「至極の女性」 0
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時間の陥穽181 星の様々な終末を踏まえて、此処に時間の流れに特徴的な影響を及ぼす「ブラックホール」が俎上に上がります。質量の非常に大きな星が超新星爆発を起こすと、その中心部は、ガスの圧力や中性子の縮退圧などいかなる圧力によっても自分自身を支えることができなくなり、中心点へ向かって無限に重力収縮してしまう。ふつうのブラックホールは、このような星の重力崩壊の結果誕生します。ブラックホール誕生後の変化・進化は、蒸発と成長とという二つの方向性があります。一つはケンブリッジの車椅子の天才物理学者ホーキングの唱えたブラックホールの蒸発です。古典的な理論では真空に位置する単独のブラックホールは永久に存在することになります。然し乍ら、量子力学的な場の理論では、真空は無ではなく、仮想的な粒子・反粒子対が常に生成消滅を繰り返していると云います。ブラックホールの影響を受ける地平面の近傍でこのような仮想粒子対が生成されると、それらは消滅する前に、片方の粒子がブラックホールの地平面内に落ち込み、もう一方の反粒子が遠方へ逃げ去ることがある。言い換えれば片方の粒子としての反粒子がブラックホールの地平面内に落ち込み、もう一方の粒子が遠方へ逃げ去ることがあると云いいます。此の現象を天文単位の遠方から観測すれば、あたかもブラックホールから粒子が出てきたように見えることになります。このような蒸発理論に従えば、ブラックホールの質量は理論上暫時であれ漸次減少することになります。ただし蒸発の割合は質量が大きい程に小さく、一般的なブラックホールでは蒸発は無視できるとしますが、永劫の宇宙からみれば無視できない変化です。哲学・思想ランキング
2020年06月13日
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時間の陥穽180 星の終末は、その質量によって異なることは観測天文学で確認されています。物理科学上、太陽質量より約0.08b倍≒1.5911e+29kg以下の星は太陽にはなれない。太陽質量の4倍ぐらいより軽い星の場合では赤色巨星になった後、 その核である芯が炭素や酸素の燃えカスだけとなり、 温度も数万度に下がって収縮し, 電子の縮退圧で自分自身の重力で収縮、電子の縮退圧で自分自身の重力を支えるようになった星である白色矮星になります。白色矮星の質量は太陽程度ですが半径は地球程度しかありません.一方、太陽の約8倍より重い星の場合、核融合反応を繰り返すことによって、赤色超巨星に進化した段階ではネオンやマグネシウムからなる縮退した中心核が作られ、その周囲の殻状の領域で炭素の核融合が進むようになります。中心核の質量が増えると、やがて陽子の電子捕獲反応が起きて中心核内部に中性子過剰核が増えます。これによって電子の縮退圧が弱まるため、重力収縮が打ち勝って一気に崩壊する嵌めに陥ります。更には、太陽の10倍程度よりも重い星では中心核が縮退することなく核融合が進み、最後に鉄の中心核ができる。鉄の中心核は重力収縮しながら温度を上げていき、約1010Kに達すると黒体放射により生じた高エネルギーのガンマ線を吸収してヘリウムと中性子に分解してしまうという鉄の光分解が起こります。これによってやはり中心核が一気に重力崩壊を起こすのです。この爆縮的崩壊の反動による衝撃波などで外層部は猛烈な核融合反応を起こし、II型の超新星となる。しかし爆発のメカニズムは詳しくわかっていない。内部コアで生じた衝撃波は典型的な爆発の運動エネルギーと比べて二桁ほど大きいにもかかわらずニュートリノ放出によって弱まるため外部コアを通り抜けられないと考えられている。現在では弱まった衝撃波をどのように復活させるかが議論されており、ニュートリノ加熱メカニズムが有力視されているものの未だうまくいっていません。極超新星ともなれば未だにブラックホールと並び理論物理学の分野を超えません。哲学・思想ランキング
2020年06月12日
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時間の陥穽179 ブラックホールの熱力学の解釈は、ホーキング放射(Hawking radiation)またはホーキング輻射、スティーヴン・ホーキングが存在を提唱した、ブラックホールからの熱的な放射のことで「ブラックホールは熱的な特性を持つだろう」と予言したヤコブ・ベッケンシュタインの名前を取って、ベッケンシュタイン・ホーキング輻射(Bekenstein-Hawking radiation)と呼ぶこともある理論ですが、そこにはブラックホールが最終的には蒸発する、我々のブラックホール観の常識を覆す理論ですが、そもそもが、ブラックホールの「蒸発」とはいったいどんな現象なのでしょうか。ブラックホールの生涯は、星の終末がその質量によって異なることの様相に関わります。すなわち約0.08太陽質量より小さい星は太陽にはなれない。約0.08太陽質量から約4太陽質量の星は、最終的に白色矮星になる。約4太陽質量から約8太陽質量の星は、超新星爆発を起こすが、粉々に砕け散って後には何も残さない。そして太陽質量の8倍より大きな星が超新星爆発を起こしたときに、中性子星やブラックホールが残されるのです。ブラックホールが最終的には蒸発するホーキング放射が事実ならば。ブラックホールもやはり誕生と終末を持つ訳です。哲学・思想ランキング
2020年06月11日
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時間の陥穽178 ホワイトホールはあらゆる物質を放出する天体と定義されます。然し乍ら、この定義では、ホワイトホールはやがては物質を放出しつくし消滅してしまうことになります。近年には宇宙観測学にて宇宙の粒子が「無から有(在るの意)乃至、有から無」が観測上発見の話題が科学上にて世間を賑わしてはいますが確定的ではありません。勿論のこと、ブラックホールが全ての宇宙物質を呑み込むだろうに至っては理論物理学でも噴飯もの扱いです。かつての観測天文学は「ホワイトホールが発見されていないのは、既に全部消滅したから」と説明されてきました。だが、この説明どおりにホワイトホールを解釈すると、ビッグバン以前にホワイトホールは既に存在していなければならないことになるという矛盾が発生します。将又、ブラックホールとホワイトホールが、時空構造の位相幾何学として考えうる構造の一つで、時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道である。一方通行のワームホール(wormhole)を通じて繋がっているため、ブラックホールに吸い込まれた物質が、ホワイトホールから放出されるという仮説も存在しますが、この仮説にはブラックホールに吸い込まれた物質がその後どうなるのかについての説明が未だ科学的認証を獲得せず不明の儘です。これらの点から、ホワイトホールは数学的解釈により想像された架空の天体に過ぎず、現実には存在しないとする説が現状では有力視され支持されている次第です。哲学・思想ランキング
2020年06月10日
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時間の陥穽177 果たしてホワイトホールに実在性はあるのだろうか。然し乍ら、未だにホワイトホールの存在自体に決定打となる発見の発表はありません。但し、2006年6月14日のニール・ゲーレルス・スウィフト(The Neil Gehrels Swift Observatory) によって発見されたガンマ線バーストで、旧称スウィフト (The Swift Gamma-Ray Burst Mission) 、2004年11月20日にデルタIIによって打ち上げられたガンマ線バースト観測衛星でNASAのゴダード宇宙飛行センターによって運用・管理されている宇宙観測機、当然に人間が搭乗しないため観測宇宙船とは呼べませんが、このミッションを率いたゴダード宇宙飛行センターの主任研究員ニール・ゲーレルス(2017年2月6日没)の活躍を経て解明への道は近付きつつあります。この功を讃えて、この宇宙観測機を「ニール・ゲーレルス・スウィフト (Neil Gehrels Swift Observatory)」と改称することが発表されて宇宙物理科学や宇宙天文学の一部からなお疑問視されるホワイトホールを現在に到るも探求しています。哲学・思想ランキング
2020年06月09日
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時間の陥穽176 ブラックホール(black hole)とホワイトホール (white hole)はブラックホール解を時間反転させたアインシュタイン方程式の解として、一般相対性理論で理論上議論される天体です。ブラックホール解を時間反転させたアインシュタイン方程式の解を鍵として、一般相対性理論で理論上議論される天体で、宇宙の無限循環を予想させます。イベントで見掛けるバルーン芸や日本の縁日に幼少期の者が見た加工風船を彷彿とさせます。一本の空気で膨らませた長いバルーンを周りから強力無非な捻じり、重力の巨大な捻じりをブラックホールに感じるからです。此の強力無非な捻じり運動の原点は全てが、宇宙の内外、汎ゆるる物から隠された「力」絶対者の意思と意識から生じるのか、宇宙其のもの内在する「力」がそうさせるのかは未だに未解決です。哲学・思想ランキング
2020年06月08日
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時間の陥穽175 時間論についてはアリストテレス全集第3巻「自然学」述べられ、さらにアリストテレスは時間とは「前と後ろに関しての運動の数」であると定義しています。 其処には、何は兎にも角にも、先ずは運動という概念が強調され、存在はすなわち運動であり、時間は運度の計測によって生ずるものであるという思いが汲み取られます。逆に云えば、運動無きところに時間は存在しないことになり、空間無き処に運動はない従いて時間が無いことを意味します。此の論から導かれるのは、現代物理学からは宇宙の始まりとされるビッグバンの其の源「コア/核」には運動は未だなく、空間は発生しておらず、時間が無い世界を匂わせます。一部の説に究極の巨大ブラックホールの核内では時間が止まり空間は収縮し運動が行われなく成り、其れが、或る「素因」を以って、新たなるエネルギーとしてホワイトホール(white hole) に、ブラックホール解を時間反転させたアインシュタイン方程式の解として、一般相対性理論で理論上議論される天体として新たなる宇宙を発祥させるものとしていますが如何なものでしょう。哲学・思想ランキング
2020年06月07日
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時間の陥穽174 ナーガールジュナの時間論は、彼の著書「中論」の19章「時の考察」に非常に簡単に述べられています。此の章の「時」とは「三つの時」言い換えれば「三世」としての、過去・現在・未来のことです。これは何も仏教に限らず、古代インドの思想からの伝統を踏まえています。インドでは「時」が「三つの時」として理解されていた事実が、ナーガールジュナの縁起説すなわち彼の自性主義批判にとって非常は引用に都合のよいものだったのです。自性(じしょう)とは、「モノ」それ自体の独自の本性、「もの・こと」が常に同一性と固有性とを保ち続け、それ自身で存在するという本体、将又、そのものが独立し孤立している実体のことであり、根本的な性質、存在の本質を表す。西洋哲学の実体に相応する概念で、仮に「時間」に自性論を持ち込めば、「モノ」の自性は自立・独立・永存していることになります。世界が過去・現在・未来はそれぞれまったく別の事象・時制を指しているのか、それとも同一の事象を指しているのかということ課題が浮上します。其れとは豈図らんや、其れ其れが同じものを指しているのだとすると、過去も現在も未来もその区別がなくなってしまうという事象を受け入れる誤謬が待ち受けます。他方、それぞれがまったく独立した事象であるとすると、明らかに認められる過去と現在と未来の関係が、全く説明できないという別の受け入れがたい事態に落ち込まざるを得ません。こういう受け入れがたい事態、誤謬を犯すのは時間に時制を持ち込み自立・独立・永存の自性を想定するという間違いを犯しているからだとするのナーガールジュナの「時の考察」です。哲学・思想ランキング
2020年06月06日
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時間の陥穽173 アリストテレスの自然観から齎される時間観は、形而上学の「今」はもはや無い現在しない過去、来たるべき「今」であるが現在しない未来を、「今」の現実在を実相として捉え其処「今」を支点として時間を俯瞰しようとする努力の賜物です。今だけが「現実在」として人間精神に現実味を与えてくれる唯一のものだからです。「中論」著者の龍樹にしても時間なるものをばは否定するにしても「今」現在するものは否定はしていません。彼の「中論」第19章「時間の考察」中村元著「龍樹」の原文訳を見れば、もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時のうちに存するであろう。もしもまた現在と未来とがそこ(過去)のうちに存しないならば、現在と未来とはどうしてそれ(過去)に依存して存するであろうか。さらに過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはありえない。それ故に現在の時と未来の時とは存在しない。これによって順次に、残りの二つの時間(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。未だ住しない時間は認識されえない。すでに住して、しかも認識される時間は存在しない。そうして未だ認識されない時間が、どうして知られるのであろうか。もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。大乗哲学「縁起」論から時間は否定しますが「今」まさに現在するものは否定してはおりません。哲学・思想ランキング
2020年06月05日
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時間の陥穽172 アリストテレスの自然観から齎された「今」は、運動が有する順序構造に、その運動体が位置する地点の順序として識別される故に、運動の数として認識されると証されてはいますが、現代物理学からに馴染んだ現代人からは、時間が「運動の数」ならば「運動ゼロの瞬間」が必ず在ることになります。つまりは、時間の停止世界です。然し乍ら、我々人間で時間の停止を体験した者はサイエンスフィクションやムービーを除いては未だに顕れてはいません。アリストテレスの「今」を再見すると、「今」を他の単語に置き換えることで別次元が見えてきそうです。我々人間が「現在」する「今」は、通常生活を送る人間が「今」と捉えると誤謬が忍び寄ります。アリストテレスの「今」を他の語句に置き換えれば少しは「今」の真相に近付くことも可能になるかも知れません。例えば「今」を「今が現在の時」を用いると、今我々人間が体験した時間・体験するであろう時間は思い描くことは出来得ても人間が光速に劣る遅速の神経系を持つ限りにおいては「瞬間」を捉え切ることは出来得ません。アリストテレスの自然観から齎された「今」には、「時」若しくは「時点」が有効には想えますが、更に、方向性を持った運動する時制の「時」若しくは「時点」がアリストテレスの「今」に置き換えれば、かなり、理解し易くなりそうです。哲学・思想ランキング
2020年06月04日
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時間の陥穽171 アリストテレスの自然観から齎された「今」の具体化、更には具象化の努力に拘わらず、「今」が観察者の主観であるように、突き詰めれば「時間の流れ」そのものが主観なのであり、自己が存在する外世界は運動・変化は在るにしても「時間」を含有してはいません。但し、現代物理学が「時間子」なる独立粒子を発見すれば此の観想は全てがダッシュボードに晒された後、消え去るものとなります。常識が心の深奥で叫びます。客観的な「時間の流れ」は、「原理上」、言い換えればニュートンの絶対空間に設定された「絶対時間」、アイザック・ニュートンの物体は絶対静止した状態にあるか、そこから落下などして、絶対速度で運動しているかのどちらかだとして、その基準として、3本の軸の空間座標による「絶対空間」を設定し、この空間の中で、何にも影響されず、いつでもどこでも一様に流れる時間を「絶対時間」として定義したように、実相が異なったのです。絶対という意味は、時間も空間も物体の運動とは関係なく、見える見えないに拘わらず、それぞれ独立して存在するということで共通しています。其々がその中で物体が運動する「入れ物」にすぎないという考え方です。哲学・思想ランキング
2020年06月03日
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時間の陥穽170 アリストテレスの思惟する「今」は幅は無く、思考・体験では人間には捉え切れず、見えないものを何とか形而上ではなく具体化する努力の成果です。貴方・貴女の意識と外世界の変化を同一の基盤、見える世界と見えない世界を同一軸線上に乗せる努力です。其れは、アリストテレスの意識する「今」であり時間です。私議的には意識のないところに「今」は無い。「今」という瞬間は、客観的には存在しえない。「今」は主観そのものと言えると思考します。脳細胞の活動が「今」という瞬間を生み出し、「今」を感じている主体を我々人間は「意識」と呼び「今」という瞬間が在るからです。仮にあなたの意識の消失状態が起これば、たとえ、時間が外界に有ろうと無かろうとあなたの意識に「今」はもはやない。仮にこの世界に、意識と呼ばれる現象が存在しなければ、客体がどうであれ、「今」を認識する主体が存在しないということになる。客体としての世界から「今」が消えてなくなるということです。アリストテレスの思惟する「今」は意識を導入しています。人間意識の外世界に時間概念を適用し得る「今」はあるのか、「今」が無ければ時間は流れない。時間の流れは観察者がいてこそ感じられるのであって、観察者がいなければそこに流れるのは絶えざる「運動・変化」なのです。哲学・思想ランキング
2020年06月02日
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時間の陥穽169 アリストテレスは「運動体」は、点のようなものでも「石」であっても構わないと述べますが、点=運動体という系列に「今」が準じるより含有せしめていることには注意が肝要です。つまり、点=運動体という系列に「今」が準じるとすれば、「今」はまた具体相を示すものとなります。アリストテレスの思考は「今」は抽象的なものではなく、具体的なものでなければならないということ。彼の時間論からして「より先・より後」を今を堺に先後関係にあるものの数を数える、「時間」を「運動の数」と捉えることが出来るという解していることをことを意味します。アリストテレスの「今」が成り立つためには、その「今」は何ら抽象的なものではなく、数えられる具体的な「今」でなければならないということです。然し乍ら、具体的な「今」、言い換えれば現在瞬間に体験し得る「今」が炙り出す先後関係は、運動の順序構造と同じではない。主軸としては運動体によって運動の順序構造が識別されるのであって、従いて運動体に準ずる「今」が、時間における先後関係が教唆され、数えられ得るものになるであろうから。尤も、アリストテレスが「今」の存在主体が「運動体」と同一であると述べている点には注意が肝要です。「今」の存在主体とは、「今である」という規定を受け入れる当のもののことであリ、その点では「今を支えるものである。アリストテレスはそれを運動における先後関係つまり順序構造と捉えている。運動は必ず順序構造を持っているのであるから。「今」の存在主体はしたがってその点で同一である。従いて、「今」そのものは具体的であるが、その「モノ」の在り方、その具体的な具体的な先後関係は多様性を示すとアリストテレスは考えています。「実在」が「今」にあり、数えられ得る限りにしての「運動体」に準じるとするのです。詰まるところ、「現実」は今我々が感応しているそのものであり、其れ以外は、体験であり予想だと云うことに成り、「時間の流れ」は振り出しに戻ります。哲学・思想ランキング
2020年06月01日
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時間の陥穽168 アリストテレスは運動体に「今」が準じているのであって、「今」に運動体が準じているのでなく、運動に時間が準じているのでなく時間が運動に準じているのと同様であると解きます。というのも、運動体によって我々は、運動における「より先・より後」の順序構造を識別し、そこから、「より先・より後」が数えられ得るものであるかぎりにおいて、「今」が成立するからである。従いて、運動体に「今」が準じている場合においては、「今」の存在主体については同一であるとし、運動における「より先・より後」の順序構造に時間の方向性と「今」の特異性を強調します。アリストテレスは「今」の具体的なあり方を「より先・より後」の順序構造を数えられ得るものであるかぎりにおいてと強調し時間の流れを運動の数として認識しています。時間の流れの客観的・具体化させる思惟が成させる結論です。哲学・思想ランキング
2020年05月31日
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「時間存在」167時間の陥穽167 アリストテレスにしてみれば、運動が有する順序構造は、その運動体が位置する地点の順序として識別されると認識します。つまり、現在「今」が成り立つためには、其の今は抽象的なものではなく、具体的なものでなければならないということになります。然し乍ら、具体的な今が炙り顕す先後関係は、運動の順序構造と同じではないこと、運動体によって運動の順序構造が識別されるのであるから、運動体に準ずる今によって、時間における先後関係がそれと知られ、数えられ得るものになるであろうという論理から存在主体が同一である或いは準じる限りに於いては、アリストテレスは運動体に準ずる「今」と時間における先後関係がそれと知られ、数えられ得るものとします。数え得るものが運動であり、時間が其れ準じるのであれば、運動は必ず順序構造を持っているのであるから、今の存在主体はしたがってその点で同一であり、より先・より後に関する運動の数としての時間に関する概念が正当性を帯びます。哲学・思想ランキング
2020年05月30日
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時間の陥穽166 アリストテレスは、空間・運動・時間の三者の系統を鑑み、運動そのものが世界を体現して、「運動体と規定される存在主体」は運動との同一性を保つが、「運動体」はアリストテレスはによれば、点のようなものでも石であっても構わないので多様性が特徴になります。ところが、運動と称される場合、運動が有する順序構造、その運動体が位置する地点の順序として多様なかたちで識別されると。運動そのものが持つ方向性によって布置構造から順序構造への変換が行なわれ過去・現在・未来という時間的先後関係が顕れて、「今」および数あるいは数えるという要素を持ち込んでくる。運動そのものが持つ方向性によって布置構造から順序構造への変換が行なわれるのであるから時間が運動に準じることになります。哲学・思想ランキング
2020年05月29日
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時間の陥穽165 アリストテレスは、場所の空間的拡がりに対応するものとして点を取り上げ、運動に対応するものに、動いている具体的な当のものである運動体を取り上げています。更には、運動が空間的大きさに準ずるように、運動体が点に準ずると述べます。此の論意は、少なくと此の解釈での用いられている「点」という単語は、抽象的な拡がりとしての大いさ、あるいは、拡がりを持たずに位置のみを有するものといった幾何学的な点ではなく、寧ろ、運動体が存在している具体的な場所である空間的な位置、アリストテレスが挙げている例、リュケイオンとかアゴラがそれに相当し、空間的拡がりにおける具体的な「地点」を意味するものです。其の論からは運動の順序構造は運動体が通過する具体的な地点の順序として識別され、運動体そのものは同一性を保つものの、其れがはたして何処に居る或いは在るのか、何処を動いているのかという点ではユークリッド幾何学の二次元上の位置を示すものとは異なっていることになります。アリストテレスは此れを具体化して「存在主体のレヴェル、動いているコリスコンという人物は同一であるが、コリスコンその者がいる語られ方のレヴェル地点、即ち、語られる方の運動体の具体的様は異なっているのる。もっとも、これは先ほど述べたこと、即ち、運動体は運動に内在している目的の実現という方向性に沿った順序を示すということを強調します。哲学・思想ランキング
2020年05月28日
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時間の陥穽164 アリストテレスの「今」の解釈の論理は、空間・運動・時間の三者の系統をより解りやすく具象化するために「点・運動体・今」という系列を持ち込み、「空間的大いさを位置を表す点に、運動を其の質である運動体に、時間を今という現実態」当て込み、此の系列が人間に認識可能なものとすると思惟します。具体的にはアリストテレスの言「すなわち、先に述べたように、運動は大きさである場所の空間的拡がりに準じ、時間は運動に準ずる、というのが私たちの主張である。したがって同様にして、運動体は点に準じ、この運動体によって私たちは、運動およびその運動における「より先とより後」としての順序構造を構成するものを識別するのである。そしてまた、「運動体はそれが点のように小さなものであれ、石であれ、他の何かそのようなものであれ、その存在主体について言えば同一であるが、その語られ方について言えば異なったものになる。それはちょうどギリシアのアテナイを中心に活動した、金銭を受け取って徳を教えるとされた弁論家「ソフィストたちが、リュケイオンにいるコリスコンとアゴラにいるコリスコンは異なっていると考えるのと同様である。」コリスコンという人物は存在主体の水準(level)は、動いているものという規定を受け入れる水準(level)は同一であるが、その人物がいる地点、即ち、語られ方の立ち位置では、 運動体の具体的様相は異なっているのである」とします。「運動体は次々と違う場所にあるということによって異なっているのである」と。哲学・思想ランキング
2020年05月27日
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時間の陥穽163 何も変化が無く時間も流れない世界。とてもじゃないが我々には想像出来得ない。ブラックホールの核内 でさえ時間は流れと変化があるとされます。勿論のこと、何も変化が無く時間も流れない其の世界は形而上・数理上理論または宗教上は神そのものです。当然に数、学的計算によって導き出された理論上のものを確認することは有り得ません。絶対的であれ、相対的であれ、始まりと終わりがあろうとも時間は流れており、伸び縮みしようとも、我々の意識は間違いなく時間の流れを感じています。そして「今」を感じています。「今」言い換えれば「現在に在る」という特異点に関しては、アインシュタインもお手上げだったとさえ云われます。物理科学の理論・実証的にも「今」を扱うことは非常に難しいことは現代に於いても何ら事情の変化はありません。此の「今」の問題を考えるに当たって、アリストテレスは大乗哲学の祖である龍樹の「空論」の時間の取り扱い、人間意識の時間否定のように、「心論」に拘わらず、一般論として時間を考証し「今」を取り上げ「今」の位置を語ります。哲学・思想ランキング
2020年05月26日
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時間の陥穽162 運動は或る方向性と連続性を持った順序を踏むが故に、観察及び観想者は運動を空間的拡がりの中に見いだし、空間的布置構造が観相出来得ます。完全現実態への目的達成のためには順序が必要となるのです。たとえ目的的完全現実態が「混沌/chaos」であるにしても運動そのものが持つ目的へと向かう方向性には影響を与えません。この方向性による順序構造への変換に基づいて、運動における先後関係が規定され、その関係が少なくとも、数的なものでとして取り扱うことが可能となります。運動の数としての時間が「数を持つかぎりでの運動」であるということは、その根本において「順序構造を持つ運動」という意味に解することが可能だということです。それでは、この運動における先後関係が、そのまま時間における先後関係となる得のであろうかが、運動・空間・時間の三者間の関連から、運動における先後関係が、其の儘、時間における過去・ 現在・未来という時間様相の関係的先後関係「かって・今・いつか」の時間的先後関係に対応できる得のであろうかは重要性を帯びます。ここにアリストテレスの「今」の解釈の論理が重要性を帯びる訳です。哲学・思想ランキング
2020年05月25日
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時間の陥穽161 アリストテレスは「動」である運動は、可能性が可能性として現実化されているあり方、彼云うところの完全現実態のことであり、此の「動」にはそれ完全現実態へと向かう目的が備わっている。例えば、「善の研究」で著名な西田幾多郎の哲学の道を辿ってみましょう。西田が詠んだ歌「人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり」の石碑が建てられた如く、自宅から京大へと向かって、向かう目的が備わって自分の研究室におさまる。この目的を実現するために、運動に順序が導き入れられる。言葉を換えれば、目的達成のためには手順を踏まなければならないのであって、西田は一挙一瞬にして研究棟へ行くことはできない。もし一挙にそれを成し遂げることができたとしたら、そこにはアリストテレスが思惟するような運動や変化は存在しなくなる筈です。此のことは人間の自然界の問題ではなく世界内人間の世界を超越する神の領分になります。時間が神の領分に属するのであれば人間には時間が不可知となること必然です。哲学・思想ランキング
2020年05月24日
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時間の陥穽160 アリストテレスは此処三者の関連、運動・空間・時間から運動の本質を分析します。運動におけるより先・より後は、その存在主体そのものについては運動ではあるが、然し乍ら、その本質は別ものであって運動と同一ではない、主体と本質が別ものだとします。彼アリストテレスは、より先・より後という先後関係の基盤を空間的拡がりにおける位置関係に見立て、そのような空間的区分が運動における先後関係に受け継がれ、其れが更に時間にも受け継がれると思考します。但し、空間的先後関係がその儘其の通りに運動における先後関係に引き継がれるわけではない。空間における先後は、基準点からの距離によって決まるので、事物の並置ないし布置による何らかの同時的秩序の形成が導入される。対して、運動における先後関係は順序を必要とするので継起的秩序となり、両者は必ずしも一致しないのです。換言するならば、空間的先後関係は単なる回路図すなわち布置構造であり、運動的先後関係は、通過地点の順番をその回路図に記(しる)したもの、すなわち順序構造そのものであると云えます。例えば、惑星間有人宇宙船は効率的飛行を考慮する筈ですから、先ずは地球の引力脱出圏、無重力ステーションへの移動、其の次には、エネルギー軽減のために引力圏脱出の動力機関を外しての惑星への接近行動、最後に、惑星への着陸船にての下降となります。運動全体はこのように三つに分節ないし区分され、それによって移動運動が持つ順序構造が明確化されます。然し乍ら、運動自体は空間的拡がりが有する布置構造を基盤としてはいるものの、それを順序構造に変換したうえで、その先後関係を受け入れるのであって、運動に順序をもたらすのは、実相は、空間的拡がりではなく、そのものの運動経過そのものだということになります。然し乍ら、時間の特性が此れで言い尽くされているのであろうかは甚だ疑問です。哲学・思想ランキング
2020年05月23日
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時間の陥穽159 アリストテレスの基底とする運動は場所、空間に占める位置移動を意味していますが、詰まるところ、場所移動としての運動は、空間的拡がりが連続性を有しているがゆえに、それに応じた連続性を手に入れ、その運動が連続しているが故に、時間もまたそれに準じた連続性を手に入れるとアリストテレスは考えていることになります。此の文言から導き出されるのは、連続性に関して三者の間に繋がりがあるならば、逆に区分や分割に関しても繋がりが見いだされる筈だということになります。連続性に関して三者の間に繋がりが見いだされ得るならば、逆に区分や分割に関しても繋がりが見いだされる筈です。アリストテレスは三者の間に繋がりが、区分や分割に関しても繋がることを「より先・より後は先ず第一に場所としての事物を包み囲む空間的拡がりにおいて成り立つ。そこでは位置関係によって先後関係が決まる。大いさとしての場所の空間的拡がりにおいて、より先・より後があるのだから、必然的に運動においても、大きさの場合と同様、類比類推的により先・より後が成り立たなければならない。然らば当然に、時間においてもより先・より後が成り立つのであって、それは其れ等のうちの一方である時間が常に他方である運動に準じているからであるとします。何故なら、時間が常に他方の運動に準じているからだとします。哲学・思想ランキング
2020年05月22日
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時間の陥穽158 連続している対象 連続量は何らかのものを「数える単位」として用い不連続なものへと変換されるのであって、「基準単位」がその変換装置の役割を果たして光と波の光子の類は少々複雑なものとなります。さて、アリストテレスは運動がそこで行なわれる場所の空間的な拡がりと運動および時間の間に連続性の点で依存関係があると考えます。「時間ここにありき」を承認しているようにも想えます。更には、連続性故に時間の流れの存在もです。「運動体は或るものから或るものへと動いて行き、運動が行なわれる拡がりとしてのどんな大きさも連続しているのであるから、運動は大きさに準ずる。すなわち、大きさが連続しているので、運動も連続しているのである。そして、運動が連続しているので、時間もまた連続していることになる。というのも、運動が行なわれた分だけ、それに応じて時間もまた常に、運動することになる。アリストテレス「自然学」における時間の概念「より先・より後に関する運動の数」としての時間に関する論を繰り広げます。此処に、単純な疑問、はたして「時間」は空間を持つのかが俎上します。哲学・思想ランキング
2020年05月21日
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時間の陥穽157 時間の実相が抽象的な数であるとすれば、その様態を持つ「数」は羊を数えるのは勿論人間にもそして数が適用し得る運動に適用可能な筈です。但し、人間が「数」を数える場合には、対象領域の構成要素が、少なくとも互いに明確に区別されなければならないという点、もって不連続なものでなければならないということです。対して、対象が連続的なものである場合はどうなのであろうかという疑問が当然に浮上します。連続している対象の場合、それに人間から楔を打ち込んで対象を分節ないし分割することができ得るならば、その楔を打ち込むものは測るという作業を経て数えるという作業に変換可能となります。そのためには、先ず以って運動を個体性分節を持たない液体等、粒子であって「波の性質」を持つ「光子」ないしは其の眷属である磁力や電波を区分する仕方を明確にしなければならないという面を持ちます。このように、連続量は何らかのものを「数える単位」として用いたときにのみ、不連続なものへと変換されるのであって、「基準単位」がその変換装置の役割を果たしているのです。もっとも、変換装置「数える単位」となり得るものは、数える対象と共通性を持っていなければならないのは当然です。波と粒子の2つの性質を帯びる光はアリストテレス云うところの「運動の数」としての時間の解明は、光の速度と性質を数える対象とする「舌を出す大天才」理論物理学者アインシュタインを待ちます。哲学・思想ランキング
2020年05月20日
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時間の陥穽156 アリストテレス云うところの「運動の数」としての時間は「数を持つ限りにおいての運動」であり、「数えられるもの・数えられ得るもの」としての数と、「それによって私たちが数えるところのものとしての数」であるとします。後者の「それによって私たちが数えるところのもの」というのは、具体化しようとしない抽象的な数、原理数の1を除く2・3・4・5・・・云々のことで、「数えられるもの」「数えられ得るもの」とは、抽象的な数が適用され得る具体的対象の数量、具象化され得る羊が一匹・二匹・三匹・云々等の具体的数を示します。謂わば、此のものは幾つあるかといった問いに対する答えとして呈示されるもので、そこから、アリストテレスは「時間は数えられるものであって、それによって私たちが数えるところのものではない」と述べます。哲学・思想ランキング
2020年05月18日
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時間の陥穽155 アリストテレスは時間が「動の何か」と述べ、其の時間の経緯は人間の持つ知覚の経過の意識に踏み込みます。但し、彼は敢く迄も「時間」を時間を「より先・より後に関する運動の数」とする自己の思考の見出した定義を揺るがしません。彼の論述「時間の定義」が語られる前には、時間の問題は場所移動としての運動ではなく我々が聞き慣れない「運動の数」が運動との関係において規定されていますが、其処には「より先・より後」という先後関係の要素と、加えて「数」という要素が加味されているのがアリストテレスの「時間論」を理解する上では心得ておくことが必定となります。ここにアリストテレスの「運動の数」としての時間論の理解が要請されます。一に「運動の数」、二に「運動における、より先・より後」の解釈です。哲学・思想ランキング
2020年05月17日
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時間の陥穽154 時間は人間が世界を理解する上での立ち位置であり、此れなしには変化や運動が解明できないとする立場は基本的にアリストテレスにとっても事情は変わりません。事情は基本的には、モノの性質的変化・量的変化・場所的変化としての動、其の変化から生じた生成、消滅にも時間は必ず関わっている。然し乍ら、アリストテレスは直接モノの生成消滅の経緯に係る「動」及び「変化」は、変化しつつあるもの、乃至は、動いているものにおいては認められるが時間はいつ如何なる何処にでも、どんなものにでも認められると云います。更には、変化や動には遅速の違いがあるが、既に変化や動には時間に導入、つまりは、底流としての時間が入り込み、逆に、変化や動から時間は拘束されません。一般物理学概念の限界です。特異なのは変化や動には遅速の違いがあるが、時間にはそれがなく、寧ろ、時間が遅速を規定するという点でしょう。アリストテレスの時間概念で重要な疑問点は時間と動および変化が密接な関係にあるのは疑い得ない以上、アリストテレスは時間が「動の何か」でなければならないと考えたことでしょう。哲学・思想ランキング
2020年05月16日
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時間の陥穽153 我々人間は、或る地点から目的地への移動に、目的地さえ持たない「散歩」を除いては目的地に到るのに意識・無意識を問わず時間の長短・輕重を自己に問います。つまり、目的地に着くのにどれほどの時間がかかるか必ず考慮しています。此の様に、時間量を用いてその運動のあり方を示すこは普段も行なわれることであす。総じて何かが何処かへ動いてゆくとき、若しくは、何かが変化しつつあるとき、それには時間が必要だと我々は内心で捉えているのであって、我々の精神活動は変化や運動に必須のこの時間を消去することは出来得ない。その点で、時間と変化や運動は不即不離の関係にあると云えます。とは云え勿論のこと、両者は同じものではなく、龍樹の大乗哲学のように、「人間の精神活動の時間」の流れを「空論」で否定した如く、内精神の時間の流れは仏祖であるシッダールタたる釈迦が「行」を以って乗り越えたと想われますが、外界の運動・変化を左右する力は毛頭ありません。時間は人間が世界を理解する上での立ち位置であり、此れなしには変化や運動が成り立ちが解明できません。哲学・思想ランキング
2020年05月15日
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時間の陥穽152 現代に至っても、アウスグチヌスの「私に誰も問わなければ、私は時間とは何かを知っている。しかし時間とは何かを問われ説明しようと欲すると、私は時間とは何かを知らない。」は現代物理学も解消するまでには到っておりません。我々現代人の人間感性は敢くまでに時間が々と過ぎ去り、流れ去ってゆくと感じとります。換言すれば、我々が物事が変化していることに気づいたとき、私たちはそこに時間が流れ去っているのを感じ取るというこよです。仮に時間が過ぎ去らなかったならば、世界の物事は何ひとつ変わらないであろうし、逆に何も物事に変化がなかったならば、そこに時間があるとは感じられないであろうというのです。ただし、現代生理学は臨床実験に於いて、被験者を賽子の内部のような空間で全く変化なしの環境での行動を観察したところ、外環境に在ったように睡眠サイクルに変化が見られません。此れが体内時計と云われるものなのですが、恐らくは、被験者自身は、ロビンソン・クルーソーのように暦に記す手段がなければ、自分が何日・何年の間、其の環境に居たのかさえ気付かない筈です。此のことから、所謂、、ベルグソンの時間論の論拠である「持続性」が疑われます。哲学・思想ランキング
2020年05月14日
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時間の陥穽151 我々人間は社会生活を送っており、誰に教えられることもなく、時間が時々刻々と過ぎ去り、流れ去って行くようにと感じる感性を「心」に抱いています。「渡り」を行う雁や白鳥の類(たぐい)や蝶が時間の流れを感じているのではありません。まして時刻を生活に取り入れた人類、此れが顕著に表面化するのは英国の産業革命が齎したものです。農業や漁業の第一次産業に見られるように、其れ迄の人間社会は恒星である太陽や、その惑星である地球の公転と自転、其の衛星の月の見欠けで時間の流れを何となく観想していたものが、産業革命は経済活動の一環として集団行為の一致が要求されるために人間の生理的時間(体内時計)に反しても時刻が優先されます。中世では時計塔や振り子時計を、産業革命以降は時間の流れを刻みとして象徴(記号化」する携帯時計、即ち、懐中時計や腕時計を普及させ、社会生活が否が応でも時間の流れを意識化せしめます。其れ故、古代人のように、明日の朝には太陽が昇れば取り入れや漁場に入るといった悠長な時間ではなく、経済社会の維持の要請から猟期がの解禁日が定められています、現代人はのべつ幕無し時間の流れを象徴化した時計に生活を終われ、時間の流れを単に象徴化された時計を観想して日々を過ごしていますが、アウスグチヌスの「告白」が生じます。哲学・思想ランキング
2020年05月13日
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時間の陥穽150 アリストテレスの自然の原理「動」の解釈に「可能態にあるものが、そのようなものとして、完全現実態にあること」の定義を、現実化すれば或る目的的因が作用因を得て目的を成すのを完全現実態としており、其の完全現実態の更なる目的因となる可能性、即ち、新たなる「可能態」となることが論述されてはいませんが、「自然」は敢くまで動や変化のほうに内在的な始原・原因を持つことから、継続・持続性が持ち込まれることは理の当然です。自然は絶えずこのように理解された「動」を響かせており。次次々繰り返され変化していきます。アリストテレスの自然の原理「動」の解釈には「自然」は敢くまで動や変化のほうに内在的な始原・原因を持ち、そこから自然の摂理・原理、運動・位置即ち場所である空間、更には持続性を持った「時間」を取り上げられます。アリストテレスの自然の原理は時間が在るから「動」や「変化」が生じるのではなく、「動の何か」そして属性としての「変化」が「時間の流れ」を観相させるとするのです。哲学・思想ランキング
2020年05月12日
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時間の陥穽149 アリストテレスの自然概念は一言で云えば「静止し常住するものの世界」とした世界内の「神」乃至「常有」を否定するものです。世界内存在の自然には「常住」は無く、不動の「常恒性」も無く、「自然」は敢くまで動や変化のほうに内在的な始原・原因を持ち、そこから自然の摂理・原理、運動・位置即ち場所である空間、更には「時間」を取り上げます。アリストテレスの自然観は必然的に「自然」についての探求が「動」と「変化」は免れ得ないものなので、彼の自然哲学探求は「動」を中心として展開されることになります。然らば「動」をアリストテレスは自然学はどの様に定義しているのか。人間を含めて因果的必然の世界。自然の中に現存する人間が、自然界という相手を認識する営みであるとし、「動」は「可能態にあるものが、そのようなものとして、完全現実態にあること」と定義します。此処に云う「完全現実態」とは、全てが全うされた「完全体」なるものではなく敢くまで新たな可能態であることには注意が肝要です。哲学・思想ランキング
2020年05月11日
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時間の陥穽148 アリストテレスは「哲学の父」と呼ばれるタレスの自然哲学を基にした人間が肉体を通しては見えない世界、彼の登場までは粗方を神の領域に嵌め込み、実行を全て神に委ね疑問を持つことさえしない、或いは、許されない分野に「形而上哲学」に解決を委ねます。即ち、神の行為の分野である「時間」を、史上初めて体系的に解明に努めた人物になります。なかでも、自然科学を取り扱う論文集の「自然学」第3巻・第4巻は「時間の流れ」を探求するにあたって、時間概念の基礎的理解の基底ともなるべきものとして重要な論文ですが、時間論は「自然学」第4巻で集中的に語られており取り分け重要です。彼は世界における自然を、動いたり変化したりするものに内在的な、「動」乃至「変化」の始原・原因と捉え、そのような自然の根本問題として、文字通り自然の原理となるもの及び運動、場所としての現代的には空間、時間等々を取り上げています。然し乍ら、彼の自然の捉え方、動及び変化と自然は密接な関係を持っているので、自然についての哲学的探究は、「動」に関する考察を中心に展開、世界に静止しているものはないとの見解です。仮に静止している「モノ」があれば、其れは「神」や「常有」として存在することになります。哲学・思想ランキング
2020年05月10日
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時間の陥穽147 アリストテレスは紀元前384年- 紀元322年、質疑応答により知識を探求する弁証法を初めて使用した紀元前490年頃-紀元前430年頃の運動のパラドックスで有名を馳せたエレアのゼノンの思想を哲学的に時間を論じた最初の人間だと云えます。同時代の釈迦(しゃか)も、紀元前5世紀前後の北インドの人物エレアのゼノンと同時代です。、仏教の開祖であるガウタマ・シッダールタ漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)は、其れまでのヨーガ思想を哲学的に捉えた人物ですが、説諭は宗教的に昇華され、時間論が登場するには大乗の祖ナーガールジュナ(龍樹)、龍樹は紀元150~250年頃も空論で初めて問題視されいること、アリストテレスはソクラテスと紀元前469年~399年とほぼすれ違いで生き、また、ソクラテス以前の「哲学の父」と呼ばれるタレス(紀元前624年頃~546年頃)もイオニア地方の哲学者、変化する世界を「火」として把握した.ヘラクレイトス(紀元前540年頃~480年頃)も自然哲学の限界を余儀なくされた。「自然哲学」を形而上哲学に範囲を高め抽象化されたものを具象化、敢くまで、観念論的ですが万人が求めれば理解させようと努めたのがアリストテレスです。其の実現がアカデメイア、現在の大学院相当とする学院の創建です。此等の年表系列を鑑みれば、現代世界の思考世界の水準は物理科学技術の現実化を除いては思考論法が確立されていたことになり温故知新が必須となります。哲学・思想ランキング
2020年05月08日
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時間の陥穽146 アリストテレスの著作論文を纏め構成したリュケイオンの11代目学頭アンドロニコスの「自然学」の時間に関しての論意は第3巻・第4巻は「時間の流れ」を探求するにあたって、時間概念の基礎的理解の基底ともなるべきものとして扱っており時間存在の有無、住するならば其の流れの存否を判断するために物理科学の探求、生物学からの生態的時間存在の干渉、人間精神の変化や進展にとっては取り分け重要な課題となります。 然し乍ら、アリストテレスがいかに汎ゆる分野に多能であるにしても、時代は物理科学技術は未だまだ未熟なときであり、物理科学でさえも水準的に形而上学として取り扱わざるを得ませんでした。其の文明段階でありながらアリストテレスの思考の探求は、分野は違えど仏祖シッダールタに匹敵する、あるいは、現代文明に与えた影響はそれ以上のものがあります。なにしろ、仏世界の守護神の毘沙門天像のモデルとなった、その当時までの史上最大の帝国の基を築いた若きアレキザンダーの家庭教師であることからも、偉大さでは劣るところがありません。哲学・思想ランキング
2020年05月07日
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時間の陥穽145 アリストテレスは運動を「可能的にあるもの、そのようなものとしてのエンテレケイア」と定義、エンテレケイアは彼アリストテレスによって提唱された言葉であり完成された現実性という意味で、前者の可能的にあるものとは、現実世界に存在しているデュナミス (dynamis / dunamis) とは、能力・可能態・潜勢態の意味を持つ、アリストテレスの哲学の概念ですが、其れが可能態という形で在るものであり、その可能性を完全に実現して定式化。そして、運動の定義に即した運動変化モデル、デュナミスはエネルゲイアと、さらにはエンテレケイアと相対を成す概念であり、エンテレケイアに向かう実現化の動きと捉えます。此の思考は運動体、運動体の現在の状態、運動が完了するときの運動体の状態という三つの項で構成されることになると解析されます。可能性としての運動体・運動体の現在の状態・運動が完了する完動態とした運動体の状態です。アリストテレスは既に「運動」に「時間の流動」を見込んでいるようにも憶えます。此の概念は「質料」と「形相」のアリストテレスの概念とも関係しています。形相と結びつき得るものとしての質料「可能態」は、すでに両者の結びついた個物「現実態」として現実に存在するものとなる思考法が如実に顕れています。哲学・思想ランキング
2020年05月06日
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時間の陥穽144 第3巻は運動、無限についての考証が全8章に亘っての論証です。「運動について」は第1章-運動の種類。運動の暫定的定義。第2章-運動の暫定的定義を確証するための補説。第3章-動かすものと動かされるもの。それらの現実化された運動の定義。の3章に論説されます。「無限について」の考証は、第4章-無限なものについての先人の諸見解。その存在を認める人々の説と彼らがそれを想定する理由。無限の諸義。第5章-実体としての無限なものを認めるピュタゴラス派の説とそれへのの批判。無限な感覚的物体は存在しない。第6章-無限なものは可能的に存在する。加えることによる無限と分割することによる無限。無限とは何かを問います。。第7章-諸種の無限なもの。数における無限と量における無限。空間的な大きさ及び時間の長さに関する無限と運動の関係。無限は四原因のいずれに関するものか。第8章-無限なものを現実的に存在するとする諸見解に対する批判で構成されます。アリストテレスの「自然学」第3巻第1~3章の運動論は運動の定義の内実を検証します。アリストテレスは運動を「可能的にあるものの、そのようなものとしてのエンテレケイア」即ち デュナミスというのが可能態という形で現実世界に存在しているというものであり、その可能態がそのものの機能を十分に発揮できた状態で存在しているというものがエンテレケイアということであるとしますが、この定義に関しては、果たしてこの定義が静的な事態ではなく、ものが運動しているという事態を指示できているのか、将又、「エンテレケイア」自体が運動を指示しているのではないかといった点で論争があります。哲学・思想ランキング
2020年05月05日
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時間の陥穽143 アリストテレスの論文を今日のような形で整理し注釈を施し今日まで整理し注釈を施したのは、ソクラテスに対するプラトンや孔子に対する孟子とは相違し、現代に云う「校正」に当たり其の編纂には苦労を強いられたことは、直接の面識は無くとも推測されます。余程の心酔があったのでしょう。なかでも、自然科学を取り扱う論文集の「自然学」第3巻・第4巻は「時間の流れ」を探求するにあたって、時間概念の基礎的理解の基底ともなるべきものとして取り分け重要です。第1章から第5章に亘る論述は「自然学」第3巻・第4巻の空間的延長と時間的延長の存在論的位置づけについて記述されています。「自然学」第3巻・第4巻はアリストテレスの運動変化一般と、空間的延長および時間的延長を扱う運動論、無限論、場所論、空虚論、時間論なのです。第3巻は運動、無限等全8章で構成され、第4巻は場所、空虚、時間等全14章で構成されています。哲学・思想ランキング
2020年05月04日
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時間の陥穽142 ロドス出身のアンドロニコス(Andronicus of Rhodes)、リュケイオンの11代目学頭がアリストテレスの著作論文を今日のような形で整理し注釈を施しました。アリストテレスの「第一哲学」が「meta-physics/和名で形而上学」と呼ばれるようになったのも、彼がその関連著作群をまとめて「physics」/自然学」の後ろに配置したことに由来するのですが、宗教史における釈迦やナザレのイエス、儒教における孔子、哲学におけるソクラテスよりは口述筆記でない部分、アリストテレスの思想に私考の入る余地は少なく信頼がアリストテレスの思想を正鵠を射ている可能性があります。其の編纂されたアリストテレスの著作集のなかには、先ず、「カテゴリー論/範疇論」・「命題論/解釈論」・「分析論前書」・「分析論後書」・「トピカ」・「詭弁論駁論」といった六篇の論理学関係の著作が収められ、此等の著作群は、6世紀ごろには汎ゆる学問の「道具」という意味をこめて『オルガノン』と総称されました。続いて収められている「自然学」「天界について」「生成と消滅について」「霊魂論」「動物誌」「動物部分論」「形而上学」「ニコマコス倫理学」「政治学」「弁論術」「詩学」などの論文で、タイトルを見るだけでも、アリストテレスが、いかに現代で言うところの人文科学、社会科学、自然科学のすべてに精通していたということがわかるのですが、此の恩師を家庭教師として薫陶を受けたであろうの英傑アレクサンダー大王への影響も興味津々です。哲学・思想ランキング
2020年05月03日
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時間の陥穽141 ロドス出身のアンドロニコス(Andronicus of Rhodes)とは、紀元前70年頃のロドス島出身の学者であり、逍遙学派(ペリパトス派/Peripatetic school)でアリストテレスが創設した古代ギリシアの哲学者のグループであり、彼の学園であるリュケイオンの学徒の総称、其の名称はアリストテレス等が、逍遙即ち散歩をしながら講義を行ったからだとされます。私事ながら、かって記者も幼児の頃学長辞して隠居していた祖父に散歩を勧誘され牡丹雪の降り頻る中、祖父のマントに包まれ呟いた言葉「散歩って何」の発言を思い出します。帰ってきた言葉の返答は「只ぶらぶら歩くこと」で其の言葉を想い返します。其の散歩の父の話す物語や倫理論が私の人生行路を決めたのですから。現代の時間に囚われて散歩も儘許されない御時世には、自己の観相する時間、世界側で物理的に観相されるとされる時間、神に於ける時間は其々が独立独歩で進行しているのでしょうか、将又、時間が特異な様相を付け加えたのでしょうか。哲学・思想ランキング
2020年05月01日
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時間の陥穽139 歴史に「もしも・仮に」の文言は史学では禁句ですが、敢えて人類文明に時間の概念がなければ、産業革命を経て以降の増々人間の社会生活からの要請からの多忙からくる時間の流れの忙しい拘束という発想は消え去るのでしょうか。人間の社会生活の中に期限の設定がなければ何も急ぐ必要はないから、見方によっては現代の時間の概念は古代人のおおらかな時間の流れを喪失し、現代人を苦しめてもいる因なのです。抑々が、いついかなる何のために時間の概念が誕生したのだろうかの命題は、時間の流れの真否を知る上では一考の余地があります。時間の物理学上の存否に拘わらず、人類が文明を持つに至ってからは人間の生死や活動に関わるかぎりの課題でした。時間の生成を神に渡さず、史上初めて物理学から捉えたのは、意外にもアリストテレスです。古史の哲学者は、詳訳すればソクラテスの「無知の知」、真実を求めるものであり、時間は物理学にも堪能なアリストテレスに歴史は荷を背負わせます。哲学・思想ランキング
2020年04月29日
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時間の陥穽138 時間は人間にとっては実体として在ろうが無かろうが、人間が無人島で孤立無援、運良く備蓄食料庫が備わる場合は別として、たとえロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)にしても人間の側には時間概念が必須となります。何故なら海や河川で魚介を捕るにしても日の巡りを意識せざるを得ず、狩猟には動物の周回に注目せざるを得ず、果実は採集の予期が必要になり、恐らくは、時間の観相なしには生きるどころではないでしょう。進化上人類は社会生活を経て進化しており、本能を理性に置き換えたとも憶えるからです。其れ故に人間から時間の概念を取り上げることは人類の死滅を意味します。とは云え、時間の流れについては、其の流れが人間精神内の深層にあるのか、将又、世界の側にあるのかは人間が確固たる人生を送る上では重要課題として浮上してきます。古代人にとっては、時間の概念を生み出し、正確に測定することこそが、食糧の安定生産に繋がり、生命の危機から脱却して文明を発展させる鍵ともなったことから大凡の時間概念が見えてきそうです。哲学・思想ランキング
2020年04月28日
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時間の陥穽137 科学万能の現代に、未だ謎に包まれた天体「ブラックホール」、実相はアインシュタインの相対性理論からブラックホールが予測・認識されたわけではなく、アインシュタインがブラックホールの存在を突き詰めた彼の相対性理論がブラックホールの生成を予測したというのが事実です。そして、アインシュタインの革新的な方程式を用いて、ブラックホールが実際に生成される可能性を初めて示したのは、カール・シュヴァルツシルト(Karl Schwarzschild,/1873年-1916年)はドイツの天文学者、天体物理学者です。時間の流れの実相に解を与えてくれそうなブラックホール。彼シュヴァルツシルトがこれを成し遂げたのは、アインシュタインが一般相対性理論を発表したのと同じ1915年内で天体をここまで小さく圧縮すればブラックホールが生成されるという尺度を定めたことです。但し、ブラックホールを予測した文献は其れよりも古く、イギリスの学者ジョン・ミッチェル(John Michell/1724年-1793年)も「暗黒星」(dark stars)の存在を予測していました。非常に質量が大きく、または非常に圧縮されているために、光さえ脱出できないほどの重力を有する天体を指した名前ですが一般化にはいたりませんでした。ブラックホールという言葉が普遍的な名称になったのは1967年になってからなのですが、私的には「Black Hall」よりは「Dark Stars」のほうが適正なブラックホールの性状を表しているように想えます。何故ならブラックホールは「底なし沼」ではなく宇宙内恒星系の派生だからです。何でも呑み尽くす自分自体まで呑み尽くす天体ではなく「無」には成りよう無く時間線上にある天体です。個々から帰結するのは、ブラックホールは時間の流れの有無そのものの解決の原点には成り得ないことです。哲学・思想ランキング
2020年04月27日
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時間の陥穽136 ブラックホールに時間が停止或いは全く無いならば、アリストテレスの説く時間概念「より先・より後に関する運動の数」も全く無く、ブラックホール自体の存在自体が雲散霧消してしまいます。光子の脱出速度を上まわる質量を抱えていても自らが自転及びエネルギーの吸収は勿論、且つエネルギー放射をしている筈です。光子と空間に連関する時間も間延びはすれど、ブラックホールの核内でも時間の流れというものが在る筈なので運動が存在します。途轍もない質量による重力が無限に増えるならば、何時の世にかは銀河系のみならず宇宙を飲み尽くすからです。大宇宙からブラックホールは、数ある恒星の世代なのです。ブラックホールを知り尽くしたとしても恐らくは宇宙其の物の成り立ちは見えて来ないでしょう。時間が光や空間と連関する存在としてあれば、ブラックホールは充分な光と空間を携えています。光と空間に時間が影響されるとすれば、ブラックホールの核内では一般世界での宇宙から見れば核内の人間の生涯は数十万年の時を過ごす訳です。此れは古来より云われる「神」や「佛」や「神仙」の時の流れです。「生者必滅」世界を生じめたのが何ものであれ、生じたものは滅びを纏います。此の問への答えは。神を世界外、神を世界内そのものとした時には、必然的に滅びへ向かう宇宙若しくは永遠に膨張収縮する宇宙がありビッグバン自体が「神の永遠」瞬間に帰結します。即ち、「時間の流れ」とは生きて思考する神の延長である理性に「何らかの目的」を果たすために与えられた恩寵或いは枷なのかも知れません。哲学・思想ランキング
2020年04月26日
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時間の陥穽135 非常に正確に計時可能な「ミリ秒パルサー」は、最高の精度の原子時計よりも正確に時間を計ることができるとされます。仮に「ミリ秒パルサー」の自転周期1秒間に600周である「ミリ秒パルサー」を発見された場合には、其のままに地球時間の基準時間になる可能性大です。此処で恒星間の距離を表す場合、単位時間が科学的に語られる場合は、光速についての時間は距離に置き換えられていうることには注意が肝要です。言い換えると、光子の速度は時速何万キロ等々ではなく、光子の移動距離を基準単位にしています。此れから導かれるのは、スーパー質量のブラックホールでは光子といえども其処から逃れるすべがありません。仮に、光子が時間と緊密な関わりを持っているならば、ブラックホールでは光と同様に時間は動きようがありません。時間が宇宙の変容に関わってきた場合には些か面妖な問題にぶち当たります。人間精神の常識はブラックホールに時間が停止或いは無いならば滅びがある筈もない無い矛盾が生じます。つまりは、「恒常性と有」が生じる矛盾です。哲学・思想ランキング
2020年04月24日
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時間の陥穽134 ニュートン力学においては時間は全宇宙で同一とされたが、アルベルト・アインシュタインが発表した相対性理論によって、現代では事実がそう簡単ではないことが認識されました。特殊相対性理論によれば光の速度はどの慣性系に対しても一定である。これを「光速度不変の原理」と呼びます。勿論のこと、光子系列には電磁波が含まれますが、殊更に、光子と電磁波 違いは、電磁波が連続的なのに対し、光子はパルス( pulse/極めて短い時間だけ流れる電流や電波。そのくりかえしの集まり)であることです。電磁波は連続的な測定で観測できますが、光には時間が無く原子に直接作用する現象としてしか観測できませんから光子として扱われます。光が電磁的な波という表現そのものが間違いであり、古典的な電磁波で説明することは到底無理なのです。何故なら。連続的な素粒子レベルの無極性パルスは相互作用でき得ないからです。不連続な素粒子レベルの無極性パルスは相互作用でき得ません。「電場と磁場の相互作用が電磁波」への課題です。此の論から想起させられるのが、天体観測で一時期もしや「宇宙人の定期的信号」と想われた「パルサー」でしょう。哲学・思想ランキング
2020年04月23日
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時間の陥穽133 時間論における絶対時間の定義のT-4は、時計の時刻は、是が非でも光を以って合わせなければならないとする根拠はないとするものです。位置の違う「時計を合わせる」という操作に特殊相対性理論の場合のように光でもって合わせるということをしない。光速の不変性をもって特殊相対性理論の場合のように「光という手段」でもって合わせなければならないという絶対的な理由などの根拠は実は何処にもない。「ある位置に標的として基準時計を置き、その基準時計に合わせようとする時計を無限にゆっくり々近づけて合わせ、そして無限にゆっくり々離していく」という操作で合わせればよい。最後の方で、宇宙中の全ての時計を合わせればよいのであるというものです。位置的に遠く離れている時計同士を合わせる場合、特殊相対論では、時計を近づけ時刻を合わせてから一気に離したりすると時計が狂うからという理由で拒否されているが、T-4は此れを解消すると説きます。ニュートンの絶対時間・絶対空間の矛盾の解消法ですが少々こじつけがましい気がします。哲学・思想ランキング
2020年04月22日
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時間の陥穽132 時間の定義T-3は、時間が空間のみならず、他のいかなる物理的実体からも独立であるとするものです。時間が思考を持った人間が便宜的に考え案出した観念的概念であることから、人間精神の内層の問題であり、外層世界からの精神の内奥への働きは影響こそすれ、物体に働く力が物体の位置によって一義的に定まる空間領域である「力場」、譬えば物体の質量に働く万有引力場または重力場の力の場、電荷に働く電気力の場である電場、磁荷に働く磁気力の場を磁場というものには一切影響されないとする定義です。通常の一般環境では相対性理論も人間個々が気付くほどの影響を齎さないために一応の説得力を持ちます。此のことから導き出されるのは、時間がより早く進んだり、遅れたりすることはなく、一様に流れていくとの認識か基底にあることです。哲学・思想ランキング
2020年04月21日
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時間の陥穽131 現代物理学上では絶対時間の定義が成り立たせるには、其の位置環境と同様の環境世界にしか通用しないことになります。ニュートンは絶対時間としての時間在り方T-1からT-4のうちT-2への時間としての絶対時間の批判は、時間は単に概念であるに過ぎず、物理的な実体ではない。時間とは人間が社会生活上に便宜的に考えだした観念的な概念であり、実在するものではないとするものです。時間とは思考を持った人間が便宜的に考え案出した観念的な概念であり、人間が物事の変化を表現するのに便利だからとします。時間とは宇宙全体を過去から未来へ一様に流れるものと史上に規定し約束したものなのです。最初に約束したものごとに、「何故に時間の矢は過去・現在・未来として順次に流れるのか、逆転は不可能なのかはT-2の時間が概念であり、物理的な実体ではないことから問うこと自体が意味を成さないことになります。時間とは人間が社会生活上に便宜的に考えだしたトリックだということなのでしょう。哲学・思想ランキング
2020年04月20日
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