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嬉しい春になりました。長い間、閉されておりましたブログの扉も開くことができるようになりました。為することは全て自分が為するわけでございますのに、全くにそうとばかりではないようにも考えます。この度のことがそうでございました。力ではなくて自ずからにいまこうして、ブログ再開の机にもたれております。静かに考えることはよろしゅうございますね。椿の花は咲き切りました。近くの川辺の桜が今静かに開き初めようとしております。わたくしには、一瞬のこの時間でございましょうが。
2014.03.24
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また、暫らく書けなくなりますから、書いておきましょうとこの場所を開きました。一昨日、書き上げて、送りましたが、我が生みの地からの要請が残りました。年末ですね、あら大変もう次の日曜は12月、飛ばさなければ、飛ばなければ。 でもこのお歳になって飛ばなければと思わねばならないことがありますのは幸せでありますね。親戚の一周忌にも行かねばならないし、わが身の体調も大事にせねばならないし、でもでもええ加減は絶対嫌だし、さあ困りましたね、でも好きな道にはしんどなしでございます。戴いた大きなカレンダーを壁際にならべて、さあ年末でございます。 しかれども、急いてはならぬこの仕事、誤字がありませんように行数の切れ目に気をつけて、下手な自分の値打ちを絶対失わぬよう頑張ります。ああ、今日も庭先に日が差します。日の色ほど美しいものはありませんね、日のなかに腕をのばして、影法師をつくりました。わたくしの蔭をでございます。 それでは、もう一がんばりの腕を神様、仏様、よろしゅうにおたのみ申します。かしこ 露の身にむすべる罪は重くとももらさじものを花の台(うてな)に 式子 露の身はここかしこにて消えぬともこころは同じ花の台ぞ 法然
2013.11.30
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日記を書かねばならないことになりました。よくわかりませんが、そのようです。何年いたしましても、わたしはこういう機械を扱うことが下手でございまして、この度もそういうことになつたようでございます。さて、唯今、夕刻と思っておりましたのに、はやばやに7時30分、これから止む無く仕事となりました一文の下書きとも申しますが、案を一人ごつことにいたしましょう。 先ずは「果ての二十日」とは如何なる言葉でございましたでょうか、振り返りますと何十年の昔、幼児の頃、祖母から聞かされましたその言葉であることを考えてと申しますより、思い出そうと、この際、懸命の努力をいたしております。 其の下書きの努力がかないまして、完成いたしますのが何時の日か、いえ、〆切りまでには仕上げねばなりません。皆様これにて失礼いたします。かしこ 今日の一首 日本脱出したし 皇帝ペンギンも皇帝ペンギン飼育係りも 塚本邦雄『日本人霊歌』
2013.11.10
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旅人にはわからない京都の冬の魅力を書けなどと近頃、恃まれまして困っています。と申されましても、わたくしには何がお旅人にはお判りにならないのか、わからないからでございます。 さて、お互いに日々とは何でございましょう。わたくしどもは何もよきことをしているわけでもなく、今日が明日になる道をたどっているだけでございます。でも、わたくしも、きっと、他所さまへ行かせてもらいましたら同じことをお頼みすることになるのかもでございましょうか。よく、解らないことは、何故にかまた、楽しゅうにございます。 今日の一首 いかにせむ、ゆづるは絶えぬ、矢は尽きぬ、つるぎは折れぬ、馬もたふれぬ。 落合直文
2013.11.08
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おはようございます。こちらにご挨拶すること、暫らく忘れていました。楽しいことが沢山ありましたのにと思っています。 その一は韓国のお友達が、わたしの誕生日に韓国のとても豪華なお召し物を私に着せてくださったことでした。日本の着物しか知らないわたくし、すっかり嬉しくなったことでありました。日本の着物の豪華さとまた違いまして、動きやすくしかも、たっぷりとお姫様??気分になれました。たくさん写真を撮っていただいて、生涯の思い出、幸せでした。 そして思いました、女性って意外な変身が出来るものだということを。自分が果たして変身していましたか、どうかはわかりませんが、すっかり、其の気分、ごめんない。 ところで、お詫びとともに、昔々、こんなお話がありました。わたしが五つ六つの頃、祖父母が韓国へ旅行させて戴いたとき、子供さん達の服装があまり可愛いので、同じものをと思って探したらしいですが、折悪しく無かったのでという話を聞いておりましたので、余計に嬉しくて、家の中をくるくる廻りました。以上。 今日の一首 暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの 葛原妙子
2013.10.30
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世の中は楽ぬしかりけり、楽ぬしきは恐ろしきかな、なれどなれど楽ぬしかりけり、楽ぬしかりせば。雨が降ってきました。ちょっと強そうな雨、雨が降るのはあたりまえ、でも今夜は許されてあげるわ、しつかり仕事をしましたから。かしこ 今日の一首 バラの花の髪飾りよりあでやかなスーチーさんの銀のストール 大崎瀬都
2013.10.24
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今晩はといいましても、現在は午前2時、あっいま時計が2時を告げましたから、ちょうどわたしの日記を認めるに相応しい時でしょうか。しかしながら相応しいとはどういう事か、ちょっと考えてみたくなりました。辞書をひきますと、その漢字は相応しいであるらしい、なるほど、でも以外に頼りない感じです。そう思われます。 ところでこの夜はいえ、この世はそれでいいらしい、以外にそうである、以外にすべてそうであることに気づきました。でもようわかりません、それもそうにしておきましょうか、ふさわしいという言葉がそもそもにこの世のように頼りないざまにて。 今日の一首 寝臺は夜夜の柩にかざるべき一莖の菊愛より青し 塚本邦雄「青き菊の主題」より
2013.10.16
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今晩は!!などと申しながら、夜でございましたでしょうか、何か知りませんが、書き直したい気持でございます。お人から塚本の『青き菊の主題』をいただいて、懐かしく嬉しく、読み返す時間となりました次第でございますのでお許し下さい。発行者、こちらも懐かしい渡部睦久さん。 若くなったような、さらさらに老いましたのか私にはわかりません。わからぬといいますほどに楽しいことはなく自分を遊ばせております。あれから何年でございましょうか。これもなつかしい指折をいたしております。 夏は死のかをりみなぎるロッカーに身の緊縮を解くラガーあり 跋の前頁にこんな一首がありました。そして渡部さんはたしか私の同級生のお父さん?だったかなと思ったり。お兄さんだったかしら、ごめんなさい。ここまで書きまして午前3時となったようでございます。今夜はおろおろとまとまりもなきながら終わることにいたします。終り。 今日の一首 ヒマラヤの紅茶ゆつくり煮出しゆく沸騰寸前で止めませう 遠山利子
2013.10.13
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自分の身のまわりには、いつしかに、己の好きな写真などが重なってあります。個々に文字と一緒に並べることは出来ないのか、と、いささか残念。わたしは印度のゴアあたりが好きで、そちらへ出かけたいのだが、思うようにはいささかもうなりませず、長女の子供らから送リくれる写真を朝からそして夕になっても眺めつづけています。 印度のゴアで我がまなごたちは楽しんでいるらしい、どしどし集る色つき写真が楽しみ、その中に私はゆったりと蹲る、仏などとは思わない、友情の渦が巻く、そこへ、ひょっくりと綾部の我が友から、若狭おばまの「みょうらくじ*せんじゅかんのん」の絵が入って来た。、 我が近辺は華やかな渦、わたしは渦巻きのなかにいます。るんるん。 今日の一首 文語訳口語訳新共同訳聖書三冊枕辺にあり ヤママユ 2013-9 大崎瀬戸
2013.10.08
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きょうは、気になりながら、そのままにしておりました玄関の紙障子のつくろいをいたしました。いたしませんと、いくら好みと申しましても、お化け邸になりますので、これ以上はいけませんと思い、糊を炊いて、半日、障子の破れ貼りもいたしました。 出来上がって見ますと、なるほど甲斐あるものでございました。小さなわが家の玄関がそれなりにぐいと深い沈黙に輝いたように思いました。ありがとうございます。わたくしは何にとも知らず、御礼を申しました。 そして、この場合、わたしがしたのではない、我家に住まい続ける何ものかがしたのだと思えてなりませんでした。小さいおばあちゃん、おばあちゃん、大きなおばあちゃんありがとうございます。百年、二百年がかりてして下さっているのですね、わたし、死んだら、そんなことできるかしらと不安がいっぱいになります。 今日の一首 病気なればわれは楽しむ光りつつ虫が飛びかふ花がまたたく 大崎瀬都 「なないろビービー弾」より
2013.10.04
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今晩は、今日もいつの間にか夜です。あつかましくも自分で何も出来ないのに、助けらて、助けられないような、えらそうなブログを書きます。でも、ほんとうだから、そう書きます。そうですからそう書いたほうが気持が楽でそう書きます。 皆さん何んでもお一人でなさっているのっですか、もしそうなら、すごいですね。わたしはほとんどのことが、一人でできません、でも言いたいことを言います。それが本当だから、自分がいっていることがです。いいのではありません、自分が言っているというだけのことでです。 それでいいのだと、わたしは思っています。わたしは嫌いも好きもなく、みんな好きです。好きというより、それが一人一人のことだから。 今日の一首 究極の自由をわれは満喫す眠らなくてもいいいつまでも なないろビービー弾 大崎瀬都
2013.10.01
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お久しぶり、ブログが再び、或は三度(みたび)?書けるようになりました。と申して、書かなければならないことがら、或はものではありません。そういうことを承知の上で、昔から、意味もなく書いているものが、或はわたしのブログでございましょうか。そんなこと申しますと、すでに価格が減じるかもしれません。それでいい、それでいいとわたしの誰かが言っています。 書かねば成らないものとは何、そう考えるだけで、もはや、ブログを書く資格はなくなるでしょう。そういうことが嫌だから、わたしはブログを書いています。もし、そういうお方がおありでしたら、わたしのブログをお読みください。またそういうブログが読みたいです。かしこ 中庭の噴水が踊る陽光のまぶしさ受けて変わり行くもの 河原林真智子
2013.09.29
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妙に涼しい夜のようであります。何とも可笑しな書き出しですが、そのようであります。 さて、このような爽やかな夜は、何もしないで過ごして居るのが勿体無いようでありますが、何かしら、また、よかりけりと言いたくになります。庭からは、ほんに、冷たい程のいい風が入ります。捲り上げていた袖をそっと下ろしました。衣擦れの良さを申したいところですが、そのようなものはきこえてまいりません。 あっ、12時を廻っております、明日は歌会へ参加せねばなりません。やすむべきと思いながら、何か物足りない不思議な夜ではございます。ふと遠い父と母を思います。人間とはどうしょうもないもの、頭がまとまりませんと眠ることもなりません。 そうでした、編集後記を書いておかねばなりません。仕事が見つかりました、ありがとうございました。それから眠ることにいたしましょう。 眠ったわたしは何処へいくのでしょう、ぐるりと一巡りして、またこんなことを考えています。 今日の一首 不可解な迷路の中でひとすじのわが人生を解き明かし居り 伊山高宏
2013.07.19
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突然ですが、長州藩出身の政治家というべきでしょうか、木戸孝允について書かねばならない破目に自らを追い込んでしまってちょっと大変!?。昔?、わたしが生まれました、家の近くで、さまざまの出来事がございましたようで、いまとなりますと、其の出来事が其の歴史的現場近くで生まれたり育ったりした者には納得いかない話も出てまいりまして、そろばんに合わないような変な気分で困った居ります。役所の皆さんも、ええかげんと思えるところもございまして、まことに可笑しい話でございます。 何はともあれ、幼いときからの子守唄に聞きましたお話しは大事にしましょうと思う自然な気持でおります。かしこ 今日の一首 スタバから道ゆく人を見る我は道行く人に見られをるなり 河崎孝彦 歌集「返されよ」から
2013.07.05
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こんにちは、お久しぶりに存じます。この世はただいま梅雨のさなか、ただいま己が住処の己が部屋に夕刻からは、かそかになった雨音を聞いております。 わが部屋の机の向かう右手はささやかな庭でございます。この家に住み始めて30年近くの以前は10センチメートルくらいでした、自然の藤の芽がただいまは庭の三分の一を覆うくらいに生長しています。 自然生えですが季節には、つい先日までは、かそかながら長い花の茎をいっちょう前に垂らしておりました。かわいらしいものであります。わたしは何ものも自然生えが好きでございます。わたし自身がそうであるような気がしていますからですが。 わたしは何様とかの名前はどうでもよろしい方ですから、袖ふり違えた草木を集めて細長い庭に自然に育てておりますが、いえ、これもただにのうのうとおおきくなりまして、我が庭はいま梅雨のあめにどっぷり濡れた緑でいっぱいでございます。ああ自然のいい匂いがいたします。何の香水にも勝りましょうか。 今日の一首 びいかあに蒸留水の冷えたれば一顆のレモンをわれはおもへる 葛原妙子「原牛」より
2013.07.04
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おはようございます。 ささやかと申しましてもわたくしの一日の始まりでございます。この世でわたくしはわたくし以外の人間の何ものでもございません。わたくしは今一人でブログのキイをたたいております。 わたくしは生まれて、何十年、わたくしでございました。何と素的なことではございませんか、何がなくてもこの世にふたりとないわたくしがここにおります事は間違いがございません。思いますとかけがえのない奇跡でございます. この世にはもう二度と現れぬわたしを、今日も何よりも大切にしてまいりましょう。 今日の一首 あかつきの水へみずから拡がれる布 攻防の死者を画けり 岡井 隆(「垂鉛の思想」より。短歌研究37・1月号)
2013.06.11
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心落ち着くことがありまして、今日といいますか暁にはいささか遠い時間にメイルを記すことになりました。日々といいますものは、その日々ごとに特別なことがあるわけでもなく、それとなくに、書き記しておこうかなという気分になるときがございます。 今夜と申しますか、この時間に自分はなにかしらほっといたしまして、訳もなくというと嘘になりますか、でも書くという動作がしたく、こうしております。こうしていますことは、何故かに心が落ち着きます。こうしているからでございましょうが、自分ではこうしているとは何をどうしているか、わかりません。 しかしながら、こうしてむしろ、意味なくキイを叩いておりますこともいいものでございます。全くに罪もないことゆえ、お許し下さい。以上 今日の一首 あかとき露のあふるるばかりなるなかに死にゆきしかば暗き舌見ゆ 岡井 隆(木曜日の朝の歌)
2013.06.03
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外は雨降りのようです。深夜、こうして、何の物音も、心に溜める言葉もなく、いたずらにキイを打っているのもよきものです。 人は一人、それは当たり前、一人で生まれてきたのです。わたしはいまも身体は大きい方ですが、母はわたしが生まれるとき苦労をしたそうです。ごめんなさい、でも其のお陰で今も元気です、健康な身体に健康な魂が宿ると申しますが、そうかもしれません。 その健康ということが、どういうことかも知れませんが、何かありましても、あるように感じましても、割合に元気です。悩まない事は馬鹿でしょうか、阿呆でしょうか、感じが鈍いのでしょうか、それとも忙しいのでしょうか、そうでした、わたしは立ち止まることがあまり出来ません。 それは幸せなこと、母さん、父さんありがとうございます。Y子は身心ともに元気で生きています。明日はあしたで、また新しい仕事始めが待っています。楽しく、筆を進めてまいりましょう。 一、二、三でまたあした!!! 今日の一首 われ西欧の「個」を信じつつ 浅宵の宙にしきりにふえやまぬ灯よ 岡井 隆 群論ー「短歌」昭和37年7月号
2013.05.29
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ひとつ、仕事が仕上がって、少しばかり、楽しみましょうと思いまして、こちらにまいりました。真夜中には未だちょっとばかり早いかもしれませんが、特に何もしていませんのにこころ愉しい夜半です。 やはりひとりがいいですね、寂しいけれどそれがひとりで生まれて、多分ひとりでしんでゆく人間のたのしさ、そう思います。そう思うと抜群だなあ、今夜などは、一刻千金とはこんなときなのかなあ。なんとのんきな、幸せなわたくしであります。そうだ一刻はあっても千金なんかがないから幸せなんだと、また、負けず嫌いな結論に達しました。わたくしはまことに幸せであります。皆様、神様ありがとうございます。終り 今日の一首 ひよいひよいとたれも跳びゆく崖のいつの日われの越えゆくひとつ 遠山利子(「崖」より)
2013.05.16
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また暫らくお休みしてしまいました。怠惰を恥じます。 今日そんな恥かしい自分が書かせていただきたいと思いました理由は、お目には一度もかか りませぬながら、其のお方の短歌のフアンでございまして、父上がご逝去のよしをしりまし て、このような遥かな地点から両手を合わさせていただきたい由縁からでございます。 申し訳ございません、お許しくださいませ。合掌 『臨死体験』下巻を読みてをりしとき父の訃報は唐突なりき 四度冬を越ししシベリア抑留の記憶もともに燃えてゆきけむ (さようなら原発集会)に代々木まで行きし日父はまだ生きてゐた 大崎瀬都(「八月」の歌より)
2013.05.12
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久しぶりのブログでございます。自分の最近の行動ぶりが、自分によくわかります。考えねば、反省しなければなりません。ブログという楽しいこころの遊び場も自分で失っていました。喜びも悲しみも自ずからが生み出すものでございます。反省して、自分を立て直さねばと心得ます。明日はいい日でありますようにと人事に期待するのではなくて、自ずからがさように動かねばなりません。反省 今日の一首 手を伸ばし口に含みて蜜を吸ふ遠き昔のおしろひの花 河さき孝彦(歌集『返されよ』から)
2013.05.07
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今日の絵は猫でありますと書いていると、何だかわたしは猫であるといいたくなります。わたしって純真であります。自分のこころの祈りに、いえ祈りにすぐに応じる癖がありま。といって猫になれるはずがない、そうでありながらにわたしは欲も得もなくに猫になっています。 このわが猫は何ものでありましょうか、いいえ、でも猫ですから、人間が変じたのでありましても猫であります。わたしはこうして己が変身を感じることが、つまり変身を感じることが、その結果が変身なのでありましょう。今日は猫の巻でございました。感覚遊びを終ります。(猫の巻) 今日の一首 耳とほりけさほれほれとききてゐぬ二人の吾子のそれぞれの聲音(こわね) 五島美代子 昭和十五年七月刊行『新風十人』より
2013.04.23
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久しぶりに懐かしい写真を、止むをえず出すことになりました。漂泊者、この世の真っ只中におりますと、人間自ずからに誰もが漂泊者でございます。わたくし、いつもあまり力を入れてはなりませず、体重にもこころして、出来るかぎりふわりふわりと歩きたい、そんなふうに心得ておりますつもりながら、時により力を入れすぎまして、沈没、没落の憂き目を見たことがないとは言い切れません。 そこがまたチャンス、心得の反省の継ぎ目ともなり立ち直れるときも、或はあせって深みに入りますときも、わたくしは唯今深みの真っ只中かとも。しかしながら、ぞのように気づくときは、或は半分は這いあがっているときであるかもしれません。 ただいまは、もう少し這いあがりましょうかなと手をかざしたりして考えているところでございます。蜘蛛の糸もよろしゅうでございますが、やはり自分の腕力、体力でございましょう。わたくしの、体験では、あまり頭を使いますのはよろしゅうございませんね。 さあ、明日から、いいえいまからわたくしはがんばるつもりでございます。なんやしら、痛かった腰もしゃんとしてまいりました。やはりブログはいい、公約とおなじでございますから。かしこ 今日の一首 をとめ子の清き盛時(さかり)に もの言ひし人を忘れず。世のをはりまで 釈 迢空(「地下水」より)
2013.04.19
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晴天ですが、手先が何となく冷える日です。何故か懐かしいような日であります。久しぶりにブログへまいりました。何となくこちらを訪れる条件に乏しいようにて敬遠されがちでおります。写真を伴わないことも由来するのでしょうか。 とにかく、自然は恐ろしくにありますが、またなんとも自由なところであることも魅力、自分のせいで受けた痛みは、自分で舐めて直せばよろしいのですから。とにかく、わが家の庭ではささやかなながら藤が花開きました。自分は知らなくて、我がお嬢さんに教えられてびっくり、机にばかり向かって、見てきたような景色を書いているのはさみしいことであります。 この藤はこの家に移りましたときに、まるで、しなびたみみずのように這っていた藤でありました。まあ、大きくなって年毎に花を咲かせて居ります。藤さん藤さんありがとう、いい子だねというところでございます。しどろもどろながら、今日もよき日でございます。おわり。 今日の一首 たちまちに君の姿を霧とざし或る楽章をわれは思ひき 近藤芳美(『黒衣の短歌史』の作者は近藤の当歌をあまり 上等の歌とはいえないがという。)
2013.04.19
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好きな歌といいますか好きに歌を詠んでいます。わからないという人が多いからでしょうか、それでは、いけないと思いながら、やっぱり、それではいけないないというふうに思う歌はやめたい、そう思って詠んでいます。でもわかるように詠みましょうなんて失礼ではございませんか。 わたくし、「y」はわたくし「y」の性格がもたらす歌しか詠めません。それ以外は嘘です。それでいいと思うわたくしです。短歌の会といいますものがありまして、何をするのですか、あってもいいでしょう、でも自分の歌が詠めないところはご遠慮しなければ、わたし、そんなふうに考えています。上手になるために統一するなんてナンセンスです。おわり。 今日の一首 灯を消してけだもののごと眼をひらくかなしきさまもさびしければする 魚住謙ニ(「黒衣の短歌史より」)
2013.04.09
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今夜も12時を廻りました。暫らくこの項、ご無沙汰いたしました。 先ほど、ごろっと雷さん、くわばらくわばらでございました。落ち着いて日常の生活をいたさねばなりません。反省しております。自分を失うということも、こういうこと、さりながら自分を失ってでもなさねばならないこともございます。そういうときに、本当の自分の価値を見据えることになります。反省しきりでございます。 しかしながら、渋滞いたしましても、しなければならないことはございます。と、えらそうに考えながら頑張った居ります。でも今年の桜に何かしら励まされた思いがまいたします。今年の桜はいい桜でございました。人生、計算してはならないと思います。かしこ 今日の一首 コンクリートの歩床にうすら陽差すところ首の上暗くわれは歩むも 葛原妙子(『朱霊』北辺)
2013.04.06
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疏水べりのさくらは開いてきましたが、まだ、今年はややに寒いことです。でも春ですね、この寒さが冷たさがきりりとした、何かしらものの新品さが思われて気持ちがしゃんする季節です。 そうだからではありませんが、今日は友人の土の焼物、木製の台の時計など美しさ極まる自然の惠みの製作品を見せていただきに行って来ました。素的でした、本物でした。親身からの表現の素的さにほれぼれしてきました。 自分も日常の日々の生活にこの刻々に力(ちから)する精神がなくてはならないなと思ったことでありました。葱を刻む時にも、一服のお茶を入れるときにでもでございます。さらに今日は、家に近い大学の卒業式にのぞむ人たちの群れにも出合いました、春ですね、出初(でぞめ)ですね、年齢の問題ではない明日への歩みに力をいれなくてはと思ったことでした。 今日の一首 一日がかりで僅かにすすみし訳稿をいたはるごとく暮色にかざし見る 中村元彦(『黒衣の短歌史』より)
2013.03.26
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いまテレビジョンでお相撲をしています。わたしは何故かお相撲が嫌いではありません。「はっけよい」と唱えて、直ちに全力!!、勝負が決まる速度からのようですが、よほど難しい、形ではないかぎり、誰が見ていても勝負がわかるからでもあります。 思えばお相撲って何時の時代からあるのでしょう。私は知りません。今度、何方か適当なお方にであいましたら其の歴史とともに聞いてみましょう。思ってもみなかったことですが、楽しみが出来ました。いま「押し出し」なんて勝負の言葉をいっていますが、なるほどね、よくわかります、それに女性が全く関連しないところが、どうも、わたしには好かれている原因のようでもあります。 今日のブログは思いもかけないことを書いてしまいました。ブログってこんなことも書けるんだと感動しているわたしであります。この辺でブログを止めまして、お相撲を見ましょう。勝ち負けに文句が無いところも好きであります。終り 今日の一首 死者の手に織られしベェールわが額に垂らせばいまだ寒き春なり 蒔田律子(『白鳥の涙を見たか』より)
2013.03.20
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暗い日です。電気をつけても暗い、なおに暗い日であります。思えば昨日、よそ事にそんな予報を聞いていました。それでも今日は、暗がりの押入れを探って、掛け軸の架け替えなどをいたしました。日本の昔の人の筆字はむつかしいですね、さぐりさぐってどうにか季節のものを引き出して、かけて、ほっと一息であります。 この仕事はきらいではありませんが、わたしは、この仕事をしている最中に何やかやにひっかかって、自分で仕事をややこしくしてしまうのです。昔は誰がこんな仕事をしていてくれていたのでしょう。楽しいようで大変、でもどうにか桜の文字が読める一巻をさがして玄関の脇にひとつかけました。 座敷との間にはちいさい色紙のやはり桜、昔々の円山公園の見事なしだれ桜の絵であります。いまの桜は絵でも見たくないそんな気持があるものですから、このしだれ桜はわが家のいえわたしの心の宝物。ええかげんにしておかないと叱られますね。終ります。 今日の一首 聖堂にかの日のをとめレース長く床に引きゆきしのちをしらずも 葛原妙子『朱霊』(円柱)より
2013.03.18
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『森の鍛冶屋』という題名の曲があります。わたしはうれしいときも、かなしいときも、ついつい、その曲のレコードをかけてしまいます。いえレコードではなくて、パソコンにいれてもらったものをでございますが。 その曲をはじめて聴きましたのは、はるか昔、小学校一年生の夏期学校の朝の黙想の時間でございました。わたしはその頃、比叡山の中腹にありました小さな家に健康上の都合で、祖母と二人で住まっておりまして、夏の朝は決まって、近くの夏期学校でその曲を聞きながら黙想をさされたものでございました。 何事ももののはじめ、子供のときに知りましたことというものはこわいものでございます。今では死ぬまで忘れない、いいえ死にましてもそのリズムを口ずさんでいるのではなかろうかと思います。 思えば、父母、祖父母に感謝の生涯でございます。とともにここに書きましたのは、その曲をくちずさんだ幼いころから、苦労はしたつもりでございますのに、あまり変わっていない、自分のしあわせ??をふと思ったりするこの頃では御座います。おわり。 今日の一首 いなびかり射せるたまゆら水槽に立ち泳ぎする魚の群 葛原妙子(『朱霊』「魚」より)
2013.03.15
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三月の半ば近くになりました。わが家に近い疎水、琵琶湖から流れてくる水の沿岸には、桜の蕾が早くは一月からその固いちいさい姿を見せていてくれます。このあたり自動車や人の通行が少ないですから、自ずからに清純そのものの花が開きます。 わたくしは凡そ日毎に疏水沿いの道を歩いて花の生育を待ちます。 すぎし日に我の模写したる額の絵の二人の少年ほほゑみてをり 孫たちの通学の朝の立ち番をありがとうじいじいとうれしいカード けふこそは自室に籠りなすべきと「鶴の恩返し」ごと我は鶴となる 赤茶けた砂漠にならぶ戦車隊 国営テレヴィのアルジェリアのかほ をとめごはだれに似たのかおてんばさん椅子から飛び降りまたよぢ上る 夕焼けがビルにも映りてしづかなる朱の競いあふ芝公園に つらつらと冬のクレマチスほろほろとしてわれは君待つ こぞもまた冬のクレマチス白き花つらつらつらなんほろほろ君待つ うつすらと雪化粧の愛宕山その山登るおもかげはるかなる 書き写すことはむつかしいことです。歌はその人の命の場所から生れます。かりそめにでも間違って掲載することは罪であります。移し取るとき、何度も読み返すのですが、何度繰り返しても不安が残ります。 ところでこちらの歌は二月の作品でした。この歳もまたに楽しい私たちの会合が続けられますように。合同歌集出版の年ともなるようでございます。よろしくに。
2013.03.14
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今日の写真は、「八重子さん」であります。ご紹介します。わたしがオギャアと生まれましたときに祖母が身代わり人形として、わが町の一番上等の人形やさんから購入したものでございます。 礼式としまして、裸人形をもとめ、家人が下着から縫うて着せます。一度わたくしが一人前になったから、人形やさんに着せ直し、その他の手入れを恃みましたが、今日まで健康、無傷でございます。 この人形、身代わり人形と申しますのは、持ち主に及ぼします災害を身代わりして背負ってくれるのだそうでございます。おかげさまですか、わたしは今日まで、大過なく過ごしてまいりました。生後すぐにこの人形をわたくしに買い与え、八重子さんという名前までつけて下さった祖母に感謝いたします。 これからは恩返しをしなければとさえ思います。そう考えるだけで、怪しきまでに力が湧きます、わたしの悪い癖、怪しきはもう、仕舞ってまっておかねばなりませんね。ついつい角が出るわたくしでございます。 今日の一首 本当か上海にあつて四国には一軒もないセブンイレブン 大崎瀬都
2013.03.10
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暖かい夜です。手紙を二通書いてややほんのりと疲れました。でもするべき事を終えて穏やかであります。穏やかということは気持よいですね。何からかわかりませんが、放たれて、さてしよう、したいということを探しています。お蔵にそれらはきっしりありそうです。 そうだ、人を思うことでありました。ゆるりと気に入りの椅子に座って眼をつむりましょうか、足元の水槽の中で、らんちゅうが水音を立てています。こっちを向けというのでしょうか、ああ彼らと暮らし始めてから三年は経つでしょうか。彼らは考えています、何をと訊ねないでください、それはわれらの世界とは全く違ったところのことでありましょうから。なのに彼らは何ゆえ、われらと付き合ってくれるのでしょう。たべものの繋がりかな、それを与えているから?。 でもそれだけではないだろう、わたしの世界のどこで、頭角を現すか、わたしは楽しんで待っているのです。 今日の一首 舌さはり粗き天ぷら髭(くちひげ)のたくわへ薄き男も食ふも 青木健美(『黒衣の短歌史』中井英夫より)
2013.03.08
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今日の一日が過ぎました。我が地、わたしの住んでいます土地の他の各地では、降雪のため、亡くなられたお方がありますように、いま、夕刻のテレビで聞いております。ごめんなさい、何ですか、自分だけが無事でいるようで申し訳なく思います。 自動車というものも怖いものでございますね、其の便利さが一つ狂いますと大変なことになるようでございます。雪にしろ風ににしろ自然の中では。 わたくしんちは、昔々のその昔、日本でまだ自動車が作られていない頃から、輸入の自動車を求め、自動車屋をしておりましたそうでございます。ごめんなさい。いずれにせよ機械と人間、そのバランスを思ってしまうこの頃でございます。変でしょうか。 今日の一首 目尻より垂れて涙の落ちながら夜ごとふくらむ緋ざくらの花 蒔田律子(『白鳥の涙を見たか』より)
2013.03.03
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しばらくでした。隔月のエッセイをようやくに、自分では精いっぱい書きあげて、なるほど毎度ながらいい気分です。遠慮しながらでも、自分を褒めるほうがいいですね。それが自分の精いっぱいだから。それ以上を求めることは恥知らず、傲慢でありましょう。 ああわかりました、わたしの健康体はそれで守られているのでしょう。自分は自分の寸法、だから、好き嫌いも自分できめるのが一つの表現でありましょう。また明日がはじまります、自分のあしたには傲慢であってもいいでしょう。うんといい息を吸いましょう。 あしたから三月です、うんといい空気を吸ってと。 今日の一首 チューリップが開いたときに玉を二つ同時に入れる昔の遊び 大崎瀬都(カシオペア座より)
2013.02.28
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今日は4550番の写真とともに遊ぼうとしております。随分以前に写しました写真でございます。何かしら邪魔もののように部屋の境に置いております、木の火鉢、桐でしょうか邪魔者のようにあっちこっち滑らせて移動させるのに都合よく軽い火鉢です。 実はわたくしこの火鉢が嫌いではないようでございます。するすると畳の上を軽くに滑りますし、何時頃から我が家にあるのか、わたくしは知りません。多分生まれる前からでございましょう。 初冬など軽く炭火を入れますと、ちよっと世離れの気分がいたします。夏は夏で、団扇を使いながらの夕涼みのかたわらにありましても、暑苦しくはございません。することが無い時は、この火鉢のかたわらに坐り物思いに遊んだりもいたします。 いつまでわたしは、この火鉢のそばに遊べるでしょうか、子に孫にも遊ばせてやりたい、遠い世をおもんばかったりもいたします。かしこ 今日の一首 顔上げてヒロインは泣き顔伏せて脇役は泣くある日のドラマ 大崎瀬都(ヤママユ NO36)
2013.02.21
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前回の当場所の文章に自らに書こうとしたことがいまだに実行されないことを、ただに考えています。何事も人へも自分にも約束しないことだと常思いながら、どちらかといえばええ恰好をする方へ立ってしまう自分です。 わたしには学校時代の友の一人で、尼僧になった人があります。わが町の或る一つの寺に其の友、その尼僧はこもっていますが、卒業以来、幾星霜、彼女は一念を変えなかった、思い切り自らを恥かしいと思ったときは彼女に遭って貰いにいきます。先日も行きました、彼女は何も話さないわたしに、何かしら、うんと頷いてくれました、わたしも何故か笑って帰りました。 わたしたちはそれでよかったらしい、卑怯者の私はそれでも慰められてまた町へと向かったのでした。うん、うんは一字「ん」でもよかったらしいけれど、うん。 トロッコの行きつく果てにわが墓のあれば乾きし海砂はこべ 蒔田律子(『白鳥の涙を見たか』昭和50年発行より)
2013.02.15
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金閣寺が焼けましたなどと突然申しましたら、今のお方はびっくりなさいましょう、でも昭和25年7月3日の京都新聞にはその記事が今も見えます。金閣寺は放火により焼け失せたのでした。「手配中の犯人、林、捕まる。服毒自殺に失敗、犯行自供」などとも掲載されています。 わたくしは古い京都のことを仕事として折々に書いているものですが、いまは上記のお話を勉強しつつに書こうとしています。手を合わせつつでございます。「天を焦がす金色の焔に若者は何を見たのか?」と表紙にかかれました水上勉の『金閣炎上』も読ませていただいております。 わたくしは京都に生まれ、やがて死んでいこうとしておる者でございます。何か遺せるなんて偉そうなことはいえるなんて夢にも思いませんが、まあ一人の貧しきものの気持を貧しきままに書き残しとう存じます。ほんの数枚の仕事でございますが。 今日の一首 何ものか鳴きて過ぎたる午後の四時、窓の近きガ真暗きとなる 田中 保 (「BOU」58号)
2013.02.11
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今夜は、わたしの卒業した小学校の写真が出るはずです。はずにて出て見なければわからないが、そうであることを祈っています。わたしはこういうブログのなりたちがわからないから、出て見なければわかりませんということであります。 わたしがこの世に自慢できるのは自分の卒業した小学校だけ、それはそれは純粋にであります。特に見ていただきたいのは階段、それが出るはず、一段一段が子供の高さにあわせてあると思います。 その建物が後ほどに中学校になり、芸術専門学校にもなりましたから、その皆さんにお聞きしてみなければわかりませんが、如何でしたでしょうか、御住み心地は、このことは随分先便でも書いたとの意識が今、出てきました。まことにお恥かしいことでございます。 一言だけいわせてください、わたくしは幸せでありましたと。何十年前でありましたでしょうか、わたくしの幸福な思い出でございます。その時代の幸福は一生を築くものでございます。 今日の一首 われよりもかの徑を知るわが死者よたかはらに潅木のさわげるあたり 葛原妙子(『人形』より)
2013.02.08
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京都市河原町のニ条をちょっと上った(北方へ)西側に柿渋屋さんがあります。大昔、私が小さいときから、あります。このごろ、まだあるかしら、消えてしまっていないかしら、と、胸をどきどきさせながらその看板を通るたびに見ています。ひょっとして、このブログを書いている間に消えてしまっていないかしらとも思へたりして。 柿渋、ご存知ですね、渋柿から採取した液体ですが、紙や木肌のものに塗って防水、防腐に用います。わがやは木の塀の防腐用に塗っています。其の匂いが嫌いな人もあるでしょうが、わたしは大好きです。自然の匂いですから。毒は大方、匂いでわかりますね、いい匂いだなんて不自然な匂いで喜んでいますと怖い、そんな気がしませんか、人生もそうでは。 其のお店のまあ前には昔、大きな高田山(たかださん)というお寺がありました。子供の遊び場でした。眼と鼻と、どちらもが昔は気持がよかった・・・・・、なんていえますね。わかりますか?。気持がいいものは消さないでね。 今日の一首 夜行バスの窓より見たり墨絵よりはるかに暗い森と大空 大崎瀬都(「ヤママユ」より)
2013.02.04
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間違いがなければ、今日の日記(にき)には大きな時計の写真が出るはずであります。わたしは時計が好きであります。これはご存知京都ホテルの時計であります。悪戯者のわたしはちいさいころからよく近くの京都ホテルへ一人で出入して、遊んでいました。(怒られながら)いまも京都ホテルしか京都にはホテルがないものと思っていますが、この時計は、やんちゃのその頃からありました、現在と違って、もっと自然な?ところにあったような気がします。改築のあと時計を探しに行って、ただ、あったことに安堵したものでしたが。 こんなことを書いてきて、今頃になって自分は何を書こうとしたかわすれてしまいました。とにかく、何度いってもその時計を確認します。長くなりました、これからが本文ですか、きょうは是にて終わります。かしこ 今日の一首 急坂を登りてゆけば羽化堂の建設予定地しばし憩ひぬ 榎 幸子(「見知らぬ風景」より)
2013.02.02
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耳に中に鳴く真夜中の音が高い、一人である。生まれてから一人である。そうだが、そう思うと耳の中の音が高くになります。聞いてみよう耳のなかに全部取り込むように。 父も聞いたであろう、母も聞いたであろう、だから何も怖がることはない、故意に耳をかたむけると、確かに大きくなる、音の方も思うのか、耳をかたむけているなあとよってくるのか。。 耳から頭の中に入ってくる、何となしに飴玉をねぶった、口の中へ入れたのだ、何事も実験、音が少し甘くになったかな。 今日の一首 小刀(メス)を砥ぐふときこゆ うしろにてつね小刀をとぐ音はきこゆる 葛原妙子(原牛)
2013.01.30
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新しい年の歌会でありました。積み行くものは積み行きつつ、零さんとすにるものは臆すること無くに零しつつ、時間を重ねんとするわたしたちであろうかと考えます。 ノーベル賞、晩餐会のメニューには北極岩魚、キジ肉もありと 初春の恵比寿のホテルの窓にたち遠く広がる空 胸に受く ご無礼をお許しくださいと年賀状亡夫(あなた)への思ひつづられてをり あべせいけん せいりよくてきに アベノミクス いぜんのびやうき だいじようぶかな まつしぐら狙ひのさきにくすりばこ這ひ這ひの孫と追ひかくる我と 晴れた朝若草山に日が差してほどろほどろのに残る白雪 リズムのよい新年の、或は新しい取材の、よい歌が自然に並びましたと思います。やはりお正月、歌には自然のその心理が現れるのであると思いました。このひととせを、どちらのお国におかれましても、どうか事、少なくにありますように、こころ真底、祈り上げます。
2013.01.30
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冬来たりなば春遠からじ、なんですかふと、そんな言葉をいま、思い出しました。また暫らくブログとご無沙汰でおりました。ブログは独り言の話せるところと思ってお付き合いしています。 思えばわたくしは、一人っ子、父とも母ともにあまりご縁はありませんでした。でも子供にすれば、ご縁など関係ないことにて、父は父、母は母でそれにてよろしゅうございました。当然二人があったから、生まれてきたのでございますから。 わたしは何も深く考えることなく、祖父母の下で裕福?に幸せに育ちました。身長は人並み以上、小学校もそれからも、ピンピン元気でありました。チョコレートがアイスクリームが大好きでした。 幸せでありました。時折父からは贅沢な毛皮の付いたオーバーなどを送ってきました。母は凄い十三参りの着物を縫ってくれました。そのころの写真がありますが、わたしはその頃ガ一番美しかったようです。写真屋さんで写真を撮ってもらいましたが、結婚を申し込んで来られたお方があったそうで、祖父母はびっくりでありましたそうです。 わたしは謡いをする祖母に倣って、仕舞を習っていたそうです。 今も幸福と思う自分ですが。終り 今日の一首 くろぐろと水とどこほる街川(まちかは)は今朝しづかなる冬日(ふゆひ)さしをり 佐藤佐太郎(「黄炎抄」)より)
2013.01.29
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夜になりました、やがても深けてゆく冬の夜でございます。真っ暗な夜の窓を少しばかりあけますと、音ではないただにひたすらなものの動きの気配だけがいたします。これは見るのではなく、ひたすらに感じると記録するべきでございましょうが、そうでもございません、動きは自ずからが見えるものに近づく思いであると思えてなりません。 人は心眼とか言う言葉を簡単に使うようでございますが、そのような目玉はあるはずがございません。またそのような場合、人の眼は人の眼でしかないのでございますから。いえこれは心の眼といっているのでしょうが、私は直ぐに、簡単に、答えるべきではないものが答えられることが嫌ではありません。 今日の一首 暗き硝子に白濁のうみありにけり深夜にひとりめさめをりしが 葛原妙子(『原牛』「魔汪」より)
2013.01.23
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今朝は、割合に暖かい、暖かいというのではなくて、ややに寒気が厳しくはないというところでしょうか。今朝は、なぜかややに気温が高い?ようにも感じます。実は、先日来、たまたまに見つけました新聞紙面の、旧年の車谷長吉の文章を紛失して、がっかりしていたこともありました。それがまた、奇蹟的に見つかったのでした。実は機会があって乗せていただいた自動車のなかに落としていましたものを、たまたまみつけていただきまして、やがて、明日にも手元に帰ってくることになったからのようでもあります。 勝手なじぶんであります、自分のなまけをそのような事に託したりもいたしまして。しかしながら嘘ではありません、そういう気分でございます。さて、一月もやがてに終わります、今年も地道にひとひ、ひとひを歩んでいくことに心を据えねばと自分に鞭打つ気持でございます。隔月のひとつひとつの仕事も気をゆるめれば、大変なことになります、一ニ、一ニと歩調を緩めずに歩いてまいりましょう、日々の大切さを、細かい時間の大事を反省する記事となりました。そういうことは、いつも一年生であっていいと心得ます。 今日の一首 訳も巻く若い男の店員に突っかかり買う花眼のめがね 吉村明美(「短歌研究」より)
2013.01.21
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昨日ですか、一昨日ですか長吉(ちょうきつ)に出合ったことを歌にしたくて、どうしてもできない、あたりまえでしょう、でもどんな恥をかいてもいいからと思いますけれどできない、そんな坩堝にただいまおります。こういう阿呆な苦痛を自らに舐めていることを阿呆というのでしょうか。 ではだれも冗談では言っても、自分を阿呆とは思いたくないのでしょうか。わたしはわたしで、自分がどれだけ、事ができるのかはわかりません、でも自分を晒す事に躊躇しないだけの理性はもちたいものと思っています。 今日の一首 掘りおこされし木の根の畸型陽に乾くうらかなしかもわれも乾けり 葛原妙子(「薔薇窓」より)
2013.01.14
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古い日記帳から、日経新聞文化覧にのせられた車谷長吉(くるまたに・ちょうきつ=作家)の言葉の切り抜きが出てきました。なつかしいことです。1994年(平成6年8月7日、日曜日)の新聞です。 このようなとき、わたしは其の懐かしさより、自分の過ぎ越しの有り様がまず省みられます。彼の言葉を借りれば、「神鳴りのごとき高圧電気に感電するよう」にであります。彼のことばを切り抜いた日の自分がなつかしいです、恋人のように。 夏ですからかたわらに「月下美人」の絵が大きく載っています。 今日の一首 今宵また準備をひとつ携帯に残れる父の声を保存す 大崎瀬都(「カシオペア座」から)
2013.01.12
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綾部へ行ってきました。線路沿いに見える田圃のなか、道々にぽこん、ぽこんと見える小さな山々の美しくやさしいこと。いつもながら目をはなさずにおりました。亀岡を過ぎてしばらくいきますと、それらが現れます。 そのような景色を見て、こころをやさしくして、今日の集りに参加してきました。目的がなにであれ、このような風景をみましたら、結果はよくになりましょう。いま、ちょつとお名前を忘れましたが、森林など、ご研究の或る博士さんもそういっておいでであることを知っています。其の博士さんより、其のお方の奥様にお会いしたいなと思う心しきりです。むかし、むかし、あるところで、お裁縫など、娘修行をご一緒していたお方です。 夢のような話をしています。其のお方の母上は短歌をしてらっして、わたしも実はしていて、ちょっとお褒めいただいて嬉しかったことがあるんです。霞か雲かのお話しでございますね。そこまででございます、今日の夢でございます、いつか其の本当が夢からさめたようにあらわれますかも。 人生、生きて見なければわかりません。わたしは生きてまいります。 今日の一首 いづこにもをらざるわれがひとりゐる黒き梁(うつばり)の下なるわれが 葛原妙子(『橙黄』梟、より)
2013.01.11
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写真を出したら、消える・・・を繰り返して、ようやくにここまできました。消えないでねと祈りつつであります。 パソコンにはわたしにわからないことが沢山ありまして、わたしはいつも恐る恐るであります。さて、と、いいながら何を書きましょうか、わたしは何をしますににも、用意周到ではなくて、行き当たりばったりであります。しかしながら、書いてみて、この行き当たりばったりという言葉はおもしろいですね。おもえば私の今日までが同じ、といいながら用意するということほど悲しみの原因つくりもあろうかなどと、何かまたわけのわからぬことをいいだしましたが、そのとおり、今夜の、ただいまのわたくしのこのブログ書きがその通りでございます。 まあ、今日まで身心ともによくご無事でございましたなという、今夜はそういう内容のブログ書きとはなりました。たった今まで、こんなブログを書こうと思わなかった己ではございます。本日終り。 今日の一首 山みちにわれの捨てたる卵の殻雨にぬれつつうごくを見たり 山下陸奥(『霊鳥』より)
2013.01.09
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