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・3、10、日 パート2
今とうとう太宰 治に取り掛かっている。
明治の作家のものを好む僕が、今の今まで太宰に手を付けなかったのには理由がある
。
僕が20歳のころ、女友達と映画を観に行った。
何を見ようかと悩んでいると「太宰治のことを作品にしたものがあるから、それが観たい」と彼女が希望したので、我々は映画館を探して入った。
客はまばらで、男ばかり。
女性は僕の友達だけ。
かわいいワンピースの彼女は場違いという感じで、男たちは皆彼女をじろじろ見ている。

それは手の込んだポルノだったのだ。
しかしそんなものに太宰の一生を題材として使うとはけしからん監督である。
でもその時たしか最後まで映画を観たと思う。
でも太宰がどんな人で、どんな人生を送ったか何一つ分からなかった。
何しろ暗い映像と、太宰役がものの言わない苦悩に満ちた人間だったことだけが印象として残った。
その記憶があって、どうも太宰に手を付ける気が起こらなかったのだ。
今回最初に「津軽」という話から読んだ。
これは彼が故郷である津軽を始めて旅行して回る随筆のようなもので、驚いたのが太宰という人は大変にひょうきんで、語り口は軽快で面白く、電車の中でまた何度も噴出した。
ちょっと漱石のひょうきんさとも似ているかもしれない。
親しみ深さが湧いて、「惜別」「御伽草子」「灯篭」なども読み進んだ。
これらの作品でも、僕の長年抱いていた太宰への印象は180度変化した。

何しろ語彙の乏しさから全く真似にならないようだが、とりあえず書いてみる。


●たなごころ
見えないということは全くいけない。
様々にいけない理由はあるが、人間としての品位さえ疑われるようなことになるからいけない。
漱石の「夢十夜」の中に、父親の背中に背負われた目クラの子供が「目クラはばかにされていけない、親にまでばかにされていけない」というセリフがある。

誰かが僕と話すために横に腰を下ろす。
普通なら目を見て、顔色や表情を見て、所作などから互いの友情や好意や憎悪を感じる。
見詰め合えば友情も愛もそこに読み取ることができるに違いない。
ところがこちらと来たら全くそのコミニュケーションは絶たれたものである。
じゃあどうするかというと、相手の声の音色や使う単語、言葉と言葉の間の空白に含まれた感情などで図ることになる。
それから好意を相手に感じ出すと、人はもっと目の中を覗き込み、微妙な笑みを交わすだろう。
我々はどうするか。
自然に手が伸びて、隣に座を占める相手の膝をぽんと叩いたり、肩に手を置いたりしてその好意を示したり、体温を感じたりしたくなる。
これはどうなのだろう。
見えないものからすると、当然の、またいとおしむべき行為であると思うのだが。
盲学校在学中、たしかあれは高等部卒業の時に、卒業式で校長先生が我々への送る言葉として与えて下さった訓示であると記憶している。
校長先生は左手の掌(たなごころ)を高く掲げて「いいか、これはお前たちの目だ。
この目で見たい、知りたいと思うものを何でも触って感じろ。
恐れてはななない。
貪欲に知りたいことを求め、感じたいものを追い続ける心を持ち続けるんだ」と述べられた。
僕はその言葉に痛く感動した。
しかし現実の社会では膝や肩をぽんと叩かれる女性からは「もう茶木さんには触られまくりですよ」や「茶木さんの手癖には馴れないと」などと悪口(あっこう)をいただく。
僕もその感想を受けて自らに問いかけてみる。
「僕は隣に座る女性に対して、新地のバーに座る鼻の下を伸ばした金持ちのおっさんと同じ心持でいるのか?
ちょっとでも隙を見て女性に触りたいと思っているのか?
その自問自答には否と答えが出た。
その証拠に、よーく自分の行動を観察していると、横に座るのが女であろうが、男であろうが、犬であろうが、どれでもやはり触っているのである。
家にいる犬がうっかり僕の横に座ろうものなら、頭の上から尻尾の先まで弄繰り回されて、いつも少々迷惑の呈である。
この間もふと気が付くと、70代男性の膝をぼんぼん叩いて話しに夢中になっていた。
「分かった分かった、茶木め、自分の行動に上場なる理論を関与して、女性を触ることまで正当化たらしむるつもりか」と思われることだろう。
決して社会的不条理を正当化しようとしているのではない。
ただちょっと大目に見て欲しいと願っているのである。
見えない者の他人へのコミニュケーション方法として、いや、もうよそう。
客観的に見れば、セクハラおじさんである品位をいかにせんともし難い。
いわんやこの問題こそが我々見えぬものの社会参加、自立支援の眼前に横たわるるべき課題である。





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最終更新日  2013.03.10 23:28:05
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