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その数十年前の先生のレポートを3度読んでみた。1回目、見慣れない単語に見慣れない年代、見慣れない名前や古文書の引用ばかりでなかなかピンとこない。その上に南北朝抗争に荘園関係に公家関係まで!調べるにしても範囲が広すぎる。忠久の年代的に源頼朝も絡んでいるようで、まったく観ていなかった大河ドラマが夜中2日に分けて一挙放送していたので録画して一気に見てみた。絡みはともかく当人も全然出てこないが、頼朝の女好きな面が出てくる。調べると忠久の出自の記録が残っていないようで、そんなところから頼朝のご落胤説も表れるのか。2回目、年代には西暦をふり、読めない単語・名前はその都度調べる。3回目、読みながら時系列に島津の一代から五代までの年代中に感応寺の主なことについて振り分けてみた。レポートの先生も書いていらっしゃるとおり書くと長くなるので掻いつまんで書くと、忠久の家臣によって感応寺は草庵的なものから始まり、三代の久経の頃から徐々に造営が進み、それまで真言宗若しくは天台宗であったと思われる寺は五代貞久の時期に大規模な工事が行われた際に、臨済宗大本山東福寺の末寺としての禅寺へ改められたようなのだった。その辺りの事情については、島津氏が就いていた守護職、そして荘園について複雑に絡んでいるようなので、知りたい方は「比企の乱」の前後の情勢をじっくり調べてみると分かるかもしれない!私ももう少し、ぼちぼち調べてみたい。ところで後半、感応寺は阿久根方面に進出?というか、このレポートによると「教線の拡大」という言葉を使ってあるような事が行われていたようで、私の実家の寺院名も出てきて驚いた。当初(1398年)創建時は感応寺の末寺であったらしい。同じ寺院名でも、その後廃仏毀釈で廃寺になっていた臨済宗の寺院名を、場所も移動され曹洞宗の寺院として再興されたものという事なのだが、小さい頃はその旧蓮華寺跡に残されたお坊さんらの墓石群の掃除には行っていた。というか、私は付いて行っただけで兄貴らが掃除をしていたのを思い出す・・。(参考レポート) 「中世地方禅院の発展に関する一考察 ・・薩摩野田感応寺の場合・・ 上田純一
2022.02.20
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先日、月に一度の病院で薬を購入した帰りにやっとこの寺に寄ってみた。帰宅して調べてみると、創建年代など諸説ある様だった。建久五年も、文書ではっきりと記録されたものは無いらしいという説もある。数十年前の九大の先生のレポートを見付けたのでじっくり読んでみたい!そして感応寺だが、今のところに建立される前にこちらの山門野に存在していたとおっしゃる方は多い。「今、ため池が作られている辺りの川の近くに建っていた!」とかなり具体的で、自分がしっかり見てきたように話される。九大の先生のレポートによると、「三国名勝図絵」に同寺が出水郡長島町山門野より移転されたと記されてはいるが真偽は定かではないと出ている。という事で、禅宗では無かったにしても真言宗など何らかの別な宗派の「感応寺」がその昔に山門野に存在していたが、島津の何らかの関係者によって移転され、その後に臨済宗の寺院として生まれ変わったというところだろうか。島津の二代目までは任地の鎌倉で没していらっしゃるようで、その後の年代の寺院建立なのか?薩摩街道や一条公、火山などいろんな疑問を食い散らかすようだが、この問題ももう少し調べてみたい!
2022.02.10
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