文の文

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sarisari2060

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2009.03.05
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カテゴリ: 千鶴子さん
久しぶりに千鶴子さんに会った。

待ち合わせ場所である横浜の高島屋の太い柱の影に
杖を片手に立っている千鶴子さんは
ほんとうに小さなおばあさんになってしまっていた。
その小ささが胸に堪えた。

ふっと消えてしまうような気がしてきて
小走りになって、寄っていくと
そんなわたしをみて
「走ってくるからわかったわ」と言い

その微笑の静かさもまた胸に堪えた。

「ジョイナスへいきます」
そういって千鶴子さんは歩き出したのだけれど
左の足は右の足のようには動かない。

右足が前に出て、杖を共に左足がそれを追う。
追いつくが、追い越しはしない。
丁寧な運針のような歩き方。

気の利かないでくの坊のようなわたしは
なにをどうしていいかもわからず
「だいじょうぶですか?」と聞き
「だいじょうぶよ」という答えにただ頷く。


うまいからここにしなさいっていう
中華屋へ行きましょう」
とわたしの肩先のあたりで千鶴子さんが言う。

茶髪の鬘の分け目をみながら
「はい」と答える。


ゆっくりゆっくり進む。

「元気でしたか?」
「元気よ」

そんな言葉を交わしながら進む千鶴子さんの背中が
ますます丸くなっているのに気づく。
また胸の辺りが落ち着かない。

「なかなかじいさんが外へ出してくれないから
どっこにもいけなくて、いやになっちゃう」
お座敷でビールを一口のんで千鶴子さんが言う。

「やっぱり心配なんじゃないですか?」
「わたしが外にでるなら家のことしてやらないっていうのよ。
自分でやれって。ずっと家にいるならやってやるって。
意地悪でしょ?」

「ほんとにしてくれないんですか?」
「そう。わたしが倒れててもほっといて出かけちゃうの」
「まあひどい」

「ほんとに毎日毎日喧嘩ばっかりしてるの」
「ふふ、そのエネルギーはすごいですねえ」
「だって腹がたつことばっかりいうんだもん」
「困りましたねえ」

そんなことをいいながら
千鶴子さんが普段は飲まないというビールを空け、
前菜のチャーシューやくらげに箸を伸ばす。

わたしといるとなんだか知らないうちに
いろんなものを食べてしまうのだという。

しかし、家では食欲がなくて、
栄養失調で2回倒れたのだと言う。

千鶴子さんはほとんど肉を食べない。
18歳の時、それは戦争中の食料難の時代だったのに
食堂にぶら下がっていた牛肉に無数の蝿がたかっているのをみて
もう一生牛肉は食べないと誓い
その決意を81歳の今まで守ってきた人なのだ。

とはいえ、このところ大きな病気をしたこともあって
大好きな主治医に「食べてくださいよ」と言われて
少しは食べるようになったそうだが。


そんな千鶴子さんは短歌のサークルと文学散歩の会と
芭蕉の本を読む会に参加している。
その外出がご主人の気に障ることらしい。

今でも会場の予約や、
会報の割付、校正の仕事も引き受けている。
なんで千鶴子さんばかりがしなくてはならんのか、と
ご主人はおかんむりなのだそうだ。

「85歳まではやるけど、
そこで全部お役ごめんにしてもらうわ」
それまで、ご夫婦の戦いは続くのだろうか。

そういう会以外は外出しないので
家でひとりで源氏物語を原書(?)で読んでいる。

今は41帖まで読んで、源氏が雲隠れして
そのあと2帖ほどあって
それから宇治十帖にはいるのだそうだ。

わたしにはさっぱりわからないのだが
あの主語もなく「思し召し給いて」ばかりの文章を
なんの手がかりもなく読み進んでいるだけでもすごいと思うのに
そのなかの短歌を抜き出して集めて
万葉集との比較などしてまとめてみたいと思っているそうだ。

「源氏物語が終わったら太平記を読もうと思うの」

小さく小さくなっていく体の中で
そんな野望が野火のように広がっていく。
すごいなあ。

千鶴子さんには山形にお友達がいて
こまめに文通をしているのだという。

そのひとのニックネームがシュガースプリングで
千鶴子さんにもニックネームをつけましょうということになった。

昔々、チータと呼ばれていたから
そうしましょうということになっていたのだが

千鶴子さんが子供のころ
おにいさんが食べ物を横取りしようとするので
絶対にあげなかったら
お兄さんに「チケ!」と呼ばれた。

反対からいえばその意味がわかる、
というエピソードを知ったシュガースプリングさんが
ふたつをまぜっこして「チケチータ」に決めたのだと
千鶴子さんは嬉しそうに言った。

しかし、千鶴子さんは決して「チケ」などではなく
お世話になったひとのお礼にしたいからと
10個も文袋を買ってくれた。

そして、お昼も奢ってもらった。
そんな、申し訳ないです、というと

同居している息子さんが糖尿病予備軍になって
食事制限をしなくてはならなくなって
ずいぶん食費が浮いたからいいのだという。

「風吹けば桶屋が儲かるようなもんよ」と
チケチータが愉快そうに笑った。







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Last updated  2009.03.09 15:58:32
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