Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月03日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第10章 ゲーテのアイデアというその光の下での認識と行為1-5 佐々木義之訳
2.教条的な方法と内在的な方法
 教条的な方法と内在的な方法の科学的な判断は二つの概念、もしくは一つの知覚と一つの概念を結びつけることによってなされます。「原因なしに結果なし」というのは前者の種類の判断であり、「チューリップは植物である」というのは後者の例です。日常生活では、ある知覚を別の知覚に結びつける-例えば、「バラは赤い」というようなこともあります。私たちが判断するときにはいつでも何らかの根拠に基づいて行います。ここで判断のための根拠を眺める二つの方法があります。第一の学派の考え方は、判断が真実であるための客観的な根拠はその判断に貢献した概念や知覚によって提供される証拠を超越したところにある、というものです。この観点では「判断が真実であるかどうかの根拠はその判断へと導いた主観的な根拠とは必ずしも一致しません。」この観点によると、「論理的な」根拠を「客観的な」根拠と混同すべきではありません。この学派の考え方は私たちの洞察の客観的な基礎に至る道を示唆する一方私たちの認識する心に起因すると考えられる方法はその目的にとって十分なものではないということになります。私の主張の根底にある客観的な現実は私の見知らぬ世界の中にある、というのです。その主張そのものが、その「形式的な」根拠、内的な首尾一貫性、公理による支持、等々とともに、私の認識の内部にある唯一の側面です。この種の観点に基づく科学は、それがいかなる種類のものであれ、教条的です。顕現に基づく神学的な哲学は教条的な科学の例ですが、それは現代科学も同様です。ちょうど「顕現というドグマ」があるように、「経験というドグマ」もまたあるのです。顕現というドグマが伝えるのは、人間の視界からは完全に遠ざけられたことがらについての真実です。人間は出来合いの信仰条項が処方された世界について知ることはありません。私たちは私たちの信仰がよって立つところの基盤を決して見出すことができず、何かが「何故」真実なのかをそもそも知ることができません。達成可能なのは「信仰」であり、「認識」ではないのです。けれども、単に観察し、記述し、その変化を体系化する一方、直接的な経験においては「まだ与えられていないような」条件へと上昇することが決してないような実験的な科学の主張もまた、それが純粋な経験に自らを限定するべきであると主張する限りにおいて「ドグマ」です。この場合も、真実は対象への洞察を通して達成されるのではなく、外側から私たちの上に押しつけられます。私は何が起こっているかを、そして、そこに何があるかを見て、それを記録します。何故それがそうなっているかの理由はその対象の内部にあると考えられます。私は結果を見るのであって、決して原因を見ません。かつて、科学は「顕現」のドグマに支配されていました。今は、「経験」のドグマに支配されています。過去には、顕現された真実の原因について考えることはおこがましいことであると考えられました。今日では、事実が表現する以上のいかなるものも知ることはできないと考えられています。「何故」事実はこのような仕方で語り、別の仕方ではないのかという問いかけは経験の視界を越えたところにあり、したがって、それに答えることはできない、と考えられているのです。
記:ドグマ(Dogma):ギリシア語では元来公的機関の政治的決定もしくは命令を意味し、さらに哲学上の諸学派の学説をもさした。教義・教説などと訳され,固定された堅固な信条をいう。したがってときには柔軟性を欠く無批判な信念という侮蔑的意味でいわれる。基本的には一つの団体なり流派なりに固有の信念であって、ドグマを認めるか否かが正統と異端とを分つ。哲学説についていうときはほとんどあしき意味である。一般にはキリスト教の教義をさし,それは啓示の意味を人語によって明確にし、公会議などが啓示真理であると宣言したものであり、全信徒を拘束する。その権威は第一に聖書に基づくが、教義決定機関としての公会議と教会 (およびその首長) の性格をめぐっての考えの相違に応じて、カトリック、ギリシア正教、プロテスタントではドグマの評価も異なる。共通して認められているドグマは三位一体と,キリストの位格 (ペルソナ) についての教理である。なお,カント哲学ではドグマはマテマ(Mathema)に対立し、概念からの直接的総合的命題をいう。なお、教条主義(ドグマティズム)とは、哲学の分野では中世のスコラ学などの定説主義や、独断主義を指す。イマヌエル・カントは批判主義に対立するものとして独断主義をとりあげた。
 何故その陳述が真実であるかを、判断の真実性についての認識を超越したところで推し量ることに意味はないということを私たちは示してきました。私たちは、ものごとの本質がアイデアとして私たちの中に生じる地点にまで突き進むとき、そのアイデアは完全に自立的、自己充足的、自己完結的であり、さらなる外的な説明を要しないものであるということを理解します。すなわち、その中に安んずることができるようになるのです。私たちは、それに必要な能力が私たちに与えられるならば、アイデアはそれ自身の中にそのすべての構成要素を含んでいる、その中には私たちが求め得るすべてがあるということを認識することができます。存在の全ての基盤はアイデアの中に現れ、その中にいかなる留保もなく自らを注ぎ込んでいるので、私たちはそこから先を探す必要がないのです。私たちがアイデアの中に見出すのは私たちが事物の中に探し求めているものの「像」ではなく、それ自体なのです。私たちのアイデアの世界の各部分が私たちの判断の中に流れている分だけ、それら自体の内容によってその結果がもたらされるのであって、何か外的な理由によってもたらされるのではありません。私たちの思考の中には、私たちの主張に対する具体的な基盤が直接存在しており、それらの形式的な基盤が存在しているのではないのです。ですから、すべてのアイデアを越えたところに、思考自体を含めて、すべての事物を支える絶対的な現実がある、という観点を私たちは拒絶します。その世界観によって、到達可能な世界の中に存在の基盤を見出すことは全くできません。その観点にとって、存在の究極的な原因は私たちに現れるような仕方では世界の中に入ってきていません。それはむしろ自ら閉じた存在、現在の世界からはかけ離れた存在なのです。「現実主義」と呼ぶことができるこの観点は二つの形態をとります。つまり、世界を基礎づける現実的な存在の多様性を前提とする(ライプニッツ、ヘルベルト)か、あるいは、統一的な現実を仮定する(ショーペンハウアー)かです。いずれにしても、この「現実」がアイデアと同じものであるかどうかを知ることはできません。その性質そのものが基本的に異なっているとみなされているのです。現象の本質的な特徴に関する問題が私たちの意識の中に充分に入ってくるやいなや、現実主義者であることは不可能になります。と申しますのも、世界の「本質的な特徴」について問いかける目的とは何なのでしょうか。それは、私がものごとを見るというところにまで、そして、内なる声が、結局のところ、それは本当に私が目にしている以上のものなのだということを私に告げるところにまで本当に来ているということです。けれども、実際には、私がその事物を見ているときにも、そのより偉大な現実は既に私の中に現れようと活発に試みているのです。もし、私が説明を探し求めるとしたら、それは私の中で活動するアイデアの世界が周囲の世界についての私の説明を要求しているからに過ぎません。その内部にアイデアが生じないような存在は、ものごとをより深く説明するように動機づけられることはないでしょう。そのような存在は感覚に現れるもので十分満足するでしょう。世界を説明しようとする意欲が生じるのは、私たちの思考にとって入手可能なアイデアの内容を外観の世界へと統合し、概念的な仕方であらゆる事物に貫き至るように。つまり、私たちが「見たり、聞いたりするようなことがらを理解することがらへと変える」ように促されるときです。もし、これらのことがらをこれ以上なく深刻に考えてみるならば、私たちが記述したような現実主義を信奉することはできなくなります。アイデアではない何らかの現実を通して世界を説明しようとする試みはいかなるものであれ自己矛盾であり、第一そのような発想がどうやって追随者を獲得するのかを理解することは困難です。知覚可能な現実を、何か思考とは根本的に異なるものを通してはもちろん、思考そのものの中に見出されないような何かを通して説明する必要はありませんが、また、できることでもありません。ひとつには、私たちには完全に見知らぬものである何か、私たちには隠されてさえいるようなものの観点から世界を説明するように私たちを動機づけるものとは一体何なのでしょうか。私たちがこの隠された因子に出会うと仮定しても、一体どこで、どのような形態でと問わなければならないでしょう。それは思考の中に見出すことはできません。思考の中でないとするならば、私たちはそれを何か外的な、あるいは内的な知覚の中に見出すと期待すべきなのでしょうか?けれども、知覚世界を説明するに当たって同じ性質のものをもってすることがどのような意味で役立つというのでしょうか。私たちに残されているのは第三の可能性、私たちは、思考することはできないけれども、それでも非常に現実的な世界に思考や知覚以外の方法で到達できるという仮定―です。この過程は私たちを直ちに神秘主義へと導きます。私たちは今これに関わる必要はありません。何故なら、私たちにとって興味があるのは、思考と存在、「アイデアと現実」の関係についてだけだからです。神秘主義の認識論について書くのは神秘主義者にまかせましょう。後期のシェリングの観点は、私たちの理性は世界内容とは「何か」を展開することができるだけであって、そもそもそれが「存在する」という事実に至ることは決してできないというものでした。私たちには、これ以上馬鹿げたことはないように見えます。ある事物の「存在」は私たちにとってそれが「何」であるかの前提条件であり、それが「存在すること」を最初に確立していなければ、ある事物の「何であるか」を達成する方法はないはずです。私たちの理性によれば、ある事物が存在しているという事実は私がその意味を把握しているという事実そのものの一部です。シェリングは、世界の意味を解明することはその存在を確信していなくても可能であると考えました。このことと、存在について知ることができるのは「より高次の経験」を通してのみであるという彼の確信は、自省的な思考にとって、考えも及ばないことのように見えます。シェリングはゲーテにあれほどの衝撃を与えた彼の初期の観点をその晩年にはもはや理解できなかったと考えざるを得ません。
参考画:Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling-01



記:シェリングの自然哲学のうちには、生きた自然の強調、自然と精神の同根性への着眼、自然の自己組織性の指摘、自然の内的構成の原理的把握、物質の重視といった思想が認められ、きわめて現代性に富む考え方が提起されている。シェリングの関心は神の実存にのみあったとも評される。

記:イツ観念論を完成させた「偉大な体系家ヘーゲル」。 西洋哲学史のテキストを開いてみれば、そのほとんどに、ヘーゲルとは「壮大な哲学体系」を構想し、みずからの哲学体系をもって哲学史の終焉を宣言した絶対的観念論の哲学者だと記されている。また、マルクス=エンゲルスの唯物主観はヘーゲルの論理学において最初の思弁的概念として生成というカテゴリーのもとに定式化されている弁証法抜きには完成しなかった。
参考画:ドイツ近代哲学01




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最終更新日  2024年06月03日 11時03分05秒
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