別展覧会「大出雲展」が開催されました。このパネルに掲載されているのは、島根県・加茂岩倉遺跡から出土した「袈裟襷文銅鐸」(国宝)、同県・岩屋古墳出土の埴輪(馬)と島田1号墳出土の埴輪(男子)です。上部には、勾玉や銅剣の画像も載っています。(図録参照)この時に印象深かったのは出雲大社境内遺跡出土の「宇豆柱」と、古代出雲大社復元模型でした。秋は、奈良国立博物館恒例の「正倉院展」(第64回)です。この時は、最終日に行ったためか、観覧者は比較的少なくてゆっくり鑑賞できました。記録に撮っていたのはこれだけでした。右から「螺鈿紫檀琵琶(らでんしたんのびわ:弦楽器)」(北倉)、「紅牙撥鏤撥(こうげばちるのばち:染め象牙の琵琶の撥)」(北倉)、「木画紫檀双六局(もくがしたんすごろくきょく:双六盤)」(北倉)です。このときの図録には「瑠璃坏(るりのつき:ガラスのさかづき)」が表紙を飾っています。これは鮮やかな紺色で坏の表面に円環が貼りめぐらされている素敵なさかづきです。 2013年。この年も、南座の「前進座特別公演」で1月が始まりました。演目は、「雪祭五人三番叟(さんばそう)」という早春の雪の中での乱舞が見られる舞台と、山本周五郎の原作「赤ひげ診療譚」より脚色・演出された「赤ひげ」です。 京博は特別展観「国宝十二天像と密教法会の世界」で始まりました。 (2012.2.6)これは「十二天屏風」(十二幀てい)の中にに描かれた「地天」像。神護寺所蔵の作品で重要文化財です。ちなみに十二天とは、伊舍那天・帝釈天・火天・閻魔天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天・梵天・地天・日天・月天を言うそうです。(図録参照) (2013.4.17)京都市美術館では3~6月に「リヒテンシュタイン」展と4~5月の「ゴッホ」展が併行して開催されました。こちらは館内に特設された「誘い」の入口です。オーストリアとスイスの間に「リヒテンシュタイン候国」が位置し、かつてハプスブルグ家の寵臣として活躍したリヒテンシュタイン家が存続しているのです。そのリヒテンシュタイン侯爵家コレクションの至宝展でした。キャッチフレーズは「華麗なる侯爵家の秘宝」です。興味をそそられたフレーズです。こんな記念撮影コーナーが設けられていました。この時の図録の表紙に、ヨーロッパ美術の歴史においてもっとも感動的な子供の肖像画の一つと評価されている「クララ・セレーナ・ルーベンスの肖像」が取り上げられていました。父のペーテル・パウル・ルーベンスが描いた作品です。上掲の美術館の壁に掲げられた左端の絵です。中央はラファエッロ・サンティ作「男の肖像」、右側はアンソニー・ヴァン・ダイク作「マリア・デ・タシスの肖像」です。「ゴッホ展」の方は「空白のパリを追う」というキャッチフレーズが使われていました。同時期の4~6月に、京都文化博物館では、マチュピチュ「発見」100年ということで、「インカ帝国展」が開催されていました。左下の掲示板の中、左端にマチュピチュの風景を利用した展覧会案内ポスターが貼られているだけという、ここの「誘い」の形式です。4月17日は展覧会のはしごをした日でした。 狩野山楽筆「竜虎図屏風」の部分図(重文、京都・妙心寺藏)京博の3~5月は、特別展覧会「狩野山楽・山雪」展。北側の壁には狩野山雪筆「雪汀水禽図屏風」(六曲一双、右隻)です。図録の表紙はこの屏風の右隻の第4扇図が表表紙に、左隻の第2扇図が裏表紙に使われています。 (2013.4.26)キャッチフレーズは「京都の狩野派は濃い」。そして、この時の呼びものの一つは、明治初年までは妙心寺塔頭・天祥院の襖絵だったもので海外に流出し、表・裏の画面が別々に所蔵されていたものが、50年ぶりに京博で再会するという作品でした。京都会場だけで限定展覧となったものです。アメリカのミネアポリス美術館所蔵の「群仙図襖」とニューヨークのメトロポリタン美術館所蔵「老梅図襖」が元の状態の表・裏に復して展示されたのです。「群仙図」が初里帰りしたのです。明治初年といえば、神仏分離令が発令され、廃仏毀釈運動が吹き荒れて、寺院が逆境に陥るという時代でしたので、その影響が流出の一因かもしれません。奈良県立美術館では、4~6月に「Kimono Beauty」というタイトルで着物の展覧会が開催されていました。これは「ボストン美術館ビゲロー・コレクションのきものが初里帰り」というもので、キャッチフレースは「シックでモダンな装いの美、江戸から昭和」という企画展です。ビゲローが日本の着物のどういうものを収集したのか興味があり5月に見に行きました。(2013.5.10)先月(2018.1.3)「観照 & 探訪 [再録] 奈良 雲井坂・轟橋碑・猿沢池・采女神社ほかと奈良県立美術館」を拙ブログで再録した折に、この展覧会に関連し歩道の街灯に吊されていた展覧会のバナーの画像を載せています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。 春は見たい展覧会が重なります。4~6月に、西本願寺の前、堀川通の東側にある「龍谷ミュージアム」では、特別展として「平山郁夫 悠久のシルクロード」展が開催されていました。(2013.5.11) この掲示パネルを見ればおわかりですね。京博の歩道沿いに掲示されたもの。(2013.8.7)7~8月、特別展観として「遊び play」というテーマでの企画展です。 右端にこんな絵が描かれています。一番右の踊る人々は、「釉下彩鹿島踊図皿」と名づけられた旭焼で、ゴットフリート・ワグネル作です。「鹿島踊とは、茨城県から南関東にかけての地域で、神社の祭礼で執り行われる民俗舞踊」(図録より)だとか。その左の図は、中国の明時代の作品が伝来したもので、「楊妃撃丸図」と称され、「ポロ(撃毬)」という遊びです。「駿馬を自在に扱った唐時代から貴族たちのあいだで流行した」(図録より)そうです。横長の絹本にこの遊びに興じる14の人・馬が描かれていて、その一部を切り出した部分図です。 そして、ロダンの彫刻の背後の石段傍には、同じ図柄が記念撮影用に設置されています。勿論、入口の中央のアーチのところには、会場への「誘い」パネルが見えます。 (2013.10.4)10月に神戸県立美術館に出かけました。京都にも縁のある「橋本関雪展」を鑑賞したかったのです。京都の銀閣寺道のところに、「白沙山荘」という橋本関雪の邸があることで、この日本画家の名前を学生時代から知っていました。それで、この生誕130年という記念の回顧展に関心を持ちました。それとこの美術館自体も見たかったのも副次的な目的でした。美術館の屋上に蛙がでんと構えているのもユニーク。目立っておもしろい。北入口から建物に入ります。蔦が絡まった壁面に「誘い」のパネルが設置されているのもオシャレな感じです。「木蘭」という作品の部分図が使われています。入口の手前にあったのがこの「誘い」のパネルです。「豪腕画人 関雪登場」というフレーズがちょっと勇ましく、関心を引き寄せます。ここには「南国」という題の作品が目を惹きつけました。なぜ、神戸で回顧展が? という疑問があったのですが、会場で説明を読み、その疑問がとけました。橋本関雪は神戸の坂本村(現在の中央区楠町)で生まれた人だったのです。こちらをご覧いただくと、橋本関雪早わかりとしての豆知識を得ることもできるでしょう。 (「橋本関雪展 展覧会構成 兵庫県立美術館のホームページ) 大阪の松竹座の10月は、「十月花形歌舞伎」です。 (2013.10.14)これも、昼の部の観劇でした。「新・油地獄 大坂純情伝」、そのキャッチフレーズは「噂の”平成若衆歌舞伎”ついに再演!」です。愛之助、壱太郎ほかの出演です。それと、愛之助・吉太朗・壱太郎による「三人連獅子」でした。夜の部は「夏祭浪花鑑」。一方、10月の京都・南座では、「アマテラス」が上演されていました。そうです。坂東玉三郎の出演です。坂東玉三郎がメインの舞台を観劇するのは、私にはこれが多分初めてだったと思います。やはり、見惚れていましたねぇ・・・・・。この時、早くも、「吉例顔見世興行」の案内パネルも西側に設置されていました。京博の秋は、特別展覧会「魅惑の清朝陶磁」です。 (2013.10.18)右端の作品例示がこれらの陶磁器です。まさに華麗で繊細な絵付けの品々。特別展覧会という文字が記された位置に重ねられた皿は、口径15.4cmというさほどおおきくはないお皿です。中国・清時代、乾隆年間(1736-95)に制作された「粉彩絵替皿(十錦手)」と称される10枚の様々に異なる色と図柄のお皿のセットの中の1枚です。その右下の2つは「黄地粉彩花卉文椀(おうじふんさいかきもんわん)」で、同じく清時代の道光年間(1821-50)の作です。一番右は口径23.5cmの「色絵花鳥文皿」で、明治~大正時代に、十代今泉今右衛門作だとか。(図録参照)0531 そして、秋となれば恒例の奈良博での「正倉院展」です。 (2013.10.29)これは奈良公園の入口の掲示にも載っていますが「漆金薄絵盤(うるしきんぱくえのばん:香印坐)」(南倉)です。こちらは「平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう:螺鈿飾りの鏡)」(北倉)です。このときは、もう一面出展されていました。どちらも見応えのある円鏡の背面飾りです。左は「蘇芳地金銀絵箱(すおうじきんげんえのはこ)」(中倉)で、右は「鹿草木夾纈屏風(しかくさききょうけちのびょうぶ:板締め染めの屏風)」(北倉)です。このとき、興福寺の境内にはこの北円堂・南円堂の特別開扉の案内パネルが掲示されていました。 11月から2014年1月にかけて、京都国立近代美術館では、「皇室の名品」展が開催されました。 (2013.12.15)「近代日本美術の粋」というキャッチフレーズが記されています。その横に、「皇室が護ってきた日本画・洋画・彫刻・工芸が一堂に。」とあります。近代の画家、彫刻家、工芸家たちの作品を皇室が購入することで、芸術作品の創作活動、興隆の一端を支持してきたということでしょうか。所謂パトロン的な役割の一翼なのかもしれません。京都市美術館の壁面には、このときこんなバナーが掲げてありました。2012~2013年に何を鑑賞してきたか、大凡の整理ができました。記録写真を撮らなかった抜けが多分あると思います。つづく参照資料1) 陽明文庫虎山荘 :「文化遺産オンライン」2) 公益財団法人陽明文庫 ホームページ購入している手許の図録を随時参照しました。補遺狩野山楽 :ウィキペディア狩野山楽 主要作品と解説 :「Salvastyle.com」狩野山雪 :ウィキペディア狩野山雪・老梅図襖絵の複製 妙心寺・天祥院:「ブログ禅」(禅文化研究所のブログ)ほほ笑みのお猿 山雪の猿猴図 :「東京国立博物館」狩野山雪(かのう さんせつ)の代表作品・経歴・解説 :「Epitome od Artists」リヒテンシュタイン候国国名について :「日本リヒテンシュタイン協会」リヒテンシュタイン公国 :「外務省」不思議の国ロイヒテンシュタイン・前編 :「オーストリア散歩」 同・中編 、 同・後篇 前進座 ホームページより 2012年の演目のあらすじ 2013年の演目のあらすじ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -1 2004年, 2008年~2011年前半 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -2 2011年後半 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -4 2014年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -5 2015年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -6 2016年 へ
2018.02.01
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2011年。神戸市立博物館で開催された「大英博物館 古代ギリシャ展」から始めます。2011.3.12~6.12の期間で開催されていました。この時、5月中旬に出かけていたのですが、こちらに加えました。通りに面した博物館の正面入口横の壁面に、大きなパネルで代表的な展示作品例が掲げられています。このディスプレイが神戸市博物館の「誘いの形式」になっているように思います。 円盤投げ(ディスコボロス) ギリシャ黄金時代の傑作と称される彫刻像 ゼウス小像 後1-2世紀 ブロンズこの大きな画像を見ると、実物の彫刻を間近に見たくなりますね。この展覧会のキャッチ・フレーズが「究極の身体、完全なる美」でした。これをテーマとして、古代ギリシャ彫刻の中から作品が選ばれたのでしょう。8月に奈良国立博物館(以下、奈良博と略称)に特別展「天竺へ」を鑑賞にでかけました。 このクローズアップした案内パネルに記すように、三蔵法師玄奘の3万キロの旅をテーマとした企画展です。図録の表紙には、この「天竺へ」という中央の大きな文字の右側に描かれた絵が使われています。この絵は、「わが国における高僧伝絵巻の最高峰の一つに位置づけられる『玄奘三蔵絵』」(図録より)の一部です。『大唐大慈恩寺三蔵法師伝』という伝記に基づき全十二巻・七十六段の長大な物語として描かれたものの中の、巻第一第六段の部分図です。三蔵法師が「西域へ旅立つ」ところが描かれています。一方、左側は、巻第三第三段「雪路の天山山脈越え」の人物群像の抜き出しです。 こちらは、同時期に特別陳列されている企画展の案内です。序でに、玄奘三蔵は、「西遊記」のモデルになったお坊様といえば・・・・親しみが湧くことでしょう。玄奘三蔵法師の良く知られた絵をウィキペディアから引用します。 (2011.8) 同じ時期に、京都の相国寺承天閣美術館では、「ハンブルク浮世絵コレクション展」が開催されていました。こちらは相国寺の正門の傍と、美術館区域への入口のところに、立て看板形式で開催案内が設置されているという簡単な形式です。ポスターの拡大版掲示という感じです。あっさりしています。美術館は相国寺境内の北東域に所在します。庫裡の東側になります。美術館の玄関口までの石畳と庭のアプローチが好きです。9月には、滋賀県のタヌキの置物で有名な信樂にある「信樂陶芸館」に出かけました。 この特別企画が開催されていたのです。 10月に、巨大な円形仮設テントの会場で演じられたシルク・ド・ソレイユの公演を初めて楽しみました。「クーザ大阪公演」です。さすが・・・・のパフォーマンスでした。楽しめました。この時期、岡崎公園にある京都市立美術館では複数の美術展が同時開催されていました。(2011.10)一つは、「フェルメールからのラブレター展」です。 もう一つは、美術館の壁面を利用してバナーが掲げてあります。右側に上記の展覧会、左側に「ワシントンナショナルギャラリー展」です。「印象派・ポスト印象派 奇跡のコレクション」というキャッチフレーズが記されています。バナーに初来日の作品を掲示していました。「この『顔』初来日」という貼り紙が付けてあるのがおもしろい。チケット売り場の側面には、フェルメールの作品が表示されています。この作品がバナーの作品と照応しています。左から「手紙を書く女」「青衣の女」「手紙を書く夫人と召使」です。奈良博の秋は恒例の「正倉院展」です。正倉院展を鑑賞し、図録をコレクションするのが私の楽しみの一つです。(2011.11)この年は、これだけ撮っていました。奈良公園の入口にある掲示の展示宝物群の一つを大きくクローズアップして載せた案内パネルになっています。この時の並び具合だと、入館までに1時間近く待機したのではなかったかなと思います。この建物下の通路部に入ってからも一直線ではなく、折れ曲がって蛇行する形で少しずつ前進することになるのですから・・・・。かなり以前と比べると、最近正倉院展への来館者が増えてきているように思います。余談です。 この時、「奈良時代の東大寺」と題した特別展が東大寺ミュージアム開館記念として開催されているという報道を見聞していましたので立ち寄りました。「東大寺総合文化センター」が建設され、東大寺の所蔵品展示施設として、この「東大寺ミュージアム」が開館されたのです。図録で確認するとこの特別展では60件の寺宝が展示されていました。この画像の仏像は、「不空羂索観音立像」(国宝)の部分図です。12月。この南座での歌舞伎の顔見世興行のために正面に高々と掲げられる「まねき」を眺めると、もう師走だな・・・・と感じます。2017年末は、南座のこの「まねき」を眺めることができませんでした。南座の建物の耐震工事の問題があり、昨年は「まねき」をここに掲げることもなかったのです。2016年の12月には、「まねき」が南座に掲げられ、歌舞伎の舞台は先斗町歌舞練場が借用されて顔見世が行われました。2017年は既に拙ブログでご紹介しましたが、岡崎公園にある「ロームシアタアー」で顔見世が興行され、その正面に横並び一列に「まねき」を掲げる形でした。 開演前に人々が南座前に集まり、ざわざわと待機する雰囲気が「まねき」と呼応して、顔見世の幕開きを盛り上げるのです。劇場の中に入り、開演待ちをするざわめきとはやはり、少し感じが違うのですね。勘亭流の文字で書き上げられたこの「まねき」がずらりと掲げられるという「形式」が顔見世への「誘い」を盛り上げるのです。そして、その下に横一列に並べられた舞台の場面絵が、観客の贔屓の役者と結びつくと、想像力が羽ばたいていき、開演が待ち遠しくなるのでしょう。つづく補遺神戸市立博物館 ホームページ 玄奘三蔵の生涯 :「薬師寺」ヨハネス・フェルメール :ウィキペディアヨハネス・フェルメール 主要作品と解説 :「Salvastyle.com」東大寺総合文化センター ホームページ勘亭流 :「コトバンク」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -1 2004年, 2008年~2011年前半 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -3 2012年・2013年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -4 2014年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -5 2015年 へ観照 時間軸でみた「誘い」の美と形式 -6 2016年 へ
2018.01.31
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