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2026.06.17
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笑いの臨界点 #34 寝ぐせだけが若い
朝。
洗面所の鏡を見た。
そこに、
妙に元気な髪が一本立っていた。
いや、一本ではない。
数本が、
それぞれ別の方向を向いている。
右へ。
左へ。
上へ。
まるで朝礼で、
誰も校長先生の話を聞いていない状態である。
私はしばらく見た。
顔は眠い。
目も眠い。
肩も眠い。
なのに髪だけが元気だ。
お前だけ、
どうした。
水で押さえる。
一度は寝る。
ゆっくり戻ってくる。
反抗期か。
五十代の髪というのは、
全体としては勢いを失っているはずなのに、
一部だけ妙に強い。
少数精鋭。
そこだけ若い。
そこだけ昭和の運動部みたいな根性を見せる。
私はもう一度、水をつけた。
今度は少し多めに。
ぺたん。
よし。
そう思って歯を磨き始める。
鏡の中で、
また立っている。
いつの間に。
こちらが口の中に集中している隙に、
髪が会議を開いたらしい。
「やっぱり立とう」
と決議されたのだろう。
満場一致で。
私は歯ブラシをくわえたまま、
少し笑った。
朝から私は、
自分の髪に負けている。
若い頃なら、
寝ぐせなんて勢いで直した。
手ぐし。
水。
終わり。
少し変でも、
駅まで歩くうちにどうにかなった。
今は違う。
駅まで歩くうちに、
どうにもならなかったものが、
そのまま一日を背負ってついてくる。
スーパーのガラス。
コンビニの入口。
エレベーターの鏡面。
あらゆる反射が、
こちらを確認してくる。
「まだ立ってますよ」
言わなくていい。
私は洗面台の引き出しを開けた。
整髪料がある。
いつ買ったのか思い出せない。
容器の側面に、
少しだけほこりがついている。
使うか。
迷う。
寝ぐせ一本に整髪料。
大げさではないか。
だが、
この一本を放置したまま外に出るのも、
それはそれで負けた気がする。
私は少しだけ指に取った。
本当に少しだけ。
そのつもりだった。
指先が予想より多かった。
こういう加減も、
最近ずれる。
塩も多い。
醤油も多い。
スマホの音量も一段大きい。
少しのつもりが、
少しではない。
私は寝ぐせを押さえた。
今度こそ落ち着いた。
ただ、
そこだけ妙に濡れている。
全体は乾いているのに、
一部だけ決意したように湿っている。
これはこれで変だ。
鏡の前で、
私はしばらく無言になった。
直したはずなのに、
直した跡が残る。
人生みたいなことを、
朝の髪に言われている気がした。
やめてくれ。
まだ出勤前だ。
タオルで軽く押さえる。
少し自然になる。
たぶん。
たぶん、が増えた。
大丈夫だと思う。
変ではないと思う。
見られても平気だと思う。
昔より、
自分の判断に小さな保留がつく。
玄関に向かう。
靴を履く前に、
もう一度洗面所へ戻った。
確認。
立っていない。
よし。
その瞬間、
鏡の中の自分と目が合った。
髪よりも、
戻って確認した自分のほうが、
少し可笑しかった。
たかが寝ぐせである。
でも、
たかが寝ぐせに、
朝の気分は持っていかれる。
五十代の一日は、
大きな覚悟では始まらない。
髪を押さえ、
襟を直し、
昨日より少し重い体を起こして、
何もなかったような顔で外へ出る。
玄関を出た。
風が吹いた。
前髪が少し浮いた。
私は空を見た。
もう、好きにしろ。
そう思ったら、
少しだけ楽になった。
寝ぐせは直すものだ。
でも、
直りきらないものと一緒に出かけるのも、
たぶん大人の朝なのだ。
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最終更新日  2026.06.17 05:24:48 コメントを書く


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