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カテゴリ: カテゴリ未分類
・9、12、水
皆誰でも、自分は正義と正当と人としての道を貫いて生きていると思っている。
しかし実のところ皆いいかげんで、楽を求めて、利益を求めて、人に良く思われたく
て、にも関わらず自分の人生に美しい意義を添えたいと思っている。
でも自分の打算には誰も気が付いていない。
何故なら、誰もがそうして生きているからそれが常識なのだ。
ある時矛盾を棚上げした正論を振りかざす者に自分の気付きもしなかった矛盾を指摘
されるやいなや、我が人生の正しいと思って来た道のりを愛おしみ、相手の不条理に
激怒する。

しかし、誰も気付いていないのだ。
正義と正当に満ちた、誰に恥じることもない道のりを歩いて来た者などどこにもいな
いことを。
自分が正当と考えることを自ら実行することは、人並み外れた強い意思が必要なのだ
。
自分は悪人だと把握しながら悪事を繰り返す者よりも、自分は全く善人だと思い込ん
でいながら安易な打算、相手を傷つける自己満足を繰り返す者の方が、遥かにたちが
悪い。
これはもちろん僕自身のことでもある。
他人を見ていて、さて自分はそれと違うのかと自問自答した結果、否、結局は自分が
見えてはいないだろう。

客観的に自分を検証する能力を持つものが、本当の賢者であると思う。


ーーーーーー
人生講座(7) 正しければ3年で、正しさもいい加減なら天寿を
「tdyno.238-(6:44).mp3」をダウンロード
この人生講座も最初は「お金」の話から入り、「健康」へと進みました。両方ともま

学生の頃、それは私も同じだったのですが、正義感にあふれ、「自分の考えが正しい
」と思うものです。若いというのはそう言うことですから、それはそれで良いのです
が、時に激高して、
「先生っ!なんで正しいことが通らないのですかっ!」
と迫ってくることがあります。
そんなとき、私は「そう、君が言うことが正しいの?」と聞きます。学生は勢いこん
で「正しいですっ! 先生も分からないのですかっ!」とあくまでも激しい。そこで
私は次のように言います。
私 「君が正しいのなら、君は3年で絞首刑になるだろうな」
学生「???」
私 「イエス・キリストがお話になったことは2000年も多くの人の心を打っている。
だから私や君が言っていることより正しかったのだろうね。イエス・キリストは27才
で話を始め、3年後に磔にあって命を落としている。」
学生「それがなにかボクと関係があるんですか?」
私 「君の言っていることが正しければ、3年で死刑になるだろうね。社会というの
は本当に正しいことは通らないのだよ。ややいい加減なことは受け入れられる。無事
に一生を終えようと思ったら正しいことは危険なんだよ。」
このことがすぐ分かる学生と、時間がかかる人の違いはあるけれど、こんな事がきっ
かけとなって学生は成長していく。理想を捨ててはいけないが、その限界と社会を知
らないと希望は達成されない。
・・・・・・・・・
歴史的に見て、イエス・キリストを3年で磔にしたのは人類史上、最大の損失だった
だろう。私には彼が神様か人間かは分からないが、この世に出現した人類の内で、1
,2を争う人格者であり、最大の頭脳を持った人だったことは間違いない。
2000年も経ったいま、信者でもない私が聖書を読み、その素晴らしい洞察力、人格、
行動力に唖然とするしかないのである。同じように深い感動を覚えるのは、わずかに
伝え聞くお釈迦様の言動やソクラテス語録だが、お釈迦様の直伝が少ないこともあっ
て、聖書はひときわ優れているように感じられる。
今から30年ほど前のことだったが、ある敬虔なキリスト教徒の方から芭蕉の句の入っ
た挨拶状をいただいた。その句はとても深淵で素晴らしいものだったが、ある時にそ
の人に会う機会に恵まれたので、私は、
「芭蕉の句は確かに素晴らしいと思いましたが、それなら聖書の一部の方がもっと素
晴らしいのに、なんで芭蕉の句が必要なのですか?」
とお聞きした。若かったので礼儀を知らなかったからできた質問だろう。
私の質問をそばで聞いておられたその方の奥さんも敬虔なキリスト教徒だったらしく
、私の質問にいたく感心されたと後でお聞きした。私には聖書以外の書物で聖書より
感銘を与えてくれるものはない。
・・・・・・・・・
私も時にバッシングされる。ゆえない非難、言ってもいないのにバッシング、子供の
健康を心配して「セシウムで汚染されたものは子供に食べさせないでくれ」というと
全国の新聞で「不見識」と書かれる。
凡人である私はそんなときにやや落ち込まないでもない。でもそんなとき、私はイエ
ス・キリストを思い出す。彼と私ではそれこそ天と地ほどの違いがあるのだが、それ
でも「あの偉い人でも3年で磔にあった。私が被害を受けてもそんなのは小さいこと
だ。私もまだたいした事はしていないのだな」と思うと、心の負担は無くなっていく
。
イエス・キリストの人生を思えば、多くのことは楽になる。すべての人の罪を背負っ
たと多くの人が感謝している理由も分かる。
この世に辛い思いをしている人が多いだろう。ゆえなく他人から非難されたり、身に
覚えのないことで悔しい思いをすることもあるだろう。でも、世の中というものは正
しければ正しいほど罰せられる、人間という生物はなにか欠陥を持っていて、その歪
みをある特定の人にかぶせるクセがあるように思う。
人間にとって正しい人生を送ると正々堂々として楽だ。悪いこと、他人をおとしめる
ことをすると後ろめたい。でも、まだ人間の集団は一人が正々堂々と生きることを許
さないのだろう。
私が話をした学生もやがて大人になり、正義を振りかざせば負担は大きいだろうが、
それでもその人の正義を貫いてくれるように願う。それが本当に正義なら、イエス・
キリストの受難と同じようになるのだが、それは人間にとって誇りになり、やがて人
間の集団も正しいことを受け入れるようになるだろう。
(平成24年9月9日)
武田邦彦





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最終更新日  2012.09.17 21:44:48
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