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・1、19、土
ドイツに住んで5年目ぐらいになったころだろうか、そのころにはレッスンで先生か
ら質問を受けて自分の感じたことや意見を表明したり、友人とディスカッションした
りも楽しめるようになって来ていた。
そのころだったか、日本から古い友人が来てレッスンに参加したこともあった。
「周りからどんなアドバイスを受けても、意見されても絶対に自分を変えようとしな
かった頑固な茶木が、こんなに素直に自分をかなぐり捨てて先生に付いて行こうとし
ている姿を見て、一体このA先生とはどのような人物なのだろうと思った」と友人が
述べたことを印象的に憶えている。


その前で演奏を聴いてもらってアドバイスを受けたりした。
「貴方もそろそろ歌劇場へのオーディションを受けるべきです。
まだ採用されなくてもいいから、兎に角何かしらのアドバイスだけでももらっては?
」と先生は言い出されていた。
しかし僕は自分がテノールとして通用するとは思えなかった。
それは「まだ」ということか、あるいは「もともと無理」ということかは自分でもそ
の時点で判断できなかった。
僕の中にも先生の中にも焦りのような感情が出始めていた。
僕は何処かでテノールへの声種変更に踏み切ったことを後悔さえし始めていた。
かと言って自分の楽器がバリトンではなくテノールであることははっきりとしていた
し、そこから後戻りすることさえ出来ないことは分かり切っていた。

手も勤めていた。
にも関わらず、当初想像していたよりも遥かに僕がテノールとして大成することは困
難を極めていたのだ。
それでも僕はそこに噛り付いて、根気よく自分の声に取り組み続けた。
7年のドイツ滞在のうち、最後の2年ほどは今から思い起こしても苦しい日々であった

このままでは日本でもドイツでも使い物にはならない。
そしてそこに僕の場合は「見えない」という問題も覆い被さって来ていた。
ドイツ滞在中に少しずつ視力が低下して来ていて、自分でも自覚できるほどだった。
楽譜の写譜も困難となり、歩行さえ危なくなって来た。
僕の抱えた「網膜色素変性症」という病気では、それは初めから分かっていたことな
のだ。
ただそのことを真剣に考えないように努めていた。
いつ来るか分からない運命が僕に辿りつくのを待ちながら、それまで今の視力ででき
ることだけに力を尽くすことを決めていたのだ。
そしてそれは目尻の染みのように、のろのろと気が付かないうちに、でも確実に僕の
足元をじっとり浸していた。
初めから分かっていたとはいえ、これでは歌劇場も何も頭から無理な話である。
そんな何やかやで僕は精神的に不安定な症状が見え、不眠と頭痛と妄想に苦しんだ。
毎夜声を上げてベッドの上に起き上がり、体重も見る見るうちに落ち、声もどんどん
出なくなって行った。
今から考えれば確実に神経衰弱の症状だ。
そこからどうしても自分で抜け出すことが出来ず、誰も助けてはくれなかった。
僕がそんな状況だとは誰も気が付かなかったのだと思う。
じゃあ「これまで」と歌をきっぱり止めてしまうしかないのか?
いや、そんな勇気は到底持てない。
逆に止めてしまえればどんなに楽だろうとも度々考えた。
ある日本人の知り合いの留学生が言った「我々留学生は人工衛星のようなものだ。
地球に帰ることもできず、かと言って宇宙に飛んで行くこともできず、ぐるぐる回っ
て、ふとすれば地球の引力にひっぱられて墜落する」

ある日レッスン中僕が前に出て歌い、いつものように思うようには歌えず、どんどん
声も出なくなる自分を実感しながら皆の前に立っていた。
先生もいらいらされているのが感じられたが、それでも努めて優しい言葉を掛けて下
さっていた。
しかしそれが僕にはかえって辛く思え、自分の番が終わると地下の部屋に下りて誰も
いないところで声を上げて泣いた。
結局はテノールに成りそこなって、前に進むことも後に戻ることもできず、歌うこと
を諦めるしかない自分の運命を嘆いたのだ。
自分が命を懸けて取り組んだ事柄に挑んで敗れる、その苦痛と絶望を僕はそれまでの
人生で初めて味わったのだ。
思えば子供のころ以来、本当に久しぶりになりふり構わず泣いた。
幸い誰も地下には下りてこなかった。
しかし上のレッスン場では先生が「トシはどうした?」と心配されていたようだ。
このまま戻らない訳にもいかないので、僕は泣き腫らした目のままで階段を上がった

部屋に入って行くと先生は黙って立ち上がり、僕の傍に来ていきなり強く僕を抱きし
めた。
それは他の生徒たちの前だったが、僕にはかなり長く感じられる間先生はそうされて
いた。
僕はそろそろ地球に墜落する時期だった。
環境を変えてみる以外なす術もなかった。
皆のように華々しく成果を上げて帰還する訳ではない。
日本からドイツへ、そしてドイツから日本へ結局逃げて帰るのだ。
僕はほとんど周りの友人にさよならも言わずドイツを去った。

そしてとても長い年月が流れたようだ。
今僕は、僕なりに楽しく歌えるようになった。
今やテノールになったことへの後悔は微塵もない。
何故日本に帰って、僕は自分の声を、歌を、僕の中での最高点と思えるに開花させる
ことができたか。
それは紛れもなくA先生が長い時間を掛けてそこへ導いたのだ。
日本では僕は多くの生徒さんを指導することになり、レッスン方法もA先生から学ん
だことをベースにグループレッスンの方式を取った。
それはA先生が模索された、ある意味では常識を外れたレッスン方法ではあるのだが

その指導するという作業を通して、A先生が目指されたもの、我々に伝えようとされ
たこと、そして我々に語られたことなどを事細かく思い出し、何年も後に初めて理解
し了解して行ったのだ。
もちろん教えられたことを理解したからと言って上達するものではない。
その時の年齢に従った体の変化や、長い時間に少しずつ強化された筋肉などが作用す
る結果なのだろう。
しかし今もなおA先生の指導が僕を支えていることには疑う余地はない。
僕はそのことを一日も早く先生に伝えたいという衝動に駆られた。
そしてもう一度今の僕の演奏を聴いて欲しい。
でも先生の年齢を考えると、早くドイツに飛ばなくてはならない。
毎年焦るばかりだが結局仕事に暇が取れず、元気におられることを信じて日々を過ご
し、そうこうしているうちにとうとう訃報を受けることとなったのだ。
声作りに生涯を懸けた先生の87年の人生。
先生も自分の声に悩まれ、誰も救ってくれないその声の問題から、自分で切り開く決
心をされたトレーナーとしての道。
「自分にとって良い先生を選ぶ時には、深い苦悩を克服して大成した人を選びなさい

初めから何の苦労もなく知らないうちに歌えていたという人からは何も与えてはもら
えません」と先生はよくおっしゃった。
先生にしても僕にしても、決して歌うことに恵まれた肉体を与えられて生まれて来た
者ではない。
恵まれない歌い手は恵まれた者たちの楽しい人生を横目に、長い長い戦い、声という
魔物との果てしない戦いを余儀なくされる。
そしてそれを投げ出してしまうことすら出来ず、悪路をただ前に進むしか許されない

いつかその悪路が、平坦な楽しい秋晴れの小道に繋がっていることを信じ続けて。
僕は今A先生に、傍に居ないA先生に導かれて、乾いた秋風に吹かれながらその小道を
楽しく歩んでいる。
先生はあの歪な形の大きな部屋の一番奥にゆったりと座って、足を組んでじっと僕を
見ている。
友人たちもその周りに座って議論したり、冗談を言い合ったり、向かいに座った異性
にウィンクしたりしている。
ピアノの和音と歌声が聴こえ、先生の後ろの大きな窓からは、相変わらずりんごの木
が日を浴びて風に揺れている。
「トシ!」と僕を呼ぶ先生の声が聞こえる。
僕は地球の裏側で一つ溜息をついている。
そこからは友人たちも消え、先生も消え、がらんとした一層大きな部屋だけが、から
っぽの椅子たちだけを残してシーンとしているだろう。
かつてそこで熱望された人々の夢もすっかり忘れたように。





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最終更新日  2013.05.13 12:08:40
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