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正倉院の参観門を出たところで、さてどうしようか・・・・・まだ少し時間はある。目標やルートを決めていた訳でもなし、JR奈良駅に戻る方向感覚だけあれば・・・・。東方向を眺めると、左の写真の緩やかな坂道。人をほとんど見かけない静かな佇まい。この先は巡った記憶がない所。ふと周辺を見ると、斜め前の路傍に、右の写真の境内案内図が見えました。 坂道を上ると南に向かう路があるならと、ふらりっと来た散策を続けることに。その先はまた途中で決めればよし。 [注記:探訪時期・2015年11月]坂道を上り始めると、銀杏の黄色のグラデーションが気持ちいい。 白壁に囲われ、傾斜の緩い石段が表門に続く寺が北側に見えます。石段を上り、門前まで行くと、「華厳宗東大寺龍松院」の表札が掛けられています。塔頭の一つなのでしょう。 門前から見える正面には庫裏の玄関のようです(推測にし過過ぎませんが・・・)。屋根の獅子口には、手許の本を参考にすると、唐花菱の紋章に思えます。足元の菊花の装飾文様といいバランスです。(資料1)この龍松院はかつては「大喜院」と呼ばれていたそうです。その寺に公慶が入寺したとか。公慶は万治元年(1660)、東大寺の英慶に師事して三論を学んだ人。平安時代末期に東大寺復興を成し遂げた重源が再興した大仏殿は、永禄10年(1567)の松永三好の乱での兵火により焼失、それ以降、大仏は露座のまま雨ざらしになっていたのです。そこで、公慶は仏殿再建を決意し、江戸幕府の許可を得て大勧進にかかったといいます。そして、宝永6年(1709)に大仏殿は落慶されます。だがそれは公慶上人の没後4年目だったといいます。(資料2,3,4)龍松院は公慶上人ゆかりの塔頭だそうです。そして、大仏殿再建を願う公慶上人が、大仏殿の裏側の講堂跡の礎石が残るあたりの林間を経て、龍松院と大仏殿を毎日往復されたことから、その道が「公慶道」と称されるようになったと言います。 坂道を上りきると、東の正面は、瓦を挟み込んだ土壁の築地塀の見える「東大寺塔頭持寶院」です。樹木の繁る山腹を背景にして、なかなかいい雰囲気です。ここは塔頭と明示されています。 表門の屋根の先端隅に、躍動する獅子の飾り瓦が置かれています。魔除けの一種でしょうか。そして、鬼瓦。鬼瓦には様々なバリエーションがあって、最近とみに関心を抱いています。南隣りに、「寶厳院」が続いています。ここも塔頭の一つです。表札の表示が三者三様で、これもおもしろいなと思います。 寶厳院の門の屋根の棟の端は鬼板で屋根の頂部は丸みを帯びている感じです。鬼板は波文様です。屋根の先端の獅子の装飾瓦は、龍松院のものとはまた動きが異なります。このあたりの地図(Mapion)は、こちらをご覧ください。 表門に近づいておもしろいと思ったのは、柵に阿形・吽形の仁王像頭部が備え付けられていることです。こんな形式のものを見るのは初めてです。これも一つの山門の形としておもしろいものです。柵に備えられていることで、守護という雰囲気がぐんと出ています。柵から建物までの境内を拝見しました。 左方向の奧、建物の外壁前に、彫刻像が見えます。また、門から玄関口への傍には、ちょっとユニークな像がいくつか置かれています。 玄関の内側正面には銅鑼があります。お寺だなあと感じさせられる良い雰囲気です。 玄関の屋根の鬼瓦葺き替えられてまださほど年月を経てはいない感じです。ここも阿吽の鬼形です。阿形鬼の目玉はぐんと前に突き出され、吽形鬼の目玉はぐっと奧に引っ込めたコントラストがおもしろいところ。なかなか迫力がありますね。調べてみると、第208世東大寺別当、華厳宗管長となられた清水公照師(1999年逝去)が、この宝厳院住職だったようです。泥仏庵と号し、「どろ仏」と称するユニークな小仏像を自ら制作された人らしいので、庭に彫刻類が置かれてあるのもうなずけました。(資料5)寶厳院の築地塀越しに、二月堂が見えます。道路を隔てて西側には塔頭「龍蔵院」があります。逆光ぎみだったのか写真を撮っていませんでした。寶厳院から少し南に歩くと、分かれ道です。岐路に石仏・石塔群があります。 東方向には、二月堂方向に向かう舗装された道と少し先で南方向に向き、築地塀の先に少し大きな建物がみえる土道があります。西方向の石敷路を含む舗装道路は大仏殿の方向です。そこで、手間の建物を見に行くことに。建物前に駒札が立っています。「大湯屋」(重文)です。東西八間、南北五間という大きな建物です。一重、正面入母屋造、妻入、本瓦葺。(資料6)駒札にはこう記されています。「奈良時代の創建 温室或は大湯屋ともいう。治承4年(1180)の兵火で罹災。建久8年俊乗上人再建。應永15年惣深上人修理を加え、昭和12年解体修理を行う。内部に鉄湯船あり。中世の洗浴の貴重な遺構である。 東大寺」この鉄湯船も重要文化財として1963年7月に指定されています。鎌倉時代の作品。(資料6) 大湯屋の傍に池があり、その傍から石段道が続いています。そこを上って行くことにしました。方向として間違いがないだろうと思って。石段を上り始めて撮った写真です。池面をズームアップしてみたのが右の写真。紅葉した木々が映り、一種抽象画のように。さらに石段を上って・・・・眺めた景色。このあたりの塔頭や大湯屋は非公開のようですので、あまり知られていないところなのかもしれません。観光客もそれほどみかけなかったのは、時間帯ばかりのせいではないでしょう。季節折々の木々と建物の生み出す色彩の変化を静かに味わう散策にはいい場所だと思います。異なる築地塀の生み出す雰囲気も楽しめる場所。そして、屋根から睨む様々な鬼たちとご対面するのも楽しい散策路です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『歴史探訪に便利な日本史小典』 日正社2) 公慶 :ウィキペディア3) 公慶 :「コトバンク」4) 江戸期再興-公慶上人の活躍- :「東大寺」5) 清水公照 :ウィキペディア 清水公照師略年譜 :「清水公照師関係」(りーちあーと)6) 東大寺大湯屋 国指定文化財等データベース【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺大湯屋 :「コトバンク」東大寺・大湯屋Q 東大寺大湯屋は湯浴?蒸気浴? :「みんなのQ&A」(OKWAVE)上司海雲 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂)へ探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池 へ探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へスポット探訪[再録] 奈良・正倉院 へ探訪[再録] 東大寺境内 -2 鐘楼・行基堂・念仏堂・俊乗堂・辛国社 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ探訪 東大寺境内再訪 -1 手向山八幡宮・法華堂(三月堂)へ探訪 東大寺境内再訪 -2 二月堂・龍王の瀧・閼伽井屋・三昧堂ほか へ
2016.11.25
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奈良国立博物館で「正倉院展」開の催期間中、正倉院の「正倉」外構が一般公開されます。かなり以前に訪れたことがあるのですが、2015年の正倉院展の折、博物館で案内掲示をみて、それを機縁に久しぶりに足を延ばしたのです。 [注記:探訪時期・2015年11月]築地塀で囲まれた正倉院の一角に参観門があります。冒頭の左の写真がそれ。右の写真は、参観の折にいただいたリーフレットを見開きに開いたところです。この全体の大きさがさらに見開きに広がる表裏印刷の1枚の案内資料です。博物館で当日購入した図録他を合わせて参照しながら、ご紹介します。 参観門を入り通路を進むと、西側の築地塀越しに「東宝庫」が見えます。昭和28年(1953)に鉄骨鉄筋コンクリート造りで建築されたもの。この宝庫には、「染織品を中心とした整理中の宝物と聖語蔵(しょうごぞう)経巻が収納されています」(資料1)。聖語蔵はもとは東大寺の塔頭尊勝院の経蔵だった校倉で、これが東宝庫の前方に移築されているそうです。この校倉に保管されていた約5,000巻の経典類が、現在は空気調和設備が完備されたこの東宝庫に収納されているのだとか。右の周辺図はリーフレットからの引用図です。位置関係がご理解いただけるでしょう。 その先はすこし広いエリアになっていて、西方向にもう一つ門があります。門の左側に掲示板が設置されていますが、後ほどご紹介します。その地点から南を眺めたのが、左の写真です。東宝庫の建物の北側面です。開かれた門の先に、「正倉」が見えます。午後の後半だったので、逆光状態でした。この正倉は、平成9年(1997)に国宝に指定され、正倉周辺は史跡となっています。また、平成10年には「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。リーフレットに掲載の全景写真を借用します。折れ筋が出ていますが、全体の状況はこんな感じなのです。奈良・平安時代の官庁や大寺は、重要物品(穀物や調布など)を収納する施設・正倉(しょうそう)を設置していたのです。この正倉が幾棟も建ち並ぶ区画が正倉院と呼ばれたと言います。時代の変遷とともに、東大寺の正倉以外はすべて消滅し、最終的に東大寺正倉院の中で、この正倉一棟だけが往時のままの姿で現在まで残ったのです。その結果、「正倉院」「正倉」と言えば固有名詞のごとくに、この建物をさすことになりました。桁行(南北)33m、梁間(東西)9.4m、高さ14m、床高2.7m、寄棟造(よせむねづくり)、瓦葺の建物です。「近年行われた年輪年代測定によって、正倉は740年から50年にかけて伐採された木材を用いて建立されたことが判明している」(資料2)そうです。ちなみに、大仏の開眼は天平勝宝4年(752)年です。正倉の方が先にできていたのかもしれません。この正倉は巨大な檜材を用いて建てられているそうで、高床式の構造が、保管された宝物の湿損や虫害を防ぐ効果があったようです。 この図も、リーフレットからの引用です。正倉の内部は3部屋に分けられているのです。北から北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)と呼ばれています。正倉院といえば校倉造(あぜくらづくり)と学び、記憶したものです。しかし、実際の正倉は、次の写真にあるように、北倉と南倉が、断面が三角形となる木材-これを「校木(あぜき)」と呼ぶそうです-を井桁に組み上げた「校倉造」なのですが、中倉はご覧の通り、角材が組み上げられた形の「板倉造(いたくらづくり)」です。正倉全体はいわばハイブリッド型なのですね。内部は、引用写真にある通り、二層となっているそうです。 建物の北寄りを眺めると、正倉の建物の北側に、黒木鳥居の形式の入口と瑞垣で囲まれ、朱塗りの小社が設けられています。 正倉の外観細部を見ますと、寄棟造の屋根は丸瓦の連なる曲線とその姿が優美です。軒丸瓦の瓦当(がとう)には、正倉院の文字が陽刻されています。「院」の書体は篆書のようです。 扉の形式は、外観を眺める限りでは同じです。必要な時以外は、梯子あるいは階段を付けないというのは、防犯を考えてのことでしょうか。これは中倉の板倉造の壁ですが、奈良時代「校倉」は倉庫建築の技法として広く利用されていたのです。校倉の構法による建物は、唐招提寺や東大寺にも現存するようです。滋賀県の石山寺にも小規模ですが校倉の建物があったと記憶します。「断面三角形の木材を壁面に用いた理由は、長年の自然乾燥にによって校木に生ずる隙間をふせぐことに目的があったとする説がある。壁面の校木は屋根の重みを受けているが、校木と校木が小さい面で接する方が重みによる圧着度が増し隙間を塞ぐ効果が生じるという」(資料2)ことだとか。外気の湿度との関係で、校木が伸縮し外気の流入をふせぐという説は、「実際には天候によって建物の機密度に変化が生じることはないことが正倉院事務所の調査によって明らかになっている」そうです。(資料2) この床下を眺めると、丸柱が自然石を礎石として縦横に並んで巨大な本屋(ほんおく)を維持しています。この丸柱の直径は約60cmだそうです。鉄環で補強されているものと鉄環の内ものが見られます。柵のところで、北と南の両方向を眺めると樹木に囲まれた小ぶりな池が作られています。正倉の周囲は、芝生と砂利が敷かれた構内になっています。正倉の南西方向に、西宝庫の屋根が見えます。その南には周辺図によれば、「大仏池」があるようです。この西宝庫は昭和37年(1962)に建築され、「正倉に代わって整理済みの宝物を収蔵している勅封倉で、毎年秋季に開封され、宝物の点検、調査などが行われます」(資料1)。『続日本紀』を読むと、聖武天皇から皇位を継承した孝謙天皇の巻十九に、天平勝宝8年の「六月二十一日 七七日(四十九日)なので興福寺で斎会を行なった。僧と沙弥が千百余人参加した」(資料3)という記録があります。この書にはこれだけが記されているだけですが、この忌日に光明皇后は聖武天皇の冥福を祈念し、聖武天皇の遺愛品などを650件ほど東大寺に献納されたのです。この時の献納品の献物目録が『国家珍宝帳』として残されているのです。光明皇后の奉献はその前後5回におよぶそうです。(資料1,2)それらが、現在正倉院宝物と称されるもので、その中から、毎年「正倉院展」として60点余が選定されて、一般公開されていることになります。正倉を眺めた後で、上記の案内掲示板を拝見したのです。そこには平成24-25年(2012-13)の正倉の屋根の工事写真が掲示されていました。屋根瓦の葺替・修復や屋根裏の耐震補強工事が行われたようです。ガラス越しの写真ですので、反射して見づらいものですが、多少は見られるものを参考にご紹介したいと思います。 平成24年6月に屋根瓦が撤去された完了時点の状況 屋根の北西隅部の軒平瓦葺が完了し、平瓦の荷揚実施時の状況4395,4397 平成25年11月の屋根工事・瓦葺き完了の状況 南西隅部で、左が西面で新規瓦、右が南面で再用瓦での葺上げ 同時期、南東隅部。左が南面。右が東面(再用瓦+新規瓦)屋根裏の構造材に耐震補強が施工された状況を示す写真。上段(工事前)、下段(工事後)比較的参観者が少なかったので、ゆっくりと静かに眺めることができました。 参観門を出る手前、南方向の景色最後に、リーフレットに掲載の正倉院御物の琵琶の一つの写真を引用させていただきます。2015年の正倉院展では、四絃四柱の琵琶が展示されていました。こちらは五絃の琵琶です。文様のデザイン感覚がまるで異なります。いずれも精巧な魅せられる琵琶であることは間違いありません。 (2016.11.25 再録にあたり追補)ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「正倉院」 当日いただいたリーフレット 発行;菊葉文化協会2) 『平成二十七年 正倉院展』 奈良国立博物館 3) 『続日本紀 (中)全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺正倉院 :「宮内庁」正倉院 :ウィキペディア正倉院って何だろう? キッズサイト :「正倉院展」(読売新聞)菊葉文化協会 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂)へ探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池 へ探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ探訪[再録] 東大寺境内 -2 鐘楼・行基堂・念仏堂・俊乗堂・辛国社 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ探訪 東大寺境内再訪 -1 手向山八幡宮・法華堂(三月堂)へ探訪 東大寺境内再訪 -2 二月堂・龍王の瀧・閼伽井屋・三昧堂ほか へ
2016.11.25
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上御霊神社正面の石鳥居から西方向に上御霊通が続きます。通りの途中でふり返るとこんな眺めです。烏丸通に出るまでに、「村社 猿田彦神社」があります。そして、烏丸通に出る角のところに、この写真の「御霊神社(上御霊神社)由緒」という銘板が掲げられています。烏丸通を横断して、室町通に入ります。 正面に見えるのが、「室町頭 万や」という屋号表札が懸けられた京都市指定の「景観重要建造物 歴史的風致形成建造物」「歴史的意匠建造物」です。「この建造物は重要な国民的財産です 文化庁」の登録銘板も張られています。軒屋根の上に鍾馗様が置かれています。 この建物の前を左折して、室町通を南に下ります。少し下がると、「上柳原町」の住所標識が出ています。この辺りの西側に戦国期には松永弾正の邸があったそうです。地図(Mapion)で大凡の位置をご理解ください。さらに南に下ると、別の同種指定建物がかつての風情をみせてくれます。 ここの鍾馗様は箱形の中に収まっていました。私が目にしてきた中では初めてのケースです。 その南には、格子のはまった町屋も目にとまりました。昔からの姿を残してくれている町屋の屋根には、大概鍾馗様を見る事ができます。 この南に、地図で確かめると烏丸寺之内に近い位置の室町通になりますが、「曹洞宗 無学寺」があります。 無学寺の南東方向に「室町小学校」があるのですが、おもしろいことに校門の門柱に英語表記の校名銘板が掲げられています。一方、校門から見えるところに二宮尊徳像が建てられています。また、4本の石標が駒札付きで見えます。昔の道路標識だったそうです。 通りの一隅に、こんなお地蔵様も。上立売通のところで左折し、同志社大学のキャンパスに向かいます。左折するとしばらくして、老舗の御菓子司「俵屋吉富」のお店があります。南北は上立売通(北)と今出川通(南)の間、東西は室町通(西)と烏丸通(東)の間の区画が、「室町幕府の跡」だったのです。足利義満が造営した「花の御所」または「室町第」と呼ばれた将軍邸があったのです。つまり「室町殿跡」です。そこは崇光上皇の仙洞御所跡地(永和3年2月焼失)や菊亭公直邸(今出川殿)の跡地を義満が接収した敷地でもあります。義満が将軍となり9年目の永和3年(1377)に造営を始め、永徳元年(1381)に完成した邸です。室町第は応仁の乱で焼失。その後再建されたのですが、「文明8年11月13日夜子刻、西隣の土倉・酒屋に放火された火が延焼し、室町幕府も殿宇ことごとく焼亡し、百年の歴史を閉じた」(資料1,2)といいます。文明は応仁の次の年号であり、文明8年は1676年です。この区画は、現在同志社大学のキャンパスの一部や大聖寺の境内などになっています。大聖寺の門前には、こんな駒札が建てられています。同志社大のキャンパス周辺にはいくつかの遺構があり、整備されています。 上立売通に面したキャンパスの建物前のスペースに、「発見された石敷き遺構」が見られるようになっています。通りに面してレンガ壁を設けた内側に、右写真のパネルが掲示されています。烏丸通の東側、歩道の傍に、薩摩藩邸跡の石標や駒札が建てられています。「中世相国寺の遺構復元」も行われ、その説明パネルも掲示されています。 これは、同志社大学良心館地点の発掘調査(2010~2012)で、中世の相国寺に関わる遺構が数多く見つかったそうです。そこでその一部を移築・復元したものだとか。同志社大学構内で、烏丸通に比較的近い場所にある同志社大学図書館の傍に、織田信長が建立を許可した「南蛮寺」の礎石類が移設されています。烏丸通にある守衛所で了解を得て構内に立ち入り、撮らせてもらいました。REC講座での探訪をベースとして、個人的関心での脇道にも逸れながら整理してみました。これでご紹介を終わりとします。一点補足しておきます。 中京区蛸薬師通室町西入ル北側のビルの蛸薬師通に面したスペース、隣地境界の一隅に、「南蛮寺跡」の石標が建てられています。意識して探さないと自転車が置かれたりしているので、見落としてしまうことでしょう。(2014.7.17 祇園祭山鉾巡行を見た後で、場所を確認に行き撮った写真です。)ご一読ありがとうございます。付記 寺町通にある阿弥陀寺の北約200mほどの位置、上京区藪ノ下町に「光明山出雲寺」というお寺があります。もとは念仏寺と称する浄土宗知恩院派の寺で、寺伝では文和2年(1353)僧良阿上人の開創と伝えるようです。念仏寺が明治以降のある時点で「出雲寺」と改称したのだそうです。(ここは今回の探訪では拝観対象外でした。)このお寺の本堂には木造観音菩薩立像が安置されており、それがもとこの付近にあった旧出雲寺の遺仏といわれているのです。明治維新のおり、上御霊神社内観音堂より移したと伝わるそうです。寄木造、玉眼入りで鎌倉時代の作だとか。(資料1,3)参照資料1) 「京都の古寺社を巡る 25 ~相国寺と出雲寺~」(龍谷大学REC) 2014年5月 当日の講座レジュメ(龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏)2) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝著 新人物往来社 p247-2483) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂補遺猿田彦神社 上京区の史蹟百選 :「上京区」無学寺(上京区) :「京都風光」室町幕府址 上京区の史蹟百選 :「上京区」大聖寺 上京区の史蹟百選 :「上京区」幸神社 上京区の史蹟百選 :「上京区」誇りの木/相国寺,アカマツ 上京区の史蹟百選 :「上京区」誇りの木/同志社,クスノキ 上京区の史蹟百選 :「上京区」誇りの木/御霊神社,クロマツ・クスノキ 上京区の史蹟百選 :「上京区」京菓子司 俵屋吉富 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -1 幸神社、相国寺の総門・勅使門 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -2 相国寺(功徳池と天界橋、法堂、鐘楼、弁天社、方丈)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -3 相国寺の浴室 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -4 相国寺(天響楼、鎮守八幡社、経蔵、開山塔、宗旦稲荷、庫裏)、後水尾天皇歯髪塚 へ探訪 相国寺拾遺 鐘楼「洪音楼」・宗旦稲荷社・弁天社・鬼瓦様々 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -5 上御霊神社(社殿、舞殿、境内社)、出雲寺跡 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -6 上御霊神社(清明心の像、歌碑・句碑、手水舎、楼門)へ
2016.11.20
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本殿の南側、南門との間の境内部分に、冒頭の彫像があります。「清明心の像」と名づけられたもので、駒札が建てられています。昭和54年(1979)の国際児童年にあたり建立されたのです。中国宋代の学者司馬温公の幼少のころのエピソードがテーマになっています。大甕の周辺で子供たちが遊んでいるとき、甕に登った子供が大甕の中に落ちてしまいます。それを見た子供は狼狽え騒ぐだけなのに、温公は大石を甕に打ち付け甕を割ることで溺れる子の命を救ったというエピソードです。「清く明るく直き正しき誠の心」が即座に働いたということなのです。「清明心」の大事さを象徴する故事ということなのでしょう。中国の古典『礼記』の「孔子閒記」に孔子のことばとして「清明、躬(み)に在れば、気志(きし)神の如し」という名言が載っているようです。諸橋轍次博士は、「身に、清らかで明かな心を保っていれば、その志気は神のような働きをする。大いなる仕事をなすには、心をきれいにしなくてはならない」と解されています。(資料1)この名言に通底するようです。 拝殿の西側の参道を歩むと、木の傍に石碑が見えます。 近づいてみると、『広辞苑』を編集した新村出博士が上御霊神社を参拝された時に詠まれた歌の碑です。 千早振神のみめぐみ深くして八十ぢに満つる幸を得にけり新村博士は、大正12年(1923)より終生、当神社氏子の小山中溝町に住まれていたとか。上御霊神社は、「現在は上京区・北区にわたる一万三千戸の氏神様としても崇敬されています」(資料1)。 近くには、富士谷御杖(みつえ)の詞文を刻した碑もあります。これは上御霊神社の神殿を修復の折、造営工事を励ますために作られたそうです。文政5年(1822)3月7日仮殿遷宮が行われた時の作詞だとか。事後整理で知り、機会を逸して残念なのは、境内に芭蕉の句碑があったということです。松尾芭蕉は元禄3年(1690)12月にこの神社を参拝し、句を詠んでいるのです。 半日は神を友にや年忘レ(としわすれ)この手水舎(井戸館)の近く、東側に芭蕉の句碑があるようなのです。芭蕉の詠句は元禄5年刊の『八重桜集』に所収されたもの。「年忘歌仙」と前書が付されています。『一葉集』(文政10年刊)では「洛の御霊別当景桃丸興行」と前書されているようですので、芭蕉はこの句を句会の催しの中で詠じたということなのでしょう。(資料3)芭蕉は「おくのほそ道」紀行を終え、元禄3年の夏、幻住庵に戻り「幻住庵記」を執筆。9月末には一旦膳所」から伊賀上野に戻り、11月上旬に京都に出てきています。そして12月には京都→大津→義仲寺と移り、元禄4年の新年は義仲寺で迎えたようです。この時期の作句ということになります。(資料4)ついつい、脇道に逸れました。 楼門(西門)境内の西側が表参道になります。境内側には、下の写真の菊の紋章の付された幕が吊され、外側は御神燈が吊されています。また、蟇股の部分には菊の紋章が刻されています。寛政年間(江戸時代中期)に再建された四脚門です。 楼門前の狛犬の相貌が、私にはなぜか人間味があるように思えます。 これが御霊神社(上御霊神社)の正面です。石造鳥居は明神鳥居の様式です。二本の柱の上端箇所、島木のところと、額束のところに菊の紋章が付けられています。めずらしい形式のようだと思います。上御霊神社の最後に、こんなことも書き加えておきたいと思います。かつての境内は現在の約2倍の面積があったそうで、「御霊の森」と呼ばれるほどに樹木がうっそうと生い茂っていたそうです。応仁元年(1467)正月18日、畠山政長はこの御霊の森に拠って布陣し、同族の畠山義就と戦います。これが応仁の乱の起こりとなります。上御霊神社はこの時の兵火で焼亡してしまいます。その後も焼失を繰り返すという歴史を経ているようです。本殿は享保18年(1733)に内裏の旧賢所御殿を寄進されたとされています。一説には、宝暦5年(1755)禁裏内侍所を下賜されたとも言われています。(資料2,5,6)もう一つ、「中川」について前回『都名所図会』の説明を引用させていただきました。その続きに、この中川は上御霊神社の南側から、あの藤原道長の邸宅京極土御門殿(左京一条四坊十五・十六町)とその東に道長が建てた法成寺の間を流れていたようだと記しています。京極土御門殿は現在の地名で言えば、上長者町通の南で、寺町通の西に位置していたのです。京極土御門殿の北には染殿がありました。現在の地名では染殿町であり。梨木神社があるところです。この梨木神社の場所が、源氏物語ゆかりの地でもあります。ここは「中川の家候補地」でもあるのです。「中川」が源氏物語でまず紀伊守の中川邸という形で登場しているのです。「・・・さるべき方の忌待ち出でたまふ。にはかにまかでたまふまねして、道の程よりおはしましたり。紀伊守おどろきて、遣水の面目とかしこまり喜ぶ」(帚木の巻)と。(ちょうど都合のよい方塞がりをお待ち受けになって、やっとその日がめぐってくる。急に左大臣邸へ退出なさるふりをして、途中から、その家にお越しになった。紀伊守は驚いて、遣水の名誉とばかり恐縮しながら喜んでいる。)(資料7)勿論、方違えにかこつけた光源氏の目的は、「空蝉」に出会いたいためなのです。それは「空蝉の巻」への導入になります。また、「花散里の巻」には、「・・・・忍びて中川のほどおはし過ぐるに、ささやかなる家の、木立などよしばめるに、・・・・」(ひっそりと中川のあたりをお通り過ぎになると、小さな邸の、木立などの風情ありげなところで)と、「中川」の名称自体が記されています。上御霊神社と梨木神社の位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。上御霊神社の最後に、京都魔界都市という視点で見ると、上御霊神社は桓武天皇にとって、早良親王(追贈された諡号・崇道天皇)の怨霊封じという御霊信仰と併せて、平安京の大内裏からみれば、上御霊神社、出雲路幸神社、狸谷不動院、下鴨神社、上賀茂神社は、さらに延ばすと比叡山延暦寺に至る「鬼門ライン」なのです。鬼門を守るという「魔界封じ」という発想につながる鎮守という機能を担わされたとも考えられるのです。重層的に意味が秘められているといえるのではないでしょうか。(資料8)上御霊神社を後にして、室町殿跡を想像し、同志社のキャンパスを経由して探訪終了となります。つづく2014.9.26 追記鳥居に菊の紋章が付されていることに関連して思い出したことを追記します。平安神宮の神宮道、国立近代美術館と京都市美術館との間に立つ朱塗りの大鳥居が類似の事例です。 しかし、この写真にあるとおり、額束ではなくその上、島木の部分に一列に紋章が付されていること。またその紋章のデザインが菊の紋章とは異なっています。参照資料1) 『中国古典名言事典』 諸橋轍次著 講談社学術文庫 p2832) 上御霊神社(上京区) :「京都神社庁」3) 『芭蕉俳句集』 中村俊定校注 岩波文庫 p2274) 松尾芭蕉の総合年譜と遺書 :「俳聖 松尾芭蕉・みちのくの足跡」 5) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂6) 「京都の古寺社を巡る 25 ~相国寺と出雲寺~」(龍谷大学REC) 当日の講座レジュメ(龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏)7) 『源氏物語』(日本古典文学全集) 小学館 第1巻p109、第2巻p1548) 『魔界都市京都の謎』 火坂雅志著 PHP文庫 p35-38【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺司馬温公 → 司馬光 :ウィキペディア司馬光 :「語彙辞典」司馬温公の瓶割り 陽明門-日光東照宮- :「日光の社寺 世界遺産」新村 出 :ウィキペディア広辞苑ものがたり :「岩波書店」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -1 幸神社、相国寺の総門・勅使門 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -2 相国寺(功徳池と天界橋、法堂、鐘楼、弁天社、方丈)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -3 相国寺の浴室 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -4 相国寺(天響楼、鎮守八幡社、経蔵、開山塔、宗旦稲荷、庫裏)、後水尾天皇歯髪塚 へ探訪 相国寺拾遺 鐘楼「洪音楼」・宗旦稲荷社・弁天社・鬼瓦様々 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -5 上御霊神社(社殿、舞殿、境内社)、出雲寺跡 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -7 猿田彦神社、室町殿跡、同志社大キャンパス周辺の遺構など へ
2016.11.20
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正式名称は「御霊神社」ですが、「上御霊神社」という通称で知られています。烏丸通鞍馬口より東、相国寺の北、鞍馬口通の南に位置します。相国寺からは直線距離で約360mといいます。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 京都成安高校・中学校の校舎の前を通り、左折して北に上り、上御霊前通を西に少し歩きます。道路と神社境内の間は堀のように見えますが、中川だとか。『都名所図会』には、「中川は、上御霊の前の流れをいふ。鴨川を東川といひ、桂川を西川といふ。その中にありしゆゑ名とす。一名京極川とも号(なづ)く。今の京極通寺院の筋に川あり。」と説明しています。(資料1) 南門から上御霊神社の境内に入りました。参道の右手に小ぶりな手水所があり、参道の先には拝殿が見えます。御神燈に描かれた神紋は桐の葉と花を形象化したもので、「有職桐」だそうです。ふり返るとこんな景色です。今回の古寺社巡りの一つの目的は相国寺の拝見の次にまず出雲寺跡に立つということでした。平安京遷都以前、現在の上御霊神社周辺に「出雲寺」があったと伝えられているのです。出雲一族が住んでいた土地が「出雲路」という地名を残し、そこに「出雲寺」という名称の寺が開かれたといいます。平安末期には廃絶しています。発掘調査で「上御霊神社の境内と周辺から本薬師寺式瓦が採集され、飛鳥後期からの寺院と推定される」というように、遺物が出ているのです。(資料2)飛鳥時代の大宝3年(703)、文武天皇の勅願により行基が護法山出雲寺を開いたといいます。794年に平安京遷都を行った桓武天皇は、延暦14年(794)に出雲寺に行幸。伝教大師最澄は自刻の毘沙門天を天皇に奉献したとされています。(資料3)『今昔物語集』巻第20の第34話に、以下の記述があるのです。 今ハ昔、上津出雲寺ト云フ寺有リ。建立ヨリ後、年シ久ク成テ、当ニ倒レ傾テ、殊ニ修理ヲ加ル人無シ。 此ノ寺ハ、伝教大師震旦ニシテ、達磨宗ヲ立テム所ヲ撰ビ遣シテヤリケルニ、・・・中略・・・。止事無キ所ニテ有ケルニ、何ナリケルニカ、此ク破壊シタル也。・・・以下略・・・。『今昔物語集』ができた平安末期には、出雲寺が荒廃していた様が記されているのです。また、出雲寺はこの『今昔物語集』その他から、上下2つの出雲寺に分かれていたようで、上御霊神社のところにあったのが上出雲寺だったそうです。一方、『山城名勝志』(18世紀)所載の「出雲寺流記」には、「延長4年(926)に丈六釈迦を本尊とし、丈六千手観音と丈六弥勒像を安置した七間四面の金堂や、五間四面の講堂と食堂、鐘楼、経蔵を備えた伽藍」だという記載があるといいます。(資料2)その伽藍は、平治の乱(1159年)で焼失してしまいます。鎌倉時代初期に復興され、室町時代後期から戦国時代の頃に再び荒廃したようです。そして、江戸時代初期(1611年)に再興勅命が天海僧正に降り、公海大僧正に引き継がれて寛文五年(1665)、山科安朱の地に再建されるに至るのです。それが現在の山科毘沙門堂だとか。そこで、上御霊神社に話が移ります。上御霊神社は出雲寺の鎮守社だったようです。前述の「出雲寺流記」には、「平安遷都の際に大和宇智郡から遷座」とあり、「その社は井上内親王や他戸親王を祀るとされた霊安寺御霊社と考えられる」そうです。「延暦24年(805)崇道天皇(早良親王)を祭神に加えた」のです。(資料2)一方、社記は、「桓武天皇の御宇延暦13年5月崇道天皇の神霊を現今の社地に祀り給ひしを始めとす。其後仁明天皇、清和天皇両朝に至りて井上内親王、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫の神霊を合祀せられ」と記しているそうです。(資料4)この伊予親王、その母藤原吉子(藤大夫人)が承和6年(839)に祀られたのは御霊社の南であり、下御霊社と称されたとか。そこに、その後橘逸勢(橘太夫)、文屋宮田麿(文大夫)が合祀されることになるのです。2つの御霊社が祀られていたことになります。そして、貞観5年(863)5月廿日神泉苑に六座の神座を設け悪疫退散の御霊会が行われるに至るのです。(資料4,5)その後、さらに祭神が加わります。中世、出雲寺は荒廃衰退し、下御霊社は他の地に移り、上御霊社のみがこの地で崇敬を得て存続していくことになったのです。 本殿 享保18年(1733)に内裏の賢所御殿が寄進され、その遺構を昭和45年(1970)に復元されたようです。本殿の御祭神は八座。いわゆる「八所御霊」です。 ・崇道天皇(スドウテンノウ) :光仁天皇第二皇子、早良親王 ・井上大皇后(イノエノオオヒキサキ):聖武天皇第一皇女、光仁天皇ノ皇后 ・他戸親王(オサベシンノウ) :光仁天皇第四皇子 ・藤原大夫人(フジワラノタイフジン):藤原吉子命 ・橘大夫(タチバナノタイブ) :橘逸勢命 ・文大夫(ブンノタイブ) :文屋宮田麿命 ・火雷神(カライシン) :以上六所ノ荒魂 ・吉備大臣(キビノオトト) :吉備真備命 相殿の御祭神は五座 ・三社明神(サンシャミョウジン) 四座 ・和光明神(ワコウミョウジン) 一座 5月18日がこの神社の御霊祭だったので、拝殿には神輿が3基鎮座していました。本殿の周囲を時計回りに巡ってみましょう。(資料4)突き当たりは末社が祀られています。大舞神社・天満宮社・多度神社・貴船社・粟島神社・白鬚神社だとか。その西側に「花御所八幡宮」が鎮座します。「明治維新前までは付近の小山(北区)にあった五所八幡宮を移したものといわれ、或いは足利室町殿内にあった花之御所八幡宮ともいわれる」(資料5)神社です。 本殿北側。右の写真にあるのは「長宮三十社」と総称されるもので、末社が一列に連なっている建物です。春原社・荒神社・稲葉社・今宮社・熊野社・愛宕社・熱田社・多賀社・厳島社猿田彦社・貴布禰社・丹羽社・梅宮社・八坂社・廣田社・吉田社・日吉社・住吉社龍田社・広瀬社・大和社・石上社・大神社・大原社・平野社・春日社・松尾社・八幡社賀茂社・鴨社だそうです。まさに八百万の神々が集合しています。さらに独立した境内社がいくつかあります。 「厳島神社」本殿の背面(東)に回り込むと、 左の大きな石灯籠とその南隣りに「神明神社」 さらに神輿庫が並び、東側の南端に「福寿稲荷神社」が祀られています。 本殿の南側面を眺めたところ。絵馬所を撮り忘れました。江戸時代中期・宝暦年中(1751-1764)に寄進された内裏の賢所権殿を絵馬所に改めたとのことです。この後、楼門の方に向かいます。つづく参照資料1) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p252) 「京都の古寺社を巡る 25 ~相国寺と出雲寺~」(龍谷大学REC) 当日の講座レジュメ(龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏)3) 毘沙門堂の縁起 :「山科毘沙門堂」HP 4) 上御霊神社(上京区) :「京都神社庁」5) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺上御霊神社 :ウィキペディア上御霊神社 :「幻松子の記憶」京都十六社朱印めぐり今昔物語集 :「平成花子の館」御霊信仰 :ウィキペディア御霊会 :ウィキペディア八所御霊 :「神社参拝記」八所御霊神社 :「奈良の寺社」五條市の御霊神社 :「ななかまど」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -1 幸神社、相国寺の総門・勅使門 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -2 相国寺(功徳池と天界橋、法堂、鐘楼、弁天社、方丈)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -3 相国寺の浴室 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -4 相国寺(天響楼、鎮守八幡社、経蔵、開山塔、宗旦稲荷、庫裏)、後水尾天皇歯髪塚 へ探訪 相国寺拾遺 鐘楼「洪音楼」・宗旦稲荷社・弁天社・鬼瓦様々 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -6 上御霊神社(清明心の像、歌碑・句碑、手水舎、楼門)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -7 猿田彦神社、室町殿跡、同志社大キャンパス周辺の遺構など へ
2016.11.20
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「浴室」拝見後、参道に出て、少し南に歩むと「法堂」の西あたりですが、参道の西側に「天響楼」と称される鐘楼が建立されています。 この梵鐘は中国開封大相国寺から寄進されたもののようです。2011年夏に建立し落慶法要が行われたといいます。相国寺はこの中国の大相国寺と友好寺院の協定を結び交流を続けているそうです。(資料1,2)参道に面して石碑や駒札が建てられています。石碑は平成6年(1994)4月に建立され、日中両相国寺友好を謳った記念碑です。天響楼の南に「鎮守八幡社」が所在します。石造鳥居には「八幡宮」の扁額が懸けられています。足利義満が男山八幡から御神体を勧請したと言います。創立当初は今出川通の北、御所八幡町に祀られていたようです。(資料2)御所八幡町の位置はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。 鎮守八幡社の南隣に、「後水尾天皇歯髪塚」があります。柵で囲まれた長方形の区画です。その中央にこの石標が建てられています。この区画は宮内庁の管轄で、至ってシンプルな塚です。余談ですが、東山の泉涌寺内に「後水尾天皇月輪陵」という陵墓指定地があります。陵形は九重塔だとか。宮内庁のホームページで検索すると、月輪陵は26人の天皇陵墓となっています。 後水尾天皇歯髪塚の南に、「経蔵」があります。境内に掲示の「大本山相國寺全景」には「宝塔」と表記されています。この後、法堂の東に位置する「開山塔」の傍を経由して、相国寺を北に抜けることになります。 この白い築地塀に囲まれた区画に「開山塔」があります。白壁の前で説明を聞くに留まりました。 築地塀の際はきっちりと排水溝が作られています。この開山塔の南に、既にご紹介した弁天社と鐘楼が位置します。 北から 西から見た社前 南から弁天社を各側面から眺めるとこんな景色です。排水溝は弁天社と鐘楼の間を南方向に通り、鐘楼の南側に東方向の排水溝が見えます。手許の文庫本を参照していますが、江戸時代の『都名所図会』の中で描かれた相国寺の図を引用させていただきます。(資料4) この図では法堂を仏殿と明記しています。現在の「開山塔」(開山堂)は「祖師堂」と記載されています。『都名所図会』は安永9年(1780)に木版初摺本が出版されました。「仏殿には釈迦仏を安置し、・・・・祖師堂には夢窓国師の像あり。後水尾院の御再建にして、同帝の神牌を安置す。」と同書に記されています。応仁の乱の兵火で焼失(1467年)後、寛文6年(1666)に後水尾天皇が再建。ところが、この後、天明8年(1788)の大火により、この祖師堂は焼失したのです。そして、同地に文化4年(1807)に開山塔が再建されました。現在の建物は桃園天皇の皇后、恭礼門院の黒御殿を賜って移築、増改築を加えられたものです。夢窓国師(夢窓疎石)像と共に、仏光国師(無学祖元)・仏国国師(高峰顕日)・普明国師(春屋妙葩)の像が安置されているそうです。(資料2,3,4)鐘楼の北東方向、すぐ傍にこの「宗旦稲荷社」が祀られています。相国寺のホームページにある「宗旦稲荷社」の項目で、宗旦狐の故事が語られています。また、一例としては『京都魔界案内』(小松和彦著・知恵の森文庫)にも紹介されています。詳しくはこれらをご参照ください。(資料5)宗旦狐にまつわる要点は次のようなものです。相国寺境内にかつて一匹の白狐が住んでいたのです。この狐の伝説です。*雲水に化けて僧堂で修行を積んだ。*雲水に化け、門前の商家に出入りして商機を予言した。*千利休の孫・千宗旦に化けて寺の和尚と囲碁を打つ。人間に化けて近所の人のところに囲碁を打ちに出かけた。*宗旦に化けて、寺の茶会において客の前で見事な点前を披露した。*死期を悟った白狐は別れの茶会を催し、翌日漁師に鉄砲で撃たれて落命した。*また、犬に追われて、藪の中に逃げ込んだが古井戸にはまって落命という説も・・・。などと伝わっているのです。上掲の「経蔵」が「宝塔」と記されている意味について、引用した相国寺の図でその関係がわかってきます。『都名所図会』掲載の図には、三層塔が描かれています。同書に、「三重塔は大日如来を本尊とし、これも後水尾院の再建なり」と記されているのです。承応2年(1653)に建立されました。そして、後水尾院の「出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められました」(資料2)といいます。ところが例の天明の大火で焼失。宝塔の跡地に安政8年(1859)より再建し、万延元年(1860)に建立されたのが現在の「経蔵」です。その際に経蔵置場を兼ねることになり「経蔵を兼ねた宝塔として機能」(資料2)してきたのです。「桂昌院寄贈の高麗大蔵経を納め」(資料3)ているそうです。つまり、どちらの機能を主とみるかの説明の違いといえるのでしょう。ところがこの経蔵(宝塔)は、「明治23年(1890)、宮内省により南へ移され、跡地を後水尾天皇歯髪塚とした」(資料3)のだとか。その結果現在位置にあるというわけです。 庫裏「香積院」切妻妻入です。柱、梁及び白壁で構成される面が、上部は左右対称、下部は非対称となっているのが平凡さを脱し印象的です。庫裏は方丈と接続されていて、方丈とともに文化4年(1807)に建立されたと伝わるようです。庫裏の前を右方向に進むと、「承天閣美術館」に至ります。ここは何度も訪れていますが、今回の探訪では対象外でした。庫裏の手前を左折し、再度「方丈」の築地塀と「法堂」の間の参道を抜け、浴室そして大明寺の前を通り北に向かいます。 北から南方向を眺めて 道の曲がり角、西側に位置するのが「長徳院」です。そして、相国寺の裏手に出ます。こんな石柱が建てられているだけでした。この後、相国寺の北に位置する上御霊神社に向かいます。つづく参照資料1) 「相国寺」 拝観時にいただいたリーフレット2) 参拝のご案内 境内のイラスト地図が掲載され、さらに詳細へのリンクあり。:「相国寺」 3) 「京都の古寺社を巡る 25 ~相国寺と出雲寺~」(龍谷大学REC)2014年5月 当日の講座レジュメ(龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏)4) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館) 巻1の12コマを引用 5) 『京都魔界案内』 小松和彦著・知恵の森文庫 p64-66【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺中国(開封)大相国寺と相国寺 :「歴史資料」(臨済宗相国寺派)開封大相国寺 ホームページ後水尾天皇 :ウィキペディア夢窓疎石 :「京都大学電子図書館」夢窓疎石の遍歴と庭園(禅庭園の起源と発展) :「ようこそ中田ギャラリーへ」夢窓疎石と作庭 -霊石の系譜学- 中路正恒氏宗旦狐 :ウィキペディア(132)宗旦狐(京都市上京区) :「ふるさと昔語り」(京都新聞)承天閣美術館 :「臨済宗相国寺派」相国寺承天閣美術館 :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -1 幸神社、相国寺の総門・勅使門 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -2 相国寺(功徳池と天界橋、法堂、鐘楼、弁天社、方丈)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -3 相国寺の浴室 へ探訪 相国寺拾遺 鐘楼「洪音楼」・宗旦稲荷社・弁天社・鬼瓦様々 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -5 上御霊神社(社殿、舞殿、境内社)、出雲寺跡 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -6 上御霊神社(清明心の像、歌碑・句碑、手水舎、楼門)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -7 猿田彦神社、室町殿跡、同志社大キャンパス周辺の遺構など へ
2016.11.19
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法堂の西、少しばかり北に「浴室」の建物があります。「浴室」の全景です。慶長元年(1596)に再建された建物で、西浄(東司)とともに七堂伽藍の一つです。(資料1)平成14年(2002)6月に復元修復されました。七堂伽藍というのは、寺の主要な七つの建物をさすそうですが、必ずしも一定していないようです。「禅宗では仏殿・法堂・僧堂・庫裡・山門・東司・浴室をいうことが多い」のだとか。「一般的には、塔・金堂・講堂・鐘楼・経蔵・僧房・食堂をいう」とのこと(『大辞林』三省堂)。東司は「禅寺で、厠(かわや)の別名。本来は東序に属する僧の用いる便所。東浄」です。東序があれば西序もあります。同様に辞書を引きますと、東序とは「禅宗寺院で住持の下にあって寺務をつかさどる六知事のこと。法堂で東に並ぶことからいう」。西序とは「禅宗寺院で、学徳に長じたものが占める職位。首座以下の六頭首のこと。また、その僧たちが法堂において並ぶ西側の位置」という意味です。知事とは「寺で、僧の雑事や庶務をつかさどる僧」で、頭首(ちょうしゅ)とは「禅宗寺院で住持の下位にあって、寺院の運営を分担する僧の役職」だそうです。現在の相国寺は、境内図を見ると、七堂伽藍としては、辞書にいう禅宗の視点では法堂(仏殿を兼ねる)、庫裏、浴室があるだけです。一般的な視点では鐘楼、経蔵が加わります。数多くの塔頭を除けば、方丈、開山塔、座禅堂、書院があります。 建物の正面入口に近づくと、建物内部の梁に「宣明」という額が懸けてあります。相国寺では「宣明」は浴室の別名なのだとか。「宣明とは、宋の禅宗建築を描いた巻物『大唐五山諸堂図』の中で風呂を描いた『天童山宣明様』という図にあるように、浴室の別名です。」と相国寺のホームページで説明されています。入口を入ると正面には衝立の機能を果たす板壁になっていて、「開浴」という額と菩薩像が安置されています。この像を拡大したのが下の写真です。首楞厳経というお経にこんな記述があるそうです。「十六人の菩薩が風呂の供養を受けた際、跋陀婆羅菩薩を始め菩薩達が忽然として自己と水が一如であることを悟った」のだと。この跋陀婆羅菩薩が「妙觸宣明、成仏子住」と発したそうです。「宣明」という言葉はこの故事から来ていて、この菩薩を祀っているのだとか。(資料2)「浴室」も悟りを得られる修行の場なのだということを象徴しているのでしょう。両側に階段があります。階段を上がると建物内部はこんな風です。建物内部は、待合(土間)・浴室・火焚場(土間)の三室から構成されています。(資料1)一隅には、浴室その他についての説明パネルが掲示されています。反射して写真に撮ることができませんでした。いい情報源だったのですが・・・・。ぜひ拝見に行き、ご一読ください。 屋形の内部の写真 浴室の中央に湯釜を置き、屋形で覆っているのです。「蒸気浴をしながら、ひしゃくで湯を取り、身体に注ぐ掛け湯式の入浴法をあわせて行う方式」だったのです。(資料3)いわゆる蒸し風呂というのが、当時の浴室だったのです。 床下の浴室の排水設備が見学できる工夫がなされています。こちらは火焚場(土間)です。かつてはたぶん担当僧が大釜で湯を沸かすためにせっせと火焚きの作務を行ったのでしょうね。浴室=修行の場なのですから。 2種類の手桶が展示されています。 こんなものも展示されています。 板蟇股や木鼻の形状はシンプルそのものです。 通りを挟み、北隣は大光明寺です。門前に「京都十三佛 第四番 普賢菩薩霊場」の木札が懸けられています。 門前から境内を眺めてつづく参照資料1) 「京都の古寺社を巡る 25 ~相国寺と出雲寺~」(龍谷大学REC) 当日の講座レジュメ(龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏)2) 参拝のご案内 境内のイラスト地図が掲載され、さらに詳細へのリンクあり。 3) 「相国寺」 拝観時にいただいたリーフレット【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺妙心寺の浴室は「明智風呂」 :「京都発! ふらっとトラベル研究所」浴室 :「酬恩庵一休寺」臨済宗・建仁寺・境内3 :「日本のお寺」 建仁寺の浴室の写真が掲載されています。脇道談義です。以下はネット検索して得た情報です。☆浴室からの連想で・・・・・名物 かまぶろ :「八瀬かまぶろ ふるさと」かま風呂 :「平八茶屋」お風呂の歴史銭湯 :ウィキペディア☆東司からの連想で・・・・・東司 :ウィキペディア東司 :「酬恩庵一休寺」東福寺 東司 :「京都観光Navi」トイレは文化財か? ・・・東福寺の東司・・・ :「古墳のある町並から」禅寺のトイレ:なぜ「東司」、「西浄」か :「古墳のある町並から」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -1 幸神社、相国寺の総門・勅使門 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -2 相国寺(功徳池と天界橋、法堂、鐘楼、弁天社、方丈)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -4 相国寺(天響楼、鎮守八幡社、経蔵、開山塔、宗旦稲荷、庫裏)、後水尾天皇歯髪塚 へ探訪 相国寺拾遺 鐘楼「洪音楼」・宗旦稲荷社・弁天社・鬼瓦様々 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -5 上御霊神社(社殿、舞殿、境内社)、出雲寺跡 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -6 上御霊神社(清明心の像、歌碑・句碑、手水舎、楼門)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -7 猿田彦神社、室町殿跡、同志社大キャンパス周辺の遺構など へ
2016.11.18
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臨済宗相国寺派大本山の相国寺は、足利三代将軍義満が永徳2年(1382)に発願し、後小松天皇の勅命をうけ、約10年の歳月を費やして明徳3年(1392)に完成させたお寺です。夢窓国師(疎石)を勧請開山として、その甥の春屋妙葩や義堂周信により伽藍の建立がなされたといいます。室町殿(室町幕府所在地)の東側に位置します。この相国寺もその伽藍はかなり苦難の変遷をしています。 明徳3年(1392) 伽藍建立完成 明徳4年(1393) 火災により全山焼失 応永3年(1396) 再び足利義満により再建立、落成 応永6年(1399) 七層大塔完成。その後、豊臣秀頼、德川家康などが建物建立寄進 天明8年(1788) 大火により法堂・浴室・塔頭九院のほかは焼失 文化4年(1807) 開山塔建立(桃園天皇皇后恭礼門院旧殿の下賜による) 以降に方丈、庫裏も完備されて現在に至るようです。(資料1、2)前回ご紹介した「総門」(薬医門)を入ると、左手(西側)に方形の「功徳池」があり、「天界橋」と称される石橋が架けられています。現在は功徳池を囲む柵が設けられています。回り込んで南を眺めると、総門(左)、勅使門(右)が池のかなたに見えます。勅使門と天界橋は少し中心軸がずれています。この石橋は「京都御所とのあいだに境界線の形をなしているので、この名がある」(資料3)そうです。蓮栽培用の大きな水鉢が天界橋の前後に数多くならべてあります。足利管領細川晴元による三好長慶討伐という「天文の錯乱」(天文元~4年・1532-1535)はこの石橋から始まったといいます。(資料2) 勅使門から天界橋を渡った正面のこの場所は、かつて三門があったところです。德川家康が三門を寄進したのですが、天明の大火で焼尽してしまいました。 三門跡の北側から勅使門を眺めてこの緩やかな参道の坂道を進むと、前方に本堂(法堂)が見えます。「無畏堂」(むいどう)と称し、仏殿を兼ねています。慶長10年(1605)に豊臣秀頼により再建されたものです。現在は、山内最古の建物になります。「五間四面、単層、裳階(もこし)付のために外観は七間六面、重層のように見える。屋根は入母屋造り、本瓦葺の堂々たる唐様建築」(資料2)です。本堂(法堂)の手前、今は背の低い垣根のある参道あたり一体が仏殿跡だとか。この写真の大石が、礎石の一部だと説明を受けたように思います。(記憶違いかも・・・)法堂の扉の格子の一箇所に堂内を覗ける格子窓が設けられています。そのスペースから撮らせていただいた堂内の雰囲気です。中央の須弥壇上には本尊釈迦如来像、脇侍に阿難・迦葉両尊者の立像が安置されています。これらは運慶作といわれています。(資料1)法堂の天井には狩野光信(狩野永徳の息子)によって蟠龍図が描かれています。後ほど、方丈と法堂内を拝観し、堂内で見上げるとやはり迫力がある龍図です。拝観時は撮影禁止でしたので・・・境内にあった立て看板の図でご紹介します。堂宇のある一地点で両手を打ち合わせると龍からその反響がするために、鳴き龍と呼ばれているのです。法堂の外観をまずぐるりと、ご紹介しましょう。ちょっとマニアックですが・・・・。 南東方向から 東から 北東方向から 西から南西方向から。法堂玄関廊が付いています。切妻形の化粧屋根裏、両妻唐破風というもので、桃山時代禅宗仏堂として貴重な遺構となっているのです。(資料2)裳階屋根の鬼瓦。表情も異なり、額に付けているものも異なります。総門から真っ直ぐに北進する参道を進んでくると、法堂の南東方向に、鐘楼が位置します。一名「洪音楼」と言われています。袴腰付鐘楼です。(資料3)鐘楼の北側には、弁天社が祀られています。1810法堂の北に方丈があります。方丈は単層、入母屋造り、桟瓦葺で文化4年(1807)の再建。内部は表側三室、裏側三室の六室の間取りです。部屋の役割あるいは部屋を飾る襖絵と照応する形で、各室の名称が付けられています。原在中、玉潾、土佐光則などの筆による襖絵が拝見できます。撮影禁止だったので、名称の羅列も無意味でしょう。省略です。 相国寺のホームページを見ると、いくつか紹介されていますので、ハイライト文字をクリックしてご覧ください。 法華観音の図 遠塵齋(加藤信清)筆 方丈室中の間にて 方丈 前庭は白川砂を一面に敷いた枯山水の庭(撮影禁止)。裏方丈庭園だけは撮影可でした深い谷間のある深山幽谷の景色を取り入れた庭です。この庭、紅葉の季節が一層美しいようです。方丈と法堂の内部を拝観した後は、浴室を拝見に行きました。浴室は撮影可でしたので、次回は浴室のご案内です。つづく参照資料1) 「相国寺」 拝観時にいただいたリーフレット2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂3) 鐘楼「洪音楼」 :「相国寺」 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺相国寺 トップページ 参拝のご案内 境内のイラスト地図が掲載され、さらに詳細へのリンクあり。 裳階 (もこし) 社寺建築にみる建築観 :「日本建築の底流」享禄・天文の乱 :ウィキペディア狩野光信 :ウィキペディア第6回 臨済宗黄檗宗各派本山 雲龍図 :「臨黄ネット」(臨済禅黄檗禅公式サイト)原在中 :ウィキペディア土佐光則 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -1 幸神社、相国寺の総門・勅使門 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -3 相国寺の浴室 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -4 相国寺(天響楼、鎮守八幡社、経蔵、開山塔、宗旦稲荷、庫裏)、後水尾天皇歯髪塚 へ探訪 相国寺拾遺 鐘楼「洪音楼」・宗旦稲荷社・弁天社・鬼瓦様々 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -5 上御霊神社(社殿、舞殿、境内社)、出雲寺跡 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -6 上御霊神社(清明心の像、歌碑・句碑、手水舎、楼門)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -7 猿田彦神社、室町殿跡、同志社大キャンパス周辺の遺構など へ
2016.11.18
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伊藤若冲展で相国寺承天閣美術館を久しぶりに訪れた続きとして、「遊心六中記」と題したブログに載せた探訪記録をご紹介します。京阪電車京都線の出町柳駅に集合し、京都の古寺社を巡る探訪講座に参加しました。参加したのは2014年5月中旬ですが、その事後学習を兼ねた整理にやっと着手です。(資料1)今回はこの時撮った写真で、相国寺とその周辺のご紹介をしたいと思います。冒頭の左写真は、北東からの高野川、北西からの賀茂川が合流して、鴨川となる箇所です。東の高野川には河合橋、西の賀茂川には出町橋が架かっています。二つの橋の架かる地点の北側の森は、葵公園、その先が糺の森となり、下鴨神社に至ります。冒頭の右写真は、二川の合流、つまり鴨川の起点に架かる賀茂大橋。賀茂大橋の架かる今出川通の東端に見えるが大文字山です。山腹に大の文字(左大文字)を眺めることができます。賀茂川の右岸に沿って河原町通から加茂街道になります。出町橋、葵橋のさらに上流には鞍馬口通に連なる「出雲路橋」が架かっています。鞍馬口は京の七口の一つです。今回の探訪地域はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。 この辺りが「出雲路」と称されるのは、平安遷都以前の6世紀以降にこの地に出雲氏一族が進出・居住して、出雲郷(愛宕郡)があったことに由来するようです。(資料2.3)1724「妙音弁財天」 出町橋西詰・青龍町に所在します。妙音堂とも呼ばれています。境内の六角堂に本尊青竜妙音弁財天画像が祀られています。都三弁天の一つであり、京都七福神巡りの一つに数えられています。社伝によれば、初めは伏見の伏見宮家に奉祀されていた弁財天で、「伏見御所の弁財天」と崇められているそうです。(資料3) 枡形の商店街を通り抜けると寺町通です。右折すると、少し北の道路端に右写真の道標が立てられています。この道標が突き当たりとなる東西の道路、今出川通からは一筋北になる通りに左折していくと、こんな地名表示が残っています。仁丹のマークが時代の情緒を感じさせます町名「幸神町」には「サチノカミ」と読みカナがふられています。 「幸神社」(さいのかみのやしろ)一般には「こうじんじゃ」と呼ばれているようです。上の写真の「出雲路幸神社」の石標が建てられています。江戸時代の『都名所図会』には「出雲路神」という見出しで、「京極の西、今出川の北にあり。祭る所猿田彦命にして道祖神なり。いま幸神(さいのかみ)といふ。旧地は京極の東なり」と記されています。(資料4)道祖神とは外から襲来する疫神・悪霊などを、村境や辻・橋畔などで防御する神として祀られた神です。道祖神は塞神(さえのかみ)とも言われます。「塞神」→「さえ」の神→「さい」の神→「幸神」と転じたようです。(資料3) 幸神社の社殿が南面しています。東側には小社がずらりと並び、瓦屋根がかけられています。 主祭神の猿田彦神に対し、相殿神として八柱の神が祀られているのです。境内の東北隅には石の鳥居があり、「猿田彦神石」と称される一個の石があります。親しみやすくでしょうか、「石神さん」という表示がみられます。「その形が男性性器に似ているのが珍しい。これも猿田彦が古来生殖の神といわれるからであろう」(資料3)境内への入口から西側に手水舎があります。「盥漱水」という文字が水槽の側面に彫られています。幸神社の入口にある石標の上部をよく見ていただくと「皇城鬼門除」という文字が陰刻されています。桓武天皇が平安京を築きました。平安京の天皇の住まいは大内裏です。この大内裏から艮(うしとら)の方向、つまり北東は鬼や魔の侵入してくる入口、つまり「鬼門」として当時の人々は恐れを抱いていたようです。大内裏からみて、この幸神社、後ほどご紹介する上御霊神社、さらにはよくご存じの下鴨神社・上賀茂神社はすべて艮の方位に位置します。狸谷不動院も同様です。比叡山延暦寺は正にその最北東端です。鬼門を固める、正に「魔界封じ」の構想なのでしょうか。(資料5)同志社のキャンパスの北側沿いに進み、玉龍院のところで右折して北に向かうと、「大本山相國寺」の大きな石標が総門の左前にあります。臨済宗相国寺派大本山です。正式な寺名は「萬年山相国承天禅寺」です。 この総門の西側に「勅使門」があります。四脚門です。「豊臣秀頼による慶長再建期の建立と推定される」(資料1)そうです。 この木鼻、皿斗、板蟇股などの部分に桃山様式が認められるようです。 勅使門の屋根瓦は葺き替えられているようですが、鬼瓦がおもしろい。鬼瓦の手前の飾りは桃でしょうか・・・・。そして、いよいよ相国寺の境内探訪に入っていきます。つづく参照資料1) 「京都の古寺社を巡る 25 ~相国寺と出雲寺~」(龍谷大学REC)2014年5月 当日の講座レジュメ(龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏)2) 『物語 京都の歴史』 脇田修・脇田晴子著 中公新書 p273) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂4) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p335) 『魔界都市 京都の謎』 火坂雅志著 PHP文庫 p35-39【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺都七福神めぐり :「京都観光Navi」京都七福神巡りサルタヒコ :ウィキペディア秦氏と猿田彦 :「秦野エイト会」猿田彦神 :「玄松子の記憶」サルタヒコ神が道祖神や庚申様と結びつく理由 「戸部民夫の『神さまの履歴書』」 :「歴史人」鬼門 :ウィキペディア家相の鬼門・裏鬼門 :「風水研究所」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -2 相国寺(功徳池と天界橋、法堂、鐘楼、弁天社、方丈)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -3 相国寺の浴室 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -4 相国寺(天響楼、鎮守八幡社、経蔵、開山塔、宗旦稲荷、庫裏)、後水尾天皇歯髪塚 へ探訪 相国寺拾遺 鐘楼「洪音楼」・宗旦稲荷社・弁天社・鬼瓦様々 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -5 上御霊神社(社殿、舞殿、境内社)、出雲寺跡 へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -6 上御霊神社(清明心の像、歌碑・句碑、手水舎、楼門)へ探訪[再録] 相国寺とその周辺を歩く -7 猿田彦神社、室町殿跡、同志社大キャンパス周辺の遺構など へ
2016.11.18
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