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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第81節 永遠の神理の中で、ただバクティだけが愛おしい、まことにバクティだけが愛おしいのだ。 (要旨解説) 心と体と言葉の三つ(トリ・サッチャ)を使って主への「バクティ」を行ったならば、それは主にとって最も愛おしいものとなる。「ナーラダ・ムニはヴィーナを奏でながらラーディカ・ラマナの御名を唱え三界を旅して、会う人全てにバクティを配る」と謳われている。また、主は五百年前に最も堕落した魂を救うために、主チャイタンニャと主ニッチャーナンダのお姿で現れた。そして全ての者にバクティ・ラサを配られた。私達も、主や主の純粋な献身者の足跡に従って会う人全てに「バクティ」のみが崇高な宝であると説教すれば、主にとって最も愛おしい人になる。 「自らの心と言葉、行為を用いて、全ての被造物を私の顕現と見なすこと、これこそが私へと通じる教えの中で最高のものであると、私は宣言する」『シュリーマド・バーガヴァタム』第11巻29章18節行為を用いる方法はユクタと呼ばれ、ルーパ・ゴースワミーはそれをユクタ・ヴァイラーギャと呼んでいる。心身を用いて「バクティ」に従事すれば物質との結び目(アハンカーラ)がなくなるという教えである。行為を用いてこそ人に模範が示せる。人は瞑想と称する無行為の詐欺師にだまされ、実際は心を制御できない輩の教えを受け入れ混乱する。規定原則を守り、主の御名を唱え、謙虚に献身者に、全ての生命体に仕える行為の中に生きている人こそ聖者なのである。シクシャ・グルの権化であるルーパー・ゴースワミーに従う者こそ真の「バクティ」が与えられる。 「バクティ」のみが森羅万象の中に主を見る眼を与えてくれる。そして全ての生命体の中に主を見て、主を忘れている人に主を思い出させようと奮闘努力する。主の御名を唱えてもらうように懇願する。2016年12月7,8,9日とインド・クルクシェートラ大学のセミナーに出席します。
Nov 29, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第80節 主は賛美されるなら、直ちにそのバクタの下に現れ、ご自身を与えてくださろう (要旨解説) 主の姿を見るための自分勝手な方法などない。すべては主のいわれのない慈悲にかかっている。「どうか私の前に現われてください」と主に要求することはできない。こちらの都合どおりに太陽に昇るよう要求できないのと同じである。太陽が自然の法則どおりに昇るように、主もいわれのない慈悲の心から現われてくださる。主に仕えながら、その瞬間が訪れるのを忍耐強く待ち続けなくてはならない。主を縛ることができるのは、純粋無垢な献身奉仕だけなのである。そして物質的な感覚では、主を見ることも感じることもできない。「私はあなたの永遠の召使ですから、あなたに仕えさせてください。私に奉仕を与えてください」これが主への最高の賛美である。主の慈悲にすがって行う献身愛奉仕に主が喜びを感じた時、主はご自分の判断で姿を見せるのである。 「私を愛し、常に私に奉仕する者たちに、私は姿を見せる(本分は真の知性を与えるになっている)。それにより彼らは私のもとに来るのだ」『バガヴァッド・ギーター』第10章10節 この節はクリシュナはご褒美としてご自分の姿を見せることを言っているのだとシュリーラ・プラブパーダは解説している。サーダナ・バクティの段階を超え、バーヴァ、プレーマに昇ると、主との謁見(ダルシャン)が与えられるのである。
Oct 10, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第79節 不安と疑いから解放されて、全身全霊を持って、ただバガヴァーンだけを礼拝すべきである (要旨解説) 不安と疑いは無知から生じる産物である。主から離れると恐怖が生まれる。将来が心配になる。そして幻惑され主以外の相対的な概念でこの苦しみを逃れようと努力する。それが無知である。前節に挙げられた良い質を身につけない限りこの無知から逃れることはできない。『バガヴァッド・ギーター』第13章12節で、主は良い質(スヴァダー)を説明した後、「以上のことが知識の本質であり、これに反することが無知であると私は明言する」と宣言している。この不安と疑いに代表される心の迷いは執着と嫌悪という二元相対観念から生まれる。この大敵に打ち勝つには主の正統な代表者であるグルと歴代のアーチャリヤの御足に保護を求めなければならない。グル、シャーストラ、サドゥの見解は一致している。人類にとって最高の恩恵は全身全霊でする献身奉仕(アナンニャ・バクティ)によるバガヴァーン・シュリークリシュナの礼拝(バジャナ)によって得られることを確証している。師弟継承(グル・パランパラー)に入ることより不安と疑いから解放され、師弟継承をつなぐ慈悲が与えられると、つまり人にクリシュナ意識を配る側に回ると、一意専心の「バクティ」(アナンニャ・バクティ)が得られる。
Aug 13, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第78節 そして非暴力(アヒムサー)と真実(サッチャン)、清浄(スッカ)、慈悲心(ダーヤン)、信念(アースティカ)などの徳を培うべきである (要旨解説) ここに挙げられている良い質が「バクティ」により達成される。主は『バガヴァッド・ギーター』第10章4、5節で、これら多くの資性を生物に与えるのはただ私のみであると言っている。そして『バガヴァッド・ギーター』第13章8~12節で主の慈悲により与えられる資性の一覧が示されている。 『シュリーマド・バーガヴァタム』第1巻17章24節では宗教性(ダルマ)を象徴するとされる牛の四本の足(チャトゥシュ・パーダン)について説明されている。サッチャ・ユガではこの四本の足、苦行(タパ)、清潔さ(ショーチャン)、慈悲心(ダーヤ)、誠実さ(サッチャン)で牛はしっかりと大地に立っていた。しかしカリ・ユガでは高慢さ(スマーヤ)、色情(サンガ)、陶酔物(マダイ)という無宗教(アダルマ)により足が折られ、誠実・正直(サッチャン)という一本の足しか残っていないのである。しかしこの高尚な宗教原則を、主に身を委ねる「バクティ」により回復できる。人間として生まれたにも関わらずこの宗教原則を受け入れないことは精神的自殺行為、すなわち自分の体への暴力と考えられるのである。
Jul 22, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第77節 幸と不幸、願望、利益などを放棄して、時が許す限りそれを果たして、一瞬とて時を無駄に過ごすべきでない (要旨解説) 心を使うと善悪、損得、結果への期待という心情に支配される。これらのものを放棄するには「バクティ」から得られる高い意識が必要である。心を抑制・統御することは、バクティ・ヨーガによってのみ可能となる。それがユクタ・ヴァイラーギャである。「バクティ」こそが真の離欲に、ふさわしい(ユクタ)という意味である。私達が一時的な執着から離れ、永遠の至福に満たされるには前節にある義務の遂行から始まるヴァイディ・バクティのプロセスを受け入れなければならない。そしてその義務・規則の遂行が自発的にできるようになれば、物質界での持ち時間を一瞬たりともおろそかにしなくなる。このような発達のプロセスが「バクティ」を受け入れた人には保証される。欲望は欲望を満たすことで解決されない。欲望を放棄することで真の欲望が顕現する。
Jun 18, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第76節 むしろバクティの聖典を尊び、それが指し示す義務を果たすべきであろう (要旨解説) ヴェーダには信念をカルマに向ける、アートマンに向ける、バガヴァーンに向ける方法が説明されている。それぞれカルマ・ヨーガ、ギャーナ・ヨーガ、バクティ・ヨーガの推奨である。一般に人々は物質的な感覚満足の欲望が捨てられない。自分が色々考えて絶対真理を探究したいという思いが強い。だから最初の段階ではラジャスの質を持つカルマ・ヨーガが勧められる。そしてやがてサットヴァの質のギャーナ・ヨーガの段階へと昇進する。しかしそういう段階を踏まずとも、「バクティの聖典」を学び、ヴァイディという義務の遂行による外的な「バクティ」から始め、ラーガヌーガという自発的な内的な「バクティ」へと移行する訓練を果たすべきだと助言されている。行(ぎょう)とはカルマという意味とサンスカーラという意味の二つがある。カルマとは行為、サンスカーラとは行為以前の心の印象を指す。行いを規制し心を浄化するのが修行であり、ヴァイディ・義務を果たすバクティと呼ばれる。
May 14, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第75節 それはかえって混乱に陥り、決して結論に至ることがない (要旨解説) 経験至上主義の哲学者のようなアプローチで至上主に近づく。それは土台無理な話である。『バガヴァッド・ギーター』第4章4節の要旨解説でプラブパーダは「いつも自分達の見地からクリシュナを解釈している悪魔族は、自分達が理解できるように歪曲している」と揶揄(やゆ)している。このような見地で辿り着く結論は至上主を非人格として捉えるのが関の山である。マーヤーヴァーディは一番悪い悪魔、全ての者達はマーヤーヴァーダ哲学を聞いてはいけない。そうすれば破滅するだろうと主チャイタンニャも忠告している。『CC Madhya 6-169』 サルヴァバウマ・バターチャーリヤは、偽りの論理で満ちたあらゆる種類の議論を持ち出し持論を主張しようとしたが、主チャイタンニャに論破されて意気消沈した。『CC Madhya 6-177』 また混乱とは、ダルマ、アルタ、カーマ、モクシャをゴールに設定することである。それらは動機がクリシュナに向いていない。
Apr 27, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第74節 彼は決して議論に耽るべきでない (要旨解説) 全ての知識が、ヴェーダとして物質創造の最初から示されているのに、どうして議論して新しい何かを作り出さないといけないのか。自分の理解できる範囲で、また不完全な感覚で絶対真理に辿り着けるわけがない。カエル博士が自分が住んでいる井戸の大きさから、太平洋の大きさを類推するような愚行である。有限な者が無限な者を彼らの理屈で理解しようとしても必ず頓挫する。全て徒労に終わるので、いたずらな詮索、想像に耽るべきではない。時間の浪費である。心という物質を使って、その考えるという手段を使って、物質を超えた超越的なものが推測できるわけがない。
Mar 28, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第73節 なぜなら彼らは全て主のものだから (要旨解説) 私達は主の所有物であるから、主から独立して存在はできない。全ての源であり原因であるお方、主クリシュナから発生した分子(アヌー)である。本当の父であるクリシュナに仕えるのが魂の永遠のダルマであることを思い出し服従した時、主の内的エネルギーに抱かれ保護される。
Feb 8, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第72節 カーストや学識、姿形も、家系も、財産も、職業でさえ、彼らの間で区別されることはない (要旨解説) 純粋な献身者の行動の動機は、クリシュナへの奉仕のみに集中している。そのような活動はもはや物質界の活動ではない。物質の構成要因であるトリ・グナの支配やカルマの反動を超越している。生まれやそれに伴う一時的環境と、魂が一切関係のないことは『バガヴァッド・ギーター』第9章32節でも説明されている。また『シュリーマド・バーガヴァタム』第11巻12章「サットサンガの栄光」の各節で列挙されている聖者との交際により得られる「バクティ」顕現後の状態は、これらの物質的区別とは一切関係のないことが示されている。本来魂にはこういう一時的な肉体上の区別など存在しない。主の前では全ての魂が主の召使であり平等である。
Jan 23, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第71節 先祖は歓喜し、神々は喜びに踊って、大地は保護者を得ることができよう (要旨解説) 主にとって愛しい献身者の行う供儀(ヤッギャ)は主を喜ばす。その供儀を受けて、祖先、半神達は喜ぶと『バガヴァッド・ギーター』第3章11節にある。究極の供儀の受益者(アディ・ヤッギャ)である主ヴィシュヌが満足すれば、その管理下にある官吏も全て満ち足りる。そして世界はあまねく繁栄する。また大地である地球神ブゥーミーも純粋な献身者プリトゥ・マハラージの慈悲により起伏に富む大地を平坦にされ、穀物を生み出す環境が与えられた。プリトゥ・マハラージのことは「あなたは全世界の保護者であり、また生きる糧を私達に与えて下さる方です」と『シュリーマド・バーガヴァタム』第4巻17章11節で讃えられている。 2016年1月より大阪・梅田にてバガヴァッド・ギータークラス(無料)を新しく開設します。初心者の方もふるってご参加下さい。http://iskconosaka.jimdo.com/ギータークラス/
Jan 1, 2016
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第70節 そんな彼らは主によって満たされていよう (要旨解説) このように主に身を委ね、保護を求めた者は、主の内的エネルギーで満たされる。主との愛情交換により、毎瞬間喜びに満ちた至福の状態にいる。反対に主の外的エネルギーに接している者は、不足感や恐怖感、また全てが失敗に終わる絶望感に支配されることになる。どちらも主のエネルギーではあるが、私達ジーヴァは主の上位エネルギーに属する分子だということを忘れてはならない。物質界にいるか、精神界にいるかが問題ではなく、主のどちらのエネルギーと接触しているか、動機が主にあるかが重要になる。
Dec 22, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第69節 聖地をも清めて、行為をも清きものとし、聖典でさえ聖化するだろう (要旨解説) 「あなたのような神の信者は、聖地の権化と見なされます。その心にはガダという棍棒を持たれる主を抱いておられるので、どのような場所でも聖地に変えてしまうのです」『シュリーマド・バーガヴァタム』第1巻13章10節 これはユディシュティラ王がビィドゥラに言った言葉である。 またハリダース・タークルが他界した時、主チャイタンニャはその亡骸を海で沐浴させた時、「海がこうして偉大なる聖地となる」と言われた。聖地に巡礼に行くのは、ガンジス河やヤムナー河でただ沐浴したり、その地に建てられた寺院を訪ねたりするためではない。人格主神に仕えることだけを生涯の望みとしているヴィドゥラのような主の代表者を見つけるために行くのである。「ヴェーダはその言葉が伝える以上に深い意味を持つ」『シュリーマド・バーガヴァタム』第11巻3章44節 献身者のみが聖典の美辞麗句を排除し、本当の意味を伝えてくれるのである。西、北、南(カルマ、ギャーナ、ヨーガ)の土地を掘るのではなく、東(バクティ)の土地を堀り宝物を探しなさいと。
Dec 1, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第68節 喉を震わせ、髪を逆立て、涙を流して、主について語り合う、そのような彼らは、自分の仲間を、そして世界をも浄化するだろう (要旨解説) ルーパ・ゴースワミーは『バクティラサムリタシンドゥ』の中で、実在的恍惚愛の八つの徴候を説明している。生命力が土と接触する時に人は極度の情動を感じ、水と接触する時は涙を流し、火と接触する時は発汗する。そして空間と接触する時に人は呆然(ぼうぜん)となり、空気と接触する時は体の震え、声の震え、そして体の毛の逆立ちが起こる。 ナーラダ・ムニはクリシュナに会った時、呆然となりヴィーナーを奏でることができなくなった。また声がつまり祈りを捧げることができず、涙で主を見ることさえできなかったのである。
Nov 9, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第67節 主だけを愛する者、彼こそが最高の信者である (要旨解説) 最高の信者とはマハー・バーガヴァタを指す。ヴィシュヌとヴァイシュナヴァに違いはない。この境地をアドヴァヤ・ギャーナと呼び最も高い境地である。そのことは『シュリーマド・バーガヴァタム』第4巻23章31節の要旨解説に記されている。クリシュナと献身者は一つであり離れられないのである。主を神だと思えば畏怖の念での崇拝(アイシュヴァリヤ崇拝)の関係になる。「私は、私を神だと思う人には魅かれない。そのような弱々しい愛には惹きつけられない。」主チャイタンニャはそうおっしゃった。主のこの考えを知っている者が最高の信者であり、主はそういう信者をご自分のヨーガ・マーヤーで覆い、ご自身が神であることを隠される。相手が神だと思ったら恋愛など恐れ多くてできないからである。ただただ主が愛おしくて心から離れない。そういう人に主はご自身を差し出される。
Oct 27, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第66節 三グナの縛りを超えて、主に対して、常にしもべか恋人(妻)のように仕えて、主を愛して、ただ主だけを愛するべきである (要旨解説) 三グナを越えた状態はブラフマ・ブータの境地にある人、マハー・バーガヴァタを指す。その境地に至った人を物質的幻想に惑わされない人、ディーラーとも呼ぶ。そのような境地に達した時、何ものに対しても期待することも嘆き悲しむこともなくなり不惑の状態を得ると、『シュリー・イーシャ・ウパニシャッド』マントラ10の要旨解説でシュリーラ・プラブパーダは説明している。献身者がアシャクティ、バーヴァとバクティの段階を進んでいくと三グナを超越し、主からラサ(関係)が啓示される。その関係をもって直接主と愛情交換をし、プレーマを達成する。 「この世における聖者という方は、他人の評判つまり賞賛と侮辱を経験しても、決してそれを喜んだり嘆いたりしない。なぜなら彼の本質であるアートマンは、永遠に三グナを越えているからである」『シュリーマド・バーガヴァタム』第1巻19章50節
Oct 13, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第65節 主に全ての行為を捧げて、欲望と怒り、自負心などは、全て主との関係においてのみ抱くべきである (要旨解説) 物質のラジャスの影響により欲望(カーマ)が生じ、それはタマスの顕れである怒り(クローダ)へと変化する。この欲望とは本来の主への愛がラジャスに触れ倒錯したものである。この欲望を主への愛に変えたなら、全てのことをクリシュナのためにしたなら、欲望も怒りも神聖化される。『バガヴァッド・ギーター』では、主がアルジュナに私を満足させるために暴力を使いなさいと指示された。欲望も怒りも自負心も、それをクリシュナ意識で使用すれば、私たちの敵ではなく友になる。神との関わりのなかで、善悪という二元性がなくなり絶対という平安境(シャンティ)に入ると『バガヴァッドギーター』第5章12節でも説明されている。「身内と戦って殺しあうことは、道義に反することではないでしょうか?」 「アルジュナよ、私のためにすることには善悪という物質的な二元性は伴わない。なぜなら私は善悪のない絶対的な対象だからである。」しかし、この真理を他者への都合のいい攻撃の後ろ盾にしてはいけない。なぜならクリシュナが殺せと言っているのはアルジュナ自身の心の中にいる敵(ラジャス)を指しているからである。それがグルパランパラーで得られる智慧と達観すべきである。
Sep 19, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第64節 自尊心や偽善などの悪は退けるべきである (要旨解説) 「バクティ」の修練は、「バクティ」のつる草に水をやることと、「バクティ」の生育を邪魔する雑草を抜くことである。この雑草が悪を意味し、常にそれを抜く作業を怠ってはいけない。この雑草とは心に生じた高慢さである。高慢さとは自分と他人を欺くことである。自分が尊重され、認められたい。自分の欲にまみれた心を隠し、聖者のふりをして人をだまし崇拝させる。そんな人の心には謙虚さは生まれない。主への服従は達成されない。心の中は無知で暗い。知識の灯明で照らし出さないと雑草を見つけることはできない。自尊心や偽善などは魂には存在しない。偽の自我(アハンカーラ)に存在する悪である。この悪はバクティによってのみ無縁なものとなる。
Sep 9, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第63節 女性と財産、そして無神論者の話題は、決して聞くべきでない (要旨解説) 白鳥のような心の人は、クリシュナの蓮華の御足に集う。それ以外の輩(やから)はカラスやハゲタカのように、所謂(いわゆる)巡礼地に集い、マーヤーのささやきを聞き、ご利益宗教、経済発展、感覚満足の話題に没頭する。主チャイタンニャは欲望の眼差しを女性に向けただけで、チョータ・ハリダースを交際の輪から追放するという厳しい態度を示した。「木製の女性の像であっても、聖者の心を奪う」と主は交際者に教えたのである。カーマ(欲望)とは性への執着のことであり、支配欲として物質界に束縛する最大の要因である。女性はラジャスを表し、離欲への最大の敵となる。クリシュナがアルジュナに戦えと言ったのは、相手の兵士を指したものと単純に判断すべきでない。兵士つまりクシャトリヤはラジャスの質を表す職業であり、実際に戦う対象は心の中にあるラジャスである言っているのは明白である。また同時にラジャスは女性を指すことも理解すべきである。自分が楽しむ者というこの倒錯したラジャスの意識から無神論は生まれる。
Sep 1, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第62節 しかしそれらを成功させる為には、この世との関わりを捨てるべきでない。むしろ行為の結果を放棄しながら、その(主への愛を確立する)努力を為し続けるべきである (要旨解説) 「バクティ」を成功させるには、俗世との縁を断ち森に入るべきでない。不自然に魅力的なものに蓋をするのは真の離欲とは言えない。心を無理やり停止させてもそれは不安定な状態でしかない。心をクリシュナという最も魅力的な存在に固定させる。その努力のみが結果への無執着という富を達成する。富(ダナン)、家族(ジャナン)、美しく従順な配偶者(スンダリーン・カヴィターン)に心惑わされることはない。どんなに魅力的なものと隣り合わせていても影響されず、未来(時間という物質概念)への期待も心配もしない。クリシュナに集中している人は泰然として今(永遠という精神性)に生きている。それが真の離欲、放棄の状態である。献身者はクリシュナへの奉仕のためにあらゆる活動をしてカルマを受けない。真の離欲とヨーガは同じものである。
Aug 23, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第61節 彼は世間の眼を少しも怖れることがない。なぜなら彼は自分自身も、世間の評判も、さらにヴェーダの定めも、全て主に投げ出したからだ (要旨解説) 「社会的・宗教的慣習に従うこと、利得を求めること。五感を満足させること、解脱(解放)すること、これらは人生の四大目的である。第五番目の至上目的、神への愛と比較すれば、これらの四大目的は路上のワラのように取るに足らないものである」『CC Adi 7-84』 「バーヴァ(主に対する妙なる愛の法悦境)を育んだ人にとっては、社会的・宗教的慣習に従うこと、利得を求めること。五感を満足させること、解脱(解放)は、海水の一滴のように些細なものとなる」『CC Adi 7-85』 この上記二節で説明されているように「バクティ」で得られる神への愛は、この世のものを全て捨てさせてくれる。このようにより高い意識を味わわない間は、地位、家族、財産、健康、そして苦しみからの離脱などに執着する。五番目の目的が真のゴール、それはバクティでのみ得られる。
Aug 8, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第60節 それは平和(シャーンティ)と至福(パラマアーナンダ)の体現であるからだ (要旨解説) シャーンティとは心をクリシュナに固定した時に得られる安定感である。アーナンダとはクリシュナの内的エネルギーに服従した時に得られる歓喜である。この二つが「バクティ」の中にある。クリシュナはヴァガ(六つの富)をバーン(持つ)されている方であるから、最も魅力的なお方である。「バクティ」によってのみ根源の主と出会い、主のあふれる慈愛が献身者にそそがれる。 「クリシュナ意識で至上者と関係しない者は、心も統御されず知性も安定せず、平安の境地は望むべくもない。平安なきところに真の幸福はないのだ」『バガヴァッド・ギーター』第2章66節
Jul 18, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第59節 それそのものが証明であるゆえ、それは他の何にも証明を必要としない (要旨解説) 太陽から放出された、エネルギーは光と熱である。この分離した二つのエネルギーをどんなに分析しても太陽惑星の大きさ、重さ、構造は立証できない。「バクティ」はバガヴァーンの悟りによりプレーマを得るヨーガの最高段階である。クリシュナとの直接の関係を築く最高完成である。クリシュナの拡張体、分離エネルギーであるブラフマジョーティの光輝という部分から全体を証明する帰納法には限界がある。木の根に水をやれば枝、葉全てに養分が行き渡るように、バガヴァ-ンを理解すれば全ての真理はその中に証明される。 またアシュタンガ・ヨーガはギャーナ・ヨーガに、ギャーナ・ヨーガはカルマ・ヨーガに依存している。各段階を経て昇進移行して行くからである。カルマ・ヨーガもラジャスという段階に来ることが必須である。しかしバクティ・ヨーガは主と献身者との慈悲に依存している。つまり「バクティ」は「バクティ」に依存しているのでそれそのものが証明とされる。
Jul 11, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第58節 バクティの道は、他の如何なる道(ヨーガなど)よりも容易に成功に導かれよう (要旨解説) ギャーナ・ヨーガで要求される博学なまでのヴェーダの学習と強制的な放棄、アシュタンガ・ヨーガで要求される厳格な身体の苦行や心の制御は「バクティ」では要求されない。「バクティ」の浄化力は強力なので禁欲独身生活も条件ではない。ただクリシュナを愛し、仕えることだけである。主チャイタンニャのサンキールタンという供儀に従い、集まって主の聖なる御名を唱え、聞くことで心に蓄積された不浄な情報が消去される。高慢さが破壊され、謙虚になり、絶え間なく主の御名を唱える恩恵を授かる。「バクティ」により主に近づこうとする献身者を特別にクリシュナは物質という無知の大海からすぐに救出される。主チャイタンニャを思い出せば困難なことが簡単になる。思い出さなければ簡単なことも非常に困難になる。『CC Adi 14-1』
Jun 28, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第57節 そのうち、先のものが後のものより優れていよう (要旨解説) ヴェーダの規則であるヴァルナ・アシュラマ制度に従い、供儀(ヤジュニャ)、布施(ダーナ)、苦行(タパシャ)を行う者はやがてサットヴァの質を獲得し、自分の魂としての神性に目覚める。ヨーガの実践により、熟睡(タマス)、夢眠(ラジャス)、覚醒(サットヴァ)、魂の認識(トゥリヤ)とより優れた状態に昇進する。ヴァルナ・アシュラマ制度は人を徳の様式(サットヴァ)に導くもので、その段階で人は解放への知識、幸せは内に存在することを理解する。感覚の対象に喜びを求めない。内なる魂としての存在に喜びを感じる、スティータ・プラギャという『バガヴァッド・ギーター』第5章24節の境地に至る。魂の認識の後、魂としての活動を開始する。それが「バクティ」である。「鬼は外、福は内」幸せは内側にある。
Jun 21, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第56 初期においては(ガウナー・バクティ)、それは三種(サットヴァ、ラジャス、タマス)に分類され、それは努力するその者が、どのグナに支配されているかによるだろう (要旨解説) 「バクティ」には初心者がトリグナに影響を受けている状態でするヴァイディ・バクティと内的エネルギーに服従し始めた熟練者がするラーガヌーガ・バクティとがある。前者はヴァルナ・アシュラマ・ダルマに従い、義務をクリシュナに捧げるサーダナ(訓練)を実行して浄化される。義務の遂行により自分のグナをサットヴァ(徳性)へと上げていく。後者は浄化が進み自発的にサーダナを受け入れる状態である。
Jun 11, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第55節 それを得たなら、もはや彼はそれだけを見て、ただそれだけを聞き、それだけを語って、ただそれだけを思う (要旨解説) プレーマを得たならクリシュナとのアプラクリタ・リーラに入る。主の内的エネルギーの世界に入り、主に仕える。そして仕えられるより、仕える立場のほうが幸せなのを知る。「愚かな人は、この仕えるという心情の奥にある富を理解できない」『CC Adi 6-104』とある。全ての感覚器官がクリシュナに向けられ、もう二度と離れられない。「バクティ」のみに魅かれ、ダルマには無頓着になり、あるいはダルマを無視する。物質次元のモラルに左右されなくなる。これをニラペクシャと呼ぶ。『CC Madhya 3-212』の要旨解説にバクティ・シッダンダ・サラスヴァティによるニラペクシャに関する説明がある。
Jun 6, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第54節 それはグナ(属性)を持たずに、欲望を持たずに、たえず増し続ける、不断の、微細なものよりさらに微細な、最も内密な経験であるだろう (要旨解説) プレーマの状態というのはトリ・グナを完全に超越した境地である。つまりニル・グナであり、物質次元のものではない。純粋な、混ざり気のないシュッダ・サットヴァである。そこではサット・チット・アーナンダの姿の原初の主バガヴァーンを体験する。それは肉体よりも、感覚よりも、心よりも、アナーハタ・ナーダという聖音オームの最も微細なバイブレーションよりも、もっと微細なスバヤン・ルーパ(根源の主のお姿)とのダルシャン(謁見)である。そこでの主との愛の交換は弥増しに絶え間なく行われる。もう他のものには興味も関心もなくなる。
May 31, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第53節 しかしそれは時に相応しき者に明らかとされる (要旨解説) プレーマはその精神的事象が理解できる段階にまで発達すれば自然に表される。子供はなぜ男女が惹かれあい結婚するのかを聞いても分からない。だが成長してその時期になれば、ほおっておいても異性に惹かれるようになる。自然に結婚したいという思いが湧いてくる。このように不自然な倒錯した自己愛に違和感を感じるようになれば、自然に神への愛・クリシュナ意識が目覚め出す。そして不動となり、味わいが生まれ、クリシュナへの執着が顕現する。そして恍惚愛、純愛をクリシュナの慈悲により直接体験する。『バガヴァッド・ギーター』第11章54節で言われているようにクリシュナのお姿を直接見るのである。
May 20, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第52節 ちょうど聾唖(ろうあ)が味を表さんとするように (要旨解説) プレーマとは完全に主の内的エネルギーに入った状態である。そこでの得も言われぬ法悦感は物質次元での表現法では説明するのが難しいのは当然である。またこの主とのラサに没入した純粋な精神次元の経験はとてもプライベートな事柄なので、他言をはばかるのも当然となる。そのような主との内密な体験は人前に披露するものではない。他人に話すものでもないし、話しても理解を得られるものでもない。聞いた人は体験がないなら頭で考えてしまうからである。
May 13, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第51節 プレーマ(最高の愛)の本質とは、まことに表し難きものである (要旨解説) プレーマというのは完全に精神次元に属するものであり、それを物質の二元相対世界の範疇に属す者の表現手段で説明することなど所詮(しょせん)無理なのである。
May 9, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第50節 彼こそがそれを越えられよう、まことに彼こそがそれを越えられよう、そして彼は世の全てをこえさせよう (要旨解説) マーヤーというプラクリティを越えられるのは聖者との出会いを得た者である。マーヤーを越えられるのは師弟継承、グル・パランパラーに入りグルをクリシュナの代理人と見なしてつつましく仕えた者である。グルに心から服従した人がマーヤーの束縛から逃れる資格を持つ。クリシュナの内的エネルギーに保護を求め、服従した人には、もうマーヤーの魔の手は及ばない。そしてグルとクリシュナの慈悲がもらえたなら、その人がまた次のグルになる。パランパラーとはそれに入るだけでなく、後世に“あるがまま”の教えをつなぐことである。グルのことをシュロートリヤムと言う。それは、グルとはグルから聞いた人という意味である。
May 4, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第49節 ヴェーダをも放棄して、激しき不断の愛を獲得した者であろう (要旨解説) マーヤーを越えられる人は、自分はクリシュナの永遠の召使であると悟った人である。このように魂のダルマに目覚めた人は、クリシュナとのラサ(関係)を知り絶え間ない愛情交換を行う。ニシタ、ルチ、アシャクティと段階が進むにつれ、クリシュナとの特定のラサに魅力を感じるようになる。そしてバーヴァ、プレーマになり不断の愛が与えられる。シュリーラ・プラブパーダも『バガヴァッド・ギーター』第2章52節の要旨解説で、クリシュナ意識の中にある人はシャブダ・ブラフマ、つまりヴェーダとウパニシャッドの範囲を越えていると言っている。CC Madhya 8-221 「精神界にはサーダナ(ヴェーダの規則に従うこと)はない」
Apr 30, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第48節 物質的活動とその結果を放棄して、相対観を超越した者であろう (要旨解説) 果報的活動とは将来に期待する活動を指す。それは執着と呼ばれ、肯定的執着、否定的執着という相対した二元性を持つ。都合のいいことは叶って欲しい、いやなことは避けたい。成功してお金持ちになりたい、しかし病気にはなりたくないと願う。私達の意識は常に未来に向けられている。この時間概念はカーラという物質エネルギーである。過去を悔やみ、未来を杞憂する。これは意識が時間という物質と接触している証拠である。私達が生きているのは「今」である。これこそ精神次元の意識である。「今」に意識が集中せず、過去、未来という物質に意識が散乱している人が、どうして成功できるだろうか。「今」していることがおろそかなら、一歩も前へ進めないはずである。将来に期待するという心情を捨て「今」を生きる人だけが、結果への執着という呪縛から解放される。「今」に集中する活動が精神的活動、クリシュナ意識である。それはクリシュナを忘れないことである。クリシュナを忘れている時、あなたは物質的活動をしている。 ケーキを食べることが出来るのは"今"だけです。過去に食べたケーキを思い出しても、将来食べようと想像しても食べるという体験は出来ず、お腹は膨れません。体験は"今"にのみ存在します。
Apr 24, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第47節 雑踏を避けて、この世的束縛を断ち、三グナの影響から解放され、物欲とそれらを温存する思いを放棄した者であろう (要旨解説) 『シュリーマド・バーガヴァタム』第11巻26章26節に次のようにある。「それゆえ分別ある者ならば、悪友との交際を避けて、聖者とこそ付き合うべきなのだ。なぜなら聖者は、その語る教えにより、心に潜む執着を断ってくれるからだ」 私達は何が解放を与え、何が束縛をもたらすのかを知らなければならない。『バガヴァッド・ギーター』第13章26節には、権威者から聞こうとする態度が生死の鎖から私達を解放すると宣言されている。主チャイタンニャはこのカリ時代においての解放達成の特効薬は、シュリー・クリシュナ・サンキールタン・ヤギャだと教えられた。
Apr 11, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第46節 誰がこのマーヤーを越えられようか、誰がそれを越えられよう、それは悪しき者との関わりを捨てて、聖者に仕えて、自己本位な思いを放棄した者であろう (要旨解説) マーヤーとは物質自然のトリ・グナを指す。無知に覆われている状態を指す。自己本位とはアスミターと呼ばれ、無知を表す。ブラフマー(梵天)が最初に創造したものは、パンチャ・アートマカンという五つの無知であると『シュリーマド・バーガヴァタム』第3巻12章2節に記されている。それは1、タマス(根本的無知)2、モーハ(幻想:肉体と自分の同一視)3、マハーモーハ(楽しみへの執着)4、ターミスラ(怒り)5、アンダターミスラ(死を自分の存在の終わりと見なす)の五項目である。『シュリーマド・バーガヴァタム』第10巻70章37節には「ああ、全てに遍満される主よ、あなたのマーヤーの力は、ブラフマー神(梵天)のような魔術師でも、越えることは不可能なのです」というナーラダ・ムニの言葉が記載されている。
Mar 30, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第45節 彼らとの交際により、それら(悪)は始めはさざ波のようでも、やがて大海にまで拡大していこう (要旨解説) 聖者との交際は「バクティ」を伝染してもらえるが、俗人との交際では「悪しきもの」が伝染されてしまう。交際はこのように影響力が大きく、細心の注意が必要である。俗人との交際で主への信念がかき消されてしまう。『シュリーマド・バーガヴァタム』第10巻51章61節では次のように記述されている。「しかし信念を私に抱かぬ者は、いくら呼吸法などで心を制御しようとしても、楽しみへの渇望(ヴァーサナー)は尽きることなく、ああ王よ、彼の心は再び波立つようになるのである」 ヴァーサナーとは、思ったことや行ったことがチッタ(霊体:アストラル体)に印象として刻まれた情報のことを指す。そして人を知らず知らずに動かしていく心の中にあるプログラムのデータのような役割をはたすものになる。この情報を消さないと心は同じパターンの思考を繰り返す。心に積もった塵を一掃するという主チャイタンニャの言葉はこのことを言っている。
Mar 22, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第44節 なぜならそれ(悪しき交際)は、欲望と怒り、迷い、記憶と理性の欠如、全ての災いの原因となるからだ (要旨解説) ルーパ・ゴースワミー、サナータナ・ゴースワミーは、ジャガイとマダイについて言及している。私達二人はジャガイとマダイより劣る人間であると。理由は1、ジャガイとマダイはナヴァドヴィーパという聖地に生まれた。2、ジャガイとマダイはブラーフマナの家系に生まれた。3、ジャガイとマダイには雇い主がいなかった(給料制の使用人はシュードラと見なされる)である。この三つの点を自分達は満たしていないので、二人はジャガイとマダイより卑しいと語った。彼らは唯一悪い交際で堕落しただけだと述べている。
Mar 11, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第43節 悪しき者との交際は、何としてでも避けるべきである (要旨解説) 『バガヴァッド・ギーター』第12章18節でクリシュナは汚れた交際をしない人を私は愛すると言っている。また、同第15章5節でも幻想や誤った交際を捨てることが永遠の王国に入る条件だとも語っている。ルーパ・ゴースワミーも『教えの甘露』の中で、クリシュナ意識を始めた幸運が水泡と帰す六つの回避項目の一つとして「ジャナ・サンガ」俗人との付き合いを挙げている。ジョージ・ハリソンも献身者と多くの時間交際しました。
Mar 2, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第42節 それだけを、まことにそれだけを、人は求めるべきである (要旨解説) 『バガヴァッド・ギーター』第10章9節には、「純粋な献身者の想いは私に集中し、彼らは生活のすべてを私への奉仕に捧げる。常に私について語り合い、互いに啓発し合うことに無上の満足と至福を味わう」とある。このような卓越した聖者との交際、ただそれだけを求めるようにナーラダ・ムニは強調する。主は常に純粋な献身者を見ており、その方の傍に行けば一緒に見てもらえる。主の一瞥がいただければ、人生は成功する。何を捨ててでも聖者との交際を求めるべきである。シクシャ・グルを多く持ち、交際の中で仕える心情を育むべきである。
Feb 20, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第41節 なぜなら主とその献身者は同一だからだ (要旨解説) 聖者の定義は主の語った言葉をそのままに伝える人である。いつもクリシュナの望むように語る人をマハートマーと呼ぶ。自分の望むように語る人はドゥラートマーと呼び聖者とは見なされない。主はそのようなマハートマーに縛られる。その聖者の与える祝福に主は縛られ、その祝福を成就してくださる。ゆえに聖者の慈悲を得たなら、クリシュナの慈悲を得たことになる。だから主と主に愛おしい献身者は同一である。「献身者の立場は主クリシュナと同等の立場より優れている。献身者はクリシュナ自身よりもクリシュナに愛おしいからである」『CC Adi 6-100』とある。だから聖者の立場は大変高いと心得なければならない。主に内密に仕えている純粋な献身者からの祝福は主の祝福と同一である。
Feb 3, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第40節 それは主の御慈悲によってのみ可能となろう (要旨解説) 「全ての願望、全ての祝福の授与者である私を、毎日賛美して崇拝するなら、私はその者にただちに満足するのである」これは『シュリーマド・バーガヴァタム』第3巻9章40節で主がブラフマーに語った言葉である。ブラフマーは主を賛美(聞き、唱える)、崇拝(礼拝)したから第二の創造を担う慈悲が与えられた。主は、私が満足したのはブラフマーが「バクティ」の修練により、私の超越性的質を理解し、主よあなたはグナを持たぬ人であると宣言したからだと説明した。『バガヴァッド・ギーター』第4章9節で言われているように、主の顕われと活動の超越性を理解する者は主の慈悲を得て主の永遠の住処に移される。ブラフマーに倣い主を満足させたなら、主と内密な関係にある聖者との交際という最高の慈悲が与えられ、主のもとへ導かれる。
Jan 26, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第39節 聖者との出会いは、まことに稀なものであり、理解し難く、しかしそれは必ず結果をもたらしてくれよう (要旨解説) この節にはナーラダ・ムニの直接の体験が込められているので心に響く。ナーラダ・ムニは前世で聖者の世話をした母に仕え、聖者と4ヶ月(チャトルマーシュ)の間生活を共にした。聖者がクリシュナについて語り合う場に臨席し、また聖者の食べ残しをいただくことにより少年の心にはゆるぎない「バクティ」が生じた。その後、母の急死により少年はクリシュナにしか頼れない慈悲を授かった。この聖者との出会いにより、ナーラダ・ムニは「バクティ」を全宇宙に説く地位を得た。
Jan 3, 2015
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第38章 だが何にもましてそれは、聖者の慈悲や、バガヴァーンの慈悲のほんの一滴によるだろう (要旨解説) 前節を見れば、『バガヴァッド・ギーター』はヴァイラーギャよりアビヤーサという「ヴァイディ・バクティ」を勧めているのが分かる。特に「ラーガヌーガ・バクティ」という自発的な献身奉仕の段階に入り、主の内的エネルギーに服従するには聖者とクリシュナご自身の慈悲が必要になる。主は外からはマハンタ・グルとして、内からはチャイテャ・グルとして生命体を主へと導き、救うと『シュリーマド・バーガヴァタム』第11巻29章6節にある。「バクティ」は聖者と交わることで伝染される。聖者との交わりの中で主について聞き、語り合えば、主はご褒美としてご自身を与えられる。それが『バガヴァッド・ギーター』第10章10節の意味であると、シュリーラ・プラブパーダは『CC Adi1-49』で述べている。「バクティ・ラサ」は液体である。それを受け取る容器は心である。一滴でもそれが心に注がれたなら、あなたの心は踊り、主チャイタンニャのサンキールタン運動の波の中に入る。
Dec 29, 2014
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第37節 この世にあっても、バガヴァーンの本質について聞き、それを唱えることだと (要旨解説) この節はもう一つの修練(アビヤーサ)を推奨している。それはシュラバナン、キルタナンというバーガヴァッタ・ヴィッディである。この「礼拝」と「聞き、唱える」の二つの修練が真の離欲(放棄)を生むのである。「バクティ」を得るには直接的にこの二つの修練を実行し、同時に発達の障害を避け、物質的執着から無関心になる(放棄)ように教えている。クリシュナ意識で活動することで自然に放棄を達成する、ユクタ・ヴァイラーギャの教えである。「仕事の放棄も献身奉仕の活動も、共に人を解脱へと導く。だがこの二つのうちでは、献身奉仕のほうが勝っている」『バガヴァッド・ギーター』第5章2節
Dec 19, 2014
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第36章 それは不断の礼拝を行うことだと (要旨解説) 「絶えず動き騒ぐ心を抑制するのは君の言う通りたしかに難しいことだが、不断の修練(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって可能である」『バガヴァッド・ギーター』第6章35節 前節では離欲(放棄)のことに触れられているが、この節では修練のことが示されている。アビヤーサというサンスクリット語は、同じことを繰り返すという意味である。ここでは毎日の神像崇拝の励行を奨励している。パンチャラトリカ・ヴィッディの推奨である。
Dec 7, 2014
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第35節 それは楽しみの対象と、それへの愛着を放棄することだと (要旨解説) 「絶えず動き騒ぐ心を抑制するのは君の言う通りたしかに難しいことだが、不断の修練(アビヤーサ)と離欲(ヴァイラーギャ)によって可能である」『バガヴァッド・ギーター』第6章35節 「すべての悪い活動を献身奉仕で避けよ」『バガヴァッド・ギーター』第2章49節 「利得を欲せず利己心と惰気を捨てて、さあ、立ち上がって戦え」『バガヴァッド・ギーター』第3章30節 「すべてのダルマを放棄し、ただ私に服従せよ」『バガヴァッド・ギーター』第18章66節 ここにあるクリシュナの放棄という教えは、アーチャリヤー達の考えと一致していることが分かる。
Nov 30, 2014
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第34節 その為の手段を、アーチャーリヤー(教師)達は次のように歌われる (要旨解説) 「バクティ」の達成は、グル、シャーストラ、サドゥに従うことにより成功する。アーチャーリヤーに従い仕えることで、「バクティ」の真髄がその弟子へ降ろされる。それをシャブダ・プラマーナと言う。このように師弟継承のパランパラーに謙虚に入った者だけに、主はご自分を理解させる知性を差し出される。この主の慈悲をいただく前に、グルの慈悲を得なければならない。心の詮索、思索で自力で絶対真理に辿り着こうとするアヌ・マーナという手段は愚か者がする選択なのである。
Nov 7, 2014
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第33節 それゆえ解放を望む者は、ただそれ(主への最高の愛)だけを受け入れるべきなのだ (要旨解説) この解放とは物質の活動を停止した後、精神界の惑星で主と直に愛の交換を行うことを指す。主へ向けられた愛だけが最高の愛であり、プレーマと呼ばれる。プレーマの達成こそが真の解放と呼ばれる。クリシュナを愛したら全ての問題が解決される。それがクリシュナ意識である。
Oct 27, 2014
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『ナーラダ・バクティ・スートラ』 第32節 それを見ただけでは、王は喜ぶことも、癒されることもない (要旨解説) 純粋な「バクティ」で得られる解放でなければ、そこには主との愛情交換という歓喜はない。「バクティ」とギャーナとが混ざった状態でなされた解放はブラフマジョーティーへの没入である。そこにはプレーマはなく、ただの苦しみからの解放があるだけに過ぎない。自分がブラフマンであると悟っただけで、ブラフマンとしての行動がない。真の喜びは主クリシュナに仕え愛情奉仕をすることで得られる。せっかく物質存在から解放されたにもかかわらず「バクティ」のない者たちは精神界の多様性と歓喜を味わえない。まさに王が豪華な食卓を目の当たりにしているにも関わらず食事が出来ない状態であると言える。そんな解放は地獄と同じである。「主に献身奉仕をすることもなく、ただ仕事を放棄する人は不幸である」と『バガヴァッド・ギーター』第5章6節で言われている。
Oct 18, 2014
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