文豪のつぶやき

2008.07.19
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カテゴリ: 時代小説
 翌朝、篠原は橋姫にご機嫌伺いのため毛呂陣屋に上がった。
 まずは橋姫の夫である藩主紫藤忠義に挨拶をした。
 忠義は齢二十八、藩主の血筋か細面の顔に育ちの良さが感じられた。
 人柄もいい。
 ただ国を宰領する能力はなく、諸事側近に任せ、自らは唯一の趣味である読書に没頭しているという。
 江戸三百年の泰平が生んだ貴人武士の典型といえよう。
 そのため政治の事は何もわからない。
 篠原に引見したときも、
「そちの国は良寛が出たな。なにか面白い話はあるか」

(ああ、この方は元禄の世に生きている)
 篠原は深刻な気持ちになった。
 太平の世ならば、なにも問題はなかろう。
 しかし、いまは激動期である。しかも、いままさに革命が起ころうとしている江戸からわずか十数里の所にありながら、まるで別世界にいるような感覚で世を過ごしている。
 それだけではない。
 毛呂藩内部にいくつかの閥があり、そのため閥同士が日夜謀事をめぐらし、政争が絶えない。さらにこういう時勢になったため勤王佐幕の思想が加わり、より複雑な状況を呈している。
 宮下を毛呂藩において橋姫の護衛にあてたのも、幕府瓦解による政情不安のためというよりもそういう理由による。
 忠義に挨拶を終えた篠原は橋姫に目通りを待つ間、控えの間にいる。
 庭に目をやるとため息をついた。
 綺麗に手入れがされている。
 広い池があり、そのまわりをつつじ、楓などで彩り、池の向こう側には小さな茶亭がある。

(見事な借景だ)
 これほどの庭園はそうはあるまい。
 聞けば忠義が命じて造らせたものだという。
(この才能が芸術ではなく、政治に出ておれば)
 篠原は庭を見ながら忠義の才能を惜しんだ。

橋姫は引見すると、
「庭へ出ましょう」
 と云った。
 橋姫は二人の侍女をつれて外へ出た。
 池の向こうには茶亭がある。
 橋姫は侍女を従え、茶亭までの小径をゆっくりと歩く。
 そのあとを篠原がつづく。
 やがて橋姫は茶亭の前までくると、侍女二人に館のほうへ戻るように命じた。
 二人は橋姫に深く会釈をすると今来た小径を戻りはじめた。
 橋姫は茶亭のぬれ縁に腰掛けた。
 そして立ちすくんでいる篠原に声をかけた。
「篠原殿もおかけなさい」
「えっ」
 篠原は驚いた。
 主筋と家来が同じぬれ縁にかけるなど考えられない。
 篠原は思わず回りを見た。
 池の向こうには侍女たちが心配そうにこちらを見ている。
「しっしかし」
「ここは三田ではありませぬ」
 ぬれ縁の長さは一間しかない。
 しかも橋姫はぬれ縁の中央に掛けている。
(なんという人だ)
 篠原は背中に汗が流れるのを感じながら縁の端に座った。
 橋姫とは息のかかる位置である。
「お国はどうですか」
 橋姫は懐かしむように云った。
「はっ、つつがなく」
 篠原は汗を拭いながら云った。
「篠原殿、また痩せましたね。わが弟泰範殿はまだ幼少の身、色々と大変でしょうがどうかもりたてていってください」
 橋姫は篠原を見つめて云った。
「そのことは命に代えましても」
「篠原殿」
 橋姫は篠原の手を握ると、自らの膝の上に引きよせた。
「ひっ姫様」
 篠原は絶句した。
「先日、矢口秀郷殿から手紙が参りました。何も言わずに太子堂組の脱藩を許してあげてください」
 橋姫は篠原の手をぎゅっと握った。
「あの方たちは武士として生きたいのです。私からもお願いします。武士としていかせてやってください」
 篠原は目を潤ませて願いを乞う橋姫を見ながら思わずうなずいた。

 翌日、篠原は宮下に見送られ馬上の人となった。
 前夜、二人は相談し、宮下のかわりに橋姫護衛となるべとを待って、宮下が三田入りするということになっている。
 そして三田入りした宮下は御用人に就任するということで話は決まった。
 宮下の家柄は名門で、その家系からは御用人になったものも少なくない。
 むろん宮下は御用人としての資質も度量もある。
 首脳会議にかけても異論はない。
(宮下が三田に入れば一安心だ)
 篠原は暗黒の闇に一縷の光明を見出した気分になりながら一路、越後三田へ馬を駆けさせた。

 その頃、太子堂では矢口、伊藤を中心に脱藩の準備が進められていた。
 たびたび来る長岡藩の河井からの手紙により矢口らは、ここ数日の間に長岡藩が意志を明確にすると見ていた。
 すでに官軍は小千谷と柏崎に軍を置き、戦さの準備をはじめていた。対する奥羽越列藩同盟の主力会津藩も村上藩をはじめ越後の旧幕府系の藩に援軍を送っている。
 河井の手紙には、奥羽越列藩同盟との仲介をとるため、小千谷の官軍本営に赴くことが書かれてあった。
 狂気の沙汰ではない。
 わずか七万四千石の小藩の家老が日本を二分している勢力の仲介に入ろうというのである。
 矢口らは長岡藩の中立は無理だと感じている。
(おそらく交渉は決裂するだろう)
 河井の場合、あわれな幕府と幕府系の諸藩である奥羽越列藩同盟に寛大な措置を情義でもって懇願するのではなく、河井の性格からすれば自藩の強大な武力を背景に(といっても官軍側にとっては笑止なことだが)その非をなじり、正義をもって相手の肺腑をえぐるように論詰するであろう。
 河井から来る手紙の文の端々に官軍に対する不遜さがみてとれる。
 河井の弟子である矢口の目から見ても、
(河井先生は狂ったのではないか)
 と思ったほどである。
 口には出さないが他の太子堂組の面々もそれは感じている。
 河井の自信は、官軍には通用しない。
 交渉が決裂すれば、河井は官軍に恭順するはずがなく奥羽越列藩同盟に参加する。
 矢口は脱藩する時期が近いことを知り、皆を集め河井の手紙を見せた。
「いよいよ戦さがはじまります。あとは伊藤さんと私で準備をしますから今のうちに家に帰ってのんびりしておいてください」
 脱藩の準備のため、ここ数日誰も家には帰っていない。
 白井らはうなずいた。

 太子堂を出たところで白井は青木と加藤に、
「たまには家に来ませんか」
 と誘った。
 二人ともまだ独身であり、家に帰ってもすることはない。
「白井の姉上さまにご挨拶じゃ」
 はしゃぎながらついてきた。
 二人は随分白井の家に行っていない。
 白井は二人を連れて家に帰った。
 お幸は突然の来訪に、
「なにもありませんが」
 と昼餉の用意をした。
「おおこりゃおどせじゃねっかっや」
 青木が喜びの声をあげた。
 おどせは残り物の冷や飯に山菜などをいれ、粥状に煮込んだいわばおじやみたいなもので、これをさらに冷や飯にかけて食べる。
 食生活の貧しい下級武士や農民の常食で、白井家はすでに上士になっているので食卓を豪華に飾ることができるのだが、一馬は子供のころからこれが好きでお幸が時々作っている。
 青木は門閥家老の出だから、おどせなどは食べたことはなかったが、白井とつきあいはじめてからおどせを初めて食べ、以来、青木にとってはこのめずらしい庶民の味が好物になっている。
 三人はおどせを食べながら酒を呑んだ。
 寒い国の男たちであるので皆酒を呑む。
 太子堂組のなかでは下戸といわれている白井でさえも一升は呑む。
 呑みながら青木が白井に云った。
「白井よ、おめさん本当に脱藩するのか」
 白井は頷いた。
「お慶さんとの婚儀はどうするんじゃ」
「破談にしますよ」
 白井はさらりと云った。
「お慶殿には今夕話をしようと思っています。それより」
 白井は二人をじっと見ると、
「橋姫様のところに参ろうと思っています」
 青木も加藤も黙っている。
「私を一番引き立ててくれたのは橋姫様ですから」
 前藩主慶範の小姓時代、橋姫は白井の稚気をことのほか愛した。
 太子堂組への加入も橋姫の強い口添えによる。
 青木も加藤もそのことはよく知っている。
「姫様へ挨拶なしに脱藩したら私は恩知らずになってしまいます」
「わかった」
 青木はそういうと、
「白井、行ってこい」
 と笑った。
「で、出立はいつだ」
「明朝」
「では白井さん。道中手形は私がこれから手配する。今夜私の屋敷まで来てください」
 加藤が云った。加藤はこういう細やかなところによく気がつく。
「かたじけない」
 白井は頭を下げた。白井はこういうことには無頓着で山越えをして勝手に藩境を越えようと思っていたから加藤の好意に喜んだ。無論藩境の小役人たちは白井の剣の凄みを知っているので制止する者はいないだろう。

 その日の夕方、白井はお慶と会うため土田家を訪れた。
 お慶は家中でも評判の美人で、色が雪のように白く、口もとが受け口で愛らしい。越後美人の典型で白井との婚儀が決まった時、三田の独身者たちは皆この婚儀を羨んだ。
 白井は土田家の客間に通され二人きりになると、
「噂で聞いたとおりだ。私は脱藩する。まことに申し訳ないがこの婚儀はなかったものとしてくれ」
 頭を下げた。
 お慶はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「いいえ、白井様。一度婚儀を決めた以上祝言をしなくても私は白井家に入ります」
「いや、それは」
 お慶はにっこりと微笑むと、
「これはもう私が決めたこと。白井様がいなくても私は義姉上様をお助けします」
「お慶殿、私が脱藩をすればあなたにも塁が及びます」
「白井様、私のことは大丈夫です。どうかわたくしをお嫁にもらってください。お願いします」
 お慶は三つ指をついた。
 この女性のどこにそんな大胆さがあるのか、白井は驚かずにはいられなかった。





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最終更新日  2008.07.19 11:17:07
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