法事で福井の永平寺に出かけたことがある。
曹洞宗の総本山として知られる寺だ。
お坊さんの法話、これお決まりのことネ…、あきらめて大人しく拝聴。
すると、
話し手のお坊さん、意外といいかんじ。
そんじょの鹿爪イバリ臭ボウズ (←シツレイ;調子で言ってみてるだけ) と少~し雰囲気が違った。
なんということなく、リラックスして、
意識してなのか、自然に出るのか、 人としてみなと同じ感じ …を、かもしている。
黒板に ^^ チョークで板書しながら、こんなことを言った。
「禅では親切ではなく、 深 切 と書きます」
深い配慮のある親切のことだろうとは、イメージできる。
だが、
相手に親切と受け取ってもらえない可能性が大きいため、実践がむずかしいという。
すこし説明をこころみると・・・
禅の目的は、もうシンプルである。
ご存じ、 気 づ き だ。
重要なのは、 自ら気づくこと 。
誰かに気づかされた場合と自分で気づいた場合とでは、価値が、もう、ぐんと違う。
ちょい思い巡らしてみたらわかるだろう、 雲泥の差だ。
深切であるとは、
自ら気づく~この悦び・感動を、当の本人から奪わない配慮だいえる。
(ひとたび、かような悦びを体験した者は、次なる悦びの探索をいとわないだろう・・・)
だが、ふだん私たちが誰かに気づいてもらいたいと働きかけるとき、
そこには自分が役に立つ存在であることをアピールしたい気持ちが潜んでいないか?
(または、相手を自分の思惑の枠にはめたがっていないか?)
だって、ちゃんと親切な人だと思ってもらえないなんて甲斐がない、イヤでしょ。
(思惑が叶わなかったら、心が落ち着かないだろう)
これ、まさしく 自分(私) の側の願望である。
相手を思いやっての心とは、見かけは似るが違うもの・・・。
これに対し、 深 切 っていうやつは、
いわば、 自分(私) でなく、 相手 が手柄をあげるのを心ひそかに喜ぶ・・・
そういうことを指すのではなかろうか 。
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