秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

PR

Calendar

Favorite Blog

コレ、いいかも☆ natsu。さん
ハワイアン生活  … hayatoman20さん
NO COLOR NO LIFE! N… color&designさん
芦田晋作の三文レビ… 芦田晋作の三文レビューさん

Freepage List

2019.10.11
XML
カテゴリ: 災害
以前ご紹介したフィクションドキュメンタリー「荒川氾濫」をあらためて見ました。

荒川上流の秩父で3日間で雨量500mmを超えると、荒川氾濫の危険性が高まるとのことでした。特に荒川にかかる京成本線の鉄橋部分あたりが決壊すると、自分の住む墨田区も浸水の可能性があるようです。10/9ウェザーマップ試算の埼玉秩父の10/12のみの予想雨量は629ミリなのでこれだけでダメじゃん、ですので、今日は天気予報に注意しようと思います。

墨田区の試算ではうちの地域は最大3m浸水だそうですしょんぼり

自分の生まれてこの方、洪水とは縁がありませんでしたが、身近な出来事になったことで、地球温暖化について考えさせられますしょんぼり

■参考リンク
フィクションドキュメンタリー「荒川氾濫」 H29 3 改訂版削除に伴い差替え。




台風第19号について - 気象庁




危険極まりない台風19号、首都圏直撃コースに最大級の厳戒を杉江勇次 | 気象解説者/気象予報士/ウェザーマップ所属10/9(水) 18:02
抜粋


ぶらり散策平井:駅周辺、荒川、都立小松川高校、ひこうき雲(1973:荒井(松任谷)由美)、一青窈 ・清水ミチコ、お店屋さん、スト権ストとPLAYBOY日本版

Wiipedia:岩淵水門
岩淵水門(いわぶちすいもん)は、東京都北区志茂において現在の荒川と隅田川とを仕切る水門。かつて「荒川放水路」と呼ばれた人工河川を現在は荒川と呼び、かつての荒川を「隅田川」と呼ぶ。この水門はこれらの分岐点にある。
概要
新旧2つの水門がある。旧水門の通称は赤水門、新水門の通称は青水門。赤水門は1924年(大正13年)に竣工し、すでに運用を終了した。青水門は1982年(昭和57年)竣工し、運用中である。

荒川上流からの流量が増えた場合岩淵水門を閉め切って、隅田川の洪水を防ぐために設けられている[1]。平常時は水門を開け、荒川と新河岸川・隅田川とをつないでいる。荒川の順流最強時を除くと、新河岸川・隅田川から荒川方向へ流れている[2]。大まかに言えば、引き潮時には荒川から隅田川に、上げ潮時には隅田川から荒川に流れる[3]。

旧水門
旧水門はその色から通称「赤水門」と呼ばれる。1916年(大正5年)に着工し、1924年(大正13年)10月に完成した当初の水門。RC造(一部S造)で、9m幅のゲート5門で構成されている。1960年(昭和35年)3月に通船のために5番ゲートが改造された。完成以来、最大2m以上にもおよぶ地盤沈下や、左右岸の不等沈下が発生するなどの問題に悩まされ、新水門完成に伴ってその役割を終え、取り壊されることになったが、地元の人などから惜しまれ保存されることになった。のちに、土木建築物としての価値が高いと再評価され、1995年(平成7年)には産業考古学会によって推薦産業遺産に[4]、1999年(平成11年)には東京都選定歴史的建造物[5]に選定された。
水門上は歩行者自転車専用橋として開放され、川に囲まれた中之島(水門公園)に渡ることができる。
新水門
新水門はその色から通称「青水門」と呼ばれる。旧水門の老朽化、地盤沈下対策、また洪水調整能力の強化を考えて、300mほど下流に作られた。1974年(昭和49年)に着工し、1982年(昭和57年)に完成した。事業費は約70億円[6]。200年に1回の大洪水にも耐え得るように作られている[6]。RC造で、10m幅のゲート3門で構成されている。重さは1枚あたり214tで1500tの水圧に耐える[7]。増水時には、水門を閉じ、荒川上流と隅田川の水流と途絶させる。通常の閉鎖にかかる時間は約45分だが、クランクハンドルによる手動の閉鎖では30日かかる計算になる[7]。これでは大地震等で電源を喪失した場合に閉鎖できなくなってしまうため、自家発電装置や電源が無くても門扉を自重で降下させる装置の設置が行われている[8]。

【隅田川】荒川 岩淵水門がついに閉まる 閉まる様子の動画や周辺の画像まとめ

荒川、台風19号通過前後の「激流」に感じた恐怖最悪の事態こそ免れたが今後も油断は大敵だ

抜粋
現在の隅田川はかつての荒川下流部にあたり、その沿川では、江戸時代に頻繁に洪水が発生し、明治時代になっても洪水が頻発した。明治元(1868)~明治43(1910)年の間に、床上浸水などの被害をもたらした洪水は10回以上。中でも明治43年の洪水は甚大な被害をもたらした。

東京では、それまで農地だった土地の利用が工場や住宅地に変化したことによって、洪水の被害が深刻化。荒川の洪水対応能力を向上させるために、全長22kmに及ぶ人工の川である「荒川放水路」の基本計画が策定された。これが今の東京を通る荒川下流部に当たる。
東京の下町を水害から守る抜本策として、荒川放水路事業は明治44(1911)年に着手され、掘削した土砂の総量が東京ドーム18 杯分、約1300世帯が移転を余儀なくされたほどの大規模工事によって、昭和5(1930)年に荒川放水路は完成した。20年近い歳月をかけた巨大プロジェクトだったわけだ。途中には大正12(1923)年に関東大震災が発生。当時を思うと、これをやり遂げるには関係者の大変な努力があっただろう。
荒川放水路が完成して以来80 有余年の間、荒川放水路の堤防が決壊したことはない。今回の台風19号による猛烈な雨も、いざというときの河川敷部分も使って大量の水を下流に流し、災厄を防いでくれた。12日夜には荒川から隅田川に水が流れないように、東京都北区にある岩渕水門が閉じられた。ツイッターでは「岩渕水門が閉じたが、荒川下流は大丈夫なのか?」とのつぶやきも多数見られたが、隅田川にそのまま水を流し続けていたら別の被害を招いていたかもしれない。
荒川流域だけでなく隅田川流域が守られたのも、先人たちの将来を見据えた取り組みがあってこそ、と言えるだろう。とはいえ、この先も荒川の堤防が壊れないという保証は何もない。基本設計は100年以上前につくられたものだ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2021.04.21 23:52:40


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: