文豪のつぶやき

2008.07.19
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カテゴリ: 時代小説
結局白井は、不得要領のまま土田家を出た。
 翌朝、白井は竹蔵にお幸を託して陽が明けきれぬうちに家を出た。
 武蔵国に出るのは通常信濃国まわりでいくのであるが、白井は火急の場合にとられる三国峠越えの上州まわりを選んだ。
 この方が三日ほど早く着く。
 白井が宮下の宿所に着いたのは篠原が毛呂を出た翌日である。
 驚いたのは宮下である。
「おめさん、どうした」
 宮下はこの日所要があって夕方戻ってきた。
 白井は宿所である長栄寺の門の前の松の根方でしゃがんでいた。

「どっどうしたっや」
 白井はそれには答えず、足もとに生えている草を抜くと、口にいれくちゃくちゃと噛んだ。
 白井は本来無口である。
 その無口さが白井の迫力にもなっている。宮下は一歳年若のせいもあって白井に遠慮がある。宮下は仕方なく白井の隣にしゃがみこんだ。
 白井は草をもう一本引き抜くと宮下の前に差しだした。
「もち草だ。三田では田んぼの畦によく生えている。子供の頃よく口に入れて噛んだっけ」 宮下は仕方なくそれをうけとり、口に入れた。
 口の中に青臭い苦みが漂った。
「最初は苦いが噛んでいるうちに甘みがでてくる」
 宮下も子供の頃に噛んだことがあるから知っている。
 宮下は、白井の来訪の肚をはかりかねた。
 何故突然やってきたのかを聞きたかったが、一つ年上の白井に機先を制されたため黙ってもち草を噛んでいる。

 白井の話はとりとめもない。
「さあ」
 宮下は噛みながら答えた。草はますます苦く、一向に甘くならない。
 白井は宮下の性格を知っている。
 宮下は家中きっての能弁家である。先に篠原が宮下のもとに来た事を知っている白井としては、すでに太子堂組が脱藩することを篠原が宮下に伝え、かつ白井の脱藩慰留を依頼されたことも容易に推察出来る。

 そのため機先を制して宮下の口を防ごうとした。
 白井は宮下と無用の摩擦を起こしたくないという気持ちがある。
 直情の宮下とまともにぶつかって、刃傷ざたまではいかないにせよ積年の友情を潰したまま脱藩をしたくない。
 宮下は相手が目上であるため、自分の方から脱藩説得はおろかこの毛呂に来た理由すら聞き出すことが出来ない。
 宮下は長幼のことには素直な性格である。
 白井の計略どおり宮下は沈黙した。
 白井は故郷の田は去年に比べ青々としているから豊作になるぞとか、かな山の炭焼きの家に男の子が生まれたとかとりとめもない話をしつづけた。
 これにはさすがの宮下も参ってしまい、陽がとっぷりと暮れる頃には、
「白井さん、わかった。脱藩のことについては一切言わない」
 宮下は両手を合わせて拝む真似をした。






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最終更新日  2008.07.19 15:31:12
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