長い連載を続けてこられたことは偉いと思います。教えてほしいことがあります。 毎回冒頭に置かれているスートラの日本文ですが、Sacred text of the Hindus の原文とどれもほとんど相応していないようにみえます。 例えば78ですが、ahiMsAsatyazaucadayAstikyAdicAritryANi paripAlanIyAni に対して、挙がっている日本文は「非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ)」と違う単語が書かれています。 77 sukhadHkhecchAlAbhAdityakte kAle pratIkSyamANe kSaNArddhamapi vyarthaM na neyamには「放棄して、時が許す限りそれを果たして」とあり、原文のlocative語がどう理解されているのかわかりません。 あるいはもとにした本が違うのかもしれませんので、底本をお教えください。 また訳文を作るというより、ブログ主さんが独自の文を綴るためのブログなのか、基本方針を教えてください。
(Oct 9, 2016 09:11:58 AM)
>下記ISKCON/DATABASEの78節です。 One should cultivate such good qualities as nonviolence(ahimsa), truthfulness(satya), cleanliness(sauca), compassion(daya), and faith(astikya).
>>下記ISKCON/DATABASEの78節です。 >One should cultivate such good qualities as nonviolence(ahimsa), truthfulness(satya), cleanliness(sauca), compassion(daya), and faith(astikya). >英文の単語に( )でのサンスクリットのローマ字表記はワード・トゥ・ワードからそのまま引用しました。
非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ) One should cultivate such good qualities as nonviolence(ahimsa), truthfulness(satya), cleanliness(sauca), compassion(daya), and faith(astikya)
と抽象名詞が並んでいます。A B とあるので、A は B である、という構文かなとまずは考えられます。クリシュナ意識の本を見ますと、
Indifference toward what stands in the way of devotional service means to accept only those activities of social custom and Vedic injunction that are favorable to devotional service.
とあります。A B のうちのどちらが主語となり、どちらが述部になるかは一考を要するところですが、この英訳では udAsInatA とは AcaraNaM である、としています。これはスートラ9にて ananyatA とは udAsInatA である、と説明し、'nanyatA の説明をするスートラ10をはさんで、11 で udAsInatA を説明していると理解すれば、クリシュナ意識の本の訳は妥当なわけです。そうするとブログの日本文は A B 並列みたいになっているので、おかしくなります。少なくともクリシュナ意識の本とは違っているので、テクストはある通りに伝えてゆくという基本立場から逸脱した違犯行為なわけです。 そこでもうひとつ問題があります。loka-vedeSu という句ですが、英訳では AcaraNaM だけに掛かっているようになっていますが、スートラ8からのつながりでみると、A B の両方に掛かっていると見なさざるを得ません。この点では私もクリシュナ意識の本には賛成できないわけです。でも半分だけですので、半分違犯。ブログ主さんは全面違犯。(笑)失礼しました。
(Oct 14, 2016 06:43:54 AM)
第3節の(要旨解説)です。) 「生命体はエネルギーではあるが、エネルギーの源ではない」『CC Adi 7-117』とはっきり書いてある。 本当にそうはっきり書いてあるのでしょうか。原文の前半行は
jiva-tattva — sakti, krsna-tattva — saktiman
とあります。ここの tattva は(要旨解説)の訳では無視されていますが、適切な訳語を決めるのは難しいです。真理・真実かもしれませんが、古典サーンキヤ学派で列挙する原理かもしれません。この世でみられるジーヴァの側のもの、クリシュナの側のもの、といったことかもしれません。無視はしませんが、私には決定できません。ジーヴァの側がシャクティなのはいいとして、クリシュナの側はシャクティを持つ者とあります。サイト主さんは、クリシュナをもかってに落として、ジーヴァを主語として、エネルギーの源ではない、としてあります。 これは恐らくプラブパーダの英訳The living entities are energies, not the energetic. The energetic is Krsna.をいいかげんにみたためのものかと思われます。living entities を主語そした前半部分は、肯定文ですが、理解を容易にするために敷衍して、否定文も添えたものです。対比されるクリシュナの部分が大事です。従って、サイト主さんが、はっきり書いてある、ということは、原文にははっきり書かれていません。
That is called samatA, equanimity. A person in Krsna consciousness has nothing to reject and nothing to accept save in terms of its usefulness in the prosecution of Krsna consciousness.
(要旨解説)の内容にも問題があります。 >前半の三つはバーガヴァッタ・ヴィッディであり、 とありますが、Srimad-Bhagavatam 4.13.3 に対するプラブパーダの Purport と異なっています。プラブパーダの説明は、 bhagavata-vidhi is the system of nine processes which begin with hearing and chanting とあるので、9つのプロセスすべてが bhagavata-vidhi ということのようです。もっともブログ主さんの帰属は疑われていますので、プラブパーダと違いことを吹聴しても、一行に構わないということかもしれませんが。
まだ誤解があるようです。「ならば、これからも「バガヴァッド・ギーターあるがままの詩」等は、読んでもいいかなあと思います。」という文はヘンです。Bhagavad gita as it is はここの些末な(?)議論がどうであろうと、そんなこととは関係なしに読む価値にあるものです。ただ「あるがままの詩」というのは誤解を生みやすい表現です。神性なる詩を、そのある通りに説明した[注解書]ということです。ですから、これを真摯に読むと、献身の心を以て、謙虚に伝えられてきたものを受け継いでいこう、という気持ちを起こすきっかけを与えてくれる、というのが原著者の願いです。ですから、これを読んだら、文献は一字一句をもゆるがせにせずにしよう、と発奮することになりますが、そうなるのがイヤだなあって思うとしたら、問題です。