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2007.08.09
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テーマ: たわごと(27647)
カテゴリ: カテゴリ未分類
ここのところ、「しょうがない」について考えている。

今や「問題外」扱いされている久間クンの発言だけれど、本当にそれでいいんだろうか。
実は「え、そんなにいけないわけ?」と思っている人だっているんじゃないだろうか。
こんなときは自分がもっと頭がよかったらなあ、と思う。
こういうことを考え出すと、たちまち靄の中に佇んでいるようになってしまうのだ。

久間クンは戦争後のことを考えての発言だった。日本が白旗をあげるのは時間の問題だった。アメリカは戦後体制を考えていた。極東における戦後のイニシアティブの問題。相手は共産主義である。そのための原爆投下だった。日本が赤化していいのか。彼はそれで「しょうがない」と言った。

かくいう自分も久間クンを弁護するつもりはさらさらない。
だが、彼のように考えている人はけして少なくないはずだ。

政治家として、自分の発言が及ぼすであろうことへの想像力の欠如はいかんともしがたい。
しかし、「問題外」として切り捨ててよいとも思えないのだ。

この発言の根底には、「全体のためには多少の(!)犠牲はやむを得ない。それが政治のリアリズムだ」という思想が流れている。すごく粗雑で危険だけれどそういうことだと自分は思っている。
このこと自体への批判がなければ、問題は深まっていかないように思うのだ。

ここにはふたつ、ちゃんと考えなければならいことがあると思う。
ひとつは「多数のために少数の犠牲は本当にやむを得ないか」ということへの問いだ。
そして、もしその考えを採用したとしても、すごく嫌な言い方だけれど「その少数の犠牲は多数のために有効か」という問いだ。ほんと言って、この問い自体が正直なところ私には嫌悪がある。


「原爆投下」に対して「しょうがない」とする思想を私は認めたくない。
だが、それならば数々の「玉砕」はどうなのだろうか。「本土の犠牲を少しでも遅らせ、減らすための玉砕」にたいして、「しかたがなかった」とする人はけしてすくなくないはずだ。なぜ降服してはならなかったのか。その「玉砕」にどれだけの意味があったのか。

ひとりひとりの人間の命のリアリズムは、政治のリアリズムにはかなわないのだろうか。
その時、その決断は、正しかったのだろうか。





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Last updated  2007.08.09 20:46:01
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★みゆきち★@ 性感エステってもったいないよね ムラムラってきたら性感エステに通ってた…
ウラガエル @ お久しぶりです。 suiさん どうされているのでしょう。 …
紫陽花ロック @ 鎧駅は 海に向かって断崖絶壁に駅のホームがあり…
ウラガエル @ そーですか? 育児・子育て きらりさん 「そーです…

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