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毎年夏になると伊藤咲子さんのひまわり娘を思い出します。中高生の頃はそれほどでもありませんでしたが、今聴くと歌も上手でいい歌だったなと思います。乙女のワルツが意外といい歌だったなと気づきました。2024.9.14内容の追加。2024.8.9内容の追加。■参考リンクWikipedia:伊藤咲子伊藤 咲子(いとう さきこ、1958年4月2日[2] - )は、日本の女性歌手。東京都目黒区出身[2]。本名:千葉咲子[2](旧姓:伊藤)。愛称はサッコ[3]。堀越高等学校卒業。所属事務所はミュージック・オフィス合田。人物・経歴祖父母が山形県出身であり、両親は山形疎開時に結婚し、山形県に住んでいたが、東京へ転居した後に伊藤が出生した。そのため伊藤は生まれも育ちも東京だが、山形に深い思い入れがあり、山形は自分の故郷と語っている。生まれた日は病院の周りの桜が満開で、母親は「桜子」と名付けたかったが親戚一同から“芸能人みたいでおかしい”と反対されて「咲子」と名付けられた。山形の父親の生家は代々の造り酒屋であったが、父親は上京してクラシック音楽の写譜の仕事をしていた[4]。母方の大叔母に声楽家の砂原美智子がいる。1973年(昭和48年)、15歳で日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』に出場して優勝[2]、これを機に芸能界へ。デビューにあたり『スター誕生!』で芸名を公募した際、男性器をもじった案の応募があったことが、下ネタ嫌いと言われる司会の萩本欽一によって紹介された。またその前には『スター誕生!』出身で「花の中三トリオ」の森昌子・山口百恵・桜田淳子からそれぞれ1字ずつ採った「森山 桜」という案も紹介された。しかし最終的には本名でデビューすることになったと萩本が発表した[1]。1974年(昭和49年)4月20日、東芝EMIからデビュー・シングル『ひまわり娘』を発売[5]、アイドル歌手としてデビュー。しかしその年のレコード大賞、日本歌謡大賞の新人賞は受賞ならず。当時の所属事務所はオフィス・トゥー・ワン。同年末に発売のシングル『木枯しの二人』が、翌1975年のオリコン年間ヒットチャートで36位にランクイン、自身最大のヒット曲となる。1975年(昭和50年)、『乙女のワルツ』が日本テレビ音楽祭金の鳩賞、日本歌謡大賞放送音楽賞などを受賞[2]。1976年(昭和51年)3月5日、『きみ可愛いね』を発売[5]、ヒット曲となる[2]。
2024.07.28
デュエットの代表曲の「もしかしてPart II」ですが、昔からPart IIがつくのが不思議でした。調べたら1984年の美樹克彦さん作詞作曲の「もしかして」のアンサーソングとして、作詞を榊みちこさんに変えて生れた曲だそうです。オリジナルの「もしかして」は小林幸子さんが、おひとりで歌っていて、男性と付き合う前の女性の不安な気持ちが良く出ています。「もしかしてPart II」のほうが、すねたりだだをこねたり小林さんの歌声に艶があるような気がして好きです。美樹さんは「かおるちゃん、遅くなってごめんね、ばかやろー!」も歌っています。榊さんはブラックでビルの歌も作詞されています。■参考リンクWikipedia:もしかして PARTII「もしかして PARTII」(もしかして・パートツー)は、1984年7月10日に発売された小林幸子と美樹克彦のデュエット・シングル。解説前作「もしかして」のアンサー・ソングであり、作曲を担当した美樹克彦とのデュエット曲になっている。メロディは前作「もしかして」と同様であるが榊みちこによる新たな詞が付けられた。Wikipedia:美樹克彦美樹 克彦(みき かつひこ、1948年(昭和23年)10月22日 - )は、日本のシンガーソングライター・音楽プロデューサーである。本名および旧芸名は目方 誠(めかた まこと)。 日本大学鶴ヶ丘高等学校卒業、日本大学藝術学部映画学科中退。1965年、日本大学鶴ヶ丘高等学校2年のとき、芸名を現在の美樹克彦に改名し、日本クラウンから「俺の涙は俺がふく」で歌手として再デビュー。その後、「回転禁止の青春さ」、「6番のロック」、「恋の台風第一号」、「赤いヘルメット」、「花はおそかった」など、多くのヒット曲を連発し、一躍アイドル歌手となった。Wikipedia:榊みちこ榊 みちこ(さかき みちこ)は、元アイドル歌手、元女優、作詞家。旧芸名:田中美智子。本名:飯島美智子。青森県青森市出身。 千葉県八街市在住。作詞家としての代表曲は「もしかして PARTII」、フジテレビ系オレたちひょうきん族で人気となった「好きさブラックデビル」等。「もしかして PARTII」は、小林幸子・美樹克彦のデュエットで1984年第26回日本レコード大賞にて金賞を受賞。お酒にまつわる名曲、人気曲。いろいろなシチュエーションに寄りそう酒うたうたたねライターうたたねRyo元洋楽専門ボーカル講師Ryo2021.02.26おすすめのアンサーソングをご紹介!
2024.07.17
もうすぐ五月も終わりです。今日たまたま若いころ聴いた「おがわでにひきのアメンボがあしでごがつをはじいてる」という歌詞を思いだしました。調べるとNHKのみんなのうたの曲のようですが、NHKにも音源は残っていないようです。いつ聴いたのか思い出せませんが、印象に残る好きな曲でした。当時の録画が見つかるといいなと思います。■参考リンク3:05過ぎ当たりから五月の歌NHKみんなのうた:五月のうたうたペギー葉山作詞若谷和子作曲中田喜直編曲中田喜直映像アニメ:木馬座初回放送月1964年04月〜05月Hoick楽曲検索五月の歌作詞: 若谷和子 作曲:中田喜直
2024.05.28
先日中島みゆきさんのホームにてのミュージックフェア音源を見つけて聴いていた時にYouTubeに表示された曲です。最初は加藤さんの隣に誰かギターを弾く人がいるなと思っていたら若いころの中島さんご本人でびっくり。「時代」をはじめて聴いたとき、いい歌だなと思いましたが、まさかこんなに大スターになるとは思いませんでした。研ナオコさんの歌も安房合わせて御紹介します。2024.8.21リンク切れにより差し替え。この空を飛べたら(1978):加藤登紀子&中島みゆき■参考リンクWikipedia:この空を飛べたら「この空を飛べたら」(このそらをとべたら)は、1978年3月10日に加藤登紀子がリリースしたシングル。解説フジテレビ系ゴールデンドラマシリーズ『球形の荒野』の主題歌[1]。累計売上は35万枚[2]。作詞・作曲ともに中島みゆき。加藤がテレビで「世界歌謡祭」のグランプリを受賞した中島を見て、同コンテストを主催したヤマハ音楽振興会に電話を入れて中島に会わせてもらい、曲を依頼したという[2]。同年1月に放送開始されたTBSテレビ系列『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」コーナーへ、加藤は同年5月11日に初出演を果たし当曲を歌唱した。同年12月31日、作詞者の中島が当曲で『第20回日本レコード大賞』において「西條八十賞」(のちの作詞賞)を受賞する。1979年11月21日リリースの、中島のアルバム『おかえりなさい』で、中島によるセルフカバーが、6曲目に収録されている。なお、加藤版と中島版の差として、2番目の歌詞に若干の差異がある。
2024.05.27
最近YouTubeで見つけた中島みゆきさんのホームにて(ミュージックフェア音源)です。CDで聴きなれた淡々とした歌い方でなく、情感がこもっていて、昭和52年の高校3年生時代に一気に戻れる感じです。2024.8.21リンク切れにより差替え。ホームにて(1977:中島みゆき)あわせて最近雨が気に入って良く聴くMOEKAさんのカバー曲を御紹介します。
2024.05.23
先日居酒屋さんで懐かしい曲が2曲かかっていました。1つは松田聖子さんので、スマホで検索して、Eighteenと判明。平和でのどかな大学時代にもどれました。風立ちぬとともに聴きやすくて親しみやすい名曲だと思います。もう一つがなかなか思い出せません。店員さんに聞いたら広田玲央名さんのだいじょうぶマイ・フレンドだそうです。当時中性的な声がちょっと気になっていました。今回検索してはじめてお顔を拝見しました。いつまでも心の片隅に残る歌です。加藤和彦さんの歌もあります。
2024.04.24
急に服部克久さんの2012年の日本レコード大賞でのスピーチを思い出し、あんな過激なことを話されたらそのあと消されてしまったんではと調べたら、2020年に普通に病気で亡くなられたことを知り、一安心。経歴を調べると芸能界のサラブレッドの家系に生まれ、いくつも名曲を残された方と知りました。小物が手出しできる相手ではなかったようです。自由の大地ほかいくつかご紹介します。卒業のテロップに流れていた服部さんの言葉が印象的でした。■参考リンクZAKZAK:服部克久さん、83歳で死去 “音楽愛”が凝縮された2012年「日本レコード大賞」の総評2020.6/15 00:00服部良一さんの偉業を引き継ぎ、日本の大衆音楽に大きな足跡を残した服部克久さんが83歳で、先週亡くなりました。人気番組のテーマ音楽やヒット曲の作・編曲に異才を発揮。その“音楽愛”が凝縮されたスピーチとして知られるのが2012年の日本レコード大賞の制定委員長として大賞のプレゼンターを務めたときの総評です。「歌謡曲からヒップホップまで、幅広い音楽を聴いていただいたと思います。これが今の日本の歌謡界の現状で、今日3時間聴いていただいて、すっかりその現状が把握できたと思います。お楽しみいただけましたでしょうか」以下略。Wikipedia:服部克久服部 克久(はっとり かつひさ、1936年〈昭和11年〉11月1日 - 2020年〈令和2年〉6月11日[1])は、日本の作曲家、編曲家。東京府(現:東京都)出身[2]。人物・来歴1936年、作曲家・服部良一の長男として生まれる。幼少より音楽の英才教育を受け、国立学園小学校、成蹊中学校・高等学校を経てパリ国立高等音楽院へ留学。和声、フーガ、対位法を学んだ後、1958年卒業。帰国後すぐに戦後の復興後のテレビ放送の草創期より活動を始める。日本テレビ『サンデーダーク』、『ハニータイム』、フジテレビ『ミュージックフェア』などを皮切りに、テレビ、ラジオ番組、ドラマ、アニメ、映画の音楽を数多く担当。1971年には、「花のメルヘン」で第13回日本レコード大賞編曲賞を受賞。1983年より「音楽の自然食」をテーマとしたインストゥルメンタル集「音楽畑」シリーズをスタート。「ル・ローヌ」、「自由の大地」、「Friends, Love, Believing」などの代表曲とともに、全20作をリリース。オーケストラサウンドを徹底的に追求したこのシリーズは、一つのジャンルとして確立され、日本レコード大賞企画賞を2回(第32回:1990年、第40回:1998年)受賞した。毎年正月に、海外(特にアメリカ)のポップス・オーケストラの来日公演を聴き刺激を受け、「日本一のポップスオーケストラで、日本一のサウンドで、最高の演奏で聞いてもらおう」と[3]東京ポップスオーケストラを組織し活動を始めた。このオーケストラは現在も活動を続けている。日本音楽作家団体協議会(FCA)、日本作曲家協会(JACOMPA)を歴任。生前は日本作編曲家協会(JCAA)の会長、東京音楽大学客員教授、NPO法人LIVE FOR LIFE理事長などを務めていた。2009年、音楽家生活50周年を記念してアルバム『服部克久』、『服部克久の世界』を2枚同時リリース。記念コンサートも開催した。2020年6月11日午前8時42分、末期腎不全のため[4]東京都内の病院で死去[2][5]。83歳没[1]。Musicman:第22回 服部 克久 氏作曲家皆様あけましておめでとうございます。おかげさまで「Musicman’sリレー」も早22回目、3年目を迎えることとなりました。今後も音楽業界内外で御活躍の方々の声をダイレクトにお伝えしてまいります。「Musicman-NET」は今年、さらなるパワーアップをめざして奮闘中!応援よろしくお願いします。 さて、日本歌謡界の大御所、宮川泰氏のご紹介で登場したのは、日本音楽界が産んだサラブレッド、服部克久氏です。あくまで紳士的な態度とおっとりとした語り口、テレビで拝見するイメージそのままの服部先生ですが…お若いころの意外な 営業活動やフランス留学の想い出、さらに音楽業界がかかえる著作権問題まで、幅広いお話しを伺うことができました。以下略。服部克久(8)学校帰り日劇の楽屋が遊び場 エノケンさんからお菓子日本経済新聞:私の履歴書
2024.03.26
久しぶりに奥居香さんと森高千里さんの雨を見つけて、うれしくなって雨のカバー曲を探していて見つけた曲です。方言で歌謡曲を歌うとダイレクトに歌い手さんが表現できるせいか温かみが増すように思います。羽山さんのカバー曲では花、木蘭の涙が素朴で特によかったです。恋春花のヒット目指してがんばっていただきたいです。中孝介さんの花は初めて聴きましたが素晴らしかったです。大収穫でした。■参考リンクWikipedia:羽山みずき羽山 みずき(はやま みずき、1991年12月7日 - )は山形県鶴岡市出身の日本の演歌歌手。本名は田澤瑞姫(たざわ みずき)。所属事務所はサンミュージックプロダクション、所属レーベルは日本クラウン[1]。経歴1991年12月7日生まれ[2]。祖父母の影響で、4歳のときに敬老会で演歌を歌い喜んでもらったのが原点だという[3]。小学6年から地元の歌謡サークルに、高校1年からは山形県歌謡振興会に入り、月2回のレッスンを受けながら県内の歌謡大会に出場し、県歌謡選手権で優勝するなど実績を積んでいった[4][5]。鶴岡北高校卒業後、倭楽(やまとがく)の奉納などで歌う機会がある巫女を仕事として選択し[4]、2015年末まで山形県鶴岡市に所在する出羽三山神社に6年間勤務した[6]。2015年3月に日本クラウン主催の新人オーディションで森山愛子の「東京挽歌」を歌い応募者1328人の中からグランプリを獲得(準グランプリは中澤卓也)[7][8]。作曲家・聖川湧の門下生として修行を積み、2016年4月6日に日本クラウンより「紅花慕情」でデビューした。サンミュージックが上杉香緒里以来、21年ぶりに手掛ける新人演歌歌手として話題となった[8]。同年、第58回日本レコード大賞新人賞を受賞[5]。以下略。Wikipedia:中孝介中 孝介(あたり こうすけ、1980年7月13日 - )は、鹿児島県を拠点に活躍する日本の男性歌手・YouTuber。鹿児島県名瀬市(現・奄美市名瀬)出身[注釈 1]・在住。琉球大学法文学部人間科学科地理人類学専攻社会人類学コース卒業。マネジメントはオフィスウォーカー。所属レコード会社はよしもとミュージック。経歴1997年、島唄を独学で始める。翌1998年5月に開催された第19回奄美民謡大賞に初出場し、努力賞を受賞。2000年には同大賞で新人賞、日本民謡協会奄美連合大会で総合優勝。以下略。
2024.03.18
男はつらいよ第46作を観ていたら、唐突に徳永英明さんの最後の言い訳が流れてきておどろきましたが、いい曲だと思いました。カバー曲も魂が宿っているようで好きです。男はつらいよと、徳永英明さんの関係を調べたらあっさり解決。いろいろ聴いてみたいです。■参考リンクYahoo!知恵袋:por********さん2007/1/29 21:01男はつらいよシリーズになぜ徳永英明?「男をつらいよ」の後期の方の作品を観ていて思ったのですが、よく徳永英明の曲が流れます。しかしなぜ徳永英明の曲がかかるのでしょうか?詳しい解説サイトも含めておしえていただけるとうれしいです。ベストアンサーyuk********さん2007/2/4 23:04男はつらいよのプロデューサーの方が徳永英明の事を気に入っていて、よく曲を使っていたようです。解説サイトなどはないのですが、10年ほど前はファンの間では有名な話でした。更新日:2023.08.05満男シリーズの挿入歌「徳永BGM」全6曲を検証する~男はつらいよ全50作さんぽ:さんたつさんWikipedia:徳永英明德永 英明(とくなが ひであき、1961年〈昭和36年〉2月27日 - )は、日本のシンガーソングライター、俳優。概要福岡県柳川市生まれ、兵庫県伊丹市育ち。身長175cm。所属レコード会社はユニバーサルミュージック。公式ファンクラブは「TONY'S CLUB」である。経歴生い立ち福岡市立別府小学校、伊丹市立南中学校、伊丹市立伊丹高等学校を卒業後、大阪の観光専門学校(のちに中退)へ。中学2年の時にラジオから流れてくる音楽に励まされ勇気をもらっていた。中学3年生の時に、井上陽水の「氷の世界」を聴いて衝撃を受け、音楽で自分を表現したいと思うようになる。デビューまで専門学校を中退後、19歳の時に上京、アルバイトをしながらミュージシャンを目指す。レコード会社近くの飲食店などで働き、顔馴染みになった音楽業界の関係者に自作の曲の入ったカセットテープを渡したりするなど、音楽で身を立てられるよう積極的にアプローチをしていた。またこの頃から新宿ルイードで定期的にライブを行う。父親から「25歳までにデビュー出来なかったら、自分と同じ保険の営業マンになれ」と忠告された[2]。オーディション番組『スター誕生!』第44回決戦大会に出場。山下達郎の「RIDE ON TIME」を熱唱するが、惜しくもスカウトされず。同じ日に松本明子(渡辺プロダクションからスカウト)、本田美奈子も出場していた。デビューのきっかけを求め22歳で俳優養成校TBS緑山塾入塾。1985年8月、第2回マリンブルー音楽祭においてグランプリ受賞。1985年、上記マリンブルー音楽祭を主催する上野義美が1982年に立ち上げたミニFM局「KIDS RADIO STATION」(通称:KIDS)[注釈 1]制作・総指揮をとるロックミュージカル「はらじゅくグラフィティ」の概要を発表[注釈 2]。徳永もオーディションに参加する。オーディション参加者にミュージカルスターやダンサーを目指す者も多く激戦であった。最終オーディションではSAM(のちにTRFに所属)と徳永が競い、役柄のイメージとルックス、歌唱力が抜きん出ていた[注釈 3]徳永が主演・トニー役を射止める。のちに設立されるファンクラブ名「TONY'S CLUB」は、この公演の役名から拝借した。同年10月、東郷神社特設ステージにて10日間の公演が行われた。共演は七瀬なつみ(本名・滝沢美千代名義)など。以下略。
2024.03.14
よくカラオケで歌った沢田研二さんの時の過行くままにのカバー曲をお届けします。玉置浩二さんは聴かせるのは当然として、この曲は前川清さん、五木ひろしさんといった演歌とも親和性がありるように思います。高橋真梨子さんのアレンジも会うと思います。池田夢見さんの歌は、本当にこの曲が好きなんだなと感じて、思わず最後まで引き込まれます。合わせて高2の秋に好きだったコバルトの季節の中でもご紹介します。この曲が入ったドラマ悪魔のようなあいつは、ずっと観たいと思っていましたが、DVDもあるようなのでレンタルで観たいと思います。■参考リンクWikipedia:時の過ぎゆくままに「時の過ぎゆくままに」(ときのすぎゆくままに)は、日本の歌手である沢田研二の14枚目のシングルである。1975年8月21日にポリドール・レコードより発売された。自身が主演を務めたテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(TBS系)の挿入歌として使用され、大ヒットを記録した。概要第6回日本歌謡大賞放送音楽賞、第4回FNS歌謡祭・下期優秀歌唱賞、第1回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭・年間話題賞などを受賞した。同年12月31日の『第26回NHK紅白歌合戦』でも歌唱した[2]。当時、TBSテレビの演出家であった久世光彦が阿久悠に沢田主演のテレビドラマの企画の相談を持ちかけ、劇中歌の作詞を依頼した[3] 。阿久の詞に対し 大野克夫 、井上堯之 、井上大輔 、加瀬邦彦 、荒木一郎 、都倉俊一 の6人に曲を競わせた結果、久世の判断で大野の曲が選ばれた[3]。阿久は渡辺プロダクション(沢田の当時の所属事務所)から歌詞にある「堕ちてゆくのも…」という言葉を変えるように要請されたが固辞したという[3] 。ザ・タイガース時代から一貫して沢田と活動を共にしてきた岸部修三の、プロベーシストとしては最後の参加曲となった。岸部は『悪魔のようなあいつ』(TBS系)に出演し、俳優に転向、1976年には現在の芸名である岸部一徳に改名した。チャート成績オリコン週間チャートでは5週連続1位を獲得、累計91.6万枚で沢田のシングルの中では最大の売上げとなった。Wikipedia:悪魔のようなあいつ『悪魔のようなあいつ』(あくまのようなあいつ)は、阿久悠が原作を手掛け、上村一夫が作画を担当し講談社『ヤングレディ』に連載された漫画、およびそれを原作として1975年6月6日から同年9月26日までTBS系列で放送されたテレビドラマ。1968年12月10日に発生し、放送された年の12月10日に未解決のまま時効を迎えた三億円強奪事件をモチーフとした作品である。悪魔のようなあいつジャンル テレビドラマ原作 阿久悠・上村一夫脚本 長谷川和彦演出 久世光彦 他出演者 沢田研二三木聖子藤竜也荒木一郎 他オープニング 井上堯之バンド製作プロデューサー 久世光彦制作 TBS放送音声形式 モノラル放送国・地域 日本の旗 日本放送期間 1975年6月6日 - 1975年9月26日放送時間 金曜22:00 - 22:55放送枠 金曜ドラマ (TBS)放送分 55分回数 17テンプレートを表示あらすじ元刑事の野々村修二が横浜・山下町で経営するバー「日蝕」で歌手として働く可門良。その裏で男娼という顔も持つ彼は、あの「三億円事件」の犯人だった。良に惹かれて夜を共にする女たち、良をつけ狙う刑事、良の三億円の金に集まる男。そして、良自身もGLIOBLASTOMA(神経膠芽腫)に冒されており、余命いくばくもない状況となっている。その他・演出が過激すぎて、現在の民放では再放送不可。 BS、ケーブルテレビ、DVDのみ視聴可。
2024.02.19
エルニーニョで今年の冬は暖冬と思い込んでいたら、年初から結構な寒さでじっと縮こまっていました。天気予報では3連休明けは、4月並みの気温にあがりそうだと知り、ようやく春が到来しそうで楽しみです。春で思い出したのが、石野真子さんの春ラ!ラ!ラ。改めて聴くと、自分が当時思っていたよりも、歌もうまいし、この季節にぴったりの歌です。石野さんは1961年生まれで、私よりも2歳下。17歳でデビューなのでアイドルとしては遅めのデビューですが、いろいろな曲を聴くと、結構ヒット曲が多くて活躍されたんだなと思います。現在は大人っぽくなってさらに美しさに磨きがかかっています。ますますの活躍を期待します。■参考リンクWikipedia:石野真子石野 真子 (いしの まこ、1961年1月31日 - ) は、日本の女優、歌手。別名、石野 眞子[1]。兵庫県生まれ。フロム・ファーストプロダクション所属。日本テレビ『スター誕生!』出身。第20回日本レコード大賞新人賞受賞、NHK紅白歌合戦出場歴2回。実妹に女優のいしのようこ (旧表記・石野陽子)と宝乃純[2]。1977年1月26日、『スター誕生!』の予備審査と予選会を勝ち進み、本選の大阪大会(豊中市民会館、テレビ放送日1977年2月13日)に出場。ダニエル・ビダルの「天使のらくがき」を歌った。本人によると歌唱審査でこの曲を選んだ理由は、「それまでの『スタ誕』では多くの出場者が日本の歌謡曲を歌っていたので、少しでも印象づけるためフレンチ・ポップスのこの曲を選んだ」としている[5]。審査発表では会場の一般審査員からの得点だけで合格点を超えてしまい、阿久悠ら専門審査員を驚かせる[注 1][注 2]。合格ラインは250点((5人出場時の大会では300点)で、この日の石野の最終得点は530点になり1,000点の過半数を独占した結果になった[4]。しかし、最終目標は後日合格者が集まって開催される「決戦大会」に出場して芸能事務所からのスカウトを受けることであり、ここでスカウトされなければ「歌が上手な一般人」で終わる[8]。なお、この大阪大会に出場した際、バーニングプロダクションのスカウト担当者から「もし決戦大会でダメでもうちに来ませんか、責任を持って歌手に育てますから」と声をかけられていた[4]。3月23日、『スター誕生!』第20回決戦大会に出場(会場:東京・後楽園ホール、放送日: 1977年4月3日)。母に付き添われて上京すると、石野にとって初めての東京は「まるで外国に来たような感覚だった」という[5]。父親から「これに落ちたら、もうオーディション番組を受けたいなんて気持ちを起こすんじゃないぞ」と念を押されて挑戦した。再びダニエル・ビダルの「天使のらくがき」を歌う。「11番、石野真子、一所懸命頑張りました、どうぞよろしくお願いします!」と挨拶した石野に対し、スカウト意向の芸能事務所プラカードが16社挙がる。スカウト希望した事務所には、ビクター音楽産業、バーニングプロダクション、田辺エージェンシー、第一プロダクション、キングレコード、徳間音楽工業、ワーナーパイオニア、日本コロムビア、長良音楽事務所(名称は放送当時)などがあった。なお、同決戦大会の合格者には石野の他、翌1978年の同期歌手デビューの渋谷哲平がいた[4][9][注 3]。石野本人の『スター誕生!』審査時の書類が残されている。そこには「テレビに出演するにあたってのあなたの抱負は?」との質問があり、「新人賞をとりたい、誰からも愛されたい」との回答が記されている[9]。『スター誕生!』決戦大会の勝因について尋ねられた石野は、「選曲が自分に合っていたことと、自分で勝手に考えた振り付けが歌に合っていたことが良かった(のではないか)」と後にコメントしている[4]。デビュー前からファンが付いていたと言われているが、実際に『スター誕生!』第20回決戦大会(1977年4月3日)のスカウト発表場面のDVD映像によると、素人の石野に対して早くも会場の男性ファンから「真子ちゃーん」との声援が飛んでいることが確認できる。デビュー後はゲストとして何度も出演し、後年「『スター誕生!』は私にとっては家族的な雰囲気の番組でした。スタッフが皆優しくて、特にチーフ・プロデューサーの池田文雄さんにはその後も色々と気にかけてもらったり、奥様が私のステージを観に来て下さったこともありました」と語っている[5]。『スター誕生!』の合格を経て、石野の所属事務所はバーニングプロダクションに決まる。事務所選定時のエピソードについて後の取材で石野は、「何かホントに素人判断なのですが、バーニングには先輩に郷ひろみさんがいらっしゃるから大丈夫じゃないか、と思ったんです。もちろん両親や周りのスタッフの方とも相談して決めましたが、当時の事務所の専務さんから「当社はあなたを将来こういうふうにしたい」という温かいお手紙をいただき、ここだったら安心、みたいな気がしました」(2009年4月、YOMIURI ONLINE)その後、約1年間をかけてデビューへの準備を行う。父親の希望もあってデビュー曲が出来上がるまでは芦屋の実家で歌のレッスンに励み、高校2年の夏休み1ヶ月間は東京へ出向いて日本テレビ音楽学院に通った[4]。デビュー曲の作曲を担当する吉田拓郎と東京六本木のバーで初対面する。この時の「石野真子」の印象を、吉田は後の著書の中で「本当にこの人デビューするんですか?と思うほど太っていたが、不思議な芸能界は3ヶ月後(レコーディングの時)には見違えるほど変身させて連れて来た」[10]、と記している。アイドル期 〜100万ドルの微笑〜 1978年 - 1981年1978年所属事務所からデビュー曲が決定したとの知らせが届き、レコーディング準備に入るため、1月7日、上京することになった。電話の受話器越しに作曲者の吉田拓郎が歌う「狼なんか怖くない」のデモテープを初めて聴き感激したという。レコーディングに関しては「狼なんか怖くない」の「レコーディング」の項を参照。3月25日、デビュー・シングル「狼なんか怖くない」(作詞: 阿久悠/作曲: 吉田拓郎/ジャケット撮影: 篠山紀信)がビクターから発売。アイドル歌手として芸能界にデビューした。当時のアイドルには必ずと言っていいほどキャッチフレーズが付けられており、石野に付けられたものは「100万ドルの微笑」。ファースト・アルバム『微笑(ほほえみ)』の帯にもその記述が見られる。また、八重歯と垂れ目であることをチャームポイントにしていた[11]。「狼なんか怖くない」を観客の前で初披露したのは、TBSテレビの『笑って!笑って!!60分』。後日感想を訊かれて「私の歌をあんなに喜んでくださるなんてもう最高!、すごく嬉しかった!」とコメント[4]。3月27日、デビュー2日目にフジテレビ系列の音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演。「狼なんか怖くない」を歌い終えた石野に対し、司会者の芳村真理は「いやー真子ちゃん、デビューして2日目!ご苦労様でした!」と声をかけている[注 4]。デビューからしばらくの間、石野が仕事の移動で使っていた車はマネージャーの井上が運転する「フォルクスワーゲンの真っ赤なビートル」。これは所属事務所の1年先輩の高田みづえが使用していた車を譲り受けたもの[4]。また、当時は極度の男性恐怖症があり、男性マネージャーと2人で車に乗っている時はいつでも車から飛び降りられるように助手席のドアノブを握っていた。6月25日、シングル2作目「わたしの首領」(わたしのドン)発売(作詞担当の阿久悠は、当時広島で起きていた暴力団抗争からヒントを得て、「首領」を「ドン」と読ませた)。8月、デビューシングルと2作目を作曲した吉田拓郎がパーソナリティーを務めるラジオ番組『セイ!ヤング』にゲスト出演。本番中のCM開けのジングル「♪セ〜イ!ヤ〜ング♪」を口ずさんだ石野は吉田から「そうやって、いつも歌ってるわけ?」と尋ねられ、「子供のころからいつも歌っています」と告白。また、自分を動物に例えると何?とのリスナーの質問に、石野が「タヌキ…じゃないですか?」と答えると、吉田は「僕は自分をカモシカだと思ってますけどね」と応じて石野を笑わせた。また吉田は番組内で石野について「あなたは頭が良い」「あなたはラジオよりテレビのほうが面白い!」と称賛した。当時披露した物まね芸に、アメリカ人美女プロゴルファー「ローラ・ボー」(1978年8月、文化放送『吉田拓郎のセイ!ヤング』で披露。当時流行した日清製油 (現・日清オイリオグループ)のテレビCMに出演した)の歌真似と、「アグネス・チャン」(1979年7月20日、日本テレビ『カックラキン大放送!!』で披露)[9] などがあった。8月27日、いわゆる「西武園1万人コンサート」開催。この年8月最後の日曜日に、自身初となるコンサートを西武園(埼玉県所沢市)で行う。ファンの集いを兼ねたこのコンサートは「石野真子のドンとやってみよう、宿題なんか怖くない、1万人大集会」というタイトルで中高生をターゲットに開催したもので、石野の歌を楽しむ一方、大学教授を招き夏休みの宿題対策を冗談を交えて行う企画だった。集まったファンへのプレゼントとして夏休み期間のお天気情報(天候、気温、湿度)が配られた[4]。10月2日、銀座音楽祭アイドル賞受賞[12]。10月5日、シングル3作目「失恋記念日」発売。10月12日、新宿音楽祭金賞受賞[12]。10月22日、初めて出演する映画『九月の空』が松竹大船撮影所にて撮影開始。高橋三千綱の芥川賞受賞作品『九月の空』を映画化したもので、山根成之監督作品。主人公の高校生・小林勇(坂東正之助)に淡い憧れを抱く初々しい女子高生の松山小夜子役。また、石野の所属事務所先輩の郷ひろみが、ライバル高校の剣道部員役で友情出演している。この映画には主演の坂東正之助とのキスシーンがあったが、元来恋愛に奥手でプライベートですらキスの経験がなかった石野は撮影当日、相当緊張した。キスシーンの撮影自体は1度でOKを出せたものの、本番後の石野は大粒の涙を流した[13]。10月25日、横浜音楽祭新人賞受賞[12]。11月15日、日本歌謡大賞放送音楽新人賞受賞[12]。11月18日、マスコミ関係者を招き東京プリンスホテルにて「早く来い来い、クリスマス・ホームパーティ」を開催。これは石野サイドが普段お世話になっているマスコミ関係者とその家族に感謝の意を表して企画した“ちびっ子サービスを交えたアットホームな歌のショー”である[注 5]。12月2日、映画『九月の空』が松竹系映画館で公開。同時上映は『博多っ子純情』。12月31日、「失恋記念日」が第20回日本レコード大賞新人賞を受賞[注 6]。「『失恋記念日』は賞を頂けたということで、いつも唄う時には1曲につき2着の衣装があったんですけど、3着・4着と増えたっていうのがすごく嬉しかった」[14]。その後、ビクターレコードの先輩歌手で、かつ石野と同じ『スター誕生!』の出身者でも有る、日本テレビ系列特別番組『ピンク・レディー汗と涙の大晦日150分!!』へ、ゲスト生出演した。以下略。
2024.02.11
昨年末の紅白歌合戦に寺尾聡さんが、出場されたとニュースで知り、久々に聴いてみました。出航 SASURAIが一番好きです。寺尾さんの第一印象は、奥さまは18歳での三枚目の海沼先生役で面白い人というイメージでした。その後、ルビーの指環等のヒットでザ・ベストテンで観たときのかっこいい人には、少し違和感を感じたものです。寺尾さんもすでに76歳との事。いつまでもお元気で歌い続けていただきたいです。■参考リンクWikipedia:寺尾聰作詞家・松本隆<18> 寺尾さんと「ルビーの指環」ミリオンの予感2022/12/19 10:00古野 英明 産経新聞《昭和56年、松田聖子さんの楽曲を6枚目のシングル「白いパラソル」から書き始めるようになった松本さんは同じ年、もう1つの大ヒット作も手掛けた。寺尾聰さんの「ルビーの指環」である》この曲はヨコハマタイヤのCMソングになりましたが、寺尾さんがその前に出していた「SHADOW CITY」(シャドー・シティ)」と「出航 SASURAI」の2枚のシングルも同じヨコハマタイヤのCMでした。マネジャーとテレビを見ていたら、「出航 SASURAI」だったと思いますが、CMが流れたんです。僕はマネジャーに「寺尾さんの曲、すごくいい。寺尾さんの曲に詞をつけてみたいなあ」と言ったんです。すると、マネジャーは「松本さん、何を言ってるんですか、寺尾さんから楽曲の作詞の依頼があったのに、自分で断ったじゃないですか」と。あれ、そうだったっけ? 話しているうちに思い出しました。当時、めちゃくちゃ忙しくて手が回らなかったのでした。しかも、相手は憧れの先輩・寺尾聰さん。じっくり取り組む時間がほしい、という思いもあったんです。もし次の機会があるならば、ぜひ書かせてほしい、そうマネジャーに言っておきました。すると、ほどなく依頼がありました。すごくうれしかったですね。《「ルビーの指環」は、寺尾さんの4枚目のシングル「SHADOW CITY」(55年8月)、5枚目のシングル「出航 SASURAI」(同年10月)に続く6枚目のシングルとして、56年2月にリリースされた。聖子さんに書いた、繊細な揺れ動く乙女心をつづった詞とは打って変わって、別れに際しても「やせがまん」をする男のダンディズムを描いている。ただ、「ルビーの指環」については当初、レコード会社の東芝EMIや寺尾さんの事務所・石原プロモーションの関係者の誰もが売れるとは思っていなかったという》寺尾さんは昔、(グループ・サウンズのバンド)「ザ・サベージ」のベース・ボーカルをしていて、僕が高校生のころ、彼らが勝ち抜きエレキ合戦で優勝したのをテレビで見ていました。そんな人と、後に自分が仕事をすることになるとは夢にも思っていませんでした。詞を書くにあたって、(東京都港区の)飯倉のコーヒーハウスで寺尾さんと打ち合わせをしました。寺尾さんのイメージは、人前では決して弱音を吐かず強がりを言う、クールで哀愁漂う男、という感じでした。そんな男のダンディズムを詞に書きました。アレンジがまたすごくよかったんです。手掛けたのは、音楽プロデューサーやキーボーディストとしても活躍している井上鑑くん。先進的な洋楽風の、洗練されたおしゃれな都会派サウンドに仕上がっていました。そしてレコーディング当日、スタジオで寺尾さんの歌が重なると、さらによくなったんです。これ、ひょっとしたらミリオン(100万枚)行くよ―。そう言ったら、みんな目がテンになっていました。寺尾さんは俳優でありミュージシャンでありシンガー・ソングライターであり、いわゆる「歌謡曲」の人間ではない。そこまで売れるとは誰も考えてなかったんだと思います。《「ルビーの指環」は、同年12月時点で公称160万枚の売り上げを記録。寺尾さんのシングルで最大のヒット曲となった。また、この曲のヒットに引っ張られるように、発売当初はそれほど売れていなかった「SHADOW CITY」「出航 SASURAI」もヒットするという相乗効果もあった》僕は、何が売れて、何が売れないか、本能的にわかるんです。詞と曲と、歌い手の声、アレンジが合わさったときの第一印象や、レコーディング時の空気感といったもので。筒美京平さんにもそんなところがありました。(聞き手 古野英明)
2024.01.11
ジュディ・オングさんのひとひらの雪、魅せられてを久々に思い出して聴いてみました。やはり幻想的な歌を歌わせると聴かせます。魅せられてがワコールのCM曲だったり、映像には後にイタリア国会議員となるポルノ女優、あのチッチョリーナが出演されていたりとか、ジュディ・オングさんのお父さんは日本で米軍GHQ報道工作をされていたりとか、Wikipediaでさりげなく紹介されていてびっくり。昨日で74歳になられたようですが、いつまでも若く美しい容姿を保って歌い続けていただきたいと思います。■参考リンクWikipedia:ジュディ・オングジュディ・オング (本名・帰化名:翁ジュディ{帰化当時は翁玉恵「おきな たまえ」}[1]、旧名・台湾名:翁倩玉(Ong Chhiàⁿ-ge̍k)[1]、英語名:Judy Ongg、1950年1月24日 - )は、台湾出身の歌手、女優、版画家[注 1]。上智大学国際学部卒業。出生地は台北市、貫籍(本籍地)は台南県柳営郷。語学が得意で、母語である台湾語のほか、日本語、英語、中国語、スペイン語、広東語の6言語を話すことができる[2]。血液型はA型。来歴『小説倶楽部』1963年4月特大号(桃園書房)より1950年1月24日、台湾台北市にて翁家の長女として誕生し、倩玉と名づけられた。上に兄が1人いる。1952年、自身が2歳のときに父の仕事(米軍GHQ報道工作)の都合で一家そろって訪日。小学校は東京中華学校に入学、学校で北京語を勉強しつつ、家庭教師について英語を勉強するようになる。ここでその家庭教師にJudyという英語名をつけてもらう。また家庭では、両親の母語を忘れないようにとの教育方針から台湾語(閩南語)を使っていた。以下略。Wikipedia:魅せられて (ジュディ・オングの曲)「エーゲ海のテーマ〜魅せられて」(エーゲかいのテーマ みせられて、中国語タイトル:愛的迷戀、英語タイトル:Love Is Calling Me)は、1979年2月25日に発売されたジュディ・オングのシングル。解説オリコンの集計で123.5万枚[1]、累計で200万枚[3]のセールスを記録し、ジュディ・オングの代表曲の一つである[4]。B面の「クレタ島の夜明け」とともにエーゲ海の風光を題材にした曲であり、歌詞にもエーゲ海 (Aegean) が登場する。下着メーカーワコールのCMソングで、映像には後にイタリア国会議員となるポルノ女優、チッチョリーナが出演[5]、日伊合作映画『エーゲ海に捧ぐ』のシーンが使われていたことがあった[6]。楽曲は酒井政利が1977年8月電通主催の「南太平洋 裸足の旅」にて旅を共にした池田満寿夫と意気投合し、「エーゲ海に捧ぐ」のCMソングとして考えたという[7]。ジュディによると、楽曲製作の際に電通が「無名の人にしたい」というのをディレクターの酒井政利がジュディに歌わせたいから「名前を出さなきゃいいじゃない」と言って初めは覆面歌手扱いであり、CMが流れると皆さんレコード店に行って「何とかエージアって誰が歌っているのか」っていう声がソニーにも返ってきて、電通からのOKも出て正式に名前が解禁になったと述べている[8]。歌唱時は、両手を広げると裾から手首まで袖が扇状に広がる純白のドレスを着用した[4]。本人がテレビ番組で語ったところによると、このドレスはエーゲ海の映像を映すための「スクリーンドレス」としてデザインされたが(ダイアナ・ロスが来日公演で袖に映していたのがヒント[9][10])、フジテレビ系『ミュージックフェア』での発表時に映像が間に合わなかったという。そして急遽、逆にバックから光を当てる演出に変更したら大反響で、定番にしたという[9]。『NHK紅白歌合戦』でもこの衣裳で歌唱し、現在でも彼女は「魅せられて」をステージで歌唱する際に必ずこの衣裳を着用する。現在では、手首に芯を取り付け、袖に筋を入れた鳥の翼のように広がるものにバージョンアップされたもの(通称「“スーパー”魅せられて」、ジュディ本人談)などが使用されている。なお2009年12月31日の『年越し雑学王』で、年越しのカウントダウンと同時にこの曲を生放送で披露し、2010年になったと同時に衣装に『あけましておめでとうございます』のメッセージ入りの映像が映し出される演出が行なわれ、番組内で本人が初めてスクリーンとして使用したと語っている。オリコン調べの週間チャートでも9週連続で1位を獲得し、1979年の年間シングルチャートでは第2位を獲得した(同年第1位は渥美二郎の「夢追い酒」)[2]。また『不二家歌謡ベストテン』では、9週1位を達成した。1979年大晦日、TBSテレビ系列生放送の『第21回日本レコード大賞』では大賞を受賞。ジュディ本人およびソニーにとって、初めてのレコード大賞獲得ともなった。この年は、下馬評が高くそれまで賞レースをリードしていた、西城秀樹の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が、外国作品のカバーであったことを理由にレコ大にノミネートされなかったことも、受賞の追い風となった。なお、レコ大の後に初出場した『第30回NHK紅白歌合戦』では、上述の白い衣装で歌った。さらに、ジュディがTBS系列音楽番組『ザ・ベストテン』で、唯一披露した曲でもある。同曲が大ヒットしていた最中、TBS系バラエティ番組『8時だヨ!全員集合』では、ザ・ドリフターズのメンバー・志村けんが、「魅せられて」のイントロが流れると、志村自ら大きな白い布を身に纏いながら突如登場し、その都度ドリフのリーダー・いかりや長介に怒鳴られるというコントを演じていた。この志村のコメディに観客やテレビ視聴者だった、当時の子供達からは大いに受けていたという。しかし、2020年3月に志村が新型コロナウイルス感染症の肺炎により70歳で亡くなった際、ジュディは自身のTwitterで「志村けんさんの悲しいニュースを聞きました。心からお悔やみ申し上げます」と共に、志村による『魅せられて』のパロディに爆笑した事を思い出しながら「寂しい想いをしています」と追悼していた[11]。
2024.01.08
岩谷時子さんを調べていた時に、グリーンスリーブスの日本語訳もされていることを知り、グリーンスリーブスについても調べました。はヘンリー8世(1491年 - 1547年)が、その恋人で後に王妃となるアン・ブーリンの為に作った歌という説がおもしろかったですが、信ぴょう性に欠けているようです。グリーンスリーブス(緑の袖)の意味もなかなか興味深いです。歌手としてはケルティック・レディースもいいですが、オリビア・ニュートン・ジョンが一番心にしみます。■参考リンクWikipedia:グリーンスリーブス「グリーンスリーブス」または「グリーンスリーヴス」(英語原題:Greensleeves)は、伝統的なイングランドの民謡で、ロマネスカと呼ばれる固執低音の旋律をもつ。原曲については作者不詳となっているほか、チューン(節まわし、いわゆるメロディーの骨格)は2種類存在していた可能性があるが、どちらも不明である。概説起源エリザベス朝の頃、イングランドとスコットランドの国境付近の地域で生まれたといわれているが、前述の通りその起源は厳密には判っていない。記録では、1580年に、ロンドンの書籍出版業組合の記録に、この名の通俗的物語歌(EN)が、「レイディ・グリーン・スリーヴスの新北方小曲(A New Northern Dittye of the Lady Greene Sleeves)」として登録されているが、この印刷文は未だ発見されていない。またこの歌は、1584年の『掌中の悦楽』のなかで、「レイディ・グリーン・スリーヴスの新宮廷風ソネット(A New Courtly Sonnet of the Lady Green Sleeves)」として残っている。このため、以下のような未解決問題が生じている。すなわち、古く登録された「グリーンスリーヴス」の歌のチューンがそのまま今日まで流布したのか、あるいは2つの歌のチューンが別だとすれば、そのいずれが今日広く知られている曲なのか、である。現存する多数の歌詞は、今日知られているチューンに合わせて作詞されている。この歌は16世紀半ばまで口頭伝承で受け継がれ、17世紀にはイングランドの誰もが知っている曲となった。また、リュート用の楽譜も、17世紀初頭にはロンドンで出版されている。作曲者の伝説My Lady Greensleevesダンテ・G・ロセッティ画広く流布している伝説ではあるが、証拠が確認できないものに、この曲はヘンリー8世(1491年 - 1547年)が、その恋人で後に王妃となるアン・ブーリンのため作曲したというものがある。トマス・ブーリンの末娘であったアンは、ヘンリーの誘惑を拒絶した。この拒絶が歌の歌詞のなかに織り込まれていると解釈できる(「cast me off discourteously((わが愛を)非情にも投げ捨てた)」という句が歌詞に入っている)。この伝説は真偽不明であるが、歌詞は今日でもなお大衆の心の中で、一般にアン・ブーリンと関連付けられている。しかし実際のところ、ヘンリー8世がこの歌の作者であったということはありえないことである。なぜなら、歌はヘンリーが崩御した後でイングランドで知られるようになった詩のスタイルで書かれているからである。緑の袖の意味ルネサンス期の服飾では、袖は身頃と別々に仕立てられたため、付け替えが可能であり、本体とは独立した一対として扱われていた[1][2]。そして、この袖を恋人同士の愛の証として交換する風習があった[3][4]。 つまり、歌詞リフレイン部の(振られた男性の手元に残る)袖は、相手女性そのものを指している[5]。また、恋愛を象徴する色の中で、緑は気まぐれな愛[6]、失恋[7]、恋心、不実な恋[8]などを表している。草木の緑が季節で色を変えるように、移ろいやすいことの暗示である[8]。解釈の一つとして、「緑の服(a green gown)」というスラングが野外での男女の戯れを指すことから、歌の中のレディ・グリーン・スリーヴスは、性的に奔放な若い女性であり、場合によっては娼婦であったとするものもある。メロディーの旋法とバージョン歌詞や旋律には、時代や地域ごとに様々なバージョンが存在する。イングランドの古典音楽の特徴を色濃く残すドリア旋法版(レ、ファーソ、ラーシラ…)と、近代西洋音楽の短音階と同様のエオリア旋法版(レ、ファーソ、ラー「シ♭」ラ…)では、前者の方が本来の古い形と考えられるが[9]、現在では両方のバージョンともよく演奏される。民謡という性質上、どのバージョンも間違いではない。
2023.12.23
気が付けばもうあと2か月で今年も終わりです。昔は毎年この時期になると日本歌謡大賞やレコード大賞が話題になりました。中学1年の1972年、てっきり瀬戸の花嫁がレコード大賞を獲ると思ったらちあきなおみさんの喝采でびっくり。ちょうどその年の10月に父が亡くなったので喝采は強い印象に残る曲でした。ちあきさんの歌を聴くとその歌の情景が目に浮かんできます。2024.2.10リンク切れにより差し替え。■参考リンクもう、ちあきなおみはいないの 最後のマネジャーの回顧有料記事編集委員・小泉信一2020年11月28日 18時00分:朝日新聞 「喝采」「四つのお願い」「夜間飛行」など多くのヒット曲を出した歌手ちあきなおみさん(73)。だが1992年、事務所社長でもあった夫・郷鍈治(えいじ)さんが肺がんのため55歳で逝って以降28年、活動を休止している。いまも沈黙を続ける理由は何か。最後のマネジャーが「伝説の歌姫」の素顔に迫る手記を出した。 「ちあきなおみ 沈黙の理由」(新潮社)。著者はちあきさんが歌手活動を停止する前年の91年から8年間マネジャーをしていた古賀慎一郎さん(53)。現在は故郷の名古屋市に戻り、サービス業をしている。 書き始めたのは2018年5~6月ごろ。「ちあきさんはシャンソンやポルトガルの民族音楽ファドまでこなせた天才。僕自身50歳を過ぎ、自分の人生を振り返る中で、その栄光と舞台裏を語り継ぐのが責務ではないかと思うようになった」。原稿用紙にして300枚ほどになったという。 しっとりとした情感に富み、心のひだにまとわりつくような抜群の歌唱力。歌の主人公が目の前に現れ、ドラマを見ているような感覚に陥るのがちあきなおみの世界と言えるだろう。 だが華やかな舞台とは違い…この記事は有料記事です。残り630文字有料会員になると続きをお読みいただけます。あのヒット曲 意外な誕生秘話ちあきなおみの「喝采」はなぜ伝説の一曲となったのか公開日:2020/03/22 06:00 更新日:2020/03/22 06:00塩澤実信ノンフィクション作家:日刊ゲンダイDigital最愛の夫・郷鍈治と死別したのが平成4年9月。以来、ちあきなおみは一切の芸能活動を休止した。今日に至るも、歌手活動はおろか、その姿を公共の場で見せたことがない。それゆえ、年々“伝説の歌手”として、その存在感が強まっている。日本歌謡史上でもまれなことである。 ちあきなおみが、今なお多くの人の記憶に残る最大の魅力は、あの独特な声にある。どうやって生まれたのか。 芸事好きな母親の影響で4歳からタップダンスを習い、5歳にして日劇で初舞台を踏み、それからは占領軍キャンプ、ジャズ喫茶、キャバレー回り、橋幸夫やこまどり姉妹の前座歌手を務めていた。以下略。Wikipedia:ちあきなおみちあき なおみ(1947年〈昭和22年〉9月17日 - )は、日本の元歌手、元女優。1992年に夫の郷鍈治と死別して以降、芸能活動を完全に休止し、事実上の引退となった。義兄(郷の実兄)は俳優の宍戸錠、義甥(郷の甥)は宍戸開である。結婚後東京都内に所有した不動産(ビル)のオーナーではあるものの、実業家として表立って活動しているわけではない。ちなきなおみの『喝采』が小柳ルミ子の『瀬戸の花嫁』で決まりかけていたレコード大賞を大逆転で制した歴史的歌姫対決2018.12.10:トレンド雑談さん
2023.10.25
子供のころに聴いたTVドラマの歌で10年ぐらいおきに思いだす歌があります。今回思いだしたついでに調べたら、まだ幼稚園時代のドラマの歌で鰐淵晴子さんの「素敵な明日」でした。きっと再放送かななにか観て覚えたんだと思います。ちょっと悲し気でセンチメンタルですが今でもいい歌だと思います。よく当時のビデオテープが残っていたと思います。2024.4.18リンク切れにより削除。■参考リンクYahoo!知恵袋:sun********さん2012/5/17 7:58ドラマ「風と樹と空と」で主演の鰐淵晴子さんが歌う「素敵な明日」の歌詞を教えて下さい。母の看病で我が家に来た祖母が見ていたたドラマで、よく口ずさんでいた思い出の歌です。宜しくお願いします。ベストアンサーzxz********さん2012/5/17 10:53何が楽しいのと ひとに聞かれたわそんな様子は していないのに風が笑ってる 樹々がそよいでる 空が美しく澄んでいる若い私は それだけで 生きてることが 楽しくなるの以上Wikipedia:風と樹と空と『風と樹と空と』(かぜときとそらと)は、石坂洋次郎の小説である。1963年9月から1964年1月まで『週刊ヤングレディ』に連載され、64年6月に講談社から単行本として刊行された。1964年に映画化、1965年と1967年にはテレビドラマ化された。概要・あらすじ東北地方・福島県出身の沢田多喜子が上京してお手伝いさんになり、多喜子が巻き起こす騒動などを明るいタッチで描いていく。東京に行って就職することを決めた多喜子は、大慌てする父親や家族らの心配をよそに、同じく東京での就職の決まったクラスメートたちと共に福島を後にする。多喜子は、安川家のお手伝いさんとして働き始め、周りの人や同郷の人たちに支えられながら明るく生きていく。ドラマ版での続編となった『続・風と樹と空と』では、安川家のお手伝いさんになって2年経った設定となっている[1]。成人式も終え、女を意識し始めた多喜子は、安川家主人・儀一郎の経営するゴム会社が倒産して家屋も土地も全部売り払ったという深刻な家庭事情も相まって、新たな仕事先の大内家へ移り、病弱な夫人に代わって、主婦または子供たちの母親代わりとして働く毎日を送る。その多喜子を中心に、周りの若者たちの結婚と人生観と様々な問題も合わせて描いていく。テレビドラマ版「風と樹と空と」日本テレビの月曜20時枠の時間帯で、1965年10月18日から1966年1月10日まで放送された。全13回。放映形式はモノクロ16mmフィルム。石坂洋次郎原作の一連のシリーズの第1弾となった。提供はライオン歯磨一社。キャスト沢田多喜子:鰐淵晴子手塚新二郎:工藤堅太郎安川儀一郎:大坂志郎安川弓子:木暮実千代安川三郎:佐々木功安川澄子:青柳美枝子伊藤きよの(ベテランお手伝いさん):北林谷栄沢田敬一(多喜子の父):森川信浅井秀子:香川美子井上先生:園井啓介三ツ矢歌子石坂浩二市川瑛子長沢純関千恵子岡田由紀子ゲスト出演沢村美司子(第4話)宮田征典(第4話)佐野周二(第8話)細川ちか子(第10話)吉田輝雄(第10話)真理明美(第12話)桂小金治(第12話)高橋豊子(緑川夫人、第13話)中尾彬(小林、第13話)山本忠夫(井原、第13話)スタッフ原作:石坂洋次郎企画:増田善次郎脚本:椎名利夫、菅野昭彦 [2]、駒田博之、柳井隆雄、石田守良、今井金次郎監督:番匠義彰、生駒千里音楽:牧野由多可制作:日本テレビ、松竹主題歌「素敵な明日」歌:鰐淵晴子(作詞:山上路夫、作曲:牧野由多可)
2023.10.12
ソフィ・マルソーの出ていたソシエdeエステ・銀座ワールドのCMソングを探していたら、それらしきCDをアマゾンで見つけましたが、中古で2万円と、手が出ませんでした。念のため、もう一度検索したらYouTubeで発見しましたのでご紹介します。anòutaさんの解説を読みながら聴くと、この曲はじめネスカフェエクセラとか懐かしく、あの頃のバブルの熱気を感じます。26:59あたりから■参考リンク(仮)トレンディ電子文 第31回:MICHAEL G「Mr.CM MAN」anòutaさん:note2023年3月26日 23:53
2023.10.07
「時計の針なら戻る」という歌詞の中島みゆきさんの曲が前から気になっていましたが、今日思いだしたついでに題名を調べてみました。「ひとり」という1984年の歌とすぐわかりました。まだまだ中島さんの歌で知らない歌があるんだなと、これからいろいろ調べたいと思いました。歌詞のサイトを見たら、とても美しい歌詞があふれていて、この曲をすっかり気に入りました。外は夜中からの台風13号の風雨がだんだん激しくなってきますが、幸い在宅勤務で濡れずに安心です。そんな時、仕事をしながらこの曲をゆったり聴いていると昭和59年の自分に返ることができます。時計の針なら戻る 枯れた花でさえも季節が廻れば戻るでも私たちの愛はねぇ 歳をとったらもう一度会ってよね今は心が子供すぎて謝ることもできないGood bye Good bye 明日からひとりどんな寂しい時でも頼れないのね■参考リンクWikipedia:ひとり (中島みゆきの曲)「ひとり」は、1984年3月21日に発売された中島みゆきの15作目のシングル[1]。解説「ひとり」は1984年にリリースされた11作目のアルバム『はじめまして』に、ロックバラードにアレンジされたアルバムバージョンで収録された。シングルバージョンは、ベストアルバム『中島みゆき THE BEST』に初めて収録された。「海と宝石」は松坂慶子への提供楽曲のセルフカバーである[2]。12作目のアルバム『御色なおし』に、アコースティック・ギターを基調としたアルバムバージョンで収録された。シングルバージョンは、ベストアルバム『Singles』に初めて収録された。2022年11月28日にこのシングルは、ヤマハミュージックコミュニケーションズにより、ジャケット画像は7インチシングル盤でデジタル・ダウンロード配信された。中島みゆき:ひとり(歌詞)nana
2023.09.08
インスタグラムでフォローしてる方の動画のBGMでかかっていた「駆け抜けるゼブラのストライプ」が気に入って探して見つけました。今年にはぴったりの曲です。ほかに2曲と、岸谷香 、森高千里 、岡本真夜のTomorrowもご紹介します。■参考リンクWikipedia:プリンセス プリンセスプリンセス プリンセス(英: PRINCESS PRINCESS)は、日本の5人組ガールズバンド[4]。活動期間は1983年 - 1996年および2012年 - 2016年。女性のみで構成されたバンドの中で、商業的に日本で最も成功したグループ[5][6][7]。略称は「プリプリ」。
2023.07.31
暑中お見舞い申し上げます。災害的な暑さの続く毎日ですが、皆様、お体にお気をつけください。最近テレワーク中にかけているYouTubeの音をご紹介します。一番上の雨の音が気に入っています。これを聴くと集中力が持続する感じです。歌謡曲だと細かい数字のチェック等のときに集中できないのでイージーリスニングをこれまで聴いていましたが、こういった自然の音が一番です。雷雨は眠い時にかけます。最近田んぼの蛙の鳴き声がうるさいとニュースに出ていました。以前も書きましたが、山梨で働いていた頃、雨の日の夜、自動車で仕事帰りにアパート手前の3m幅の道一面に無数のアマガエルが飛び出していて道をふさいで鳴いていたのをヘッドライトで見て、たまげたのがなつかしいです。■参考リンクまいどなニュース:獣医師「アマガエルは鳴くものです」 住民の苦情「田んぼのカエルがうるさくて眠れない」に衝撃金井 かおる2023.5.29 「田んぼのカエルの鳴き声がうるさくて眠れない」ーー弊サイト「まいどなニュース」が5月29日朝に配信した、田んぼにいるカエルの鳴き声に近隣住民から苦情が出たという記事に大きな反響が寄せられています。獣医師「人間は生物の一員。忘れてしまっているのでは…」 「記事を読んで衝撃でした。アマガエルは鳴くものです」。そう話すのは大阪・守口市の夜型動物病院「まねき猫ホスピタル」の院長で、Yahooニュースの公式コメンテーターも務める石井万寿美さん。 石井さんはまいどなニュースの取材に対し、「私はいま都会に住んでいますが、以前はカエルが鳴くところにも住んでいました。カエルの声をうるさいと感じる人がいることにびっくりしました。そのうち、セミの鳴き声がうるさいから木を切れなどに発展するのかな、とも考えました」と率直な感想を述べました。 「ネットが発達して、生の体験が少なくなっているせいか、人間が生物の一員だということを忘れてしまっているのでしょうか。生き物の恵で果物ができることも知らないので、ハチが出たら、それも駆除すればいいと思っている人もいるのかもしれません」(石井万寿美さん) 石井さんはYahooコメントの中で、田んぼに生息するカエルについて、「田んぼはアマガエルにとって重要な産卵場所であり、アマガエルは田んぼの害虫を食べることで稲の生育を助けています。同様に、他のカエルやクモやトンボも田んぼの害虫を捕食し、田んぼの生態系において重要な存在です」と説明。以下略。
2023.07.29
バブルのころ、よくみんなカラオケで歌ってましたが、それほどぴんと来ませんでした。最近たまたま聴くようになって、私が言うまでもなく高音の伸びと声量のすごさに感動してます。調べたらいろいろな曲もカバーされていて、いろいろ見つけて聴くのが楽しみです。■参考リンクWikipedia:米米CLUB米米CLUB(こめこめクラブ、英: KOME KOME CLUB)は、日本のバンド。1982年結成。所属芸能事務所はウェルストーン・ヴォイス。所属レコード会社はソニー・ミュージックエンタテインメントで、レーベルはソニー・ミュージックレーベルズ内のSony Records。1997年解散、2006年再結成。公式ファンクラブは「COME COME CLUB(カム・カム・クラブ)」(1997年まで)。略称は「米米」「K2C」。概要文化学院のサークル仲間だった石井竜也(カールスモーキー石井)、小野田安秀(ジェームス小野田)、大久保謙作(BON)らにより、卒業後の1982年秋に結成。アマチュア時代から積極的にメディア出演を繰り返し、1985年にレコードデビュー。主な代表曲は「浪漫飛行」、「君がいるだけで」。ダンサーチーム「SUE CREAM SUE(シュークリームシュ)」や、インストバンド「BIG HORNS BEE(ビッグ・ホーンズ・ビー)」を筆頭にサポートメンバーを多く抱える大所帯バンドである。石井の手掛ける舞台美術やコンサートでの寸劇、映像製作などを特徴としていた。石井の監督映画『ACRI』の興行失敗などが影響しバンドの維持が困難になり1997年に解散。その後、2006年に10月までの期間限定で再結成を発表したが、10月22日に横浜アリーナで行なわれたコンサートツアーの最終日に期間限定の撤回を宣言。以降は各自のソロ活動などの合間を縫ってスローペースながらも作品を発表している。1997年の解散までは公式ファンクラブ「COME COME CLUB」があったが、再結成以降はファンクラブを設置していない。
2023.07.17
火曜日はいつものように日本そばやさんで昼食です。有線で流れていた曲をスマホで調べたら、岡本真夜さんのそのままの君でいてだそうです。岡本さんらしく優しい元気の出る曲です。ミュージックビデオの映像も若くてきれいです。この曲は上海万博のPRソング「2010等你来」との間でパクり疑惑があったそうです。結局上海万博実行委員会から岡本さんの所属事務所に「そのままの君でいて」の楽曲使用申請があり、岡本さんは受諾されたとのこと。懐が深いです。パクった歌にしては独自の世界を構築して聴かせます。李冰冰(リー・ビンビン)さんが美しいです。YouTubeを検索したら狩人と歌ったひだまりの詩もよかったので、Le Coupleの原曲とともにご紹介します。■参考リンクWikipedia:そのままの君でいて (岡本真夜の曲)「そのままの君でいて」(そのままのきみでいて)は、岡本真夜4作目のシングル。1997年1月16日発売。2005年11月9日に12cmシングル化。発売元は徳間ジャパンコミュニケーションズ。概要2000年に26歳の若さで他界することになる母校・高知県立高知南高等学校の同級生で親友との思い出を綴った楽曲。親友と岡本の大切な思い出の曲。その親友がいなければ、本作は存在しなかった[1]。題名は親友との手紙のやり取りで「そのままでいて」の言葉をいつも使っていたことで題名に使ったと「Live DVD Mayo Okamoto Tour 2000 ~RISE~」で語っている(DVDの中では親友の名前は語られず、後年になり、テレビ番組で名前だけ公表)。タイアップとして信用金庫「SHINKIN BANK」イメージソング(2010年現在、一部地域で継続して使用)。TBSテレビ『帰って来たセカンド・チャンス』挿入歌。また、「上海万博」の名称で使用されている千葉ロッテマリーンズのチーム応援歌は、本作と「2010等你来」(後述)のどちらを原曲として用いたかは不明である。上海万博PR曲問題「2010等你来」および「繆森」も参照2010年4月、上海万博の30日カウントダウンPRソング「2010等你来」メロディーに、「そのままの君でいて」からの盗作疑惑が持ち上がり、日本のマスコミにも取り上げられた[2]。その後、上海万博事務局はPRソング使用を暫定的に停止していたが、上海万博実行委員会から岡本の所属事務所に「そのままの君でいて」の楽曲使用申請があり、岡本は受諾[3]。上海万博の影響で注目が集まり、デビュー15周年記念アルバム『My Favorites』を2010年5月10日から5月26日に発売延期して当楽曲を急遽収録[4]。2010年5月14日「ミュージックステーション」、5月23日「MUSIC JAPAN」、5月25日「ザ・ミュージックアワー」で当楽曲を披露した。Wikipedia:ひだまりの詩「ひだまりの詩」(ひだまりのうた)は、Le Couple通算5枚目のシングル。1997年5月16日発売。発売元はポニーキャニオン。解説フジテレビ系ドラマ『ひとつ屋根の下2』の挿入歌で、全3曲とも、本作の2週間前に発売された同ドラマサウンドトラックからのシングルカット。そのため、Le Coupleとは直接関連のない "BRITT SAVAGE" の楽曲も本シングルに収録されており、企画盤な要素がある。これまでヒットに恵まれず、本作がオリコン(100位以内)初チャートインであり、初登場時の順位は78位と低かったが、徐々にチャートを上昇していき、登場6週目でTOP10入り、登場7週目で最高位である2位を記録した。ロング・ヒットもあり、ミリオンセラーを達成。Le Coupleの代表曲となった。1997年のオリコン年間ヒットチャート第3位。なお、レコード特信出版社の週間チャートでは最高位1位を獲得している[1]。同年大晦日の『第48回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たしたが、歌いだしに失敗する。年明け、1998年に行われたコンサートでは、MCで紅白の歌いだしで失敗したことに触れ、「イントロの尺が通常より短いため、うっかりしてた」と笑いを交えて話した。 NHKが実施した、2005年の第56回NHK紅白歌合戦の出場者選考アンケート“スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜”では、88位にランクインした。杉田かおるは、聴くだけで涙が出る曲だと発言している。日本テレビ系列『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』でマラソンランナーを務めた際、会場の日本武道館に応援でLe Coupleが駆けつけ本楽曲を披露した時も、映像を休憩所で見ながら涙を流し、聴き入っていた。Le Coupleは2005年に活動休止、夫婦だった藤田恵美と藤田隆二が2007年に離婚してから8年経過後の2015年9月、TBSテレビ「爆報! THE フライデー」に二人揃って久々にテレビ出演し、「ひだまりの詩」を歌唱披露した[2]。
2023.06.27
「明日・・・咲く」(1980,パティ)と「愛が生まれた日」(1994,藤谷美和子、大内義昭)&笑っていいともリンク切れの修正、内容の追加。2023.5.19日経:「スーパーエルニーニョ」発生か エネルギー需給逼迫も-編集委員 安藤淳と、堂真理子アナウンサー(TV朝日)内容の追加。伝七捕物帳(1973.10-1799.10、NTV):中村梅之助 高橋長英 今村民路と、主題歌:江戸の花(橋幸夫)リンク切れの削除、内容の追加。ぴったし カン・カン(TBS:1975.10-1986.3):久米宏 萩本欽一 坂上二郎ほかリンク切れの削除、内容の追加。
2023.06.09
お昼にいつもの菊川のお蕎麦屋屋さん、丸八そばで日替わり定食を食べていると、懐かしいけど題名がわからない曲が流れていました。昔カラオケで女の子がよく歌っていた気がします。スマホで歌詞の一部を入力すると出てきたのが、PIECE OF MY WISH。ドラマの主題歌でバブルのころの曲だそうです。歌に出てくるドラマの映像を観るとそんな感じがします。今よりもみんな自信にあふれてた感じです。■参考リンクWikipedia:PIECE OF MY WISH「PIECE OF MY WISH」(ピース・オブ・マイ・ウィッシュ)は、今井美樹の7枚目のシングル。1991年11月7日発売。発売元はフォーライフ・レコード(現・フォーライフミュージックエンタテイメント)。解説今井主演TBS系金曜ドラマ『あしたがあるから』主題歌。今井初のオリコン1位を獲得、ミリオンセラーを記録。現在まで「PRIDE」に次ぐ売上。2015年末『第66回NHK紅白歌合戦』では、自身紅白初出場だった2006年『第57回』以来9年ぶり2回目の復帰出演として同曲を披露した。
2023.06.05
この曲はいつも行くお蕎麦屋さんで先日有線でかかっていましたが調べ損ねた曲です。たまたま今日YouTubeで見つけました。埠頭は晴海埠頭だそうです。あの無機質な港からよくこんなリズミカルで情熱的な曲ができるなと感心します。歌詞の解釈を検索していたら、稲田雪路さんのユーミンサウンドとオトナの胸キュンドライブ「埠頭を渡る風」を発見!「埠頭を渡る風」に隠された女性のサインの解説が大変参考になりました。これまでサインを見逃し続けて三振の山を築いてきましたがホームランなるか?■参考リンクWikipedia:埠頭を渡る風「埠頭を渡る風」(ふとうをわたるかぜ)は、松任谷由実の通算12枚目のシングル。東芝EMIより1978年10月5日に発売。1989年6月28日にCDシングルとして再発された。6枚目のオリジナルアルバム『流線形'80』に収録。解説オリジナル7インチシングル盤ジャケットでは「埠頭を渡る風。」と表記。「埠頭を渡る風」の埠頭とは晴海ふ頭のこと。「SURF & SNOW in 逗子マリーナ」のライブではラストに毎回歌われ、打ち上げ花火は風物詩となっている。なお、爆風スランプの楽曲「KASHIWAマイ・ラブ」(リードボーカルはパッパラー河合)は、この曲とユーミンへのオマージュとされている。オリコンチャートの登場週数は8週、チャート最高順位は週間71位、累計1.9万枚のセールスを記録した[1]。ユーミンサウンドとオトナの胸キュンドライブ「埠頭を渡る風」:稲田雪路さん
2023.05.20
毎週火曜と金曜の昼は菊川駅前の丸八そばで、日替わり定食のかつ丼セットとカツカレーセットを食べています。お店では有線で懐かしの歌謡曲が今日もかかっています。「今私コバルトの風♪」と聴いて懐かしいけどあれ思いだせないなとGoogle検索したら一発でサーカスのアメリカン・フィーリングが出てきました。今のさわやかな季節にぴったりの曲です。調べたら作詞:竜真知子、作曲:小田裕一郎、編曲:坂本龍一となっていました。人生は終っても桜で名を残す人もあれば、曲で名を残す人もいます。別に残せばいいというものではありませんが、自分は何を残せるのか一瞬考えました。YouTubeで見つけたほかの曲もご紹介します。当時も思いましたがきれいな英語だと思います。サウインド・オブ・サイレンスが気に入ってます。映画の原作本の「The Graduate」だったかのペーパーバックを高3のころ、リーダーは得意でなかったのに夢中になって一気に読んだ記憶があります。■参考リンクWikipedia:サーカス (コーラスグループ)サーカスは、1978年にデビューした男女2人ずつからなる4人組コーラス・グループ。デビュー当時は3人姉弟と従姉からなり、ハートウォームなコーラスワークと個々の歌唱力は高く評価されており、アカペラはもちろん、コーラスグループの先駆者である。主な活動内容は、コンサート・CD制作・TVラジオ出演などである。また、コーラスをもっと楽しんでもらいたいと、各地でのワークショップを企画する傍ら、個々でのソロ活動、夫婦ユニット「J&O」を結成するなど活動を行っている。1978年3月25日発売の『Mr.サマータイム』が、同年8月中に100万枚を突破する[2] 大ヒットとなった。他に1979年の『アメリカン・フィーリング』、1988年の『Woman in Love』などのヒット曲がある。 25周年を迎える2003年には、メモリアルコンサートを東京・大阪で開催したほか、BEST盤を発売。2007年には高校野球でイメージアーティストに選ばれ「栄冠は君に輝く」を歌唱した。Wikipedia:アメリカン・フィーリング「アメリカン・フィーリング」は、1979年5月25日にリリースされた、コーラスグループサーカスのシングル楽曲。同曲は、同日発売したアルバム『ニュー・ホライズン』にも収録されている。解説表題曲「アメリカン・フィーリング」は、日本航空グループの旅行会社「旅行開発」(現ジャルパック)の「COME TO AMERICA '79」キャンペーンソングに採用された。ただしCMに使用されたバージョンは本シングルには未収録となっている(原曲とCMバージョンは歌詞は一致するが、テンポ・アレンジが大きく異なる)。当時アルファレコードのプロデューサーだった有賀恒夫によると、小田裕一郎作曲のサビ部分で採用され、残りはできていなかったため、Aメロもそのまま小田裕一郎に依頼したが、出来栄えに満足できず、何度もダメ出しをして完成した[1]。オリコン最高5位を獲得し、47.6万枚のセールスを記録。サーカス自身「Mr.サマータイム」に次ぐ2番目のヒット曲となった。又、サーカスは同曲で、『第30回NHK紅白歌合戦』に2年連続2回目の出場を果たした。Tik Tok:サーカス「アメリカン・フィーリング」日本航空CM
2023.05.09
先日プールで水の中を歩いていて思い出したフレーズが♪みんな夢でいいのいいの、おばかさんでいいのいいの、でした。妙に耳に残る歌詞で、家に帰って調べたら石井明美さんのJOYという歌でした。CMの曲かと思ったら、dam-oyajiさんのブログを読むとドラマの挿入歌だそうで、当時の若い女性にカラオケでよく歌われていたとのこと。あ、そうか、カラオケで耳になじんでいたんだと納得。非常に耳に心地よいさびの部分だと思います。合わせて何曲かご紹介します。■参考リンクWikipedia:石井明美石井明美の「JOY(ジョイ)」:dam-oyajiさん2007-10-26 21:41:45
2023.04.21
たまにNHKラジオから流れてくるギター音楽で、よい曲だなとずっと思っていましたが名前がわからず何十年も来た曲名が今日やっとわかりましたのでご紹介します。てっきり古典の曲と思っていたら結構新しく1981年の作だそうです。あわせてリチャード・クレーダーマンのピアノ演奏と、ソフィー・マルソーの映像付きのものもご紹介します。甘いメロディーにソフィー・マルソーが良く似合います。人生の結構大きな目標の一つが片付いた気がします。■参考リンクWikipedia:Nicolas de AngelisGoogleページ翻訳ニコラ・デ・アンジェリス(1949年生まれ)は、フランスのクラシックギタリストです。初期デ・アンジェリスは、セーヌ川のほとりにあるパリ西部の郊外、サンクルーで生まれ、10 歳からパリ アカデミーでギターを学びました。デ・アンジェリスはパリ・アカデミーの教師のもとでギターを始めました。16 歳のとき、彼は非常に才能のあるフランス人ミュージシャンの小さなグループに所属し、その中にはミシェル ベルジェも含まれていました。18 歳のときから、ジュリアン クレール、シルヴィ ヴァルタン、ファビエンヌ ティボー、作曲家でクラリネット奏者のジャン=クリスチャンミッシェルなど、多くのポップ スターに才能を提供し、すぐに最も依頼の多いセッション ミュージシャンの 1 人になりました。アンナの歌1981 年に彼は最初のソロ LP、Quelques Notes Pour Annaを録音しました。このアルバムは数週間でゴールド レコードの売り上げを達成し、彼のさらなる成功への道を開きました。
2023.04.20
大学生の頃TBSでやっていたムー一族の劇中歌の男と女・昭和編が好きでした。この歌を聴くためにドラマを観ていたくらいです。たまにYouTubeにアップされてもすぐ削除されていましたが、ここ最近は残っているので、御紹介します。いい歌詞だと思っていたら作詞は阿久悠さんでした。井手せつ子さんの声がしっとりして好きで、カバー曲を聴きたいですが無いのが残念です。酔いどれ女の流れ歌もオリジナルの森本和子さんも含めて、みなみらんぼうさん、加藤登紀子さんの3人の個性が出ていて聴かせます。2023.11.4リンク切れにより差替え。■参考リンクWikipedia:みなみらんぼうみなみ らんぼう(本名:南 寛康(みなみ ひろやす)、1944年12月13日 - )は、日本のフォーク・シンガー、シンガーソングライター、俳優。「らんぼう」という芸名はフランスの詩人アルチュール・ランボーにあやかったものである。宮城県栗原郡志波姫町(現・栗原市)生まれ。プロボクシング元WBA世界スーパーフライ級王者の河野公平は娘婿に当たる[1]。
2023.04.06
積水ハウスの歌を検索していたら50周年バージョンで見つけました。静かで心が落ち着くような歌声は、ひんやりした雨の降る日曜の朝にぴったりだと思います。多くの曲をカバーされていて、どの曲も村上さんの世界が展開していて新しいことに気づかされます。■参考リンクセキスイハウスの歌(1971):スリー・グレイセスWikipedia:村上ゆき村上 ゆき(むらかみ ゆき、1971年1月30日 - )は、日本の歌手・シンガーソングライター・ピアニスト。福岡県飯塚市出身、武蔵野音楽大学ピアノ科卒業。所属事務所はMSエンタテインメント、所属レコード会社はテイチクエンタテインメント。人物大学在学中より弾き語りを始め、ジャズピアニスト・ボーカリストとして活動。 2004年9月に1stアルバム『Both sides, now〜青春の光と影』をリリース。 また、CDデビュー前より現在まで、CMソングへの起用が多いことから、コピーライターの一倉宏に「おとなのCMソングNo.1歌姫」と名付けられた。 2011年、シンガーソングライター・樋口了一とユニット『エンドレスライス』を結成。オリジナル曲を制作しつつ、不定期でライブ活動を行っている。最近では、筑波大学のメッセージソングにも携わっている。ピアニストとして、アーティストのサポート活動も開始した。
2023.03.26
出だしをうろ覚えに覚えていた曲「家族日誌」をYouTubeで発見しました。結婚するって本当ですかの次の曲で、自分としてはすきな曲でした。曲の由来を検索するも見つからず。結婚するって本当ですかがヒットしたので、延長線上に家族をテーマとした曲が作られたのか?抒情歌がアップされていたので何曲かご紹介します。ダ・カーポの曲はYouTubeには以前はあまりありませんでしたが、今はご本人のコーナーでしょうか、「ダ・カーポ - トピック」が設けられています。お二人は74歳と71歳とのこと。いつまでも第一線で活躍していただきたいです。■参考リンクWikipedia:ダ・カーポダ・カーポ(伊: DA CAPO)は、日本の男女フォーク歌手グループ。久保田広子と榊原まさとしにより結成され、1973年8月にデビューした[1]。翌1974年6月1日発売のシングル『結婚するって本当ですか』がヒット。久保田は1980年に榊原と結婚して榊原姓になり、以降は夫婦デュオとして活動する。1970年代から1980年代を中心にヒット曲を飛ばし、現在も活躍している。親しみやすいメロディーと高い歌唱力、特に広子の柔らかな美声を持ち味とし、オリジナル曲のフォークソングもさることながら、童謡・抒情歌(唱歌)、わらべ唄・民謡など日本の伝統的な楽曲のカバーも手がける。グループ名は演奏記号で「曲の最初に戻る」を意味するダ・カーポに由来し、「いつまでも初心を忘れずに」という思いがこめられている[1][2]。ダ・カーポ: 野に咲く花のように(1983、「裸の大将」から)、結婚するって本当ですか (1974)
2023.03.20
小さな日記は小学校3,4年生のころ、流行った曲ですが、地味でそれほど好きではありませんでした。50年以上の歳月を経て歌うフォー・セインツの歌は、通常この年代になれば普通なかなか声がかすれて出なくなるのに全然そんなころはなく、年輪がほどよくブレンドされており、若いころの歌よりも心にしみます。貫禄があるのでしらべたら、お二人とも社長さんでした。2023.3.21内容の追加。この歌はダ・カーポの声に合っていると思います。■参考リンクWikipedia:フォー・セインツ概要1960年代後半に一世を風靡したカレッジ・フォーク・グループの草分け的存在。成蹊高等学校の文化祭で結成された。ラジオ番組『フォーク・ビレッジ』で実力派として注目され、1968年のデビュー・シングル「小さな日記」が20万枚[1]または80万枚[2]の大ヒット。しかし直後に加賀一兄が脱退。後に、レコード会社の移籍に伴い、フォー・クローバースと改名するが、1973年に解散。のちにメンバーであった荒木生徳は、荒木しげるとして俳優に転身した。2006年、NHK BS-2「BSまるごと日本のフォーク&ロック大全集」にて33年ぶりにメンバーが集まり、「小さな日記」「希望」を披露。翌年11月にはデビュー40周年を迎えたことをきっかけに、東京・六本木のライブハウスでコンサートを開催。そして2008年には新曲「この街で」をリリースし、本格的に再結成を果たす。2010年1月には、ミニアルバム・「共に見し夢を 〜『仰げば尊し〜』より」をリリースした。
2023.01.15
ひで&たまさんのリンク修正をするついでにこれまで紹介したことのない曲を探しました。聴きなれない曲も増えてきましたが、この中でささやかなこの人生のバイオリンの演奏が良かったです。楽しそうに演奏している雰囲気が伝わってきました。遠い世界にを聴くと、遠い50年前に帰れそうです。12:45あたりから
2023.01.14
中島みゆきさんのほうせんかという歌をYouTubeで捜していたら、なんと公式チャンネルで発見。YouTubeへのスタンスもだいぶ変わってきたようです。昔聴いたときも心に残る隠れた名曲と思いましたが、ひで&たまさんのカバーが、曲と声がマッチしているように思い、気に入ってよく聴いてます。気づけば中島みゆきさんも70歳。同年代の歌手の中には引退される方も出てきていますが、今月に新曲「俱(とも)に」を出されました。年齢とともに才能や声が枯渇されているようにみえる方もいる中で、中島さんは健闘されていますが、再度この曲でヒットチャート1位を獲得していただきたいものです。■参考リンクひで&たま:ほうせんか、案山子、主人公、二十歳のめぐり逢い、青い夏、遠い世界に
2022.12.20
1973年、中1の冬に発売された曲です。当時同棲という言葉に現実感が無くピンとこず、じめっとした感じの歌でそれほど好きでありませんでした。久しぶりに思い出して聴くと、青春時代に彼女の家に泊まりに行って楽しかった時のこととか思い出して、この歌の深さや良さがはじめてわかりました。2023.2.22リンク切れにより差し替え。2023.11.19リンク切れにより差し替え。■参考リンクWikipedia:大信田礼子大信田 礼子(おおしだ れいこ、1948年9月15日 - )は、日本の女優、歌手。京都府京都市出身。1970年「女の学校」でCBSソニーから歌手デビュー。以後、歌手とテレビドラマの仕事が増えた。レコードプロデューサーは酒井政利だったが、酒井が権利を獲得した『同棲時代-今日子と次郎-』[5](1973年公開、由美かおる主演、上村一夫の劇画の映画化)の主題歌「同棲時代」を歌い、代表曲になった。大信田自身も映画に出演。エピソード[要出典]歌手の沢田研二とは京都の小・中・高校の同級生。阪神時代の江夏豊が彼女の大ファンだった。江夏自身は「付き合ってる」と話していたことがあり、ある新聞に「結婚?」とも報じられたことがある(結局その後破局)[7][8]。ドラマ『プレイガール』では70年の52話から85話まで出演した。[6]。このドラマでは西尾三枝子、片山由美子らと共演している。ドラマ『旅がらすくれないお仙』のかみなりお銀役で、髪をアップにして男物の海パンを履いて走り回るのは彼女自身のアイデア[9]。シングル曲「同棲時代」は当初、作曲家の都倉とソリが合わなかったので彼女は「アカン」と思っていたが、それを聞いた酒井政利は「(それなら逆に)ヒットするかもしれない」と感じた。
2022.12.16
柴咲コウさんの銀の龍の背に乗ってです。もともと黄泉がえりで聴いた月のしずくが好きだったのですが、銀の龍の背に乗ってもいいです。YouTubeの音声が小さかったですが、TikTokがちょうどいいです。Dr.コトー診療所はDVDでレンタルして、以前観ました。来週から上映するそうですが、懐かしい出演者の顔ぶれを見て、観に行きたくなりました。吉岡秀隆さんといい、時任三郎さん、泉谷しげるさんとか、なんかみんなすごく老けた感じです。メイクのせいか?2022.12.12YouTubeリンク切れにより削除。2024.7.31リンク切れにより差し替え。FNS歌謡祭2022 「銀の龍の背に乗って」柴咲コウ ■参考リンクDr.コトー診療所(2003)から:銀の龍の背に乗って(Instrumental)、COTO映画「Dr.コトー診療所」公式サイト
2022.12.07
中学生の頃、第一次石油ショックがあり、狂乱物価とスタグフレーションで暗い時代に流行った曲です。当時の自分には出だしから最後まで負のオーラに満ちた曲で、デュエットも、男声、女声がそれぞれ主張が激しすぎるようで、あまり好きではありませんでした。久しぶりに聴くと、そういった思いも消え、懐かしく聴けました。この曲の背景を調べたら、ヤフー知恵袋の解説が大変参考に鳴りました。そう言われれば、時間ですよ・昭和元年の劇中歌でした。この歌をモチーフにした映画があったとは初めて知りました。大人になって良さがしみじみ解かる曲のように思います。2023.11.12リンク切れにより差替え。■参考リンクヤフー知恵袋:hok********さん2010/11/17 0:35「昭和枯れすすき」の二人は何故街を追われたのでしょうか?しかも「この街も」ってことは、過去にも別の街を追われてるんですよね?一体この二人が何をやらかしたのか気になります。。。ベストアンサーrtw********さん2010/11/17 1:43この主人公の時代背景をどう見るかによって、ふたつの考え方があるように思います。一流行歌ととして捉えると、特に演歌では歌詞の背景には不倫・犯罪なんでもありというのも少なくないですから「不倫の果ての逃避行」「犯罪逃亡者と愛した女」などが妥当な線でしょうか。しかし、番組挿入歌という楽曲の成り立ちを考慮すると、別の見方が生まれます。「時間ですよ・昭和元年」というテレビドラマからヒットした曲であり、まさに大正ロマンという時代背景が見逃せなくなります。そうすると、男が思想弾圧を受けた文学者、あるいは共産主義に走った学生という姿も想像できます。当時はどちらも当然「反社会的存在」と烙印を押されたでしょうから、その男から離れられなくなった女性は、男の考え方に感化された金持ちのお嬢様というところでしょうか。現代でも昼の連続ドラマで「ありがち」な組み合わせでしょうが・・・。テレビドラマデータベース:時間ですよ・昭和元年(時間ですよ昭和元年)シリーズ最終作。東京で銭湯を営むある家族の物語だが、時代設定が昭和の初めに改められた。また元ドリフターズの故・荒井注が、森光子の亭主役で俳優デビューして話題になった。サブストーリーとして、肺を病んだヤクザ者(細川俊之)と足抜け女郎(安田道代=現・大楠道代)の悲恋が描かれたが、そのBGMにさくらと一郎の「昭和枯れすすき」が使われ、2人のすさんだ未来を暗示した。なおこの曲は爆発的ヒットとなり、その年に最も売れたシングル盤となった。長女を演じた浅田美代子は、せつない恋心を託した「少女恋唄」を、お手伝い役に抜擢された新人の谷口世津は「わたし」を、それぞれ歌った。【以上、CD「TBS水曜劇場の時間ですよ」(2003年、ソニーミュージック発売)添付の解説(加藤義彦氏執筆)より引用】坊屋三郎が軽妙なキャラクターで茶の間の人気を獲得。1974年3月にザ・ドリフターズを脱退した荒井注が「8時だョ!全員集合」の客員ディレクターも務めたことのある本作のプロデューサー・久世光彦に「この役は荒井しかいない」と懇願され、紆余曲折の末、本作で芸能界へ復帰した。Wikipedia:昭和枯れすゝき「昭和枯れすゝき」(しょうわかれすすき)は、さくらと一郎のシングル。1974年(昭和49年)7月21日発売。発売元はポリドールレコード(レコード番号:DR-1868)。150万枚を売り上げ、1975年オリコン年間ヒットチャート1位を記録した。概要1974年7月21日に発売した当初はレコードの売れ行きが伸び悩んでいたが、同年10月16日から放送開始された『時間ですよ昭和元年』(TBS系列)の挿入歌として、細川俊之演じる十郎と大楠道代演じる菊との居酒屋の場面に効果的に使われたことにより、有線放送を中心に人気に火が付き、発売約9か月後の1975年5月5日から3週間、オリコンシングルチャート1位を獲得した。グループ唯一のミリオンセラーも達成している。この年のオリコンシングルチャートで年間1位となり、『第8回全日本有線放送大賞』では大賞にも輝いている。この後1978年に一郎(徳川一郎)がさくら(河野さくら)とのコンビを解消。2代目さくら(山岡さくら)と新コンビを結成し、新たに「昭和枯れすゝき」をリリースした。一方、初代さくら(河野さくら)も漫談家松鶴家千とせとユニットを組み“さくらと千とせ”として「昭和枯れすゝき」をリリースしている。映画この歌をモチーフとする[1]歌謡映画が、松竹の製作配給により、1975年(昭和50年)6月7日に公開されている。「昭和枯れすゝき」はこの映画の主題歌にもなっている[1]。タイトル:『昭和枯れすすき』公開日:1975年(昭和50年)6月7日製作:松竹(大船撮影所)配給:松竹上映時間:87分、カラー
2022.11.26
ペギー葉山さんの琵琶湖周航の歌を探していたら、藤圭子さんのも見つけました。ついでに聴いたらとても良かったです。この歌を歌わなさそうな人が歌っているのも新鮮です。北島三郎さんとの兄弟仁義も面白いです。本当に何を歌っても聴かせます。■参考リンク藤圭子さんのカバー曲 骨まで愛して(1966):城卓也、君こそわが命(1967):水原弘、逢わずに愛して(1969):内山田洋とクール・ファイブ藤圭子さんのカバー曲2北国行きで(1972):朱里エイコ、なみだ恋(1973):八代亜紀、すきま風(1976):杉良太郎、うそ(1974):中条きよし
2022.11.05
1年ぶりくらいではいだしょうこさんのYouTubeチャンネルを覗いたら多くの歌がアップされていました。はいさんの歌は落ち着いてた感じで歌うひこうき雲とか童謡が好きです。今回ご紹介する中ではテルーの唄、思秋期、いい日旅立ち軟化が好きです。以前はピアノの伴奏だけで歌っているのがシンプルで良かったですが、伴奏をつけて歌われているのも、良いと思います。■参考リンクはいだしょうこさんの歌:Best Friend、ハナミズキ、涙そうそう、木綿のハンカチーフ、180°(ワンエイティー)はいだしょうこさんの童謡:雨降りお月さん、夏は来ぬ、夏の思い出、みかんの花咲く丘、もみじ、冬景色、月の砂漠と、歌のおねえさん時代YouTube 12/24(木) 21:00~はいだしょうこさん生配信トークライブと、アヴェマリア君をのせて(1986):井上あずみ、はいだしょうこ、SeanNorth、サラ・オレイン
2022.11.04
内田あかりさんが活躍されたころはまだ中学生で花の中三トリオに夢中になっていた頃でした。頭にバンダナ巻いて歌ってるなくらいの印象でした。久しぶりに聴いてみると、よく透き通った声で、昭和へタイムスリップします。オリエンタルな曲調も好きです。カバーの桃色吐息も聴かせます。いつまでもお元気でご活躍いただきたいです。■参考リンクWikipedia:内田あかり内田 あかり(うちだ あかり、1947年10月9日 ‐ )は、日本の女優、歌手。本名、大形 久仁子(おおがた くにこ)。大阪府出身。旧芸名、内田 明里(読み同じ)。来歴・人物元々は本名の大形久仁子で地元のジャズ喫茶の歌手として活躍。その後、16歳でスカウトされ、1966年にTBSの連続テレビ・ドラマ「土曜日の虎」に藤久仁子の名で出演、1967年東芝レコードより「限りある日を愛に生きて」(この時の名前は本名の大形久仁子)でレコードデビュー。1968年に和田弘とマヒナスターズとデュエットし発売した「私って駄目な女ね」が50万枚[1] のヒット。しかし、ソロとしてはヒットに恵まれなかった。デビュー7年目の1973年、CBSソニーに移籍。酒井政利プロデュースのもと、芸名を「内田あかり」に改名。この芸名の名付け親は作曲家の佐伯一郎で、霊感と骨相学の両面から考えられたとのこと。歌手はルックスが第一なので顔に重点を置いた上で「彼女の丸い顔に感じが似ている文字なので『内田』、あかりという名前はその丸い顔にいつも光が差しているように」という意味で名づけたという[2]。衣装制作に山本寛斎、ジャケット画に上村一夫を迎え[3]、大プロモーションをかけた「浮世絵の街」が70万枚[1] の大ヒット。その後「浮世絵の街」が映画化された際には主演も務めた。1974年発売の「献身」は同じタイトルの曲が1967年に大形久仁子名義でシングルリリースされているが、これは同一歌手による、全くの同名異曲という、珍しいケースである。1989年には奇抜な衣装と妖艶さを全面的に表した「好色一代女」が話題を呼び久々のヒットを記録した。同年、この曲は『日本レコード大賞』作詩賞を受賞している。それ以後、女優としての活躍が増え、映画・テレビドラマなどが中心であったが、1999年に歌手活動を本格的に再開するにあたり、芸名を「内田明里」に改名した。その後2011年、元の内田あかりに戻している。
2022.10.21
小柳ルミ子さんの初期の日本を抒情的に歌った歌が好きです。夾竹桃は赤い花が最近では一番好きですが、先日読んだ日刊ゲンダイで売り上げが1.2万枚しかなかったと知りびっくり。何回かの不調を克服して復活され、いつまでも第一線で活躍していただきたいです。志村けんさんとのコントも面白いです。夫婦コントが特にいいです。こんな美人の奥さんがいたらなと思います。■参考リンク芸能界の“ドン”渡辺晋に詰め寄った小柳ルミ子マネジャー(上)"二度の奇跡"はこうして起きた:日刊ゲンダイ公開日:2022/10/01 08:00人気は魔物だ。芸能界でスターの座に上り詰めるほど難しいことはない。それ以上に、一度売上を落とした歌手の復活は困難を極める。そんな奇跡を二度も成し遂げた人物がいる。近年は無類のサッカー好きとしても話題を呼んでいる小柳ルミ子(70)である。 昭和46年のデビュー曲『わたしの城下町』でいきなりミリオンセラーを達成し、オリコンシングル売上の年間1位に輝いた彼女も、デビュー6年目から下降線を辿っていく。昭和49年3月から約11年間、渡辺プロダクションで小柳のマネジャーを務めた森弘明氏はどのように復活の手助けをしたのかーー。(全2回の1回目)※敬称略、名前や肩書きは当時 ◇ ◇ ◇〈このメールを受け取って泣きました〉 今年7月2日、古希を迎えた小柳はブログに感激を綴った。差出人は森氏だった。「古希のお祝いと激励をしました。私のマネジャー生活で最も長かったのが小柳ですから、当然誕生日も覚えていますし、彼女が元気だと私もうれしい。もう一度、なにかの賞を取るくらい頑張ってほしい」■宝塚で断トツの成績を残した小柳 沢田研二の在籍したザ・タイガースやアグネス・チャンの担当を経て、森氏は昭和49年3月から小柳のマネジャーになった。「彼女は芸事に関して、天性の素質を持っている。最初、梓みちよさんの母親の紹介で渡辺プロを訪れた時、渡辺晋社長に『宝塚で1番になってから来なさい』と言われたらしいんです。そしたら、本当にトップの成績を残した。しかも、2番に圧倒的な大差をつけての1位ですよ。努力家だし、勘がいいんです」 芸能界は、実力がなければ通用しない。一方で、実力が必ずしも人気に比例するとは限らない。デビュー6年目を迎えた頃、小柳もその魔力に吸い込まれていく。昭和51年、『恋岬』で初めて売上が10万枚を割り、『夾竹桃は赤い花』は1.2万枚と低迷。『逢いたくて北国へ』が17.9万枚と盛り返し、なんとか紅白歌合戦出場に漕ぎつけたものの、彼女は岐路に立っていた。「昭和52年の始めにフジテレビの『火曜ワイドスペシャル』で『スター作詞作曲大賞』という企画があり、小柳は事務所の先輩であるハナ肇さん作詞、谷啓さん作曲の歌を歌いました。その番組で、由紀さおりさんの歌った曲が素晴らしかった。作詞は関口宏さん、作曲は出門英さんで『八重山哀歌』という歌でした。すぐにレコード会社のディレクターに『次のシングルはこの歌にしよう』と提案しました。小柳もすごく気に入って、絶対に歌いたいと意気込んでいました」以下略
2022.10.06
おおたか静流さんが69歳でがんで亡くなられたことを知り驚きました。映画シコふんじゃったで、はじめて悲しくてやりきれないを聴いて、最初は個性の強い声に違和感を覚えましたが、何回も聴くうちに、独特の世界が広がっていくのを感じて好きになりました。花を歌う歌手の中では一番好きです。日産ローレルのCMの禁じられた遊びもなかなかいいです。まだお若いのに残念です。心よりご冥福をお祈りします。おおたか静流さんが死去 歌手「にほんごであそぼ」2022/09/06 21:47サンスポ多彩な音楽性やNHK・Eテレの子ども番組「にほんごであそぼ」への出演などで知られた歌手のおおたか静流(おおたか・しずる、本名小西静子=こにし・しずこ)さんが5日午前、がんのため自宅で死去した。69歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で行う。後日、お別れの会を開く予定。喪主は夫小西徳雄(こにし・とくお)氏。クラシックやジャズ、民族音楽などジャンルを問わない音楽性で、「七色の声」と言われた表現力を駆使して活躍。歌ったCMソングは数百曲に及び「花」「悲しくてやりきれない」などカバー曲でも知られた。「にほんごであそぼ」では、リズムに合わせた言葉遊びで人気となった。Wikipedia:おおたか静流人物武蔵大学人文学部卒業。7歳よりクラシックを習い始め、大学在学中に音楽活動を開始(当初は「大高静子」名義で活動)。その後民族音楽(日本の伝統音楽・西洋の伝統的声楽)・ジャズ・ワールドミュージックなどノンジャンルの独自の音楽性を追求。1989年に加藤みちあきとのユニット「dido」(ディド)でデビュー。ソロ歌手としては1990年テイチクよりデビュー。他者の不祥事に伴い歌うことになった曲が2曲ある(「あなたの時代が来た」「ウキウキパラダイス」)。2022年8月10日、「被爆ピアノコンサート『未来への伝言2022』〜いのちのうたwith 被爆ピアノ〜」に出演予定であったが、健康上の理由から辞退した[1]。2022年9月5日、がんのため、死去[2]。69歳没。訃報はミュージシャンの福田裕彦[3]、渡辺庸介[4]、およびレコードレーベル関係者がSNSを通じて伝えた[5]。
2022.09.06
久しぶりにTBSお天気メモをYouTubeで検索していたら当時のBGMがレコードになっていたことを知りました。おまけに作曲はビリーバンバンの菅原進さんと知りびっくり。これを聴きながら仕事をすればはかどるかも、いや懐かしすぎて手が止まってしまうかも。2022.9.24リンク切れにより差し替え■参考リンク石渡のり子、増田葉子、志摩のぶ子:天気予報「お天気メモ」(1977、1978年頃)TBSとBGMの曲名:「SOTTO SAYONARA (インストゥルメンタルバージョン)」Wikipedia:お天気メモ『関東地方あしたのお天気』(かんとうちほうあしたのおてんき)とは2016年3月25日までTBSで毎週金曜日21:54 - 22:00に放送されていた天気予報である。かつては全曜日に放送していた。概要番組開始時には「ブッポッポッ」という音のチャイム(プッシュボタン式電話機で、「177」と押した際の音程)が鳴っていた。内容としては、お天気キャスターがお天気カメラをバックに天気の概況を伝え、その後、番組宣伝VTRを背景に明日の予報と東京の週間予報を伝える形で放送していた。番組開始当初から1994年9月までは、日本気象協会(東京・大手町の気象庁庁舎内)にあった、TBSのサテライトスタジオ[1]から放送していた。その後、TBS本社・放送センターの完成に伴う制作拠点の一元化という方針もあって、スタジオはNスタジオを中心としたTBS本社のスタジオへ移動した。TBS公式ホームページの番組表では、番組タイトルが『あすの天気』となっていたうえに、当番組の公式サイト(下記参照)ではなく「お天気ガイド」 のページにリンクされていた。当番組が終了した2016年4月以降は『中居正広のキンスマ』の放送時間が22:00まで拡大されている。番組タイトルの変遷番組タイトルは何度か変わっている。あしたのお天気お天気メモ 気象協会スタジオ明日のお天気 気象協会スタジオ日本列島あしたのお天気関東地方あしたのお天気一都八県あしたのお天気「日本列島あしたのお天気」のタイトルで放送されていた期間は、番組を2つのパートに区切り、前半で番組タイトル通りに全国の概況と予報を(この部分はTBS以外の一部系列局でもネットしていた模様)。その後1分程度のCMを挟み、「一都八県あしたのお天気」へとタイトルを変え、関東地方と山梨県、静岡県(予報は伊豆半島のみ、気温は静岡市)の予報を伝える構成であった。なお、関東ローカルの番組形態へ移行した後もしばらくは「日本列島あしたのお天気」のタイトルのまま、関東地方と山梨県、静岡県(予報は伊豆半島のみ、気温は静岡市)の予報のみを伝える構成で続き、2013年時点では予報も純粋に関東地方のみを伝える構成となっていた。これらとは別に、1980年代半ばから1990年代初頭にかけては、プロ野球中継前後に放送する時に『ナイター速報あしたのお天気』として放送した例もある(当然のことながら、雨天中止などでプロ野球の試合がなかった日は、ナイター速報は休止となり天気予報のみが放送された)。歴代キャスター日本列島-も含める。滝良子石渡のり子森りつ子高橋加代子高山しげみ本城ゆき相沢早苗石井和子小池達子鈴木葉子鈴木淑子志摩のぶ子白井裕子高橋遼子角熊ゆきえ長谷川綾子藤森涼子増田葉子(諸事情により降板)山本潤土屋晴乃 西島まどか三浦奈保子(気象予報士)河島未怜(気象予報士) 他BGM1990年代までは、BGMとしてレインドロップス(鈴木葉子・増田葉子・志摩のぶ子3人のユニット)の『そっとさよなら』(インストゥルメンタルバージョン)が流されていた。2022.9.24追記シニアリストモデルエージェンシー:志摩のぶ子歴史が眠る多磨霊園:豊島与志雄抜粋*タレントの志摩のぶこ(旧芸名:志摩のぶ子、本名:豊島伸子、1958-)は孫娘にあたる。祖父の影響を受けて、明治学院大学文学部仏文科卒業。卒業論文は「アレクサンドル・デュマ」だった。お天気キャスター(「お天気メモ」TBS)で人気者となった。他に「スター誕生」(日本テレビ)のアシスタント、「未来をひらく」(NHK)のレポーターとして活躍した。
2022.08.30
新日本紀行の作曲で有名な冨田勲さんが大忠臣蔵も手掛けていたと知りびっくり。ほかの作曲も調べてみました。YouTubeの動画で紹介されているきょうの料理のできた経緯を知り、親しみやすい名曲はこんな感じでできるかと感心しました。『ニュースセンター9時』オープニング集:ニコニコ動画■参考リンクWikipedia:冨田勲冨田 勲(とみた いさお、1932年4月22日 - 2016年5月5日)は、日本の作曲家、編曲家、シンセサイザー・アーティスト(シンセサイザー音楽作家、シンセサイザー奏者)。概要1950年代、慶應義塾大学文学部在学中に作曲家として活動を始め、NHKや民放のラジオ番組、テレビ番組、映画、虫プロダクション関連のアニメーション等々、映像作品の音楽を数多く担当した。これらの作品は後年のシンセサイザー・サウンドとの連続性は少なく、むしろ親しみやすいオリジナルメロディ、時にジャズ調も交えた華麗なオーケストレーションなどで高く評価された。現在も多くの昨品がCD等で愛聴されている。#主な作品を参照。上京岡崎高校2年生の1949年(昭和24年)、両親の命により慶應義塾高等学校の編入試験を受け合格。慶應高校時代はWVTR東京の放送を夢中になって聴いたという[7]。作曲家小森昭宏と同期。作曲は当初、全くの独学ではあったが、平尾貴四男、小船幸次郎にも師事。作曲家の小林亜星、フルート演奏家の峰岸壮一も高校で同じクラス、作曲家の林光は隣りのクラスであった[8]。高校時代、既に歌手本間千代子も所属する「みすず児童合唱団」で指導もしていた。
2022.08.06
小学生の時好きだった仲雅美さんのポーリュシカ・ポーレを久々に聴きました。いろいろな方が歌っていて、今回Origaさんの歌が印象に残りました。1998年にTBSドラマ『青の時代』(堂本剛さん主演)のオープニングに使われていたそうです。なぜ、当時ロシア民謡が歌謡曲として日本で突然はやったのか、またこれ1曲で終わったのか、調べましたがわかりませんでした。宿題にしたいと思います、別にしなくてもいいんですが。■参考リンクWikipedia:ポーリュシカ・ポーレポーリュシカ・ポーレ(ロシア語: Полюшко-поле)は、1934年に作られた曲。ヴィクトル・グーセフ(Виктор Михайлович Гусев, 1909-1944)作詞、レフ・クニッペル作曲。クリメント・ヴォロシーロフに献呈された『交響曲第4番《コムソモール戦士の詩》』の第1楽章の第2主題がのちに独立して軍歌として歌われるようになった。ロシア語のポーレ(поле)は「草原」の意味であり、ポーリュシカ(полюшко)はポーレ(поле)に縮小辞を付けたもの。直訳すれば「愛しき草原よ草原」と言った意味。「労農赤軍」を称える「軍歌」である。概要スターリン時代の1934年に作曲された。「ロシア内戦」における赤軍(クラースナヤ-アールミヤ、Красная-Армия)の活躍を歌ったもので、赤軍合唱団の歌唱により世界的に知られるようになった。歌詞は”鋭いまなざしのヴォロシーロフ将軍””集団農場で共に働こう””赤軍の英雄””わが軍の快速戦車隊””いかめしい飛行士””快速の潜水艦”などの政治宣伝を歌っている[1]。戦争の主役は騎兵隊であり、パーカッションで馬の走る音が表現されている。日本では1971年に、TBS系テレビドラマ『冬の雲』の挿入歌として仲雅美[2]が歌い大ヒットした曲として知られる。なお、橋本淳[3]による仲雅美の歌った歌の歌詞は、原詞と異なり「恋愛」を歌ったものとなっている。ただ「ロシアの大地」という歌詞から、ロシア人の若い男女の恋愛とも解釈できる。また別の歌詞で岸洋子も歌っている。日本語では『ポーリュシュカ・ポーレ』、『 愛しき草原』、『わが草原』、『小さな草原』、『草原よ』などとも訳される。1998年にはTBS系テレビドラマ『青の時代』(堂本剛主演)のオープニングテーマにOrigaによるカバーが使用された。二木紘三のうた物語:2009年6月23日 (火)ポーリュシカ・ポーレ
2022.07.20
先日のお座敷小唄の松尾和子さんと言えば、池中玄太80キロの中で、喫茶店のママの役が強い印象に残っています。上品な色気で、若さ溢れる藤谷美和子さんとのコンビがドラマに花を添えてました。そのまま夜はスナックをやっても繁盛しそうでした。カスバの女は聴いたことがありますが題名とはじめて一致しました。西田佐知子さんの女の意地は強い女の情念を感じますが、松尾和子さんのはさらっとしてて、これはこれで好感をもてます。2024.3.9リンク切れにより差し替え、削除。■参考リンクWikipedia:松尾和子松尾 和子(まつお かずこ、1935年5月17日 - 1992年9月25日)は、日本の歌手。略歴東京市蒲田区(現東京都大田区蒲田)生まれ、箱根育ち。戦後、ジャズに惹かれたことと自身及び家族の生活のために歌手となり、レイモンド・コンデのバンド、ゲイ・セプテットの専属歌手のひとりとなる。進駐軍のキャンプやナイトクラブなどで歌ううち、徐々に人気が上がっていき、やがて、赤坂のクラブ・リキ(力道山が経営していた)の専属歌手となり歌っていたときに、フランク永井に認められスカウト。吉田正に紹介されて、ビクターに入社。1959年には「グッド・ナイト/東京ナイト・クラブ」でレコードデビュー。「グッド~」は和田弘とマヒナスターズ、「東京~」はフランク永井との共唱。当時はベテラン/人気歌手でも片面は他の歌手である場合が多く、ビクター及び吉田正の期待のほどが窺える。そして第2弾として発売した「誰よりも君を愛す」(マヒナとの共唱)が大ヒットし、それと共に「グッド~/東京ナイト~」もつられる形で大ヒット。「誰よりも~」は第2回レコード大賞を受賞、「東京ナイト~」はその後長らくデュエットソングの定番として根強い人気を博し、松尾の名は一躍スターダムへとのし上がり、後にムード歌謡の女王と称されるようになった。1960年にはソロで吹き込んだ「再会」がヒット。その後も「夜がわるい」「お座敷小唄」「再会の朝」「銀座ブルース」とコンスタントにヒット曲を出していった。私生活では歌手デビュー前の1958年にドラマーの大橋喬と結婚、1963年には長男・政和を授かるが、1966年に大橋と離婚した辺りから人気が下降していく。1971年ごろ、大学生を中心に熟女ブームのようなものが巻き起こり、五月みどりらと共に人気が再燃。この時期以降タレントとしての活動が活発化し、1980年代には「ライオンのいただきます」(フジテレビ)、「午後は○○おもいッきりテレビ」(日本テレビ)のバラエティー/情報番組のコメンテーターとして大活躍し、人気を博していた。また女優としても「池中玄太80キロ」(日本テレビ)などに出演している。1991年には長男・政和が覚醒剤取締法違反で逮捕され、懲役2年の実刑判決を受ける。このことから松尾はマスメディアから厳しく批判され、芸能活動の大幅自粛を余儀なくされる。折からブティック経営にも失敗し、負債は8億円ともいわれた。このことに思い悩み、松尾は睡眠薬を多量服用し、自殺未遂を起こすまでに追い込まれていた。政和がまだ服役中だった1992年9月25日、自宅の階段から転落して頭部を強打する。それでも転落直後には松尾本人は家族に「なんでもない、大丈夫」と無事であることを主張していたが、数時間後に容態が急変し間もなくして死去。57歳没。死因は脳圧迫死であった。あまりにも突然の事故であり、前述の自殺未遂騒動などから、その急死は大きな波紋を呼んだ。この時階段に滑り止めが付いておらず、滑り止めがあれば転落事故は防げたとも話されていた。松尾没後、「(松尾に)歌って欲しい曲がいっぱいあったし、書けと言われれば今も書ける。でも肝心の歌う人がいない。せめてフランク(永井)が健在なら…」というのが、晩年の吉田正の口癖だった。没後20年以上経った現在も過去の作品が多数CD化されている。出所した政和は2011年に48歳で病死している。「夜がわるい」は1994年、“ポスト松尾和子”と目された真奈尚子がカバーし、翌年ビクターのヒット賞を受賞[1]。真奈の「夜がわるい」は約7万枚を売り上げた[1]。
2022.07.11
久々に石川ひとみさんのくるみ割り人形を聴きました。いい歌だし、歌がうまいひとだったんだなと改めて思いました。カバー曲も器用に歌いこなしどれも聴かせます。想い出のセレナーデと、なごり雪が好きです。三枚の写真はこれまで、ちょっと演歌の要素の入った三木聖子さんの一択だと思ってましたが、アイドル的な石川ひとみさんの歌もいいと思うようになりました。■参考リンクWikipedia:石川ひとみ石川 ひとみ(いしかわ ひとみ、1959年9月20日 - )は、日本の歌手、女優。本名、山田ひとみ(旧姓石川)。愛称はひっちゃん[1][2]。血液型はB型。アイドルデビュー〜ブレイク1978年5月25日に、キャニオン・レコードのNAVレコードから「右向け右」でアイドル歌手としてデビューすると、全国58大学で構成する全国ビューティ・オール学生協会から「'78マスコット・ガール」に選ばれるなど、デビュー当時から容姿と歌唱力が高く評価されて大学生を中心に大きく支持を得る。男性誌を中心に水着姿のグラビア撮影が多かったが、生後6日で体験した伊勢湾台風も影響して[5]水を恐れておりデビュー前は水着を1着も持っていなかった。1979年から1982年までNHKの人形劇『プリンプリン物語』で声優として主役のプリンセス・プリンプリンの声を担当し[6]、同局の歌番組『レッツゴーヤング』では太川陽介と司会を務めた。1981年に、ヒット曲に恵まれず最後の曲とするつもりだった[7]11枚目のシングル「まちぶせ」が好評で販売枚数も多く、キャンペーンで全国を巡りながら「歌の楽しさを思い出して、辞めるのはやめようと思った」[6]。「まちぶせ」は長期間ヒットチャートの上位にあり、次のシングル曲として予定されていた「にわか雨」の発売見通しが立たず、にわか雨の時期を過ぎたこともあり発売を見送り、代わりに「まちぶせ」と同じく三木聖子のカバー曲である「三枚の写真」を発売した。「にわか雨」は2年後の1983年6月21日に16枚目のシングルとして発売した。1981年に『NHK紅白歌合戦』に初出場する。
2022.06.14
20,30年前、スナック・ラウンジ・キャバクラ等で楽しく仲間と夜遅くまではしゃいでいると、閉店間際によくかかった曲です。内藤やす子さんのバージョンが好きです。この曲が終ると店内がぱっと明かるくなって、勘定書きを見て現実に帰り愕然としたものです。内藤やす子さんの弟よは、今改めて聴くと若いころ気づかなかった魅力を感じます。■参考リンクWikipedia:メリー・ジェーン「メリー・ジェーン」(英語: Mary Jane)は、日本のドラマーであるつのだ☆ひろが、1971年に発表した楽曲である。解説当時、恋をしていた留学生のマーガレット・ハーレーに向けて書いた曲。しかし、マーガレットという名前は曲に組み込むのが難しく、彼女の友人のメリー・ジェーンの名前を拝借した[1]。結局、マーガレットへの恋は実らないまま終わったという。1971年に、つのだが所属したバンドであるストロベリー・パスのアルバム『大烏が地球にやってきた日』に収録された。この時のタイトルは「メリー・ジェーン・オン・マイ・マインド」であったが、直後に現タイトルに変更した上でシングルカットされ、田原総一朗監督の映画『あらかじめ失われた恋人たちよ』の主題歌に採用された[注 1]。1972年7月に同一音源から間など数小節に編集を加えたバージョンがつのだ名義でのシングルとして再発された。記録本楽曲は爆発的に売れたことはなく[注 2]、発売から7年で50万枚を売り上げ日本フォノグラム (現:ユニバーサルミュージック) 主催「ゴールデン・ミューズ賞」を受賞した。2005年現在で一説には累計売上は200万枚以上とも言われるが、レコード会社の改組や移籍後の再録音盤などがあったため所属のレコード会社でさえ把握できておらず正確には不明である[2]。
2022.05.19
丸八そばでかつ丼セットを食べていたら有線でかかっていた曲です。家に帰って調べたらいろいろな方が歌っています。それぞれに良さがありますが、ちあきなおみさんのが実感がこもってしっくりきます。この曲のルーツを調べましたが、インターネットにはそれほどくわしく出ていませんでした。ヤフー知恵袋に少し紹介されていました。今はもう縁が遠くなりましたが、ラウンジとかクラブとか、女性のいるお店に行って遅くまで飲んでいると、閉店近くになるとこの曲やメリージェーンがかかっていました。メリージェーンのほうが印象が強かったですが、今思うと、そっとおやすみもいい歌です。話は変わりますが、ちょっと前にアマゾン読み放題で読んだスナック初心者のためのスナックガイド!が面白かったです。スナック・パブ・ラウンジ・クラブ等の違い、スナックの選び方、飲み方、話し方、歌い方、スナックの語源、ハウスボトルの秘密とかの解説が参考になりました。今更水割り飲みに行きたいとは思いませんが、スナックという文化にもう一度触れたい気分にさせてくれる面白い本でした。2022.10.6リンク切れにより差し替え。2023.11.19リンク切れにより差替え。楽しく呑もう!話そう!歌おう! スナック初心者のためのスナックガイド! (impress QuickBooks) Kindle版宇野 倫史 (著) 形式: Kindle版■参考リンクWikipedia:クニ河内クニ 河内(クニ かわち、1940年7月7日 - )は、日本のミュージシャン。本名:河内 邦夫(かわち くにお)。実弟は作曲家のチト河内。楽曲提供布施明「そっとおやすみ」(詞・曲)ヤフー知恵袋tom********さん2017/3/21 7:35「そっとおやすみ」( クニ河内作詞・作曲 )を検索すると昭和45年 歌手 布施明 で発売されたレコードがオリジナルのようですが、確か昭和30年代のテレビ音楽番組のエンディングの曲として使われていたと記憶しています。その時の男性歌手(当時ジャズシンガーとして活躍)の名前が思い出せません。どなたか教えていただきたいのです。ベストアンサーこのベストアンサーは投票で選ばれましたloc*****さん2017/3/22 9:03それは、その曲を作ったクニ河内が在籍していた「ザ・ハプニングス・フォー(ハプニングス・フォーとも書く)」というグループの時に歌われていたバージョンだと思います。もともと「そっとおやすみ」は彼らのオリジナル曲です。メンバーの変遷など、ハプニングス・フォーの詳細こちら。↓http://happeningsfour.teee.jp/biography.html#02その頃、リードボーカルを取ったのは「トメ北川」だと思います。これ、4年半前のライブですが、スゲー上手い。↓https://www.youtube.com/watch?v=X_S16-ukkLUハプニングス・フォーはデビュー前に’64年のサンライズと言うラテンバンドとしてスタートしているので、もし’64~66年の2年間であれば、ボーカルを取ったのは、里見洋になります。でもサンライズの頃はメジャー活動してないのでテレビ番組のEDには使われないと思うから、里見洋ではないでしょうね。一応…里見洋も歌が上手いです。ムード歌謡に近いけど。こんな曲を貼るのも・・・・って感じですが。↓https://www.youtube.com/watch?v=kUyiM54xfhs
2022.05.14
小学生高学年のころ、人気のあった男性歌手といえばにしきのあきらさんと野村真樹さん。久々に「もう恋なのか」を聴いたらやっぱりいい歌でした。今度カラオケで歌いたいです。玉置浩二さんのもいい歌です。にしきのあきらさんと野村真樹さんのスター大運動会探しましたがにしきのさんだけ見つかりました。2022.8.23リンク切れにより差し替え。2023.9.18リンク切れにより差替え。2024.9.1リンク切れにより差替え。5:03あたりから■参考リンクWikipedia:錦野旦錦野 旦(にしきの あきら、1948年12月14日 - )は、日本の歌手、俳優、タレント。本名・錦野 明(読み同じ)。概要アイドル歌手として1970年代初めから半ばにかけ、その精悍(せいかん)な風貌と抜群の歌唱力を武器に10代から30代の女性に人気を博す。特に芸能人大運動会(水泳大会含め)では、同期(1970年)デビューの野村真樹(野村将希)と共に抜群の運動神経を披露していた。1970年代後半は東映映画やドラマ等で活躍した。Wikipedia:野村将希野村 将希(のむら まさき、本名:野村 正樹(読み同じ)、1952年11月13日 - )は、日本の俳優、演歌歌手である。旧芸名、野村 真樹(読み同じ)。経歴・人物少年時代より野球で鍛えた抜群の運動神経から芸能人スポーツ大会などでも活躍し、『スポーツマンNo.1決定戦』では2007年10月現在、芸能人大会19回中18回に出場しており、「コロッセオの鉄人」の異名を持つ(ただ腰痛を患っていた時期があり、その時に行われた数回は途中棄権してしまっている)。パワー系が得意で芸能人サバイバルバトルのパワー系の一通りの種目は制覇している。
2022.05.05
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