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中学時代か高校時代、宗教の時間に聖書の言葉で「7回ゆるす」「7の70倍ゆるす」と
いうような言葉が出てきた。
シスターは「7はキリスト教では永遠を意味する。」「キリスト教には“罰が当たるという概念
はない”」と説明した。「人は必ず罪を犯すものだから、その罪はゆるされる」と。
ショックだった。衝撃だった。
永遠にゆるされる?!
そんな考え方があるのか・・・。
宗教の時間なんてまともに授業を受けたことなんてなく、聖書の矛盾点ばかり探すような
ひねくれた子どもだった。
だけど、この部分にだけは二の句が継げなかった。
なぜ、その部分にだけ(いい意味で)衝撃を受けたのか、感動すら覚えたのか、私はずっと
わからなかった。
高校を卒業して10年近くたつ最近までわからなかった。
だけど、その答えがわかった。
私はゆるされた記憶がなかった・・・
常に何かに追われ、どこまでがんばってもどこまでがんばっても「ここまででいいよ。」
「良く頑張ったね。」とゆるされた記憶がなかった。
達成すれば達成するほどに高まる期待とエスカレートする要求。
強い子でいなきゃいけない、しっかりしてなきゃいけない、父に代わって家族を支えなければ
ならない・・・、物心ついた頃から刷り込まれて課されていたこと。
そんな中にいた子ども時代の私に「ゆるされる」という概念がなかった。
だから、「永遠にゆるされる」という概念は衝撃以外の何物でもなかったのだろう。
「いつかはきっと、“ゆるされる”のだ・・・」
クリスチャンになったわけではないけれど、そして、クリスチャンになる予定もないけれど、
“私もゆるされる日が来る”、このことが私の支えになっていたのかもしれない。