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うわっ、もう1か月近くも経つんだ、前に更新してから。あなたはどこにいたの?あそこと、ここと、そこにってなんだっけな。本当のことを言うと、韓国語とか、有機肥料のこととか、省エネルギーのこととか、犯罪の被害に遭うというのはどういうことか、とか、そんなことをぐるぐるまわっていたんだ、それで青山とか、九州だとか、尾道だとか、八丁堀だとか、霞ヶ関だとか、高田馬場とかを歩き回っていた。それで気がついたら木枯らしが吹いていた。風の音を聴けってそれはあれでしょ。時代なんてわからないな、結局のところ生きているだけだ。心臓は鼓動している。息を吸って吐いて、ただ生きている。もちろんそれだけで大したことだと思う。内緒だけれど、なにものかに感謝て言ってもいい。意味なんて本当のところわからない。吸って吐いて感じて、いつかそれも消えていくのだろう。
2007.11.22
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コーマック・マッカーシーと会う機会があったら、きっとすごく緊張してしまうと思う。74歳。その人が犯罪小説というのだから驚いた。でも考えてみたら、文体は限りなくハードボイルドだと言えなくもない。この人の作品は過去に(知ってる限り)三冊翻訳されていて、圧倒されたし、どれも愛おしく好きだ。(そうだ、犯罪小説ではなかったけれど、どれにも暴力の影が抜きがたく潜んでいた)でも、その三部作とも言われる小説を読んでいたら、この人はもう書かないのじゃないか、と思わされた。小説なんてあっさり捨ててしまうのじゃないかって。それが、これだもんね。しかもこの犯罪小説の後に書いた小説が大きな賞を受賞したらしい。したたかなじいさんである。読みたい。なんといっても文体なのだ。おとといにはじめて会ったイラストを描く女性のケータイは二つ折り部分に紙テープが何重にもまかれていた。ものすごく痛々しい姿だった。どうしたんですか?壊れてしまってそれは見ればわかりますけれど、ちょっと見せてください。よくみると、二つ折り部分からコードがはみ出したりしている。どうすればこんなにして壊れるんだろう。それでおもしろいんですよ、これ表示が裏返しになるんです。えっ?ほら、文字が反対でしょ。メールを打つときが不便で、ときどき鏡に映して確かめます、ほらね。ほんとうだ、液晶画面に浮き出る文字という文字が、きれいに鏡文字になっている。ていうか、こんなふうにしてまで機能しているケータイってなんだか愛おしいですね。手放せませんよね、ほんと
2007.10.26
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街を歩いていたら、下宿屋を見つけた。あるんだ、いまでもこういうの。木の床、まだフローリングなんて言葉が出回っていなかった時代、古ぼけたガスストーブ。まずいコーヒー。もちろんアルミサッシなんてなくて、木の枠の窓、鍵はねじ式。そばを車が通ったり、風が少しでも吹けば、かたかたと音がするんだ。文庫本の活字なんて今の活字の半分くらいの大きさだったよね。何がいいかな、「カラマーゾフの兄弟」とか。「どてら」とか羽織っちゃって。カエルは遠くまできたと思った。でもほんとうは遠くまできたわけじゃなかったんだ。少し眠ろう、そうしよう。
2007.10.14
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何十年も仕事してきて、この仕事って向いてないかも、と思うときほど寂しいものはない。笑朝どり卵、包装のうらをかえせば中国産というこのごろ、みなさんお元気ですか?(きっこのブログ風 似てない)おじさん、しょうらい何になりたい?えーっおじさんの将来?(なにか哀しい)うん、むずかしかったら好きなたべものでもいいよえ、いいのか(将来について考えていたんだけれど)、急に言われてもな、えーとアイスクリーム。わかった。ということで、ふたりのこどもがあみだくじをつくっている。なぜかゴールにはサッカーせんしゅとか、とこやとか、やきにくとか、アイスクリームとかが一緒にならんでいるのである。おじさん、知っている?あみだくじってね、ぜったいおなじところにつかないんだよそうそう、そうなんだよね。おじさんも長いこと不思議だった。いまも不思議だ。数学に強い人なら、あみだくじの数式とかきっとつくってしまえるんだろうな。もっともそれがあるとして見せられてもわからないおじさんでしかないけれど。だけど人生みたいだろ? それぞれの選択はときに交錯し、出会い、しかしゴールはまたけして同じものはないのである、みたいなこと言わなかった、さすがに。かくしておじさんのしょうらいは?仕事でドツボにはまるおじさんは、あみだくじに将来をかけてもみたいのだ。
2007.10.08
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きっと、知っている人は知っているのだろう。中国地方、とある駅で下車すると目の前はもう海である。この日は蒸し暑く、もやりと潮の香りが漂っている。駅前広場を抜けるとすぐに古びた商店街につながる。路地を入ればすぐに海岸である。海岸には漁船と、自動車数台を積載できる渡し船が何艘か停泊している。すでに夕方、海岸には女子高生数人が座って喋っていたり、老人が海を眺めていたり、子どもが貝殻を並べていたり、これまた高校生のカップルが抱き合ったりしているのである。できすぎな風景だが、つまり映画を撮るなら、ここに女子高生をおいて、向こうに老人がいて、みたいに、まるで作り込んだような風景なのだが、本当のことなのである。話はずれてしまったけれど、その古びたアーケードをもつ商店街の一角にその店はあった。ウバ車である。だが、店内はほとんど老人が主に使用する手押し車が並べられている。あの、疲れたときには座ることもできるし、座席の部分には荷物をいれることのできるものである。思いを馳せてみる。なんといってもウバ車店なのだ。例えば昭和30年代、子どもたちは街にあふれ、なによりこの商店街は堂々たるメインストリートだったのだろう。子どもが生まれたと言えば、両親やあるいは祖父母が、この店にやってきたのである。幼い子どもを抱いた夫婦が、店先にならんだ乳母車に、そっと子どもを置いてみてその感触を確かめたりする。財布をはたいて買った真新しい乳母車に、帰りは子どもをのせて帰ろう。海辺に続く道を通って、少し寄り道するのもいい。かくして時は流れる。子どもたちにも、店主にも、そして商店街にも。アーケードを走り抜けていく子どももほとんどいない。乳母車はいまやバギーである。片足でレバーを下げれば母親が片手でもあっという間に折りたたむこともできる。コンビとかアップリカとか。けれどどうして「ウバ車」、カタカナなのだろう。ウバ、乳母、姥…フェリー、渡し船が、チャイムを鳴らし到着を告げる。接岸したかと思うと、あっという間に車が降りてきて、すれ違うようにして乗船する車が続く。そんな日常的であろう光景も、私には新鮮な驚きだ。波がコンクリートの岸壁を静かに洗い、水道対岸の工場のモーター音が微かに聞こえてくる。
2007.09.21
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メール返信ありがとうございます。ナショナリズムについてのAさんのお考えは、私なりに染み入るように入ってきます。特に日本においてそれを考えるとき、おっしゃっていることが本当にそうだと感じます。私自身、ナショナリズムからできるだけ遠く離れて生きてきたように思います。先日の二次会で、どなたかがオリンピックやワールドカップの有り様を批判していましたが、私の中ではそうしたレベルでの「日本」への肩入れはほとんどありません。また自分なりに日本の風土に対する思い入れと、日本という「国家」に対する考えは、別のものとしてあることを意識してきたようにも思います。しかし一方で、どこへでもころがっていってしまう「自然な感情」としてのナショナリズムに背を向けてしまうとしたなら(私の場合です)、ナショナリズムにとらわれる人たちへの言葉は届かないのではないか、と考えたりもするのです。最近、メディアにおいて、「反日」という言葉をよく目にします。日本のしてきたことに批判的な言説を行うものもの、それが日本人であっても、そこに「反日」というレッテルを貼るのです。これは「反日」が歴史的にどのように生まれ、ことばとしてどのように使われてきたかを考えれば、恐るべきことだと思います。胸が塞がる思いがします。すごく矛盾するのですが、日本という国を愛することを突き詰めていくのなら、日本という国に誇りを持とうとするなら、朝鮮問題に思いをいたし、戦争責任を考え、沖縄について考え、「特定の外国に対する敵意をナショナリズムと呼ぶ」ようなことを批判し、そのようにしてナショナリズムを通過した先に「世界」と繋がっていくことはできないだろうかとも考えるのです。Aさんは「自然な感情には、あらかじめ論理を封じる危険な作用がある」とおっしゃいます。それはその通りだと思います。しかしその自然な感情を否定するのではなく、相対化することのできる想像力を常に自ら問いながら寄り添うことはできないか、ということです。私は長く、日本におけるナショナリズムを軽蔑していました。しかし軽蔑もまた一種の思考停止であって、それでは自然な感情で(それが危ういものだとしても)日本を愛する人たちへ届く言葉は持てないようにも思えるのです。Aさんは、私が「現場を肌身に感じながら考えている」とおっしゃいます。そのように感じていただけるのは有り難いですが、実際はただ夢想していることが多いのです。現実的な人間でもないと思います。これまでの話とずれるようでもあり、繋がっているとも思えるのですが、北朝鮮による拉致被害者のご家族のことをときどき考えます。ご家族たちはなぜ、北朝鮮に対して強硬な措置を訴えるのか。過去の植民地政策の実態を明らかにし、強制連行や強制労働、従軍慰安婦との関わりを詳しく公開し、戦後における政策において反省すべきは反省し、戦争責任と戦後責任をはっきりと認めて北朝鮮と向き合うこと、そうして国交回復へと努めること。乱暴に言ってしまえば、これまでの日本の北朝鮮政策と同格のものとして「拉致」があると認めること、そうであるならば、道義的にまず日本が、ほとんどが取り返しのつかないものであるとしても一歩でも前へ進むことが拉致問題の進展に繋がるのではないか。拉致被害者のご家族こそが北朝鮮の人々の痛みを知るものたちではないのか。私は夢想するのみです。勇気を振り絞り、傲慢は承知でご家族たちに直接問いかけることをよく夢想します。しかし実際はただ新聞を読み、複雑な思いを抱えるのみなのです。「責任の共有の自覚は、ナショナリズムという感情とは別物ではないか」この問いかけについて、自分なりにもう少し考えてみたいと思います。それはその通りかもしれない。いや、そり通りだと思います。しかしモヤモヤしたものが残る。そのモヤモヤを今は捨てず、抱えたまま考えたいというのが現在の心境です。Aさんの問いかけてくださったことからずれてしまったかもしれません。申し訳ありません。それでもこうした機会を与えてくださり(勝手に書いていますけれど)、深く感謝いたします。
2007.09.17
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あれは木曜日のことだったと思うけれど、ほんとに溶け出してしまうのじゃないかと思った。まず、朝、駅の構内でSuicaを落とす。結局見つからなかった。次に会食をしたレストランにジャケットを忘れる。これは翌日連絡をもらった。さらに終電間近の電車で乗り過ごし、タクシーで仕事場に戻った。書いてみるとそれだけか、それだけでも十分だけれど。金曜日には大手町にてビルの谷間で煙草を吸った。通りには人がまばらなのに、近隣のビルからやってきたのだろう、喫煙スペースにはたくさんの人たちがたむろしていた。カエルは声を上げずに叫んでみた。空に向かって叫んでみた。その声は霧散してどこへも届くことがない。
2007.09.16
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「ぼんやりしていると泣きたくなってくるんだ。よくないことばかり考える。…それに実際のところ、よくないことばかりしているんだよ」水口さんはそう言って、黙り込む。突然黙り込むものだから、カエルさんはどうしていいかわからない。しかたがないから目の前の冷たい飲みものをストローですすってみたりする。そのうち水口さんは眠ってしまう。信じられる? 打ち合わせの途中で本当に眠っちゃったんだよ。だけどきっと必要なことだったんだ。カエルさんはそう思う。だから水口さんのつかの間の休息に付き合ってみようと思う。幸いこの後の約束もない。でも、テーブルの向こうで人が眠っているって相当に変だよね。泣かれてしまうのも困るけれど、これはいったいどんなシチュエーションなんだろう。カエルさんはカバンのなかをのぞき込み、有意義な時間の過ごし方を考える。読みかけの本だってある。手帳に水口さんとの打ち合わせで決まったことを書き付けてもいい。最近すぐに忘れてしまうんだよね、いろんなこと。「頼りない感じなんだ。ゆらゆらする。そのうちゆっくり自分は溶け出して地面にしみ込んでいくんじゃないかって思う」うわっ、水口さんが喋っている。顔を上げると水口さんがカエルさんを見つめている。少なくとも10分は眠っていたと思うんだけれど、話はそのまま繋がっているみたいだ。えーと、何の話だったっけ。見つめないでよ、水口さん、それにぼくらはそんなに親しいわけではないじゃない。水口さんはこっちを見ている。だけどよく見るとカエルさんを見つめている、というわけでもない。水口さんはぼんやりしている。ほんとに溶け出してしまったら、どうしたらいいのだろう。
2007.09.11
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かつて、キルゴア・トラウトは、時間をアトランダムに輪切りにしていくとしたら、死んだ人も生きており、生きている人も死んでおり、そのように考えると生死の区分けは無意味となり、あれ? 全然違いますか? 何の本に書かれていたか、忘れてしまっているのですが。「生物は炭素からできているはずという考え方は、かなり時代遅れになっている。現代の考え方は、持続する組織とエネルギー流のパターンこそが生物の本質、というものだ」http://wiredvision.jp/news/200709/2007090623.htmlとか。そのように考えるとなんだか救われたような気持ちがします。これはちょっと落ち込んでみたりもした私に、友人がくれたヒントのようなものなのでした。持つべきものは友達です。そうなのか? 笑台風が去り、恐らく金曜日の夜か土曜日の午前中が水位のピークだったのだろう。ちょっと大げさだけれど、向こう岸が見えないくらいな川面に夕日が沈んでいったのだ。ええ、けっこう考え込んではいます。ない頭で、ということになりますが、それでも考え込むことをしたのです。それが何の足しにもならないとしてもね。
2007.09.09
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夜中に目を覚ましても、それは本当にあったことなのだろう。台風が近づく夜は、恐ろしく湿気を帯びた空気がどんよりと漂っている。そういうものだ。昔々の知り合いであり、後に彼が選んだパートナーを偶然知っており、それでまた出会うことにもなり、彼が彼の仕事で阿賀野にいたときには、友人たちと泊まりがけで脳天気に押しかけもした。それから随分と時が流れたが、折々に、彼の活躍を知ることになる。とある会場で何回か顔を合わせもする。いまでは年賀状だけのやりとりだけだ。恐ろしく勉強家で粘り腰だった。そんなことしか言えないのだから、それはそれだけの付き合いなのである。それはわかっている。私は今日まで生き延びて、それで何をしている?結局は自分のことかい?闇夜を疾走して疾走して。そんなかっこいいものじゃない。這いつくばって。
2007.09.05
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彼のなかに居座るものは、誰のなかにあらわれても不思議ではなく、あらかじめセットされた時間になれば、スイッチがはいるかもしれないのだ。けれどもそれはいま彼のなかにいて、ひっそりと様子をうかがっている。その店のテーブルには濃密な時間が流れ、彼は震えだし、そうして泣いた。追いつめたのは私だったのか。とたんに空気が薄くなるようで、息が苦しくなった。夕方になると、冷たい風がやってきて、雷が光った。約束の時間は過ぎていたけれど、その店にまっすぐ向かう気になれなかった。そこでコーヒーを飲んだ。そのうちに大粒の雨が落ちてきた。私鉄の小さな駅、雨宿りする人たちが静かに雨を眺めている。パチンコ屋の自動扉が開くたびに、いくつもの電子音が絡み合うようにして、それから薄っぺらな中音域だけになったラップの旋律が、流れ出してくる。プレゼンに参加してくれ、この仕事はとりたい。留守電は言っている。昼間の打ち合わせでは酸化還元なんてことばが呪文のように繰り返し唱えられていたものだから、参加、酸化、参加、酸化と頭のなかで繰り返していた。面倒くさいな、だけど約束は守りたいから必死になって提出した構成案だ。酸化しよう、仕事なんだから、何を着ていこう。テレビドラマみたいに、久しぶりにネクタイなんかを結んだりして、これまた久しぶりの官庁街だ。どうでもいいんだ、ほんとうは。だからおもしろいんだ。きっとね。深夜、駅を降りて仕事場まで歩く。この街には雨が降った形跡もない。街灯がにじんで見える。仕事場に戻って、折りたたみベッドを引き出して横になり、本を開く。少しばかり赤色に傾いた銀のインクと墨とのダブルトーン。風景とポートレート。音がどこかに吸い込まれたような静寂の写真の連なり。うまく言えないけれど、そんな写真集。そんな写真集のような紀行文をゆっくりと読んでいる。そのうちすぐに眠くなるだろう。
2007.08.29
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いいか、マミヤ中尉、この国で生き残る手段はひとつしかない。それは何かを想像しないことだ。『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹というのは、まったく関係ないのだけれど、それは埃のかたまりみたいにふんわりと降りてきてのだ。テレビの通販番組で紹介されるような折りたたみ式ベッドが仕事場にある。真ん中で二つ折りになって逆Vの字の形態になって収納されるものだ。間違ってもそのベッドに足からのぼってはいけない。底板はただの薄っぺらな合板だからね。そのベッドでときどき休んだりしながら、もう24時間以上、仕事場にいるんだ。いや、いたんだ。自宅にもどって昨夜は誰もいなくて、部屋中の電気を点けて、それからシャワーを浴びた。本は大きな小説を読み終えたばかりだし、新しい本をひらく気力もなかった。そこでムルキムチをつまみ、最近はまっている電子チャージしたという水を飲みながら、取りためておいた連続ドラマを見ることにする。「数台のトラックがブリキのレストランの外にずらりと並び、潮が満ちてフェリーを浮かび上がらせ、向こう岸へ渡してくれるのを待っている。そばには三人の年老いたスコットランド人が立っていた。彼らの薄いブルーの目は充血し、歯はすり減って小さな茶色の尖塔のようだった。レストランの中ではぴちぴちした女がベンチに腰掛けて髪をとかし、連れのトラック運転手が女の舌に薄く切ったソーセージを乗せていた」『パタゴニア』ブルース・チャトウィン 芹沢真理子訳なんだか痺れませんか。私は痺れます。
2007.08.28
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ワイドショーというのは人間の感情を食べて生きる怪物である。不定形な生きもので、ただひたすら食べ続けている。人間の妬みや嫉妬や羨望や恐怖や嫌悪や憎悪といった、どちらかというネガティブな感情がとりわけ好みだ。そうしたものに裏打ちされた薄っぺらな正義や倫理なんかも好んで食す。それらは結局のところ人間の欲望と括ることができるかもしれない。ワイドショーは食べ続ける。かと言って、ワイドショー自体、他になにをするのでもない。生きる目的もない。向上心など問題外だ。ワイドショーはそうしてひたすら咀嚼する。それから時折、大きなげっぷをしたりする。そんなワイドショーを眺めることがある。それはもちろん長時間、正視に耐えうるものではない。激しい嫌悪におそわれることもある。だが一方でワイドショーという怪物がひたすら消費するその姿に、不思議な懐かしさを覚えることがある。それはそうだ、自分が排泄した様々な感情を、こうしてワイドショーが食べ続けているのだから。ワイドショーはあるとき自分自身だ。不定形でひたすら消費する、まったくもって自分自身だ。とかは、どうでもいいんだけれど、数日前、NHKのニュースを見ていた。朝青龍が久しぶりに自宅を出た、というニュースをやっている。ふつうにニュースを伝えるアナウンサーがふつうにそれを伝えていた。なんだかびっくりする。もう、みんな朝青龍のごたごたは言わなくても知っているよね、みたいな前提を視聴者と共有している。だけど驚くことはない。その通り、大抵の人は朝青龍をめぐるごたごたを「知っている」のだから。「ところでこの朝青龍という人間はなにをしたんだい?」 キツネは聞く。「いや、大事な用事をさぼることにしてサッカーをしていたんだ。それで、えーと」ちょうどテレビ画面には、サッカーに興じる朝青龍の姿が映っている。もう数え切れないほど繰り返し使われた映像だ。「実に生き生きしている。これがなにか問題なのかい?」キツネがいう。そうだね、どこかでは問題なのだろう。私は自分の知っていることを、知っていると思っていることを説明する。そうしながら、恥ずかしさの感覚にとらわれている。説明はしだいにどうでもよくなってくる。キツネはそんな私をじっと見ている。そして唇をひしゃげて笑ってみせる。「それだけ?」
2007.08.25
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何日か前に超常現象のことについて少しだけ書いた。自分は悲しくなるほど、そういう経験がない。例えば、親しい人が亡くなったときに、自分の身の回りに非日常的なことが起きるとか、いわゆる「虫が知らせる」というようなこと。そんなこともない。友人の話だけれど、例えば渋谷駅前のスクランブル交差点を行き交う人のなかに、すでに死んでいる人を見つけることがあるという。それもめずらしいことではない。そんなばかな、と思うけれど、この人はふだんずば抜けて冷静な人である。また別の知人に、この人はそんな経験がないだろうと話してみると、彼はいう。「いや、けっこうあるよ。でもそのての話は妙な盛り上がり方をするからさ、人には話さないことにしているんだ。」彼にとっては、特別な経験だが、それは誰かに話すようなことではなく、極めて個人的なこと、というわけらしい。遊体離脱についても驚くほど証言がある。だったらそれらは本当にあることかもしれない。多くの人にとって、少なくとも「本当にあったと感じられている」ということは確かだろう。私はこうした自分にとってはあり得ない現象を頭から否定もしないし、ばかにもしない。なぜなら、ものすごく現実的と思われる自分の日常も、「本当にあったと感じられている」、ただの脳内幻想かもしれないのだから。それにちょっと願望もする。「本当にあったと感じられている」現実は、少しばかり退屈だったり、過酷だったりするからだ。あれだけの暑さを経験したのだから、今日の暑さなどなにほどのこともない。はずなのだけれど、蒸し上がる午後だった。何かが降りてくるのを待っている。でも降りてこないんだよね。
2007.08.20
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それでも書いておく。その人は亡くなられてはじめて知ったのだけれど、同い年だった。学年はその人がひとつ上。今日はお通夜。あれは7、8年前だったと思うけれど、広尾の中央図書館の館内エレベーターの扉が開いたとき、その人が本を抱えて立っていた。こんなところで近所の人に会うとは思わなかったから驚いた。その人はこちらに気づかずに通り過ぎていく。私は声をかけなかった。弟さんは何かが溢れ出すように、話した。私はそれを聞いていた。私は話を聞く。私、私、私。弟さんは、私の家の前を、大きなシェパードに引きずられるようにしていつも走っていく。弟さんは母親を亡くされてから4年、兄であるその人の最も身近な人間として生きてきた。そして、その人は亡くなった。弟さんの人生は続く。
2007.08.18
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母親の兄嫁にあたる伯母が亡くなった。夫を30代で亡くし、それからは自分で商売をはじめた。堅い仕事だった。80を 過ぎ、倒れる直前まで自分で車の運転をこなし、仕事を続けた。親戚の法事で顔を合わせると、最初にこちらに気づいてくれ、ここにすわりなさいと手招きをしてくれるのだった。そんなとき、若い頃の話を聞かせてくれたことがある。東京の下町に生まれ育った。東京では小料理屋を営んでいた時期もあるらしい。年老いてもきりりとした身のこなしで、気っ風のいいところがあった。いつも着物を上手に着こなしていた。亡くなったのは7月なのだが、私がそれを知ったのはつい数日前なのだった。こどもはいなかった。伯母の妹の息子さんが喪主となった。若いときから息子のように可愛がられ、学生時代には寄宿もしていた。大学を出て東京で就職し、結婚をした。それからまもなくしてこの伯母の店の近くに土地を買い、家族で移り住んだ。足元がおぼつかない母親を連れて、線香をあげにいく。ぎらぎらと太陽が容赦なく照りつける。熱風がゆらりと吹き寄せる。
2007.08.14
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打ち合わせにアイスクリームを差し入れに持っていく。アイスクリームと言えばラムレーズンである。会社に出向くと、前の打ち合わせが押していた。そこの打ち合わせに参加していたのが偶然知り合いの女性で、某局でディレクターをやっている。およそ声がでかい。他を圧するテンションだ。誰もが振り返る声で私の名前を呼んでくれる。ははは。暑い。美術手帖のバックナンバーをぱらぱらとめくって打ち合わせが終わるのを待つ。美術手帖は写真家の特集である。あいつがひよっこり取材を受けていないかと探してみる。そろそろ露出しないかな、とその友人とは疎遠になってしまったけれど、気にかかる。あ、一緒に仕事をしたカメラマンの名前がある。それから野口里佳さんとか。野口さんはドイツを拠点にしていて、そのことを語っている。うろ覚えだけれど、こんなことを言っていた。「フジヤマ」をお土産みたいにして持っていくのは嫌だった。ここにいるなら、ここでの写真を見てもらいたかった。そんな感じだ。「フジヤマ」は間違いなく彼女の代表作のひとつだ。なるほどな、そんなふうに考えるのか。その地にいて、そこで写し撮るもの。そのことこそを見てもらいたい。ちょっと目が覚める話である。打ち合わせは10分で終わる。それから雑談する。この人と雑談するのはいつもながらの楽しみだ。私は最近自分が会った人物について話をする。少年時代の貧しい暮らしを経て、様々な紆余曲折があり、会社をおこし、いま、独特な商品を作り上げ財をなした。その人と話していると、超常現象の話がよく出てくる。遊体離脱とか、余命を宣告された人が奇跡的な帰還を遂げる話とか。もちろんそんな話ばかりではない。例えば現実日本政治に話が及ぶと恐ろしく明晰な分析をしてみせたりもする。そんなことから脳内の化学反応とか、脳内信号とか、神経症とか統合失調症とか、様々な話をする。もちろん雑談に過ぎない。人間の脳がつくりだすさまざまなビジョン。そういうことを考え出すと、「自分」とは何か、ということに行き着く。自分は、どこからどこまでが自分なのか。自分の境界とか。そう、雑談にすぎない。だがそうやって、今週がちがちになった頭がほぐれていくのがわかる。それもそういうイメージを作り出す脳の気まぐれかも知れないけれど。
2007.08.11
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ここのところ、「しょうがない」について考えている。今更だけれど、久間クンの発言から。今や「問題外」扱いされている久間クンの発言だけれど、本当にそれでいいんだろうか。実は「え、そんなにいけないわけ?」と思っている人だっているんじゃないだろうか。こんなときは自分がもっと頭がよかったらなあ、と思う。こういうことを考え出すと、たちまち靄の中に佇んでいるようになってしまうのだ。久間クンは戦争後のことを考えての発言だった。日本が白旗をあげるのは時間の問題だった。アメリカは戦後体制を考えていた。極東における戦後のイニシアティブの問題。相手は共産主義である。そのための原爆投下だった。日本が赤化していいのか。彼はそれで「しょうがない」と言った。かくいう自分も久間クンを弁護するつもりはさらさらない。だが、彼のように考えている人はけして少なくないはずだ。久間クンにとっては失言でも暴言でもない。きっと本当にそう思っていたのだ。政治家として、自分の発言が及ぼすであろうことへの想像力の欠如はいかんともしがたい。しかし、「問題外」として切り捨ててよいとも思えないのだ。この発言の根底には、「全体のためには多少の(!)犠牲はやむを得ない。それが政治のリアリズムだ」という思想が流れている。すごく粗雑で危険だけれどそういうことだと自分は思っている。このこと自体への批判がなければ、問題は深まっていかないように思うのだ。ここにはふたつ、ちゃんと考えなければならいことがあると思う。ひとつは「多数のために少数の犠牲は本当にやむを得ないか」ということへの問いだ。そして、もしその考えを採用したとしても、すごく嫌な言い方だけれど「その少数の犠牲は多数のために有効か」という問いだ。ほんと言って、この問い自体が正直なところ私には嫌悪がある。「原爆投下」に対して「しょうがない」とする思想を私は認めたくない。だが、それならば数々の「玉砕」はどうなのだろうか。「本土の犠牲を少しでも遅らせ、減らすための玉砕」にたいして、「しかたがなかった」とする人はけしてすくなくないはずだ。なぜ降服してはならなかったのか。その「玉砕」にどれだけの意味があったのか。ひとりひとりの人間の命のリアリズムは、政治のリアリズムにはかなわないのだろうか。その時、その決断は、正しかったのだろうか。
2007.08.09
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「俺の娘は新垣結衣に似てるんだ」ってタニグチさんは臆面もなく言う。最近覚えたばかりの「ガッキー」とか「ゆいぼ」とか、そんな言葉が浮かんだけれど、ここは黙っておく。「今、東芝日曜劇場に出てる子、知ってる?」タニグチさんは続ける。でも、タニグチさん、もうとっくに東芝日曜劇場って言わないんだよ。まあいいけど。タニグチさんはそうして煙草をくゆらす。そう、タバコだ。先日の九州で何十年ぶりにタバコ畑を見たんだ。昔は関東地方でもタバコ畑を見ることができた。今でもあるかもしれないけれど、タバコ農家なんて言葉も聞かなくなった。知り合いのおばあさんが言っていたっけ。「タバコはほんとうに神経を使うんだ。何本植えたかだけじゃない。葉の数だって一枚一枚数えて記録しなければいけないんだよ」。それから思い出した。団塊の世代の先輩はそれに続けて、子どもの頃、タバコの葉を乾燥させる、それを取り込む、そんな仕事をよく手伝わされたものさ。「ものすごい量の農薬を使用しているんです」タバコ畑を示してくれた仕事先の人は言った。「とにかく散布しているところをみたら禁煙したくなりますよ」東京に戻って、American Spritというタバコを買った。能書きはこうだ。「ご存じですか? 一般のタバコには、化学添加物が多く含まれている事実を…」さらに続けて「一般のタバコには、合成保存料、燃焼促進剤、香料といった多くの化学添加物が含まれています」このブランドのタバコにはオーガニックをうたっている製品もある。なんだかそうしたこといっさいが冗談みたいな話だ。タニグチさんが話している。「実際、気がついたら仕事を続けてきたってことだけだよね。もし仕事がなかったらさ、俺なんかなんの価値もないよ。なにもできないし」。そうして年々、プレッシャーが強くなっている、と力なく笑ってみせる。こちらからみれば、タニグチさんは立派に仕事をこなしている。知っている限り納期を遅らせることもない。それでもタニグチさんはよく夢にうなされる。仕事がまったくこなくなる、あるいは仕事がまったく片付かなくて、誰かがやってきてタニグチさんを罵倒し続けるのだ。「妹から電話があってさ、そこに甥っ子がいるんだけれど、息子がほんとうにやりたいことを探しているから相談に乗ってやってくれっていうんだ」タニグチさんはまたタバコを手に取る。それから「わかるだろ?」って顔でこちらを見やる。すっかり薄くなった髪の毛を掻き上げる。「そんなものどこにある? まあ、そういうのを探すのもありかもしれないけれど、まずは働いてみることだなって俺は言うよ。考えるより働けってことだ」タニグチさんは大きなため息をつく。自分だったらなんと言うだろう。結局は自分の経験から考えることしかできない。様々な局面で何かを選択してきたはずだけれど、振り返ってみれば偶然の積み重ねでしかないようにも思える。人生論は嫌いだし、人に言えることなんてなにもない。それからふっと言葉が浮かぶ。「続ケラレル仕事ヲ見ツケナサイ」「えっ?」タニグチさんが聞き返す。
2007.08.06
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なんだ、そうだった。前に20歳年上の友人のことを書いた。友人と言えるほどほんとうは親しいわけではないのだが、自分のなかでは十分に友人なのだ。彼が大切にしている言葉があって、それは「私はそうは思わない」というものだ。佐野洋子のエッセイ集のタイトル。彼がそれを読んだのかは覚えていない。私の人生は、まあ多く見積もってもあと10年だと思っている。大したことをしてきたわけではない。これからもできるものでもない。それにもう十分に老人である。何かを伝えたいか? そのように願っていたこともある。だが私には無理なようだ。私はただ本を読み、いくらかは歩き、世界を見つめ、親しいもの、あるいはあなたのような新しい友人に、その話ができたらばいい。何かしら伝えることがあればいい。そうして、もし引っかかることがあるならば、世界に、あるいはそれが知人であったとしても「私はそうは思わない」と言いたい。そのように生きたいと願っている。そのようなことを、その人は言ったのだ。私はその言葉を持ち帰って、ときどき懐から取り出してみている。私はそうは思わない。それから自分の中になぜか残り続けた言葉をひそかにつぶやいたりもする。それはこのようなものだ。「そうかもしれない」「私はそうは思わない」と「そうかもしれない」の距離。「そうかもしれない」は耕治人という私小説作家の小説のタイトルである。昔々、知人からそのストーリーを聞いたのみで、読んだことがない。それで話すのもなんだけれど、知人から聞いたのは次のようなものだった。作家の分身と思われる主人公の妻がアルツハイマーとなる。妻は入院を余儀なくされる。ある日、主人公は妻の見舞いにでかける。看護師であったか、ベッドに横たわる妻に話しかける。「ほら、ご主人がお見えになりましたよ。ご主人でしょ?」妻は、主人公のほうに顔を向ける。そうして言う。「そうかもしれない」正確ではないかもしれない。でも、そのとき以来、この言葉が自分の中にすみついてしまったのは確かだった。それ以来、その言葉はしだいに意味を変えていくようにも思われる。あるとき、人に問われる。あなたは座右の銘として「そうかもしれない」と書かれていますよね。どういう意味ですか? 私はでたらめを言う。保留するという意味です。断定を避ける。「そうかもしれない」とはいう。しかし一方でそこで抱いたはずの世界への違和感を大切に考え続けるという態度表明です。嘘だけれど。けれど実際はその嘘を少し考える。保留はほんとうは思考停止に近い。そうではなくて、断定せぬまま、棚にしまい込むでもなく、考え続けることはできるか。それはたんに問題の先送り、決定することからの逃走ではないのか。とか。まあ、大げさではある。このへんにしておこう。ただでさえ待ったなしのことが多いのだ。仕事の納期、来月と再来月の生活費、そして明日の朝のお弁当。今日もまた、どこへも行かない日記である。
2007.08.03
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ちっとも深まらないのだけれど、あれから折に触れてAshes and Snowのことを考えている。確かに見事に作り込まれた映像である。それらの映像が生み出されたのにはどれほどの忍耐と知力が使われたのかと考えると目眩がする。しかしそうした苦労も感じさせないほど、ずば抜けて完成度が高い。賞賛されるだろう(されているだろう)ということも納得できる。興味を持たれた方はサイトをのぞいていただきたいのだが(これも相当な作り方です)、作家の言葉としてつぎのように記されている。たとえば、「全ての動物が共有できる言葉と詩的感性を探求しながら、私はかつて人間が動物と平和に共存していた頃の、共通の土台を再発見することを目指しているのです」「私の画像が描き出す世界には、始めも終わりもなければ、こちらとあちらという観念もなく、過去も現在も存在していません」―Ashes and Snowの制作者グレゴリー・コルベールうーむ、脱帽というほかはない。よくわからないけれど。しかし、私にはこの世界がとっても閉じられたもののようにも感じるのである。完璧で作為的な世界。独特でありながら、既視感のようなものすらある。もっというと、西欧からの消費され尽くしたアジア観というのも透けて見える。そして繰り返すけれど、ひたすら美しい。だけどその美しさはどこかとっても不自由だ。自然とか、神話とか、サンクチュアリとか、遊動(!)とか、そして当然なんだろうけれど、各方面、絶賛の嵐とか。落ち込む必要なんてないはずなのに、なんだか哀しい。この世界でひとりぼっちのような(似合わないけれど) 笑それでぼんやりとシネノマドの、Three Windowsのことを思い出したりした。あれはやっぱりすごかったなあ。あの作品には奇跡に近い(そういう言い方は同じく安易で危険だけれど)、自由さがあった。誰もどこかへ連れて行こうとはしない。しかししだいに笑いがこみ上げてくるようだった。
2007.07.31
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福岡を夜の8時に出発し羽田へと向かう飛行機は乗客で満杯だった。友人のデザイナーは、PCを取り出して、Ashes and Snowをみせてくれた。それは60分の映像作品で、無音のまま私はそれをきっかり25分みて、PCを閉じ、友人に戻した。それは美しく、完成度の高い映像作品であることは間違いがなかった。私が眺めていた25分間、画面はセビア色で、1カット1カットがそのまま静止写真としても完成度の高い、見事な語り口なのだ。だが、私にはそうしたこと一切が息苦しく感じた。見事に作り込まれた映像が、それは皮肉でもなく本当に見事なのだが、私にはそれがやりきれないのだ。これがAshes and Snowとの最初の出会いである。このことを書き付けておく。
2007.07.28
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今度はタケウチくんの話。タケウチくんの娘はこの春、小学1年生になった。おめでとうっ!娘さんの名前を仮にケイコちゃん(いまどきいないけれど)としよう。ケイコちゃんが教室で遊んでいると、同じクラスのユウナ(仮名です)ちゃんに声をかけられた。ユウナちゃんはケイコちゃんをなぜだか階段のそばまで連れて行った。ケイコちゃんと遊んでいたお友達のアキナちゃんもなんだか気になってふたりの後を追った。ちなみに教室は校舎の2階である。ユウナちゃんはケイコちゃんに言った。「あんた、ここから突き落とすからね」ケイコちゃんはあまりのことに口がきけなかった。そこでお友達のアキナちゃんが言った。「そんなことしたら死んじゃうかもしれないよ!」「そうよ、死ねばいいじゃない!」ユウナちゃんは叫んだ。ケイコちゃんはやっと「どうしてそんなこと言うの?」と言った。涙がでてきてとまらなかった。ユウナちゃんは階段を見下ろしたまま何も答えず、それから二人を残すと教室に戻ってしまった。同じ日のお昼休みのことである。子どもたちは校庭で遊んでいた。ジャングルジムとその周辺が、その日は1年生の女の子たちの遊び場になっていた。ユウナちゃんはジャングルジムの一番てっぺんに恐る恐る立っていた。ユウナちゃんは叫んだ。「ここから落ちたら死ねるわよ!」ユウナちゃんはまわりの子どもたちを見下ろしてさらに続けた。「死んだら自由になれるのよ!」アキナちゃんは言った。「自由になんてなれないよ!」「嘘よ! 死んだら自由になれるんだからっ」ユウナちゃんはそうして泣き出した。みんなはユウナちゃんを黙って見つめていた。そのうちにお友達の誰かが先生を呼びに走った。「それからどうしたの?」「いや、それから先のことはわからない。だけど、次の日もその次の日もユウナちゃんはフツーだよってケイコは言ってる。ケイコもユウナちゃんとフツーにつきあっているって」オチなんてないんだ。僕らは沈黙している。
2007.07.19
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あくまでタケルくんの話である。笑タケルくんの娘は今年、小学校に入った。今週が終わると、もうはじめての夏休みである。はじめての夏休み。なんかいい響きだ。それで、学校からはいろんなプリントを持ち帰ってくるそうだ。いわく夏休みの過ごし方とか、夏休みに必ずやること、それからごていねいに見本つき絵日記帳なんかもある。必ずやることのなかには、例えば作文があり、あわせていくつものコンクールとか、懸賞作文が紹介されている。それぞれにはテーマがあり、例えば「私と下水道」とか「トンボ」とか「お米とわたし」とか「非核平和」なんかが並んでいる。そうしたなかから「ひとつより多く」作文を書かなければならない。なんといっても娘のはじめての夏休みである。ま、いちおうね、ということでそんなプリント群をいちいち眺めていた。そうしてタケルくんは次第に腹が立ってきたのである。「なんかさ、うるさーいって言いたくなってさ。いちいち何から何まで余計なお世話だ! ていうか」タケルくんは思った。怒濤のようにはじめての一学期が終わろうとしている。はたから見ていると、娘は十分に盛りだくさんの新しい規則やら勉強にぶつかってきたのである。これ以上、なにをやらせようというのだろう。なんと言っても夏「休み」なのである。なにをしようが勝手ではないだろうか。ていうか、学校のことなどパシッと忘れてぐたーっと過ごせばいいではないか。ひたすら遊ぶか、ひたすら好きなことをする。もうこれ以上何をしていいかわからない。あるいは、たとえば「む」とか「を」の書き方なんて忘れてしまう。9-2=なんて、あれ? いくつだっけ? そんなんでいいではないか。それでもやがてはじめての夏休みに終わりはくるのである。忘れてしまったことも思い出さなくてはならない。いつかは規則や決まり事だらけの世界にもどっていく。おかえり、われわれの世界へ。タケルくんはわなわなと怒りに震え、やがて大きな溜息をついた。娘が不審そうにタケルくんを見ている。いけないいけない。ここは鎮まらなくては。間違っても「学校なんてくだらねーっ!」なんて感情にまかせて言ってはいけないのだ。娘は毎日たのしそーに学校に通っている。前の晩には、「あすがっこうへもっていくもの」なんかをいそいそと揃えている。それを大人が「くだらねー」なんて言ってはいけない。だっていま、大人であるタケルくんは娘に「学校」以上の世界を提示できないのだから。タケルくんは娘に笑ってみせる。「いろいろあるねー。なつやすみ、たのしくしよーねー」。ほとんど意味がないことばが放たれて、やがて空中で霧散する。それでもとにかく来週からは夏休みがやってくるってわけだ。(写真は本文に関係がありません、とか)
2007.07.18
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お盆のお迎えにきゅうりの馬となすの牛をつくるのはなぜか?先祖の霊をお迎えする。そのときに、きゅうりの馬に乗ってなるべくはやく帰ってこられますように、そうして戻られるときには、なすの牛に乗ってゆっくり行かれますように。ということだった。昨日の山手線の車両内の広告にそのように書いてあった。広告主は上野・浅草通り神仏具専門会とか。その人たちは自分たちのことを「機械屋」と呼んだ。仕事でなければまるで縁のない世界なのだが、ある機器の使用法と改良方法についての講義を4時間にわたって聞いていた。丸ビルのコンファレンスルーム。前にここには来たことがある。竹尾のペーパーショーだった。質問はどれもどこまでも具体的で、そのためにこれに応える回答もとても明解なのだった。自分にはそのことがとても新鮮だった。自分は正解のないような世界でいつも右往左往している。それでも間違いははっきりしている。もちろん間違いはあってはならないのだが、万一誤っても、そのことで誰かが怪我をしたり、死に至るわけでもない。別に特別な仕事でもない。だがとにかくそれを続けてきた。夜半を過ぎてベランダに出てみた。煙草に火をつけた。嵐はすぐそこに来ているのだが、ひんやりとおだやかな風が静かに流れている。
2007.07.13
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「おとうさん、ママチャリタロウ… なんだっけ?」「ああ、ママチャリタロウスケマサね」「そうそう、それ。その人のお話しして」ママチャリタロウスケマサは、そうして生まれた。もちろんママチャリに乗っていなければならない。ママチャリタロウスケマサは男の子でそれなりの身長があるから、まあ、おとうさんよりちょびっと高いくらいだけどさ、本当はサドル(あ、自転車の座るところね)を上げたほうがいいんだけれど、ママチャリというのは誰もが乗るものでしょう? だからサドルを高くしてしまうと後で文句を言われたりするわけ。もちろん自転車を降りるときにきちんと元通りにサドルを下げればいいんだけれど、面倒くさいじゃん。だからそのまま乗っちゃうわけ。すると、なんかこう、足が余っちゃうというかさ、自転車って、高いところからペダル(あ、足を置くところね)を踏み下ろしてそれで力が入るでしょ。それがうまくいかないから、なんかだらけたかっこうになっちゃうんだ。でもママチャリタロウスケマサは背筋をぴしっと伸ばして、こう前傾姿勢になって、前傾姿勢というのはこんな感じね、前に傾けるっていう意味。それでまあ、颯爽と進んでいくんだな。颯爽っていうのはだな、すっきりとか、さわやかーっみたいな感じでね、そんなふうにして自転車を漕いでいくわけだ。どこへいくの?そうだな、どこへ行こうか。
2007.07.12
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今年の11月から河出書房新社が配本する世界文学全集。ちょっと(かなり)わくわくする。池澤夏樹個人編集だ。選び出された作家と作品をつらつらと眺めていたら、なんだかドキドキした。それだけなんだけど。そんなわけで、チャトウィンの「パタゴニア」を本棚から取り出してみる。だからブロントサウルスなのだ(なのだって)。マリコさんはそうして森で踊るのだ。幸か不幸か、ワタシはこれまでに何人ものすっげえブンガクの読み手に出会ってきた(ほんとは数人だけど)。だから自分がただのブンガクファンだってことが痛いほどわかっている。それはちょっと哀しみをともなっている。でも今さら嘆いてみてもしかたがない。確かなことは、結局のところ、ブンガクに触れるときめきを手放せなかったってことだ(ベタかよ)。優れたブンガクに出会うと震えることがある。どうしてこうも人は言葉に執着するのか。優れたブンガクには、深い業としか言いようがないような、語ることへの執念がある。信じがたい緻密な思考があり、集中がある。しかしそれほどまでに執着し、思考し集中しながら、それでもなお、生み出した人間にもおそらく説明することのできない瞬間がくる。語りは書き手を離れる。書き手はその瞬間が訪れたことを知る。興奮は抑えなければならない。冷静に昂揚し、駆使できる技術を総動員し、そうしてそれを注意深く定着させるのだ。ワタシはそうしたことを感応することしかできない。だがそれはある。優れたブンガクはそのようにして息づいている。たぶん。だが優れたブンガクも、世界を変えるわけでもない。ただのことばの羅列にすぎない。ひとりの人間を揺さぶることさえ稀なことだ。そしてたとえ揺さぶられたとしても、その人間を変えることなどできない。ブンガクはそのようにして、ここでもただそこに在るだけだ。ただそこに在るブンガク。オチにもならないけれど。さあ、「パタゴニア」へ
2007.07.11
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ブロントサウルスは世界の果てに棲んでいて、大きすぎてノアの箱船に乗せてもらえず、溺れ死んだ動物である。
2007.07.09
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昔世話になった人が少し前にお亡くなりになり、そのお宅に線香を上げにいった友人が言う。そうそう、川口さんの息子夫婦な、子どもを育てているんだよ。えっ? 子どもはいなかったろう? うん、あずかることになったらしい。4歳でな、幼稚園の制服とかが壁にかかっていてさ。あずかるって?18歳になるまでは預かるらしい。里親ということ?そうそう、それだ、里親。電話でそんな世間話をした後に、しばらくぼんやりした。川口さんに会っていた頃、息子さん夫婦を一、二度見かけたことがある。夫妻は子どもを望んでいるのだが、なかなか授からない。「不妊治療を受けているんだが、見ていると楽ではないんだ。子どもにこだわらなくともいいと思うんだが、本人たちの問題だからな」。生前の川口さんがなにかの折りにそんなふうに言っていたのを思い出す。子どもは授かるもの、という思いがある。子どもはやってくるかどうかわからない。子どもがやってくることがあるとしたら、自分はどうするのか、そのことは最初に考えておく。産まない性である自分はそんなふうに考えていた。受動的ではあるけれど、どのようなことが起きても主体的に受け止めよう、というような。一方で、不妊治療についていくらかは知っていた。ほんのいくらかだが、やはり近くで、不妊治療を続けていく苦労を聞くことがあった。例えば北海道に住む人が不妊治療で有名な栃木県の病院に通うというようなこと、あるいはまた、さまざまな副作用で苦しむ人の話、そしてそれを続けた先に、子どもを断念することがあることも。そうしたことを知る前に、私は不妊治療にたいして、否定的な思いがあった。よく言われていることだが、それはある意味不自然な医療行為であるからだ。だが、実際に治療を通して子どもを授かった人たちの話や、先に書いた断念した人の話を知ることを通して、しだいに私はなにも言えなくなった。産まれる、あるいは産まれないという事実は、とても重たい。それは不自然な医療行為かもしれないが、それを言うなら、子どもに限らずほとんど誰もが、そうした「不自然な」先端医療を通して、今を生きているともいえるからだ。子どもを授かることを切実に望み、そのために具体的に費やしたものがあり、その上で断念した川口さんの息子さん夫婦のことを思った。そして詳しい事情は知らないけれども友人が会ったという、夫妻の「こども」のことも。家族はあたりまえのようしてそこにあるのではない。そのことも思った。彼ら夫妻は「こども」を引き受けただけではない。彼らは家族であるということもまた、あらためて引き受けようとしたのだ。
2007.07.04
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稲吉は走っていた。稲吉はかつて親しい友人にもらしていた。自分は右翼である。この日本という国をどこまでも愛している。そして日本民族を。だが稲吉にはどうしても理解しがたいことがあったのだ。なぜ先の戦争のとき、天皇陛下は責任をとらなかったのか。そうして国体護持のためにいたずらに敗戦の受け入れを引き延ばしたのか。それでは左翼の糾弾と変わらぬではないか。友人が冷笑する。そうだろうか、そうかもしれぬ。稲吉はうつむき、黙り込んだ。到底届かぬであろうことばをそうして体にため込むようにして、だが稲吉は思っていたのだ。たとえ陛下が責任をとり、退位をしたとしてもそれでよかった。天皇は平民となり、国体はズタズタに解体されたとしても、民族が死滅するわけではない。日本民族はそこから本当にすべき戦いを戦い、やがて誇りある再生を遂げるだろう。そうして新しい天皇陛下を押し上げることだろう。それが本当の意味の日本の再出発になるべきだったのだ。稲吉はこうも思う。日本は国力で負け、兵力で負け、そうして道義で負けたのだ。連合国の「正義の戦い」はまやかしである。だがそれならばなおのこと、日本は「正義」を貫かなければならなかった。アジアの盟主として欧米列強の軛を解き放つために、なにより「正義」を立てなければならなかった。それなのにどうしたことだろう、アジア諸国でわれわれ日本国がしてきたことは、なんと薄汚れたことだったか。われわれは恥辱にまみれ、しかしそこからスタートするほかはなかったのだ。だが戦後に日本がしてきたことは正反対のことだった。日本がアジアにしてきた非道の数々をひたすらに小さく見積もろうとした。日本は責任をとろうとしなかった。そうして豊かになった。これほどの恥辱はあるだろうか。このままでいて、日本人は誇りを、道義を、取り戻すことができるだろうか。そうではない日本へ。稲吉は夢想した。そうではない日本へ。稲吉はナイフを腰にため、走っていた。
2007.06.27
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ここのところ、ほとんど20歳年上の人のことをよく考えている。男性である。とある会合で知り合い、少しずつ話を交わすようになった。御茶ノ水の駅前、路地を入ったところにある、いまだビニール張りのシートの喫茶店で話をする。店主なのか、和服に割烹着を身につけたおばあさんがゆらりと立っている。その人は、大きな会社を定年退職し、それからたくさんの本を読んでいる。すごく繊細な人なので、話しているとどきどきする。私たちは対話し、そこで引っかかったことを持ち帰ってさらにメールのやりとりなどもする。その人は生硬な、そして集中して考え込まれた文章を送ってくれるので、私はそのことばを噛み砕くのに難儀する。仕事の合間にその人のことばをとりだして、手に取ってみる。上から見たり横から見たりかざしてみたりする。いけない、仕事に戻らなくては。私はもとより正しい人間ではない。矛盾を抱え、偽善に生き、まあ、はっきりいって悪人だ。それでもなお生きていたいので、生きるにあたっては、もう少しは考えて生きていきたいものだとは思うのだ。そのくらいはしてもいいだろう。そのくらいはしなくては。自分にいう。その人のことばへ向けてかえすことばを組み立てる。自分はどのように生きてきたのか、そのことが問い直される。つらいこともあるけれど。
2007.06.26
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ぼーがいっぽんあったとさはっぱかなはっぱじゃないよ かえるだよかえるじゃないよ あひるだよろくがつむいかにあめざーざーさんかくじょうぎに ひびいっておまめをみっつ くださいなあんぱんふたつ くださいなこっぺぱんふたつ くださいなあっというまに あっというまにかわいい こっくさんときは1993年ころ。奥村フクオさんは44歳である。とある商店街でささやかに電器店を営んでいる。ちょっと小柄、ふっくらと中年太りが始まっていて髪の毛も後退しつつある。要するにどこにでもいるおじさんだ。妻に子どもがひとり。子どもは大学合格が決まり、妻はその子どものアパート探しのために、泊まりがけで出かけている。そういうわけでこの日の昼、奥村さんはひとり、近くのそば屋でどんぶりものを掻き込んでいる。すると背中合わせに座っている、スーパーの店員さんか、喫茶店のウエイトレスさんのようなかっこうをした遠久田(とおくだ)さんに話しかけられる。「1968年6月6日木曜日、お昼なにめしあがりました?」「とっても遠くからきた」(たぶん未来とか地球外とか)遠久田さんにとっては、これはなんとしても確かめたい事柄である。でも、奥村フクオさんにとっては、20数年前の話、なにか特別の日だったわけじゃない。それまで生きてきた1万数千日分の1日のお昼ご飯のことに過ぎない、どうしてそんなこと思い出せる?って話だ。だけど物語はここから猛然ところがっていく。通り過ぎた時間の、ある一点。1968年の6月6日。19歳の奥村さんが当時勤めていた石浜モータースの小さな社員食堂、窓から見渡せる小学校の先生と児童、さらにその向こうの小学校脇の道を通り過ぎる軽トラック、郵便屋さん、そしてポストに手紙を投函する女性…。遠久田さんは言う。「楽しくてうれしくてごはんなんかいらないよって時も悲しくてせつなくてなんにも食べたくないよって時もどっちも6月6日の続きなんですものねほとんど覚えていないような、あの茄子のその後の話なんですもんね」高野文子の漫画って不思議だ。圧倒的なデッサン力、伸縮自在、まるで自由に伸び縮みするかのような大胆にして繊細なコマ割。あるときはただただ美しく懐かしく、けれど安心して読んでいると鋭利な刃物を突きつけられていたりする。そうしてこの人が「たいしたものじゃないんだけどさ」とでも言うように提出してくる作品が(それがきっとこの人の好むスタイルだ)、実はものすごく考え込まれた作品だってことがしだいに身に沁みてわかってくる。さて、この作品。「奥村さんのお茄子」という。解釈しても野暮なんだと思う。傑作というのはそんな気にさせるものだ(それを言ったらおしまいだけど)。だが、どんな人にも日常があり、それらは大抵の場合、平凡で退屈で後から思い出せることなどほんのちょっとだとしても、かけがえのないことなのかもしれないということ。そうして誰かが生きているということはまた、ほかの誰かが生きていることと微妙に反応し合いそして…、あっ、まあいいか。最初に挙げたのは「棒がいっぽん」という絵描き歌の歌詞。地方によって微妙に歌詞が違っていたりするだろうけれど、この歌が、この「奥村さんのお茄子」の言わばBGMとして流れている。そうして、この「奥村さんのお茄子」を収録した、ほとんど奇跡に近い高野文子作品集のそのまま表題となっている。どうして「棒がいっぽん」なんだろう? 「ほとんど奇跡に近い」ってどういうことさ? それは言わない。ぼくらは考えてみる。1968年の6月6日のお昼ご飯、何を食べたっけ、とふと立ち止まる奥村さんみたいに。「奥村さんのお茄子」『棒がいっぽん』所収高野文子著 マガジンハウス1995年 定価918円
2007.06.19
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ロックさん、ごめんなさい、悲しいお知らせです。ていうか、悲しいなら言わなきゃいいんですが。でも言います。ツバメのことです。この春はスズメにいたずらされたりして、育ち上がったのは3羽。ひな鳥はやっと飛行訓練に入ろうとしているところでした。親鳥がえさを運ぶと、もう大歓声をあげていました。けれど、今週の火曜日の早朝と思われるのですが、巣が荒らされていて、そこにはもう誰もいませんでした。注意して周囲を見渡したのですが、ひな鳥の姿も親鳥の姿も見あたりません。そこにあるのは静寂だけでした。それから数枚のツバメの羽根と。これまでの経験からいうと、カラスに襲われたものと思われます。今日は木曜日、火曜日以来親鳥の姿も確認できません。不在。でも、自然の世界ではこのようなことは珍しいことではないわけですよね。カラスが悪いわけじゃない。当たり前です。そんなふうにしてみんな、生きているのだから。そんなことがありました。悲しいと言ってもしかたがない。しかしそこに不在がある。そんな感じです。
2007.06.14
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どこまで書いていいかわからないし、正確に記憶しているとも言い難い。いつかきちんと事実を確認したい。いまはメモのようにして書きつけておく。その人は、従軍慰安婦の聞き取り調査をしている。どこからそんな話になったのか、あるお婆さんの話をしてくれた。お婆さんは、戦時中、サハリンで従軍慰安婦として働かされていた。そこは民間経営だが、実態は軍の許可がなければどのような営業の自由もない。日本の敗戦後、まあかなりはしょるけれど、なんとか命からがら、サハリンを離れ朝鮮半島北部にたどり着くことができた。しかしそこまでにすでに数年が過ぎていた。彼女の故郷は朝鮮半島の南部にある。朝鮮半島にたどり着くことができたのだから、あとは歩いてでも故郷に帰ればいい、彼女はそう考えた。しかし南北の分断はすでに抜き差しならないところに来ていた。そうしてすぐに朝鮮戦争がはじまった。生き残ることが先決だった。彼女は結局「北」にとどまることになり、結婚をし子どもを育てた。彼女の左肩には刺青が施されている。それはサハリン時代の楼主の名が入っている。こうしたことは普通のこととして行われていたらしい。つまり脱走しても彼女の「所有者」が誰なのか、たちどころにわかるからだ。なかには体のあちこちにそうした刺青を施された女性もいた。一緒に話を聞いていた友人が思わず言ったものだ。「それは家畜の烙印と同じですね」。そういうことだ。お婆さんの刺青はつい最近まで、彼女の娘すら知らなかった。その話をお婆さんと、お婆さんの娘から直接話を聞いたその人は、俄には信じられなかった。だか、娘さんはしっかりと頷いたのだという。お婆さんは、結局、故郷にたどり着くことはないだろう。話をしてくれたその人はいう。「拉致」の問題で日本政府は「原状復帰」と言う。それは正しい。だが同じようにして、さまざまな形で故郷を離れることを余儀なくされた人々の「原状復帰」はどうなのだろう。「拉致」は現在の問題であり、それらは過去の問題なのだろうか。いま実際、ここにこうして生きているお婆さんの人生を「過去」として、どのような神経で括ることができるのだろう。「直接的な関与」と「間接的な関与」の違いはなんだろう。すべてが直接関与でなかったとしても、開業廃業の自由も移転の自由もない民間業者の手によって、烙印までもされ、ほとんど監禁されるようにして「慰安」した人たちに、軍が直接か間接か関与していたか、あなたはそれがわかりますか、と問うことの意味はどのようなものだろう。昨日の話だ。私たちは喫茶店でコーヒーを啜りながら、小さな声で話すその人の話を聞いている。
2007.05.16
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知人から午前中にメールが入り、ヴォネガットが亡くなったって知らされる。それで仕事の合間にいろんなことを思い出していた。寝不足だからね、情緒不安定なのさ。そっか。むかーし、ブログにも書いたような気がする、ヴォネガットがお姉さんの葬儀でよんだスピーチの話。だからもう書かないけれど、それはこんなふうにおわるのじゃなかったっけ。ぼくらはきみを愛していたいまも愛しているこれからだって、いつまでもまた会おうよ
2007.04.13
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あのね、3月27日、ツバメが帰ってきたのです。まず1羽。やせ細って去年の巣で休む夜。でも、ほんとうはその前の日に、藁をくわえて近くの電線にとまっているツバメを見た。あわてて家のツバメの巣を見上げたら、いつの間にか、痛んだ巣は修繕されていました。おかえり。去年ツバメのことを書いたのは4月3日。
2007.03.28
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1945年8月15日に玉音放送がある。連合国の先遣隊が8月28日、そしてマッカーサーが同月30日に厚木飛行場に降り立つ。あの有名なコーンパイプを持っている写真。日本の内務省は、8月18日、占領軍専用の性的慰安施設の設置を全国に打電する。遊郭など、買売春施設の業者を利用して新たに女性を募集する。目的は「日本女性をアメリカ兵の性欲から守る」ためとされている。東京では、政府の後押しを受けて関連7団体によって特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association 略称RAA)がつくられる。その創立の声明には、以下のような文言がある。「昭和のお吉」幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純血を百年の彼方に護持培養するRAAの特殊慰安施設は、連合国の先遣隊が日本に到着する28日には、すでに営業を開始しようとしていた。●たまたま仕事で読んでいた資料のなかに上記のような経過が書かれていた。ほんとうはもう少し詳しく触れられているのだけれど、大まかにまとめた。こうしたことを昨今の従軍慰安婦をめぐる議論と直接つなげることはもちろんできない。できないんだけれど、ぼーっとなった。ぼんやりと考えているのは、次のようなことだ。従軍慰安婦にかかわって、軍、あるいは国の関与をどうして少なく見積もろうとする人たちがいるのか。そこには戦争責任とか国家賠償とか、そうした問題(もちろん重要な問題だと思うけれど)があるからだ。それはわかる。だが、「河野談話」の見直しに懸命になっているという100人を超える自民党国会議員の人たちの情熱はそれだけではないだろう。国会議員のみなさんに限らないけれど。
2007.03.21
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友、遠方より来たる。週末。千葉だけれど。夕食までいくらか時間があったので、近所の公園に案内する。桃である。ここのところ冷え込んでいたけれど、桃の開花はやはり例年よりもはやい。去年の今頃はまだ、硬くてまあるいつぼみをつけていた。桃はつぼみがいい。この日、夕刻から晴れ間が見え、夕陽が差し込んでくる。雲が流れ、冷たく乾いた風が吹く。友は、離婚にともなうごたごたをなんとか乗り越えたばかりだ。相当の難関をなぜか突破して再就職先も確保した。4月からは汐留勤めになる。短いけれど、いまはささやかな休暇だ。翌日、○○プレミアム・アウトレットへ友人を案内する。田園地帯に忽然と降り立った、架空の街だ。ここにも冷たい風が吹き抜ける。映画のセットのような街なので、なんだか昔観た、砂混じりの風が吹く西部劇の街を思い起こしたりする。友人はそこで、ナイキのジョギング・シューズとトレッキング・シューズを購入する。「まずは体を鍛えなきゃね」。なにやら前向きである。風は容赦なく吹き付ける。シネコンで映画でも観よう、立ってると寒いからさ、先に行っててよ、ベーグルサンド、適当に買っていくから。セサミ、ポピーシード、オニオン…まあ、ベタだけれど、小さな声で言ってみる。この人に幸あれ。 笑
2007.03.20
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駿河台下から御茶の水へ向けて、上り坂を歩いていこうとしたとき、もう一歩も歩きたくないんだ、と足が言っていた。おめーが要領悪い仕事してるからだよぉっ と足が泣くのである。眠り苔って知ってる?主に人間の顔に寄生する。誰もが眠り苔菌の保菌者だ。ふつうは抵抗力があるからはびこることはあまりないけれど、寝不足になるともういけない。とたんに眠り苔菌の活動が活発になる。ほら、眠くなるときって、顔に眠気が貼りつくように感じて、火照ってくるでしょう? あれが眠り苔。というわけでタクシーを拾った。運転手さんが何かを喋った。とたんに体がほぐれるような声の抑揚である。青森の言葉だ。青森の言葉とひとくちに言っても例えば津軽弁とか… まあ、それしか知らないけれど、ほんとうは一括りにはできないのだと思う。自分にわかるのは、それが間違いなく青森の言葉だということだった。果たしてそうだった。運転手さんは、東京でこの仕事についてまだ一ヶ月しか経っていない。それまでは弘前で同じ仕事をしていた。弘前のタクシー業は斜陽である。へたをすると月に8万から10万円の収入にしかならないことがある。「弘前は観光地ということになっているけれど、観光客も昔ほどではないしね、もうタクシーを使って観光っていう時代じゃないもんねぇ」。地元の人もタクシーを利用することはほとんどない。一家に一台だった自家用車は、今では一人に一台になった。お酒を飲んでも「代行」の時代である。競争が激しくなっていて、タクシーで3000円かかるところを2000円くらいで運んでしまう。例えば会社に車を置いて歓楽街まで足を運んで飲むとする。すると「代行」の人は、お店でお客さんの車のキーを受け取り、それから会社に車を取りに行き、お店まで迎えに来てくれるのだ。東京のタクシー会社が、運転手を募集しに地方までやってくる。「いろんな条件がありましてね、それで自分であれこれ考えて選ぶんです。今のところは宿舎が安くて、月1万円くらいでね。まあ、5、6年はがんばってみようかと」。弘前には、年老いた両親と女房がいる。男の子3人を育てて、いまでは孫が5人いる。末の息子が19歳。その子も独り立ちしてようやく子どもたちから手が離れた。「子らのことでは、ほんとに育てるのに目一杯でしたからねえ。まあ、これから両親のこともあるし、年金といっても当てになるかわからないし、体が動くうちはやってみようと思ってね」。長男は池袋にいる。それも第二の職場を東京と選んだ理由のひとつだ。タクシー会社は足立区にある。川をまたぐともう埼玉県、宿舎はその埼玉県にある。通勤は自転車に乗って橋を渡り、会社までは5分の距離だ。宿舎には同じようにして、秋田、福島、山形の人間がいる。言葉はそれぞれ違うけれど「同じ東北ですからね、なんとか言葉が通じるんですわ」と笑う。「それで、やっぱり東北の人間は、みんなお酒が好きなんですかねえ、休みの日は一緒にちょっと飲んだりしてね」タクシーのメーターは820円。目的地に着く。
2007.03.16
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疲れやすい。笑午前11時に始まった会議がちんたらしている。そうして、みんなが勝手なことを言うので疲労する。自分で原稿を書いて編集して、というのが第一いけない。昼食時間を過ぎて、次の企画の見積をあわただしく提出しなければいけない。さらに違う仕事の校正が帰ってきた。そうこうしているうちに、あっという間に14時過ぎだ。結論が出ない案件を残して、次の約束があるので慌ただしくその場を失礼する。飯田橋で用を足し、次は青山に行かなければならない。けれど飯田橋の用事が案外はやくに済んだので、微妙に時間が空くことになる。飯田橋から外苑前へ。ケータイの乗換案内で調べてみると、ルートどりが不便。それに地下鉄だ。ときどき地下鉄が嫌になることがある。東京の地下をくぐっているなんて、なんだかぞっとしない。きっと軽度の閉所恐怖症なんだ(おおげさだよ)。飯田橋から千駄ヶ谷まで行き、そこからタクシーか、歩いてみようと思う。そうだ、歩いてみよう。ゼロサンイチイチ、昨日はこれから出かける会社にいる後輩の誕生日だった。シャレでプレゼントでも買っていこう。千駄ヶ谷の駅を降りて、東京体育館の広場を抜けて外苑西通りへ降りよう。東京体育館わきのグラウンドでは、まだ学齢に達していない子どもたちが、フットサルを教わっている。中学生くらいの少年たちが、ダッシュを繰り返している。速い。それに軽やかだ。このあたりには懐かしい思い出がある。東京オリンピックのときに選手たちの宿舎となった建物が残っていて、そこに旧知のデザイナーさんのオフィスがあった。古い建物だったけれど、西洋人を意識していたのか、間取りはゆったりとしていて、なかなか落ち着ける部屋だった。十数年前に、私たちとしてはけっこう大きな仕事を一緒にして、そこに毎日のように詰めていた。夜になると、うおんというような歓声が、国立競技場から響いてきたりした。ここでいうデザイナーさんというのは、本や雑誌のいわば設計をする人たちだ。本の装幀をデザインしたり、雑誌の誌面をレイアウトして構成したりする。この手の人たちには面白い人が多い。まず、趣味が多彩だ。そしてやたらマニアックだったりする。すごーく神経質な人もいるけれど、物書きであるとか、編集者であるとか、そういう人種よりもシンプルだ。それとこれは私が勝手に思っていることだけれど、ある種の謙虚さがある。デザインの仕事には基本的にオリジナリティなんてない。芸術とは違うんだよ。複数のデザイナーさんから、表現は少しずつ違っているけれど、そんなことばを聞く。十分に見事な、そして独創的な仕事をしている人でもそうなのだ。でもきっと、だからこそ強い。そう思うことがある。話がずれた。(続く)
2007.03.13
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お世話になっている人のご母堂が亡くなられて、お別れ会が催された。渋谷から私鉄線に乗り、幾つか目の駅で下車する。駅を降りると小さめな商店街があり、すぐに閑静な住宅街が続く。住宅街のなかの上り坂を登り、角を曲がると突然、大通りに出る。環状7号線だ。セレモニーホールというのだろうか、そこが会場だった。会は無宗教でとりおこなわれる。享年94歳。結婚し、男の子3人の母となった。夫は演劇畑の人で、とにかく貧乏だった。子育てをしながら、私立女子校の教師として家計を支えた。子どもたちがそれぞれに独立した頃、夫を亡くした。教師の仕事は70を過ぎるまで続けることができた。この人は今から10年ほど前に、手記を自費出版された。末の息子が出版関係の仕事をしており(この人に私は世話になっている)、この本の編集を手がけた。出版にかかった費用は3人の息子が出し合った。お別れの会では、会場の照明が落とされ、スライド上映がされるなか、その手記の一部が朗読された。夫の実家は裕福な家であったらしい。しかし戦後、すぐに没落する。都内でも高級住宅街で知られる地域であったけれど、「あばら屋のような」貸屋に家族で引越をする。夫は芝居の世界にいる。新しい演劇学校の創立に尽力するが、収入はほとんどない。学校の生徒たちが連日のように家に訪ねてきて演劇論を語り合い、酒を酌み交わす。彼女は講師として学校になんとか職を得る。そんな頃、念願の風呂を購入する。1950年代の初頭と思われる。末の子は4歳だったか。風呂は中古である。木製の小判風呂だ。使い込まれているけれど、思いの外、いたみは少ない。5月、その風呂桶がリアカーに乗せられて届けられる。職人さんが、物置のようにして使っていたトタン張りの小屋に、据え付けてくれる。急場で排水溝も設置する。水を張る。風呂釜も中古だったか。やがて湯が沸く。最初に入るのは夫だ。子どもたちがいまかいまかと待ち受けている。5月であるのに、待ちきれず、ほとんど裸になって騒いでいる。妻は菖蒲湯にしたい。菖蒲をくくって準備していたのだが、末っ子が飛び込む。父親の膝の上ではしゃぎ出す。そうして上の子ふたりも駆け込んで、大騒ぎになる。そんなエピソードが読み上げられる。スライドには、30代だろうか、質素な和服姿のこの人がはにかむように笑っている。あるいは夫に身を寄せる姿、そしてひょろりと痩せた3人の少年たち。私の席からは、今ではすっかり白髪頭となったそのうちのふたりの息子が座っている、その後ろ姿が見渡せる。次男は数年前、先立っている。こんなエピソードもあった。戦前のことだろう。結婚して数年、すでに子育てが始まっている。夫の実家に身を寄せている。あわただしい日々だ。早朝、夫に起こされる。これから出かけよう。どこへ? いいから、ついておいで。子どもをあわただしく姑にあずけ、裏木戸を二人して抜ける。私鉄に乗る。休日なのか、時間もはやく乗客は少ない。それからいくつかの電車に乗り換える。東京にまだなじみがないので、自分がどこへ向かっているのかわからない。やがて下車する。夫に手を引かれてしばらく歩くと、突然一面の桜に遭遇する。桜、桜、桜。まるで夢のようだ。お別れ会はそのようにして進行し、出席者はそれぞれに献花する。ささやかな席が設けられている。私は失礼しなければならない。知り合いの何人かに挨拶する。煙草が吸いたくなって、灰皿を探す。ホールの通用口を出たところに灰皿がある。そこで一服する。目の前には枝振りも見事な桜の老木が一本立っている。遠目にも、新しい芽が膨らみつつあるのがわかる。
2007.03.11
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ツー、ツー、ツーあのね、聞いてる?子どもたちがお風呂から上がってくるまでの間、ぼんやりテレビを見ていたんだ。Mステをやっていて、宇多田ヒカルが喋っていた。人生は淡く、ほろ苦い、そんなような一節が、彼女の歌っている歌にはある。「てんぷらのピーマンみたいな、人生てそんな感じかな、とか思いません?」て言っていた。そんなふうに喋っている彼女を見ていたんだ。彼女のこと、そんなに知らないけれど、テレビにうつる彼女は、いつも挙動不審だよね。落ち着かない。押し寄せてくる自意識を振り払っているみたいな感じ。それで思ったんだ。こういう子、いたよね。僕のそばにいたってことは、きっとどこにだっている。そんなに美人じゃなくて、だけどすげえ頭の回転が速いっていうか、感受性が豊か? みたいでさ、でも、そんな自分を持て余して落ち着かない。悔しいけどさ、ちょっと魅力的で、ちょっと幸せそうな感じじゃない子…。感傷ガ雪ミタイニ降ッテクル。タマンナイカラ、イツモ振リ払ッテイル。哀シミハ振リ払ワナキャネ。佐藤多佳子の「黄色の目の魚」ってあったじゃない? あの子みたいかな。「私、クレーンやパワーショベルなんかを運転する人になりたい。しっかりした技術を身につけて、やれることだけちゃんとやって、毎日おっかねえ顔で暮らしたいんだ。笑いたい時にだけ、少し笑うんだ。」って友だちに手紙書いてた女の子がいたじゃない?そう、宇多田ヒカルの話だった。それでテレビを見た次の日、ネットで彼女が離婚したってニュースを見たんだ。…それだけのことなんだけどさ。そうさ、言いたかったことはそういうことじゃない。(それに離婚が不幸なことだって誰が決めたんだ?)彼女の歌にはこんな一節もあった。それが言いたかったことのはず。ありがとうと、君にいわれるとなんだかせつないだから、あるよね、なんだ、ありがとうかよ、そういうことなのかよ。お前と俺、そういうことかよ、どっちもいろんなことがわかっているんだ。わかってはいるんだけどさワイヤレスマイクの調子が悪いみたいだった。悪いのかわからないけれど、彼女はそれを気にして、ほら、腰につけてある発信器、調整器みたいなのがあるでしょう? あれを歌っている間、操作したりしていた。彼女は歌っていた。あきらめたように微かに笑ったようにも見えた。それから歌い終わって、小さく舌を出した。
2007.03.04
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ああ、おまえはなにをしているのかと。朝焼け。
2007.03.02
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きょうはおともだちのたんじょうび。だからって、何がどうでもない。不思議なもので、記憶力の悪い自分なのだけれど、特定の配列の数字がいくつか、ひょんなことから頭から離れない、ということがある。そんなふうにして、おともだちの誕生日が何人か、頭の中に入っていて、その日を教えてくれるのだ。なかにはまったく連絡がとれなくなっている友人もいる。昔付き合っていた人だったりすると、ちょっとつらい。もともとそれほど親しいわけではなかったはずの人の誕生日を覚えていたりもする。何かの打ち合わせで、誰かが、あっ、○月○日は○○さんの誕生日ですよね、なんて会話が挟まれたりすると、そのまま録音されるみたいに記録される。「あっ、○月○日は○○さんの誕生日だった」。ふだんはまったく忘れているのに、その日ちょっとだけ、その人のことを考える。きょうのおともだちは、異性だけれどシャレが通じる。お祝いデコメールとか送っても、しゃあしゃあと愛してくれてありがとう、とか返してくれる。どちらもそんなことは始まりようもないことをよく知っている。おともだちは去年、大きな病気を抱えた。さまざまな困難を経て、いまは快方に向かっている。完治が告知されるのはまだもう少し先だとしても、少しはともだちの苦労を知るものとしては心から感謝したい。何にかはわからないけれど。その人がいなくなってしまえば、自分のなかのなにかが確実に損なわれる。そういうわけで(どういうわけだ)、今日はおともだちのたんじょうび。おめでとう!
2007.02.26
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友人が送ってくれたメールには、要請文がつけられていた。日本政府に対してのものだ。大要は以下のようになる。あわせて「河野談話」全文も参考資料としてあったので、これは全文そのまま引用したい。あらためて読み直してみると、ある種の感慨がある。●要請の大要(ウラガエルが一部をかえている)「河野談話」は歴代内閣の見解だし、安倍晋三内閣総理大臣も就任直後の国会答弁で、内閣としても個人としても「河野談話」を踏襲すると表明している。だがその後、下村博文内閣官房副長官や中川昭一自民党政調会長は「河野談話」見直し発言を行い、自民党の議連「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は小委員会を設置して談話を出した経緯や事実関係の検証を進め、報告書を作成して安倍首相に見直しを提言するとしている。ちなみに安倍首相はこの議連立ち上げから長く事務局長をしていた。首相のその後の沈黙はこうした「見直し」を容認しているとしかみえない。「河野談話」が発表されて10年以上が経過するけれど、その後に発見された数々の軍関係資料や「慰安婦」裁判や被害女性の証言を通して、談話の元になった調査を遥かに上回る悲惨な実態(拉致的連行・虐待・暴力・監禁・奴隷的待遇・自由の剥奪・死亡・性病罹患・妊娠・戦後の置き去り等々)が明らかにされている。またいくつかの裁判ではこれらの被害事実がすでに認定されているではないか。※日本政府が「河野談話」に真摯に向き合い、そこに書かれた内容について積極的に取り組んでいくよう、強く要請したい。とか。※認定はされてもすでに解決済みだったり時効だったりする。時効ばかりか、訴える相手がすでに存在しないため、訴えそのものが成立しないとされることもある=ウラガエル●「慰安婦」関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話1993年8月4日 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般、その結果がまとまったので発表することとした。 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。 我々はこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。引用以上。
2007.02.22
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江古田にて友人を車に乗せる。出発だ。車は山の手通りを越え、池袋駅を正面に見て、右折する。ガードをくぐり雑司ヶ谷に向かう。都電の踏切を越えると雑司ヶ谷霊園が見えてくる。車を霊園に乗り入れる。そこから護国寺まではすぐ近くだ。江戸川橋から少しはいったところ、友人には助手席に待ってもらい、仕事をひとつ印刷所に届ける。それから新目白通りを飯田橋へ。何も考えずに外堀通りを右折する。私たちには話すことはほとんどない。昨日あった東京マラソンの話をしたのだったか。この日のこの時間、東京は昨日とうってかわって晴れている。ラジオでは春の陽気になるでしょうとアナウンサーが話している。友人は昨日、銀座にいた。銀座通りには、幾人ものマラソンランナーが走っていた。友人は高校時代の友人たちと、食事をしていたのだという。外堀通りを四谷方面に向かうこのコースは、東京国際女子マラソンの最後の上り坂になる。あまりに有名な高橋尚子の走りもそうだけれど、これまでにいくつものドラマをつくってきたのだ。どうでもいいことだけどさ。友人はうすく笑ってうなずくだけだ。もう20年以上の付き合いなのだ。それなのに、なぜ私はいつもこの友人を前にすると、浮ついてどうでもいいことばかり話すのだろう。本当はそのわけを私は知っている、きっと。私はここで間違いに気がつく。靖国通りまで車を走らせ、そこを靖国神社方面に右折するはずだった。「間違った。遠回りをしたよ」と友人に謝る。「大丈夫、まだ時間に余裕があるから」。友人が答える。皇居のお堀端を走っている人たちがいる。まだ午前10時過ぎ。道路は思ったよりも空いている。車はお堀端を時計回りの反対に回り、日比谷で銀座方面へと右折する。ここからは一本道だ。有楽町の駅前をのぞき込む。車でこのコースを友人と通るのは3回目になる。そのたびに私たちは数寄屋橋の宝くじ売り場に列をなす人たちを見てきたのだった。この日もけして数少ない人たちが行列をなしている。グリーンジャンボの発売日だと、ラジオが報じていたのを思い出す。不二家のビルが逆光のなかに佇んでいる。「不二家はどうなるのかね」。友人はなにも答えない。銀座近辺が混雑するのも昭和通りまでだ。築地市場を右手にみてかちどき橋を渡る頃には、もうわずかな車が通りすぎるだけになる。目的地まではもう少し。私たちはあっという間に有明に出る。友人はこの日、何度目かの入院をするのだった。車を所定の駐車場に駐め、友人の荷物をいくつか持って病室まで向かう時間。友人の病室に荷物をおいてそそくさと別れを告げる時間。それが過ぎ去ると、私はいつも何もすることがない。いや、仕事はいくらだってたまってはいる。けれども本当のところ、すべてを病室に置いてきてしまったように感じるのだ。私にはなにもない。もちろんこれは感傷に過ぎない。やがてノイズがしだいに満ちてくる。いやおうなく再び日常が押し寄せてくる。沈黙について考えていたのだ。友人のブログに書き込まれた「沈黙」について。それからある詩人のこと。数日前に友人から送られてきた「個人雑誌」。そこにちりばめられた見事な文章。与那原恵、藤本和子、山崎佳代子…この時間、世界の至るところで、そうだインターネット上でもいい、無数のことばが囁かれ、書き込まれていることだろう。だがどれほどのことばがあったとしても、感情も希望も絶望も沈黙のなかにある。記録された言葉でもなく、いままさに発語されたそれでもなく、沈黙のなかに、時間は流れてきたはずだ。無数の沈黙の中で、人は生き、死んできた。だとすれば、書かれてきた歴史にはなにが存在し、なにが不在なのだろう。
2007.02.21
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保育所の話である。ある特定の子の持ち物に落書きがされていた。子どもたちはそれぞれに引き出しを与えられていて、そこに必要なものを入れている。落書きされたのは、その引き出しにしまってあるひらがなのドリルブックで、その表紙が赤いペンでがしがしと、まあ不規則な図形がいくつも書き込まれていたのだった。そうしてそれが二日続いた。誰がそれをしたのか、わからない。保育士たちは衝撃を受けた。そうしてそれがどんなにひどいことか、子どもたちに話した。保育士たちが動揺し、そうしてそのことを子どもたちに示してくれたことはよかった。きっと、たぶん。だが、私たちの世界では当たり前にあることだった。残念ながら、驚くことでもない。私たちの世界はこうして、やはり当たり前のこととして、新しい仲間を迎えるのだ。さて、そこでだ、私たちの世界で、私はこれからどうするのかと考えあぐねている。
2007.02.17
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しばらく荷物をまとめて出かけてみることにしました。出かけた先では、これまでのものを引っ張り出してみたり、これからのことをつくってみたり、そんなことができればと思っています。もし、連絡をくださる、そんな物好きな方がいらっしゃいましたら、私書箱にメッセージを残していただければと思います。それではまた。
2006.09.25
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男の子が生まれたというので、薫はお祝いを風呂敷に包んで出かけることにした。お祝いにはなにがいいか、と考えたけれど妙案もないので鮒の甘露煮にしたのである。町に出ると気のせいか、ふだんより賑わっているように感じる。駅前では号外が出たらしく、坂通りを姐さんたちが連れだってその号外を振るようにしてさんざめいて歩いてくる。薫はなんだか気後れしたので、下駄屋の源吉さんのところを冷やかすことにした。娘の運動靴もついでに買ってやろう。女房が言っていたけれど、源吉さんはいまでもSHINSEIを吸っている。あれ、どこの煙草だろう、と女房が言うからびっくりした。なにいってやんでえ、れっきとした日本の煙草よ、と言ってみるのだが、最近ではついぞ見かけることがない。銀製の煙管だって使っている。刻み煙草は高価なので、吸い終えたSHINSEIから煙草の葉をほぐして使うのである。黒縁のめがねもいい。まるで絵に描いたように、縁のところはセロハンテープが何重にも巻かれている。いや、これは本当の話。「どうしたい、お祝いかい?」「いや、男の子が生まれたって聞いてね」「うんうん、だけどなんだな、これからは大変だ」なにが大変なのかはわからないのだが、源吉さんはそのまま黙って、運動靴の入った箱の埃を払っている。どうみても10年は眠っていたに違いない商品だ。娘には中身だけを渡してやろう。格好だって案外悪くない、たぶん。「どうだい、やっちゃんは?」「どうもこうもねえな。あっちとこっちをいったりきたりだ」やっちゃんは安夫といって、源吉さんのところの三男だ。外地に出ていたのだが、抑留されて別人のようになって帰ってきた。薫とは小学校の同級になる。やっちゃんは、家に戻ったその日、すたたたたと座敷に上がり込むと畳をひっくり返し、いきなり床板を引っぱがすと大きな穴を掘り出した。それからは丁寧な仕事ぶりで、内部を固め、藁をしきつめ、裸電球を引き込むと、そこに横になった。やっちゃんはいまでも一日の大半はそこで過ごし、気が向くと穴からはい出してきて、よしいばあさんの用意した飯を食う。源吉さんのいう「あっちとこっち」というのはそういう意味である。いや、外と内という意味か。外地と内地? 源吉さんのところで茶をごちそうになり、それから暇を告げるともう夕の刻になっている。そこから路地を抜けて近道するとほどなく屋敷街だ。屋敷街でもひときわ立派な当のお屋敷は、案の定、人だかりができている。薫は警護に当たっているらしい顔見知りの警官と目が合ったので、ひょいと挨拶する。こっちへこい、と手招きするので行ってみる。すると人混みをかきわけてくれて、記帳台まで案内してくれた。それで記帳する。祝いの品はどうするのかと見渡すと、記帳台の隣に設けられたテント内にそれらしきものがすでに数え切れないほどに積み上げられている。ネクタイをした係のものらしい男がやってきて、中身は何か、と聞く。鮒の甘露煮です、と薫が答えると、面白くもないという顔をして、帳面のようなものを取り出して品名を記入をし、包みからとりだした祝いの品を受け取ると、また別のネクタイ男に手渡した。帰りは屋敷の外堀沿いにあたる柳通りを通ってみる。川のせせらぎが微かに聞こえてくる。どこからか秋の虫が鳴き始めていて、一陣の風が吹き抜けていく。はじめて今日生まれたという男の子のことを考える。「だけどあれだな」気がつくと、大きな声が出ている。独り言を言っているのだ。前を歩く若夫婦がその声で振り向く。いや、独り言で、すいません、というように薫は軽く頭を下げる。それから突然文子姉のことを思い出す。文子姉は薫をカエルと呼んでいた。こんなとき、ほら、またカエルの独り言だって、よく言われてたっけな。へへ。こんなふうにして頭を撫でてくれながらさ。その文子姉も外地に嫁に行ったきり音沙汰がない。気丈で賢い人だった。ふだんは物静かな人だけれど、納得がいかないことがあれば、すっくと立ち上がり、両足を踏ん張って話し出す人だった。そんなとき、文子姉は震えていて、後になっていつも泣いていたのだ。だけどそんなこと、こんな世界ではなんの役にも立ちはしないな。安夫といい、文子姉といい、そうだろう?「なあ、カエル」カエルは涙がとまらなかった。
2006.09.06
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この夏、たくさん考えていたのは、古くからの友人のことだったかもしれない。正確には、その友人と自分のことを行ったり来たり、ということかも知れないのだけれど。友人は癌を宣告された。それが夏の始まりだった。盛夏には余命の話まで出た。それから夏も終わりに近くなって、ようやく抗癌剤投与が始まった。あまりに急な話だった。友人たちの間にも動揺が走った。私たちは無力ではあるけれど、体を動かし頭を働かせたいと願った。なにかをしていなければ耐え難い、ということだったのかもしれない。彼は長く独身として暮らし、彼の兄弟たちは東京から遠くにそれぞれの生活を営んでいたので、具体的にすべきことは探せば山ほど見つかった。私たちは必要なことをリストにし、役割を分担し、いくつかの仕事を担った。そのようにして集まった友人は、5年ぶり、あるいは10年ぶりの者もいた。ある女性は夏の休暇をまるまる使って、飛行機で東京にやってきた。友人たちは確実に齢を重ねていて、それぞれに否応なく降り積もった時間を眺めやる、そして思わず顔を見合わせ笑ってしまったりもした。はじめて知り合う人もいた。私たちが集まる目的ははっきりとしていて、そのためもあって、少しでも時間を共有すると、まるで昔からの知り合いのように話し合った。当の友人は、そんな私たちを眺めて、あきれたように「まるでイベントだね」なんていう。もちろん居心地の悪い思いもあっての、彼らしい言い方だ。しかしどこかその通りなのだ。私たちは浮き足立ち、ひとりでは耐え難く、彼の周りをただ踊っているようにも感じることがある。彼の病院やマンションに顔を出した後、私は彼のことを考える。騒がしい私たちが去った後、ひとりになった彼に去来するものはなんだろう。24時間の点滴投与のために浅くなる、その睡眠の合間に思い起こすことはどのようなことか。もとよりそれは知る術もない。本当のところ知りたくもない。私の思考はどうしても過去に向かう。私たちは、途中空白はあっても何十年来の友人だ。彼はもともと人並み外れた記憶力の持ち主で、彼との昔話になると、自分に都合のよいようにいつの間にか修正された私の記憶は、いつも酷薄に再修正を迫られる。それは気持ちのよい場合もあるけれど、大抵はほろ苦い経験だ。私は何を忘れようとしたのか、そのことに対面せざるを得なくなるからだ。そんなことも、いま懐かしく思い出す。彼の病の行き先は、本当のところわからない。抗癌剤は劇的な効果を上げるかもしれない。さらに次の治療は、まるで別の生命体のように分裂し増殖を続けるそれに、決定的な打撃を与えることができるかもしれない。(それに誰の命の行き先も、結局のところわからないではないか)。彼が失われれば、私のなかの何かが確実に損なわれる。これほど自明なことにただ呆然とする。9月4日午後6時50分の山手線ターミナル駅。JRの改札口を出た人たちの群れは、吸い込まれるようにして、郊外へと向かう私鉄の改札口に流れ込んでいく。私はそれに逆行するように地下鉄の改札口をめざして歩く。これから向かう仕事先のこと、ヤマ場を迎える仕事のこと、今月末の残金、今年後半の仕事、こどものための新しい運動靴をそろそろ買い足さなければならない、そんなこと。それからこの駅の地上に所在なげに佇んでいた黒服の青年たちの群れ、なにを勧誘していたのだろう、彼らは一様に疲労していて、申し訳ないけれど、どこか薄汚れた印象があったこと、そんなこと。それから先ほど通り過ぎた若い女性の胸元に思わず目が吸い寄せられたこと、そしてそうしたときに必ずやってくる哀しみのようなもの、そんなこと。いつもいつもいつも。突然叫び出したくなるような静けさ。
2006.09.04
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