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立花隆さんといえば、「田中角栄研究…」文春記事で有名、印象的が濃い。フィクションが好きだし、ノンフィクションはあまり読んでいない私には面白くない、その、ノンフィクションライターの立花さんの読書論。だから皮肉っぽい気持ちで読んでいたのだが…。やはり、現代小説は殆ど読んでいないとおっしゃる。調べるための読書であって、趣味のための読書ではないそうだ。当然だろう。しかし、立花さんは学生時代は浴びるように文学書を読んでいる。<中学生・立花隆少年の読書記録>という実際、中学時代の校内誌に発表したその作文そのものを掲載してあるが、中学生の文章のうまさにもびっくりしたし、「小学三年生で漱石を読んで、六年になるとディケンズに熱中した」ように世界の文学書がほとんど網羅してある数々におどろいた。高校は受験勉強で読めなかったといっても、『決定版世界文学全集』(河出書房菊版)を半分以上読んでしまった。哲学書を含め、それが大学時代まで続いたそう。当時の日本の読み手の100人以内に入るのではと豪語?していらっしゃる。さすが!その下地があって社会人となった立花さんは、文藝春秋社を本が読めないと30ヶ月で辞める。文学書が読めないのではない。ノンフィクションの面白さに気がついて、それが読めないというのだ。そして自分の興味のあるテーマを追えるとて、ノンフィクションライターになる。章でいうと、『「実戦」に役立つ十四ヵ条』(仕事と一般教養のための読書についての)『僕はこんな本を読んできた』(対談風読書論、立花さんの姿勢『エコロジー的発想』とは、がわかる)『僕の読書を顧みる<中学生・立花隆少年の読書記録>』(本名、橘隆志で書かれた中学時代の)が、とても面白く読めた。膨大な資料、本の整理と書斎、仕事場についてかかれているのも興味惹かれる。『立花式「実戦」に役立つ読書十四ヵ条―(1)本に金を惜しむな、(2)同テーマの類書を読め、(3)選択の失敗を恐れるな、(4)自分の水準に合わぬ本は途中で止めろ、(5)読むのを止めてもページだけは最後までめくれ、(6)速読術を身につけよ、(7)読みながらノートはとるな(8)ガイドブックに惑わされるな、(9)注釈に注意せよ、(10)書かれていることを疑え、(11)オヤと思った情報はチェックしろ、(12)?と思ったらオリジナルデータにあたれ、(13)難解な翻訳書は誤訳を疑え、(14)大学での知識はなにほどでもない―若いうちはとにかく読め!』(帯より)本の種類はちがっても、目からうろこの読書論、参考になった。実はこの本、ちょっと前(って、もう10年になるのか!発行年が1995年)本屋さんで興味引かれ、手に取りつつも買わなかったのに、例の100円で見つけて速読してしまったのだ。はたと思ったのだが古本屋さんに売るときのため、読むのにはうるさいが帯を棄てないでおこう。何かと役立つ帯(笑)----------立花隆さんが同世代だなーと思って読んだところがある。マルタン・デュガールの「チボー家の人々」やロマン・ロランが当時もてはやされて、ご自分も読まれたけれど(私も忘れられない本)、今は全くでないにしろ読者がいなくなっている。名作はふるいにかけられる、やはり何百年と残らなければ本当の名作とはいえないだろう、というくだりがある。『出版は本来“一過性”のもの』と活字文学の興亡の考察しているのだ。事情はともあれ、なにかもの寂しい。そこで立花さんはノンフィクションの出番だ、というのだろうが…。しかし、「チボー家の人々」は同時代だ。
2005年02月02日
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今を去ること四半世紀前、おもしろくて怖くて夢中だったメアリ・H・クラークの最初の3作品『だれかが見ている』『子供たちはどこにいる』『揺りかごが落ちる』はサスペンス・ミステリの傑作だとの印象が深いけれどもつぎつぎに発表される作品を読んでいくうちにやはり、筆力、こうせ力のマンネリ感がでてきてしまい7作目くらいでやめてしまっていた児玉清さんもおなじ感想とみえて『寝ても覚めても本の虫』にそのように書いていらっしゃるそのなかで児玉さんもおもしろくなくなってやめていたのだけど11作目の『リメンバー・ハウスの闇のなかで』がアメリカのヒット・チャート・トップになったのでひさしぶりに読んだらやけぼっくりに火がついたようになったらしいわたしは読まなくなってもメアリ・H・クラークの本105円で揃えるのは忘れないでいて『リメンバー・ハウスの闇のなかで』『君ハ僕ノモノ』『さよならを言う前に』積読本にしていたのをこの暮れからお正月にかけて読みまくった児玉さんのおっしゃる通り作品は復活・健在スリル満点、続きが読みたくて寝る間も惜しいという老いの身には過酷な状況になったのであった
2015年01月07日
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