B.C.B.G.な暮らし

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2008.12.02
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テーマ: 京都。(6129)
カテゴリ: Kyoto



あれ~
京都の大仏さんってあったっけ~

‘大仏さん’と聞いて思い浮かぶのは

奈良の大仏さんに鎌倉の大仏さん



でもね。

京都にも奈良の大仏さんをしのぐ巨大な大仏さんがあったのをご存知でしょうか?

この大仏さんは、何と造建以来、四度再建され、五度崩壊した
という悲劇の大仏さんなのです。

大仏さんが建っていたのは、
東山七条手前を北に入った豊国神社横の方広寺。

周辺には京都国立博物館や三十三間堂があります。
修学旅行で回られたこともありますね。

隣に豊国神社があることでわかるように、
大仏さんは豊臣秀吉の命により着工され
1593年に完成しました。

この大仏さん、高さが19mで(奈良の大仏は16m)
大仏殿の規模も高さ50m、前面82m、側面57mと巨大なもので、
奈良・東大寺の大仏殿を凌ぐ大きさだったと言われています。

本体は鋳造(ちゅうぞう…金属を溶かして鋳型に流し込んで造る)ではなくって
木造で造られ、漆を塗り金箔が光り輝く

という権力を顕示することを好む秀吉らしい大仏殿だったようです。

しかし3年後に関西を襲った慶長大地震で崩壊し、
2年後に秀吉もこの世を去りました。






方広寺.jpg

(あまりの巨大さに圧倒される徳川家康にいちゃもんをつけられた有名な梵鐘です)

「国家安康・君臣豊楽」 の文字があります。

家康を真っ二つにすることで、国を安じ、
豊臣家を君となすことで繁栄を楽しむと解釈する
という難癖をつけられて、

ここから、豊臣氏滅亡のきっかけとなった
大阪冬の陣が勃発したのですね。





1602年に秀吉の子、秀頼によって大仏鋳造が
行われるも、完成真近に出火し焼失しました。



1622年には、徳川家康の進めにより、
鋳造大仏は再建されましたが、
またしても寛文大地震(1662年)で
大仏、大仏殿ともに倒壊してしまいました。



秀吉亡き後、
天下を狙っていた徳川家康が
何故?
豊臣家に大仏の再建を進めたかは、
豊臣家の財力を削減させる狙いがあったとも言われています。

その後、木造金箔漆造りの大仏が再建されるも
今度は、3年後に、落雷により炎上焼失してしまったそうです。




その後、天保14年(1843)に木彫の大仏さんが再興されましたが、
この大仏さんも昭和48年にまたしても火災により炎上、焼失してしまいました。



その後、大仏さんは再興されていません。




京都の大仏さまは、
当時の権力の全てを握った秀吉の栄華の象徴だった
と言われますが、

本当に悲劇で薄幸な運命を辿った京都の大仏さん。

なんとはかない運命でしょう。



京都には、今でもこんなわらべ唄が残っています。



京の京の大仏っあんは、天火で焼けてな~
三十三間堂は焼け残った
ありゃどんどんどん
こりゃどんどんどん
うしろの正面だ~あれ~




83歳のコーラスの大先生は、
京都の悲しい歴史を頭に思い描くようにして
歌ってくださいとおっしゃいました。

(京都人は、今でも淀君のことをよく思っていない
そんな話もしてくださいました。)



明日から、

みんなの童謡

で放送しています。

よかったら聴いてみてくださいね。

歌は、またまたあいりすぐるーぷです。ぽっ

下手くそだけど、一生懸命に歌ってきましたよ♪









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Last updated  2008.12.02 23:47:20
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