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2026.04.19
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用賀の空き地と坂道とファミコン 昭和生まれ50代の心に残った地図   
小学四年生が拾い集めた、昭和の余韻と孤独の温度
小学四年生のころ。私は用賀に住んでいた。
麻布から引っ越して、二年が過ぎた頃。
あの頃の用賀は今思えば、街そのものが深呼吸しているような場所だった。
時間は急がず、人も急がず。
風景だけがゆっくりと季節を運んでいた。
令和の効率主義からは想像もできない、時間が余っていた時代。
胸の奥が、少し痛む。
片道二十分の坂道に、寄り道という本番があった
学校までは、片道二十分ほど。
しかも、なかなかの坂道。
身体の小さかった私は、今なら「大変だっただろう」と周囲が同情するだろうに、当時はそんな感覚はまるでなかった。
なにしろ、寄り道が本番だったからだ。
通学路には、まだ畑が残っていて、草むらにはバッタがいた。
ランドセルを背負ったまま、網も持たずに飛び込んでいって、素手で捕まえる。
今なら怒られそうなことも、あの頃は「子どもの日常」だった。
効率もタイパもコスパも、誰も口にしなかった時代。
子どもは、ただ寄り道をして、バッタを追いかけて、それで良かった。
昭和は、寛容だった。いや、時間が寛容だった。
背の順、前から三番目 守られていた記憶
学校では、背の順は前から三番目。
小さすぎるわけでもないが、決して大きくもない。
そのせいか、いじめられることもあった。
けれど不思議なことに、私はいつも「強い友達」に恵まれていた。
気がつけば、誰かが前に立ってくれていた。
あの頃の私は、自分が思っている以上に、守られて生きていたのだと思う。
クラブは将棋クラブ。
小さい頃から駒には触れていたから、流れるようにそこに収まった。
委員会は図書委員。
委員会はたしか五年生からだった気もする。
本の匂いと、静かな空気が、なんとなく好きだった。
言葉にならない感情を、静寂が受け止めてくれた。
かぎっ子の夜 アニメの光が埋めた孤独
家に帰れば、誰もいない。
いわゆる「かぎっ子」だった。二年生からずっと。
両親は帰りが遅く、夜はいつも一人。
今思えば、あれはなかなかに心細い時間だった。
けれど当時は、夜にもアニメがあった。
テレビの光と、聞き慣れた主題歌が、静かな部屋の隙間を埋めてくれた。
孤独を孤独と認識する前に、アニメが救ってくれた。
あの頃の私にとって、テレビは「家族」だったのかもしれない。
一人でいることに慣れすぎた子どもは、大人になってからも、どこか一人でいることを恐れなくなる。
それが良いことなのか悪いことなのか、今でもわからない。
塾という名の居場所 理不尽で、優しくて、人間臭い大人
塾には通っていた。
三年生までやっていた公文をやめて、いわゆる「普通の塾」へ。
そこの先生は、正直、今の基準ならアウトな人だったと思う。
体罰もあったし、怖い先生だった。
でも、その先生は、ある日ふいに言うのだ。
「今日は勉強なし、パーティーな」
お菓子とジュースを山ほど買い込んだり、マックでハンバーガーを買ってきたり。理不尽で、優しくて、どこか人間臭い大人だった。
私は中三までそこに通い、なぜか高一になっても少し面倒を見てもらった。今思えば、あの塾は「勉強の場所」より、「居場所」だったのかもしれない。
昭和の大人は、矛盾していた。
でもその矛盾こそが、人間の温度だった。
習い事という名の彷徨 ピアノ、水泳、体操
他にも、ピアノ、水泳、体操。
そういえば、結構いろいろやっていた。
幼少期からやっていた合気道は、この頃にはもうやめていた。
塾へ行く前には、コロッケ屋や大判焼きの店で腹ごしらえをしたり、時には銭湯に寄ってから行ったりもした。
銭湯はある意味、子供にとっては遊び場でもあった。
駄菓子屋も、まだ何軒も残っていた時代だ。
10円や20円で買える幸福が、確かに存在していた。
ベビースターラーメン、うまい棒、チロルチョコ。子どもの経済圏は、小さくて、温かかった。
歯医者は、大井町まで一人で通っていた。小二からだ。
今考えると、なかなかの距離だが、当時はそれが「普通」だった。
子どもに対する信頼があった。
いや、放任と信頼の境界が、曖昧だった。
空き地だらけの用賀 昭和が残した空気
駅前には、まだビルなんてなかった。
モータープールの跡地は、塀に囲まれた空き地。
玉電の跡地も、まだ空き地のまま。
今は道路になっているが、当時は「やたら空き地の多い街」だった気がする。
盆踊りは、その玉電跡地の空き地でやっていた。
商店街も、今ほど店はなく、昔ながらの店がぽつぽつと並んでいるだけ。スーパーは駅前の小さなOK(いまでこそ有名だが、この頃はマイナー)と、個人商店みたいな店が一軒。あとは、中華屋と寿司屋がちらほら、という程度だった。
空き地は、子どもの遊び場であり、街の元気の象徴だった。今のように、すべてが埋め尽くされて、効率化された街ではなかった。
用賀は、まだ昭和のままだった。
親友という名の喪失 引っ越しが教えた別れの重さ
そして、この頃。
親友が引っ越した。
用賀に来て、初めてできた「本当の友達」だった。
だから、ショックは大きかった。
翌年、五年生になって、また親友と呼べる友達ができた。
けれど、その子も六年生になるときに引っ越した。
しかもアフリカへ。
この頃から、なぜか「仲良くなると、いなくなる」というジンクスが、私の中にできてしまった。
中一のときにも、また一人、引っ越していった。
今思えば、あれは私にとって「別れ」という概念を学ぶ、最初の教室だった。
人は去っていく。
いつまでも一緒にはいられない。
この感覚が、後の人生に深く影響を与えたことは、疑いようがない。
ファミコンという衝撃 テレビが世界を広げた瞬間
四年生といえば、忘れられない衝撃がある。
友達の家でやった、ファミコンだ。
発売されたばかりの頃。
それまでゲームウォッチはやっていたが、「家のテレビで、こんなことができるのか」と、心底驚いた。
しばらくして、うちでも買ってもらった。
夜、一人でも、少しだけ寂しさが紛れた。
ファミコンは、孤独を埋める装置だった。
いや、孤独と向き合う方法を教えてくれた装置だった。
一人でも楽しめる。一人でも世界がある。
この感覚が、今の私にまで続いている。
時間が余っていた街で拾ったもの
思う。
あの頃の用賀には、時間が余っていた。
空き地があり、寄り道があり、夕方が長かった。
そして、あの頃の私は、小さな身体で、少し寂しくて、でも確かに、世界の真ん中を歩いていた。
もう戻れない。
でも、あの風景は、今も私の中で、静かに息をしている。
それだけで、たぶん、十分なんだと思う。
昭和という時代は、不便で、非効率で、矛盾だらけだった。
でも、そこには確かに「人の温度」があった。
寄り道を許す寛容さがあった。
孤独を埋める優しさがあった。
私たちロスジェネ氷河期第一世代は、昭和の最後の残り香を吸い込んだ世代だ。
だからこそ、今の時代に違和感を覚える。
効率、タイパ、コスパすべてが数値化され、最適化される世界。
でも、本当に大切なものは、数値化できない。
用賀で拾い集めた記憶。
寄り道で捕まえたバッタ。
一人で見たアニメ。
理不尽な塾の先生。
引っ越していった親友。
これらすべてが、今の私を形作っている。
あとがき  記憶という財産
1974年1月生まれ、現在52歳。
用賀での日々は、もう20年以上前のことだ。
でも、不思議なことに、あの頃の記憶は色褪せない。
むしろ、年を重ねるごとに、その価値が増していく。
記憶は、時間が経つほど深くなる。
今、末期がんの父と認知症の母を介護しながら、発達障害の娘と向き合う日々。
この状況の中で、ふと用賀の風景が蘇る。
あの頃の孤独が、今の孤独と重なる。
でも、あの頃の私が乗り越えたように、今の私も乗り越えられる。
過去は、未来を支える土台になる。
もしあなたが同世代なら、きっと似たような記憶を持っているはずだ。空き地、駄菓子屋、アニメ、ファミコン。
もしあなたが若い世代なら、「そんな時代があったのか」と感じてほしい。効率化される前の、時間が余っていた時代のことを。
私たちの記憶は、次の世代への贈り物でもある。
昭和の記憶を胸に、令和を歩いていく。
それが、私たちロスジェネ氷河期第一世代の生き方なのだと思う。





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最終更新日  2026.04.19 05:41:14 コメントを書く


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