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2026.05.20
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笑いの臨界点 #30 リモコンを持ったままリモコンを探す
夜。
テレビの音が少し大きい気がした。
大きいというほどでもない。
隣の部屋に迷惑というほどでもない。
ただ、自分の耳にだけ少し角が立つ。
ニュースの声。
CMの音。
急に元気になるナレーション。
あれが、50代の夜には少し強い。
音量を下げようと思った。
リモコンを探す。
テーブルの上。
ない。
ソファの横。
ない。
新聞の下。
ない。
新聞は取っていないのに、
なぜか新聞の下を探した。
昔の記憶で手が動いている。
平成の自分が、
令和の部屋でまだ新聞をめくっている。
私は少しだけ腰を浮かせた。
この「少しだけ」が大事だ。
完全には立ち上がりたくない。
立ち上がったら負けた気がする。
リモコンひとつのために立ち上がる。
それはもう、家電との敗北である。
私は座ったまま右手を伸ばした。
届かない。
体が硬い。
昔なら、もう少し届いた気がする。
いや、昔も届いてなかったかもしれない。
ただ、昔は届かなくても気にしていなかった。
今は違う。
届かない距離に、
年齢が混ざる。
私は仕方なく立ち上がった。
よいしょ。
声が出た。
誰に聞かせるでもない「よいしょ」。
でも、出る。
出したくて出しているわけではない。
体の内部から発行される通知みたいなものだ。
テーブルの下をのぞく。
ない。
クッションを持ち上げる。
ない。
テレビ台の上を見る。
ない。
テレビは元気にしゃべっている。
こちらの事情など知らない顔だ。
「音量を下げたいだけなんだよ」
私は小さく言った。
テレビに言ったのか。
リモコンに言ったのか。
自分に言ったのか。
わからない。
部屋の中を一周する。
台所。
ない。
玄関。
ない。
洗面所。
ない。
なぜ洗面所にリモコンがあると思ったのか。
自分でもわからない。
でも、こういうときの自分は信用できない。
スマホを冷蔵庫に入れかけたこともある。
眼鏡をかけたまま眼鏡を探したこともある。
鍵を持っているのに、鍵を探した朝もある。
だから洗面所にリモコンがあっても、
もう驚かない。
驚かない自分が、少し怖い。
テレビでは、通販番組が始まっていた。
明るい声で、
「今ならもう一つ」と言っている。
いらない。
今ほしいのは、もう一つではない。
ひとつでいい。
リモコンひとつでいい。
私はだんだん腹が立ってきた。
リモコンに。
いや、リモコンは悪くない。
自分が置いたのだ。
置いたはずなのだ。
だが、この「はず」が怪しい。
50代になると、
物の位置よりも、
自分の記憶のほうが先に疑われる。
置いた。
見た。
持った。
しまった。
全部、語尾に「たぶん」がつく。
私はもう一度ソファに戻った。
さっきより少し疲れている。
リモコン探しで疲れる。
これが現実だ。
座ろうとした瞬間だった。
左手に、何か固い感触があった。
見た。
リモコンだった。
持っていた。
最初から。
私はリモコンを持ったまま、
リモコンを探していた。
しばらく黙った。
テレビの中の人だけが元気だった。
私は手元のリモコンを見た。
リモコンも、こちらを見ている気がした。
いや、見てはいない。
ただの黒い棒だ。
でも、少しだけ責められている気がした。
「ずっとここにいましたけど」
そう言われている気がした。
私は笑った。
大きくではない。
声を出して笑うほどでもない。
鼻から少し空気が抜けるような笑い。
ふっ。
これだ。
怒るほどでもない。
泣くほどでもない。
誰かに話すほどの事件でもない。
でも、自分の中では少しだけ崩れる。
リモコンを持ったままリモコンを探す男。
その姿を客観的に想像したら、
もうダメだった。
しかも途中で洗面所まで行っている。
かなり本気で探している。
私はリモコンで音量を下げた。
テレビの声が小さくなる。
部屋が少し静かになった。
その静けさの中で、
さっきまでの自分の動きが、
順番に戻ってくる。
テーブルの下をのぞいた自分。
クッションをめくった自分。
洗面所で一瞬立ち止まった自分。
通販番組に少し腹を立てた自分。
全部、
右手にリモコンを持ったまま。
かなり情けない。
でも、少しだけ愛おしい。
こういう失敗は、
若い頃ならただのうっかりだった。
今は違う。
うっかりの背後に、
年齢が見える。
記憶の端が少しほつれている。
体の反応が一拍遅れる。
探している途中で、
何を探していたのかより、
探している自分のほうが気になってくる。
それでも生活は続く。
リモコンは見つかった。
というか、持っていた。
音量も下がった。
誰にも迷惑はかけていない。
ただ、自分の中の何かが、
少しだけ正座した。
ちゃんとしろよ。
そう思う。
でも、ちゃんとできない日もある。
いや、
ちゃんとしているつもりの日ほど、
手元にあるものを探してしまうのかもしれない。
私はリモコンをテーブルの真ん中に置いた。
今度こそ見失わないように。
そう思って、
立ち上がってお茶を取りに行った。
戻ってきたら、
リモコンの上に眼鏡が置いてあった。
誰が置いた。
私だ。
私はまた少し笑った。
夜の部屋で、
テレビの音だけが小さく流れている。
リモコンも眼鏡も、
ちゃんとそこにある。
問題は、
そこにあることを私が覚えていられるかどうかだ。
まあ、いい。
なくしたわけではない。
忘れただけだ。
そして、忘れたことに気づけた。
まだ大丈夫。
たぶん。
そういう「たぶん」を抱えながら、
今日も人は暮らしていく。
笑ってしまえば、
どうにか夜は越えられる。





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最終更新日  2026.05.20 05:42:01 コメントを書く


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