. 47歳今まで中途半端に生きてきたけど,この歳になって「今から医者になる」と決意しました
2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
2017
2016
2015
2014
2013
2012
2011
2010
2009
2008
2007
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
全1件 (1件中 1-1件目)
1
このブログを始めてから、これで何度目になるでしょうか?毎年、「6月6日は臥薪嘗胆の日」としてこうして綴っております。 ~「臥薪嘗胆」のお話は文末参照~引っ越しの荷物もまだ整理がつかないまま今の家に来てから5カ月が経過しました。仕事は、相変わらずです。秀吉、三成、幸村、家康・・・を登場させて社内の戦国模様をデフォルメ描写してきましたが、常に ・一難去る前に次の一難 ・明日は明日の「嵐」が吹くという状況は一向に変わらず、夜討ち朝駆けの毎日です。歴史上は、大阪の陣で豊臣方は敗北し、淀君も自害したのですが、我が社の図式は大きく異なり、秀吉(先代親分)亡き後、家康軍(元取締役で、先代のいとこ)に対抗して淀君(先代の嫁)を立てて私は、三成の配役で全面戦争に突入。本家の三成とは違い、謀略大好きな私は、既に水面下で有らぬ限りの策謀を巡らして、敵方を骨抜きにしてからの決戦です。悩みの種である小早川(敵方に内通していた係長)は、決戦前から私の配下の、幸村(子飼いの課長)左近(現実働部隊の課長)に囲い込ませていたので、勝負は明らか。歴史とは正反対の結果になりました。これで、天下泰平・・・と思いきやそうは問屋が卸さない。のが世の常。終わってみれば、淀君が嫌う輩が全ていなくなったわけです。 (先代親分より15歳も年下で、 世間の風に当たったことが無く、 いきなり「代表取締役」になり、 敵軍も壊滅、という環境です。)まさに、「わが世の春」「わらわの天下でおじゃる」加えて、宦官の如き動きを始めたのがついこの前までは、敵将家康の「金魚のウ○チ」だった先述の小早川・・・5カ所ある事務所のうち私が一番寄りつかない所に本拠を構えた淀君の事務所にはその小早川がいます。(小早川の上にいた部長・課長を更迭したまま空位にしてあるので、 結果的に小早川がその部署の「仮の長」になっています。)気が付けば、淀君は(おべんちゃらとヨイショでのし上がってきた)小早川の言動に影響されていってます。先日も、小早川ともう一人の主任の不始末に対して始末書を取ったところ、淀君が「私はそんなこと指示してない!」と御怒り。。。先代の死により、仮にも、今や「代表取締役」になったんだからエエ加減に立場を理解してもらわんとアカンのだが・・・(-_-;)戦国乱世になぞらえる環境から宦官が暗躍する中国の王朝の様相を呈してきました。ま、それだけ私の出番や存在価値も有る・・・ってことで、本日も平常に出勤しております。(月~土は、ほぼ夜討ち朝駆け)さて本題。「臥薪嘗胆」は、履き違えると単に「我慢が大事」みたいになってしまいます。本質は、その先にある「本懐を遂げる」ことであり、ここを間違えると、何やってんだかわからなくなっちゃいます。借金も、ようやく「人並み」ぐらいの残額になり、引っ越しもして、生活空間も快適になり、「生活の糧」と割り切れば、仕事もそれなりに充実。なんだけど、これで一息ついちゃったら、そもそもこのブログを何の為に立ち上げたんだか???何事も飽き性な私が、途切れながらもこれを続けてきたおかげで、ややもすると「決意した」ことすら忘れてしまいそうな我が心の叫びを風化させずに残せています。センター試験まで、あと「224日」です。------------------- 参考 ---------------------------臥薪嘗胆のお話改めて読んでみると、ここにも「宦官」のような輩が・・・昔、「呉」という国が「越」という国に攻め入ったのですが、呉の国の王であった闔廬(こうりょ)は戦いで傷つき死んでしまいました。そこで闔廬の子であった夫差(ふさ)が王になり、闔廬のときから呉に仕えていた子胥(ししょ)もまた、夫差に仕えるようになりました。夫差は父 闔廬の敵を討とうと決意し、朝晩、寝床に薪をしいてその上に寝て、部屋に入ってくる人を呼びとめては、 「夫差よ、お前は越が自分の父親を殺したことを忘れたのか」と言わせて(恨みを忘れないようにして)いました。 周の敬王の二十六年、ついに夫差は越を夫椒(という場所)でやぶりました。越の王であった勾践(こうせん)は、残った兵を連れて会稽山に退き、自分は呉の家臣となり、自分の妻は夫差の愛人として捧げるので許してほしいと懇願してきたのですが、子胥は 「それはできない。」と言って突っぱねました。 困った勾践は、夫差の家臣であった伯嚭(はくひ)にアプローチをします。伯嚭は子胥とあまりいい仲ではありませんでした。賄賂を受けた伯嚭は、夫差を説得して越を許させてしまったのです。(解放された)勾践は国に戻って、寝床に胆(なめるとすごく苦い)をぶら下げて、仰いでこの胆をなめては 「お前は、会稽で受けた屈辱を忘れたのか。」と口にし続け(恨みを忘れないようにし)ました。国の政治は家来の文種にまかせて、自分は范蠡(はんれい)と一緒に軍隊を整備し、呉を倒すことだけを考えたのです。 (ここで話は呉に戻ります。子胥と仲の悪い)伯嚭は、「子胥が自分の策を用いられなくなって面白くなく、呉に恨みを持っています。」と(ウソ)を夫差に告げます。これを聞いた夫差は、子胥に属鏤の剣を贈りました。(この剣で自殺をしろという意味です。) 剣を受け取った子胥は、家族にこう言いました。 「必ず私の墓にひさぎを植えなさい。ひさぎは(夫差の)棺桶の材料になるだろう。そして私の目をえぐって、東門にかけておきなさい。越の兵が呉を滅ぼすのを見るために。」(そういって子胥は)剣で自分の首を切りました。これを聞いた夫差は、子胥の遺体を馬で作った袋にいれて、これを川に流してしまいました。呉の人々はこれを憐れんで、祠を川のほとりにたてて、この祠を胥山と名付けました。 さて、越は10年間(呉を倒すために)国力を強め、軍隊を強くしました。そして周の元王の四年に越は呉を攻めました。呉は戦うたびに敗走しました。夫差は、姑蘇という土地に逃げ、また和平交渉を越に願いでました。しかし范蠡はこれを受け入れませんでした。 夫差は、「子胥に合わせる顔がない」と言って死者の顔を覆う布を作って、これをかぶって自殺したということです。
2015年06月06日