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★ セバスティアーノ・オッキーノ (vm) Sebastiano Occhino
1951 年 4 月 1 日 シチリア島中央部の中都市 エンナ (Enna) 生、自作自演歌手、作曲家、アコーディオン奏者兼ピアニスト。
活動期間 : 1978 年 - 現在
所属レコード会社 : Ricordi, Ariston Music
サンレモ音楽祭出場1回 :1981年参加
サンレモ音楽祭出品 1 曲 :1981年 ( 自己歌唱曲 )
公式ホームページ : https://sebastianoocchino.com/
セバスティアーノは幼い頃に音楽と出会い、6才でアコーディオンを、その後オルガン、クラシック・ギターを学びました。
学校では地質学を専攻し、卒業後1970年から77年にかけて音楽の勉強と経験を積んでいきます。彼はロック・バンド (Gli Aedi) に参加して歌手、オルガニスト、アレンジャーとして地元や全国レベルの様々なコンテストで優勝します。
77年にはパンク・ロック・バンド、アエディ (Gli Aedi) でポリドールからシングル盤 ”Fratelli D'Italia” を出すことが出来ました。
2060-157 (1977 年 Polydor – Polygram Dischi) Fratelli D'Italia/La Bomba Atomica
2060-157
その後ソロ歌手として活動を始め、78年にアリストンに移籍した オルネラ・ヴァノーニ (Ornella Vanoni) を一層スケールの大きな歌手に飛躍する手助けをし、ヌメロ・ウーノ時代にはルーチョ・バッティスティも担当した 女性プロデューサー、マラ・マイオンキ (Mara Maionchi) の目にとまりました。
マラはリコルディで広報担当支配人の仕事をしており、同社にオッキーノを入社させました。ただし歌手でなく作家および作曲家でした。
次に86年ロレッタ・ゴッジ (Loretta Goggi) が出したアルバム「 C'È Poesia 」のプロデュースとマネージメントをしたジュスタ・スポッティ (Giusta Spotti) に見出され、アリストンと歌手契約を結ぶことが出来ました。
セバスティアーノは女性プロデューサーに贔屓してもらえる魅力を持っているのでしょうか?
こうして81年サンレモ音楽祭に ”Bianca Stella” でただ一度の出場し、参加曲となりました。一方マラ・マイオンキがプロデュースする初出場の エドゥアルド・デ・クレッシェンツォ (Eduardo De Crescenzo) は入賞、特別審査員賞を受賞し81年年間ヒット・ランク42位に入る大成功をしています。これもプロデューサーの力の違いなのでしょう。
AR-00909 (1981 年 Ariston - Dischi Ricordi) Bianca Stella/Che Solitudine, Che Noia
AR-00909
この後セバスティアーノ・オッキーノは元の作家および作曲家の道を選択します。91年まで、作家および作曲家として、イタリアおよびヨーロッパの主要なレコード会社と多くのレコード契約を結んでいました。
95年彼は未発表曲を含む宗教音楽のCDとMCアルバム「 Sentirmi Libero (Andromeda Spettacoli) 」をバンダ音楽出版で制作し、アーティストとしての地位を再提示しました。このアルバムは、ナターレ・マッサーラ (Natale Massara) とセバスティアーノのジュジー・オッキーノ (Giusi Occhino) が指揮するミラノ交響楽団 (L’Orchestra Sinfonica di Milano) によって作成されました。
(1995 年 Padana Edizioni) CD Sentirmi Libero (Andromeda Spettacoli)
1 .Sentirmi libero
2 .La preghiera e la mia musica
3 .Mamma mia
4 .Padre Nostro
5 .Ave Maria
6 .Fermati un po'
7 .Grazie Signore
8 .Il peccato originale
9 .Io ti ho cercato
10.Nel cielo
同年、彼はビデオ・ミュージカル作品「 Enna 、 le Immagini e la mia Musica 」のサウンドトラックを、ビデオ製作者のサンドロ・ベロモ (Sandro Bellomo) と共同で作成しました。
97年、彼はターゲット・ディ・エンナ (la TARGET di Enna) によってプロデュースされた中世音楽のアルバム「 Alla Corte di Federico 」を発売しました。
彼の芸術性はサウンドトラックの構成に向けた重要な芸術的進化を開始します。翌98年今までの活動を踏まえ、大きな転換点を迎えます。
セバスティアーノ・オッキーノが住む故郷の町エンナで、彼自身が考案した絵画と音楽の仮想展示で構成される「ミュージカル・アート」を通じてシチリアの芸術を宣伝した博物館「ミュージカル・アート・ミュージアム (Museo Musical Art) 」の構想とオープンが続きます。
2000年以来、彼は権威ある公的機関による数え切れないほどのショー・ベント「ミュージカル・アート」を作成していきました。
セバスティアーノ・オッキーノの国内盤はありません、セバスティアーノ・オッキーノは以上です。
★ フランコ・ファザ-ノ (vm) Franco Fasano
本名ジャンフランコ・トンマーゾ・ファザーノ (Gianfranco Tommaso Fasano) 1961 年 6 月 30 日サンレモの北東30 km リヴィエラ沿岸にある小都市アルベンガ (Albenga) 生、自作自演歌手、作曲家。
作曲の場合ジャンフランコ・ファザーノのペンネームも使います。
活動期間 : 1978 年 - 現在
所属レコード会社 : Skorpion 、 Durium 、 CBS(Columbia) 、 Iperspazio 、 RTI 、 Nikto 、 NAR
サンレモ音楽祭出場4回 : 1981 年参加、 89 年、新人部門第3位、 90 年新人部門第2位、 92 年7位 ( フリヴィア・フォルトゥナートとデュエット )
サンレモ音楽祭出品 16 曲: 1981 年参加曲 ( 自己歌唱曲 ) 、 82 年入賞曲、参加曲、 84 年8位、 85 年9位、 87 年4位、 88 年5位、 1989 優勝曲 、 23 位、新人部門第3位 ( 自己歌唱曲 ) 、 90 年第2位 ( 自己歌唱曲 ) 、 92 年7位 ( 自己歌唱曲 ) 、 92 年 13 位、 2005 年参加曲、 09 年入賞曲、参加曲、
アルバム: 6 ( スタジオ5 ) ;編集ベスト盤1
公式ホームページ :
ジャンフランコは生まれたアルベンガの隣町アラッシオ (Alassio) で育ち、サンレモでマエストロのピッポ・バルジッツァ (Pippo Barzizza) の下で音楽を学びました。
1978年マイナー・レーベルのスコーピオン (Skorpion) からジャンフランコ・ファザーノの名前でシングル盤を出します。
SK-3 ・ 214 (1978 年 Skorpion – Alpharecord) Splash!/Candid Love (La Porta Dei Sogni) (come Gianfranco Fasano)
SK-3 ・
214
2年後の80年ドゥリウムから正式に ”Mi Piaci Tu” メジャー・デビューをしました。 ( 多くの男性歌手がそうであったように ) ジャンニ・モランディ系の歌手でした。
Ld ・ AI-8083 (1980 年 Durium - Durium) Mi Piaci Tu/Sarai Mia
Ld ・
AI-8083
Ld ・
Al-8102
Ld ・ Al-8102 (1981 年 Durium - Durium) Un'Isola Alle Hawaii/Amarti
メジャー2枚目のシングルが81年サンレモ音楽祭出場曲 ”Un'Isola Alle Hawaii” でした。自作で曲自体そう特徴もなかったのですが、ともかく歌う曲順が初日の1番目ということで、緊張しまくって上手く声も出てない様でした。
3枚目が
”
Chewing Gum” という、バブルガム・サウンドよりもっと古い20年前のツィストが流行った頃の曲でした。これは意図して狙ったのか?
Ld ・ Al-8119 (1981 年 Durium - Durium) Chewing Gum/Esami Di Maturità
Ld ・
Al-8119
この後音楽の世界の裏方のソングライターの仕事に徹します。
82年サンレモ音楽祭にデスパ (Despa) とピヌッチョ・ピラッツォーリ (Pinuccio Piarazzoli) と3人で組んで2曲の楽曲を提供しています。1曲はベルギーのバンド、プラスティック・バートランド (Plastic Bertrand) が歌った“ピン・ポン (Ping pong) ”と参加曲止まりですがサンレモ音楽祭出場がレコード・デビューだったフィオルダリーゾ (Fiordaliso) の“ Una Sporca Poesia ”でした。
これらの曲は何れもドゥリウムからのサンレモ出場曲でしたので、フランコ・ファザ-ノはドゥリウムで働きだしたと言う事でしょう。
84年のサンレモ音楽祭にはWEAイタリアーナから出場した ドゥルピ (Drupi) に 君の微笑 (Regalami Un Sorriso)” を提供し8位 ( 年間ヒット・ランク94位 ) に、翌85年サンレモ音楽祭には82年に一緒に仕事をした関係なのか、デスパと共に出場歌手でもある ペピーノ・ディ・カプリ (Peppino Di Capri) とチームを組んで“エ・モ・エ・モ (E Mo’ E Mo’) “を作り8位入賞となりました。
これらの曲がフランコ・ファザ-ノにとって、ヒット曲ライターとして注目される機会となりました。
87年好機の前触れのような曲作りに参加します。サンレモ音楽祭に ファウスト・レアーリ (Fausto Leali) 自身と トト・クトゥーニョ (Toto Cutugno), というスーパー・カンタウトゥーリ・チームの ” イオ・アモ (Io Amo)” が4位入賞、87年年間ヒット・ランク15位となる特大ヒットになりました。
続いて88年サンレモ音楽祭にナポリの作詞家ファブリツィオ・ベルリンチョーニ (Fabrizio Berlincioni) と組んでファウスト・レアーリに歌う“あやまち (Mi Mianchi) ”を提供しました。ヒットは前年ほどではありませんが、同年年間ヒット・ランク66位に入っています。それより後年アンドレアボチェッリ (Andrea Bocelli) が ” ミ・・マンキ ” としてカヴァーし、日本での知名度はぐんと上がりました。
こうしてレア-リと良好な関係を築く中、89年フランコ・ファザ-ノは8年ぶりのサンレモ音楽祭の出場権を得て歌手復帰となりますが、 アンナ・オクサ (Anna Oxa) とファウスト・レア-リがデュエットした“あなたを残して (Ti Lascerò) ”が優勝、さらにもう1曲、ジジ・サバーニ (Gigi Sabani) に提供した“世界の終り (La Fine Del Mondo) ”23位になりました。
彼にとって人生最良になった年の話は989年サンレモ音楽祭の後になります。
フランコ・ファザ-ノの国内盤は有りません、フランコ・ファザ-ノ2は1989年サンレモ音楽祭の後に続きます
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